高山 義三(たかやま ぎぞう、1892年(明治25年)6月1… 高山 義三(たかやま ぎぞう、1892年(明治25年)6月15日 - 1974年(昭和49年)12月6日)は、日本の弁護士、政治家。京都市長(第19代)。国立京都国際会館初代館長。京都自由人権協会理事長。初代京都市会議長で第1回衆議院議員を務めた中村栄助の三男。 中村栄助の三男として京都市に生まれる。京都府立二中では野球部で小西作太郎とバッテリーを組んでいた。第五高等学校を経て1918年に京都帝国大学法科大学法律学科を卒業。学生時代は河上肇を顧問とする労学会に所属、キリスト教社会主義運動に参加。1917年、友愛会の初代京都支部長に選ばれた。賀川豊彦の影響により普選運動に携わった。 京大助手、同志社大学講師を経て、神戸で弁護士を開業した。
11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治… 11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治23年)11月18日 - 1964年(昭和39年)1月30日)は、大正から昭和期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府久世郡小倉村長、宇治市長。旧名・嘉一郎、号・水也。 京都府久世郡小倉村大字小倉小字久保(現宇治市小倉町)で、素封家の10代池本甚四郎、静の長男として生まれる。小倉尋常小学校(現宇治市立小倉小学校)、久世郡組合高等小学校、伏見彰徳高等小学校、府立京都第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)を経て、1913年(大正2年)3月、山口高等商業学校を卒業した。卒業後、家業の醤油醸造業に従事した。1920年(大正9年)4月、京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)教諭に就任し、また宇治に設立された夜間中学の教師も務めた。
2代 瀧井 治三郎(滝井、たきい じさぶろう、1890年(明… 2代 瀧井 治三郎(滝井、たきい じさぶろう、1890年(明治23年)5月19日 - 1973年(昭和48年)12月11日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)。幼名は虎三。タキイ種苗社長。(同社の会社概要では3代目瀧井治三郎) 京都府京都市下京区猪熊通梅小路上ル南夷町で、農業、種苗業「大森屋」を営む先代・瀧井治三郎の三男として生まれる。梅逕尋常小学校を経て、1908年(明治41年)京都府商業学校予科1年在学中に父が死去し、種苗業を廃業することを決めたが取引先の懇請により営業継続となり、商業学校を中退して2代・治三郎を襲名した(タキイ種苗の会社概要では1906年に3代目治三郎を襲名、『人事興信録』でも家督相続と襲名は1906年としている)。
梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月… 梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月17日 - 1978年〈昭和53年〉8月4日)は、大正から昭和期の神職、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 男爵・梶野行篤の七男として生まれ、1913年(大正2年)6月、子爵・梅園実師の養子となる。養父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月10日、子爵を襲爵した。 1909年(明治42年)京都府立第二中学校を卒業。1912年(明治45年)3月、大阪市立高等商業学校を卒業。その後、京都帝国大学法科大学を修了した。 1916年(大正5年)官幣中社白峯宮主典に就任。以後、府社男神社社司、京都市主事、京都市嘱託、滋賀県嘱託、京都薬学専門学校講師、京都計理士会会長、三島製紙常務取締役、精版印刷監査役などを務めた。
田中 和一郎(たなか わいちろう、1888年(明治21年)7… 田中 和一郎(たなか わいちろう、1888年(明治21年)7月 - 1950年(昭和25年)4月8日)は、日本の衆議院議員、厚生参与官。 京都府京都市出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、京都帝国大学大学院で都市社会政策を専攻した。大阪毎日新聞社に入社。その後、京都市会議員、同議長、京都府会議員に選ばれた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に京都1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、出馬し、当選。幣原内閣で厚生参与官を務めた。 1946年(昭和21年)、推薦議員のため公職追放となった。追放中の1950年死去。 その他、京都ホテル株式会社取締役、内外出版印刷株式会社監査役、京都府教育委員長を務めた。
