石井 鼎(いしい かなえ、1863年(文久3年3月) - 1… 石井 鼎(いしい かなえ、1863年(文久3年3月) - 1916年(大正5年)5月22日)は、明治時代の政治家。衆議院議員。岐阜県会議長。岐阜県山県郡厳美村長。 美濃国山県郡、のちの岐阜県山県郡厳美村(芥見村・三輪村を経て現岐阜市)に生まれる。 1888年(明治21年)9月、臨時選挙で県会議員に当選。同常置委員、参事会員、県会議長を歴任した。ほか、小学校監事、厳美村長を務めた。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
大野 亀三郎(おおの かめさぶろう、1861年9月6日(文久… 大野 亀三郎(おおの かめさぶろう、1861年9月6日(文久元年8月2日) - 1914年(大正3年)4月7日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。 美濃国、のちの岐阜県稲葉郡岩村(現岐阜市)で、農業・大野八右衛門の長男として生まれる。1880年(明治13年)岐阜県立中学校を首席で卒業する。 岐阜県会議員となる。ほか、北海道開拓事業に関わり、興業銀行取締役、岐阜移民重役、蘇東銀行、北海道馬匹奨励、釜山埋築各監査役、日本興業銀行設立委員を務めた。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では岐阜県第1区から出馬し当選。その後、第3回総選挙から第11回総選挙まで連続10回当選した。
松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(186… 松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(1861年1月15日) - 大正3年(1914年)11月22日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 美濃国不破郡青野村(現在の岐阜県大垣市)に栗田武兵衛の長男として生まれ、松野清之助の養子となった。1878年(明治11年)、岐阜県立師範学校を卒業。明治法律学校(現在の明治大学)に学び、弁護士試験に合格。弁護士の業務に従事する傍ら、岐阜県会議員、同副議長、同議長に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙で当選を果たした。
後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安… 後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安政6年12月7日〉 - 1936年〈昭和11年〉10月2日)は、日本の実業家、資産家。財団法人後藤安報恩会(公益財団法人後藤報恩会の前身)初代理事長。族籍は岐阜県平民。 美濃国今尾村(のち岐阜県海津郡今尾町、現・海津市)の百姓、安太郎の長男。1880年、家督を相続し、襲名する。郷里で油雑穀営業に従事する。不動産、米、株と青年時代から利殖に心を砕く。株式仲買業を営む。 会社の重役であり、後藤商事社長、名古屋米穀取引所理事長・同相談役、愛知電気鉄道、名古屋電力各取締役などをつとめる。名古屋商業会議所議員に推される。 趣味は書画。画幅も多く、珍品を蒐集する。
坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859… 坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に敷くものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。
野口 代治(のぐち だいじ、1859年(安政6年5月) - … 野口 代治(のぐち だいじ、1859年(安政6年5月) - 1911年(明治44年)12月2日)は、明治時代の政治家。実業家。衆議院議員。 美濃国中島郡大浦村(岐阜県中島郡大浦村、羽島郡大浦村、正木村を経て現羽島市)出身。岐阜中学校に学ぶ。 学務委員、所得調査委員、岐阜県会議員、同常置委員、徴兵参事員、地方衛生会員、大浦村外四ヶ村長、正木村会議員を歴任した。実業界では、三井物産会社社員、岐阜物産、岐阜倉庫各社長を務めた。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
10代 桑原 善吉(くわばら ぜんきち、1858年9月20日… 10代 桑原 善吉(くわばら ぜんきち、1858年9月20日(安政5年8月14日)- 1934年(昭和9年)4月30日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・林。 美濃国加茂郡太田村(岐阜県加茂郡太田町を経て現美濃加茂市)で素封家・林市郎兵衛の二男として生まれ、のちの岐阜市玉井町の材木商・9代桑原善吉の婿養子となる。1889年(明治22年)7月、家督を相続した。 家業の材木商「桑善」を営む。1877年(明治10年)10月に創立した第十六国立銀行(後の十六銀行)の経営に参画し、重役を経て頭取に就任した。また、岐阜電気取締役、岐阜貯蓄銀行頭取、岐阜材木同業組合長、第4代岐阜商業会議所会頭、岐阜県地方森林会議員などを務めた。
