広永 益隆(ひろなが やすたか、1968年3月5日 - )は… 広永 益隆(ひろなが やすたか、1968年3月5日 - )は徳島県出身の元プロ野球選手。右投げ左打ち。
徳島県:101人
広永 益隆(ひろなが やすたか、1968年3月5日 - )は… 広永 益隆(ひろなが やすたか、1968年3月5日 - )は徳島県出身の元プロ野球選手。右投げ左打ち。
宮内 仁一(みやうち まさかず、1967年6月19日 - )… 宮内 仁一(みやうち まさかず、1967年6月19日 - )は徳島県三好郡東みよし町(旧三好町)出身の元プロ野球選手(阪神タイガース)。 東みよし町立昼間小学校、東みよし町立三好中学校、徳島県立池田高等学校出身。1993年以降の登録名は宮内 直二(読み方同じ)。
栁田 昌夫(やなだ まさお、1966年7月11日 - )は、… 栁田 昌夫(やなだ まさお、1966年7月11日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手、プロ野球審判員。本名、ならびにプロ野球選手時代当初の登録名は柳田 浩一(やなだ こういち)。審判員現役時代の袖番号は5。 選手としてタイトル(選手表彰)を獲得した後に審判へ転身した数少ない選手。 徳島県立鳴門商業高等学校(現・徳島県立鳴門渦潮高等学校)を卒業後、ヤクルトスワローズにドラフト3位指名で入団。当初は内野手。 野村克也が監督に就任した1990年に俊足と強肩を買われて外野手に転向。外野のレギュラーだった栗山英樹がメニエール病の悪化による不調で出遅れたため、橋上秀樹とのポジション争いを制して開幕戦に2番右翼手で先発出場を果たし、持ち前の俊足と強肩を活かしてそのまま外野のレギュラーの座を確保。
水野 雄仁(みずの かつひと、1965年9月3日 - )は、… 水野 雄仁(みずの かつひと、1965年9月3日 - )は、徳島県阿南市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者(所属事務所・エル・ファクトリー)。
畠山 準(はたやま ひとし、1964年6月11日 - )は、… 畠山 準(はたやま ひとし、1964年6月11日 - )は、徳島県小松島市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手、投手)、野球解説者。
水谷 哲也(みずたに てつや、1964年 - )は、徳島県出… 水谷 哲也(みずたに てつや、1964年 - )は、徳島県出身の日本の高校野球指導者。 徳島市立高校時代は捕手として活躍し、高校3年夏の県大会はベスト8まで進む。 高校卒業後は東都大学野球所属の国士舘大学に進学。 大学卒業後は国士舘高校でコーチを務め、1991年秋に横浜隼人高校の監督に就任。2009年夏には準々決勝で強豪・横浜高校、準決勝で桐光学園、決勝で桐蔭学園高校を破り、甲子園大会に初出場。2回戦では菊池雄星を擁する、花巻東高校と対戦し、敗退。花巻東の監督はかつて自身の下で横浜隼人のコーチを務めた、佐々木洋であり、師弟対決として注目を集めた。
島田 茂(しまだ しげる、1962年8月20日 - )は、徳… 島田 茂(しまだ しげる、1962年8月20日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。徳島県立鳴門高等学校卒業。法政大学卒業。ポジションは内野手、外野手。右投右打。
秦 真司(はた しんじ、1962年7月29日 - )は、徳島… 秦 真司(はた しんじ、1962年7月29日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手(外野手、捕手)。2012年から読売ジャイアンツのバッテリーコーチ。
香川 伸行(かがわ のぶゆき、1961年12月19日 - 2… 香川 伸行(かがわ のぶゆき、1961年12月19日 - 2014年9月26日)は、大阪府大阪市出身(徳島県阿波郡阿波町(現・阿波市)生まれ)のプロ野球選手(捕手・内野手)、解説者。 非常に横幅の大きな体格で、水島新司の野球漫画『ドカベン』の主人公である捕手・山田太郎に体型が似ていたことから、ドカベンの愛称で呼ばれた。マスターズリーグでは、その「ドカベン」を登録名としていた。 小学生の時に父の仕事の関係で大阪市内に移り住む。野球は母が肥満への未然の対策として小学2年生の時に始めさせた。大体大附中から進学した浪商高では、軟らかいバットコントロールなどを活かし、入学式翌日の練習試合で本塁打を記録し、1年次の春季大会で早くもレギュラーを獲得。
川端 順(かわばた じゅん、1960年3月19日 - )は、… 川端 順(かわばた じゅん、1960年3月19日 - )は、徳島県板野郡松茂町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。
