香坂 英典(こうさか ひでのり、1957年10月19日 - … 香坂 英典(こうさか ひでのり、1957年10月19日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 1980年に日本プロ野球(NPB)の読売ジャイアンツ(巨人)へ入団すると、1984年に現役を引退してからも、2020年まで同球団に一貫して在籍。退団後の2022年からは、クラブチーム (社会人野球)の全府中野球倶楽部でコーチを務めている。 埼玉県立川越工業高等学校では3年夏に県大会ベスト4、秋に特別で中央大学の追加セレクションを受けると捕手であった福田功が宮井勝成監督に進言して同大学理工学部土木工学科へ進学。1年時はメンバー外で合宿所にも入れなかったが、2年の時に練習での投球を評価されて東都大学野球リーグ戦で登板の機会を得た。
中村 昭(なかむら あきら、1957年4月10日 - )は、… 中村 昭(なかむら あきら、1957年4月10日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)。 上尾高では2年生の時、捕手として1974年の夏の甲子園に出場。2回戦に進むが平安高に延長13回サヨナラ負けを喫する。翌1975年の夏の甲子園にも連続出場。この大会では四番打者を務め、原辰徳、津末英明らを擁する東海大相模高を準々決勝で破る。準決勝では新居浜商の片岡大蔵から初回に3点を奪うが、6回に5失点、逆転を許し敗退した。 1975年のプロ野球ドラフト会議において、ロッテオリオンズに6位指名されたが拒否し、社会人野球の三協精機に進む。樋江井忠臣、伊藤弘利らとバッテリーを組むが、1978年には野球部が休部。
須長三郎(すなが さぶろう、1957年2月17日 - )は、… 須長三郎(すなが さぶろう、1957年2月17日 - )は、元アマチュア野球選手、高校野球指導者。埼玉県東松山市出身。埼玉県立川越工業高等学校、早稲田大学卒。 川越工業高校では2年生の時にエース指田博(帝京大-鷺宮製作所)を擁し、左翼手、四番打者として1973年夏県大会を勝ち進む。決勝では熊谷商の鎗田英男(法大-日本石油)を打ち崩し甲子園出場。本大会でも準決勝に進出するが、広島商の佃正樹らに完封を喫する。早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは1978年秋季リーグで9季ぶりのリーグ優勝に貢献、ベストナイン(一塁手)に選出される。直後の明治神宮野球大会では準決勝で中本茂樹のいた同志社大に敗れる。
福島 孝二(ふくしま こうじ、1956年1月4日 - )は、… 福島 孝二(ふくしま こうじ、1956年1月4日 - )は、埼玉県秩父市出身の元プロ野球選手(投手)。 秩父第二中学校卒業後、日大三高から社会人野球・チャイルド休部後は調理師見習いとして働き、1978年オフにドラフト外で近鉄バファローズに入団。 一軍公式戦に出場のないまま、1983年限りで現役を引退。1984年は、近鉄で打撃投手を務める。 1985年からは西武ライオンズでに在籍し、1992年まで打撃投手、その後スコアラーを務める。 2000年から、ヤクルトスワローズにスコアラーとして在籍。 2006年から、東北楽天ゴールデンイーグルスのスコアラー。 2008年から、埼玉西武ライオンズの二軍ディレクターに就任。
小鷹 卓也(おだか たくや、1955年5月25日 - )は、… 小鷹 卓也(おだか たくや、1955年5月25日 - )は、埼玉県比企郡鳩山村(現:鳩山町)出身の元プロ野球選手(投手)。 飯能高校では、エースとして1972年秋季関東大会県予選決勝に進出するが、大宮高に惜敗。翌1973年春季関東大会県予選でも準決勝に進み、熊谷商の鎗田英男(法大-日本石油)と投げ合うが延長13回敗退。この大会では1回戦で所沢商からノーヒットノーランを達成。同年夏の甲子園県予選でも準決勝で川越工に敗れる。この大会でも3回戦で蕨高を相手に2度目のノーヒットノーランを達成している。 1973年のドラフト会議でロッテオリオンズから2位指名を受け入団。1978年に一軍初登板、しかし1軍で登板したのはこの1試合のみでその後は結果を残せず1981年限りで引退した。
坂巻 明(さかまき あきら、1955年5月12日 - )は、… 坂巻 明(さかまき あきら、1955年5月12日 - )は、埼玉県草加市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 二松學舍大附高では1年夏から4番・一塁手としてチームを東京都大会決勝戦まで導くが、日大一高の保坂英二の前に敗戦。青山学院大学へ進学するが父の病により2年次に中退。実家の食料品店を手伝いながら、親戚の病院で臨床検査技師としても勤務した。1976年オフに周囲の人の勧めで、入団テストを受け合格。西井敏次とともにドラフト外で日本ハムファイターズに入団した。 入団直後は打撃投手としての役割が多かったが、1980年には2軍で8勝を挙げ、チームのイースタン・リーグ優勝に貢献。 その後もなかなか一軍出場の機会を得られず、1981年のオフには退団を申し出るが、球団に慰留され残留。
