西出 弥加(にしで さやか、 1988年9月19日 - )は… 西出 弥加(にしで さやか、 1988年9月19日 - )は、埼玉県出身のグラフィックデザイナー、画家、Youtuber。1歳の時から色鉛筆で絵を描き始める。20歳の時mixiに投稿したイラストがきっかけで絵の仕事を始める。2014年に「げんきくん、食べちゃうの?」を出版、絵本作家デビュー。 文具商品デザインを中心に、企業のアートディレクションやデザインなどを手がける。大学時代には絵画モデルやファッションモデル業をしていた。また近年、亡き人のイメージを具現化し絵に落としこむ追悼画家としての活動が増えている。NHK教育「Rの法則」ブースに絵画を展示。美容専門誌「クレアボー」に「あろまのえほん」連載。
長谷川 幾与(はせがわ きよ、1984年 - )は、日本の画… 長谷川 幾与(はせがわ きよ、1984年 - )は、日本の画家。 東京都生まれ。幼少期をオーストラリアで過ごす。埼玉県立大宮高等学校を経て、多摩美術大学絵画学科日本画専攻入学。2009年同大学卒業後、翌年ヘルシンキ芸術デザイン大学(現アアルト大学)短期交換留学。2011年、多摩美術大学大学院修士課程修了。2021年より多摩美術大学非常勤講師。 和紙や墨、岩絵具などの伝統的な日本の素材と技法を用いながら主に抽象絵画を描く。 「REICOF ART AWARD 2007」奨励賞受賞[要出典] 「第7回 雪舟の里 総社 墨彩画公募展2008」入選 「グレートブリテン・ササカワ財団助成金」授与 「第9回 絹谷幸二賞」推薦 「Harper's BAZAAR Women on the Frontier」受賞
菅野 祐悟(かんの ゆうご、1977年〈昭和52年〉6月5日… 菅野 祐悟(かんの ゆうご、1977年〈昭和52年〉6月5日 - )は、日本の作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、映画監督、画家。ワンミュージック所属。 幼少期から中学校までを埼玉県川越市で過ごす、その後、栃木県塩谷郡高根沢町に転居し大学中盤までを過ごす。須賀学園宇都宮短期大学附属高等学校全日制普通科特別進学コース、東京音楽大学音楽学部音楽学科作曲指揮専攻作曲科映画放送音楽コース卒業。在学中に印象主義音楽に魅了され、フランス和声を学んだ。在学中から既に映画、CM、アーティストに楽曲を提供するなどの活動を行っていた。現在ではドラマからアニメーション、CM、ゲーム等、幅広く活動している。テクノポップ、音響、オーケストレーションを得意としている。
田中 拓馬(たなか たくま、1977年 - )は、東京都出身… 田中 拓馬(たなか たくま、1977年 - )は、東京都出身の日本の画家。イギリス国立アルスター博物館(英語: Ulster Museum)に絵画作品「Blue Rose」収蔵。 1977年東京都江戸川区生まれ。埼玉県越谷市にて幼少期を過ごす。埼玉県立浦和高校から千葉大学に入学するも中退し、後に早稲田大学法学部に進学する。 もとは弁護士を志していたが、二度の司法試験不合格で体調を崩し、リハビリとして絵画を始める。その後大道芸人のピーター・フランクルに影響を受け、浦和や銀座の路上で絵画の販売を始める。 リーマン・ショック以降、新天地を求め海外へ渡る。上海、台湾、アメリカ、フランス等のギャラリーで取り扱いが始まり、2015年にはニューヨークのNPO団体Chasamaで個展を開催する。
おかべ りか(1950年11月10日 - 2017年7月8日… おかべ りか(1950年11月10日 - 2017年7月8日)は、日本の女性漫画家・挿絵画家。埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身。獨協大学外国語学部フランス語学科卒業。 おもに児童書・絵本・育児誌などを中心に漫画や挿絵、翻訳などを手がける。子供の視点を中心にした、鋭い観察眼と人物描写に基づくユーモラスな作風が特色。また1970年代には集英社『明星』などで挿絵を描いていた。 福音館書店より刊行していた月刊誌『おおきなポケット』では漫画作品を断続的に連載。うち『とちめんぼう劇場』『よい子への道』などを単行本化。 2002年より北澤楽天顕彰会理事。他、さいたま市民漫画展(のち北澤楽天漫画大賞)審査員、さいたま市文化財等選考委員を務める。
エム ナマエ(本名:生江 雅則(なまえ まさのり)、男性、1… エム ナマエ(本名:生江 雅則(なまえ まさのり)、男性、1948年9月1日 - 2019年3月6日)は、日本の画家、児童文学作家。 東京都新宿区信濃町生まれ。1961年:千代田区立永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業、千代田区立麹町中学校入学。1964年:慶應義塾志木高等学校入学。1967年:慶應義塾大学法学部入学。