中西 伊之助(なかにし いのすけ、1887年2月8日 - 1… 中西 伊之助(なかにし いのすけ、1887年2月8日 - 1958年9月1日)は、日本の作家、労働運動家、政治家。衆議院議員を2期務めた。 1887年2月8日、京都府久世郡槇島村(現・宇治市)の農家に出生し私生児として届け出された。旧制大成中学校(5年級編入学)を経て海軍兵学校に志願するも、出自を理由に入校はならなかった。その後、中央大学、早稲田大学に入るがいずれも中退。 少年・青年時代から機関車掃除夫や陸軍宇治火薬造所職工、新聞配達、南満州鉄道社員など、多種多様な職に就く傍ら無産運動にも尽力。朝鮮で新聞記者を務めていた時代には、藤田組による鉱山労働者虐待の実態を報じ、投獄されたこともある。 帰国後の1919年に日本交通労働組合へ入り、同組合理事長として東京市電争議を主導するが、治安警察法違反により検挙投獄となる。
竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)… 竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)1月17日)- 1961年(昭和36年)8月13日)は、大正から昭和期の日本の実業家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都商工会議所会頭。 京都府 京都市上京区五辻通大宮五辻町で、生糸問屋「八文字屋」通称「八藤」当主・竹上藤造の二男として生まれる。桃薗校を経て京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)に入学。1902年(明治35年)弁護士を目指して京都法政学校(現立命館大学)に転じたが、同年末、父の意思で第一商業に復帰し、1907年(明治40年)3月に卒業。その後、日本大学法律学科に進んだが、家業の継承のため中退し帰郷した。
小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月… 小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月19日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。国務大臣。栄典は、正四位・勲一等(昭和20年8月19日時点)。本籍高知県。 いわゆる皇道派の中心人物とされる。同じ陸軍士官学校16期生である岡村寧次、永田鉄山と共に陸軍三羽烏の一人とされている。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。 東京府麴町区上六番町で、男爵小畑美稲の四男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎、小畑厳三郎(陸軍少将)。京都府立第一中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。
黒崎 定三(くろさき ていぞう、1885年(明治18年)2月… 黒崎 定三(くろさき ていぞう、1885年(明治18年)2月16日 - 1948年(昭和23年)7月19日)は、日本の法制官僚、政治家。貴族院議員、法制局長官。 京都府出身。黑崎武右衛門の二男として生まれた。郡山中学、第三高等学校を経て、1911年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験に合格。逓信省に入り通信局書記に就任。その後、法制局参事官、内閣恩給局審査官、法制局書記官などを歴任。その他、日独戦役講和準備委員、法制審議会幹事、交通審議会幹事などを務めた。1933年3月、齋藤内閣の法制局長官となり1934年7月まで在任。退任後すぐ同月3日に貴族院勅選議員に任命され、研究会に属し1946年(昭和21年)5月17日まで在任した。