長村 裕之(ながむら ひろゆき、1958年12月12日 - … 長村 裕之(ながむら ひろゆき、1958年12月12日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手(捕手)。2016年10月よりオリックス・バファローズの球団本部長兼編成部長を務める。 鳴門工業高では1976年、夏の甲子園予選南四国大会準決勝に進出するが高知商業高に敗退。 卒業後は駒澤大学へ進学。大学時代には高久孝(日本楽器)らとバッテリーを組み、東都大学野球リーグで3度優勝。1980年の全日本大学野球選手権大会準優勝。同年の第9回日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、秋季リーグでは首位打者を獲得している。リーグ通算72試合に出場、209打数62安打、打率.297、1本塁打、20打点という成績を残した。
住友 一哉(すみとも かずや、1958年2月14日 - )は… 住友 一哉(すみとも かずや、1958年2月14日 - )は徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手。
中本 茂樹(なかもと しげき、1957年6月11日 - )は… 中本 茂樹(なかもと しげき、1957年6月11日 - )は、徳島県美馬市出身の元プロ野球選手(投手)。
植上 健治(うえがみ けんじ、1955年5月20日 - 19… 植上 健治(うえがみ けんじ、1955年5月20日 - 1995年2月16日)は徳島県徳島市出身のプロ野球選手、打撃投手、スコアラー。
大石 友好(おおいし ともよし、1954年1月15日 - )… 大石 友好(おおいし ともよし、1954年1月15日 - )は、徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 海南高校では尾崎健夫とバッテリーを組み、2年次の1971年に春季徳島大会で優勝するが、代表決定戦で徳島商(選抜代表校)に敗れて四国大会には進めなかった。同年夏も県予選準々決勝で池田高に敗れ、甲子園には出場できなかった。他の高校同期に北川裕司、後にセ・リーグ審判となる谷博、同志社大学から日本生命に進んだ花野巧がいた。高校卒業後の1973年、当初志望していた関西大学が学生運動の影響で野球部員としての募集を行っておらず、日本生命からのオファーもあったものの大学進学を希望したため先輩のつてを頼って北川と共に神奈川大学へ進学。
花野 巧(はなの たくみ、1953年9月21日 - )は、元… 花野 巧(はなの たくみ、1953年9月21日 - )は、元アマチュア野球選手である。ポジションは内野手。 海南高校では尾崎健夫、大石友好のバッテリーを擁し、1971年春季四国大会県予選で優勝するが、県代表決定戦で徳島商(選抜代表校)に敗れ四国大会には進めなかった。同年夏も県予選準々決勝で池田高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 同志社大学商学部に入学。同期のエース田尾安志を擁し、関西六大学野球リーグでは在学中3回優勝。1973年の全日本大学野球選手権大会は準決勝に進むが、中大の田村政雄に完封負けを喫する。同年の明治神宮野球大会は決勝で駒大に敗れ準優勝。1974年の明治神宮野球大会もベスト4に喰い込む。
谷 博(たに ひろし、1953年6月20日 - )は元プロ野… 谷 博(たに ひろし、1953年6月20日 - )は元プロ野球審判員。徳島県出身。審判員袖番号は19 (1988年初採用から。谷は関西審判部で袖番号が初採用された年度の中で最古参であった)。 徳島県立海南高等学校では野球部で尾崎健夫、大石友好と同期。京都産業大学を経て1976年にセントラル・リーグ審判部入局。井野修元審判とは同期入局である(井野は公募で合格、谷はアマ時代の経験を買われて入局)。入局1年目の4月25日の阪神-大洋戦(甲子園)での左翼外審で一軍試合出場を果たす。 バース・掛布雅之・岡田彰布の3人によるバックスクリーン3連発があった1985年の巨人対阪神戦では一塁塁審をしており、その18年後の平成の3連発では二塁塁審をしていた。
北川 裕司(きたがわ ゆうじ、1953年〈昭和28年〉6月1… 北川 裕司(きたがわ ゆうじ、1953年〈昭和28年〉6月14日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 海南高校では尾崎健夫、大石友好のバッテリーを擁し、甲子園には出場できなかったが強豪校として知られた。1971年(昭和46年)春季徳島大会で優勝するが、代表決定戦で徳島商(選抜代表校)に敗れ、四国大会には進めなかった。他の高校同期にセントラル・リーグ審判の谷博がいた。卒業後は大石とともに神奈川大学へ進学。神奈川五大学野球リーグでは在学中5度優勝。最優秀選手、ベストナイン1回。 1975年プロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから5位指名され入団。1年目の1976年から一軍に上がり、6月には遊撃手として2試合に先発出場を果たす。
笹本 信二(ささもと しんじ、1952年4月18日 - )は… 笹本 信二(ささもと しんじ、1952年4月18日 - )は、徳島県板野郡松茂町出身の元プロ野球選手(捕手)。