吉沢 俊幸(よしざわ としゆき、本名:吉澤 俊幸、1954年… 吉沢 俊幸(よしざわ としゆき、本名:吉澤 俊幸、1954年7月23日 - )は、埼玉県草加市出身の元プロ野球選手。 日大三高では2年生の時、遊撃手として1971年の春の選抜に出場。1年上のエース渡部良克(日大-名古屋日産)を擁し順調に勝ち進む。決勝では渡部と大鉄高の奥田直也の投げ合いとなるが、2-0で完封勝利、初優勝を飾った。同年夏の東京大会では準決勝で日大一高の保坂英二に完封負け。他の1年上のチームメートに捕手の岩沢建一がいた。 翌1972年の選抜にも連続出場。同期の待井昇、小曽根修治(電電関東)両投手の好投もあり決勝に進むが、日大櫻丘高のエース仲根正広に完封を喫し準優勝にとどまる。夏の東京大会は6回戦で戸山高に完封負けを喫した。
小嶋 正宣(こじま まさのぶ、1954年6月10日 - )は… 小嶋 正宣(こじま まさのぶ、1954年6月10日 - )は、埼玉県鴻巣市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 小島 正宣とも表記される。 鴻巣高から、1973年に東洋大学へ進学。2年上に松沼博久、2年下に松沼雅之がおり、登板機会は少なかった。東都大学リーグ通算1勝4敗。 大学卒業後、社会人野球の三協精機に入団、都市対抗で登板したが1978年に硬式野球部が解散。東芝に移籍後も、推薦出場の1979年から2年連続で都市対抗で登板。東芝のチームメートには菊地恭一、広橋公寿らがいた。 同年オフに、ドラフト外で阪急ブレーブスに入団。 1年目には先発陣の一角を占め6勝をあげるが、その後は低迷する。1986年オフに阪急を自由契約となったが、落合博満の獲得にあたって牛島和彦・桑田茂・平沼定晴の3投手をロッテオリオンズへ放出したことから投手の補強を必要としていた中日ドラゴンズに入団した。
竹内 広明(たけうち ひろあき、1953年10月22日 - … 竹内 広明(たけうち ひろあき、1953年10月22日 - )は、群馬県多野郡新町出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 深谷商業高校では、1年生から控え投手、一塁手として活躍。1969年夏の甲子園予選西関東大会では、決勝の川越工戦でリリーフに立つが2-3で惜敗、甲子園出場はならなかった。2年上のチームメートに荒船洋資捕手(東映)がいる。1970年の秋季関東大会埼玉県予選では1回戦で岩槻高、準決勝で立教高を相手にノーヒットノーランを記録(立教高は7回コールド)。関東大会決勝に進出し、木更津中央高を完封し優勝を飾る。 3年生時の1971年には春夏の甲子園に連続で出場、いずれも深谷商にとって初出場であった。
笹川 博(ささがわ ひろし、1953年5月5日 - )は、埼… 笹川 博(ささがわ ひろし、1953年5月5日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)。現在は横浜DeNAベイスターズの取締役。 中学までは投手だった。野球部監督の長谷川和雄から誘われ、埼玉県立大宮高校に進学。大柄の体格を買われ、捕手に転向した。高校2年生の秋、1970年秋季県大会決勝に進出するが、深谷商の竹内広明に完封を喫する。高校3年生夏の1971年夏の県大会でも準決勝に進むが、熊谷商に敗退し甲子園には出場できなかった。 1971年のドラフト7位で大洋ホエールズへ入団。愛称は「ペロ」。長身の大型捕手として期待されるが、伊藤勲、福嶋久晃、辻恭彦と層の厚い捕手陣もあって一軍に上がれず、主に一軍、二軍でブルペン捕手を務めることが多かった。
宇津木 妙子(うつぎ たえこ、1953年4月6日 - )は、… 宇津木 妙子(うつぎ たえこ、1953年4月6日 - )は、埼玉県比企郡中山村(現在の川島町)出身の女子ソフトボール選手(内野手)・指導者。身長158cm。 2004年のアテネ五輪のソフトボール日本代表。アテネではとにかく足を使った攻撃を多用、外野の守備を強化。予選4位で通過したが3位決定戦でオーストラリアに敗れ銅メダルを獲得。福山雅治がアテネまで慰問に訪れた。
八木 勝彦(やぎ かつひこ、1952年 -)は、日本の元アマ… 八木 勝彦(やぎ かつひこ、1952年 -)は、日本の元アマチュア野球選手である。ポジションは投手、外野手。 大宮高校では1970年夏の甲子園県予選でエースとして活躍し、2回戦において、飯能高校を相手にノーヒットノーランを達成。しかし、準々決勝で上尾高校に敗れ、甲子園への出場を果たすことができなかった。同年のドラフト会議で大洋ホエールズから5位指名されたが入団を拒否。 明治大学に進学し、外野手に転向する。東京六大学野球リーグでは、1974年秋季リーグで、首位打者を獲得し、ベストナインにも選ばれた。 大学卒業後は朝日生命に入社。1976年の都市対抗から補強選手として、5年連続出場した。引退後は野球部副部長を務めた。
