川澄 健一(かわすみ けんいち、1913年2月18日 - 2… 川澄 健一(かわすみ けんいち、1913年2月18日 - 2015年3月13日)は昭和・平成期に活動した日本の作曲家。滋賀県彦根市出身。 滋賀師範学校卒業。1931年(昭和6年)度の文部省教員検定試験に合格しルドルフ・フェッチ、宮原禎次らの師事を仰ぐ。帝塚山学院高等女学校教諭や帝塚山中学校教諭を経て神戸女学院大学教授。 戦後は主にNHKや在阪民放各局の番組で劇伴を手掛け、NHK全国学校音楽コンクールや毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクール、JRN主催のこども音楽コンクールで長年にわたり審査員を務めた。また、近畿地方を中心に校歌や市町村歌、社歌など300曲余りを作曲し、特に詩人の竹中郁とコンビを組むことが多かった点が特筆される。
山本 正明(やまもと まさあき、1912年10月12日 - … 山本 正明(やまもと まさあき、1912年10月12日 - 1997年7月17日)は、日本の経営者。沖電気工業社長、会長を務めた。滋賀県大津市出身。 1936年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に安田銀行(のちの富士銀行)に入行。1959年に沖電気工業常務に就任し、1966年に専務、1969年5月に副社長を経て、1972年11月に社長に就任。1978年6月に会長に就任し、1979年6月から相談役を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1997年7月17日心不全のために死去。84歳没。
村岸 博三(むらぎし ひろぞう、1912年10月3日 - 1… 村岸 博三(むらぎし ひろぞう、1912年10月3日 - 1971年4月10日)は、日本の実業家。総合商社の丸紅(丸紅飯田)常務取締役、日本ゴム輸入協会会長、日本ゴム輸入組合理事長などを歴任した。 滋賀県彦根市出身。1934年、彦根高等商業学校本科(滋賀大学経済学部)を卒業し、同年に大同貿易(現 丸紅)へ入社した。また、彦根高等商業学校の同級生の川村喜太郎も、のちに丸紅で常務取締役を務めている。 大同貿易本社輸出織物部に入社後、フィリピンのセブ支店やマニラ支店で勤務し、輸出麻部・輸入雑貨部などで実務経験を積んだ。その後は神戸本店で繊維製品課長を務めた。 戦時中には南方軍司令部報道班員を務めたほか、朝鮮釜山支店長に就任。
染谷 一雄(そめたに かずお、1912年(大正元年)9月19… 染谷 一雄(そめたに かずお、1912年(大正元年)9月19日 - 1980年(昭和55年)11月30日)は、日本の囲碁棋士。滋賀県出身、久保松勝喜代名誉九段門下、日本棋院関西総本部所属、九段。第4期本因坊戦最終予選ベスト4など。重厚で力戦型の棋風。 滋賀県神崎郡(現・東近江市)に生まれる。父は京都から無医村の永源寺町に派遣されて住み着いていた医師で、囲碁好きだった。9歳の時に片足が不自由になったため、父は体が不自由でも成功できる道のある囲碁を熱心に教えるようになった。京都で腕を磨き、1926年に久保松勝喜代に入門。1927年初段。1932年大手合春期乙組優勝、三段。1939年四段。その後も1941年まで内弟子を続け、久保松門の塾頭格として後輩を指導した。
木辺 宣慈 (きべ せんじ、旧名:成麿(しげまろ)、1912… 木辺 宣慈 (きべ せんじ、旧名:成麿(しげまろ)、1912年4月1日 - 1990年5月2日)は、日本の浄土真宗の僧侶、真宗木辺派21代門主。光学技術者。レンズ磨きの名人として知られ、「レンズ和尚」と呼ばれた。父親は木辺孝慈、母親は醍醐忠敬の娘・静子。長姉の彰子は子爵藤谷為寛の二男・為隆の妻。次姉の弘子は、真宗誠照寺派の28世法主、二条秀淳に嫁いだ。妹の行子は、徳山毛利家の子爵毛利元靖の妻。 父方祖父は大谷光尊、父方伯父叔母に大谷光瑞、大谷尊由、九条武子ら、母方伯父に醍醐忠重がいる。
宮崎 信義(みやざき のぶよし 1912年2月24日 - 2… 宮崎 信義(みやざき のぶよし 1912年2月24日 - 2009年1月2日)は、日本の歌人。口語自由律短歌(いわゆる新短歌)の隆盛に努めた。短歌雑誌「未来山脈」代表。京都歌人協会委員長。新短歌人連盟会長。現代歌人協会会員。 滋賀県坂田郡息長村箕浦(現在の米原市)、米原駅近くの母の生家で生まれる。2歳の時に、警察官だった父を殉職で失う。その後、教職についた母に育てられる。 昭和6年、県立彦根中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)時代、歌人の平井乙磨の薦めで前田夕暮の「詩歌」の会員となり、矢代東村の選で「詩歌」に初めて短歌5首が掲載された。横浜の旧制横浜専門学校(現在の神奈川大学)に進学するため関東に移り、中野嘉一や香川進らと出会う。
吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日 -… 吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日 - 2000年11月7日)は、昭和期の映画監督である。兄はフランス文学者の吉村正一郎。4人の子供を儲け、長男は元NHK解説委員の吉村秀實。映画監督の西村昭五郎は、いとこ。 滋賀県大津市膳所生まれ。吉村家は、同県坂田郡山東町の中山道で代々脇本陣を営んでいた。父・吉村平造は大阪朝日新聞社の政治記者から、保険会社重役などを経て、大阪市助役、第11代広島市長(在任1915年1月~1916年12月)を務めたため、これに伴い2歳から京都市下京区で、4歳時は広島市大手町で育った。広島を発つ前の晩、家族で万代橋のたもとにあった映画館で映画を初体験。チャップリンの映画に感銘を受けたことが映画を志す切っ掛けだったという。
北川 弥助(きたがわ やすけ、1911年1月20日 - 20… 北川 弥助(きたがわ やすけ、1911年1月20日 - 2005年6月9日)は、滋賀県の政治家、滋賀県議会議員。五個荘町名誉町民。県議を連続14期・約53年間務め、大山広司に更新されるまで全国の県議の在職期間の最長記録保持者だった。戦後の滋賀を語る「県政の生き字引」と呼ばれた。 滋賀県神崎郡旭村伊野部(現東近江市五個荘伊野部町)出身。油の行商の傍ら青年団活動を行い、1950年の第1回統一地方選県議補選で民主自由党から立候補して初当選。その後、連続で14期・19440日間議員を務めた。1970年に藍綬褒章、1981年に勲三等瑞宝章を受章。1998年には都道府県議で初の在職五十年表彰を受賞した。 県議会議長を三回、自民党県連会長三回、全国農業共済協会副会長、県商工連合会長、県農業共済連合会長、県土地改良事業団体連合会長、愛知川沿岸土地改良区理事長など多くの役職を務めた。
天利長三(あまり ちょうぞう、1910年(明治43年)10月… 天利長三(あまり ちょうぞう、1910年(明治43年)10月9日 - 2000年(平成12年)7月10日)は、日本の経済学者。専門は金融論。 滋賀県長浜市出身。1936年東京商科大学卒、1961年「貨幣経済と実物経済」で一橋大学より経済学博士の学位を取得。彦根高等商業学校教授、東京商科大学経済研究所参事、小樽商科大学教授、東京女子大学教授、東京都立大学教授、青山学院大学経済学部教授を務め、1980年定年、名誉教授となり、東海大学教授を務めた。
福永 健司(福永 健司、ふくなが けんじ、1910年〈明治4… 福永 健司(福永 健司、ふくなが けんじ、1910年〈明治43年〉8月5日 - 1988年〈昭和63年〉5月31日)は、日本の政治家、衆議院議長(第63代)、内閣官房長官(第9・10・26・27代)、労働大臣(第19代)、厚生大臣(第51代)、運輸大臣(第49代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総務会長を歴任。位階は従二位、勲一等旭日桐花大綬章。息子は元自民党衆議院議員の福永信彦。 滋賀県甲賀郡甲賀町(現・甲賀市)出身。旧制松江高校文科甲類、1933年東京帝国大学法学部法律学科卒業後、片倉製糸紡績に入社。 1947年、西村実造埼玉県知事の要請を受けて埼玉県副知事となる。カスリーン台風が到来したときには、利根川が決壊するなか陣頭指揮にあたる。
高祖 保(こうそ たもつ、1910年〈明治43年〉5月4日 … 高祖 保(こうそ たもつ、1910年〈明治43年〉5月4日 - 1945年〈昭和20年〉1月8日)は、日本の詩人。 1910年(明治43年)5月4日、岡山県邑久郡牛窓町(現:瀬戸内市)の素封家に生まれる。 1919年(大正8年)、前年の父の死去を機に分家し、母の実家がある滋賀県犬上郡彦根町(現:彦根市)の外馬場に移り住む。 彦根尋常高等小学校(現:彦根市立城東小学校)を卒業。 1928年(昭和3年)、滋賀県立彦根中学校(現:滋賀県立彦根東高等学校)を卒業。 1930年(昭和5年)12月、金沢の第九連隊第一中隊に、幹部候補生として入隊。 1932年(昭和7年)、母と別居し、國學院大学附属高等師範部に入学。
北川 静二(きたがわ せいじ、男性、1910年2月9日 - … 北川 静二(きたがわ せいじ、男性、1910年2月9日 - 1997年4月19日)は、日本のフィギュアスケート選手(シングル)。指導者。滋賀県出身。1935年全日本フィギュアスケート選手権優勝。 八幡商業学校卒。銀行勤務の傍らフィギュアを始め、1933年関西フィギュアスケート選手権大会で優勝。 1935年度の第7回全日本選手権では、前回王者・片山敏一のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック参加による欠場はあったものの、見事優勝を果たす。 また、妻の政子をパートナーに、日本アイスダンスの草分けとしても知られた。 戦後は京都府スケート連盟初代会長・日本スケート連盟理事・国際公認審判員などを務める傍ら、政子とともに後進育成に尽力する。