国岡 恵治(くにおか けいじ、1952年3月8日 - )は、… 国岡 恵治(くにおか けいじ、1952年3月8日 - )は、徳島県美馬郡脇町出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 鴨島商業高校では1968年、2年生の時に四番打者、一塁手、控え投手として夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で盛岡一高に敗退。この試合でリリーフとして甲子園初登板を果たす。1969年夏はエースとして南四国大会決勝に進むが、高知商の中沢一彦(法大-三菱自動車川崎)と投げ合い敗退、甲子園には届かなかった。 1969年ドラフト会議で阪急ブレーブスから2位指名を受け入団。左の本格派でカーブを武器とし、梶本二世と期待される。1970年には10試合に登板、10月23日にはロッテを相手に初先発を果たす。
松村 憲章(まつむら のりあき、1951年5月3日 - )は… 松村 憲章(まつむら のりあき、1951年5月3日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
楠本 秀雄(くすもと ひでお、1949年8月8日 - )は、… 楠本 秀雄(くすもと ひでお、1949年8月8日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手(外野手)。 板野町立板野中学校では、元読売ジャイアンツの板東順司と同級生。徳島県立小松島西高校では1967年、夏の甲子園南四国予選準決勝に進むが、土佐高校の萩野友康投手に完封負け、甲子園出場を逸する。 卒業後は小西酒造に入社。1970年の都市対抗では三菱重工神戸に補強され出場。準々決勝では日本石油の三浦健二から勝負を決める適時三塁打を放つなど、四番打者として活躍。大昭和製紙との決勝に進むが引き分け再試合の末に敗退し、準優勝にとどまる。同大会の優秀選手に選出された。 1970年ドラフト会議で阪神タイガースから3位指名を受け入団。
鵜飼 克雄(うかい かつお、1947年10月20日- )は、… 鵜飼 克雄(うかい かつお、1947年10月20日- )は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手(投手)である。
渋谷 幸春(しぶや ゆきはる、1947年4月15日 - )は… 渋谷 幸春(しぶや ゆきはる、1947年4月15日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手(投手)。
尾崎 将司(おざき まさし、1947年1月24日 - 202… 尾崎 将司(おざき まさし、1947年1月24日 - 2025年12月23日)は、日本のプロゴルファー、元プロ野球選手。 本名およびプロ野球時代の登録名は尾崎 正司(読みは同じ)。徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)出身。 ジャンボ尾崎の別名でも知られ、公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記された。通称「ジャンボ」。この通称はデビュー間もない1970年5月にスポーツニッポンの紙面で紹介された際、大柄な体格から放たれるドライバーショットを当時日本でも就航したボーイング747(ジャンボジェット)になぞらえてつけられた。 世界ランキングの自己最高位は1997年ブリヂストンオープン優勝後の5位である。
三好 幸雄(みよし ゆきお、1945年9月24日- )は、徳… 三好 幸雄(みよし ゆきお、1945年9月24日- )は、徳島県出身の元プロ野球選手である。ポジションは投手。
小川 弘文(おがわ ひろふみ、1945年5月15日 - )は… 小川 弘文(おがわ ひろふみ、1945年5月15日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
秋元 国武(あきもと くにたけ、1945年 - )は、徳島県… 秋元 国武(あきもと くにたけ、1945年 - )は、徳島県鳴門市出身のアマチュア野球選手(一塁手、外野手)。 徳島県立撫養高等学校では長池徳士の2年後輩。 1963年夏の甲子園県予選準決勝に進むが海南高に敗退。卒業後は法政大学へ進学、一塁手として活躍する。東京六大学野球リーグでは在学中2回の優勝を経験。 1966年秋季リーグでは打率.375で首位打者となり、ベストナイン(一塁手)に選出される。 1967年秋季リーグでは、2年生エース山中正竹を擁し優勝に貢献。大学同期に鶴岡泰、1年下には田淵幸一らがいる。 大学卒業後は日本石油に入社。1968年から都市対抗に7年連続出場。同年の都市対抗では準決勝で河合楽器と対戦、8回に同点本塁打を放つが二塁を踏まなかったと判定され、放棄試合寸前となる「幻の本塁打」事件で知られる。
