井上 幾太郎(いのうえ いくたろう、 1872年2月18日(… 井上 幾太郎(いのうえ いくたろう、 1872年2月18日(明治5年1月10日) - 1965年5月7日)は、日本の陸軍軍人。初代陸軍航空部本部長、帝国在郷軍人会会長。陸士4期・陸大14期。最終階級は陸軍大将。 山口県厚狭郡芦河内村(万倉村、楠町を経て現宇部市芦河内)出身。井上清蔵(農業)の二男。山口町開導学校を経て、1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)を卒業し、工兵第5大隊附。工兵第5大隊長・上原勇作工兵少佐(後に元帥陸軍大将)の知遇を得る。1894年(明治27年)3月、陸軍工兵少尉に任官。日清戦争に出征し、釜山 ー 京城の電信線敷設に従事した後、鴨緑江渡河作戦に参加。1895年11月に陸軍砲工学校に入校し、要塞戦術への関心を高める。
高良 宗七(こうら そうしち、1872年2月15日(明治5年… 高良 宗七(こうら そうしち、1872年2月15日(明治5年1月7日)– 1946年(昭和21年)8月13日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 山口県厚狭郡小串村(宇部村を経て現宇部市)で、農業、鉱山業・高良政右衛門の長男として生まれる。山口西鄙黌で学んだ。1904年(明治37年)家督を相続した。 山陽採炭 (株) を設立し、1900年(明治33年)に第二鵜ノ島炭礦、1907年(明治40年)西沖ノ山炭礦、1913年(大正2年)大正炭礦を起業して各頭取となり、1925年(大正14年)採掘完了に伴い辞任した。また、1912年(明治45年)6月、広島の矢部銀行を買収して宇部銀行に改称して取締役となり、1927年(昭和12年)頭取に就任し、1944年(昭和19年)他行と合併して山口銀行が設立されるまで在任した。
市来 保二郎(市來 保二郎、いちき やすじろう、1872年2… 市来 保二郎(市來 保二郎、いちき やすじろう、1872年2月9日(明治5年1月1日) - 1945年(昭和20年)2月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 市来寅之助の長男として後の山口県豊浦郡長府町(現下関市長府)に生まれる。1893年(明治26年)陸軍士官学校第4期卒業。1901年(明治34年)陸軍大学校第15期卒業。 日露戦争に従軍後、1913年(大正2年)1月に仙台連隊区司令官、同年8月に陸軍歩兵大佐、1914年(大正3年)8月に歩兵第19連隊長を経て、1918年(大正7年)7月に陸軍少将に昇進と同時に待命、翌年1月に予備役に編入した。
引田 乾作(ひきた けんさく、1871年11月22日〈明治4… 引田 乾作(ひきた けんさく、1871年11月22日〈明治4年10月10日〉- 1948年〈昭和23年〉5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 山口県阿武郡萩町土原村(現萩市大字土原)で旧長州藩士引田利亮の四男として生まれ、兄引田利章の死去に伴い1891年(明治24年)に家督を相続した。 1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月、陸軍歩兵少尉に任官し近衛歩兵第1連隊付となる。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業し陸軍省軍務局軍事課に配属された。山縣有朋元帥副官を務め、その後、日露戦争に第1軍参謀として出征した。 ドイツ帝国派遣、歩兵第11連隊付、歩兵第70連隊大隊長、参謀本部課長兼陸大兵学教官、陸軍技術審査部部員などを歴任。
永田 新之允(ながた しんのじょう、明治4年4月8日(187… 永田 新之允(ながた しんのじょう、明治4年4月8日(1871年5月26日) – 昭和46年(1971年)6月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→中正倶楽部→新正倶楽部)。岩国市長。ジャーナリスト。 周防国玖珂郡岩国(現在の岩国市)出身。扶桑新聞社で活版職工として勤務。1888年(明治21年)より名古屋逓信管理局、東京逓信管理局、横浜郵便電信局、東京郵便電信局で勤務した。1896年(明治29年)に読売新聞社記者、編集局長となる。その後、国民新聞社に転じ、1902年(明治35年)には理事・編集長となった。さらに1904年(明治37年)に実業之日本社に移り、理事、編集長、営業部長、総務部長を歴任した。
笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治… 笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治4年2月25日〉- 1941年〈昭和16年〉1月29日)は、日本の哲学者である。 長門国、現在の山口県下関市に笹尾勝蔵の息子として生まれ、日本基督教会柳川教会で父から洗礼を受けた。山口高等学校に入学したが、経済的事情で明治学院神学部に転校。同じく、白金にあった自営館(現・巣鴨教会)で共同生活を送った。 明治学院から推薦されて、20歳で渡米し、オーバン神学校、コロンビア大学で学んだ。さらに、1896年にドイツに渡りベルリン大学、ハレ大学、ボン大学でキリスト教とカント哲学の研究を重ね、1899年に学位論文「カントの神概念」によりボン大学より哲学博士号を得た。