柚木 秀夫(ゆき ひでお、1951年12月18日 - )は、… 柚木 秀夫(ゆき ひでお、1951年12月18日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。 中学時代から投手として活躍。中学時代の実績を評価して誘いのあった前橋工業高に進学する。高校時代は1968年、2年の時に控え投手として夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で智辯学園高に敗退するが、リリーフ投手として登板した。3年の夏は北関東大会準決勝に進出するが、宇都宮学園高に敗れる。高校同期に佐野仙好三塁手、片貝義明捕手がいた。 高校卒業後は、社会人野球の電電東京に入団。スリークォーターからのストレートに威力があり、コントロールもよかったことから、南海ホークスがスカウトし1970年オフにドラフト外で入団した。
島村 雄二(しまむら ゆうじ、1951年10月6日 - )は… 島村 雄二(しまむら ゆうじ、1951年10月6日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 埼玉県立大宮高等学校では、1967年、1年生ながら控えの内野手として夏の甲子園に出場。チームメートに2年上のエース金子勝美、吉田誠、1年上の新井良雄、同期の鈴木治彦がいた。1回戦で報徳学園と対戦。9回裏2死までリードするがここから反撃を許し、大会史上初の本盗による逆転サヨナラ負けを喫した。秋の埼玉国体では、決勝でエース河原明を擁する大分商を降し優勝。翌1968年夏には新井が主戦投手となり、三塁手、七番打者として県予選決勝に進出するが、春の選抜で優勝した大宮工の吉沢敏雄に抑えられ0-1で敗退。
鈴木 葉留彦(すずき はるひこ、1951年7月25日 - )… 鈴木 葉留彦(すずき はるひこ、1951年7月25日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元プロ野球選手・コーチ・監督、解説者。旧名は鈴木 治彦(読みは上記と同じ)。現役時代の愛称は「はっぱ」。 大宮高校では、1967年に1年生ながら一塁手として夏の甲子園に出場し、1回戦で報徳学園と対戦。9回裏2死までリードするがここから反撃を許し、大会史上初の本盗による逆転サヨナラ負けを喫した。しかし、秋の埼玉国体では、決勝で大分商の河原明を打ち崩し初優勝を飾る。チームメイトに2年上のエース金子勝美、左翼手の吉田誠、1年上に右翼手の新井良雄らがいた。2年次の1968年夏は新井を主戦投手として県予選決勝に進出するが、春の選抜で優勝した大宮工の吉沢敏雄に抑えられ0-1で敗退。
木下 富雄(きのした とみお、1951年5月7日 - )は、… 木下 富雄(きのした とみお、1951年5月7日 - )は、埼玉県北葛飾郡杉戸町出身の元プロ野球選手(内野手)。ウェルストンプロモーションに所属している。 春日部高校から駒澤大学へ進学。東都大学野球リーグでは在学中2回優勝。1973年の第4回明治神宮野球大会では、同期のエース赤津宏二(日立製作所)を擁し、決勝で田尾安志を擁する同志社大を降し優勝を飾る。リーグ通算58試合出場、162打数37安打、打率.228、3本塁打、20打点。ベストナイン(遊撃手)1回受賞。他の大学同期に栗橋茂、吉田秀雄がいる。 1973年のドラフト会議で広島東洋カープに1位指名され入団。強肩の大型内野手として期待される。 1974年開幕直後から遊撃手として一軍で起用されるが、打撃面で伸び悩み失速、その後数年の低迷を余儀なくされる。
越阪部 豊(おさかべ ゆたか、1950年11月1日 - )は… 越阪部 豊(おさかべ ゆたか、1950年11月1日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。 豊岡高では、1968年夏の埼玉県予選で大宮工業高に4-3で敗れたが、飯能高との練習試合では1安打の完封勝ちを記録したことのある長身速球投手。 1968年にテスト入団で合格し、ドラフト外でサンケイアトムズに入団する。しかし、一軍公式戦に出場がないまま1969年に1シーズン限りで現役を引退した。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
