岩田 大中(いわた だいちゅう、1871年6月23日(明治4… 岩田 大中(いわた だいちゅう、1871年6月23日(明治4年5月6日) - 1945年(昭和20年)8月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。幼名・徳太郎。 越中国礪波郡今石動町(富山県西礪波郡石動町を経て現小矢部市)で岩田安益の長男として生まれた。明治末に富山市山王町に転籍した。 専修学校(現・専修大学)理財科で学び、1888年に卒業。小間物商と売薬商を営む。1907年9月、富山県会議員に当選した。1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙において富山市選挙区から立憲政友会公認で立候補して落選。1910年(明治43年)5月、富山市会議員に当選した。1911年(明治45年)9月に県会議員を退任した。
横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈18… 横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈1871年4月10日〉- 大正4年〈1915年〉6月3日)は、富山県中新川郡魚津町(現在の魚津市)出身のジャーナリスト。号は天涯茫々生。他に有磯逸郎・無膓・夢蝶・漂天痴童・樹下石上人といった筆名を用いた。 魚津の網元の家に私生児として生まれ、すぐに左官職人の横山伝兵衛の養子となる。1881年、魚津明理小学校を卒業後、商家(醤油醸造業)に住み込み奉公をしながら独学し、1885年に富山県立富山中学校に1期生として入学する。しかし2年生の時に中退、代言人(弁護士)を目指して上京し、英吉利法律学校(現在の中央大学)に学ぶ。その後、弁護士試験を数度にわたって受験するが合格できず、各地を放浪する。
南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日〈明治2年10… 南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日〈明治2年10月10日〉- 1946年〈昭和21年〉2月8日)は、日本の官僚・政治家。 後の富山県氷見市仏生寺の豪農岩間覚平の次男・鉄郎として生まれる。岩間家は3代にわたり県会議員を輩出した名望家で、広大な屋敷地や山林を所有していた。生家の近くに御田神社があり、幼少時よりその宮司平井正承の教えを受けた。その後仏生寺小学校、富山中学校、第四高等学校に進み、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、文官高等試験に合格し官僚となった。 その後、同県高岡の旧家出身で第2代富山県会議長を務めた南兵吉の養子となり、その長女・操と結婚した際、「弘」と改名した。
伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1… 伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1月23日〉- 1945年〈昭和20年〉1月25日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。幼名・柳太郎。 越中国新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町沼保)で、温泉業・伊東次郎左衛門祐明の長男として生まれる。祐明の養子・祐寛の相続人となり1891年(明治24年)家督を相続した。岡田信之に師事し漢籍を修めた。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業し、上京して専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。 家業の小川温泉の経営を行う。1912年(明治45年)の大洪水で小川温泉が多大な損害を受けたため、移転も検討されたが泊町での再建が決定され、1913年(大正2年)7月、小川温泉株式会社が設立され社長に就任した。
筏井 甚吉(いかだい じんきち、1867年9月12日(慶応3… 筏井 甚吉(いかだい じんきち、1867年9月12日(慶応3年8月15日) - 1914年(大正3年)2月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 越中国礪波郡福野村(富山県東礪波郡福野町を経て現南砺市)で福冨平一郎の二男として生まれ、18歳で現在の高岡市宮脇町の先代・筏井甚吉の養子となり、翌年、甚吉を襲名した。漢学を学ぶ。高岡市会議員、同議長、同参事会員、富山県会議員、高岡市長となる。また、中越汽船(株)、高岡貯蓄銀行各取締役、高岡電燈(株)、高岡銀行各監査役、高岡市教育会長、富山県工業会副会頭を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において高岡市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。
