阿部 助哉(あべ すけや、1914年9月14日 - 1995… 阿部 助哉(あべ すけや、1914年9月14日 - 1995年4月22日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。
新潟県:1,930人
阿部 助哉(あべ すけや、1914年9月14日 - 1995… 阿部 助哉(あべ すけや、1914年9月14日 - 1995年4月22日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。
相馬 皓(そうま あきら、1914年6月 - 1984年)は… 相馬 皓(そうま あきら、1914年6月 - 1984年)は、日本の歴史家、歌舞伎研究家。 詩人・相馬御風の三男として東京に生まれる。祖父は衆議院議員の藤田茂吉。妹は日本文学研究者の相馬文子。糸魚川中学校(現・新潟県立糸魚川高等学校)卒業後、安田靫彦に日本画を学ぶ。また河竹繁俊に師事して歌舞伎を学ぶ。 NHK大河ドラマ『新・平家物語』『国盗り物語』『元禄太平記』『花神』の時代考証を手掛けた。
近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 -… 近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 - 1977年5月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した時代劇俳優。数多くの時代劇ファンを魅了する殺陣は「日本映画史上最も殺陣の上手い役者」「古今東西ナンバー1」と評される。本名、目黒 寅彦(出生名は寅一、のち改名)。新潟県長岡市出身。 新潟県長岡市西新町で、父・目黒多七、母・ミカの長男として生まれる(姉と妹に挟まれた長男だが、実の長男は早世しており正確には次男)。13歳で父を亡くし、その後は母によって育てられる。 長岡工業学校卒業後、映画俳優を目指し、1932年市川右太衛門プロダクションに研究生として入団する。最初の芸名は長岡秀樹だった。
庭野 正之助 (にわの しょうのすけ、1914年3月25日 … 庭野 正之助 (にわの しょうのすけ、1914年3月25日 - 2004年1月11日)は、日本の実業家。日本鉱業(現ENEOSホールディングス)の社長・会長や日本鉱業協会会長を務めた。勲一等瑞宝章。 新潟県十日町市川原町生まれ。旧制新潟県立十日町中学校(のちの新潟県立十日町高等学校)卒業後、1936年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身。大学予科時代には、文部省による東京商科大学予科および専門部廃止案に反対し籠城闘争を決行(籠城事件)。後藤達郎(のちにホテルオークラ社長)らとともに警察に検挙され勾留されたが、商法の本間喜一教授や民法の常盤敏太教授の尽力で釈放された。 1936年日本鉱業入社、1964年取締役、1971年専務、1973年副社長。
等々力 英男(とどりき ひでお、1914年 <大正3年> 1… 等々力 英男(とどりき ひでお、1914年 <大正3年> 1月25日 - 1992年 <平成4年> 5月6日)は、日本の経営者。位階は正五位。 新潟県新潟市出身。1936年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に新潟トヨタ自動車に入社。1951年に社長に就任し、1987年には会長に就任。1980年10月から1988年6月までにテレビ新潟放送網社長を務め、第四銀行顧問、新潟商工会議所会頭なども歴任。 1975年4月に藍綬褒章を受章し、1984年4月に勲二等瑞宝章を受章した。また馬主ともなり、1971年から1979年にかけて新潟馬主協会会長を務めた。 1992年5月6日肺気腫のために死去。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
澤野 十蔵(さわの じゅうぞう、1913年〈大正2年〉11月… 澤野 十蔵(さわの じゅうぞう、1913年〈大正2年〉11月28日 - 2007年〈平成19年〉7月20日)は、日本の解剖学者、医師、トンボ研究家。医学博士。広島大学名誉教授、日本解剖学会名誉会員、日本蜻蛉学会名誉会員、広島虫の会名誉会長。 新潟県新潟市関屋松波町(現 新潟市中央区関屋松波町)出身。1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟高等学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に新潟医科大学を卒業。 1941年(昭和16年)12月に新潟医科大学副手に就任、1942年(昭和17年)に新潟医科大学助手に就任、1944年(昭和19年)に新潟医科大学臨時附属医学専門部助教授に就任、新潟医科大学講師を兼任。
横山 正松(よこやま しょうまつ、1913年11月19日 -… 横山 正松(よこやま しょうまつ、1913年11月19日 - 1992年8月14日)は、日本の生理学者。医学博士。新潟県北魚沼郡小千谷町(現・小千谷市)出身。旧制新潟医科大学卒業。同大学助手、米子医学専門学校助教授、福島県立医科大学教授を歴任した。この間、結核により数度療養したが、その度に復帰してのロヨラ大学とパリ大学での在外研究にも取り組んだ。