中山 健男(なかやま たけお、1910年(明治43年)1月7… 中山 健男(なかやま たけお、1910年(明治43年)1月7日 - 1977年(昭和52年)10月17日)は、日本の法学者(憲法学)。法学博士(京都大学・1966年)(学位論文「国家と宗教に関する研究」)。日本法政学会理事。滋賀県出身。
森口 華弘(もりぐち かこう、明治42年(1909年)12月… 森口 華弘(もりぐち かこう、明治42年(1909年)12月10日 - 平成20年(2008年)2月20日)は、日本の染織家で友禅染めの重要無形文化財保持者(人間国宝)。蒔糊技法を用いた友禅染め作品で知られる。 森口華弘は、明治42年(1909年)12月10日に滋賀県野洲郡守山町字岡(現滋賀県守山市岡町)の森口周治郎・とめ夫妻の子として生まれ、平七郎と名付けられた。森口家は農業と米屋を営み、華弘は5人兄弟の3番目3男で偏食、病弱小柄で大変大人しく、誰彼構わず喧嘩をするガキ大将ですら平七郎とは一度も喧嘩をしなかったと伝えられる。12歳で小学校を卒業すると、遠縁が営む京都の薬店に奉公に出、夜は薬剤師を目指し薬学校夜学部に通ったが、制度変更から薬剤師になるためには専門学校卒業が義務付けられ、金銭的にゆとりがなく専門学校に進学できない平七郎は薬剤師になることを断念せざるを得なかった。
白井 庄次郎(しらい しょうじろう、1909年〈明治42年〉… 白井 庄次郎(しらい しょうじろう、1909年〈明治42年〉10月29日 - 2020年〈令和2年〉8月11日)は、日本のスーパーセンテナリアン。滋賀県高島市在住の長寿の男性。2020年4月14日以降死去するまで男性長寿日本一となっていた。 1909年生まれ。滋賀県高島市に暮らす。2016年に県内最高齢男性となる。 2016年9月時点では耳が遠いが身の回りのことは自分ででき食事の好き嫌いもない。2016年に初めて要介護認定を受けデイサービスに通い始めた。2018年時点では次男夫婦と同居し、身の回りのことは自分ででき、知事選の期日前投票にも行っている。趣味は新聞や歴史に関する本を読むことだった。 2020年4月、巴一作の死去に伴い、110歳169日で国内最高齢男性となる(厚生労働省発表、2020年4月15日)。
田中 秀果(たなか しゅうか、1909年5月15日 - 20… 田中 秀果(たなか しゅうか、1909年5月15日 - 2007年4月5日)は、昭和・平成時代日本の川柳作家、作詞家。本名・田中 秀雄(たなか ひでお)。 滋賀県彦根市出身。京都市の繊維業者に20年余り勤務した後、独立し京染加工業を営む。本業の傍ら、1932年(昭和7年)頃から新聞の川柳欄への投稿を行うようになり、今村良之祐に師事した。 御所車川柳社発行の『御所車』編集者や染織新報社発行の業界誌『そめとおり』で川柳欄の選者を務めた後、彦根へ帰郷し滋賀文学会理事に就任。1984年(昭和59年)、京都府が実施した府歌の歌詞一般公募に応募作が入選し、團伊玖磨の作曲で「京都府の歌」として制定される。 平成以降も彦根市文化協会理事として市民川柳の選者を務めていたが、2007年(平成19年)4月5日に脳内出血のため市内の病院で逝去した。
西田 善一(にしだ ぜんいち、1908年(明治41年)8月1… 西田 善一(にしだ ぜんいち、1908年(明治41年)8月1日 - 1981年(昭和56年)4月25日)は、日本の政治家・実業家。大津市長(2期)、滋賀県議会議員、大津市議会議員などを歴任。大津市長として総合開発計画、市庁舎の移転建設、町村合併、びわこ大博覧会などの大事業を行った。位階は従五位。 1908年8月1日に、大津市下堅田町(現・島の関)で、油屋「西利商店」の子に生まれる。旧制膳所中学校(現滋賀県立膳所高等学校)を経て、1929年3月に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)を卒業。学生時代は、「名ピッチャー」でならしたといい、当時バッテリーを組んでいたのは後に近江八幡市長となる井狩貞之だった。
河村 泰男(かわむら やすお、1908年5月7日 - 199… 河村 泰男(かわむら やすお、1908年5月7日 - 1997年10月13日)は日本のスピードスケート選手。滋賀県生まれ。 1908年(明治41年)5月7日滋賀県大津市生まれ。1911年(明治44年)春、一家で朝鮮半島へ渡り、次いで満州へ移住。成人して冬季はスピードスケート、夏季は自転車競技、陸上競技に専念する。 1931年(昭和6年)、日本スピードスケート最初の海外遠征として欧州選手権(ストックホルム)、世界選手権(ヘルシンキ)等に参加。 1932年(昭和7年)のレークプラシッドオリンピック、1936年(昭和11年)のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックに参加。1946年(昭和21年)夏、一家で旧満州から引き揚げ後大阪市、1947年(昭和22年)12月~石川県金沢市(体育協会)、1951年(昭和26年)夏~函館市(函館新聞・市役所・教育委員会)、1970年(昭和45年)札幌市(札幌オリンピック組織委員会)と移住。