磯千鳥 重五郎(いそちどり じゅうごろう、1867年(慶応2… 磯千鳥 重五郎(いそちどり じゅうごろう、1867年(慶応2年12月)- 1922年(大正11年)9月)は、明治時代の大相撲力士。本名笹島 重太郎。最高位十両5枚目。年寄9代玉ノ井。 富山県砺波郡東石黒村(のち西砺波郡東石黒村→東砺波郡福野町、現南砺市)生まれ。玉ノ井部屋に入門し、1889年1月磯千鳥の四股名で序ノ口に就く。1895年幕下に上がる。1900年に師匠玉ノ井が亡くなり、1902年1月より二枚鑑札となり玉ノ井に改名。1902年5月新十両。十両在位3場所で幕下に陥落し、最終的には1909年6月場所で三段目にまで陥落して引退し、年寄専務になる。 1922年9月死去、55歳没。
上埜 安太郎(うえの やすたろう、1866年1月27日(慶応… 上埜 安太郎(うえの やすたろう、1866年1月27日(慶応元年12月11日) - 1939年(昭和14年)4月4日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。富山県高岡市長。富山市長。族籍は富山県平民。 越中国礪波郡上向田村(富山県西礪波郡西五位村、福岡町を経て現高岡市福岡町)出身。上埜次平の長男。家は農を業とし、蚕業を営んでいた。自由党に加入して、富山県内の党勢拡大に貢献した。養蚕業を営み、県下の大地主であり、1887年(明治20年)、初めて富山県会議員に当選、副議長、議長を歴任し、庄川改築工事や富直鉄道建設計画に尽力した。また北陸公論を創刊してその社長となり、さらに越中新報社、東洋漁業会社などの経営に当たった。
牧野 平五郎(まきの へいごろう、1864年9月1日(元治元… 牧野 平五郎(まきの へいごろう、1864年9月1日(元治元年8月1日)- 1928年(昭和3年)5月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、富山市長。 越中国新川郡富山風呂屋町(現富山県富山市堤町通り)で、町年寄・牧野正貫(まさつら)の長男として生まれる。漢学、数学を修めた。家業の呉服業を営む。その他、十二銀行取締役、北陸商業銀行取締役、第四十七国立銀行取締役、富山電灯取締役、中越鉄道取締役、北陸生命保険取締役、富山鉄道取締役、富山米穀肥料取引所監査役、富山商業会議所副会頭などを務めた。また、富山実業新聞を創刊した。 政界では、1892年5月、富山市会議員に選出され、18年間在職し、同議長、富山県会議員、同議長も務めた。
広瀬 鎮之(廣瀬 鎭之、ひろせ ちんし、1864年7月11日… 広瀬 鎮之(廣瀬 鎭之、ひろせ ちんし、1864年7月11日(元治元年6月8日)- 1930年(昭和5年)10月21日)は、日本の実業家、漁業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国射水郡藪田村(のち富山県氷見郡藪田村、現:氷見市)で、素封家・広瀬義太郎の長男として生まれる。小学校を卒業し、金沢で漢学を、東京で禅学、語学を学んだ。 1885年頃、同郷の浅野総一郎が経営する秋田の鉱山で支配人に就任。日清戦争後、浅野らと台湾で事業を展開し、台北電燈取締役、台北米穀市場理事などを務めた。1910年、氷見に三漁組を設立して漁業経営を行った。その他、光針製造取締役、日本電気興業取締役、東方公司取締役、樺太炭礦取締役などを歴任した。
内山 松世(うちやま まつよ、元治元年2月14日〈1864年… 内山 松世(うちやま まつよ、元治元年2月14日〈1864年3月21日〉 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。旧姓・小池、号・外川(がいせん)。書家としても知られ岡崎藍田と富山県内の双璧とされる。 越中国婦負郡宮尾村(富山県婦負郡百塚村、八幡村、和合町を経て現富山市)出身。富山藩士・小池春香の長男として生まれ、豪農・内山年彦の養子となる。京都に遊学し草場船山に師事した。慶応義塾で学ぶ。農業を営み、婦負郡会議員、婦負郡農会副会頭、富山県農工銀行頭取、富山銀行取締役、日本勧業銀行地方顧問となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において富山1区から進歩党公認で立候補して初当選する。
初代 金岡 又左衛門(かなおか またざえもん、1864年2月… 初代 金岡 又左衛門(かなおか またざえもん、1864年2月29日(元治元年1月22日)- 1929年(昭和4年)6月10日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。幼名・米太郎。 越中国新川郡新庄新町村(富山県上新川郡新庄町を経て現富山市新庄町)で、薬種業・金剛寺屋又右衛門、たみ夫妻の長男として生まれる。1879年(明治12年)9月20日、16歳で父が死去して又左衛門に改名し家業を継いだ。1879年(明治12年)富山医学所に入学したが、1881年(明治14年)4月同校の廃校により退学を余儀なくされた。その後、林周平から3年ほど漢学を学んだ。 密田孝吉との出会いで電気事業に関心を持ち、1897年(明治30年)11月に富山電灯(のち日本海電気)を設立して社長に就任した。