東 乙彦(ひがし おとひこ、1870年8月5日(明治3年7月… 東 乙彦(ひがし おとひこ、1870年8月5日(明治3年7月9日) - 1936年(昭和11年)10月13日)は、日本の陸軍軍人。陸士4期、陸大14期。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲二等。 山口県岩国藩士の東文吉の三男として生まれる。十代のころは兄の勝平とともに川下小学校に出入りしており、1885年(明治18年)ごろに一時同校の訓導をしていた齋藤精輔の立ち上げた「数学同好会」に参加していた。 1893年(明治26年)陸軍士官学校卒業後、近衛砲兵連隊に勤務。翌年1894年(明治27年)、砲兵少尉に任命され、同年に日清戦争に従軍する。1900年(明治33年)陸軍大学校を第14期生として卒業したのち参謀本部に勤務。
岡 十郎(おか じゅうろう、旧姓・西村、1870年7月27日… 岡 十郎(おか じゅうろう、旧姓・西村、1870年7月27日〈明治3年6月29日〉 - 1923年〈大正12年〉1月8日)は、大日本帝国の実業家。朝鮮勧農、東洋捕鯨(現・ニッスイ)の各社長。近代的な捕鯨船による捕鯨を日本で始めて行い、「捕鯨王」、「日本捕鯨の父」などと呼ばれた。族籍は山口県平民。 1870年、長門国阿武郡奈古村(現・山口県阿武郡阿武町)の西村利右衛門の5男として生まれた。西村家は奈古村に住し、代々農業並びに生蝋製造を業としていた。後に岡吉輔の養嗣子になった。 1868年の明治維新以降、日本の近代化が急速に進み、多くの人々が西洋の知識と技術を学ぶために欧米に渡った。当時、日本は遠東での勢力を拡大しようとしていたが、捕鯨は江戸時代以来の網取法による沿岸捕鯨が続いていた。
井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(187… 井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(1870年7月1日) - 昭和9年(1934年)9月11日)は、日本の川柳作家。幼名は七郎、のちに幸一。 明治3年(1870年)6月3日、山口県萩に生まれた。家系は毛利家に仕えていたが、廃藩後に没落、父栄祐は1891年に、不遇のうちに亡くなった。 独学で小学校代用教員となり、のちに山口県の新聞社『鳳陽新報』(のち『長周日報』、その後防長新聞に併合されて消滅)に就職して新聞記者となった。同じ頃山県トメと結婚し、3人の子供を授かるも、トメは3人目出産後の予後が悪く、1898年に他界。なお井上はその3年後の1901年に遠縁の岡ノブと再婚、2人の子供をもうけた。
国司 伍七(くにし ごしち、1870年6月24日(明治3年5… 国司 伍七(くにし ごしち、1870年6月24日(明治3年5月26日) - 1939年10月25日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2… 吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2月10日)- 1979年4月11日)は長寿日本一であった女性。晩年は大分県に居住していた。 現在の山口市に生まれる。広島市に移って呉服商の一人娘として育つ。結婚するも離婚し、2度目の夫とは死別した。子供はなく、1945年に広島で被爆し、1948年から大分県別府市の別府老人ホームに入所していた。好き嫌いはなく果物を好み、酒もたしなんだ。106歳時点でもトイレも入浴も介助なしで行っていた。 1976年9月発表の全国高齢者名簿では8位であった。 1977年8月、大阪府の川平小梅の死去により、107歳で長寿日本一の女性となり、1978年、新潟県の佐藤増太郎の死去により長寿日本一となる。
上山 満之進(かみやま まんのしん / みつのしん、1869… 上山 満之進(かみやま まんのしん / みつのしん、1869年10月31日〈明治2年9月27日〉- 1938年〈昭和13年〉7月30日)は、日本の官僚、政治家。農商務次官、台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官。 郷里では旧藩主毛利敬親や毛利元徳の伝記編纂所の所長を務め、郷土史研究の出版や史跡跡保存事業などにも私費を投じた。上山の寄付で防府市立三哲文庫(現:防府市立防府図書館)が開館したことから「防府図書館の父」と呼ばれている。 周防国佐波郡江泊村(現:山口県防府市大字江泊)出身。庄屋格の上山与左衛門の二男として生まれる。周陽学舎)、山口中学、山口高等中学を経て、1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した。
山根 一貫(やまね かづつら、1869年4月23日(明治2年… 山根 一貫(やまね かづつら、1869年4月23日(明治2年3月12日) - 1917年8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。男爵。旧姓:橋本。[要出典] 橋本房吉の長男として、山口県厚狭郡万倉村字矢矯(現・宇部市大字万倉矢矯)に生まれる。幼名を慶蔵と称し、山口師範学校講習科の講習で万倉小学校で教鞭を取り、後東京教導団に入団、時に19歳であった。1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校(第2期)を卒業する。日清戦争に出征、中尉に進み、1895年(明治28年)山根家に入籍、陸軍少将山根信成の嫡子となる。 1899年(明治32年)12月に陸軍大学校(13期)を卒業し、陸士勤務となる。のちフランスに駐在する。
藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年… 藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年2月26日) - 1919年(大正8年)1月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。 長門国大津郡、後の菱海村(現長門市)で山口県士族・藤津正憲の長男として生まれ、1870年(明治3年)5月に家督を相続する。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1897年(明治30年)陸軍大学校に入校し、1900年(明治33年)同校を第14期で卒業する。 近衛野砲兵連隊大隊長、下関要塞参謀を経て、1911年(明治44年)11月に陸軍砲兵大佐・野砲兵第4連隊長に任官。
嶋谷 徳三郎(島谷 徳三郎、しまたに とくさぶろう、1867… 嶋谷 徳三郎(島谷 徳三郎、しまたに とくさぶろう、1867年12月2日〈慶応3年11月7日〉 - 1928年〈昭和3年〉5月20日)は、日本の実業家、資産家、山口県多額納税者。嶋谷汽船株式会社の創立者で社長を務めた。族籍は山口県平民。 周防国玖珂郡由宇村(現・山口県岩国市)に、廻船業を営む徳右衛門の長男として生まれる。若い頃から父の下で家業を習得する。 1889年、父・徳右衛門が亡くなり、徳三郎は22歳で家督を相続して家業を継承した。徳三郎は1895年に、それまで保有していた和式帆船を売却して、日本郵船から中古の蒸気船「浦門丸」(元はイギリス製で土佐藩が購入)を購入する。当時、由宇の廻船業者はすべて和式帆船を使い、高額な蒸気船の導入をためらっていた中で、徳三郎は親族の反対を押し切って実行した。
藤本 閑作(ふじもと かんさく、1867年11月26日(慶応… 藤本 閑作(ふじもと かんさく、1867年11月26日(慶応3年11月1日)- 1936年(昭和11年)12月12日)は、明治から昭和初期の政治家、実業家、銀行家。宇部銀行頭取。貴族院多額納税者議員。族籍は山口県士族。 藤本蔓平の長男として後の長門国厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)に生まれた。岩国の東沢瀉塾で学んだ。漢学を修めた。1877年(明治10年)7月に家督を相続する。 1896年(明治29年)以降、石炭鉱業を経営し、宇部電気、宇部銀行、宇部鉄工所各取締役、宇部村信用購買販売組合理事のほか、宇部商工会議所議員、防長林業、宇部セメント(後の宇部興産、現在のUBE/UBE三菱セメント)各取締役、大和護謨栽培監査役などを務める。
仲小路 廉(なかしょうじ れん、1866年8月12日〈慶応2… 仲小路 廉(なかしょうじ れん、1866年8月12日〈慶応2年7月3日〉- 1924年〈大正13年〉1月17日)は、日本の検察官、司法・逓信・内務官僚、貴族院勅選議員、枢密顧問官。旧名・喜久三。号は靄軒。 周防国徳山藩下士・仲小路休量の二男として生まれる。大阪府立中学を経て、府立開成学校卒業後、1887年(明治20年)に高等文官試験司法科の前身である判事検事登用試験に合格。そののち東京控訴院検事兼司法省参事官などを経て、行政裁判所評定官を務めた。こののち逓信省に転じて大臣官房長を務め、内務省に出向して土木局長、警保局長を歴任した後、1910年(明治43年)には逓信次官となり官僚としての頂点を極めた。
西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865… 西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865年10月28日) - 1889年(明治22年)2月11日)は、日本の不平士族、国粋主義者。森有礼の暗殺犯である。 長州藩士、西野義一の長男として山口に生まれる。山口黒城塾、山口中学校(現・山口県立山口高等学校)を卒業した後、三浦梧楼を頼って上京するが職が見つからず、一旦帰郷して山口県庁に就職した。東京では講道館に通い、本田増次郎の教え子だった。1886年(明治19年)、県庁を退職して再び上京し、山口黒城塾時代からの友人・玉井喜作が開いた私塾「東京速成学館」で総務と漢文教師を務める。しかし、東京速成学館はドイツ語を主に教える学校であり、その学生は西洋志向が強い者が多かったため、国粋主義思想が強い西野は生徒からの評判が悪く、まもなく西野は退職して内務省土木局に務めることとなった。
河野 久蔵(こうの きゅうぞう、1865年3月21日〈慶應元… 河野 久蔵(こうの きゅうぞう、1865年3月21日〈慶應元年2月24日〉 - 没年不明)は、日本の政治家(下関市会議員)、商人(仲買商)、山口県多額納税者、下関米取引所取引員、家主。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。河野仁左衛門の二男、同徳之助の兄。父祖の農業を助け傍ら勉学に余念がなかった。幼い頃より大志を懐いて下関市に来て、米穀取引が有望なことを洞察し、あるいは店員となり小僧となり、あらゆる刻苦勉励すること10年、転んでは起き、起きては転び1905年、独立して仲買店を設け以来堅実に精励信用を博した。 数年ならずして仲買人部長となり、組合委員長となり、1909年には下関商業会議所議員に選ばれ、1910年より下関市会議員に選出される事実に4回、1917年には市参事会員の名誉職に挙げられた。
