河村 又介(かわむら またすけ、1894年1月1日 ‐ 19… 河村 又介(かわむら またすけ、1894年1月1日 ‐ 1979年1月4日)は、日本の法学者、裁判官。
山口県:123人
河村 又介(かわむら またすけ、1894年1月1日 ‐ 19… 河村 又介(かわむら またすけ、1894年1月1日 ‐ 1979年1月4日)は、日本の法学者、裁判官。
伊藤 武男(いとう たけお、1893年12月10日 - 19… 伊藤 武男(いとう たけお、1893年12月10日 - 1976年10月1日)は、日本の蚕糸学者。上田繊維専門学校の校長、信州大学の学長を務めた。農学博士。山口県岩国市出身。 絹のタンパク質の物理化学的研究で知られ、絹糸を構成するフィブロインおよびセリシンについて、そのアミノ酸組成を解明し、「農芸化学会誌」に発表した。
佐藤 市郎(さとう いちろう、1889年(明治22年)8月2… 佐藤 市郎(さとう いちろう、1889年(明治22年)8月28日 - 1958年(昭和33年)4月14日)は、日本の海軍軍人、歴史家。海兵36期首席・海大18期首席。最終階級は海軍中将。 男3兄弟の長男で弟二人が内閣総理大臣(岸信介・佐藤栄作)を務めるという特異な家族構成である。さらに大甥(岸の孫)には第90・96・97・98代内閣総理大臣の安倍晋三がいる。 佐藤の遺品は、郷里である山口県熊毛郡田布施町の田布施町郷土館(外部リンク)に収蔵・展示されている。 山口県熊毛郡田布施町に、父・佐藤秀助、母・茂世の長男として生まれた。 東京府立第四中学校を経て、海軍兵学校36期(同期には南雲忠一がいる)に入校した。
村田 四郎(むらた しろう、1887年9月2日 - 1971… 村田 四郎(むらた しろう、1887年9月2日 - 1971年2月7日)は、日本の神学者、牧師、明治学院5代目院長。 村田沰冶の四男として山口県吉敷郡山口に生まれた。1911年6月明治学院神学部を卒業した。その後1912年9月に渡米してオーバン神学校(英語版)で学んだ。1916年に帰国し、大阪同志館神学校教授に就任した。1918年に母校の明治学院に来任し、翌年中学部長となる。しかし、1920年に起きた中学部同盟休校事件の責任をとり部長を辞任し、朝鮮の大邱教会牧師となった。 1925年に明治学院に戻り、神学部で基督教史を担当した。1930年の明治学院神学部廃止後日本神学校教授となり、1933年に同校校長となる。
青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年… 青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年(明治20年)2月14日 - 1964年(昭和39年)12月2日)は、大正から昭和中期の中国学者・中国文学者。日本学士院会員。山口県下関市出身。字は「君雅」。号に「迷陽」があり、「迷陽先生」とも呼ばれた。 年譜は『青木正児全集』最終10巻末ほかに収録されている。 1887年(明治20年)2月14日、山口県下関市で漢方医・青木坦平の次男として生まれた。父・坦平には支那趣味があり、南画家を自宅に招いたり、妻や娘に琵琶など中国の楽器を習わせるなどしており、青木正児も幼少期より文学や美術を好んだ。1905年、山口県立豊浦中学校を卒業し、同年9月に第五高等学校第一部(現:熊本大学)に入学。
田中 秀作(たなか しゅうさく、1885年3月6日 - 19… 田中 秀作(たなか しゅうさく、1885年3月6日 - 1963年11月23日)は、日本の地理学者。 山口県防府市生まれ。1906年山口県師範学校卒、1910年東京高等師範学校地理歴史部卒、鹿児島県女子師範学校教諭、1915年京都帝国大学文科大学史学科地理学卒、大学院をへて1916年同助手、1917年京都府立第三中学校講師、12月満鉄に入社、1923年彦根高等商業学校教授、27 - 29年文部省在外研究員としてドイツ国、米国、英国に滞在。32年文部省視学委員、1943年華北綜合調査研究所研究員、46年引き揚げ、1947年北海道第三師範学校講師、1949年北海道学芸大学教授、1952年大阪学芸大学教授。
戸倉 英太郎(とくら えいたろう、1882年〈明治15年〉2… 戸倉 英太郎(とくら えいたろう、1882年〈明治15年〉2月7日 - 1966年〈昭和41年〉7月29日)は、昭和時代の神奈川県の郷土史家。福岡県出身。 1882年(明治15年)2月7日、現在の福岡県福岡市博多区に士族の長男として生まれる。娘の戸倉英美によれば「いわゆる貧乏士族」であり、少年時代には、筑豊の炭鉱主・伊藤伝右衛門のもとで丁稚奉公をしたという。1900年(明治33年)3月に赤間関商業学校(現在の下関商業高等学校)を卒業した。 1903年(明治36年)4月に宇和島商業学校(現在の愛媛県立宇和島東高等学校)教諭となる。1905年(明治38年)に釜山に渡り、釜山第一公立尋常小学校の訓導となる。
笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治… 笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治4年2月25日〉- 1941年〈昭和16年〉1月29日)は、日本の哲学者である。 長門国、現在の山口県下関市に笹尾勝蔵の息子として生まれ、日本基督教会柳川教会で父から洗礼を受けた。山口高等学校に入学したが、経済的事情で明治学院神学部に転校。同じく、白金にあった自営館(現・巣鴨教会)で共同生活を送った。 明治学院から推薦されて、20歳で渡米し、オーバン神学校、コロンビア大学で学んだ。さらに、1896年にドイツに渡りベルリン大学、ハレ大学、ボン大学でキリスト教とカント哲学の研究を重ね、1899年に学位論文「カントの神概念」によりボン大学より哲学博士号を得た。
井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7… 井原 百介(いばら ひゃくすけ、1860年2月26日(安政7年2月5日) - 1927年(昭和2年)12月15日)は、日本の農学者、政治家。衆議院議員(大阪府郡部選出、当選2回)。族籍は山口県士族。 長門国阿武郡萩町(現萩市)出身。山口県士族・井原勘兵衛の二男で、先代井原壽の養子となり家督を相続する。 1880年(明治13年)、駒場農学校農学科を卒業し、1883年(明治16年)には同校農芸化学科を卒業した。農商務省御用掛、山口中学校教諭、山口農学校校長、山口高等中学校教諭、宮城農学校校長、宮城県技師を歴任した。1898年(明治31年)より大阪府技師、大阪府立農学校校長を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
藤岡 市助(ふじおか いちすけ、安政4年3月14日〈1857… 藤岡 市助(ふじおか いちすけ、安政4年3月14日〈1857年4月8日〉 - 大正7年〈1918年〉3月5日)は、日本の工学者・実業家。東京電気株式会社(後の東芝)創業者。日本に電気および電球灯を普及させた功績があり、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。 安政4年3月14日(1857年4月8日)、周防国岩国(現在の山口県岩国市)に生まれた。父は岩国藩士の藤岡喜介、母はウメであり、市助は長男だった。慶応元年(1865年)には岩国藩藩校の養老館に入った。 14歳だった1871年(明治4年)には新設された岩国兵学校に入学し、1872年(明治5年)には岩国英国語学所に移った。1873年(明治6年)には英語教師がいなくなったことで、しばらく藤岡が英語の授業を担当したという逸話もある。
道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3… 道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3年3月4日) - 1934年(昭和9年)1月29日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶。浄土宗学本校(佛教大学の前身)教授や大本山増上寺法主などを歴任した。 安政3年(1856年)3月4日、長門国厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)の農家、道重十次郎の五男として生まれる。 1879年に京都知恩院内の浄土宗大教校に入学。1885年に宇部松月庵の住職となる。 1896年に上京して浄土宗学本校教授となる傍ら、曹洞宗大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京女子高等師範学校などで仏教学を講じた。 1900年、増上寺山内に仏学院を創設して仏教を講じ、徳富蘇峰・寺内正毅らもその門を叩いた。
井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年… 井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年2月25日) - 1936年(昭和11年)10月3日)は、日本の法学者、衆議院議員、大審院判事。 長門国大津郡伊上村(山口県大津郡菱海村、油谷町を経て現在の山口県長門市油谷伊上)生まれ。1866年の四境戦争に際して長州藩諸隊の一つ鐘秀隊に加わり、芸州口と石州口を転戦。その後許可を得て隊を離れ、萩明倫館と山口文学寮で学ぶ。維新後に単身上京して箕作麟祥の下でフランス学を修めた。1870年開成学校に入った後、長州藩の貢進生に選ばれ、大学南校を経て1875年に司法省法学校を卒業。同年秋にフランスに留学し、法学博士の学位を取得。1881年に帰国するとただちに司法省雇となり、開校間もない明治法律学校(のちの明治大学)にも講師として迎えられた。