佐藤 敬次(さとう けいじ、1950年9月22日 - )は、… 佐藤 敬次(さとう けいじ、1950年9月22日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手である。ポジションは投手。 大宮工業高校では1968年に春夏の甲子園に出場。春の選抜では、エース吉沢敏雄や左翼手、四番打者の布施章(松下電器-日本通運-全大宮)の活躍もあって勝ち進む。準決勝では箕島高の東尾修を打ち崩し、決勝では吉沢と尾道商の井上幸信との投手戦を制し、「初出場初優勝」の快挙を成し遂げた。しかし吉沢の控え投手であった佐藤はこの大会で登板機会がなかった。夏の選手権は2回戦で津久見高の石井吉左衛門(鐘淵化学)に抑えられ敗退するが、この試合で吉沢をリリーフし甲子園初登板を果たす。他の高校同期では、外野手の石井清一郎(阪急)、控え投手の奈良正雄(ロッテ)がプロ入りしている。
新井 良夫(あらい よしお、1950年7月17日 - )は、… 新井 良夫(あらい よしお、1950年7月17日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。旧名は良雄、打撃投手になってからは、新井 統雄(あらい つねお)に改名している。 大宮高校(埼玉)では2年生時の1967年、右翼手として金子勝美・吉田誠・鈴木治彦らと共に第49回全国高等学校野球選手権大会に出場する。初戦で報徳学園高校と対決。豪快な本塁打を放ち9回裏2死までリードするが、ここから反撃を許し、大会史上初の本盗による逆転サヨナラ負けを喫した。しかし秋の埼玉国体では勝ち進み、決勝で大分商を降し優勝。翌1968年夏はエース、四番打者としてチームを牽引。埼玉大会準決勝では飯能高を相手にノーヒットノーランを記録。
吉沢 敏雄(よしざわ としお、1950年 - 2014年11… 吉沢 敏雄(よしざわ としお、1950年 - 2014年11月28日)は、日本の静岡県出身の元アマチュア野球選手である。ポジションは投手、内野手。 静岡県の天竜市二俣町(現・浜松市天竜区二俣町)出身。埼玉県の大宮工業高校では1968年にエースとして春夏の甲子園に出場。春の選抜では左翼手、四番打者の布施章(松下電器-日本通運-全大宮)の活躍もあって勝ち進む。肩痛や発熱に悩まされながらも好投。準決勝では打線が箕島高の東尾修を打ち崩し、決勝は尾道商の井上幸信との投手戦を制し、「初出場初優勝」の快挙を成し遂げた。夏の選手権は2回戦で津久見高の石井吉左衛門(鐘淵化学)に抑えられ敗退。他の高校同期では、外野手の石井清一郎(阪急)、控え投手の佐藤敬次、奈良正雄(ロッテ)がプロ入りしている。
吉田 誠(よしだ まこと、1949年7月24日 - )は、埼… 吉田 誠(よしだ まこと、1949年7月24日 - )は、埼玉県与野市(現在のさいたま市中央区)出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 大宮高校では1967年、3年生の時に四番打者、左翼手として夏の甲子園に出場。1回戦で報徳学園と対戦、9回裏2死までリードするがここから反撃を許し、大会史上初の本盗による逆転サヨナラ負けを喫した。この一戦では、バックスクリーン左へ大本塁打を打ち込んで、各球団のスカウトに注目される。秋の埼玉国体では、決勝まで勝ち進み、エース・河原明を擁する大分商を降し優勝した。後にプロ入りするチームメイトに、同期のエース・金子勝美、右翼手の新井良雄(2年生)、一塁手の鈴木治彦、控え内野手の島村雄二(いずれも1年生)がいた。
金子 勝美(かねこ かつみ、1949年5月31日 - )は、… 金子 勝美(かねこ かつみ、1949年5月31日 - )は、埼玉県大宮市(現在のさいたま市大宮区)出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。娘は女子プロゴルファーの金子絢香。 埼玉県立大宮高等学校では1966年、2年生の時に三塁手として春の選抜に出場。1回戦で宮崎商を降すが、続く2回戦で平安高の門野利治に抑えられ惜敗。同年の秋季関東大会県予選からエースとなり、1回戦で深谷商をノーヒットノーランに抑える。秋季関東大会では決勝に進むが、桐生高に大敗した。翌1967年には夏の甲子園に出場。1回戦で報徳学園と対戦、9回裏2死までリードするが、ここから反撃を許し、大会史上初の本盗による逆転サヨナラ負けを喫した。
三橋 豊夫(みつはし とよお、1949年4月29日 - )は… 三橋 豊夫(みつはし とよお、1949年4月29日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 鴻巣高校から日本通運に入社。1970年の都市対抗に出場。1回戦で九州産交を相手に先発し8回2失点と好投するが、リリーフが打たれ9回裏サヨナラ負けを喫する。 1970年ドラフト会議でヤクルトアトムズから2位指名を受けると会社からの慰留があったが交渉の末に入団。大型左腕として期待され、嘗てチームの大エースであった同じ左腕の金田正一が付けていた背番号34を貰うが、一軍登板は1971年9月6日の対巨人戦で王貞治に与えたストレートの四球のみにとどまり、1972年のオープン戦の好投後に肘が悪化しリハビリを続けるが1976年限りで引退した。