大村信行(おおむら のぶゆき、1865年1月17日〈元治元年… 大村信行(おおむら のぶゆき、1865年1月17日〈元治元年12月20日〉 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。従四位勲三等功四級 1865年1月17日(元治元年12月20日)長州藩大村久兵衛の次男として生まれる。父久兵衛はかつて、奇兵隊と常備軍の小郡付近での戦闘において常備軍側に加わり戦闘に参加した。明治の初め頃には少年を集めて郷勇隊を編成し、武術の鍛錬などを行っていた。
大庭 二郎(おおば じろう、1864年7月26日〈元治元年6… 大庭 二郎(おおば じろう、1864年7月26日〈元治元年6月23日〉- 1935年〈昭和10年〉2月11日)は、明治から大正期の陸軍軍人。陸士旧8期、陸大8期(優等)。栄典は従二位勲一等功二級。最終階級は陸軍大将。 現在の山口県青海島にて、長州藩士・大庭此面の長男として生れる。陸軍幼年学校を経て、1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を優等で卒業した。以後、参謀本部出仕、兵站総監部副官、参謀本部第1局員を経て、1895年(明治28年)から1900年(明治33年)までドイツに留学し、その後、陸大教官、参謀本部員兼山縣有朋元帥副官、大本営参謀などを歴任した。
田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日〈元治元年6… 田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日〈元治元年6月22日〉- 1929年〈昭和4年〉9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階・勲等・功級・爵位は正二位勲一等功三級男爵。 陸軍大臣(第14・16代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)、立憲政友会総裁(第5代)を歴任した。 元治元年6月22日(1864年7月25日)、萩藩士・田中信祐、みよの三男として、長門国阿武郡萩(現在の山口県萩市)に生まれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという[要出典]。
渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元… 渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元年6月16日(1864年7月19日) - 昭和9年(1934年)7月20日)は、日本の実業家、政治家(立憲政友会)。UBE(旧・宇部興産)の前身である冲ノ山炭鉱組合の創業者。旧姓・國吉。 幕末の長門国厚狭郡船木宰判の小串村(現在の山口県宇部市)で國吉恭輔(その後、福原家家臣渡邊詠蔵の渡邊家を継いだため、渡邊姓となる)の次男として生まれる。國吉家は畔頭ながらも苗字帯刀を許された家柄であったが、祖父に当たる國吉藤輔が周辺集落一体を焼き尽くす火事を起こしたために財産を失い、また明治維新以降他の士族と同様に俸禄を失ったことにより生活は苦しかったという。
藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日〈文久4年… 藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日〈文久4年1月5日〉- 1927年〈昭和2年〉4月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。藤井由助の二男として生れる。1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、歩兵少尉に任官、歩兵第10連隊付となる。近衛歩兵第1連隊付などを経て、1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。 1894年(明治27年)4月、陸士教官心得となり、後備歩兵第3連隊中隊長心得、陸士教官、台湾総督府参謀、同陸軍部課員、参謀本部第3部員などを経て、1900年(明治33年)10月、陸軍少佐に進級し近衛歩兵第4連隊付となった。
久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年1… 久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年10月28日) – 昭和12年(1937年)5月2日)は、日本および同統治下台湾の官僚、政治家、実業家。衆議院議員(立憲政友会→中正会)。福岡県若松町長。 長門国厚狭郡厚西村(現在の山陽小野田市)出身。小学校卒業後、独学で文学、政治、経済、法律を学び1895年(明治28年)、高等文官試験に合格し、内務省、台湾総督府、地方官として勤務した。退官後は1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選、そのほか若松町長も務めた。その他に私立興風中学校理事長を務め、その後大連に渡り、大連大正米製造合資会社の代表を務めた。