松野 礀(まつの はざま / かん、英: Hazama Jo… 松野 礀(まつの はざま / かん、英: Hazama Johannes Matsuno、1847年4月21日〈弘化4年3月7日〉 - 1908年〈明治41年〉5月14日)は、日本の林学者、林学教育者。東京山林学校初代校長兼教授。旧長州藩臣。ドイツ留学を経て日本への山林科学・林学導入と人材養成の基礎作りに貢献した。配偶者はベルリン出身の松野クララ。 長門国美祢郡大田村(現・山口県美祢市美東町大田)にて,長州藩郷士大野徳右衞門の四男(第七子)として生まれる。幼名は常松。一時他家の養子となったが復籍、以後義兄の医師長松幹の家で育てられた。万延元年(1860年)まで、郷士羽仁藤左衛門より和漢学を習い、文久元年(1861年)より山口にて藩儒岡守節等に就いて漢学を修業する傍ら、義兄に倣って医業を志し、蘭方医坪井信友(二代信道)に就いて初めて蘭学を学んだ。
東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日〈1832年1… 東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日〈1832年11月1日〉 - 明治24年〈1891年〉3月28日)は、幕末の岩国藩士・儒学者(陽明学者)。諱は正純、通称は崇一郎、号は白沙、沢瀉。沢瀉の号は、明治になってから用いている。 天保3年(1832年)10月9日、周防国岩国錦見に生まれる。藩校養老館では、大草馨堂、南部五竹と並んで学内の三博士と称せられた。その後、江戸に出て佐藤一斎らに陽明学を学ぶ。文久3年(1863年)3月、養老館の助教に任用されるが、朱子学中心の学風と合わず、1年で辞任した。岩国藩の佐幕的姿勢に満足せず、尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、栗栖天山や南部五竹らと共に兵制改革を進める。
島田 蕃根(しまだ ばんこん/みつね、1827年12月25日… 島田 蕃根(しまだ ばんこん/みつね、1827年12月25日(文政10年11月8日)- 1907年(明治40年)9月2日)は、幕末から明治時代に活躍した僧、仏教学者である。法名は円真。別名に如縄道人等。 役藍泉(島田浄観)の孫として周防の徳山に生まれる。幼年期より徳山藩に仕え、儒教や神道等宗教に関する事を多く学んだ。後に天台宗本山派修験道教学院の住職となる。 後に藩主の命によって上洛し興譲館で教鞭を執り、勤皇説を唱えた。維新後の1872年(明治5年)に廃藩置県に携わるため還俗し同時期に活躍した福田行誡、獅岳快猛らと共に『大蔵経』の編纂に携わった。その後、教部省や内務省内の社寺局等に勤めるなど現代における仏教の興隆に貢献した。
大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈18… 大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉 - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、幕末期の日本の官僚・洋学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。 戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。兵部省は陸軍省・海軍省の前身であり、教え子からは伊藤雋吉ら海軍の重鎮も輩出しており、近代日本軍全体に対する創業の功績も大きい。
富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821… 富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821年6月13日) - 明治33年(1900年)12月20日)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士・儒学者。諱は徳、後に悳彦。通称は弥兵衛。有隣は字で、『論語』の「徳は孤ならず必ず隣あり」から命名したとされる。 文政4年(1821年)、周防国吉敷郡陶村(現在の山口県山口市)にて誕生。 幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明する。9歳で長州藩藩校・明倫館に入り、13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』を講じた。成人後、小姓を務めるが、他人と打ち解けなかったために、同僚・親族らに憎まれ、嘉永5年(1852年)に冤罪で見島に流され、嘉永6年(1853年)には萩野山獄に移された。
