土橋 里木 (つちはし りき、明治38年(1905年)1月4… 土橋 里木 (つちはし りき、明治38年(1905年)1月4日) - 平成10年(1998年)11月25日)は、山梨県出身の郷土史家。民俗学、口承文芸研究者。本名は土橋 力。 山梨県西八代郡上九一色村古関(現在の甲府市古関町)に、父「喜一」、母「かん」の長男として生まれる。上九一色尋常小学校を経て、1922年(大正11年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業する。同年、父親が第四代局長を務める上九一色郵便局に勤務する。上九一色郵便局は1874年(明治7年)7月に開局し、里木の曽祖父である土橋助右衛門は初代局長を務めている。 昭和23年(1948年)に里木は五代目の上九一色郵便局長となり、昭和48年(1973年)に退官する。
三神 美和(みかみ みわ、1904年3月30日 - 2010… 三神 美和(みかみ みわ、1904年3月30日 - 2010年12月21日)は、日本の医師、東京女子医科大学名誉教授・相談役。山梨県甲府市出身。 山梨県立高等女学校(現・山梨県立甲府西高等学校)を経て、1924年に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業。1940年に「不飽和脂肪酸の動物栄養に及ぼす影響について」で慶應義塾大学より医学博士の学位を取得。1951年より東京女子医科大学教授、同大学理事。1965年からは東京女子医科大学病院に勤め、教授職のかたわら病院長職も務めた。 東京女子医科大学を退職後は名誉教授となり、同大学医学部同窓会である至誠会が運営する至誠会第二病院の院長に就任。
前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 19… 前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 1983年6月3日)は、日本のイスラム学者、東洋史家、東洋学者。慶應義塾大学名誉教授。 1903年、山梨県笛吹市八代町に生まれた。山梨県立日川中学校、東京外国語学校仏語科を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科に進んだ。当時は日本ではほとんど研究する者がなかったイスラム史を志し、アラビア語を学んだ。1928年に同大学を卒業。 卒業後は、台北帝国大学助手や台南州立台南第一中学校教諭を務めた。1940年、南満洲鉄道東亜経済調査局に勤勤。このことで厖大なイスラム文献を自由に手に取り研究する機会を得た。 1953年、学位論文『東西交渉史上におけるイスラム教徒勢力の消長に関する研究』を慶應義塾大学に提出して文学博士号を取得。
金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 199… 金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 1991年5月25日)は、日本の法学者・元裁判官・元外交官。専門は、民事手続法(民事訴訟法・民事執行法・民事保全法)。法学博士(中央大学)。中央大学名誉教授。 山梨県甲府市出身。山梨県立日川中学校(現・山梨県立日川高等学校)卒業。1926年高等文官試験司法科合格。1927年中央大学法学部卒業。司法官試補。1928年東京地方裁判所判事に就任。その後、福島地方裁判所判事、仙台地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事を経て、1936年中華民国南京日本総領事館領事に就任。1942年中華民国天津日本総領事館領事。1946年東京控訴院判事。1948年中央大学法学部教授。
濱 健夫(はま たけお、1901年(明治34年)11月26日… 濱 健夫(はま たけお、1901年(明治34年)11月26日 - 1984年(昭和59年)4月13日)は、日本の植物学者、細菌学者。専門は海洋や温泉に含まれる硫黄細菌の研究。妻は宗教家の金森通倫の五女・壽々枝。義弟(妹の夫)は元八幡市長の守田道隆。 長野県諏訪郡中洲村(現諏訪市)出身。東京高等師範学校附属小学校、旧制甲府中学、旧制一高を経て、1925年東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、広島高等師範学校教授。1943年日本大学教授、理学博士号取得、勲四等瑞宝章受章。1949年明治学院大学教授。 1916年、日本基督教会山梨教会で金井為一郎から洗礼を受けた。聖書中に出てくる植物に関する研究考察や、キリスト教信仰と自然科学との関係を論じた論文も多い。