中田 淳一(なかた じゅんいち、1908年(明治41年)1月… 中田 淳一(なかた じゅんいち、1908年(明治41年)1月25日 - 1970年(昭和45年)2月10日)は、日本の法学者。専門は民事手続法。学位は法学博士(京都大学・論文博士・1954年)。元日本民事訴訟法学会理事長。山田正三門下。弟子に鈴木正裕、谷口安平、中務俊昌、井上正三など。
上西 亮二(うえにし りょうじ、1907年8月15日 - 2… 上西 亮二(うえにし りょうじ、1907年8月15日 - 2002年2月27日)は、日本の経営者。島津製作所社長、会長を務めた。滋賀県大津市出身。 1931年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に島津製作所に入社した。1954年に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1971年から社長に就任し、1981年から会長に就任した。1986年から相談役を務めた。 1975年に創業100周年記念を機に島津創業記念資料館を開館し、1980年には島津科学技術振興財団を設立した。 1964年に藍綬褒章を受章し、1977年に勲二等瑞宝章を受章した。 2002年2月27日老衰のために死去。94歳没。
北村 四郎(きたむら しろう、1906年9月22日 - 20… 北村 四郎(きたむら しろう、1906年9月22日 - 2002年3月21日)は、日本の植物学者。キク科植物研究の第一人者とされる。京都大学名誉教授。 昭和天皇の植物学研究の相談役としても活躍し、北村の葬儀の際には、天皇明仁・皇后から白いキクの花が下賜された。 1906年に生まれる。高等学校時代にはフランス文化に関心を深めた。京都帝国大学理学部の植物学教室に進学し、小泉源一助教授に師事した。卒業論文の題目は「アザミ属の研究」であった。次いでキク科植物の分類について研究した。1945年(昭和20年)に京都大学教授に就任してからも、キク科植物分類の整理を続け、第二次世界大戦による中断を挟みながらも20年がかりでまとめた。
田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 197… 田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 1979年5月24日)は、日本の美術史家である。特に仏教美術に関して、多くの著作をのこしている。別名義としてたなか しげひさがある。 1905年(明治38年)7月17日、滋賀県甲賀郡水口町葛籠町に、父・豊吉郎、母・ゆりの五男として生まれる。豊吉郎は「小さい地方銀行家」であり、1928年(昭和3年)より栗太銀行の取締役をつとめた。京都市立中立小学校を経て滋賀県立膳所中学校に入学する。同校で日本史の教鞭をとっていた佐々木恒清に薫陶を受けるかたちで、14歳にして仏教美術を志すようになる。 大村西崖の東洋史の講義を受けるべく、1925年(大正14年)に東京美術学校に進学するも、彼の易簀を受けて翌年3月に中退、早稲田大学に転学する。
馬場 克三(ばば かつぞう、1905年 <明治38年> 3月… 馬場 克三(ばば かつぞう、1905年 <明治38年> 3月14日 - 1991年 <平成3年> 10月29日)は、日本の経営学者、会計学者。九州大学名誉教授。位階は従三位。 滋賀県彦根市出身。1926年彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)卒業。1931年九州帝国大学(現九州大学)法文学部経済科卒業。卒業後も同大学に残り、副手、講師、助教授を経て、1945年教授昇任。1968年に退官後は西南学院大学(1968年~1977年3月)、広島修道大学(1977年~1981年3月)等でも教鞭を執った。1966年藍綬褒章受章、1976年勲二等瑞宝章受章。1991年没。死没日付をもって従五位から従三位に進階した。
井狩 彌治郎(いかり やじろう、1905年(明治38年)3月… 井狩 彌治郎(いかり やじろう、1905年(明治38年)3月1日 - 1999年(平成11年)7月19日)は、昭和期の実業家。大丸社長を務めた。位階は従四位。 滋賀県出身。膳所中学校(現・滋賀県立膳所高等学校)時代は野球部に所属。慶應義塾大学経済学部を経て、同大学院修了後の1931年に大丸入社。 常務、専務、副社長を経て、1963年に社長に就任し21年間在任した。その間にはパリ、シンガポールなど海外出店を積極的に進め、1984年に相談役に退いた。 1974年から2年間にわたり日本百貨店協会会長、1970年から19年間にわたり社団法人大阪工芸協会会長を歴任。毎日放送取締役なども務めた。1999年死去。