近藤 芳樹(こんどう よしき、享和元年5月25日〈1801年… 近藤 芳樹(こんどう よしき、享和元年5月25日〈1801年7月5日〉 - 1880年〈明治13年〉2月29日)は、幕末から明治時代の国学者、歌人、長州藩士である。本姓は田中、初名は裕。通称は源吾後に晋一郎。字は子潜、真蔭。号は寄居子庵、風月史生等。 周防国吉敷郡岩淵(現・山口県防府市)の百姓・田中源吉の長男として生まれる。猪飼敬所や原古処が周防を訪れた際に教えを受ける。文政6年()上方へ赴き、村田春門に歌学を、本居大平に国学を、山田以文に有職故実を学んだ。その後広島に居住。 天保10年()長州藩主・毛利敬親に召されて萩へ移る。翌年長州藩士近藤家を継承し近藤芳樹と改める。萩で家塾・抄宗寮を開いて弟子を育てる。
松本 豊(まつもと ゆたか、4月25日)は、日本の起業家。 … 松本 豊(まつもと ゆたか、4月25日)は、日本の起業家。 山口県下関市彦島に長男として生まれる。下関市立西山小学校を卒業し、下関市立玄洋中学校に進み、私立早鞆高等学校を卒業。 自由民主党党員であり、山口4区(下関市)の安倍晋三総理とは半世紀以上の付き合いがあり、多くの政治家と親交がある。 1998年 funai USAcorporation北米マーケットに於いて、液晶TV売り上げ4位に貢献、日本メーカーとしては1位を記録。 他多くの企業の再建と再生に貢献。
岩崎 秀樹(いわさき ひでき)は、日本の教育学者。教育学博士… 岩崎 秀樹(いわさき ひでき)は、日本の教育学者。教育学博士(数学教育学)。広島大学教育学研究科教授。広島大学附属福山中学校・高等学校元校長。 全国数学教育学会、日本科学教育学会、日本数学教育学会
新家 増美(しんや ますみ)は、中華人民共和国在住の日本人学… 新家 増美(しんや ますみ)は、中華人民共和国在住の日本人学者。中国国内の住宅保障、災害リスク管理ソーシャルワーク研究者の第一世代。山口県宇部市生まれ。 1980年のシンガポール国立大学への文部省海外派遣留学生時代にアジアの住宅保障研究を志す。1985年、住宅制度変革期に中国政府国費留学生として清華大学建築系において張守儀教授に師事し、中国の住宅保障研究を行う。1988年には高級進修生として同済大学建築学院の李徳華教授のもとで住宅制度改革の実地調査を行い、アジア経済研究叢書等に執筆。帰国後、早川和男教授(居住福祉)、小島麗逸教授(中国経済)の指導で、中国の住宅保障研究についての博士論文をまとめる。
蜷川 順子 (にながわ じゅんこ)は、日本の美術史学者。関西… 蜷川 順子 (にながわ じゅんこ)は、日本の美術史学者。関西大学文学部教授。専門は西洋美術史。 特にルネサンス期の北方絵画、初期ネーデルラント絵画史の研究者として知られている。ヒエロニムス・ボス、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、ファン・エイク、ハンス・メムリンクらの絵画の研究について、独創的な業績がある。オランダ給費留学生の期間を含め、3年半にわたってオランダ国立フローニンゲン大学考古学美術史研究所へ留学し、研鑽を積んだ。神学、宗教史、教会史、美学、哲学など、美術史学の周辺領域についての該博な知識を援用したオーソドックスな研究方法、豊かな着想を本領としており、中世のみならず近代美術にいたるまで、その関心の幅も広い。
野坂 正隆(のさか まさたか) は、日本の機械工学者。宇宙航… 野坂 正隆(のさか まさたか) は、日本の機械工学者。宇宙航空研究開発機構ロケットエンジン研究開発センター長や、東京大学大学院工学系研究科教授、IHI技術顧問などを歴任した。 山口県萩市出身。山口県立萩高等学校を経て、1970年広島大学工学部精密工学科卒業。1972年広島大学大学院工学研究科精密工学専攻修士課程修了、科学技術庁航空宇宙技術研究所宇宙研究グループ第9研究グループ研究員。2001年航空宇宙技術研究所角田宇宙推進技術研究所ロケット推進研究センター長。2003年宇宙航空研究開発機構総合技術研究本部宇宙推進技術共同センターロケットエンジン研究開発統括ユニット長。2004年宇宙航空研究開発機構総合技術研究本部ロケットエンジン研究開発センター長。