落田 洋子(おちだ ようこ、1947年11月22日 - )は… 落田 洋子(おちだ ようこ、1947年11月22日 - )は、日本の画家。 埼玉県浦和市生まれ。1968年、武蔵野美術短期大学商業デザイン科卒業。 広告企画の仕事を経て、1976年から油彩画を描き始める。1978年、六本木・青画廊で初個展。1979年、銅版画を開始する。個展やグループ展示会などで作品を発表している。作品は単行本や文庫本などで多く使われている。 1982年、『紅茶と海』でライプツィヒ国際図書デザイン展銅賞を受賞。 個展活動は銀座77ギャラリーを中心に展開している。 グループ展に「ポストコレクション展」(東京セントラル美術館)、「現代形象展」(ストライプハウス美術館)、「チバ・アートナウ'98」(佐倉市美術館)などがある。
金子 國義(かねこ くによし、1936年7月23日 - 20… 金子 國義(かねこ くによし、1936年7月23日 - 2015年3月16日)は、日本の画家。
川村 親光(かわむら ちかみつ、1928年 - 2020年)… 川村 親光(かわむら ちかみつ、1928年 - 2020年)は、埼玉県出身の画家。第4代埼玉県美術家協会会長。一水会特別会員。 北足立郡浦和町(のち浦和市)に生まれ、埼玉県立浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)を卒業、叔父の洋画家関口隆嗣の紹介で寺内萬治郎の指導を受けた。日展初入選後は高田誠に師事し、一水会への出品を続けた。 作品の一部は埼玉県立近代美術館に収蔵されている。
大野 百樹(おおの ももき、1920年〈大正9年〉9月3日 … 大野 百樹(おおの ももき、1920年〈大正9年〉9月3日 - 2019年〈平成31年〉3月1日)は、昭和から平成の日本画家。本名は大野慶蔵。 埼玉県秩父に生まれる。 小谷津任牛や奥村土牛に師事する。1948年(昭和23年)再興第33回院展にて初入選。ほか1986年(昭和61年)再興第71回院展にて日本美術院賞(大観賞)、2008年(平成20年)再興第93回院展にて文部科学大臣賞、2011年(平成23年)再興第96回院展にて内閣総理大臣賞などを受賞した。2001年(平成13年)10月17日、日本美術院同人に推挙された。2019年(平成31年)3月1日、肺炎のため死去。98歳。代表作に『谷川岳』など。
相原 求一朗(あいはら きゅういちろう、1918年12月3日… 相原 求一朗(あいはら きゅういちろう、1918年12月3日 - 1999年2月5日)は、日本の洋画家。埼玉県川越町(現・川越市)生まれ。冬の北海道の詩情を描く洋画家の第一人者と言われた。新制作協会会員。 埼玉県川越町(現・川越市)に生まれる。父・茂吉、母・よし。本名は相原久太郎(のちに求一朗)。生家は農産物の卸問屋で、恵まれた環境だった。1936年、川越商業学校卒業。商業学校の商業美術担当教師から油彩を学んで東京美術学校進学を志すが、父親の逆鱗に触れ、家業を継いだ。1940年、21歳で兵役に就き、第二次世界大戦中は旧満州やフィリピンを転戦。1944年、フィリピンからの帰還途中、搭乗した飛行機が沖縄沖に墜落。
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1917年5月10日 - 1… 斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1917年5月10日 - 1996年3月17日)は日本の洋画家。浦和画家。 23歳で太平洋戦争に応召し、生死のはざまで和紙に3000枚のスケッチを残した。生きて帰国できれば画家になると決意し、終戦後1945年に帰国。浦和市に居住した。
加藤 勝重(かとう かつしげ、1914年9月1日 - 200… 加藤 勝重(かとう かつしげ、1914年9月1日 - 2000年9月6日)は、現在の埼玉県さいたま市出身の日本画家。浦和画家。 浦和画家の発祥(関東大震災以降)以前に浦和に出生。川端画学校に学び、はじめは洋画を描いていたが、日本画に転向した。山岳風景を多く描いた。「響」などの作品は埼玉県立近代美術館に所蔵されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高田 誠(たかだ まこと、1913年9月24日 - 1992… 高田 誠(たかだ まこと、1913年9月24日 - 1992年10月24日)は、埼玉県出身の洋画家、文化功労者。瑞宝章受章者。浦和画家の代表格として知られる。 埼玉県浦和町(のち浦和市、現・さいたま市)常盤町の代々医者として知られていた旧家である高田家に生まれた。父は医師のほか民政党の県議会議員を務めた高田源八。兄に、医師であり浦和医師会会長、埼玉県産婦人科医会会長、浦和教育委員などを務めた高田進、弟に斎藤工業株式会社代表取締役社長、社団法人埼玉建設産業団体連合会初代会長、社団法人全国建設産業団体連合会会長などを務めた斎藤裕がいる。埼玉県立男子師範学校付属小学校の5、6年生のころに初めて油絵を制作している。