南嶋 間作(みなみじま まさく、1863年7月31日(文久3… 南嶋 間作(みなみじま まさく、1863年7月31日(文久3年9月13日)- 1899年(明治32年)2月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 越中国射水郡新湊放生津町(石川県射水郡新湊放生津町、富山県射水郡新湊放生津町、新湊町、新湊市を経て現射水市放生津町)で、徳三の長男として生まれた。岡田呉陽に漢学を学んだ。高岡(現高岡市)の商家で奉公し、その後、大阪・渋谷塾で数学を学び、東京・豊国校で簿記学を慶應義塾で政治学・経済学を学んだ。1886年(明治19年)父の病のため帰郷した。 新湊町立卓立小学校長、同廉貞小学校長に就任。1888年(明治21年)四日曽根小学校長、荒屋小学校長を兼務。1889年(明治22年)小学校長を辞職し、上海で海運事情を視察して帰国した。
漆間 民夫(うるま たみお、1863年7月31日(文久3年6… 漆間 民夫(うるま たみお、1863年7月31日(文久3年6月16日)- 1926年(大正15年)7月26日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・守太郎。号・履堂、千畝。生地銀行創立者。 越中国新川郡生地村(石川県新川郡生地村、下新川郡生地村、富山県下新川郡生地村、生地町を経て現黒部市生地)で、素封家、酒造業・漆間次郎右衛門の長男として生まれた。1877年(明治10年)岡田呉陽の塾に入門。1883年(明治16年)上京して明治義塾で学び馬場辰猪から薫陶を受けた。 島田孝之、田村惟昌らと自由民権運動に尽力。富山県奨学委員、生地村外4ケ村奨学委員、富山県免囚保護会評議員を務めた。
西能 源四郎(さいのう げんしろう、1859年12月4日(安… 西能 源四郎(さいのう げんしろう、1859年12月4日(安政6年11月11日)- 1916年(大正5年)12月6日)は、日本の実業家、政治家。富山県会議員や衆議院議員を務め、両砺銀行を設立し頭取となった。幼名・源之助、本名・義彰、通称・源四郎。号・五州、士強、耕萬里。 越中国礪波郡広安村(のち富山県東礪波郡福野町を経て、現南砺市)で、先代・西能源四郎の長男として生まれる。11歳で父が死去したため、母の実家で養育され、祖父・天富鼎太郎の薫陶を受けた。その後、富山藩儒・岡田呉陽の家塾で漢文、詩文を修めた。 自由民権運動に加わり、島田孝之らの越中改進党に参加した。富山県会議員を3期務めた(明治19年9月〜同12年2月、同21年3月〜同25年6月、同29年8月〜同年10月)。
2代 高広 次平(たかひろ じへい、1859年2月19日(安… 2代 高広 次平(たかひろ じへい、1859年2月19日(安政6年1月17日) - 1920年(大正9年)8月26日)は、明治時代後期から大正時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 越中国礪波郡福岡町(富山県西礪波郡福岡町を経て現高岡市)に生まれ、高広彦八の長男彦造の婿養子となり、のち襲名する。福岡町会議員を経て、1889年(明治22年)初代福岡町長に就任する。1895年(明治28年)福岡同盟銀行を創業し頭取に就任。ほか、北陸海上保険社長、広通、高岡共立銀行、中越鉄道各取締役などを歴任した。 1900年(明治33年)富山県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年6月13日から1903年(明治36年)2月6日まで在任した。
6代 菅野 伝右衛門(すがの でんえもん、1859年(安政6… 6代 菅野 伝右衛門(すがの でんえもん、1859年(安政6年3月) - 1900年(明治33年)10月10日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。本名は友次郎。 のちの富山県高岡市木舟町に生まれる。1889年(明治22年)、正村五平と共に高岡銀行を設立。1893年(明治26年)には高岡紡績を創立した。さらに翌年、高岡経済会を組織し、1896年(明治29年)高岡商業会議所初代会頭に就任した。ほか、高岡市参事会員、同学務委員、富山県会議員などを歴任した。 1897年(明治30年)には富山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1900年(明治33年)3月19日まで在任した。
大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年… 大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年4月14日(安政5年3月1日)- 1940年(昭和15年)2月2日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、漢詩人。衆議院議員、富山県会議長。号・二水(にすい)、鹿陽(ろくよう)。 越中国射水郡掛開発村(富山県射水郡掛開発村大字掛開発村を経て現高岡市)で、町年寄・鷲塚屋七右衛門の息子として生まれた。1879年(明治12年)京都の草場船山に師事し漢文学を修めた。その後、東京で英学を学び、犬養毅らと交友した。 1881年(明治14年)帰郷して海内果から示唆を受け、高岡町片原横町に中等教育塾・越中義塾を設立して教育を行うが、1883年(明治16年)旧制富山中学校(現富山県立富山高等学校)が開校して生徒数が減少し、1884年(明治17年)に塾を閉じた。