川北 正太郎(かわきた しょうたろう、1884年〈明治17年… 川北 正太郎(かわきた しょうたろう、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1953年〈昭和28年〉7月19日)は、大正から昭和時代前期の政治家。京都府舞鶴市長、加佐郡中筋村長。 水鳥作蔵の二男として京都府舞鶴市に生まれる。京都師範学校を卒業し教職に就く。加佐郡中筋村助役を経て、1919年(大正8年)4月、同村長に就任。ついで加佐郡町村長会長、京都府会議員、郡農会長などを経て、1932年(昭和7年)10月、舞鶴町長となる。周辺町村との合併を推し進め、1938年(昭和13年)8月、市制施行とともに市長臨時代表者を務め、同年9月10日、舞鶴市長に就任した。東舞鶴市と合併して新たに舞鶴市が成立した後も市長を務めた。
松阪 広政(まつざか ひろまさ、1884年(明治17年)3月… 松阪 広政(まつざか ひろまさ、1884年(明治17年)3月25日 - 1960年(昭和35年)1月5日)は、日本の司法官僚・政治家。 検事総長、および太平洋戦争時の司法大臣を歴任した。 京都府久世郡宇治町(現在の宇治市)の地主で製茶業の家に生まれた。京都二中、東京神田中学校、一高を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学法科を卒業。1912年(大正元年)、検事となる。 名古屋裁判所の検事だった1925年3月に定型犯として賭博に関する調査を命じられた。7月に東京へ転出した後も高木常七により継続され12月に完成。あくまで事務処理の利便目的だったが結果が優れていたため、司法資料に取り上げられた。
河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11… 河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11日 - 1974年(昭和49年)7月25日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 兵庫県加古郡、のちの高砂町(現高砂市)で、蔵元の家に生まれた。同志社中学校で学び、高砂教会で洗礼を受けた。1904年、東京外国語学校仏語科を卒業し、日本銀行に入行。その後、病気となり治癒したが、1911年、日銀を退職して帰郷した。 1919年、高砂町会議員に就任。賀川豊彦の活動に共鳴し農民組合運動に参加。日本農民組合東播連合会長、同兵庫県連合会長を務め、小作争議指導のため投獄されたこともあった。また、日本労農党などを経て社会大衆党に所属し、1937年4月、第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第三区から出馬して初当選した。
清水 仁三郎(しみず にさぶろう、1878年(明治11年)2… 清水 仁三郎(しみず にさぶろう、1878年(明治11年)2月19日 - 1951年(昭和26年)11月12日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。建築家。実業家。 京都府京都市出身。建築家清水仁兵衛の二男として生まれ、同志社で学んだ。建築工学を学び、京都武徳殿の建築に参加した。宮内省・農商務省の委嘱を受け、1900年(明治33年)のパリ万国博覧会では日本建築・庭園模型を出品した。1902年(明治35年)、岩崎男爵家の設計技師となり、邸宅の設計を担当した。1910年(明治43年)の日英博覧会の際には、再び宮内省・農商務省の委嘱を受け日本庭園の設計を担当した。1911年(明治44年)、岩崎家の建築事務閉鎖に伴って独立し、清水建築工務所を開いた。
2代 山本 藤助(やまもと とうすけ、1874年(明治7年)… 2代 山本 藤助(やまもと とうすけ、1874年(明治7年)6月1日 - 1926年(大正15年)8月16日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・山田。初代山本藤助の娘婿。 鳥取県邑美郡鳥取町寺町(現鳥取市寺町)で、旧鳥取藩士・山田頼実の長男として生まれる。修徳小学校(現・鳥取市立修立小学校)、育英高等小学校を卒業後、京都府商業学校(現・京都市立西京高等学校)に進み、1895年(明治28年)に卒業した。 同年、帝国海上保険会社(現・損害保険ジャパン)に入社。1907年(明治40年)6月、鉄鋼商・海運業を経営した初代山本藤助の未亡人に懇願され、その長女・山本としの入夫となり、2代藤助を襲名した。
山本 平三郎(やまもと へいざぶろう、1873年〈明治6年〉… 山本 平三郎(やまもと へいざぶろう、1873年〈明治6年〉3月15日 - 1931年〈昭和6年〉1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 京都府桑田郡、のちの南桑田郡曽我部村(現亀岡市)出身。鉄工業、建築請負業、海運業を営み、神戸市会議員となる。兵庫県土木建築請負業組合長、神戸市土木建築請負業組合相談役、神戸商工会議所議員兼常任議員、桜麦酒(株)監査役、相良銀行、相良運輸(株)取締役を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲民政党公認で当選、1期務める。当選した翌1931年1月に死去した。