近衛 八郎(このえ はちろう、1913年〈大正2年〉11月1… 近衛 八郎(このえ はちろう、1913年〈大正2年〉11月16日 - 1995年〈平成7年〉)は昭和期の歌手、作曲家。本名は、釜田 俊雄。妻は、戦前キングレコードで活躍したミッキー松山こと松山映子(1912年‐2006年)。 新潟県佐渡郡沢根町(佐和田町を経て現在の佐渡市)出身。佐渡中学校、武蔵野音楽学校卒業。1936年(昭和11年)キングレコードから「あの夢この夢」でデビュー。「ああ我が戦友」や「男なら (軍歌)」などがヒット。その後応召により出征する。 戦後は作曲に転向し、鎌多俊与の名で作曲家として活躍。1956年(昭和31年)、三橋美智也の「哀愁列車」が大ヒットとなった。その他、若原一郎「風の吹きよで」、春日八郎「玄海船乗り」、「居酒屋」、三橋美智也「俺ら炭鉱夫」などを作曲した。
白勢 誠一(しろせ せいいち、1913年〈大正2年〉10月2… 白勢 誠一(しろせ せいいち、1913年〈大正2年〉10月22日 - 1982年〈昭和57年〉10月26日)は、日本の実業家。白勢商事社長。早稲田大学校友会 新潟市稲門会会長。新潟県損害保険代理業協会初代会長。 新潟県新潟市出身。白勢量作の長男。1938年、早稲田大学商学部卒業。1944年、白勢代表社員となる。1953年、白勢商事社長に就任。 1954年、新潟商工会議所監事に選ばれる。1959年、第四銀行監査役を兼ねる。1982年(昭和57年)10月26日死去。 趣味はゴルフ、囲碁。宗教は浄土真宗。住所は新潟県新潟市本町通八番町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
今井 善衛(いまい ぜんえい、1913年(大正2年)10月5… 今井 善衛(いまい ぜんえい、1913年(大正2年)10月5日 - 1996年(平成8年)4月19日)は、日本の官僚。元通商産業事務次官。 1931年、東京府立第一中学校卒業、第一高等学校を経て、1937年、東京帝国大学法学部政治学科卒業、商工省入省。入省同期に、佐橋滋(通産事務次官)、松村敬一(経企事務次官、通商局長、繊維局長)、樋詰誠明(大丸副社長、中小企業庁長官)、川瀨健治(東京通産局長)など。佐橋、今井、樋詰で「昭和12年入省組の3羽烏」と呼ばれていた。 外務省出向(在米国大使館)、通商局通商政策課長、大臣官房総務課長、中小企業庁振興部長などを経て、1958年8月5日、繊維局長に就任。1959年2月、日米綿製品交渉のため、今井・牛場信彦外務省経済局長・ヘンリー・カーンズ米商務次官補らの三者間で意見交渉を持つ。
西谷 能雄(にしたに よしお、1913年9月8日 - 199… 西谷 能雄(にしたに よしお、1913年9月8日 - 1995年4月29日)は、出版社・未來社の創業者。新潟県佐渡島出身(北海道生まれ)。 旧制佐渡中学卒業後、ストライキで東京外国語学校ロシヤ語科を退学になり、1937年明治大学文藝科卒業。京都大学で哲学を教えていた従兄西谷啓治の世話により京都の弘文堂に勤務する。当時、弘文堂は学術出版社として名高く、「東の岩波、西の弘文堂」と言われたほどで、ほぼ官立大学・国立大学の教授の著書しか出版せず、権威主義の傾向が強かった。しかし西谷は当時まだ無名だった木下順二の『夕鶴』を弘文堂の啓蒙的叢書「アテネ文庫」に入れることを企画会議で頑強に提案した。この企画が当たって『夕鶴』が版を重ねたことから、無名の著者の原稿でも優れていれば刊行すべきであるとの信念を持つに至る。
小森 英夫(こもり ひでお、1913年8月19日 - 199… 小森 英夫(こもり ひでお、1913年8月19日 - 1996年9月9日)は、日本の経営者。同和鉱業社長を務めた。新潟県新潟市出身。位階は正四位。 1934年に横浜商業専門学校を卒業し、1946年2月に同和鉱業に入社。1962年11月に取締役に就任し、1966年5月に常務を経て、1973年5月に副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格。1981年6月には会長を経て、1987年6月には相談役に退いた。 1975年10月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1996年9月9日急性心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
中川 芳雄(なかがわ よしお、1913年 <大正2年> 6月… 中川 芳雄(なかがわ よしお、1913年 <大正2年> 6月17日 - 1987年 <昭和62年> 7月23日)は、日本の国文学者。静岡女子大学(現:静岡県立大学)名誉教授。勲等は勲三等。位階は正四位。 静岡女子短期大学教授、静岡女子大学文学部教授、静岡女子大学文学部長、常葉学園短期大学教授、常葉学園大学教育学部教授などを歴任した。 1913年、新潟県生まれ。旧制新潟県立十日町中学校を経て國學院大學高等師範部第一部を卒業した。川治尋常高等小学校の代用教員を振り出しに、教育者としての道を歩む。応召を挟み、六日町高等女学校や新潟県立十日町中学校の教諭を務めた。その後、京都帝国大学文学部国語学国文学専攻にて学ぶ。