西村 礼作(西村 禮作、にしむら れいさく、1863年7月1… 西村 礼作(西村 禮作、にしむら れいさく、1863年7月19日〈文久3年6月4日〉 - 1943年〈昭和18年〉3月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(山口県郡部選出、当選3回)。族籍は山口県平民。 長門国阿武郡、のちの山口県阿武郡奈古村(奈古町を経て現阿武町)で、代々農業と生蝋製造を業とする西村家に生まれる。利右衛門の三男。小学校を了え、漢学と英語と数学を学ぶ。 農業を営む。学務委員、山口県勧業諮問会員、奈古村会議員、同村長、阿武郡所得税調査委員、同徴兵参事員、山口県会議員を務める。藤田組の藤田伝三郎の知遇を得て同家理事のほか、藤田銀行、防長銀行、萩銀行の各監査役を務める。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において山口2区から無所属で立候補して初当選。
松田 協輔(まつだ きょうすけ、文久2年8月1日(1862年… 松田 協輔(まつだ きょうすけ、文久2年8月1日(1862年8月25日) - 没年不詳)は、日本の検事。広島県尾道市長。 周防国佐波郡串村(現在の山口県山口市)出身。1885年(明治18年)に司法省法学校を卒業し、翌年に広島始審裁判所詰の検事補となった。1887年(明治20年)、判事登用試験に合格し、検事となった。以後、広島地方裁判所検事、尾道区裁判所検事、広島控訴院検事、佐賀地方裁判所検事正、名古屋控訴院検事、仙台地方裁判所検事正、長崎控訴院検事、福岡地方裁判所検事正、名古屋地方裁判所検事正、樺太地方裁判所検事正、広島地方裁判所検事正、長崎地方裁判所検事正、安濃津地方裁判所検事正、大審院検事などを歴任した。
小田 伴輔(おだ ばんすけ、1862年1月4日(文久元年12… 小田 伴輔(おだ ばんすけ、1862年1月4日(文久元年12月5日)- 1941年(昭和16年)12月12日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国玖珂郡柳井村(のち山口県玖珂郡柳井町を経て現柳井市)で、小田超祐の長男として生まれ、1880年(明治13年)1月、家督を相続した。柳井町長、周防銀行取締役となる。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙において山口5区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めたが、1895年(明治28年)8月27日に議員を辞職した。1941年に死去した。
植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年… 植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年7月28日) - 1927年(昭和2年)2月3日)は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡彦島村長)、実業家。彦島電気取締役。族籍は山口県平民。大彦島建設第一の功労者であった。 長門国彦島(現・山口県下関市)出身。植田藤左衛門の長男。第2代村長田代寅次郎に用いられて1890年、助役に就職し、1891年、第3代村長の要職に就いた。一意村治のために村長として約30年の永きにわたり心血を注いだ。 郡の町村長会副会長となり、種々な公的名誉職に関与した。自治功労者として表彰された。『彦島大観』で「彦島の元勲として崇敬すべき歴史的人物である。」と紹介されている。
澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(… 澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(万延元年5月29日)- 1936年(昭和11年)10月23日)は日本の数学者、陸軍教授。澤山-テボーの定理やフォイエルバッハの定理について20通り以上の証明を与えたことで知られる。 1860年(万延元年)、酒造業の武安治平の五男として長州藩厚狭郡二俣瀬村(現・宇部市)に生まれる。家業を継ぐ予定であったが、本人の強い希望で16歳のとき山口県の鴻城学舎に入り、英語・数学を学ぶ。当時県内には優れた英語教育者が少なかったので、ハワイ帰りで地元の刑務所に服役していた者から英語を学んだというエピソードがある。24歳で萩中学校の準助教諭となり、29歳の時に数学の中等教員の免状を得た。
井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7… 井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7年2月5日) - 1927年(昭和2年)12月15日)は、日本の農学者、政治家。衆議院議員(大阪府郡部選出、当選2回)。族籍は山口県士族。 長門国阿武郡萩町(現萩市)出身。山口県士族・井原勘兵衛の二男で、先代井原壽の養子となり家督を相続する。 1880年(明治13年)、駒場農学校農学科を卒業し、1883年(明治16年)には同校農芸化学科を卒業した。農商務省御用掛、山口中学校教諭、山口農学校校長、山口高等中学校教諭、宮城農学校校長、宮城県技師を歴任した。1898年(明治31年)より大阪府技師、大阪府立農学校校長を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年1… 岡田 治衛武(おかだ じえむ、1860年1月2日(安政6年12月10日) - 大正年間没)は、日本の実業家。政治家、衆議院議員(2期)。 岡田治右衛門の長男として、長門国美祢郡伊佐村(現美祢市)に生まれる。漢学を学ぶ。村会議員、同議長、山口県会議員、共栄汽船社長、大日本製薬(株)専務取締役、総武鉄道(株)顧問、真宗信徒生命保険会社社長、徴兵保険、武蔵電気鉄道各(株)社長となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選。1903年の第8回衆議院議員総選挙において無所属で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙ではトップで再選。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部公認で立候補したが落選した。