4代 藤井 善助(ふじい ぜんすけ、1873年(明治6年)3… 4代 藤井 善助(ふじい ぜんすけ、1873年(明治6年)3月8日 - 1943年(昭和18年)1月14日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家、美術品収集家。衆議院議員、滋賀県神崎郡北五個荘村長。前名・善三郎、号・静堂。 滋賀県神崎郡宮荘村(北五個荘村宮荘、五個荘町を経て現東近江市)で、絹織物洋服生地製造販売業・藤井周次(3代善助)の長男として生まれる。1903年(明治36年)7月、家督を相続し善助(4代)に改名した。1887年(明治20年)京都第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、さらに上海の日清貿易研究所で学んだ。 京都の自店で働いていたが、1901年(明治34年)京都倉庫監査役、大阪金巾製織会社監査役に就任。
神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1… 神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉10月22日)は、明治末期から昭和初期にかけての官僚・政治家である。名古屋市助役や衆議院議員、東邦電力常務取締役を務めた。京都府出身。 神谷卓男は、明治4年12月9日(新暦:1872年1月18日)、京都府与謝郡宮津町波路(現在の宮津市)に生まれた。父・広生は旧宮津藩士で明治維新後は地方自治に尽力した人物である。宮津小学校・天橋義塾・京都中学校を経て同志社に入り、1892年(明治25年)に同志社を卒業。1894年(明治27年)からはアメリカ合衆国へと留学し、スタンフォード大学およびコロンビア大学で学んだのち1900年(明治33年)に帰国した。
原 脩次郎(はら しゅうじろう、1871年7月1日〈明治4年… 原 脩次郎(はら しゅうじろう、1871年7月1日〈明治4年5月14日〉- 1934年〈昭和9年〉3月6日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、拓務大臣、鉄道大臣。 現在の京都府綾部市で原虎好の二男として生まれる。1884年(明治17年)3月に綾部小学校を卒業し、その後、1886年(明治19年)まで代用教員を務める。1892年(明治25年)、弁護士事務所に入り、1893年(明治26年)、東京法学院に入学するも後に退学。 1896年(明治29年)、台湾新竹法院雇となり、裁判官心得に進む。1901年(明治34年)6月、台南県弁務署長に就任。同年11月、台湾総督府警視・保安課長に就任し、1904年(明治37年)12月に退職した。
李家 隆介(りのいえ たかすけ、1866年9月30日(慶応2… 李家 隆介(りのいえ たかすけ、1866年9月30日(慶応2年8月22日)- 1933年(昭和8年)7月23日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、錦鶏間祗候、下関市長。 長州藩御典医・李家隆彦の長男として京都で生まれる。京都府中学校、神田共立学校、大学予備門、第一高等中学校を経て、1890年7月、帝国大学法科大学政治科を卒業。1891年4月、内閣試補となり、同年7月、内務省に転じ内務試補となった。 以後、大分県・富山県の各参事官、岡山県・神奈川県の各書記官などを歴任。 1902年12月、富山県知事に就任。以後、石川県知事、静岡県知事、長崎県知事を歴任。1917年3月、長崎県知事を辞任し退官。同年12月15日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(… 中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(慶応2年1月4日) - 1944年(昭和19年)10月7日)は、元貴族院議員、文部省官僚で、京都法政学校(現在の立命館大学)創立者。丹波国南桑田郡馬路村(現在の京都府亀岡市馬路町)生まれ。 官僚 教育者 実業家