大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5… 大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5年5月9日〉- 1947年〈昭和22年〉3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅選議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。 1858年(安政5年)、美濃国岩村藩(現在の岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)生まれ。岩村藩士・大島桂之進の次男。兄は3歳の時に病死したので、健一は一人息子として育つ。10歳の春を迎えると同時に文武所に入所する。文武所は1871年、廃藩置県と共に廃止され、知新館と改称されたので健一もここへ移った。 明治初年に岩村を離れる。奥三河・稲武の豪農・篤志家古橋家にて初期教育を受ける。
中村 信夫(なかむら のぶお、1858年(安政5年10月) … 中村 信夫(なかむら のぶお、1858年(安政5年10月) - 1933年(昭和8年)4月6日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。岐阜県吉城郡古川町長。幼名は三喜造。 酒造業・中村善右衛門の長子として飛騨国吉城郡、のちの古川町(現岐阜県飛騨市)に生まれる。秋月橘門や岡田呉陽などの門で漢学を修めた。1882年(明治15年)4月、帰郷し1883年(明治16年)古川銀行取締役となり、ついで桐山孫兵衛らとともに癸未義塾を創立し幹事として後進の教育に努めた。1883年(明治16年)4月、父の病没を受け母と共に上京し慶應義塾に学んだ。のち、東京市本所区にて織物工場を興し社長を務めたほか、古川町長、飛州木材会社相談役などを歴任した。
須田 万右衛門(萬右衛門、すだ まんえもん、1858年(安政… 須田 万右衛門(萬右衛門、すだ まんえもん、1858年(安政5年9月) - 1901年(明治34年)8月21日)は、明治時代の政治家。実業家。銀行家。大地主。衆議院議員。 美濃国武儀郡上有知村(岐阜県武儀郡上有知町、美濃町を経て現美濃市)出身。先代万右衛門(清信)の二男として生まれ、須田万右衛門(清堅)を襲名。漢学を修める。 村会議員、上有知町会議員、武儀郡会議員、岐阜県会議員、製紙改良組合副会頭、美濃紙輸出、美濃鉄道会社各取締役、上有知銀行頭取を歴任した。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から無所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
松井 直吉(まつい なおきち、1857年8月14日(安政4年… 松井 直吉(まつい なおきち、1857年8月14日(安政4年6月25日) - 1911年(明治44年)2月1日)は明治時代の日本の化学者。理学博士。 第三高等中学校(京都大学の前身の一つ)教頭、文部省専門学務局長、東京化学会(日本化学会の前身の一つ)会長、東京帝国大学(東京大学の前身)農科大学長・総長を歴任した。 以上のことから文展審査員となっている。 弟は国文学者の和田万吉。 また、松井は8男8女の計16子をもうけているが、8男で山上家の養子となった山上八郎は、日本の甲冑についての研究で知られている。
笠井愛次郎(かさい あいじろう、安政4年(1857年)6月1… 笠井愛次郎(かさい あいじろう、安政4年(1857年)6月16日-1935年9月25日) は、日本の土木技師。明治時代の鉄道や電力などの近代化に大きく貢献した。私立鉄道学校創立者、利根発電社長、特殊合金社長、帝国鉄道協会理事、大日本国防義会監事。 岐阜県瑞浪市にて江戸の銅版絵師・笠井大五郎の二子に生まれ、1860-61年頃父とともに上京、神原精二、大沼枕山に漢学を、佐瀬得所に書を、福沢諭吉の学友・千本五郎(千邑五郎?)に英学を学ぶ。 1882年に工部大学校土木科卒業後、徳島県庁に出仕し、南海四県国道貫通工事を担当ののち、海軍省に移り、佐世保・呉の鎮守府 (日本海軍)建設工事を担当、九州鉄道、日本土木会社を経て、1892年小石川に「笠井染工場」と設計事務所「工業事務所」を開業、1897年私財を投じて私立鉄道学校を設立、1898年鉄道協会(帝国鉄道協会前身)設立、1900年京釜鉄道技術長、1909年利根発電社長(大株主)、1912年常総鉄道専務を務め、1915年工学博士号取得。
船坂 与兵衛(與兵衛、ふなさか よへい、1857年4月1日(… 船坂 与兵衛(與兵衛、ふなさか よへい、1857年4月1日(安政4年3月7日) - 1914年(大正3年)10月13日)は、明治時代の政治家。神職。殖産家。衆議院議員。本名・真楫(まかじ)、初名・永胤、通称・与兵衛、号:鉄壁・水松園・櫟園。 飛騨国吉城郡瓜巣村、のちの岐阜県吉城郡国府村(国府町を経て現高山市国府町)出身。漢学を修める。農業を営む。 学校世話役、国府村副戸長、小学校訓導、荒城神社祠官、学務委員、岐阜県会議員、吉城郡会議員を歴任した。ほか、国益社を創立し養蚕や植林事業に尽くした。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では岐阜県第7区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