大矢 四郎兵衛(おおや しろべえ、1858年2月2日(安政4… 大矢 四郎兵衛(おおや しろべえ、1858年2月2日(安政4年12月19日) - 1930年(昭和5年)9月25日)は、日本の富山県出身の実業家、政治家。衆議院議員。 礪波郡鷹栖村(現・砺波市)の大地主の家庭に次男として生まれる。父と兄を早くに失い、14歳で家督を相続する。金沢の私塾「竹下塾」に遊学ののち、帰郷して1885年(明治18年)、富山県会議員に当選した。1892年に落選後、1894年に鷹栖村長となり、1895年に県会議員に再度当選し、議長に就任している。 1898年(明治31年)の第6回衆議院議員総選挙に憲政本党より富山県第4区から立候補して当選し、1903年まで3期務めた(選挙区は、第7回総選挙では富山県郡部第5区、第8回総選挙では富山県郡部第2区)。
浅野 長太郎(あさの ちょうたろう、1856年9月7日(安政… 浅野 長太郎(あさの ちょうたろう、1856年9月7日(安政3年8月9日) - 1932年(昭和7年)3月18日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 越中富山藩領婦負郡笹倉村(富山県婦負郡速星村、婦中町を経て現富山市)で、大地主・浅野為都(ためと)の長男として生まれる。 1884年(明治17年)以降、笹倉村会議員、同議長、速星村会議員、同村長、富山県会議員(3期)、婦負郡会議員、同議長代理、速星村農会長、同学務委員などを歴任した。 1906年(明治39年)富山県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年12月13日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
田村 惟昌(たむら これまさ、1856年4月6日(安政3年3… 田村 惟昌(たむら これまさ、1856年4月6日(安政3年3月2日)- 1926年(大正15年)7月30日)は、明治から大正時代の政治家。新聞経営者。衆議院議員(4期)。 越中国新川郡、のちの富山県下新川郡経田村(現魚津市)の濱名家に生まれ、のち伯父の田村家の養子となる。富山藩儒・岡田呉陽の門に入り学んだ。1874年(明治7年)新川県第三大区副区長、1875年(明治8年)9月、学区取締を経て、1878年(明治11年)新川郡書記に就任する。1881年(明治14年)3月、有志と共に協同会を組織し同会長となり政治活動に奔走する。ついで富山県会議員に当選し、同常置委員、副議長などを歴任した。ほか、富山日報社社長を務めた。
安念 次左衛門(あんねん じざえもん、1855年10月31日… 安念 次左衛門(あんねん じざえもん、1855年10月31日(安政2年9月21日) - 1934年(昭和9年)1月23日)は、日本の実業家。政治家、衆議院議員(2期)。子に安念精一。 越中国礪波郡、のちの富山県東礪波郡太田村(砺波町を経て現砺波市)出身。安念次郎左衛門の次男として生まれ、先代の安念次左衛門の養子となる。1876年、石川県師範学校卒。町村連合会議員、石川県会議員、富山県会議員、中越鉄道(株)、中越銀行、富山日報を創立し、重役となる。 1903年の第8回衆議院議員総選挙において富山県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙で再選した。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。
猫又 三吉(ねこまた さんきち、1855年1月8日(嘉永7年… 猫又 三吉(ねこまた さんきち、1855年1月8日(嘉永7年11月20日) - 1909年(明治42年)10月9日)は越中国射水郡横田村(現・富山県高岡市横田)出身の大相撲力士。本名は江川三吉(のち八島姓)。大阪相撲で活躍し最高位は大関。珍名で知られる。 9代小野川に入門。初名を小猫 三吉と名乗り1873年(明治6年)7月中相撲四段目が初見。1876年(明治9年)の紛擾で脱走、高越山谷五郎一派に参加し猫又 三吉と改めた。 1878年(明治11年)9月の和解本場所には姿を見せず翌1879年(明治12年)9月いきなり前頭筆頭に出た。1883年(明治16年)8月小結、1884年(明治17年)9月関脇、1886年(明治19年)11月31歳で大関となった。