岩田 信(いわた しん、1864年12月11日(元治元年11… 岩田 信(いわた しん、1864年12月11日(元治元年11月13日)- 1910年(明治43年)9月4日)は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員。幼名・信二郎。号・吉甫。 丹波国加佐郡大俣村(京都府加佐郡岡田上村字大俣、加佐町を経て現舞鶴市大俣)で、郷士、大庄屋、農業・岩田伊左衛門、千重の二男として生まれる。草場船山に師事し漢学を修めた。1879年(明治12年)ころに上京し、称好塾に入り杉浦重剛の薫陶を受けた。代言人(弁護士)を目指し1884年(明治17年)大学予備門を卒業。司法省法学校に進み1887年(明治20年)10月に卒業して代言人資格が与えられた。 1889年(明治22年)京都市で法律事務所を開設し、民事専門の弁護士として活躍した。
小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文… 小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文久3年10月12日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。日本工業常務取締役。旧姓・芦田。 京都府何鹿郡綾部町(現・綾部市)、芦田信治の次男。小室静三の養子となる。静三の長女べんと結婚する。後に本籍を宮津町字魚屋に移す。20歳の頃に京都日報に入り、編輯課に従事する。宮津町へ移転と同時に丹州汽船会社に入り支配人となり、1892年2月に辞職。 1887年3月、大阪控訴院で公証人登用試験に合格、また与謝郡郡会議員に当選、任期満了により退職する。1892年4月に司法省より公証人を命じられ、1904年4月に願いにより職を免ぜられる。 1904年、支那杭州で武林洋行を設立し、大阪店主任となる。
稲畑 勝太郎(いなばた かつたろう、1862年12月21日(… 稲畑 勝太郎(いなばた かつたろう、1862年12月21日(文久2年10月30日) - 1949年(昭和24年)3月30日)は、大正・昭和前期の日本の実業家、貴族院勅選議員。稲畑産業株式会社(創業時の名称は稲畑染料店)の創業者であり、染料、染色業界の発展に尽力した。また日仏文化交流に貢献しており、日本で初めてシネマトグラフを輸入して映画興行を行った人物としても知られる。正五位勲三等。
14代 西村 治兵衞(治兵衞、にしむら じへえ、1861年5… 14代 西村 治兵衞(治兵衞、にしむら じへえ、1861年5月4日(文久元年3月25日)- 1910年(明治43年)12月14日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、京都市会議長、千切屋治兵衛家14代当主(貞規)。旧姓・矢田。 丹波国桑田郡、のちの京都府南桑田郡亀岡町(現亀岡市)で、素封家・矢田勘助の二男として生まれる。丹波亀山藩儒・吉田大年、三上忠六らに師事し漢学、仏法典を修めた。1880年(明治13年)京都の呉服商・13代西村治兵衛貞慶の養嗣子となる。1884年(明治17年)養父の死去に伴い家督を継承し14代治兵衛を襲名した。 家業を継承しその発展に尽力。西陣織物商組合組長、京都染呉服商組合長を務めた。
山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延… 山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延元年1月25日)- 1933年(昭和8年)10月1日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府加佐郡新舞鶴町長。幼名・浅吉。 丹波国天田郡細見辻村(京都府天田郡細見村細見辻、三和村、三和町を経て現福知山市)で、農業、酒造業・山口覚兵衛、てい の長男として生まれる。1876年(明治9年)京都に出て、林正躬、横井忠直から漢学を、吉田健吾から数学を学び、京都府中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)にも通った。1879年(明治12年)大阪で牧田修蔵から法律学を学んだ。 1881年(明治14年)に帰郷し、同年11月、細見辻村戸長に就任。
有本 国蔵(ありもと くにぞう、有本 國蔵とも。1860年 … 有本 国蔵(ありもと くにぞう、有本 國蔵とも。1860年 - 1944年1月10日)は、丹後国加佐郡舞鶴(現・京都府舞鶴市)出身の実業家・篤志家・政治家。1908年(明治41年)から1912年(大正元年)まで衆議院議員を1期務めた。1927年(昭和2年)に紺綬褒章を受章し、1929年(昭和4年)に緑綬褒章を受章。 生家は丹後国加佐郡舞鶴(現・京都府舞鶴市)にあった平野屋。1860年(万延元年)に四男として生まれた。父親は嘉助、母親は京子。12歳だった1871年(明治4年)には丹後田辺藩の元藩主である牧野弼成が経営する審致舎に丁稚奉公したが、審致舎が解散すると1877年(明治10年)に大阪に出て、長兄の賀三が経営する洋酒店兼洋服店に勤めた。