羽里 功(はり いさお、1944年7月26日 - )は、徳島… 羽里 功(はり いさお、1944年7月26日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手である。現役時代のポジションは、投手。 徳島県立海南高校では2年生時に、1961年秋季四国大会県予選決勝に進むが徳島商に敗退。翌1962年夏も県予選準々決勝で阿波高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 1963年に広島カープへ入団。2年目の1964年に初登板。翌1965年には7月14日に大洋ホエールズから初勝利、同月25日に初先発を果たす。同年のジュニアオールスターにも選出された。しかしこれ以降は白星に恵まれず、1968年暮れ、金銭トレードで西鉄ライオンズへ移籍。ここでもそこそこ登板機会はあったが、1勝もできず、翌1969年のシーズンオフに引退した。
白石 静生(しらいし しずお、1944年5月22日 - )は… 白石 静生(しらいし しずお、1944年5月22日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手(投手)、監督。
長池 徳士(ながいけ あつし、本名:長池 徳二〈ながいけ と… 長池 徳士(ながいけ あつし、本名:長池 徳二〈ながいけ とくじ〉、1944年2月21日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手(外野手・指名打者、右投右打)・コーチ、解説者・評論家。1979年に登録名を本名から変更している。 現役時代は阪急ブレーブス一筋で14シーズンにわたりプレーしたことから、不動の4番打者「ミスターブレーブス」として親しまれた。1967年から1975年にかけて阪急の不動の四番打者を務め、通算338本塁打は現在も球団記録である。本塁打王に3回輝き、9年連続で25本塁打以上を記録するなど、球界を代表する「右の大砲」として活躍した。パ・リーグ初のベストナイン(指名打者部門)を受賞している。
浜口 春好(はまぐち はるよし、1944年1月11日 - )… 浜口 春好(はまぐち はるよし、1944年1月11日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 徳島海南高校では1961年夏の甲子園予選南四国大会決勝に進むが、高知商のエース高橋善正に抑えられ9回裏0-1xでサヨナラ負け、甲子園出場を逸する。 卒業後は電電近畿へ入社。1965年の都市対抗に三塁手、四番打者として出場。小弓場保(日本生命から補強)の好投もあって勝ち進み、決勝で住友金属を降し電電公社の野球部として初優勝を飾る。この時のチームメートに井上弘昭がいた。この大会では優秀選手に選ばれ、大会後の全日本代表中南米遠征チームにも選出された。 1965年プロ野球ドラフト会議で東映フライヤーズに3位で指名され入団。
広野 功(ひろの いさお、1943年10月16日 - )は、… 広野 功(ひろの いさお、1943年10月16日 - )は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。実兄は元プロ野球選手の広野翼。 徳島商業では2年次の1960年に左翼手として甲子園に春夏連続出場し、春の選抜では2回戦で滝川高に敗退。夏の選手権では2回戦で米子東高のエース・宮本洋二郎を打ち崩すなど順調に勝ち進むが、準決勝で静岡高に敗れた。3年次の1961年夏はエースの妹尾幸一(南海)を擁し南四国大会決勝に進むが、高知商の高橋善正に抑えられ、9回裏0-1のサヨナラ負けで甲子園には届かなかった。他のチームメイトに二塁手の多田勉(広島)がいた。 高校卒業後は1962年に慶應義塾大学へ入学し、同期外野手の鈴木義信と共に東京六大学リーグでは在学中3度の優勝を経験。
多田 勉(ただ つとむ、1943年10月9日 - )は、徳島… 多田 勉(ただ つとむ、1943年10月9日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
大久保 計雄(おおくぼ かずお、1942年1月7日 - )は… 大久保 計雄(おおくぼ かずお、1942年1月7日 - )は、徳島県麻植郡鴨島町(現・吉野川市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 阿波高校では1年次の1957年から正捕手としてチームを引っ張り、4番打者としてシャープな当たりと大物打ちで活躍。甲子園出場こそ無かったが、遠投100m以上の強肩ぶりに7球団が注目。加藤久幸スカウトや林義一監督代行の熱心な勧誘により、1960年に近鉄バファローへ入団。2年目の1961年に一軍初出場も腰椎分離症を発症し、以降は二軍の試合に出場することが多くなり、1967年限りで現役を引退。 引退後は近鉄で用具係(1968年 - 1970年)→二軍コーチ補佐(1971年)→一軍トレーニングコーチ(1972年 - 1983年)→一軍バッテリー兼トレーニングコーチ(1984年 - 1985年)→二軍トレーニングコーチ(1986年 - 1987年)→一軍バッテリーコーチ(1988年 - 1990年)を歴任し、2連覇を含む3度のリーグ優勝(1979年 - 1980年, 1989年)に貢献。
