平田 佐十郎(ひらた さじゅうろう、1893年(明治26年)… 平田 佐十郎(ひらた さじゅうろう、1893年(明治26年) - 1918年(大正7年)11月11日)は、三重県四日市市出身の実業家。平田家の3代目当主である。2代目平田佐次郎の長男で、佐次郎から一旦平田家の家督を継承し、平田紡績の3代目社長も務めた。スペイン風邪の病死者である。 2代目平田佐次郎とたきの長男として、三重県三重郡富洲原村の富田一色本町(現在の四日市市富田一色地区七軒本町)で出生した。祖父は、平田紡績創業者の初代平田佐次郎である。初代と2代目の親子2代で「平田佐次郎」を襲名していたが、3代目当主は「佐十郎」を名乗った。8男4女の12人兄弟であり、母親の平田たきは吉川家出身で、最後に平田佐貞などの双子の男子を出産をした際に体調が悪化して病死した。
古野 伊之助(ふるの いのすけ、1891年〈明治24年〉11… 古野 伊之助(ふるの いのすけ、1891年〈明治24年〉11月13日 - 1966年〈昭和41年〉4月24日)は「同盟通信社」を運営した日本の通信事業経営者。 1891年11月13日、三重県朝明郡富田村(現在の四日市市)に織物業を営む古野宗七の長男として生まれた。5歳のとき、父が事故で亡くなると一家は経済的に逼迫した。高等小学校を卒業した年に上京。洋品店の小僧、次いで株屋の店員として働きながら神田の国民英学校へ通った。1909年から京橋区瀧山町六番地のAP通信東京支局で給仕として働いた。当時の支局長は元ワシントン・ポスト特派員のジョン・ラッセル・ケネディ(John Russel Kennedy)というアイルランド人であった。
野田 哲造(のだ てつぞう、1891年6月21日 - 199… 野田 哲造(のだ てつぞう、1891年6月21日 - 1992年7月30日)は、日本の銀行家、経営者。住友銀行社長兼会長を務めた。 三重県津市出身。旧制津中学、旧制一高を経て1915年に東京帝国大学法学部政治科を卒業し、同年に住友銀行に入行。 常務、専務、副社長などを歴任し、1945年から財閥解体後に初めて社長兼会長に就任したが、公職追放の拡大により、その影響が出ることを恐れ、1947年2月に退任。 大阪銀行協会会長、大阪商工会議所監事、レンゴー相談役、武田薬品工業顧問なども歴任した。 1965年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1992年7月30日、急性心不全のために死去。101歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
丹羽 五郎(にわ ごろう、1890年(明治23年)7月28日… 丹羽 五郎(にわ ごろう、1890年(明治23年)7月28日 - 1958年(昭和33年)11月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 三重県飯高郡(現松阪市)で丹羽雨斉の五男として生まれる。岩手水産学校(現岩手県立宮古水産高等学校)漁撈科を修了。漁撈の研究を行う。 1915年(大正4年)丹羽船舶漁業部を開設。1919年(大正8年)大阪海事を設立し取締役社長に就任。その他、泰和洋行船舶部長、東明銀行取締役、日本索道常務取締役、丹羽船舶部社長、大阪機帆船海運組合理事、日本海獣取締役、大阪機帆船運送取締役、日本近海汽船取締役、日本海運協会小型船委員会委員、丸三商店取締役、尼崎船渠社長、中央産業社長、海上交通社(大阪)社長、近畿造船連合会副会長などを務めた。
天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月… 天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月15日 - 1976年(昭和51年)12月1日)は、日本の発明家・実業家。アマノ株式会社の創設者。子息に立命館大学名誉教授・学校法人立命館元総長の天野和夫。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の三重県鈴鹿市石薬師町)出身。1911年(大正元年)、23歳の時に「A式綴紙器」を発明して特許を取得。1931年(昭和6年)、東京蒲田に天野製作所を設立してタイムレコーダー・気象用計器の製造を開始した。1938年(昭和13年)に海軍から雷道計の開発・製造を請け負い横浜菊名に新工場を建設し、1942年(昭和17年)には海軍管理工場に指定されて本社を菊名工場に移転したが、敗戦により工場閉鎖。