里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 19… 里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 1974年10月24日)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家のひとり。 熊谷中学校出身。浦和画家の須田剋太と同じく光風会に所属し、浦和市(現・さいたま市南区)の別所沼畔にアトリエを構え、須田のアトリエと隣り合っていた。別所沼対岸(稲荷台)の林倭衛のアトリエにも須田としばしば訪れた。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。新文展に初入選で特選を受賞した。県北美術家協会会長、熊谷市教育委員長などを歴任し、文化の振興にも貢献した。作品は埼玉県立近代美術館に所蔵されている。
須田 剋太(すだ こくた、1906年5月1日 - 1990年… 須田 剋太(すだ こくた、1906年5月1日 - 1990年7月14日)は、日本の洋画家。埼玉県出身。浦和画家。 当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、1949年以降抽象画へと進む。力強い奔放なタッチが特徴と評される。司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿絵を担当し、また取材旅行にも同行した。道元の禅の世界を愛した。文展に入選した翌年の昭和9年には寺内萬治郎が浦和の別所沼畔のアトリエを訪れ激励し、光風会に入ることを勧められ入会した。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。浦和画家のひとり、光風会の里見明正とは同じ熊谷中学校で、別所沼のアトリエも隣り合っていた。また、四方田草炎や林倭衛とも交流していた。
内田 静馬(うちだ しずま、1906年4月1日 - 2000… 内田 静馬(うちだ しずま、1906年4月1日 - 2000年4月29日)は、日本の版画家。 埼玉県生まれ。1924年埼玉県立川越中学校を卒業し、東京高等工芸学校木材工藝科に進学。1927年に同校を卒業。1928年、第6回春陽会展で作品が入選し、版画家としてデビューする。1930年には新潟県立高田商工学校に木工教諭として赴任し、教師をしながら創作活動を続け、1932年には日本版画協会会員となる。1939年8月には下関市立下関商工学校教諭に転任するが、戦況が厳しくなると1945年1月には郷里に戻り、埼玉県工芸指導所長に任じられ、1948年まで埼玉県庁職員として勤めた。その後、1968年から1976年まで郷里の桶川町の川田谷地区の公民館長を勤めながら、1970年代には版画教室を催したり、木版画の制作方法を表した著作を公刊するなど、版画普及活動も行った。
岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1… 岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1964年9月10日)は、日本の洋画家。「孤独と貧困の鬼才」などと呼ばれる。 1905年(明治38年)8月15日、埼玉県川越町(現川越市)に生まれた。本名は「かつへい」と読む。父は育太郎、母は育太郎の後妻の満つ。育太郎は川越商業会議所副会頭を勤めるなど川越の有力者で、勝平の叔父には福澤諭吉の娘婿で「日本の電力王」と呼ばれた実業家の福澤桃介、伯母には「激情の歌人」として知られる女流歌人の杉浦翠子がいる。翠子の夫は洋画家の杉浦非水。 川越中学校(現埼玉県立川越高等学校)在学時から絵画の世界に惹かれ杉浦非水の紹介で岡田三郎助の本郷洋画研究所へ通う。
四方田 草炎(よもだ そうえん、1902年 - 1981年)… 四方田 草炎(よもだ そうえん、1902年 - 1981年)は、埼玉県児玉郡北泉村四方田(現本庄市北堀)出身の昭和期の画家。本名青次郎。北泉村の旧家・四方田家の次男として生まれ、生前は著名とはなれなかったが、死後、「孤高の素描画家」としてスポットを浴びる。浦和画家の一人。 高等小学校卒業後に上京し、神田の書店に勤める。そのかたわら川端画学校に学び、日本画家を志す。この時期、川端龍子を師と仰いだ。また、浦和市の別所沼畔に居住し須田剋太ら浦和画家と交流した。 1928年(昭和3年)に至り、龍子主宰の画塾・御形塾に進む。青次郎の雅号は、1930年(昭和5年)に第二回青龍展に龍子が出品した作品名『草炎』から与えられた。