喜多川 孝経(孝經、きたがわ たかつね、1859年5月7日(… 喜多川 孝経(孝經、きたがわ たかつね、1859年5月7日(安政6年4月5日)- 1930年(昭和5年)11月2日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。幼名・奈良蔵。 山城国綴喜郡田辺村沓脱(京都府綴喜郡田辺村大字田辺小字沓脱、田辺町を経て現京田辺市田辺沓脱)で、南山郷士、庄屋、農業・喜多川喜右衛門の長男として生まれる。沢辺正脩、大亦俊に師事し、皇学、漢学、詩文を修めた。農業を営む。 1881年(明治14年)7月、有志と南山義塾を設立し、同年10月、初代副社長となり、1883年(明治16年)4月、伊東熊夫の後継社長に就任し1884年(明治17年)3月まで在任。のち同塾の組織を改編して京都府立三山木中学校を設立する際にも尽力した。
芦田 鹿之助(あしだ しかのすけ、1857年8月7日(安政4… 芦田 鹿之助(あしだ しかのすけ、1857年8月7日(安政4年6月18日)- 1928年(昭和3年)4月30日)は、明治期の地主・銀行家・政治家。衆議院議員、京都府天田郡初代中六人部村長。号・光月。元首相の芦田均の父。 丹波国天田郡宮村(京都府天田郡中六人部村字宮を経て現福知山市)で、大地主、大庄屋・芦田治左衛門の長男として生まれる。綾部藩の近藤寡斎、沢井広重などに師事し、綾部藩郷学校・広畔堂で修学。その後、京阪に遊学した。 1875年(明治8年)3月、豊岡県の天田郡宮村用掛に就任し、さらに同県第十七大区四小区副戸長を務めた。1876年(明治9年)天田郡が京都府に編入され、同年10月、天田郡第一区副区長兼学区取締となる。
7代 羽室 嘉右衛門(嘉右衞門、はむろ かうえもん / かえ… 7代 羽室 嘉右衛門(嘉右衞門、はむろ かうえもん / かえもん、1856年12月26日(安政3年11月29日)- 1924年(大正13年)8月25日)は、明治から大正期の地主・農業経営者・酒造家・実業家・政治家。京都府多額納税者、第一期及び第二期貴族院多額納税者議員互選人。衆議院議員、京都府何鹿郡中筋村長。幼名・逸郎、松逸郎。 郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)初代社長、明瞭銀行頭取。郡是製絲株式会社の第2代社長波多野鶴吉は次弟。比叡山鉄道株式会社初代社長、愛宕山鉄道株式会社取締役で京都法政学校(現・立命館大学)設立評議員・理事の羽室亀太郎は末弟。羽室亀太郎の妻ゆうは衆議院議員河原林義雄の妹。
石黒 涵一郎(いしぐろ かんいちろう、嘉永7年1月3日(18… 石黒 涵一郎(いしぐろ かんいちろう、嘉永7年1月3日(1854年1月31日) - 大正6年(1917年)10月2日)は、日本の衆議院議員(憲政党→立憲政友会)、弁護士、教育者。 丹後国加佐郡舞鶴出身。丹後田辺藩士の家に生まれ、藩校明倫館に学んだ後、大阪兵学寮に入った。その後、法律を学び、1876年(明治9年)に代言規則が発布されると、免許を得て代言人となった。豊岡、大阪で開業した後、1879年(明治12年)に岡山に移住した。 1882年(明治15年)に山陽自由党を結成して自由民権を唱え、1885年(明治18年)には大阪事件の被告の弁護にあたった。その後、大同団結運動がおきると積極的に参加して、岡山に大同倶楽部を組織した。
田中 源太郎(たなか げんたろう、嘉永6年1月3日(1853… 田中 源太郎(たなか げんたろう、嘉永6年1月3日(1853年2月10日) - 大正11年(1922年)4月3日)は、京都府旧桑田郡亀山北町生まれの政治家、実業家。1869年亀岡陸運を創業、のちに京都株式取引所、京都商工銀行、亀岡銀行の各頭取などを務めた。衆議院議員当選3回(1、2、3回総選挙)、貴族院多額納税者議員。 丹波国桑田郡亀山北町(現在の京都府亀岡市)に、田中蔵一の次男として生まれたが、兄が早くに亡くなったため田中家の家督を継ぐべく英才教育を受けて育った。北村龍象の私塾学半堂や横井忠直、山本覚馬らにも師事し、儒学、政治経済など幅広い分野を成績優秀で修めたとされる。田中家は代々亀山藩の御用商人として取り立てられた商家として栄え、父・蔵一は櫓奉行格に取り立てられ、会計方として亀山藩に仕えていた人物であったため、源太郎も経済界で活躍することを期待されて育った。