河村 勝次郎(かわむら かつじろう。1857年1月30日(安… 河村 勝次郎(かわむら かつじろう。1857年1月30日(安政4年1月5日) - 1933年(昭和8年)1月10日)は、横浜、静岡を拠点として明治から昭和にかけて活躍した日本の茶商。 勝次郎は安政4年(1857年)岐阜県(美濃国)安八郡藤江村(現大垣市)において、父河村源四郎、母コウの三男として生まれた。戸主は源四郎の兄河村仁三郎であり、また族籍は士族であったと子孫に伝わる。仁三郎一家の明治19年式戸籍が滅失しているため、仁三郎の両親、兄弟、子孫の情報が得られないが、これは昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲による消失ではなかったかと推察される。 仁三郎は大垣藩医江馬活堂の隣人(安八郡藤江村)で「本舗調合所」を営業、活堂から「健胃湯」処方の教示を受け、明治13年(1880年)1月14日内務省免許を得て製造販売を始め、江馬家へと納入していた。
12代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1856年12… 12代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1856年12月12日(安政3年11月15日) - 1925年(大正14年)11月10日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。貴族院多額納税者議員。 渡辺浄意の長男として、岐阜城下松屋町(現岐阜市松屋町)に生まれる。生家は絹織物製造業を営む。大蔵省の銀行学講習所で学ぶ。 1877年(明治10年)第十六国立銀行(後の十六銀行)を創立し頭取に就任。1878年(明治11年)清に渡り帰朝後に廻瀾社を創立し対清貿易に従事した。1879年(明治12年)岐阜町会議員に当選し、同議長、連合町村会議員、水利土工会議員などを歴任した。 1882年(明治15年)商法会議所を設立し議長を務め、1887年(明治20年)に岐阜商工会と改称し会頭となる。
千早 正次郎(ちはや しょうじろう、1856年8月12日(安… 千早 正次郎(ちはや しょうじろう、1856年8月12日(安政3年7月12日) - 1938年(昭和13年)10月18日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。大日本帝国海軍軍人。衆議院議員。 苗木藩留守居役・千早正理の次男として、美濃国恵那郡日比野村(岐阜県恵那郡苗木村、苗木町、中津川町を経て現中津川市)に生まれる。1878年(明治11年)海軍主計学校を卒業する。同年、兄の千早正路が割腹自殺する。 海軍省に出仕し、1886年(明治19年)供給課長を経て累進し海軍大主計(大尉相当官、後の主計大尉)に進んだ。このころ、同じ海軍主計学舎第一期卒業生の飯村知、加唐為重とともに軍を辞め、生命保険会社設立を企画するも断念(加唐はその後帝国生命保険を設立)。
長尾 四郎右衛門(ながお しろうえもん、1856年1月19日… 長尾 四郎右衛門(ながお しろうえもん、1856年1月19日(安政2年12月12日)- 1916年(大正5年)1月31日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(2期)。貴族院多額納税者議員。 のちの岐阜県武儀郡菅田村(現下呂市)出身。漢学を修める。長尾信七郎の長男として生まれ、1876年(明治9年)5月に家督を相続する。家業の製糸業を発展させ濃武会社を設立し同社長を務めた。菅田町会議員、武儀郡会議員、岐阜県会議員、同常置委員、相続税審査委員、所得税調査委員、地方森林会議員などを歴任したほか、濃飛農工銀行発起人に名を連ね同頭取を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から出馬し当選。
市岡 政香(いちおか まさか、1855年(安政2年9月) -… 市岡 政香(いちおか まさか、1855年(安政2年9月) - 1933年(昭和8年)1月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 美濃国恵那郡中津川村(のち岐阜県恵那郡中津川町、中津町、中津川町を経て現・中津川市)に生まれる。東美銀行取締役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において岐阜6区から無所属で立候補したが落選した。同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1900年、前島丈之助の辞職による岐阜6区の補欠選挙に立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1933年に死去した。