高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(185… 高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の化学者、実業家。工学博士号と薬学博士号を受ける。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。日本人による開発型ベンチャー企業やスタートアップの先駆者とされる。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。 現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒、応用化学を専攻し、社会人となってから3年間、官費で留学。 1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。
西田 収三(收三、にしだ しゅうぞう、1854年7月19日(… 西田 収三(收三、にしだ しゅうぞう、1854年7月19日(安政元年6月25日) - 1925年(大正14年)6月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越中国新川郡舌山新村(のち富山県下新川郡若栗村→桜井町、現・黒部市)出身。漢学と英語を学ぶ。生家は地主で酒造業を営んだ。学務委員、若栗村外二十三ヶ村戸長、同村会議員、下新川郡会議員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において富山2区から進歩党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1925年に死去した。
坂井 敬義(さかい たかよし / けいぎ、1853年3月21… 坂井 敬義(さかい たかよし / けいぎ、1853年3月21日(嘉永6年2月12日)- 1925年(大正14年)7月19日)は、明治から大正期の地主、政治家。衆議院議員、富山県射水郡下村長。 越中国射水郡下村宿(富山県射水郡下村を経て現射水市)で、本陣を務めた坂井家に生まれた。富山藩儒・岡田呉陽に師事し漢籍を修めた。 1873年(明治6年)新川県14大区副戸長に就任。自由民権運動に加わる。1884年(明治17年)富山県会議員に選出された。1899年(明治32年)1月10日から同年1月27日まで下村村長に就任。同村会議員も務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(富山県第3区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任。
瀬木 博尚(せき ひろなお、嘉永5年10月6日〈1852年1… 瀬木 博尚(せき ひろなお、嘉永5年10月6日〈1852年11月17日〉 - 1939年〈昭和14年〉1月22日)は博報堂の創業者。富山県富山市桃井町出身。 富山藩士の瀬木博重の長男として生まれる。 富山の役人を経て、明治27年(1884年)に上京し、星亨の「めさまし新聞」に入社。 明治28年(1895年)10月に東京都日本橋本銀町に教育雑誌の広告取次店「博報堂」を開業。明治30年(1897年)、神田区末広町に移転。明治43年(1910年)、日刊『内外通信』を発刊、社名を「内外通信社」と改称する。なお、広告部門には「広告部博報堂」の名称を継続使用した。大正3年(1914年)、神田区錦町に移転。大正13年(1924年)、株式会社化し、初代取締役社長に就任。
内山 正治(うちやま しょうじ、1851年6月30日(嘉永4… 内山 正治(うちやま しょうじ、1851年6月30日(嘉永4年6月2日)- 1911年(明治44年)1月8日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国婦負郡石坂村(富山県婦負郡石坂村、桜谷村を経て現富山市)で、十村役を務めた内山吉治の息子として生まれた。1864年(元治元年)富山藩の高島流兵式練修を命じられ、さらに仏式兵法を修めた。農業を営む。 1876年(明治9年)石川県越中第11大区戸長に就任。石坂村外11カ村戸長、田刈屋外23カ村戸長を歴任。その他、学務委員、村会議員、町村組合会議員、所得税調査委員、用水組合会議員なども務めた。 1888年(明治21年)富山県会議員に選出され、1892年(明治25年)まで在任。
磯部 四郎(いそべ しろう、1851年6月25日(嘉永4年5… 磯部 四郎(いそべ しろう、1851年6月25日(嘉永4年5月26日) - 1923年(大正12年)9月1日)は、日本の法学者。大審院検事・判事。弁護士。法典調査会委員。衆議院議員。貴族院勅選議員。 娘婿は政治家の磯部尚、孫は歌舞伎役者の二代目坂東市太郎。 花札賭博が大好きで、大審院検事のとき、大審院長や同僚を誘い、柳橋で芸者をあげて遊興三昧のあげく、辞職に追い込まれた。それでも花札は終生止められず、明治天皇にまで教え、いたく興味をもたれたという。 1892年(明治25年)の弄花事件は、前年の大津事件の報復とも、大審院内部の判事対検事の抗争とも言われるが、磯部の免官は、この事件で訴追側の検察内部に疑惑の中心人物がいては不都合だったためとも考えられる。