江尻 勇(えじり いさむ、1913年(大正2年)3月18日 … 江尻 勇(えじり いさむ、1913年(大正2年)3月18日 - 1997年(平成9年)7月21日)は日本の政治家。新潟県西山町長(6期)。 二田尋常高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業後、上京して新聞配達や保険外交員として働く。 戦前は刈羽郡二田村役場で戦争事務を担当していたが戦後、それを理由に退職するしかなかった。1950年-1951年(昭和25-26年)頃まで日本社会党派だったが、離れて農業をしていたとき、田中土建社員の江尻の知り合いから田中角栄の秘書本間幸一を通じて、手が空いてるなら手伝って欲しいと言われた。だがその頃の江尻は三宅正一の応援を始めたばかりで社会党で特に小作人の代弁者だった三宅は農地改革の先頭にいた。
江間 章子(えま しょうこ、1913年3月13日 - 200… 江間 章子(えま しょうこ、1913年3月13日 - 2005年3月12日)は昭和を代表する唱歌の作詞家、詩人。代表作に「夏の思い出」、「花の街」などがある。 新潟県高田市(現・上越市)に生まれる。しかし2年後に父が急逝し、岩手県岩手郡平館村(現・八幡平市平舘)の母の実家に移住する。 満12歳となる1925年には静岡県に再度転居し、旧制静岡高等女学校に進学する。『詩と詩論』から影響を受けて学生時代から作詞家を目指した。 高等女学校卒業後に上京し、1930年に駿河台女学院(後の東京YWCA専門学校)に入学する。1936年に詩集『春への招待』を自費出版で発表した。 1938年、北園克衛、村野四郎、山中散生、山本悍右らと『夜の噴水』を編輯。
広瀬 真一(ひろせ しんいち、1913年1月25日 - 19… 広瀬 真一(ひろせ しんいち、1913年1月25日 - 1986年1月20日)は、日本の官僚、経営者。運輸事務次官や、日本通運社長、会長を務めた。「日通中興の祖」と呼ばれた。 新潟県柏崎市出身。1938年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に鉄道省に入省し、同期に若狭得治がいた。運輸省鉄道管理局国有鉄道部長、鉄道管理局長などを経て、1964年6月に運輸事務次官に就任した。1968年をもって退官し、地元新潟県選挙区で参議院選挙に自由民主党公認で出馬したが、落選した。1968年11月に日本通運専務に就任し、日通事件で揺れていていた会社の立て直しに尽力していた。1972年に副社長に就任し、1976年に社長に就任した。
松岡 英夫(まつおか ひでお、1912年12月9日 - 20… 松岡 英夫(まつおか ひでお、1912年12月9日 - 2001年4月8日)は、日本の政治評論家、歴史家。 新潟県新潟市生まれ。1938年東京帝国大学卒業、東京日日新聞社に入社、戦後、毎日新聞政治部長、論説委員、編集局次長を経て、政治評論家に。1971年から『サンデー毎日』の「サンデー時評」を担当、幕末史の研究者でもあり、1979年『大久保一翁』で毎日出版文化賞受賞。1983年の東京都知事選に、革新統一候補として立候補し、148万2169票を獲得したが、鈴木俊一に敗れた。2001年、肺炎のため88歳で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松井 誠(まつい まこと、1912年(大正元年)10月29日… 松井 誠(まつい まこと、1912年(大正元年)10月29日 - 1972年(昭和47年)11月10日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、参議院議員。 新潟県佐渡郡真野村(真野町を経て現佐渡市)で生まれる。両親は父の勤務地の朝鮮在住のため祖父母の元で成長した。佐渡中学校(現新潟県立佐渡高等学校)、第四高等学校(首席卒業)を経て、東京帝国大学法学部法律学科に進学。1935年(昭和10年)高等試験行政科試験、同司法科試験に合格。1936年(昭和11年)同大学を卒業し、満州国国務院司法部の司法官となるが、病のため1940年(昭和15年)に退官した。義兄が勤務していた京城医学専門学校附属医院で療養後、東京帝国大学医学部附属病院に転院し、退院して1944年(昭和19年)東京の前野法律事務所で弁護士として勤めた。
宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 … 宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日)は、昭和時代に活躍した日本の歌人。位階は正五位。本名は宮肇(はじめ)。 長岡中学在学中から作歌をはじめる。1932年に上京、翌年北原白秋を訪ねて門下に入る。1935年、白秋主宰の歌誌「多磨」の創刊に参加。日中戦争に応召し、中国を転戦した体験が、歌集『山西省』(1949年)に結実した。1953年には「多磨」の流れをくむ歌誌「コスモス」を創刊、主宰した。ながらく勤めた製鉄会社を辞して歌作と著作に専念し、74歳で死去。 一生活者の真実の声を響かせた誠実な歌風が特色。歌集に、『日本挽歌』(1953年)、『多く夜の歌』(1961年)、『濁石馬』(1975年)など、エッセイに、『埋没の精神』(1955年)、『西行の歌』(1977年)など。