下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉… 下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉、1854年9月29日〈嘉永7/安政元年8月8日 - 1936年〈昭和11年〉10月8日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者、歌人(号は香雪)。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。祖父は儒学者東条琴台。 美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)にて、岩村藩士平尾鍒蔵と房子(挙母藩武久氏)の長女として生まれる。実弟は平尾鍗蔵。 祖父東条琴台は江戸の医家から平尾家に婿入したが、鍒蔵が生まれた後、藩内学閥との確執から離縁。鉐の幼少期、父鍒蔵(1818–1898)は尊王攘夷論を説いたため、安政4年と明治元年に2度謹慎処分を受け、計10年の蟄居を強いられた。
河村 喜助(かわむら きすけ、1853年10月30日(嘉永6… 河村 喜助(かわむら きすけ、1853年10月30日(嘉永6年9月28日) - 1937年(昭和12年)10月14日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。衆議院議員。 美濃国武儀郡、のちの岐阜県武儀郡関町(現関市)に生まれる。和漢学を修める。 関町会議員、岐阜県会議員、同常置委員、地方衛生会委員、郡所得税調査委員、武儀郡会議員、同副議長、郡茶業組合組長、郡蚕糸業組合組長、県茶業組合連合会議長を歴任した。 1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
林 小一郎(はやし こいちろう、1853年(嘉永6年4月)-… 林 小一郎(はやし こいちろう、1853年(嘉永6年4月)- 1926年(大正15年)8月10日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(2期)。 美濃国加茂郡太田村(岐阜県加茂郡太田町を経て現美濃加茂市)で素封家・林市郎兵衛の長男として生まれる。16歳の時、名古屋藩の隊伍に加わったのち、笠松の儒者角田欽江につき漢籍を修めた。その後、1869年(明治2年)愛知県丹羽郡丹羽村の鷲津毅堂の塾に学んだ。 農業を営む傍ら、岐阜県会議員に当選し、同常置委員を歴任。地方産業の発展や鉄道敷設などに尽力した。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では岐阜県第6区から出馬し当選。1904年(明治37年)3月の第9回総選挙でも当選し衆議院議員を通算2期務めた。
山田 才吉(やまだ さいきち、嘉永5年8月19日(1852年… 山田 才吉(やまだ さいきち、嘉永5年8月19日(1852年10月2日) - 1937年(昭和12年)1月31日)は、美濃国出身の実業家・政治家(愛知県会議員)。 嘉永5年(1852年)8月19日、美濃国厚見郡富茂登村(現在の岐阜県岐阜市大仏町)で料理屋を営業していた山田辰次郎の長男として生まれる。板前などを経て名古屋の熱田神戸町・大須門前町に店を構え、1881年(明治14年)には末広町3丁目(現在の栄)の若宮八幡社西隣に漬物屋「きた福(喜多福)」を開店。この頃に守口漬(守口大根味醂粕漬)を考案したとされ、これが評判を呼んだ。なお、才吉が創業したきた福は同店から暖簾分けした「松喜屋」に屋号など含めて生前に売却され、「喜多福総本家」として現在も守口漬の製造販売を続けている。
大綱 銀之助(おおつな ぎんのすけ、1852年6月24日(嘉… 大綱 銀之助(おおつな ぎんのすけ、1852年6月24日(嘉永5年5月7日) - 1911年)は、明治時代の大相撲力士。本名:沼波銀之助。 現在の岐阜県大垣市出身。京都相撲から高砂の門下となり1879年5月に序ノ口。1885年の新聞記事では阿武松和介門弟となっている。その後高砂部屋所属となった。 1884年5月には幕下に昇進したが幕下中位で10年一進一退だった。1891年5月最高位の幕下15枚目。1896年頃からは三段目が定位置となっている。 1893年頃からは3日ほど出場し残り2日を休場しており、若者頭を兼務していたようである。1905年頃からは常に三段目中位から下位に位置しており、若者頭を兼務しているためと思われる(同時期ののちに若者頭となった若梅も同様に三段目中位から下位に記されている)。
天野 若円(あまの じゃくえん、嘉永4年5月10日(1851… 天野 若円(あまの じゃくえん、嘉永4年5月10日(1851年6月9日) - 明治42年(1909年)12月4日)は、明治前期の浄土真宗本願寺派の僧侶・政治家。諡号は即生院。 父の天野若空(文政2年3月13日(1819年4月7日)-明治31年(1898年)3月9日)は浄土真宗の学僧として名高く、美濃国厚見郡岩戸村(北長森村を経て現在の岐阜県岐阜市)にあった善龍寺の住職を務め、没後の明治34年(1901年)には勧学の地位を贈られている。 若円は若空の長男として生まれ、明治13年(1880年)浄土真宗本派大教校普通全科卒業後善龍寺を継ぎ、更に高田教務所管事や本山(西本願寺)の教学課長などを歴任した。