新井 昌則(あらい まさのり、1948年6月23日 - )は… 新井 昌則(あらい まさのり、1948年6月23日 - )は、埼玉県大里郡岡部町(現・深谷市)出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 深谷商では3年次の1966年に夏の甲子園西関東大会県予選準々決勝へ進出するが、川越工に敗退、甲子園には届かなかった。同年の第1次ドラフト3位で大洋ホエールズに入団し、俊足好打の内野手と期待されるが、5年間で僅か2試合にしか出場できずほとんど二軍暮らしで終わった。 1972年に佐藤元彦との交換トレードで、ロッテオリオンズへ移籍。1973年に初安打を放つと、1974年には一軍に定着し、内野ならどこでも守れるユーティリティプレイヤーとして起用され91試合に出場。6月1日の近鉄戦(川崎)で神部年男から初本塁打を記録。
高橋 昭雄(たかはし あきお、1948年6月8日 - 202… 高橋 昭雄(たかはし あきお、1948年6月8日 - 2022年9月7日)は、埼玉県出身のアマチュア野球選手、野球指導者である。ポジションは捕手。旧姓は佐藤。 大宮工業高校では、捕手として1965年秋季関東大会県予選決勝に進むが、大宮高に敗退。卒業後は東洋大学に入学。東都大学野球リーグでは優勝に届かず、3位2回が最高成績であった。大学1年上に会田照夫、細川昌俊がいた。 大学卒業後に社会人野球の日産自動車に入社するが、僅か1年で退団した。 1972年から23歳という若さで母校の東洋大学の監督に就任した。1970年代は駒澤大や中央大が強く、東都大学野球リーグ戦では例年2位に甘んじていた。 1976年の秋季リーグで、松沼雅之投手 - 達川光男捕手のバッテリーで初の1部優勝を遂げた。
荻原 久男(おぎわら ひさお、1948年1月3日 - )は、… 荻原 久男(おぎわら ひさお、1948年1月3日 - )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(投手)。 川越市立富士見中学校、大崎電気工業と軟式野球出身で、サンケイアトムズの練習生だったが、1967年にドラフト外でテスト入団し、左の打撃投手として長らく在籍した。 1軍の試合には出場することなく、1973年に引退した。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
江田 幸一(えだ こういち、1947年10月31日 - )は… 江田 幸一(えだ こういち、1947年10月31日 - )は、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)出身の元プロ野球選手(投手)。 上尾高校では3年次の1965年に夏の甲子園県予選で準々決勝に進出するが、大宮高に敗退して甲子園出場はならなかった。高校同期に会田照夫がいる。卒業後の1966年に東京ガスへ入社し、1969年の都市対抗では鷺宮製作所に補強されて出場。初戦となった2回戦の電電四国戦で好リリーフして勝利投手となるが、この勝利が鷺宮の都市対抗初勝利でもあった。同年のドラフト4位で東映フライヤーズに入団し、「日拓ホームフライヤーズ」となった1年目の1973年から中継ぎとして起用される。7月11日のロッテ戦(神宮)で初勝利を挙げ、「日本ハムファイターズ」となった2年目の1974年には4月19日の南海戦(大阪)で初セーブをマーク。
会田 照夫(あいだ てるお、1947年6月5日 - 2021… 会田 照夫(あいだ てるお、1947年6月5日 - 2021年2月22日)は、埼玉県春日部市出身のプロ野球選手(投手)。アンダースロー投手であった。 子は3男で、エコノミストの会田卓司、プロ野球選手の会田有志(三男)がいる。 小学6年から野球を始め、中学3年の時に遊撃手から投手に転向。 上尾高等学校ではエースとして1964年秋季関東大会に進むが、1回戦で市銚子高に延長10回サヨナラ負け。翌1965年夏の甲子園県予選でも準々決勝に進出するが、大宮高校に敗退し甲子園出場はならなかった。高校の1年上に山崎裕之、同期に江田幸一がいる。 卒業後は高校時代の監督である野本喜一郎に引き連れられ、当時は東都大学野球リーグ二部に低迷していた東洋大学に進学。
山崎 裕之(やまざき ひろゆき、1946年12月22日 - … 山崎 裕之(やまざき ひろゆき、1946年12月22日 - )は、埼玉県上尾市出身の元プロ野球選手(内野手)。 実家は和菓子店。小学校低学年の頃に実家の裏の造り酒屋の若い衆に初めて野球を教わる。中学入学後に野球部に入部して本格的に野球を始め、最初は投手を務めた。中学卒業後は、埼玉県立上尾高等学校野球部監督の野本喜一郎からの熱心な勧誘があったことや、2歳上の兄が以前所属していたことから、上尾高校への進学を決めた。上尾高校では1962年、1年生の時に三番・ピッチャーとして夏の甲子園予選西関東大会決勝に進出するが、佐野嘉幸を四番打者に据えた甲府工に惜敗し、甲子園には届かなかった。 2年春の1963年春の選抜に遊撃手兼控え投手として初出場を果たす。