北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 19… 北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。東京都立大学名誉教授。専門は近世日本史。 新潟県柏崎市生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、松本高等学校文科乙類を卒業 し、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。卒業論文は「徳川幕府直領の研究」。近世政治経済史を専攻し、1962年に「江戸幕府の権力構造」により東北大学から文学博士の学位を授与される。 1950年新潟大学助教授、1951年東京都立大学 (1949-2011)助教授、1959年同大学教授、同大学附属図書館長、1977年定年退官後は立正大学教授を務め、1983年退職。専門書のほか、一般向けの著書・編著を多く著した。
白勢 正衛(しろせ まさえ、1912年〈明治45年〉6月4日… 白勢 正衛(しろせ まさえ、1912年〈明治45年〉6月4日 - 没年不明)は、日本の農民、資産家、大地主。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡金塚村(現・新発田市金塚)出身。白勢友彌の長男。白勢文三郎の甥。1915年、家督を相続した。農業を営み、新潟県下の大地主であった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
今井 哲夫(いまい てつお、1912年(明治45年)5月20… 今井 哲夫(いまい てつお、1912年(明治45年)5月20日 - 1987年(昭和62年)12月27日)は、日本の政治家。新潟県柏崎市長を2期8年(1979年 - 1987年)務めた。 青年期には陸上競技選手(長距離走)として活躍し、慶應義塾大学在学中に箱根駅伝に出走したほか、3000メートル障害で当時の日本記録を更新した。1936年ベルリンオリンピックに3000メートル障害で出場。 新潟県刈羽郡比角村(現在は柏崎市の一部)出身。1922年(大正11年)、比角尋常高等小学校(現在の柏崎市立比角小学校)5年生の際に、新潟県少年オリンピック大会での総合優勝に貢献する。旧制新潟県立柏崎中学校(現在の新潟県立柏崎高等学校)に進学、近県中学校競技大会で4種目優勝を果たした。
倉若 晴生(くらわか はるお、本名:倉若貞司、1912年4月… 倉若 晴生(くらわか はるお、本名:倉若貞司、1912年4月27日 - 1982年11月26日)は、日本の作曲家。新潟県西頸城郡糸魚川町(現在の糸魚川市)出身。東京府立化学工業学校出身。 江口夜詩に師事し、ポリドールレコード専属作曲家となる。昭和時代初期 - 中期に活動した。 作詞家・詩人の清水みのる、歌手の田端義夫(バタヤン)とのトリオで数々のヒット曲を世に送り出した。生涯に作曲した作品は千曲を超える。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
中山 礼治(なかやま れいじ、1912年(明治45年)3月1… 中山 礼治(なかやま れいじ、1912年(明治45年)3月11日- 1988年(昭和63年)3月27日)は、新潟県出身の歌人。長岡工業高等専門学校名誉教授。コスモス短歌会新潟県支部長。 新潟市刈部家(刈部喜兵衛)の子として生まれる。生後7日目に北魚沼郡小千谷町(現在の小千谷市)の中山泰治・ハツリ夫妻の養子となる。 町立小千谷尋常小学校から旧制県立小千谷中学校を経て、國學院高等師範学校を卒業した。卒業後は水戸工業学校で教員(国語・漢文)となる。 1938年、歩兵第58連隊少尉として支那事変に従軍した。除隊後、新潟県立糸魚川中学校で教職に復帰する。 1945年7月に再度の招集を受け、広島県からフィリピンに向かう途中で輸送船が魚雷攻撃を受けて沈没する。
桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10… 桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10日 - 1979年2月11日)は新潟県刈羽郡出身の画家。 二科会会員、東京芸術大学教授。ユネスコ・ジュニア文化センター理事長、日本造型教育連盟委員長、教育美術振興会理事。 1929年新潟県立旧制長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業、翌1930年東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科入学。1933年3月卒業。同年、東京市下小岩尋常小学校(現江戸川区立下小岩小学校)教諭。 1935年第22回二科展に「父と子」が入選となり、以後、二科展に毎回出品。 1939年豊島区池袋第五小学校(現豊島区立池袋小学校)教諭。1946年東京第二師範学校教諭。