小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 19… 小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 1929年12月28日)は地質学者、古生物学者。東京帝大助教授。 1899年、山梨県東山梨郡日下部村の大地主の家に生まれた。1916年、日川中学校を卒業し、第一高等学校に入学。中学時代より地学に関心があり、高校では科学会に所属して坪井誠太郎と共に活動した。高校1年次にすでに東京地質学会創立第20周年記念総会に出席した記録が残っている。1920年、東京帝国大学地質学科に入学。トマス・ヘンリー・ハクスリーの『白亜の一片(On a piece of chalk)』を読んで、地史学・古生物学の道を志したという。在学中より第二講座の横山又次郎の指導を受け、山口県秋吉台周辺の化石層序を研究した。
木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月… 木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月6日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の大脳生理学者・小説家・詩人。医学博士。本名は林 髞(はやし たかし)。山梨県出身。 1937年、直木賞受賞。主に推理小説・探偵小説で知られたほか、詩歌や評論も手掛けた。イワン・パブロフ門下の生理学者でもあり、母校の慶應義塾大学医学部で教鞭を執った。戦後はアメリカの穀物メジャーの支援を受けて小麦食を推奨し、「頭脳パン」、「米食低脳論」を提唱した。長男は医学博士で精神衛生学者の林峻一郎。 山梨県西山梨郡山城村下鍛冶屋(現・甲府市下鍛冶屋町)に生まれる。生家は医家。甲府市湯田町へ移り、甲府市立湯田尋常小学校へ通う。
矢崎 美盛(やざき よしもり、1895年8月13日 - 19… 矢崎 美盛(やざき よしもり、1895年8月13日 - 1953年4月7日)は日本の哲学者、美術史家。
平賀 文男(ひらが ふみお、1895年(明治28年)1月20… 平賀 文男(ひらが ふみお、1895年(明治28年)1月20日 - 1964年(昭和39年)4月19日)は、山梨県出身の登山家、郷土史家。 山梨県北巨摩郡穂坂村(現・韮崎市)に、父「延富」、母「ふで」の長男として生まれる。1909年(明治42年)4月に山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)に入学したが1911年(明治44年)3月に中退し同年4月に東京の目白中学校に転入。同校卒業後の1914年(大正3年)に早稲田大学政治経済学科に入学し1917年(大正6年)に卒業とともに帰郷。 1921年(大正10年)に穂坂村村会議員に当選、また北巨摩郡農会議員を務めるなど村治や新興産業発展につくし、特に地域の開発に熱心で広く各地の山野を跋歩し、未知の景勝、山岳などを調査研究し、甲斐山岳会の設立を提唱して実現。
樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3… 樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1953年〈昭和28年〉1月1日)は、日本の政治家、法学者。法学博士。位階は正三位。 保険院長官、衆議院議員、第37代衆議院議長、第3次吉田内閣国務大臣・賠償庁長官を歴任した。 山梨県東山梨郡勝沼町(現・甲州市)出身。日川中学、中央大学夜間法科在学中に文官高等試験に合格し、1918年に京都帝国大学法科大学を卒業。卒業後は法制官僚となり、法制局に勤務の傍ら中央大学講師を務め、内閣恩給局長・保険院長官などを歴任。1943年、『海の慣習法』で京都帝国大学法学博士。 1946年の戦後最初に行われた第22回衆議院議員総選挙では、郷里の山梨から日本自由党(鳩山自由党)の公認候補として擁立されて立候補し、当選する。
内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月… 内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月12日 - 1970年〈昭和45年〉8月25日)は、日本の構造家・建築構造技術者・建築構造学者・一級建築士(登録番号第17200号)、建築家。「耐震構造の父」と称されている。名古屋テレビ塔や東京タワーなど、鉄塔の設計を多く手がけ、「塔博士」とも呼ばれている。日本建築学会長、日本地震工学振興会会長などを歴任。 山梨県中巨摩郡榊村(現南アルプス市曲輪田)出身。旧制甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)入学。最初は造船学を専攻していたが、日露戦争後の造船不況を考慮して建築学に転向。佐野利器に師事した。
赤岡 重樹(あかおか しげき、明治17年(1884年)7月8… 赤岡 重樹(あかおか しげき、明治17年(1884年)7月8日 - 昭和40年(1965年)8月11日)は、山梨県出身の郷土史家。 山梨県北巨摩郡若神子村二日市場(現在の北杜市)に、父「九十郎」、母「うめ」の長男として生まれる。明治37年(1904年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、神宮皇学館本科(現在の皇學館大学)を明治43年(1910年)に卒業。 大正4年(1915年)には甲府商業会議所が赤岡を主任に「甲斐史」編纂会の設立を企図したがこれは頓挫し、同年11月には若尾財閥の当主・若尾謹之助がこれを引き継いで「山梨県志」編纂会を立ち上げ、赤岡は総裁に任用された。他の委員とともに5年間に渡って山梨県内の史料調査に当たっている。