高木 貞正(たかぎ さだまさ、1851年(嘉永4年10月) … 高木 貞正(たかぎ さだまさ、1851年(嘉永4年10月) - 1920年(大正9年)3月29日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。衆議院議員。 美濃国上石津郡、のちの岐阜県上石津郡多良村(養老郡多良村、上石津村、上石津町を経て現大垣市)出身。 学区取締を経て、1879年(明治12年)多芸・上石津郡長に就任する。ほか、濃飛農工銀行、大垣貯蓄銀行、大垣共立銀行各監査役を歴任した。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
高木 郁助(たかぎ いくすけ、1851年(嘉永4年6月) -… 高木 郁助(たかぎ いくすけ、1851年(嘉永4年6月) - 1909年(明治42年)1月1日)は、明治時代の政治家。銀行家。大地主。衆議院議員。 美濃国大野郡、のちの岐阜県本巣郡弾正村(真正村、真正町を経て現本巣市)出身。 岐阜県会議員を務めたほか、濃飛農工銀行を創立し取締役を歴任した。矢野才治郎とともに大野郡における二大勢力家であった。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では岐阜県第4区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年… 山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年8月12日) - 明治39年(1906年)11月15日)は、明治時代の日本の洋画家、版画家である。 嘉永3年(1850年)、美濃恵那郡明智村野志(現在の岐阜県恵那市)で農業と養蚕を営む山本権八の長男として生まれる。本名は為蔵、為之助、為治(次)郎。 既に10歳頃から絵が好きで、絵を見れば手当たり次第模写したと、後年芳翠は回想している。慶応元年(1865年)15歳の時ふと手にとった『北斎漫画』に啓発されて画家を志す。始めは京都において、小田海僊の門人久保田雪江に南画を学ぶ。そのうち、本当に南宗画を勉強するため中国に行こうと、明治4年(1872年)頃に横浜に出てくる。
岡田 只治(おかだ ただじ、嘉永3年5月19日〈1850年6… 岡田 只治(おかだ ただじ、嘉永3年5月19日〈1850年6月28日〉 - 大正3年〈1914年〉9月10日)は、日本の実業家・発明家。 嘉永3年(1850年)5月、美濃国山県郡保戸島村大字戸田16(現在の岐阜県関市戸田267)の庄屋の家に生まれた。 故郷は長良川と今川に挟まれており、古くから水害の多い場所だった。1933年(昭和8年)に保戸島橋が架かるまで、渡し舟を用いないと対岸との行き来ができない土地だった。 岡田は自費で用水の開削と堤防の築造を計画し、1880年(明治13年)8月に両者が竣工した。さらに各務用水の開削にも着手し、1891年(明治24年)5月にはほとんど完成に至ったが、同年10月28日の濃尾地震で水路が崩壊した。
安藤 源五郎(あんどう げんごろう、嘉永3年5月〈1850年… 安藤 源五郎(あんどう げんごろう、嘉永3年5月〈1850年〉 - 1921年〈大正10年〉1月26日)は、明治期の司法官僚、大審院判事。 美濃国中島郡駒塚村(現・岐阜県羽島市)生まれ。1867年(慶応3年)江戸に出て安井息軒に漢学を学び、1874年(明治7年)慶應義塾法律科一期生として卒業する。卒業後司法省八等出仕となり長崎上等裁判所の裁判官となり大審院検事となる。1886年(明治19年)大審院法律諮問会員、1890年(明治23年)青森地方裁判所検事正、1892年(明治25年)福島裁判所検事正等、各地方に歴任し、のちに退官し京都に移る。
漆 昌巌(昌巖、うるし しょうがん、1850年2月12日(嘉… 漆 昌巌(昌巖、うるし しょうがん、1850年2月12日(嘉永3年1月1日)- 1934年(昭和9年)1月25日)は、幕末から昭和初期の僧侶・実業家・政治家。衆議院議員、東京府荏原郡品川町長。旧姓・加藤。娘・漆雅子は品川女子学院の創立者。 伊勢国桑名郡江内村(岐阜県下石津郡江内村、油島村、海津郡大江村大字油島、海津町を経て現海津市油島)で、自作農・加藤武右衛門の二男として生まれる。万延元年(1860年)美濃国石津郡高須町(現海津市)の浄土宗円心寺に入り僧となる。明治元年(1868年)芝増上寺学寮に入り仏典を学ぶ。名字は浄土宗開祖法然の漆間にちなみ漆(うるし)と改称し届出た。1874年(明治7年)荏原郡北品川宿、法禅寺住職に就任。
古屋 善造(ふるや ぜんぞう、1849年8月6日(嘉永2年6… 古屋 善造(ふるや ぜんぞう、1849年8月6日(嘉永2年6月18日) - 1910年(明治43年)1月5日)は、明治時代の政治家、大地主、岐阜県多額納税者。衆議院議員(岐阜県郡部選出、当選1回)。岐阜県恵那郡大井村長、大井町長。族籍は岐阜県平民。 美濃国恵那郡、のちの岐阜県恵那郡大井町(現恵那市)に生まれる。尾張明倫堂に入り、漢学を学ぶ。 農業を営み、学区取締、恵那郡書記、岐阜県会議員、大井村長、大井町長などを務めた。 1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。中正倶楽部に所属した。