大橋 隆憲(おおはし りゅうけん、1912年1月22日 - … 大橋 隆憲(おおはし りゅうけん、1912年1月22日 - 1983年3月11日)は、日本の統計学者・僧侶。京都大学名誉教授。 新潟県加茂市生まれ。旧名・栄俊。1935年東京帝国大学文学部宗教学科卒、1940年京都帝国大学経済学部卒、同助手、1942年日本鋼管入社、1949年京都大学経済学部助教授、1965年教授。1963年 経済学博士の学位を取得。1966-1967年経済学部長、1975年定年退官、名誉教授となり、日本福祉大学教授、1982年花園大学教授を務めた。
川口 正吉(かわぐち しょうきち、1912年 - 1982年… 川口 正吉(かわぐち しょうきち、1912年 - 1982年2月25日)は、日本の翻訳家。 新潟県三条市生まれ。中央大学経済学部卒業。英語の小説、ノンフィクションを翻訳。キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』がベストセラーになった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 … 斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 - 2002年4月22日)は、日本の実業家。新日本製鐵(新日鉄、現・日本製鉄)の元社長。経済団体連合会(経団連)第6代会長。 新潟県北蒲原郡安田町(現・阿賀野市)出身。新潟中学校、旧制新潟高等学校を卒業。東京帝国大学法学部(東京大学)の入試に失敗、神戸商業大学に入学するも、翌年、東京帝大経済学部に入学。 経済学部を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)入社。のち、日本製鐵に移り、八幡製鐵専務、新日鉄専務、副社長などを経て社長。2002年4月22日、心不全のため死去。90歳没。 2002年の死去に伴う遺産相続において、長男(当時、新日本製鉄常務)が相続財産の一部である約16億3000万円を申告せず、相続税約9億8000万円を脱税したとして、2005年8月に相続税法違反の罪で在宅起訴された。
高橋 静之助(たかはし せいのすけ、1911年6月19日 -… 高橋 静之助(たかはし せいのすけ、1911年6月19日 - 1991年6月26日 )は、日本の経営者。北越銀行頭取を務めた。 新潟県長岡市出身。1932年に名古屋高等商業学校を卒業し、1933年4月に六十九銀行(のちの北越銀行)に入行。1963年5月に取締役に就任し、1965年11月に常務、1970年11月に専務を経て、1972年11月には頭取に就任。1977年6月から1981年6月までに取締役相談役を務めた。長岡商工会議所会頭、長岡市教育委員長なども歴任。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1991年6月26日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
浅草 〆香(あさくさ しめか、1911年(明治44年)5月7… 浅草 〆香(あさくさ しめか、1911年(明治44年)5月7日-1997年(平成9年)1月20日)は昭和期の芸者歌手。本名は大竹ハルイ。 1911年(明治44年)5月7日、新潟県沼垂町で生まれる。家業が傾いたため福島県会津で芸者となったが、新潟に戻り15歳の6月、芸者置屋「村上家」から「〆香」と名乗って再び芸者になる。その後、新潟村上家〆香の名でコロムビアやリーガルなどで新潟県民謡を吹き込む。映画監督の斎藤寅次郎や小津安二郎らに見出され、1933年(昭和8年)、浅草〆香の名でポリドールから「柳の新潟」「雨の大川端」でデビュー。「東海の顔役」、「流れ三味線」、「大陸夫婦囃子」、「梅雨小袖昔八丈」などを吹き込む。
池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日… 池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日 - 2002年〈平成14年〉2月9日)は、日本のスポーツを中心としたジャーナリスト、出版社経営者。ベースボール・マガジン社(以下、BBM)の創立者。社長・会長を歴任。 相撲評論家の池田雅雄は弟。工藤写真館が実家の妻とは離婚。作家の工藤美代子、BBM2代目社長の池田郁雄、3代目社長の池田哲雄(三男)、翻訳家の池田晶子は実子。スキー選手の猪谷千春は元娘婿。元産経新聞記者でジャーナリストの猪谷千香は孫。英文学者の池田雅之は甥。 新潟県北魚沼郡小出町(現・魚沼市)出身。旧制・新潟県立小千谷中学校を経て、早稲田大学文学部を卒業。大学在学中の1931年に雑誌「野球界」の編集に携わり、雑誌編纂や野球の魅力にとりつかれていく。
曽田 範宗(そだ のりむね、1911年4月28日 - 199… 曽田 範宗(そだ のりむね、1911年4月28日 - 1995年6月30日)は、日本の機械工学者、文化功労者。 新潟県柏崎市出身。1935年東京帝国大学工学部機械学科卒。1941年東京帝大助教授、1949年「摩擦の研究」で工学博士、東大理工学研究所教授、1968年東大宇宙航空研究所長。1972年定年退官、名誉教授、1976年理化学研究所理事、80年同研究顧問、相談役。1981年豊田工業大学客員教授。 1971年『摩擦の話』で毎日出版文化賞受賞、1975年紫綬褒章受勲、1981年勲二等瑞宝章受勲、1989年文化功労者。1968-1971年日本潤滑学会長、1971年日本航空宇宙学会長、1975年日本機械学会長。