諸戸 精太(もろと せいた、1885年(明治18年)10月1… 諸戸 精太(もろと せいた、1885年(明治18年)10月11日 - 1931年(昭和6年)10月2日)は、日本の地主、三重県多額納税者、資産家、実業家。諸戸タオル代表社員。族籍は三重県平民。氏は諸戸氏、家名は諸戸家。 三重県桑名郡桑名町(現桑名市)生まれ。三重県の富豪初代諸戸清六の次男。二代目諸戸清六の兄。1907年、分家して一家を創立する。農業、林業、養魚業を営む。傍ら諸戸精太商会を主宰し、高級タオルの製織を為し、業礎を築く。 諸戸殖産合名会社、合名会社諸戸精太商会、諸戸タオル合名会社各代表社員、保証責任西諸戸家信用購買販売利用組合理事長、桑名商工会長、桑名郡動力組合長、桑名郡水産会長などをつとめる。
吉田 貞次郎(よしだ ていじろう、1885年(明治18年)2… 吉田 貞次郎(よしだ ていじろう、1885年(明治18年)2月17日 - 1948年(昭和23年)7月25日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、北海道空知郡上富良野村長。 三重県奄芸郡一身田村(現津市)で農業・米穀商の吉田貞吉の長男として生まれる。家業の不振のため、1900年、16歳の時に三重団体に加わる父に従い北海道空知郡富良野村(現上富良野町)に移住した。忙しい開墾の合間に独学で学びを続け、徴兵時には一年志願兵を優秀な成績で終え、在郷中に陸軍歩兵中尉に昇進した。 村役場職員となり、以後、上富良野村会議員、同村長、信用購買組合長、農業組合長、農業会長、帝国在郷軍人会上富良野分会長、東中富良野及び草分土功組合長などを務めた。
小野 耕一郎(おの こういちろう、1883年(明治16年)4… 小野 耕一郎(おの こういちろう、1883年(明治16年)4月1日 - 1945年(昭和20年)1月21日)は、明治末から昭和前期の農業経営者・政治家。衆議院議員、三重県一志郡下之川村長、同郡久居町長。 三重県一志郡下ノ川村(下之川村大字下之川、美杉村大字下之川を経て現津市美杉町下之川)で、豪農・小野耕平の長男として生まれ、1902年(明治35年)三重県立津中学校(現三重県立津高等学校)を卒業し、同年に家督を相続し農業を営む。 下之川村産業組合長、地方森林会議員、一志郡木炭同業組合長、三重県木炭同業組合連合会評議員、産業組合中央会三重支部理事、三重県海外協会理事、同海外移住組合理事などを務め、農事の改善、産業振興に尽力した。
井口 延次郎(いぐち のぶじろう、1882年(明治15年)1… 井口 延次郎(いぐち のぶじろう、1882年(明治15年)1月14日 - 1965年(昭和40年)6月7日)は、明治末から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 三重県三重郡、のちの四日市町(現四日市市)で、素封家、石材商・井口長右衛門の二男として生まれた。小学校卒業後に上京し、国民英学会で学んだ。 貿易商薩摩商会に入り下積みから始めて次第に信頼を得て、東京本店、大阪支店、旅順出張所などで勤務した。第一次世界大戦時に井口汽船部、弥彦商会、東京海運 (株) を設立して、海運業で巨万の富を築いた。その他、朝日海陸運輸、東洋耐火煉瓦、東洋電業、明光堂などを経営した。 政界にも進出し、1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で三重県第2区から政友本党公認で出馬して初当選し、1928年(昭和3年)2月の第16回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年(明治13年)5… 伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年(明治13年)5月18日 - 1941年(昭和16年)1月)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家・実業家・歌人。
伊坂 秀五郎(いさか ひでごろう、明治11年(1878年)1… 伊坂 秀五郎(いさか ひでごろう、明治11年(1878年)12月17日 - 昭和15年(1940年)12月17日)は、衆議院議員(4期)、鉄道実業家。昭和会所属。 三重県河曲郡、のちの河芸郡若松村(現鈴鹿市)出身。慶應義塾で学ぶ。 若松村長、三重県会議員、三重県参事官、三重県議会副議長を経て、三重県会議員議長(26代)を歴任。鉄道会議員となり、伊勢鉄道会社社長、その後の伊勢電鉄株式会社取締役。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会からの推薦を受けて当選(以降3回当選)。のちに昭和会の結成に参加し、所属する。 他には、「開国曙光碑」の発起人となる。 五私鉄疑獄事件で贈賄罪で公判に付される。