各務 平七(かがみ へいしち、1849年7月13日(嘉永2年… 各務 平七(かがみ へいしち、1849年7月13日(嘉永2年5月24日) - 1916年(大正5年)11月16日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。 美濃国土岐郡笠原村(岐阜県土岐郡笠原村、笠原町を経て現多治見市)に生まれる。岐阜県会議員を歴任した。 1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
原 亮三郎(はら りょうざぶろう、1848年11月13日(嘉… 原 亮三郎(はら りょうざぶろう、1848年11月13日(嘉永元年10月18日) - 1919年(大正8年)12月8日)は、明治から大正時代の政治家。公吏。実業家。出版経営者。銀行家。衆議院議員。 美濃国羽栗郡平方村(岐阜県羽栗郡平方村、福寿村を経て現羽島市)出身。原忠左衛門の子。生家は代々農業を営み、同地の里正を務めた。亮三郎は16歳にして家業を継ぎ、大庄屋となった。 1871年(明治4年)東京に出て藤川三渓の門に入り、のち神奈川県史生に任ずる。ついで権少録に進み戸長も務めた。1875年(明治8年)横浜に出版社金港堂を創業し、翌年東京日本橋に移転する。教科書や文芸雑誌、書籍などの出版にあたった。
初代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1848年(嘉永… 初代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1848年(嘉永元年4月) - 1901年(明治34年)6月12日)は、明治時代の政治家。銀行家。大地主。衆議院議員。岐阜県大野郡高山町(現在の高山市)長。本姓は森。名は道俊、号は五松庵。 飛騨国大野郡(岐阜県大野郡高山町を経て、現在の高山市)出身。本姓は森でのち高山の素封家永田家を継いだ。 1871年(明治4年)2月、高山町二之町に産物会所を開設し、福田吉郎兵衛らとともに産物方として飛騨の振興発展に努めた。1889年(明治22年)7月1日、市町制実施に伴い高山町長に就任した。ほか、三星製糸製織場を建設した。財界では、飛騨銀行、濃飛農工銀行、十二銀行各取締役を歴任した。
納屋 才兵衛(なや さいべえ、1847年4月9日〈弘化4年2… 納屋 才兵衛(なや さいべえ、1847年4月9日〈弘化4年2月24日〉 - 1933年〈昭和8年〉6月10日)は、日本の写真家。正岡子規最後の肖像写真を撮影したことで知られる。本名は美算。 飯沼慾斎の義弟長矩の七男として、岐阜県大垣市に生まれる。6歳の時「納屋才」の屋号で魚市を営む中島家の養子となり、11歳で家業を継いだ。 三重県桑名市で最初の写真館「笛橋堂」を開業し、明治期東海写真界の発展に寄与した。上京した後は、根岸に名を「春光堂」と改めて写真館を開業した。
野々村 久次郎(ののむら きゅうじろう、1846年12月12… 野々村 久次郎(ののむら きゅうじろう、1846年12月12日(弘化3年5月30日) - 1925年(大正14年)11月4日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。貴族院多額納税者議員。 美濃国方県郡、のちの岐阜県本巣郡西郷村(現岐阜市)出身。野々村佐太郎の子として生まれ、のち叔父佐兵衛の養子となり1887年(明治20年)4月、家督を相続する。 1879年(明治12年)以降、下西郷村戸長、同衛生委員、本巣郡会議員のほか、第九十五国立銀行取締役、野々村銀行頭取を歴任した。 1918年(大正7年)9月には岐阜県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1921年(大正10年)7月6日まで務めた。
井上 利右衛門(いのうえ りえもん、1846年(弘化3年7月… 井上 利右衛門(いのうえ りえもん、1846年(弘化3年7月) - 1917年(大正6年)1月7日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。岐阜県吉城郡国府村長。 飛騨国、のちの岐阜県吉城郡国府村(国府町を経て現高山市)出身。 国府村長、吉城郡会議員、三郡連合会議員、徴兵参事員、岐阜県会議員を歴任した。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では岐阜県第7区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
井上 源衛(いのうえ げんえ、1845年12月23日(弘化2… 井上 源衛(いのうえ げんえ、1845年12月23日(弘化2年11月25日) - 1923年(大正12年)3月30日)は、明治から大正時代の政治家。神職。衆議院議員。 美濃国本巣郡、のちの岐阜県本巣郡穂積村(穂積町を経て現瑞穂市)に生まれる。1871年(明治4年)第七大区二小区年番戸長となり穂積村と前野村の戸長を兼ね、1873年(明治6年)神官教導職、1874年(明治7年)2月、第七大区二小区権区長を兼ね、同郡山口村住吉神社などの神官、区長を兼任した。 1877年(明治10年)農事や養蚕業の研究のため地方を回り、帰郷後は1879年(明治12年)4月に岐阜県会議員となり衛生会委員を兼ねた。1880年(明治13年)8月、県内の治水改修のため西濃11郡の有志者と治水共同社を設立し取締役を務め、木曽、揖斐、長良川の三大河川改修事業を政府に請願した。