13代 上野 弥一郎(彌一郎、うえの やいちろう、1850年… 13代 上野 弥一郎(彌一郎、うえの やいちろう、1850年9月10日(嘉永3年8月5日)- 1929年(昭和4年)6月4日)は、明治から大正期の農業経営者・政治家・実業家。衆議院議員、京都府会議長。幼名・弥寿次郎、諱・宗愛。号・舟陵、玉裁、青藍。 丹後国加佐郡西方寺村(京都府加佐郡岡田中村字西方寺、加佐町を経て現舞鶴市西方寺)で、代々当主が弥一郎を襲名し大庄屋を務めた上野家の12代上野弥一郎(隠居名・一良)、増子の二男として生まれる。兄が夭折し慶応4年1月(1868年)家督を相続し13代弥一郎を襲名。梅垣秀和の塾で学び、さらに親族・岸本玄甫宅に住み込み漢籍・習字・算術を修め、その他、山口道一などに師事して漢籍を学んだ。
田尻 稲次郎(たじり いなじろう、嘉永3年6月29日(185… 田尻 稲次郎(たじり いなじろう、嘉永3年6月29日(1850年8月6日) - 大正12年(1923年)8月15日)は、日本の経済学者・政治家・官僚。元東京市長。専修学校(専修大学の前身)の創始者の一人である。子爵。
伊東 熊夫(いとう くまお、1850年1月22日(嘉永2年1… 伊東 熊夫(いとう くまお、1850年1月22日(嘉永2年12月10日)- 1913年(大正2年)5月7日)は、明治時代の政治家・実業家・銀行家。新聞編集者。製茶業者。衆議院議員(1期)。 山城国綴喜郡上村(京都府綴喜郡普賢寺村 、田辺町を経て現京田辺市)で、庄屋、素封家・伊東喜蔵、チカの長男として生まれる。村塾で漢学を学び、その後は和漢の典籍を独学した。1868年(明治元年1月)に家督を相続。1876年(明治9年)ころ 沢辺正脩の田辺校に寄寓し、西川義延や喜多川孝経と共に地方民権や政治について議論を交わした。1878年(明治11年)儒者・山口正養を京都から招聘し田辺町に盍簪家塾を創立し、さらに1881年(明治14年)8月、三山木村に南山義塾を設立し、初代社長に就任した(1881年10月-1883年3月在任)。
田中 数之助(數之助、たなか かずのすけ、1849年9月10… 田中 数之助(數之助、たなか かずのすけ、1849年9月10日(嘉永元年8月13日)- 1924年(大正13年)4月7日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、京都府南桑田郡亀岡町長。旧姓・原田。 丹波国桑田郡西条村(京都府南桑田郡曽我部村字西条を経て現亀岡市曽我部町西条)で、大地主、農業・原田八六の二男として生まれる。1869年(明治2年4月)桑田郡亀岡北町(現:亀岡市北町)の田中蔵一の養子となり、1872年(明治5年2月)分家して安町(現:亀岡市安町)に一家を構えた。 その後、通称「新酒屋」と称される酒造業を営み、銘酒「天狗」の販売で知られた。1888年(明治21年)南桑田郡酒造組合長に就任し31年間在任。
石原 半右衛門(半右衞門、いしはら はんうえもん、1847年… 石原 半右衛門(半右衞門、いしはら はんうえもん、1847年3月25日(弘化4年2月9日)- 1930年(昭和5年)2月20日)は、明治期の文部官僚・政治家。衆議院議員。 丹波国船井郡大戸村(京都府船井郡川辺村字大戸、園部町を経て現南丹市園部町大戸)で、江戸幕府旗本滝川氏家臣、地役人・石原三左衛門の二男として生まれた。 明治維新後、文部属、大阪専門学校雇、岩手県尋常師範学校長、京都師範学校幹事、京都府船井郡長などを歴任。 また、川辺村会議員、京都府会議員、同常置委員、平安遷都千百年記念祭協賛会評議員、第4回内国勧業博覧会評議員を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙(京都府第5区、1890年7月、大成会)で初当選し、その後、第6回総選挙まで4回再選され、最後は三四倶楽部に所属して衆議院議員に通算5期在任した。
吉田 三右衛門(よしだ さんえもん、1847年(弘化4年9月… 吉田 三右衛門(よしだ さんえもん、1847年(弘化4年9月) - 1943年(昭和18年)8月23日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。京都府天田郡福知山町長。 丹波国天田郡福知山菱屋町(現京都府福知山市菱屋)に生まれる。先代の兄三右衛門の早逝により家督を相続する。1886年(明治19年)福知山銀行頭取に就任。ほか、福知山町会議員、同町長、京都府会議員を歴任した。 1890年(明治23年)京都府多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
田宮 勇(たみや いさむ、1846年11月5日(弘化3年9月… 田宮 勇(たみや いさむ、1846年11月5日(弘化3年9月17日)- 1895年(明治28年)11月13日)は、明治期の農業経営者・政治家。衆議院議員。幼名・千太郎。号・松雨。 山城国綴喜郡上村(京都府綴喜郡普賢寺村大字上小字小田垣内、田辺町大字普賢寺を経て現京田辺市普賢寺)で、南山郷士、組頭、農業・田宮喜平次の長男として生まれる。相楽郡木津町の沢井石芸に師事し漢学を修めた。 1872年(明治5年9月)大区小区制の設置に伴い副区長に就任し1874年(明治7年)まで在任。1876年(明治9年)6月、西川義延の後任として地租改正事件郡総代人となり、事業終了の1877年(明治10年)7月まで務めた。