11代 伊藤 伝七(いとう でんしち、1878年(明治11年… 11代 伊藤 伝七(いとう でんしち、1878年(明治11年)10月 - 1960年(昭和35年)6月26日)は、三重県四日市市出身の実業家。三岐鉄道社長や東洋紡績会長、志摩電鉄社長、貴族院議員等を歴任した。10代目伊藤伝七の甥で養子。 1878年(明治11年)10月に10代目伊藤伝七の弟・伝平の子・栄治郎(栄次郎とも)として生まれる。10代目伝七の二女せきの夫となり、伊藤家の家督を相続して11代目伊藤伝七を襲名する。1899年(明治32年)に高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1910年(明治43年)7月に三岐鉄道株式会社の創立委員長となる。藤原岳にセメントの原料となる石灰岩がある事に注目した浅野セメントと小野田セメントの2大企業が、原料の確保とセメント製品の陸上運搬のために鉄道敷設を計画し、「藤原鉄道」と「員弁鉄道」の2つをそれぞれ候補名にして鉄道敷設免許の申請を昭和2年度に三重県に提出した。
石原 円吉(石原 圓吉、いしはら えんきち、1877年(明治… 石原 円吉(石原 圓吉、いしはら えんきち、1877年(明治10年)12月7日 - 1973年(昭和48年)2月2日)は、大正から昭和期の漁業関係者、政治家、実業家。衆議院議員(3期)、三重県志摩郡和具町長。初名は彦四郎。 三重県英虞郡和具村(現志摩市志摩町和具)で、先代・石原円吉の長男として生まれる。1919年(大正8年)家督を相続し円吉を襲名。 三重県会議員、同議長、和具町長を務め、水産振興、漁港整備などに尽力。また、三重県水産会長、三重沃土取締役社長、石原満俺取締役社長、三重県鮮魚運搬統制組合理事長、ラジオ三重監査役、三重交通取締役、志摩観光ホテル取締役、全国漁業協同組合連合会監事、三重県漁業協同組合連合会長、伊勢志摩国立公園協会長などを務めた。
中村 豊次郎(豐次郎、なかむら とよじろう、1871年11月… 中村 豊次郎(豐次郎、なかむら とよじろう、1871年11月30日(明治4年10月18日)- 1945年(昭和20年)8月8日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員(三重県郡部選出、当選1回)。 桑名県桑名郡、のちの三重県桑名郡桑名町(現桑名市)で、中村太三郎の長男として生まれる。1898年(明治31年)、家督を相続した。東京専門学校で学び、アメリカ合衆国に漫遊した。 北海道で中村農場を経営し、開拓事業に従事。実業界では、京都電気鉄道取締役、日本興業取締役、東洋電業取締役、久城耐火煉瓦取締役、若王子鉱業取締役などを務めた。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(三重県郡部、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
松井 房吉(まつい ふさきち、1871年1月 - 1950年… 松井 房吉(まつい ふさきち、1871年1月 - 1950年6月24日)は、日本の大正期から昭和初期の実業家、相場師。松井房吉商店(現在の松井証券)の創業者。 明治初期に三重県桑名市の医者・加藤勘兵衞の次男として生まれる。松井家に養子に出され松井姓になる。日本橋蛎殻町で丸三商店(現在の丸三証券)創業者の1人である川北徳三郎のもとで相場を修業し、川北とともに日本橋兜町に進出する。兜町で5人の仲間と匿名組合を設立して、株取引の仲介業務を始め、1918年5月10日他の5人から権利を買い取り松井房吉商店を創業した。兜町では「売りの房吉」と恐れられ、第一次世界大戦後の1920年3月15日の株価大暴落で、兜町でただ1人大儲けをし、巨万の富を築く。
福地 銭吉(錢吉、ふくち せんきち、1868年11月25日(… 福地 銭吉(錢吉、ふくち せんきち、1868年11月25日(明治元年10月12日)- 1921年(大正10年)4月4日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員、三重県阿山郡東柘植村長。 伊賀国阿拝郡上柘植村(三重県阿山郡東柘植村上柘植、柘植町、伊賀町を経て現伊賀市)で、福地次郎の長男として生まれる。第三高等学校で学んだ。農業を営む。 伊賀筵叺同業組合長、阿山郡連合産業組合理事、東柘植村産業組合長、第八十三銀行取締役、東海製糸監査役などを務めた。 政界では、東柘植村長、阿山郡会議員、三重県会議員(1911年-1920年)などに在任し、学務委員、所得税調査委員なども務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に三重県第10区から立憲国民党公認で出馬し、川崎克との激しい選挙戦を制して当選したが、議員在任中の1921年4月に死去した。