近藤 慶一(こんどう けいいち、1859年10月26日(安政… 近藤 慶一(こんどう けいいち、1859年10月26日(安政6年10月1日) - 1937年(昭和12年)3月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山口県大島郡志佐出身。近藤清吉の子として生まれる。近藤家は庄屋を務めていた。1864年(元治元年)に寺子屋(永寿庵等悟和尚)へ入門。漢学などを学ぶ。1881年家督を相続する。 大島海員学校創設(1897年)および県立学校移行(1901年)に尽力する。沖浦区長、小松志佐村村会議員、山口県会議員、第6代同副議長(1903年から1904年)、第8代同議長(1904年から1907年)を務める。大島銀行頭取。朝鮮勧農株式会社、大島汽船(株)各取締役。
成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年… 成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年8月2日〉 - 大正8年〈1919年〉3月4日)は、日本の牧師・教育者。日本における女子高等教育の開拓者の1人である。族籍は山口県士族。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。成瀬小右衛門の長男。成瀬家はもとは河崎姓で、仁蔵の父の代に成瀬姓を名乗る。父は長州藩毛利家の一門・吉敷毛利家に仕える下級武士。仁蔵の母・歌子は隣村の大歳村出身で、藩士である秦家の娘。 仁蔵は幼少時は郷校の憲章館に学び、維新後の1874年(明治7年)には調剤師として医家に住み込む。この年には父が死去し、山口の教員養成所(山口師範学校)の2期生となる。
長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年… 長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年5月13日〉- 1933年〈昭和8年〉4月21日)は、明治、大正期の陸軍軍人、政治家。陸士旧2期・陸大1期。栄典は正三位勲一等功二級。最終階級は陸軍中将。 周防国都濃郡末武村(現:山口県下松市)出身。父は大庄屋・堀三右衛門で、徳山藩士・長岡南陽の養子。明倫館を経て、1878年(明治11年)、陸軍士官学校(旧2期)卒。1885年(明治18年)に陸軍大学校を一期生として卒業。 日清戦争では大島混成旅団の参謀、1897年(明治30年)には軍務局第2軍事課長を勤め、ドイツ派遣を経験する。1902年(明治35年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務める。
山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日〈安政… 山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日〈安政4年12月23日〉- 1927年〈昭和2年〉9月24日)は、日本の官僚。元老山縣有朋の養子で公爵を継いだ。旧姓は勝津。妻は加藤弘之の娘の隆子。息子は有道、三郎と養子の有光。 長州藩藩士勝津兼亮と山縣有朋の姉・壽子の間に次男として生まれる。明治維新の立役者の一人であった有朋には三男四女があったが、次女以外夭折して山縣家を継ぐべき子供がいなかったため、甥である伊三郎を養子とした。 ドイツ留学後、内務官僚として徳島県知事、三重県知事、内務省地方局長、内務次官などを歴任した。1906年(明治39年)に第1次西園寺内閣で逓信大臣として入閣。しかし、鉄道建設に関する予算問題をめぐって大蔵大臣の阪谷芳郎と対立した末、1908年(明治41年)1月に逓相を辞任している。
賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴ… 賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴリオ暦 1857年11月2日 - 1922年7月4日)は、日本の実業家である。日本統治時代の台湾における実業界の大物。相場師「賀田金」としても知られる。 1857年11月2日(安政4年9月16日)、長門国萩(現在の山口県萩市)の札差商家に生まれる。漢学を学び、やがて家業を継ぐ。 1885年(明治18年)、東京に移り、藤田伝三郎の藤田組(藤田財閥)に入社する。その後、大倉喜八郎の大倉組(大倉財閥)に移り、同社広島支店長を経て、1895年(明治28年)に日清戦争が終結すると、同社台湾総支配人に就任する。台湾統治初期のインフラ整備需要を利用し、1897年(明治30年)には、台湾で大倉喜八郎・山下秀実らと駅伝社設立し、台湾での郵便や国庫金の逓送、苦力供給などを業務とする交通業を手がける。
伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日… 伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 昭和3年(1928年)4月28日)は、日本の実業家。新聞『時事新報』編集長、新聞『日本』社長。交詢社理事、慶應義塾評議員。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
藤岡 市助(ふじおか いちすけ、安政4年3月14日〈1857… 藤岡 市助(ふじおか いちすけ、安政4年3月14日〈1857年4月8日〉 - 大正7年〈1918年〉3月5日)は、日本の工学者・実業家。東京電気株式会社(後の東芝)創業者。日本に電気および電球灯を普及させた功績があり、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。 安政4年3月14日(1857年4月8日)、周防国岩国(現在の山口県岩国市)に生まれた。父は岩国藩士の藤岡喜介、母はウメであり、市助は長男だった。慶応元年(1865年)には岩国藩藩校の養老館に入った。 14歳だった1871年(明治4年)には新設された岩国兵学校に入学し、1872年(明治5年)には岩国英国語学所に移った。1873年(明治6年)には英語教師がいなくなったことで、しばらく藤岡が英語の授業を担当したという逸話もある。
山本 六彦(やまもと ろくひこ、1857年2月12日(安政4… 山本 六彦(やまもと ろくひこ、1857年2月12日(安政4年1月18日)- 1899年(明治32年)6月25日)は、日本の地主、政治家、衆議院議員(1期)。 周防国玖珂郡(山口県玖珂郡高森村、高森町、周東町を経て現岩国市)生まれ。農業を営む。第四大区第十小区戸長となり、1889年(明治22年)6月から1891年(明治24年)7月まで初代高森村長を務めた。 1895年、小田伴輔辞職に伴う衆議院山口5区の補欠選挙に立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1899年に死去した。
上田 実(實、うえだ みのる、1857年1月27日(安政4年… 上田 実(實、うえだ みのる、1857年1月27日(安政4年1月2日) - 1929年(昭和4年)4月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 周防国吉敷郡、のちの山口県吉敷郡大道村(現防府市)出身。漢学と政治経済学を学ぶ。戸長、協同会社赤間関支店長、大道村会議員、同村長、吉敷郡会議員、同参事会員、山口県会議員、同参事会員、所得税調査委員、学務委員、破産管財人、地方森林会議員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補して初当選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙では政友倶楽部から出馬して再選。衆議院議員を2期務め、1904年の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。
柏木 幸助(かしわぎ こうすけ、1857年1月9日(安政3年… 柏木 幸助(かしわぎ こうすけ、1857年1月9日(安政3年12月14日) - 1923年(大正12年)2月7日)は、山口県防府市三田尻出身の発明家。日本で初めて安全マッチを発明し、国産唯一の体温計やジアスターゼの製造にも成功した。 1856年(安政3年)、薬舗柏木治助の次男として生まれる。1872年(明治5年)、16歳の時、防府市牟礼の桂権吾に化学を学び始める(1874年(明治7年)まで)。1875年(明治8年)、発火薬に赤燐を用いたマッチの製造に成功。1877年には安全マッチの製造に成功し、生産を始める。1878年(明治11年)6月、華浦医学校で理化学を学ぶ。このあと、三田尻港の水深が浅く、大型汽船が寄港できないことから、その浚渫を計画するも、浚渫船を入手できず、周陽丸を建造して広島、下関に運行させたり、大阪道修町の薬種商白井治兵衛に体温計製造を相談、宇部のガラス職人惣兵衛とガラス瓶の製造を試みたりする。
新山 荘輔(にいやま そうすけ、安政3年10月10日(185… 新山 荘輔(にいやま そうすけ、安政3年10月10日(1856年11月7日) - 昭和5年(1930年)11月7日)は、獣医学博士、下総御料牧場長、新冠御料牧場長、馬政官、農商務技師、宮中顧問官。日本の官民両面における畜産業、特に馬産事業の貢献者。正三位旭日重光章受章。 種畜の改良、繁殖、育成等を通じた飼養管理や治療法等の功績により『日本獣医学の生みの親』として知られる。 岩山敬義によって創設された駒場農学校(後の東京大学農学部)で獣医学を学び、ヨーロッパの畜産業の視察のため藤波言忠子爵に随行した。この間、ドイツ語が堪能であったことから渡欧中だった伊藤博文一行と会い、通訳や翻訳の仕事にあたり、明治憲法制定に一役買ったとされる。
大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年… 大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年6月3日〉- 1928年〈昭和3年〉1月26日)は、明治・大正期の弁護士・政治家。号は硯海。 医師大岡尚斎の長男として、長門国豊浦郡小串村(現:山口県下関市)に生まれた。1873年(明治6年)、長崎医学校(現:長崎大学医学部)に入ったが、翌年廃校となった為、上京して大井憲太郎らの講法学舎で法律を学んだ。司法省法学校に通ったとの記事は、裏付けを欠くとも言う。 1880年(明治13年)12月、代言人(現在の弁護士)の資格を取り、講法学舎の幹事になった。沼間守一に兄事して、1881年(明治14年)、板垣退助らの自由党に入党した。また、共立学校の幹事に転じ、1882年(明治15年)、校長になった。