榊 親一(さかき しんいち、1945年9月18日 - )は、… 榊 親一(さかき しんいち、1945年9月18日 - )は、埼玉県大宮市(現・さいたま市大宮区)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 大宮高校では3年次の1963年、夏の甲子園に中堅手として出場。1回戦は長崎海星に勝利したが、2回戦で中京商に敗れた。卒業後の1964年に地元の日本通運浦和へ入社し、初岡栄治コーチの指導を受け、外野手から捕手に転向。入部1年目に都市対抗で優勝を経験し、1967年の産別対抗では優秀選手に選ばれる。田中章、金田留広ら実業団屈指の投手陣をリードした。同期には竹之内雅史(西鉄・太平洋・クラウン、阪神)がいる。 同年のドラフト4位で東京オリオンズへ入団。主に醍醐猛夫・村上公康の控え捕手としての役割を担ったが、1972年のシーズン中盤からは醍醐に代わり43試合に先発マスクを被る。
横川 賢次(よこかわ けんじ、1945年4月1日 - )は、… 横川 賢次(よこかわ けんじ、1945年4月1日 - )は、埼玉県出身の元アマチュア野球選手(外野手)、野球指導者。 熊谷高等学校を経て、立教大学に入学する。 大学卒業後に、社会人野球のサッポロビールで俊足強打の外野手として活躍した。 1985年春から1995年までに母校の立教大学の監督を務め、1989年の秋季リーグでチームを23年ぶりの優勝に導いた。長嶋一茂、矢作公一、川村丈夫、広池浩司らを指導した。また次男は甲子園出場を経験して野球部に入部、監督を退いた翌年に主将を務めた。
松原 誠(まつばら まこと、1944年1月13日 - )は、… 松原 誠(まつばら まこと、1944年1月13日 - )は、埼玉県入間郡飯能町(現:飯能市)出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、捕手)・コーチ、解説者。 6人兄弟の末っ子に生まれ、飯能高校では捕手として活躍。体は大きいが非力で鈍足、特技は強肩と変化球が打てることであった。3年次の1961年に夏の甲子園県予選で準決勝に進出するが、熊谷商工に敗退。 1962年に大洋ホエールズへ捕手として入団。1年目は4月15日の中日戦(川崎)で9回裏に島野雅亘の代打で初出場し、5月8日の中日戦(中日)に8番打者・捕手として初先発出場を果たすと、7回表に板東英二から初安打を放つ。周囲からプロでは通用しないと言われ、初安打を打った時は嬉しくて母に手紙を書き、母は死ぬまでその手紙を持っていた。
齋藤 章児(さいとう しょうじ、1940年3月25日 - 2… 齋藤 章児(さいとう しょうじ、1940年3月25日 - 2019年4月4日)は、日本のアマチュア野球指導者・解説者。 中学生の頃から野球を始め、立教高校から立教大学経済学部卒業。社会人野球のヤシカを経て、1967年4月から東京農業大学第二高等学校の教諭になると同時に硬式野球部の監督に就任し、以降27年間で春2回、夏4回、甲子園に出場する。群馬県での高校野球監督就任については、群馬県立桐生高等学校監督であった稲川東一郎への思いがあったと語っている。 2000年から4年間、立教大学野球部監督。2007年に育成功労賞を受賞。 監督から退いた後も野球のシーズンになると地元群馬テレビの高校野球関連番組に出演したり、上毛新聞紙上に観戦コメントを掲載したりなど活動した。
岸 輝男(きし てるお、1940年1月11日 - )は、埼玉… 岸 輝男(きし てるお、1940年1月11日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。 大宮高校では1957年に夏の甲子園へ出場し、ベスト4まで進出。 1958年に近鉄パールスへ入団。1960年に引退。
亀田 信夫(かめだ のぶお、1939年9月22日 - )は、… 亀田 信夫(かめだ のぶお、1939年9月22日 - )は、埼玉県大宮市(現在のさいたま市大宮区)出身の元プロ野球選手。 大宮高校では1957年に夏の甲子園へ4番打者として出場し、ベスト4まで進出。 1958年に国鉄スワローズへ入団。1965年に引退。
高屋 俊夫(こうや としお、1938年12月28日 - )は… 高屋 俊夫(こうや としお、1938年12月28日 - )は、埼玉県大宮市(現在のさいたま市大宮区)出身の元プロ野球選手(投手)。 大宮高校から1957年に国鉄スワローズへ入団。同期に村田元一、茂木忠之がいる。1年目から一軍で登板し、3年目の1959年には自己最多の25試合(うち先発2試合)に登板した。1960年までで通算32試合に登板したが、主にビハインドの場面で投げることが多く、勝利することはできなかった。 監督が宇野光雄から砂押邦信に交代した1961年にはイースタン・リーグで最多勝を獲得したが、一軍で登板することはなくこの年限りで引退した。