12代 稲葉 市郎右衛門(稻葉 市郎右衞門、いなば いちろう… 12代 稲葉 市郎右衛門(稻葉 市郎右衞門、いなば いちろうえもん、1846年9月14日(弘化3年7月24日)- 1915年(大正4年)7月8日)は、丹後国熊野郡久美浜村(現・京都府京丹後市)出身の地主・銀行家・政治家。衆議院議員。幼名・正吉、元服後は新一郎。稲葉市郎右衛門英裕(いなば いちろうえもんひでひろ)とも呼ばれる。 弘化3年7月24日(1846年9月14日)、丹後国熊野郡久美浜村(京都府熊野郡久美浜村、久美浜町を経て現京丹後市)に生まれた。父は地主である11代稲葉市郎右衛門太訓(餘庵)、母はりうであり、二男だった。稲葉家は糀屋を屋号とし、廻船業や金融業で富を成した豪商である。幼少期から出石藩の儒学者である島村弘輔と土岐新之丞に漢学を学んだ。
正木 安左衛門(安左衞門、まさき やすざえもん、1840年9… 正木 安左衛門(安左衞門、まさき やすざえもん、1840年9月27日(天保11年9月2日)- 1913年(大正2年)6月18日)は、明治期の地主、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・徳三郎、徳次郎。 山城国乙訓郡今里村(京都府乙訓郡乙訓村字今里、長岡町を経て現長岡京市)で、地主、農業・正木安兵衛(旧姓・山脇)、りう(祖父・安兵衛長女)の長男として生まれる。漢学、詩文、法学、政経学を修めた。 1876年(明治9年)5月、乙訓郡第三区長に就任。兼学区取締、同郡第四組戸長兼学区取締、乙訓郡書記を歴任。1882年(明治15年)7月、京都府会議員に選出され、通算3期在任して、1892年(明治25年)2月に辞任。
伊藤 雋吉(いとう しゅんきち、1840年4月30日〈天保1… 伊藤 雋吉(いとう しゅんきち、1840年4月30日〈天保11年3月28日〉- 1921年〈大正10年〉4月10日)は、日本の海軍軍人、茶人、政治家。海軍中将正二位勲一等功三級男爵。 丹後田辺藩の下士、伊藤勝介の長男。丹後国加佐郡田辺城下(現在の京都府舞鶴市)に生まれる。幼少より学問に優れ、藩命により江戸に遊学して大村益次郎に師事し、兵学や数学を学ぶ。 明治維新の後、兵部省出仕、海軍操練所出仕、海軍兵学寮中教授(以上は文官)を経て、1871年(明治4年)、海軍少佐(武官)に任官すると同時に「春日」艦長。 「日進」副長を経て、1872年(明治5年)に海軍中佐に進級すると同時に「筑波 」艦長。その後、海軍兵学校監学課長、海軍兵学校長代理、海軍兵学校次長、「金剛」艦長を歴任し、1878年(明治11年)に海軍大佐に進級。
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保… 有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日〈1835年3月17日〉- 明治28年〈1895年〉1月15日)は、江戸時代後期・明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。雅号は初め泰山、後に霞堂。階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。世襲親王家の有栖川宮第9代当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、明治政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(後に県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られるが、徳川幕府の権力失墜に伴い、公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。
本庄 知史 は、日本の政治家。
細野 豪志 は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員(1… 細野 豪志 は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員(10期)。
小原 舞 は、日本の政治家、元海上自衛官。京都府議会議員(3… 小原 舞 は、日本の政治家、元海上自衛官。京都府議会議員(3期)。元衆議院議員(1期)。