初田 佐一郎(はつだ さいちろう、1905年2月18日 - … 初田 佐一郎(はつだ さいちろう、1905年2月18日 - 2001年3月18日)は、日本の実業家。滋賀県出身。 滋賀県立膳所中学校(現膳所高等学校)を経て、和歌山高等商業学校(現和歌山大学)卒業後、鉄道省に入省。太平洋戦争中は陸軍司政官としてフィリピンに派遣された。その後、京阪バス株式会社常務取締役、株式会社京阪交通社社長、株式会社日本レンタカー京阪社長等を務める。財団法人大阪陸運協会常任理事、財団法人大阪陸運協会会長を歴任後、財団法人大阪陸運協会顧問、京阪電鉄客員等を歴任した。著書には「生き残った者」洛陽社(1947年)等がある。
小泉 貞三(こいずみ ていぞう、1905年2月4日 - 19… 小泉 貞三(こいずみ ていぞう、1905年2月4日 - 1975年2月9日 )は、経済学者、経営学者、経済学博士。関西学院大学名誉教授・ 元関西学院大学商学部長。 交通経済学の研究において数多くの研究、業績を残し、その学問の発展に寄与された。滋賀県神崎郡生まれ。
福永 兵蔵(ふくなが ひょうぞう、1904年10月〈明治37… 福永 兵蔵(ふくなが ひょうぞう、1904年10月〈明治37年〉 - 2005年〈平成17年〉)は、日本の実業家。株式会社フクナガ創業者。リプトンの喫茶店を経営し、日本に紅茶を広めた人物とされ、「京都の紅茶王」として知られる[出典無効]。 滋賀県近江八幡市出身。地元の小学校から商業実習学校に入学。卒業後は五条の瀬戸物屋「萬珠堂」の貿易部で働き始める。 取引先であったイギリスのウォーカー商会からリプトン紅茶の喫茶店経営を薦められ、1930年に「リプトン本社直轄喫茶部 極東支店」(現:サー・トーマス・リプトン ティハウス)をオープン。日本で初めてのロイヤルミルクティーの提供や、ラジオ出演などで京都にリプトンの名を広める。
石山 源治郎(いしやま げんじろう、1904年8月27日 -… 石山 源治郎(いしやま げんじろう、1904年8月27日 - 没年不明)は、滋賀県大津市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は武田 源次郎。最高位は十両6枚目。 春日野部屋に入門し、1923年1月に初土俵を踏む。1930年1月十両に昇進。2場所続けて負け越したため、5月に幕下に落ちた。1932年1月十両に復帰したが、番付発表直後に起きた春秋園事件により脱退し、新興力士団を経て、関西角力協会に入った。
中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日… 中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日 - 1932年(昭和7年)9月24日)は、日本の天文学者、京都帝国大学天文台の職員。滋賀県出身。 1904年(明治37年)4月8日、滋賀県滋賀郡真野村(現大津市真野)に生まれる。父は真野村長などを勤めた中村与、6人兄弟の次男として誕生した。1910年(明治43年)4月、真野小学校に入学し、1916年(大正5年)3月同校を卒業、同年4月同志社中学に入学した。1920年(大正9年)に京都帝国大学理学部教授山本一清により天文同好会(略称・OAA)が発会すると、同会同志社支部に入会した。1921年(大正10年)同志社中学卒業後、第三高等学校を受験するが、天体観測に身を入れ過ぎて失敗。
西条 皎(さいじょう あきら、1904年 - 1972年)は… 西条 皎(さいじょう あきら、1904年 - 1972年)は、日本の詩人、俳人。また、居住地で村長を務めた。 滋賀郡滋賀郡真野村(現・大津市真野)に生まれる[要出典]。1927年に東海詩人協会に加わり、『東海詩集』に「軍艦」、「大佛」、「飛行船」、「仁王」等を発表。井口蕉花、高木斐瑳雄、野々部逸二、中西悟堂らの詩誌『青騎士』に「草屋詩情」等を発表。東京で佐藤惣之助と同人誌をつくる。また、岐阜市の詩魔詩人会とも交流があった。[要出典] 戦後、真野村最後の村長を務め、1964年には堅田町立真野小学校(現・大津市立真野小学校)の校歌を作詞した[要出典]。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)… 荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)5月9日 - 1983年11月2日)は、日本の英文学者、関西学院大学教授、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)教諭。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリー研究の第一人者。 滋賀県彦根市生まれ。1928年、関西学院大学文学部英文学科卒業。青森県弘前市・東奥義塾を経て1930年、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)の英語教諭となる。1946年、関西学院専門部教授、1969年、同商学部教授を退職し神戸海星女子学院大学英文学科教授となる。1981年同大を退職。 1928年に太田晃子と結婚後、1男5女をもうける。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリーのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)などの研究で知られる。