橘 清治郎(たちばな せいじろう、1850年6月29日(嘉永… 橘 清治郎(たちばな せいじろう、1850年6月29日(嘉永3年9月25日)- 1928年(昭和3年)5月30日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・吉田。 越中国礪波郡中田町(富山県東礪波郡中田町を経て現高岡市)で吉田要蔵の二男として生まれる。射水郡、のちの守山村(現:高岡市)の米穀商・砂紋四郎家に住み込みで奉公し、同村の農業・安右衛門の養子となり、文久2年3月(1862年3-4月)家督を相続。1872年(明治5年)橘姓で戸籍の届け出を行った。 米の仲買人として成功して一代で財産を築いた。越中物産取締役、北越人造肥料取締役、高岡銀行取締役、高田共立銀行監査役なども務めた。
島田 孝之(しまだ たかゆき、嘉永3年5月3日(1850年6… 島田 孝之(しまだ たかゆき、嘉永3年5月3日(1850年6月12日) - 明治40年(1907年)1月15日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党)、実業家。字は維則、号は克堂・湘洲・鴎東など。 越中国礪波郡島新村(現在の富山県高岡市)出身。明治8年(1875年)に新川県教務監督となるが、翌年に新川県が石川県に吸収されて廃県になると、県令山田秀典の新たな赴任先の青森県に随行し、野辺地警察署長に就任した。明治14年(1881年)に辞任して郷里に帰り、自由民権運動に参加し、北辰社を結成した。翌年、北辰社は他の結社と合同して越中改進党となり、幹事の島田は石川県会議員に選出された。明治16年(1883年)に富山県が置かれると、富山県会議員となり、3期務めた。
稲垣 示(いながき しめす、嘉永2年8月20日(1849年1… 稲垣 示(いながき しめす、嘉永2年8月20日(1849年10月6日) - 明治35年(1902年)8月9日)は、明治時代の政治家。衆議院議員。幼名は恒太郎。号は虎岳(こがく)。 越中国射水郡棚田村(後に富山県射水郡二口村、大門町を経て現在の射水市)出身。野上文山らに学び、明治維新後は新川県小学校教員講習所・石川県農業講習所に学ぶ。 板垣退助に呼応して自由民権運動に参加して、明治13年(1880年)に愛国社第4回大会に参加、高岡にて政治結社「北立社」を結成する。翌年の自由党結成に参加、明治15年(1882年)1月には北立社を自由党支部である「北立自由党」へ改組して瑞龍寺において結党大会を開いた。
松村 精一郎(まつむら せいいちろう、嘉永2年(1849年)… 松村 精一郎(まつむら せいいちろう、嘉永2年(1849年) - 1891年(明治24年)5月10日)は明治時代の漢学者、聾啞教育者。越中国福光町(富山県南砺市)出身。幼少時奇病により聾啞者となる。稲坂謙吉、中村正直等に学び、金沢に聾学校金沢盲啞院を創立したが、2年で廃校となり、その後福光、富山、金沢で漢詩文を教え、また一時期富山で『中越新聞』客員を務めた。 嘉永2年(1849年)越中国砺波郡福光村新町(富山県西砺波郡福光町新町村44番地)旧家松村与三郎の次男として生まれた。5歳で宮永菽園に経史の句読を学んだが、6歳で天然痘に罹患、奇病を併発し、7年間病床に伏した結果、聴覚・発話・歩行に障害を負った。
10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29… 10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29日(弘化4年6月18日)- 1904年(明治37年)10月20日)は、日本の実業家・慈善家。総合建設会社(ゼネコン)の佐藤工業株式会社創業者。富山県砺波郡柳瀬(現砺波市)生まれ。多くの橋の架設に私費を投じ、又、本願寺富山別院が焼失した際、2ヵ月後に「蓮如上人400回忌法要」という大行事を控えていた本願寺の為に結果的に無償で昼夜突貫で再建した。 1500年代の佐藤家の祖佐藤助左衛門から数えて9代目佐藤助九郎の子で、名は10代目貞次であるが、佐藤工業の創業者、初代助九郎と称している。 貞次は近郷に並ぶ者のない豪力と胆力の優れた父の資質を受け継ぎ、相撲・盤持ちなどを得意とし“力持ち貞次”といわれた。
2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月… 2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月8日(弘化3年11月22日) - 1916年(大正5年)5月20日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は吉次郎。 北前船主馬場九兵衛の二男として越中国新川郡東岩瀬村(富山県上新川郡東岩瀬村、東岩瀬町を経て現富山市)に生まれる。長男大次郎の病死により7代九兵衛(初代道久)の跡を継いだ。1881年(明治14年)北陸通船会社創設に資金援助し、北陸における小蒸気船、貨物蒸気船の導入を進めた。1885年(明治18年)上野から直江津間の鉄道が開通すると翌年、伏木の二上兵吉とともに直江津までの小蒸気船業の経営に当たる。