山崎 正之(やまざき まさゆき、1938年6月18日 - 1… 山崎 正之(やまざき まさゆき、1938年6月18日 - 1991年11月20日)は、埼玉県出身のプロ野球選手(投手、外野手)。 法政第一高校では、1956年夏の甲子園都予選で準々決勝に進むが、エース並木輝男を擁する日大三高に敗退。卒業後は法政大学へ進学。東京六大学野球リーグでは、4年生時の1960年春季リーグにおいて、1年下の新山彰忠と投の二本柱を組んで優勝を飾り、自身もベストナインに選ばれた。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で同志社大のエース山尾孝雄に投げ勝ち、法大の初優勝に貢献。リーグ通算36試合12勝8敗、防御率2.50、87奪三振。同期に捕手の鈴木孝雄、一塁手の田中和男、外野手の山本一義がいる。
今泉 幸雄(いまいずみ ゆきお、1938年1月1日 - 20… 今泉 幸雄(いまいずみ ゆきお、1938年1月1日 - 2009年1月26日)は、昭和期の日本のプロ野球選手。ポジションは捕手、内野手。背番号44。日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学卒業。 埼玉県入間郡鶴ヶ島町(現在の同県鶴ヶ島市)出身日本大学鶴ヶ丘高等学校→高橋ユニオンズ・トンボユニオンズ・高橋ユニオンズ→日本大学 高校在学中に高橋ユニオンズの入団テストを受け合格。高校に通学しながらプロ野球選手として活躍する異色の経歴を持つ。現役時代は日本初の300勝投手・スタルヒン投手ともバッテリーを組むが、高校卒業と同時に高橋ユニオンズの球団合併に伴い引退し、日本大学に進学。プロ経験者のため大学リーグではプレーできなかったが、高木時夫(中日)、宮田征典(巨人)らとともに野球部で大学生活を送った。
高木 時夫(たかぎ ときお、 1937年4月21日 - 20… 高木 時夫(たかぎ ときお、 1937年4月21日 - 2006年1月23日)は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 浦和高校時代はサッカーをしていたこともあった。捕手として1954年秋季関東大会県予選決勝に進むが、浦和商に惜敗。高校卒業後は日本大学へ進学し、東都大学リーグでは在学中3度の優勝を経験。宮田征典とバッテリーを組み、1959年秋季リーグの優勝に貢献。リーグ通算31試合出場、73打数20安打、打率.274、0本塁打、6打点、ベストナイン1回受賞。大学同期に会田豊彦・黒木基康(大洋)・笹木士朗(日本鋼管)らがいた。大学卒業後は富士製鐵釜石に入社し、1961年に常磐炭砿の補強選手として都市対抗に出場。
福島 郁夫(ふくしま いくお、1936年7月11日 - )は… 福島 郁夫(ふくしま いくお、1936年7月11日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 埼玉県立熊谷高等学校から1955年に東映フライヤーズへ入団。1年目は1勝しか挙げられなかったものの、2年目の1956年に35試合登板し、13勝を挙げた。1957年からは登板数が一桁に減り、勝利を挙げることができず1960年に引退した。引退後は帰郷して、地元の百貨店に勤務した。 長嶋茂雄が高校時代に唯一打った本塁打が福島からである(埼玉県営大宮公園野球場で行われた全国高等学校野球選手権の南関東大会1回戦・当時千葉県立佐倉第一高等学校(現千葉県立佐倉高等学校)対熊谷高校戦)。 選手でありながら、スコアラーも務めており、昼は練習に励み、夜になるとスコアラーの業務を務めていた。
秋山 武司(あきやま たけし、1935年9月29日 - )は… 秋山 武司(あきやま たけし、1935年9月29日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。 松山高校から1953年に大映スターズに入団。1954年に2勝を挙げるものの、勝ち星はその2勝のみに終わり、1956年に引退。
関口 正巳(せきぐち まさみ、1935年8月13日 - )は… 関口 正巳(せきぐち まさみ、1935年8月13日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。 熊谷商工高校から1954年に入団。 1955年に大洋ホエールズへ移籍。1958年に再び読売ジャイアンツへ移籍し、同年退団した。