永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1903年3月8日 - … 永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1903年3月8日 - 1986年2月28日)は、滋賀県栗太郡物部村(現:守山市)出身の俳優。本名は高橋 由松。 1920年、新派の俳優・伊井蓉峰の門下生となる。 時代劇では捕り方役などで出演していた。 新派、文藝団[要出典]、マキノ撮影所、松竹、東宝、新東宝、フリーを経て、さち子プロ[要出典]に所属していた。 1986年2月28日、死去。82歳没。
外村 繁(とのむら しげる、1902年〈明治35年〉12月2… 外村 繁(とのむら しげる、1902年〈明治35年〉12月23日 - 1961年〈昭和36年〉7月28日)は、日本の小説家。本名は外村 茂(とのむら しげる)。東京帝国大学経済学部卒。出自である近江商人の世界を客観的に描いた『草筏』で注目され、『筏』『花筏』と共に長編三部作を成して高く評価された。『落日の光景』『澪標』は私小説の極致と評される。 滋賀県神崎郡南五個荘村金堂(現・東近江市五個荘金堂町)出身。金堂は近世から近代にかけて近江商人発祥地として栄えた土地である。外村家も江戸時代から代々続く木綿問屋で、茂は外村吉太郎の三男として生まれ、保守的な環境で育つ。滋賀県立膳所中学校卒業。第三高等学校文科甲類卒業。
西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1902年10月6日 -… 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1902年10月6日 - 1967年5月16日)は、日本の実業家、政治家。西川産業会長、参議院議員(4期)、北海道開発庁長官(第18代)。東京日本橋・西川ふとん店13代。貴族院議員や八幡銀行頭取を務めた十二代西川甚五郎の子。 現在の滋賀県近江八幡市出身。滋賀県立八幡商業学校を経て、1924年、早稲田大学専門部商科を卒業。アメリカに留学し、コーネル大学、ニューヨーク大学で学ぶ。 家業を継ぎ、日本蚊帳統制組合理事長、西川産業社長、近江蚊帳製造社長、滋賀ビル・日本橋西川ビル社長、滋賀銀行取締役などを歴任。 戦時中は日中戦争、太平洋戦争に召集され陸軍主計大尉。 1947年8月、猪飼清六の辞職に伴う滋賀地方区の第1回参議院議員補欠選挙に日本自由党から出馬し当選(任期3年)。
安藤 博(あんどう ひろし、1902年〈明治35年〉9月25… 安藤 博(あんどう ひろし、1902年〈明治35年〉9月25日 - 1975年〈昭和50年〉2月21日)は、滋賀県滋賀郡膳所町(現・大津市膳所)出身の発明家で、日本におけるエレクトロニクスの開拓者。日本のエジソン、東洋のマルコーニなどと呼ばれた。放送関連の研究に従事し、英語のブロードキャスト (broadcast) に「放送」という訳語を付けた。 1947年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
矢尾 喜三郎(やお きさぶろう、1901年9月28日 - 1… 矢尾 喜三郎(やお きさぶろう、1901年9月28日 - 1975年6月21日)は日本の政治家、労働運動家。位階は従三位。 滋賀県大津市出身。日本社会党所属の元衆議院議員(9期)。日本労働総同盟滋賀県連合会会長を務めた。矢尾喜の愛称で親しまれた。 1901年(明治34年)9月、大津市高見町に生まれる。1927年、 立命館大学法律科卒業。同年、社会民衆党滋賀支部設立の中心メンバーとなる。1928年、滋賀合同労働組合の結成に参加、旭絹織膳所工場の労働争議など、主に繊維関係の労働運動を主導する。1929年の大津市議会議員選挙で次点で落選するも、1931年に繰り上げ当選。大津市議会で初の無産党議員となって、失業問題などに取り組む。
浅野 晃(あさの あきら、1901年8月15日 - 1990… 浅野 晃(あさの あきら、1901年8月15日 - 1990年1月29日)は、日本の詩人・国文学者。立正大学文学部教授を経て、立正大学名誉教授。滋賀県大津市出身。 広島市中心部にあった偕行社の済美小学校(原爆で廃校)、東京本村小、南山小、青山師範付属小卒業。1914年、東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)入学。同級生に蔵原惟人、飯島正、富永太郎、河上徹太郎、足利惇氏、杉本栄一、森永太平らがいた。一年上に五島茂、池谷信三郎、一年下に小林秀雄、正岡忠三郎など。1919年9月、第三高等学校文丙入学。同級生には文丙の飯島正、島田叡、北川冬彦ら、文乙の大宅壮一、中谷孝雄、山口誓子、理科の梶井基次郎、岡潔らがいた。