土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 … 土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 - 昭和22年(1947年)4月20日)は、山梨県出身の郷土史家。号は節堂。 山梨県東山梨郡七里村(現・甲州市塩山)に、父「作甫」、母「ただ」の長男として生まれる。土屋昌次の子孫。明治28年(1895年)4月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学し、明治33年に卒業とともに早稲田大学に進学し坪内逍遥に師事。明治37年(1904年)3月に卒業した。 卒業後、山梨県立高等女学校(現・山梨県立甲府西高等学校)に勤務、明治38年12月には一年志願兵として近衛歩兵第2連隊に入隊。除隊後の明治40年5月に甲府市立商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)、大正13年5月に山梨県女子師範学校、大正15年10月に山梨県立山梨高等女学校(現在の山梨県立山梨高等学校)に勤務し、昭和15年(1940年)3月の退職後も山梨県立農林学校、山梨県立日川中学校において嘱託講師として勤務するなど、40年にわたり歴史の教員を務めている。
萩原 頼平 (はぎわら らいへい、1878年(明治11年)8… 萩原 頼平 (はぎわら らいへい、1878年(明治11年)8月20日 - 1951年(昭和26年)1月22日)は、山梨県出身の郷土史家。号は頼哉。 山梨県東山梨郡平等村落合(現在の山梨市)に生まれる。訓導の資格を得て、日下部小学校、平等小学校(現在の山梨市立山梨小学校)、富士川小学校(現在の甲府市立善誘館小学校)に勤務した後、教職を辞して大正10年1920年に山梨県教育会附属図書館に勤務、昭和7年1932年に退職、その後は郷土史の研究に力を注いだ。 昭和7年3月に甲斐志料刊行会を発会し、容易に得られない古文書や未刊史料を中心に山梨県に関する史料、文献を総合集成した全十二巻の「甲斐志料集成」を昭和7年10月5日から昭和10年9月にかけて発刊した。
石原 初太郎 (いしはら はつたろう、明治3年9月6日(18… 石原 初太郎 (いしはら はつたろう、明治3年9月6日(1870年9月30日) - 昭和6年(1931年)2月25日)は、日本の地質学者。四女の美知子は作家・太宰治の妻となった。 甲斐国(出生翌年の廃藩置県で山梨県巨摩郡大下条村(現・甲斐市))に、父・孫三郎と母・かくの長男として生まれる。 幼少の頃から和漢の書に親しみ、松島小学校(現在・甲斐市立敷島小学校)を終えて徽典館中学校(現在・山梨県立甲府第一高等学校)、第一高等学校から東京帝国大学理科大学地質学科で地質学を専攻し1897年(明治30年)に大学を卒業した。 卒業後、農商務省東京鉱山監督署、同省鉱山局、盛岡鉱山監督署に勤務し、1898年(明治31年)に「岡木くら」と結婚した。
土屋 夏五郎 (つちや なつごろう、安政5年6月15日(18… 土屋 夏五郎 (つちや なつごろう、安政5年6月15日(1857年8月4日) - 昭和11年(1936年)12月7日)は、山梨県出身の郷土史家。号は夏堂。 甲斐国八代郡白井河原村(後の東八代郡中道町、現在の甲府市白井町)に生まれ、徽典館で修学。その後教職に就き明治12年(1879年)に西八代郡富里村の市瀬学校校長心得となった後、同郡内、車田村の車田学校、三沢村の三沢学校、久那土村の久那土尋常小学校(現在の身延町立久那土小学校)、高田村の高田尋常小学校の各校長を務めている。明治31年(1898年)6月には宮城県の徴任に応じ、登米郡米山村(現在の登米市)の米岡小学校及び同郡南方村(現在の登米市)の南方小学校の校長となった、明治41年(1908年)12月に山梨県に帰郷後、明治42年(1909年)4月に西八代郡大塚村(現在の市川三郷町)の大塚尋常小学校(現在の市川三郷町立大塚小学校)校長を務め、大正2年(1913年)11月に退職するまでの36年間、西八代郡教育会長、宮城県登米地域の教育講習会長など教育関係の役職を務め教育界に貢献している。
草野 央(くさの ちか)は、日本の医学者、医師。専門は、消化… 草野 央(くさの ちか)は、日本の医学者、医師。専門は、消化器内科学・消化器内視鏡学。学位は、博士(医学)。 北里大学医学部消化器内科学主任教授、北里大学病院消化器内科科長。 医師になった当初は消化器外科医としてキャリアをスタートしたが、消化器内視鏡検査や診断のスキルを身に付けるために、内視鏡切除の権威である後藤田卓志のもとで消化器内視鏡治療を複数の病院で学んだ。 後藤田卓志に伴って東京医科大学医学部を経て日本大学医学部に異動し、寄付講座である消化管がん予防・検診・治療学講座(主任:後藤田卓志教授)で、秋田県由利本荘市・にかほ市と共同で行っている中学生におけるヘリコバクター・ピロリ感染検査事業に携わった。