北川 省一(きたがわ せいいち、1911年4月7日 - 19… 北川 省一(きたがわ せいいち、1911年4月7日 - 1993年1月5日)は、日本の詩人、良寛研究家。 新潟県刈羽郡柏崎町(現在の柏崎市)生まれ。塗師の父が出奔して母と兄との家庭に育つ。第一高等学校在学時代には絵画、詩を創作。東京帝国大学仏文科に入学するが左翼活動のため1年で中退。郷里で私塾経営などをしたのち再度上京、兵役で千島で特攻訓練をするうち敗戦を迎えた。戦後は郷里で貸本屋をし、たびたび日本共産党から衆議院に立候補するが、田中角栄に敗れ続ける。66歳以後良寛研究家として多くの著書を著す。椎名麟三とは鉄工場の同僚だった。1993年1月5日、胃癌のため死去。 息子は北川フラム。娘の原若菜は原広司夫人であり、その名付け親は中野重治である。
長濱 政壽(ながはま まさとし、1911年1月1日 - 19… 長濱 政壽(ながはま まさとし、1911年1月1日 - 1971年5月21日)は、日本の行政学者、政治学者。京都大学名誉教授。辻清明と並ぶ行政学第2世代の一人。新潟県新潟市生まれ。「長浜 政寿」とも表記される。 1931年、新潟高等学校文科甲類卒業。1934年、京都帝国大学法学部政治科卒業。同年、京都帝国大学法学部助手。1936年、京都帝国大学法学部専任講師。1938年、京都帝国大学法学部助教授に就任。1945年、京都帝国大学法学部教授に就任。1956年、京都大学評議員。1960年、京都大学より法学博士を取得。1961年、国家公務員採用上級甲乙種試験専門試験委員。1967年、京都大学法学部長。1971年、京都大学評議員。
大野 市郎(おおの いちろう、1910年(明治43年)11月… 大野 市郎(おおの いちろう、1910年(明治43年)11月25日 - 1988年(昭和63年)2月9日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(7期)。 新潟県長岡市で大野屋旅館主・大野甚松の孫として生まれた。新潟県立長岡中学校[要出典]を経て1932年(昭和7年)兵庫県立神戸高等商業学校卒業。箱根富士屋ホテルに勤めた。 1936年(昭和11年)静岡県熱海市でホテル大野屋を開業した。1940年(昭和15年)父から大野屋本店社長を継承した。熱海市会議員を務め、1950年(昭和25)熱海商工会議所会頭に就任した。日本温泉協会会長などの役職も務めた[要出典]。 佐藤栄作の秘書を経て1952年(昭和27年)自由党から第25回衆議院議員総選挙に旧新潟3区から出馬して初当選。
小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日… 小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日 - 1997年(平成9年)8月6日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県三島郡寺泊町(現・長岡市)に生まれる。1928年(昭和3年)北海中学校卒業。1935年(昭和10年)中央大学法学部卒業。 中央大学卒業後、東京倉庫運輸株式会社入社。その後、幹部候補生の教育を受けて、陸軍主計大尉として終戦を迎えた。 第二次世界大戦敗戦のショックを経て「これからは余生だ」「人の役に立ちたい」と立候補を決意。1946年(昭和21年)平野力三の自宅を訪れ政治への熱意を語るが、当時新潟には戦前からの有力社会党派閥が既存しており、実績のない小林の入党は断わられる。
富江 利直(とみえ としなお、1910年〈明治43年〉8月1… 富江 利直(とみえ としなお、1910年〈明治43年〉8月15日 - 没年不明)は、新潟県糸魚川市出身の陸上競技(中距離走)選手。1936年ベルリンオリンピックに800メートル競走と1500メートル競走で出場した。 新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現在の糸魚川市大町)出身。糸魚川小学校を経て、糸魚川中学校(現在の新潟県立糸魚川高等学校)卒業。明治大学に進学。 明治大学体育会競走部に所属し、1931年・1932年には日本学生陸上競技対校選手権大会(インカレ)800m走で優勝。東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)には1931年の第12回大会から1935年の第16回大会まで4回出場している(1934年の第15回には出走していない)。