平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月… 平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月8日〕- 大正14年〔1925年〕9月10日)は、日本の実業家、官吏、特許辨理士。推理作家・江戸川乱歩の父。 三重県津市出身。武士の家柄で津藩の藤堂家に仕えていた七代目平井杢右衛門(陳就)・後妻の和佐との間に生れた。関西法律学校(現・関西大学)第一回卒業生として卒業後、青年官吏として三重県名賀郡右名張町(名張市)役所に奉じた。この頃、津藩家臣の長女のきくと結婚し、1894年 (明治27年)第一子を儲け、太郎と命名。これが後の江戸川乱歩である。間もなく、鈴鹿郡へ転勤。1897年に東海紡績同盟会の職員となり、名古屋に移った。東海紡織同盟会書記長を歴任。
九鬼 紋七(くき もんしち、1866年3月10日(慶応2年1… 九鬼 紋七(くき もんしち、1866年3月10日(慶応2年1月24日) - 1928年(昭和3年)3月15日)は、三重県四日市市出身の政治家、また九鬼産業グループを経営する実業家。四日市電灯・三重人造肥料・四日市倉庫社長・東洋紡績取締役・四日市商工会議所副会頭等。四日市の政財界の指導者。四日市九鬼家当主で8代目九鬼紋七を襲名した。国政に進出して衆議院議員(1期)を務める。甥は四日市政財界の大御所であった九鬼紋十郎。家業を継いだ長男・徳三(9代目紋七)も衆議院議員を務めた(妻は外交官市河彦太郎の妹)。 1886年(慶応2年)1月に四日市の中納屋町69番地在住の大地主である四日市九鬼家に誕生する。四日市九鬼家は戦国時代から安土桃山時代に活躍した九鬼水軍の末裔である。
森 茂生(もり しげお、1865年6月18日(慶応元年5月2… 森 茂生(もり しげお、1865年6月18日(慶応元年5月25日)- 1929年(昭和4年)8月22日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、三重県桑名郡桑名町長。幼名・栄次郎。 伊勢国桑名郡矢田村(三重県桑名郡益生村大字矢田、桑名町を経て現桑名市矢田)で、森純次郎の二男として生まれる。慶應義塾で学んだ。1889年(明治22年)6月に家督を相続した。 政界では、益生村会議員、町村組合会議員、桑名郡会議員、同参事会員、同議長、三重県会議員(1890年-1902年)、同参事会員、同副議長、桑名町長などを務めた。1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(三重県郡部、中正倶楽部)で初当選。
安保 庸三(あぼ ようぞう、1865年 3月13日(元治2年… 安保 庸三(あぼ ようぞう、1865年 3月13日(元治2年2月16日)– 1942年(昭和17年)5月16日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、三重県会議長。旧姓・四方。 伊勢国飯高郡、のちの三重県飯南郡松阪町(現松阪市)で、四方梅次郎の長男として生まれ、1884年(明治17年)安保ひさ の養子となり家督を相続した。明治法律学校で学んだ。 才賀藤吉の指導を受けて松阪電気を設立し、のち社長に就任。その他、松阪鉄道社長、勢和自動車社長、南勢新聞社長、松阪共産取締役、三重出版取締役、三重県農工銀行監査役、松阪劇場監査役などを務めた。 政界では、松阪町会議員、飯南郡会議員、三重県会議員、同議長などを務めた。
森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年… 森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年4月13日)- 1927年(昭和2年)2月10日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。号・得堂。 志摩国英虞郡、のちの三重県志摩郡鵜方村(鵜方町、阿児町を経て現志摩市阿児町鵜方)で、大地主・森本佐左衛門、なつ の長男として生まれる。1877年(明治10年)三重県師範学校を卒業。さらに同人社英学科及び漢学科を卒業し、専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。帰郷して、しばらく著作業に従事した。 1891年(明治24年)3月、家督を相続して農業を営み、三重県会議員に選出され、同常置委員も務めた。また、三重県農工銀行取締役、同頭取、三重銀行取締役、津商業会議所特別議員などに在任した。