加納 鉄哉(かのう てっさい、1845年3月22日〈弘化2年… 加納 鉄哉(かのう てっさい、1845年3月22日〈弘化2年2月15日〉 - 1925年〈大正14年〉10月28日)は、幕末から明治時代に活動した彫刻家。本名は光太郎。 美濃国厚見郡岐阜(現・岐阜県岐阜市)に生まれ、幼少の頃から芸術に知識が深かった父より南画や彫刻等を学ぶ。1858年(安政5年)には禅寺に修行のため出家し、仏画や根付の制作に携わり鶴洲から彫刻を学んだ。明治維新直後の1868年(明治元年)に還俗し、尾張にて鉄筆画の技法について研究した後に上京しその技法を用いた絵画や彫刻の制作を行う。 1881年(明治14年)に開催された第2回内国勧業博覧会には鉄哉の作品が出品され、その後は日本および中国の古美術品の研究に携わった。
佐久間 国三郎(さくま くにざぶろう、1845年(弘化2年1… 佐久間 国三郎(さくま くにざぶろう、1845年(弘化2年10月) - 1915年(大正4年)4月8日)は、明治時代の政治家。衆議院議員。岐阜県会議長。 美濃国安八郡、のちの岐阜県安八郡蛇池村(海西郡蛇池村、海津郡蛇池村、海西村、平田町を経て現海津市)に生まれる。角田俊作に漢学を学ぶ。 海西村戸長を経て、1879年(明治12年)同村会議員に当選。ほか、水利土工会議員、同議長、所得税調査委員、組合村長を歴任した。 1882年(明治15年)2月、岐阜県会議員に当選し、同年10月、常置委員に推され、1885年(明治18年)3月、県会副議長、のち同議長を歴任した。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選。
浅見 與一右衛門(浅見 与一右衛門、あさみ よいちえもん、1… 浅見 與一右衛門(浅見 与一右衛門、あさみ よいちえもん、1843年11月26日(天保14年10月5日) - 1924年(大正13年)3月21日)は、明治時代・大正時代の実業家であり政治家。美濃国恵那郡岩村(現・岐阜県恵那市岩村町)出身。 浅見家は岩村藩初代藩主松平家乗が慶長6年(1601年)に転封の際に上野国那波から随行して来たといわれ、累代の当主は、岩村藩の御用達職、庄屋、問屋職などを勤め、藩の財政を支えていた。與一右衛門は浅見家9代目当主にあたる。幕末から明治の変動期に岩村町の再建に尽力し、また岐阜県議会議長や衆議院議員を歴任した。 また、私財を投じて1906年(明治39年)には岩村・大井間に電気鉄道の岩村電気軌道を開通させた。
土岐 頼徳(とき よりのり、1843年10月8日 (天保14… 土岐 頼徳(とき よりのり、1843年10月8日 (天保14年9月15日) - 1911年(明治44年)5月12日)は、明治期の医師、日本陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医総監(少将相当官)。美濃国出身。従四位勲二等。 1843年10月8日((旧暦)天保14年9月15日) 美濃国山縣郡下伊自良村小倉(現・岐阜県山県市)の医師高井松亭の長子に生まれ、幼名を孝太郎と称した。長じて漢学を学び、名古屋の麻生頼三に西洋医学を学び、京都の出て巖垣六藏・廣瀬元恭に就いて漢方医学を修める。1862年(文久2年)伊勢の土井郁之助、1866年4月(慶応2年3月)幕府の西洋医学所教授坪井芳州の塾に入り医学所に入校した。 明治維新後、姓を高井氏から本家の土岐姓に復姓して頼徳と名を改めた。
山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天… 山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天保13年12月5日)- 1916年(大正5年)3月8日)は日本の政治家。 衆議院議員。現在の東海地方を代表する木曽三川の水害対策(木曽三川分流工事)に翻弄し、生涯を治水に捧げた人物。 1929年(昭和4年)、岐阜公園に像高2m余の台座付きの銅像が建立された。後に、太平洋戦争時の金属類回収令より撤去。 1957年(昭和32年)、岐阜市内の長良川金華橋近くの四ッ屋公園に顕彰記念碑が立てられ、現在も存在する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
吉田 常三郎(よしだ つねさぶろう、1843年(天保14年1… 吉田 常三郎(よしだ つねさぶろう、1843年(天保14年1月) - 1918年(大正7年)5月23日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。衆議院議員。岐阜県武儀郡吉田村長。 美濃国武儀郡吉田村(岐阜県武儀郡関町を経て現関市)出身。漢学を修める。 戸長、地租改正地価監定役、岐阜県会議員、武儀郡学務委員、郡書記、郡徴兵参事員、吉田村長、所得税調査委員、吉田村会議員となる。ほか、吉田倉庫銀行頭取、上有知銀行取締役を歴任した。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