寒川 道夫(さがわ みちお、1910年2月25日 - 197… 寒川 道夫(さがわ みちお、1910年2月25日 - 1977年8月17日)は、日本の教育者、児童文学作家。 新潟県中蒲原郡新津町(現・新潟市秋葉区)に教育者の長男として生まれた。1921年三島郡大河津村(現・長岡市)五社小学校卒。1926年長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)卒。1927年古志郡田井尋常高等小学校(現・見附市立田井小学校))の代用教員になる。1930年高田師範学校卒。同年古志郡一之貝小学校(栃尾市立一之貝小学校(廃校))、1932年同郡村立黒条尋常小学校(現・長岡市立黒条小学校)の教師となり、生活綴方運動に参加。詩集『山芋』の作者の大関松三郎を指導した。 1941年治安維持法違反(生活綴方事件)で2年間獄中生活を送り教職を追われた。
高橋 清一郎(たかはし せいいちろう 1910年2月3日 -… 高橋 清一郎(たかはし せいいちろう 1910年2月3日 - 1972年10月29日)は、衆議院議員を5期務めた日本の政治家である。 1910年(明治43年)2月、新潟市に生まれる。私立新潟夜間中学校、高検を経て新潟高等学校卒業。1936年(昭和11年) 京都帝国大学法学部卒業。 1937年(昭和12年)、南方に出征。 1947年(昭和22年)、新潟県議会議員・新潟市議会議員。1958年(昭和33年)5月、第28回衆議院議員総選挙で新潟1区初当選(無所属)し、以後5期連続で務める。 1964年(昭和39年)7月、第3次池田改造内閣防衛政務次官。同年11月、第1次佐藤内閣防衛政務次官。1967年(昭和42年)11月、第2次佐藤第1次改造内閣郵政 政務次官。
野中 到(のなか いたる、1910年2月1日 - 1989年… 野中 到(のなか いたる、1910年2月1日 - 1989年7月22日)は、日本の原子物理学者で、東京大学の原子核研究所長も務めた。 新潟県長岡市出身。1933年東京帝国大学理学部物理学科卒業。1944年「速い中性子の散乱について(英文)」で東大理学博士。東芝電気中央研究所、1950年九州大学理学部助教授、教授、1961年東京大学教授兼原子核研究所長。1971年定年退官、名誉教授、千葉大学教授。1975年定年退官。原子核やX線の研究をした。1982年勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
佐藤 哲三(さとう てつぞう、1910年1月26日 - 19… 佐藤 哲三(さとう てつぞう、1910年1月26日 - 1954年6月25日)は、日本の洋画家。新潟県長岡市に生まれ、新発田市で生涯を過ごす。蒲原平野や農民などを主なモチーフとし、郷土に根ざした作品を制作した。1954年、白血病で死去。 1910年(明治43年)1月26日、新潟県古志郡長岡町(現:長岡市)に新発田藩士の末裔である父、佐藤英雄、母、菊乃との間に五人兄弟姉妹の三男として生まれる。父親は哲三の出生後まもなく台湾へ渡る。その翌年、母親は哲三とその兄姉を連れて新発田市に移転。1914年、哲三は脊椎カリエスを患い、背骨に障害を負う。1916年に父親が帰国、一家は新発田上町に移転し、書画骨董店『十万堂』を開業する。
近藤 敬四郎(こんどう けいしろう、1910年 <明治43年… 近藤 敬四郎(こんどう けいしろう、1910年 <明治43年> 1月2日 - 1991年 <平成3年> 4月2日)は、日本の経営者、銀行家。新潟県長岡市出身。位階は従五位。 1936年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に六十九銀行(のちの北越銀行)に入行。 1965年11月に取締役に就任し、1968年12月に常務、1972年11月に専務を経て、1977年6月には頭取に就任。1981年6月には相談役に就任。 1982年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1991年4月2日心不全のために死去。81歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1… 加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1986年1月3日)は、新潟県出身の俳人。本名チヨセ。旧姓・矢野。東頸城郡安塚(現上越市)生。1929年、加藤楸邨と結婚。1931年、句作をはじめ「若竹」「馬酔木」に投句。1940年、楸邨の「寒雷」創刊とともに参加。1954年、池上不二子、柴田白葉女らと「女性俳句」を創刊、編集に携わる。句集に『冬萌』『朱鷺』『太麻由良』『夢たがへ』『飛燕草』『頬杖』がある。 1986年1月3日没、墓所は東京都世田谷区の九品仏浄真寺。
稲葉 修(旧字体: 稻葉 修、いなば おさむ、1909年〈明… 稲葉 修(旧字体: 稻葉 修、いなば おさむ、1909年〈明治42年〉11月19日 - 1992年〈平成4年〉8月15日)は、日本の政治家、文部大臣(第94代)、法務大臣(第34代)、衆議院議員(14期)。法学博士。 兄の稲葉圭亮も政治家で衆議院議員だった。長男は元衆議院議員の稲葉大和。 1909年11月19日、現在の新潟県村上市に生まれる。村上中学、旧制山形高校といずれの学校でもいわば武勇伝(中学では生徒会長として祭りの日に学校を休みにしろと同盟休校を主導したため、高校ではカンニングが発覚したため)での中途退学を経て、1936年中央大学法学部独法学科を卒業。1940年中央大学大学院を修了。1945年中央大学教授に就任。