山岸 巳代蔵(やまぎし みよぞう、1901年〈明治34年〉8… 山岸 巳代蔵(やまぎし みよぞう、1901年〈明治34年〉8月12日 - 1961年〈昭和36年〉5月4日)は、昭和時代の農業家。幸福会ヤマギシ会の創始者。 滋賀県蒲生郡老蘇村大字東老蘇(現・近江八幡市)にて生まれ、1922年より養鶏を中心に農業を始める。1950年にジェーン台風が日本を襲った際、山岸の田地が無事だったことが注目され、以後講演活動を始める。 1952年、山岸会を創立する。これが、「幸福会ヤマギシ会」の始まりである。1954年、『山岸式養鶏法・農業養鶏編(前編)』を、名古屋の中禽社より出版する。1958年3月には、三重県阿山郡伊賀町(現・伊賀市)にて「ヤマギシズム生活実践場春日山実験地」が実現するが、1959年7月に山岸会は不法監禁容疑で警察の強制捜査を受け、山岸会幹部9名が逮捕され、代表の山岸にも逮捕状が出された。
野口 謙蔵(のぐち けんぞう、1901年(明治34年)6月1… 野口 謙蔵(のぐち けんぞう、1901年(明治34年)6月17日 - 1944年(昭和19年)7月5日)は、日本の洋画家。滋賀県出身。 1901年(明治34年)6月17日、野口謙蔵は滋賀県蒲生郡桜川村綺田(現東近江市綺田町)で造酒業を営む裕福な家の次男として生まれた。父は桜川村初代村長を勤めた野口正寛、母は近在の素封家岡崎銀兵衛の娘で屋恵と言った。祖父野口正忠は美術愛好家で漢詩家、柿村と号し滋賀・京都の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は正忠との交遊から長く野口家に居候をしていた。伯父(野口正忠の長男)野口正章の妻野口小蘋は明治時代の人気女流画家であり、謙蔵は一流の画家・美術品に囲まれて育ち、幼い頃から絵を描くことが好きだった。
越後 正一(えちご まさかず、1901年(明治34年)4月2… 越後 正一(えちご まさかず、1901年(明治34年)4月26日 - 1991年(平成3年)4月2日)は、日本の実業家。元伊藤忠商事社長・会長。戦後再発足した伊藤忠商事・初代社長・小菅宇一郎の後任者。「伊藤忠中興の祖」、「繊維相場の神様」とよばれた。滋賀県出身。
井汲 卓一(いくみ たくいち、1901年4月1日 - 199… 井汲 卓一(いくみ たくいち、1901年4月1日 - 1995年7月25日)は、日本の経済学者、東京経済大学学長。 1901年、滋賀県で生まれた。旧制東京府立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に進学。しかし東京帝国大学文学部に転学して卒業。 卒業後は、富山高等学校講師となり赴任。翌1925年に教授となったが、1927年に京大事件に連座したとして富山高等学校を辞職した。その後、同年中に日本大学講師となって、1929年まで在職した。 1928年9月、産業労働調査所の所員となった。1931年4月に検挙されたが保釈され、その後岩波書店における『日本資本主義発達史講座』の編集作業に参画し、羽仁五郎、大塚金之助と知り合った。
西村 関一(にしむら せきかづ、1900年6月4日-1979… 西村 関一(にしむら せきかづ、1900年6月4日-1979年8月15日)は、日本の牧師、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)。アムネスティ・インターナショナル日本支部理事長。川北対合衆国事件の時には、減刑嘆願運動の中心的な人物として活動した。 新東京国際空港(現・成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった。
西尾 寿男(にしお としお、1900年(明治33年)1月8日… 西尾 寿男(にしお としお、1900年(明治33年)1月8日 - 1990年(平成2年)10月29日)は、日本の鉄道省・運輸省官僚。日本交通公社(現・JTB)初代社長。鉄道弘済会や日本ホテル協会理事長を歴任した。 滋賀県彦根市出身。麹町小学校、第一高等学校等を経て、東京帝国大学卒業。高等文官試験行政科に合格し鉄道省(後に運輸省)に入省。仙台鉄道局長、運輸局旅客課長などを歴任した。戦後は財団法人鉄道弘済会理事長を務めるが、在任中の1954年、贈収賄により東京地検特捜部によって元参院議員高田寛と共に逮捕された(いわゆる陸運疑獄に発展)。これを機に運輸省を退官し、1955年に日本交通公社(現・JTB)の株式会社となってから初の代表取締役社長に就任し、後に会長を歴任した。
高谷 覚蔵(たかや かくぞう、1899年1月1日‐1971年… 高谷 覚蔵(たかや かくぞう、1899年1月1日‐1971年3月20日)は、社会運動家、政治評論家。日本きってのソ連通として知られた。パルタイナーメ(共産党員名)は寺田。 滋賀県大津市生まれ。大阪高等工業学校の醸造科を卒業後、家業の酒屋を継がず、1922年アメリカへ渡り、アメリカ共産党に入党。1923年10月、片山潜の手引きでソ連に入り、東方勤労者共産大学を卒業後、1929年にソ連共産党員に転籍、コミンテルン極東部員、KGBの極東主要メンバーとして活動。その後、極東でオムスを取り仕切っていたゲンリフ・リュシコフの片腕となる。1935年2月帰国。同年5月検挙され転向し、その後陸軍参謀本部第5課(対ソ情報)嘱託として勤務した。