山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 198… 山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 1985年2月22日)は、日本の歯科医、画家、顔の研究家。 埼玉県越谷市生まれ。春日部中学校を経て、1923年に日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業。 1920年に風景画で二科展に入選。1924年から1930年にかけてフランスで歯科と絵画を学ぶ。 1937年に「日本人下顎骨の増齡殊に齒牙発生脱落に伴ふ形態変化の研究」で新潟医科大学より医学博士を授与される。 1931年日本歯科医学専門学校講師、助教授、教授、外科部長、1964年鶴見大学教授、1972年定年、名誉教授。
小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10… 小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10月30日 - 1933年(昭和8年)8月28日)は、大正から昭和初期の日本画家。「詩情の画家」と呼ばれる。 埼玉県入間郡川越町(現川越市)に、呉服商・小島徳右衛門の次男として生まれる。本名は小島茂吉。通称は茂。1896年(明治29年)、叔父の養子となり小茂田姓になる。 17歳で上京。当時は川越町と東京市を結ぶ鉄路がなく、寄宿したのが松本楓湖の隣家であった。その縁もあって楓湖の「安雅堂画塾」に入門。なお、同日に、終生ライバル関係となる速水御舟も入門。1913年(大正2年)、第13回巽画会展に出品、原富太郎に買い上げられ、以降、支援を受ける。
斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日… 斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日-1959年(昭和34年)5月3日)は、大正・昭和期の洋画家、美術評論家。
永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、… 永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家。 浦和中学(現:埼玉県立浦和高等学校)を卒業後東京美術学校に入学し、黒田清輝や岡田三郎助に学ぶ。卒業後フランスへの留学を希望していたが、家督を相続するため断念するも細々と絵を描いていた。晩年は田園風景を描き続け、徳富蘇峰と荒川堤防を散策するなどしていた。
森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9… 森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9日 - 1933年(昭和8年)4月8日)は、大正から昭和にかけての洋画家。博物学者で国立民族学博物館名誉教授の森田恒之は孫。 埼玉県幡羅郡久保島村(現・熊谷市)に生まれる。熊谷中学校中退。 小山正太郎の不同舎に学び、1902年東京美術学校(現・東京芸術大学)入学。在学中、青木繁や坂本繁二郎らと親しく交わり、また新設の太平洋画会研究所にも通った。1906年に東京美術学校西洋画撰科を卒業。 1907年、山本鼎・石井柏亭らと美術誌「方寸」を創刊。同年、第1回文展に「湖畔」を出品し入選。また渡欧するまでの間、たびたび太平洋画家展にも制作を発表した。
小笠原 明代(おがさわら あきよ )は埼玉県さいたま市出身の… 小笠原 明代(おがさわら あきよ )は埼玉県さいたま市出身の現代の日本画家。 小川和紙(無形文化遺産の細川紙)、膠、墨、顔料、岩絵の具を用いる。 埼玉県生まれ。さいたま市立高砂小学校、さいたま市立神田小学校、さいたま市立大久保中学校、埼玉県立浦和第一女子高等学校(定時制)、華調理師専門学校卒業、御茶の水美術専門学校(中退) 子供の頃より美術の成績がとりわけ良く、賞をもらっていた。小学生時には、漠然とはしていたが画家になるのが夢だった。地元の高砂小学校に通学していたが、両親が自宅を新築したために、小学1年生2学期で、転校することとなった。 中学校で不登校をしている時に油絵セットを母親に誕生日プレゼントで買ってもらったのをきっかけに独学で油絵を描き始めた絵が、周囲の大人達には評判が良かった。
野口 青華(のぐち せいか、生没年不詳)は、明治時代から大正… 野口 青華(のぐち せいか、生没年不詳)は、明治時代から大正時代にかけての女流日本画家。 鏑木清方の門人。大正4年(1915年)の第1回同展に「襟店」を、大正5年(1916年)の第2回同展に「船を待つ人」、「お相手」を出品している。