石本 省吾(いしもと せいご、1909年〈明治42年〉10月… 石本 省吾(いしもと せいご、1909年〈明治42年〉10月20日 - 1985年〈昭和60年〉6月24日)は、日本の酒造家。石本酒造2代目社長。幻の酒「越乃寒梅」を造り上げる。 新潟県中蒲原郡大江山村大字北山新田(現 新潟市江南区北山)の蔵元・石本酒造に生まれる。 1928年(昭和3年)3月に新潟中学校を卒業、4月に明治大学予科に入学、中学校の時に引き続き端艇部に入部、アムステルダムオリンピックのボート競技の国内予選で敗退、端艇部を退部、山岳部に入部。 1933年(昭和8年)3月に明治大学政治経済学部を卒業、石本酒造2代目社長に就任、1944年(昭和19年)から新潟中学校の先輩で新潟財務局技手の田中哲郎の指導を受け、太平洋戦争後、銘酒「越乃寒梅」の改良を開始。
佐渡ヶ嶌 林蔵(さどがしま りんぞう、1909年10月5日 … 佐渡ヶ嶌 林蔵(さどがしま りんぞう、1909年10月5日 - 1955年3月17日)は、新潟県佐渡郡(現・佐渡市)出身で浅香山部屋、井筒部屋に所属した力士。本名は佐々木 林蔵。182cm、98kg。最高位は西前頭12枚目。 1933年1月初土俵。軍隊を終えた後だったため、23歳と遅い入門だった。入門した浅香山部屋が同年7月師匠(元横綱三代目西ノ海)の急逝により閉鎖されたため、井筒部屋に移籍した。左四つの吊り寄りが得意であったが、けたぐりの飛び道具もしばしば見せた。熱心な稽古の甲斐があって1939年1月十両昇進、1940年5月新入幕を果たし、翌1941年1月には最高位となる西前頭12枚目に昇進し、横綱男女ノ川と大関五ッ島を倒す殊勲を演じたものの4勝11敗と大きく負け越した。
氏田 良隆(うじた よしたか、1909年(明治42年)3月2… 氏田 良隆(うじた よしたか、1909年(明治42年)3月22日 - 没年不明)は、日本の政治家。新潟県両津市(現・佐渡市)長(4期)。 新潟県出身。1923年、加茂村(のち両津市、現・佐渡市)立尋常高等小学校卒。1933年、加茂村役場書記となり、のちに白瀬水電(株)に入り、会計課長となった。戦後の1947年、加茂村議会議員に当選、議長を務めた。1951年、加茂村長となる。1954年、加茂村は合併により、両津市が発足。合併後の市長選挙に立候補し、当選する。1958年に再選し、1962年は出馬しなかった。この間、新潟東観光(株)取締役、佐渡汽船(株)監査役を歴任した。4年後の1966年に両津市長に復帰、1970年に再選し、市長を1974年まで務めた。
伊東 多三郎(いとう たさぶろう、1909年2月10日 - … 伊東 多三郎(いとう たさぶろう、1909年2月10日 - 1984年10月29日)は、日本史学者、東京大学名誉教授。専門は日本近世史。研究分野は、近世の文化史・社会史から政治史に、そして経済史にまで及ぶ広範囲なものであった。この他、自治体史編纂にも積極的に取り組み、『水戸市史』『小千谷市史』『新潟県史』の編纂に関わった。 新潟県古志郡富曽亀村亀貝(のち長岡市亀貝町)に伊東三次郎の長男として生まれた。1921年旧制長岡中学入学、1925年旧制新潟高等学校文科乙類入学、1928年卒業。1931年東京帝国大学文学部国史科卒業、大倉精神文化研究所の嘱託となる。翌1932年に卒業論文『国学の史的考察』(大岡山書店、1932年)を刊行し、東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託。
番神山 政三郎(ばんしんざん せいざぶろう、1909年1月1… 番神山 政三郎(ばんしんざん せいざぶろう、1909年1月17日 - 1982年1月7日)は、新潟県刈羽郡(現:新潟県柏崎市)出身の元大相撲力士。本名は長谷川 政三郎(はせがわ せいざぶろう)。 1909年1月17日に新潟県刈羽郡(現:新潟県柏崎市)で生まれる。尋常高等小学校を卒業後に前橋の作り酒屋へ奉公に出たが、周囲から勧められて出場した宮相撲で優勝したところを雷部屋の元力士・群馬ヶ嶽に見出されて雷部屋に入門、1927年1月場所で初土俵を踏んだ。入門から僅か半年後に雷が死去すると、所属していた力士全員が白玉部屋へ転属、ところが白玉もまもなく没したことから八角部屋へ再転属するなど、いくつかの部屋を転々とする生活が続いた。
星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 199… 星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 1998年12月17日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 新潟県長岡市生まれ。旧制新潟県立長岡中学校、旧制新潟高等学校を経て、1932年東京帝国大学文学部独逸文学科卒業。旧制成城高等学校教授、埼玉大学文学部教授、東京教育大学教授。1961年「ライナー・マリア・リルケの伝記的研究」により東京大学文学博士。1971年頃教育大を定年後、南山大学教授を務め、1991年長岡市史編集委員長。1998年、89歳で没。1999年、星野の蔵書が長岡市立中央図書館に寄贈され、星野慎一文庫と名付けられた。 リルケなどドイツの詩を翻訳研究するほか、短歌、俳句にも関心が深かった。