小牧 実繁(こまき さねしげ、1898年〈明治31年〉10月… 小牧 実繁(こまき さねしげ、1898年〈明治31年〉10月28日 - 1990年〈平成2年〉2月18日)は、日本の地理学者。京都帝国大学教授、滋賀大学学長等を歴任。滋賀県出身者として最初の文学博士。
外村吉之介(とのむら きちのすけ、1898年(明治31年)9… 外村吉之介(とのむら きちのすけ、1898年(明治31年)9月27日 - 1993年(平成5年)4月15日)は、民藝運動家、染織家。滋賀県出身。甥に歌人の塚本邦雄(1920年 - 2005年)がいる。 1898年(明治31年)9月27日、滋賀県神崎郡五個荘町川並(現東近江市五個荘川並町)生まれ、1925年(大正14年)に関西学院神学部を卒業した後、1932年(昭和7年)手織物の創作活動を開始した。国画会会員、日本民芸協会常任理事などを歴任し、1993年(平成5年)4月15日死去した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
茨木 杉風(いばらき さんぷう、明治31年(1898年)2月… 茨木 杉風(いばらき さんぷう、明治31年(1898年)2月8日 - 昭和51年(1976年)8月12日)は、近藤浩一路に師事した水墨画家。日本美術院院友を辞し『新興美術院』を創設した。 滋賀県野洲市小篠原出身の茨木家。移り住んだ近江八幡市博労町の初代から数えて五代目の芳蔵こと茨木杉風。菩提寺の近江八幡市東漸寺から長男陽介の意志により大先祖の菩提寺で、本堂に近江八景の襖絵を残す養専寺の墓地に移し眠る。 茨木杉風は、明治31年(1898年)2月8日に滋賀県蒲生郡八幡町(現滋賀県近江八幡市)の商家 梅田屋に生まれた。嫡男として家業である海産物商を継ぐところ、幼少時より絵が好きで大林千万樹に入門、後に大林より近藤浩一路を紹介され、大正9年(1920年)同人に師事した。
沢田 ひさ(さわだ ひさ、1897年(明治30年)11月25… 沢田 ひさ(さわだ ひさ、1897年(明治30年)11月25日 - 1979年(昭和54年)11月9日)は、大正時代から昭和時代の女性政治家、女性解放運動家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)。 1897年(明治30年)生まれ。滋賀県甲賀郡土山村(現甲賀市)出身で、結婚して三重県桑名市に移り、戦前から婦人参政権獲得運動に挺身して、中部地区婦人選挙権獲得同盟会員となる。 1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選し、49歳で日本社会党の新人議員として日本最初の女性代議士(三重県の婦人代議士第1号)となり、衆議院議員1期を務めた。1953年(昭和28年)4月24日の第3回参議院議員通常選挙で三重県選挙区から55歳で右派社会党の新人として立候補して 150501票 (得票率28.4%)で落選した。
中田 邦造(なかた くにぞう、1897年6月1日 - 195… 中田 邦造(なかた くにぞう、1897年6月1日 - 1956年11月15日)は、昭和期の司書。石川県立図書館や東京都立日比谷図書館の館長を歴任し、近代日本の図書館発展に大きな影響を与えた。号は自邦居士あるいは空人生。 滋賀県甲賀郡柏木村(後水口町を経て、現在は甲賀市)宇田の出身。事情により学業が思うように任せず、膳所中学校を卒業したのは20歳になってからで、以後第八高等学校 を経て、1920年に京都帝国大学哲学科に入り、西田幾多郎の門下となる。また、高校時代より飯田攩隠と親交を持ち、彼の元で度々座禅を組んだという。その後、大学院に進んだが、1923年に一年志願兵に志願したのを機に中退、除隊後は28歳で石川県主事となった。
北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1… 北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1日 - 1996年12月19日)は、滋賀県野洲市出身の数学者、旧制専門学校校長、予備校講師、サッカー選手。 1897年、滋賀県野洲郡野洲町(現:野洲市)富波甲に生まれた。滋賀師範学校(現・滋賀大学)在籍時に恩師の落合秀保と出会い、サッカーを始めた。1916年3月、滋賀師範学校卒業。 その後、東京高等師範学校に入学し、蹴球部(現:筑波大学蹴球部)に所属。在学中の1917年に第3回極東選手権大会の日本代表に佐々木等や武井群嗣らと共に選出され、2戦目のフィリピン代表戦で2得点を決めた。なお、この得点が日本代表の初得点となった(試合は2-15で敗れ、日本代表の最大差敗戦試合となっている)。