森田 斌(もりた さかん、1935年4月27日 - 2011… 森田 斌(もりた さかん、1935年4月27日 - 2011年6月17日)は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 川越工業高から東芝へ入社するが退社し、中央大学に進学。中大には1年下に小栗秀夫、若生照元(大洋)両投手がおり、外野手としての出場が多かった。東都大学リーグでは、同期の桑田武らと共に1958年春季で5年ぶりの優勝に貢献。同年の大学全日本選手権では、決勝で立大に惜敗し準優勝。大学卒業後は川崎トキコを経て、1962年に大洋ホエールズへ入団。2年目の1963年に21試合登板で2勝を挙げるが、その後は登板機会に恵まれず1964年限りで現役を引退。 引退後は大洋の二軍投手コーチ(1965年, 1967年 - 1968年)・二軍投手コーチ補佐(1966年)を務め、在任中は東大出身プロ野球選手第1号で1年目の新治伸治を指導。
飯山 平一(いいやま へいいち、1935年2月3日 - )は… 飯山 平一(いいやま へいいち、1935年2月3日 - )は、埼玉県南埼玉郡春日部町(現:春日部市)出身の元プロ野球選手。 春日部高校から1954年に毎日オリオンズへ入団。 1956年に高橋ユニオンズへ移籍し、1957年は合併した大映ユニオンズに在籍し同年引退。
蓜島 久美(はいじま ひさみ、1934年11月20日 - 2… 蓜島 久美(はいじま ひさみ、1934年11月20日 - 2022年6月28日[要出典])は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)。 埼玉県立大宮高等学校から1953年に南海ホークスに入団。強肩強打の捕手として期待されたが、筒井敬三、松井淳がいたため1955年まででわずか3試合の出場に留まり、1年後輩の野村克也が1956年に正捕手の座を掴むと1959年までの4年間で2試合しか出場できなかった。1960年途中に大洋ホエールズへ移籍。南海在籍時代は1本も安打を打てなかったが、翌1961年に唯一の安打を打っている。1962年限り引退した。 1962年9月22日の中日ドラゴンズ戦は三原脩監督が7人もの当て馬(偵察オーダー)を起用した試合であるが、蓜島は「4番・遊撃」で出場し、試合開始とともに桑田武と交代した。
服部 茂次(はっとり しげじ、1934年11月17日 - 1… 服部 茂次(はっとり しげじ、1934年11月17日 - 1967年7月)は、埼玉県北埼玉郡北河原村出身のプロ野球選手。 埼玉県立熊谷高等学校では1951年、2年生の時にエースとして夏の甲子園に出場。準決勝では西山和良のいた県和歌山商を相手にノーヒットノーランを達成。しかし決勝は平安高に前半で大量失点、その後は平安のエース清水宏員を打ち崩せず、4-7で敗れ準優勝に終わる。この時のチームメートに一塁手の田岡利久(大映スターズ)がいた。翌1952年は病を得て登板できず、活躍の場はなかった。 1954年に洋松ロビンスへ入団。4月21日に巨人を相手に初先発を果たすが、同年は4敗と結果を残せなかった。しかし1955年には開幕3試合目から先発陣の一角として活躍、2完封を含む5勝を記録する。
田岡 利久(たおか としひさ、1934年2月15日 - )は… 田岡 利久(たおか としひさ、1934年2月15日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。 埼玉県立熊谷高等学校では3年生の時に4番一塁手として第33回夏の甲子園に出場。決勝まで進出するが、平安高校に敗れて準優勝。 プロ野球では一年目から試合に出場し、ヒット、得点、四球を上げるなどの活躍をした。 1952年に大映スターズへ入団。1954年に退団した。
荻原 隆(おぎわら たかし、1931年4月26日 - )は、… 荻原 隆(おぎわら たかし、1931年4月26日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)。右投右打。埼玉県熊谷市出身。 埼玉県立熊谷高等学校2年の時、南関東大会にて県川口戦(県営大宮)で完全試合(8-0で勝利)を達成し、一躍注目を浴びた。翌1949年夏、甲子園に出場(埼玉県勢として初の夏の甲子園でもあった。1回戦で倉敷工に1-9と大敗した)。 1950年に大洋ホエールズに入団。5月26日の大阪戦(甲子園球場)でデビューを果たし、プロ初勝利も挙げた。 1952年には開幕投手を務めた。1953年に松竹と大洋の球団合併に伴い、大洋松竹ロビンスの選手として復帰。1954年オフに引退した。シュートとドロップが武器の投手であった。
荻島 秀夫(おぎしま ひでお、1924年9月9日 - 201… 荻島 秀夫(おぎしま ひでお、1924年9月9日 - 2012年9月22日)は、埼玉県出身のプロ野球選手。 浦和商業学校、中央大学、日本コロムビアを経て1949年に大陽ロビンスへ入団。 1950年はこの年に創設された国鉄スワローズへ移籍。同年退団。
石川 尚任(いしかわ ひさただ、1924年7月30日 - 没… 石川 尚任(いしかわ ひさただ、1924年7月30日 - 没年不明)は、埼玉県出身の元プロ野球選手。 大宮工業高校から東京鉄道管理局を経て、1950年に設立された国鉄スワローズへ入団。1952年に引退。