御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政… 御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1954年(昭和29年)9月21日) は、日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれた。 志摩国答志郡鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。
井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8… 井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8月8日)- 1925年(大正14年)8月31日)は、三重県四日市市(伊勢国)出身の政治家、教育者、実業家。第2代四日市市長(官選市長)。 井島家は戦国時代には北畠氏の家臣であったが、1570年(元亀元年)に多気郡浅香(現在の松阪市嬉野町付近)から四日市に移住して、北勢四十八家の1つの浜田氏の重臣となった。江戸時代には、市場町四日市を開拓した旧家として名高く、代々庄屋を務めた。1804年(文化元年)以降は苗字帯刀永久御免となった。 竪町(現在の四日市市北町)に誕生した茂作は、1867年(慶応3年)に庄屋役見習い、1872年(明治5年)には度会郡の山田国札引替役に任命された。
11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年1… 11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年10月12日(安政元年8月21日)- 1905年(明治38年)10月15日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・卯之助、六太郎。号・顕堂。 伊賀国阿拝郡上野福居町(三重県阿拝郡上野町福居町、阿山郡上野町、上野市を経て現伊賀市)で、商業、10代・森川六右衛門(顕斎)、欽子の息子として生まれる。熊田二爻に学び、さらに猪飼箕山(猪飼敬所の子)、富士林東峡、速水謙堂、山中房之助などにつき和漢学を修めた。津藩武術指南役・太田小源太、橋本佐源太らにつき剣術砲術を修めた。 1869年(明治2年)津藩から米問屋役を命じられた。1873年(明治6年)私塾を開いて漢学、数学を伝授した。
川喜田 四郎兵衛(かわきた しろうべえ、嘉永7年1月12日〈… 川喜田 四郎兵衛(かわきた しろうべえ、嘉永7年1月12日〈1854年2月9日〉 - 1919年〈大正8年〉7月31日)は、明治から大正時代にかけて三重県津市を拠点に活動した日本の実業家・政治家である。「四郎兵衛」は当主が代々襲名した名跡であり、諱は政孝という。 家業として酒類・米穀・肥料などを扱う問屋を営みつつ地元財界に進出し、津商業会議所(現・津商工会議所)会頭と百五銀行頭取を約25年にわたり兼任。政界では1889年(明治22年)の市制施行以来30年にわたり津市会議員を務め、その間副議長・議長を歴任した。女婿に百五銀行頭取の職を継いだ川喜田久太夫(諱は政令、号は半泥子)がいる。 嘉永7年1月12日(=安政元年、新暦:1854年2月9日)、先代川喜田四郎兵衛(隠居号「岫斎」、1832年生)の長男として生まれた。
十代目伊藤伝七(じゅうだいめ いとう でんしち、1852年8… 十代目伊藤伝七(じゅうだいめ いとう でんしち、1852年8月9日(嘉永5年6月24日) - 1924年(大正13年)8月12日)は、 明治大正期の企業家。三重県四日市市出身の三重紡績創設者で第2代東洋紡績株式会社社長。三岐鉄道建設に私費を投じて沿線に小野田セメントを誘致した四日市市名誉市民の十一代目伊藤伝七は息子(養子)である。 伊勢国三重郡室山村(現在の三重県四日市市四郷地区)の酒造業の伊藤家に生まれる。母は進士みす。幼名は伊藤清太郎。江戸時代の幕末期に元服して伊藤伝一郎。1883年(明治16年)に父の9代目伊藤伝七が亡くなり、伊藤伝七(10代目)を襲名した。 1879年(明治12年)5月60歳で没した稀代の製糸王伊藤小左衛門 (5代目)の遺志を継いだのは、製糸頭の伊藤小十郎(伊藤小左衛門5代目の子)と、後に紡績王と称される伊藤伝一郎(伊藤伝七10代目、後の伊藤伝七知周)の2人であった。
牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年… 牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年12月28日) - 1922年(大正11年)3月5日)は、明治期から大正期のジャーナリスト、官僚、実業家、政治家。慶應義塾出身、衆議院議員、山陽鉄道取締役会長などを務めた。 伊勢国安濃郡渋見村(後の安東村、現三重県津市)の井草家に生まれる。伊勢国一志郡(後の七栗村、現三重県津市)の牛場圭次郎の養子となる。慶應義塾に学び、島田三郎らと共に陸奥宗光の家に寄食する。 『郵便報知新聞』記者、兵庫県庁の勧業課長を経て、内務省に出仕。1881年(明治14年)、明治十四年の政変で罷免され下野。1882年(明治15年)、新聞『時事新報』の創刊に参画し記事を執筆。
三輪 猶作(みわ なおさく、1850年7月23日(嘉永3年6… 三輪 猶作(みわ なおさく、1850年7月23日(嘉永3年6月15日)- 1917年(大正6年)9月17日)は、明治から大正前期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、四日市市会議長。 伊勢国三重郡浜田村(三重県三重郡四日市町浜田を経て現四日市市)で、大地主、酒造業・三輪嘉平(嘉左衛門)の長男として生まれる。堀木恥堂から漢籍を学んだ。酒造業、肥料商を営む。 1886年(明治19年)頃、三重県酒造改良協会の設立を主導し、専門技術者を招聘して醸造術の近代化を図り、酒造法の改善に貢献した。また、四日市米穀取引所、四日市銀行の設立に尽力し、取引所理事長、銀行2代頭取を務めた。その他、関西鉄道監査役、三重県人造肥料監査役、三重土木取締役、四日市倉庫重役、四日市商業会議所役員なども務めた。
平田 力之助(ひらた りきのすけ、1850年2月21日(嘉永… 平田 力之助(ひらた りきのすけ、1850年2月21日(嘉永3年1月10日)- 1932年(昭和7年)10月1日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。 伊勢国朝明郡、のちの三重県三重郡大矢知村(現四日市市)で生まれる。漢学、英学、普通学を学び、1888年(明治21年)慶應義塾を卒業。農業、商業を営む。 大矢知村会議員、学務委員、三重郡会議員、三重県会議員を務めた。一貫して自由党系政党に所属し、地価修正、地租軽減に尽力した。 和波久十郎の失職に伴い、1900年(明治33年)11月に実施された第6回衆議院議員総選挙三重県第3区補欠選挙に出馬して初当選し、その後、第8回まで再選され、衆議院議員に連続3期在任し、この間、政友会院内主事などを務めた。
原田 二郎(はらだ じろう、嘉永2年10月10日〈1849年… 原田 二郎(はらだ じろう、嘉永2年10月10日〈1849年11月24日〉 - 昭和5年〈1930年〉5月5日)は、日本の実業家・篤志家。伊勢国松阪(現・三重県松阪市)出身。公益財団法人原田積善会の創設者。歌人としての号は原田嘉朝、詩人としての号は原田均斎。 嘉永2年10月10日(1849年11月24日)、伊勢国松阪城下の同心町(現・三重県松阪市殿町)に生まれた。父は東谷小平次の四男である清一郎、母は田中彦左衛門の長女である時雨子であり、いずれも原田家に養子に入った人物である。幼名は徳松であり、上京する頃までこの名前を用いた。原田家は下級武士の家であるが、徳松は文武両道に秀でており、14歳だった文久2年(1862年)には松阪学問所から褒章を受けている。
天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化… 天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化4年11月9日) - 1927年(昭和2年)8月24日)は、日本の政治家、実業家。帝国議会において、衆議院議員(政友本党所属)や貴族院多額納税者議員を務めた。朝明郡の大地主・天春家の当主。伊勢国三重郡保々村出身(現在の三重県四日市市保々地区出身)。 明治時代から大正時代にかけての政治家で、農事改良や地価改良運動に取り組んだ。 天春文衛は、朝明郡中野村の名門地主の天春家の跡継ぎとして弘化年間に誕生した。朝明郡の中野村は以下の変遷の地方自治体となる。 東京に上京して、島田元林の塾に入塾して学業を積み政治家となった。三重郡保々村の大地主であった。