宮地 兵次郎(みやち ひょうじろう、1838年〈天保9年〉8… 宮地 兵次郎(みやち ひょうじろう、1838年〈天保9年〉8月15日 - 1910年〈明治43年〉9月21日)は、岐阜県出身の地域活動家。中山道(中街道)の開削に尽力し、日吉村の戸長を務めた。 1838年8月15日、岐阜県土岐郡日吉村半原(現在の瑞浪市日吉町半原)に生まれる。 半原宮地氏は安藤氏・遠藤氏・山内氏と共に土岐氏に属し、天文13年(1544年)日吉神社を創建した。 (先祖代々の記録)(10.兵次郎寛朋が宮地兵次郎) 先祖・宮地重勝頌徳碑(背面)には下記の文が彫ってある。写真の左の碑:宮地重勝隠居士。右の碑:宮地重勝頌徳碑。 宮地氏ハ代々土岐氏ノ臣ニシテ天文十一年頼芸亡ブルヤ鶴ケ城代宮地九郎左衛門藤原重勝半原自邸ニ隠遁シ農ニ帰スコレ即チ祖ナリ昭和二十八年十月再建之(天文11年=1542年)(昭和28年=1953年)土岐頼芸は土岐頼兼、正中の変と関係する。
鳥居 断三(斷三、とりい だんぞう、天保9年〈1838年〉 … 鳥居 断三(斷三、とりい だんぞう、天保9年〈1838年〉 - 1911年〈明治44年〉1月27日)は、幕末の大垣藩士。明治時代の官吏。判事。弁護士。三河県知事。柏崎県参事。大審院判事、東京始審裁判所長、東京重罪裁判所長。本姓は平氏、名は重雄。諱は朝道。号は圭陰。 美濃大垣藩士の子として大垣城辰之口内清水馬場北詰の家に生まれる。幼名は鉄五郎。嘉永4年11月、病気の兄元次郎の養子となった。嘉永6年12月に使番役に出仕、安政6年11月に留守居役江戸定府を申し付けられた。文久2年正月、奏者番となり、慶応3年3月に用人と留守居の兼務となった。戊辰戦争では1868年(慶応4年1月)大垣藩軍事副総裁助役、のち同藩軍事奉行として東山道先鋒軍に従い、各地を転戦した。
早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日〈1837年… 早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日〈1837年9月8日〉 - 明治34年〈1901年〉2月18日)は、岩村藩藩医で明治期の日本の実業家、医師、官吏。丸善、横浜正金銀行の創業者として知られる。 天保8年(1837年)、美濃国武儀郡笹賀村(現山県市)に岩村藩医師・山田柳長の子として生まれるが、父は有的の顔を見ることなく26歳で亡くなったため、同村の名主早矢仕才兵衛の養子となる。大垣、次いで名古屋に出て医学を学ぶ。早矢仕自身が優れた医師でもあった。安政元年(1854年)、郷里に戻り医院を開業する。 安政6年(1859年)、江戸に上り、万延元年(1860年)6月に開業する。坪井信道に学んだ後、慶應3年(1867年)、慶應義塾に入塾して福澤諭吉らに蘭学、英学を学び貿易に関心を持つ。
森川 寛衛(もりかわ かんえ、1835年(天保6年9月) -… 森川 寛衛(もりかわ かんえ、1835年(天保6年9月) - 1908年(明治41年)1月8日)は、明治時代の政治家。醸造家。衆議院議員。 美濃国海西郡瀬古村(岐阜県海津郡瀬古村、吉里村、海津町を経て現海津市)出身。漢学を修める。農業および酒造業を営む。 吉里村戸長、岐阜県会議員、海津郡会議員、所得調査委員、徴兵参事員を歴任した。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
熊谷 孫六郎(くまがい まごろくろう、1832年3月22日(… 熊谷 孫六郎(くまがい まごろくろう、1832年3月22日(天保3年2月20日) - 1902年(明治35年)8月3日)は、明治時代の政治家。実業家。養蚕家。衆議院議員。官選初代岐阜市長。岐阜県会議長。 美濃国恵那郡付知村(岐阜県恵那郡付知村、付知町を経て現中津川市付知町)で、製糸業・熊谷孫六の息子として生まれた。和漢学を学ぶ。 岐阜県会議員、同常置委員、同副議長、同議長を歴任した。また、近隣町村と合併して人口不足を解消し私財を投じるなどして岐阜市の市制を実現し、同市の初代市長に就任した。 実業家としては資金貸与、濃南各会社社長、岐阜米糸取引所理事長、東京硝子、日本運輸各取締役を務めた。ほか、蚕業試験場を設立し蚕糸改良に尽力した。
橋岡 忠三郎(はしおか ちゅうざぶろう、1832年1月17日… 橋岡 忠三郎(はしおか ちゅうざぶろう、1832年1月17日(天保2年12月15日) - 1910年(明治43年)3月15日)は観世流シテ方の能役者にして橋岡家六世。名は雅茂、號は雅雪(がせつ)。岐阜県の出身。 美濃国近ノ島村で医師・藤井平兵衛(元徳)の二男として1831年(天保2年12月15日)に生まれ、20歳頃に能役者・橋岡泰次郎の養子となる。江戸時代の能役者は若年寄り配下として幕府の保護を受けていたが、維新後はその地位が失われ職を転じる者多数。忠三郎も代書屋をして生計を立てた。 観世清孝(1837-1888年)の時代、宗家困窮のため「観世流本面」が海外に流出しかけたところ、忠三郎が神戸で買い留め流派の面目を保つ。