服部 嘉十郎(はっとり かじゅうろう、弘化2年(1845年)… 服部 嘉十郎(はっとり かじゅうろう、弘化2年(1845年) - 明治13年(1880年))は、越中国高岡(現在の富山県高岡市)の文化・教育などに功績のあった江戸時代・明治時代の町役人・政治家。高岡城址を公園として整備した「高岡古城公園」の創設者である。 高岡由緒町人天野屋の13代目として、弘化2年(1845年)8月9日に生まれる。父は高岡町藩政時代最後となる総町年寄、服部三郎左衛門元業、母は同じく由緒町人富田家(横町屋)8代善五郎の長女、民子である。名は元善、初め嘉十郎を通称とし、のちに伝兵衛、再び嘉十郎と改めた。姉に正子、妹に利久子がいたがいずれも夭折したため、嘉十郎は一人息子と同じように育った。
井上 清治(いのうえ せいじ / きよはる[要出典]、184… 井上 清治(いのうえ せいじ / きよはる[要出典]、1844年11月5日〈弘化元年9月25日〉 - 1913年〈大正2年〉1月12日)は、明治から大正初期の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。号・松龍、勲等は勲四等。 越中国婦負郡御門村(富山県婦負郡速星村、婦中町を経て現富山市婦中町速星)で、井上清六の二男として生まれ、豪農の井上家26代・井上清治の養子となり、家督を相続して清治を襲名し27代当主となる。 1884年(明治17年)婦負郡中名村ほか37ヵ村戸長に就任し、以後、同郡学務委員、速星村会議員、婦負郡会議員などを務めた。 1903年(明治36年)補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、同年5月5日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
原 弘三(はら こうぞう、1841年1月21日(天保11年1… 原 弘三(はら こうぞう、1841年1月21日(天保11年12月29日)- 1915年(大正4年)7月30日)は、幕末の僧、明治期の公吏・政治家・銀行家。衆議院議員。幼名・僧云(そううん)。 越中国新川郡塚原村(石川県上新川郡塚原村、富山県上新川郡新保村、富南村を経て現富山市塚原)で、浄土真宗本願寺派教順寺・9世玄正(げんしょう)の長男として生まれた。京都の真宗学林(現龍谷大学)、高岡の野上文山の待賢堂、豊後国日田の咸宜園で学んだ。1868年(明治元年)還俗して原弘三を名乗り、東京湯島の亀谷省軒塾に入る。富山藩改革派林太仲と知り合う。 1870年(明治3年9月)太仲が富山藩大参事に就任すると、原も権小属となり、同年12月19日(同3年閏10月27日)に発せられた「合寺令」に基づき藩内400余カ寺を一宗一寺に合併を強行した(富山藩合寺事件)。
岩城 隆常(いわき たかつね、1838年10月10日(天保9… 岩城 隆常(いわき たかつね、1838年10月10日(天保9年8月22日)- 1893年(明治26年)10月18日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国新川郡大村(石川県新川郡大村、富山県上新川郡大広田村を経て現富山市海岸通)で、加賀藩十村役・重右衛門の息子として生まれた。 1873年(明治6年)新川県第7大区長、1876年(明治9年)石川県第2大区副区長に就任。その後、上新川郡首席書記、大村外16カ村戸長、大村外7カ村戸長を務めた。1890年(明治23年)3月、富山県会議員に選出され、1892年(明治25年)2月まで在任した。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙(富山県第2区、独立倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年… 谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年11月14日)- 1921年(大正10年)8月3日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、富山県会議長、富山県下新川郡道下村長。幼名・義之助。 越中国新川郡仏田村(石川県新川郡仏田村、富山県下新川郡道下村を経て現魚津市)で、豪農・谷平兵衛の長男として生まれた。加賀藩士・沢田六左衛門、馬場春鴎に師事し漢学を修めた。1856年(安政3年)家督を相続し新川郡縄張役、仏田の肝煎役に就任。1872年(明治5年2月)金沢県新川郡第8区租税調役、1873年(明治6年)9月、第3大区副区長となる。その後、戸長、下新川郡書記を務めた。
阿波加 脩造(あわか しゅうぞう、1836年1月30日(天保… 阿波加 脩造(あわか しゅうぞう、1836年1月30日(天保6年12月13日)- 1916年(大正5年)5月12日)は、幕末から明治期の医師、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・佐渡、幼名・捨五郎、通称・正頴、字・士栗。号・酔夢、六無斎。衆議院議員としては野村脩造を名乗った。 越中国射水郡高岡(現富山県高岡市)で、漢方医・8代佐渡養順の息子として生まれる。魚津町(現魚津市)の漢方医・阿波加家の養子となる。春日寛平、緒方洪庵、華岡鹿城、山岡民部などに師事し、医学、蘭学を修めた。 1858年(安政5年)魚津で開業し、コレラの治療に従事した。1872年(明治5年)病院・好生舎を設立。1876年(明治9年)新川県新川郡医務取締に就任。