大谷 嘉兵衞(おおたに かへえ、1845年1月29日(弘化元… 大谷 嘉兵衞(おおたに かへえ、1845年1月29日(弘化元年12月22日) - 1933年(昭和8年)2月3日)は、日本の商人、実業家、政治家。位階は正五位。勲等は勲三等。幼名は藤吉。名の「衞」は「衛」の旧字体のため、新字体で大谷 嘉兵衛とも表記される。 横浜市会議員、横浜市会議長、横浜商業会議所会頭、貴族院議員などを歴任した。 伊勢国出身の商人、実業家、政治家である。製茶貿易業に携わり、「茶聖」と呼ばれた。第2代横浜商業会議所(現在の横浜商工会議所)会頭や貴族院議員などを務めた。正五位勲三等。族籍は神奈川県平民。 伊勢国飯高郡谷野村(現在の三重県松阪市飯高町宮本)に、父の吉兵衛、母つなの4男1女の末子として生まれた。
増田 嘉兵衛(ますだ かへえ、1834年9月17日〈天保5年… 増田 嘉兵衛(ますだ かへえ、1834年9月17日〈天保5年8月15日〉 - 1920年〈大正9年〉9月4日)は、日本の商人(貿易商)、実業家、横浜市内の資産家。族籍は神奈川県平民。 伊賀上野車坂七面屋敷(現・三重県伊賀市)の赤貧の家に生まれる。平蔵の長男。幼くして父を亡くし、母によって育てられる。1844年、母が亡くなり、嘉兵衛は天涯孤独の身となる。魚の行商を業とする。 猪田屋に奉公する。14歳の春、大坂に出て、海産物問屋榎並屋に住み込む。文久2年、横浜で増田屋をひらき、外国糖の輸入で富をきずく。1869年、横浜為替(横浜銀行の前身)の創立に加わる。 1884年、家督を長男増蔵に譲り、分家して一家を創める。
大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年… 大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年4月18日) - 大正13年(1924年)5月11日)は、江戸時代の医師、明治、大正期の薬剤師、実業家、政治家。 和歌山県平民・大井源四郎の長男として紀伊国牟婁郡西山郷平谷村(三重県南牟婁郡西山村、紀和町を経て現熊野市紀和町平谷)に生まれ、1845年(弘化元年)から1848年(嘉永元年)まで、菊岡隆之助に漢学を学び、その後京都に出て医学を修め、さらに1855年(安政元年)から長崎でオランダ人、ポンペ、ボードウィンのもとで蘭学と医学を学んで蘭方医となる。 長崎に9年いたのち、1861年(文久3年)飫肥藩で1年洋医学を教え、1865年(慶応元年)に大阪で開業、1867年(慶応3年)には大坂歩兵屯営付き軍医として伏見の役に出陣。
5代目 伊藤 小左衛門(ごだいめ いとう こざえもん、181… 5代目 伊藤 小左衛門(ごだいめ いとう こざえもん、1819年1月13日(文政元年12月18日) - 1879年(明治12年)5月21日)は、三重県四日市市の企業家。幕末期から明治初期にかけて四日市地域に近代産業を浸透させて、工業都市・四日市市の基礎を作り、貿易を重視して産業の近代化を推進した。幼名は伊藤小四郎、伊藤小平治、諱は伊藤尚長である。六代目伊藤小左衛門は息子で伊藤家の後継者であった。
熊澤 一衛(くまざわ いちえ) 1877年(明治10年)11… 熊澤 一衛(くまざわ いちえ) 1877年(明治10年)11月1日-1940年(昭和15年)2月14日は、三重県四日市市出身の大正時代から昭和時代の戦前期の実業家。歌人。伊勢電鉄社長。『校本萬葉集』刊行を支援した伊勢生まれの実業家である。 1877年(明治10年)11月1日に現在の三重県四日市市河原田地区に生まれる。父が熊澤市兵衛、母が熊澤かと子の長男として生まれている。熊澤家は農家で河原田の旧家で地主であり、代々藤堂氏の津藩の御金御用達の役を務めていた。熊澤市兵衛は幕末に庄屋などを務めており、戊辰戦争で『撒隊士』という身分で東征に従っている。明治になって四日市に帰郷したが、明治時代に若くして三重県会議員になり、河原田村の村長などの名誉職となった。
Yamasuke(ヤマスケ、本名:山本 大〔やまもと ひろす… Yamasuke(ヤマスケ、本名:山本 大〔やまもと ひろすけ〕)は、日本のインディーズレーベル、レコード会社及び、芸能事務所、音楽出版社であるFantasy RECORDSの代表取締役社長である。 2012年から愛知県を中心に活動するインディーズのヒップホップアーティストLi-Luckのマネージャー、また映像製作、サウンドデザイナー、戦略、ライブ・ブッキング、楽曲制作/楽曲分析、レコーディング・エンジニア、映像に関する台本制作、その他の台本制作、売り込み、写真モデル、スタント等、裏方業務を担当している。 また、自身の音楽グループとしてBitter Noiseのキーボード兼ボーカルとしても活動している。