道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3… 道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3年3月4日) - 1934年(昭和9年)1月29日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶。浄土宗学本校(佛教大学の前身)教授や大本山増上寺法主などを歴任した。 安政3年(1856年)3月4日、長門国厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)の農家、道重十次郎の五男として生まれる。 1879年に京都知恩院内の浄土宗大教校に入学。1885年に宇部松月庵の住職となる。 1896年に上京して浄土宗学本校教授となる傍ら、曹洞宗大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京女子高等師範学校などで仏教学を講じた。 1900年、増上寺山内に仏学院を創設して仏教を講じ、徳富蘇峰・寺内正毅らもその門を叩いた。
田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年… 田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年 旧暦11月14日) - 1904年(明治37年)12月31日)は、現在の山口県岩国市出身の作曲家、海軍軍人。 代表作である『美しき天然』(1902年(明治35年))は日本初のワルツとされている。大正、昭和期にはサーカスやチンドン屋などが客の呼び込みで演奏する曲として全国に広まった。同曲は長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校の前身の1つである私立佐世保女学校(佐世保市立成徳高等女学校)で田中が音楽指導する際に、教材として作曲したものと伝えられている。『美しき天然』の歌碑が佐世保市の烏帽子岳に、田中穂積の銅像が佐世保市の展海峰に建立されており、佐世保市民の愛唱歌として親しまれている。
植田 惣五郎(うえだ そうごろう、1855年9月12日(安政… 植田 惣五郎(うえだ そうごろう、1855年9月12日(安政2年8月2日) - 没年不明)は、日本の篤農家、実業家。植田合名会社代表社員。族籍は山口県平民。 長門国彦島(現・山口県下関市)出身。植田惣三郎の長男。1874年、家督を相続した。三菱を背景として弟子待及び江ノ浦一帯の海岸を埋築して貯炭場を作り、あるいは数10隻に余る帆船を造り、ほとんど全国にまたがり海運業を営み、日清、日露戦役から欧州大戦にかけてにわかに家運膨張し、一躍巨万の富をなした。 三菱の引立てがあったといえども惣五郎の手腕と英断がなければ成功は成し遂げられなかった。蓄財の反面子弟の教養に意を注ぎ、末子2人は帝大を卒業して三菱社員となった。
桂 潜太郎(かつら せんたろう、1855年1月26日〈安政元… 桂 潜太郎(かつら せんたろう、1855年1月26日〈安政元年12月9日〉 - 1928年〈昭和3年〉11月21日)は、明治から昭和時代初期の官吏。宮中顧問官。旧姓は細迫。 長門国豊浦郡阿川村(豊北町を経て現下関市豊北町大字阿川)に生まれる。細迫礼介の長男。1884年(明治17年)5月、絶家桂庄左衛門の家を再興する。東京専門学校校外生となり、英法を学ぶ。宮内省華族局に出仕し、のち爵位局主事に就任。宮内書記官を兼ねたのち、東宮主事に転じ、東伏見宮別当を兼ね、東伏見宮別当泰宮御養育掛長兼宮中顧問官に就任した。墓所は多磨霊園。
川本 永守(かわもと えいしゅ、1855年(安政2年) - … 川本 永守(かわもと えいしゅ、1855年(安政2年) - 没年不詳)は、明治期の官僚、鉄道院参事 長門国豊浦郡幡生村(現・山口県下関市)生まれ。上京し慶應義塾へ入学し、小野梓の知遇を得て別科を卒業。 山陽鉄道に入り、下関の開発に従事。1906年(明治39年)、鉄道が国有となるに伴って鉄道院参事に就任。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(185… 片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(1854年1月18日)- 1917年(大正6年)10月24日)は、明治期に活躍した建築家。工手学校(現工学院大学)造家学科教務主理。位階および勲等は正三位勲一等。号は晩晴。 山口県生まれ。工部大学校の建築学科第1期生。 宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。 日本人建築家の養成を行うべく来日した、ジョサイア・コンドルによる最初の学生の一人である。 代表作である旧東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)は、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定された。