沼田 喜三郎(ぬまた きさぶろう、天保5年3月6日(1834… 沼田 喜三郎(ぬまた きさぶろう、天保5年3月6日(1834年4月14日) - 大正12年(1923年)12月7日)は、北海道へ開拓民として渡り事業に成功した後、明治27年(1894年)に故郷より18戸を伴って移住し、雨竜郡沼田町の開祖となった人物。 越中国砺波郡新西嶋村(現在の富山県小矢部市新西)の甚三郎の三男として生まれた。12歳で大工の徒弟となり、14歳で庄下村矢木(現在の富山県砺波市矢木)の豪農「根尾家」に奉公人として入り、主人の供をして江戸に出て染工となった。26歳の時、帰郷し、農業に専心。明治元年(1868年)、新西嶋村に分家した。 明治15年(1882年)、喜三郎49歳の時、妻子を残し初めて北海道に渡った。
水上 善治(みずかみ ぜんじ、1828年8月11日(文政11… 水上 善治(みずかみ ぜんじ、1828年8月11日(文政11年7月1日)- 1898年(明治31年)4月28日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての、富山県東礪波郡平村(現・南砺市)の実業家、政治家。当初は水上善三郎と名のっていたが、1888年(明治21年)に善治と改めた。本稿では便宜上「水上善治」と統一して表記する。 明治維新後に五箇山地域を取り巻く環境が激変する中で、五箇山の殖産興業・交通路の開拓・文化教育の振興に私費を投じて尽力したことで知られる。『平村史』では「五箇山開発・開化の偉大なる先覚者で、その名と業績は不朽である」と評されている。 水上善治は文政11年(1828年)7月1日に高草嶺集落の藤井家に生れ育った後、安政3年(1856年)5月に下梨集落の水上家を継いだ人物である。
森田 ゆき(もりた ゆき、10月29日 - )は、日本の漫画… 森田 ゆき(もりた ゆき、10月29日 - )は、日本の漫画家。富山県砺波市出身。血液型はB型。 主に『ちゃお』(小学館)で執筆している。「カワイイこには恋をせよ!」でデビュー。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
今 市子(いま いちこ、4月11日 - )は、日本の漫画家。… 今 市子(いま いちこ、4月11日 - )は、日本の漫画家。富山県氷見市出身。東京女子大学文理学部卒業。AB型。
志真うた(しまうた、3月11日 - )は、日本のお笑い芸人(… 志真うた(しまうた、3月11日 - )は、日本のお笑い芸人(ピン芸人)、プロレスラー。歴史×温泉ナビゲーター。 富山県黒部市出身。ワタナベエンターテインメントに所属後、現在はフリー。デビュー後しばらくはシマウタ♪名義で活動し、のちに現在の芸名に変更。 近畿大学在学中、大学の講師だった神澤和夫主宰による『神澤和夫創作舞踏研究所』にてコンテンポラリーダンスを学ぶ。大学卒業後、近畿地方にて広告代理店の企画営業職に就き、数々の賞を受賞。その後SOHOでWEBディレクター・クリエイター、近畿地方の異業種勉強会・交流会『プライム関西』スタッフとしても活動。 就職後は芸事から離れていたが、藤山直美のような喜劇役者を志し退職。
福田 かおる は、日本の政治家、農林官僚。自由民主党所属の衆… 福田 かおる は、日本の政治家、農林官僚。自由民主党所属の衆議院議員(2期)、文部科学大臣政務官。戸籍名は北口 かおる。
上田 英俊 は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(3… 上田 英俊 は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(3期)、国土交通大臣政務官兼内閣府大臣政務官兼復興大臣政務官。
水野 達夫 は、日本の政治家。富山県滑川市長(2期)。元滑川… 水野 達夫 は、日本の政治家。富山県滑川市長(2期)。元滑川市議会議員(3期)。
田作 健一 (たさく けんいち) は日本の実業家。クリエイテ… 田作 健一 (たさく けんいち) は日本の実業家。クリエイティブフィナンシャルマーケティング株式会社(Creative Financial Marketing Co.,ltd.)の取締役マネジング・ディレクター。データベース・マーケティングの専門家。空間ディスプレイ・クリエイター。地域物産店舗「越中國富山縣陣屋」統括運営者。 富士銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)で事業金融やベンチャー企業の発掘などに携わった後、アメリカのPOSレジ・マーケティング会社であるカタリナマーケティングコーポレーション(Catalina Marketing Co.,ltd.)の日本法人のスタートアップに加わり、日本におけるビッグデータ解析の草創期において小売業・外食産業などの購買POSデータを独自の数理モデルと分析手法を用いて体系化した。
翔香 は、日本の女性声優。アーツビジョン所属。富山県富山市出… 翔香 は、日本の女性声優。アーツビジョン所属。富山県富山市出身。旧芸名は岡本章子。