板東 里視(ばんどう さとみ、1942年1月1日 - 199… 板東 里視(ばんどう さとみ、1942年1月1日 - 1999年10月7日)は、徳島県板野郡板東町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。
大坂 雅彦(おおさか まさひこ、1941年11月28日 - … 大坂 雅彦(おおさか まさひこ、1941年11月28日 - )は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手、外野手。
大野 守(おおの まもる、1940年12月22日 - )は、… 大野 守(おおの まもる、1940年12月22日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。
広野 翼(ひろの まもる、1940年11月21日 - )は、… 広野 翼(ひろの まもる、1940年11月21日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手(外野手)。実弟は元プロ野球選手(中日,西鉄,巨人でプレー)の広野功。
別部 捷夫(わけべ よしお、1940年7月28日 - )は、… 別部 捷夫(わけべ よしお、1940年7月28日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手、捕手。
板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日 - )は、… 板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日 - )は、日本の元プロ野球選手・野球解説者・タレント・司会者・俳優・実業家・YouTuber。愛称は板ちゃん(ばんちゃん)で、「坂東英二」は誤記である。
上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 20… 上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 2017年7月1日)は、徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 鮮魚店を営む家に5人兄弟の長男として生まれ、叔父は徳島県弁護士会の副会長であった。 上田の徳島の実家のすぐ近くには、高校の後輩となる元西鉄選手でプロゴルファーの尾崎将司、その実弟でゴルファーの健夫・直道の実家があった。 海南高校時代から捕手で、3年次の1954年には夏の甲子園県予選で準々決勝に進出するが、撫養高に惜敗。学業成績も優秀で、高校時代は野球の練習と生徒会の活動を同時に行いつつ、毎朝しっかりと勉強していたため、睡眠時間は4時間程度であったという。
八田 正(はった ただし、1936年10月5日 - )は徳島… 八田 正(はった ただし、1936年10月5日 - )は徳島県出身のプロ野球選手。当時は珍しい右投左打の内野手で、二塁手、遊撃手として活躍した。引退後はスカウトとして新人発掘に尽力した。
岡本 芳信(おかもと よしのぶ、1935年4月25日 - )… 岡本 芳信(おかもと よしのぶ、1935年4月25日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。
大久保 英男(おおくぼ ひでお、1932年9月13日 - )… 大久保 英男(おおくぼ ひでお、1932年9月13日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
須本 憲一(すもと けんいち、1926年1月7日 - 196… 須本 憲一(すもと けんいち、1926年1月7日 - 1968年2月10日)は、徳島県出身のプロ野球選手(内野手)、また徳島県立商業学校野球部元監督。
平井 三郎(ひらい さぶろう、旧姓:生田、1923年9月4日… 平井 三郎(ひらい さぶろう、旧姓:生田、1923年9月4日 - 1969年7月23日)は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
蔦 文也(つた ふみや、1923年(大正12年) 8月28日… 蔦 文也(つた ふみや、1923年(大正12年) 8月28日 - 2001年(平成13年) 4月28日)は、プロ野球選手(投手)、徳島県立池田高等学校野球部元監督。「攻めダルマ」の異名を持ち、「さわやかイレブン」「やまびこ打線」として知られる池田高校野球部を40年間指導。選抜高等学校野球大会、全国高等学校野球選手権大会において、優勝3回(夏春連覇1回)、準優勝2回の実績をあげた。池田町名誉町民第1号。
増田 卓(ますだ たかし、1921年8月16日 - 1986… 増田 卓(ますだ たかし、1921年8月16日 - 1986年3月25日)は、徳島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 徳島中学校を卒業し、京都薬学専門学校や社会人野球でプレー後、1950年に大映スターズへ入団。1年目から外野のレギュラーを獲得し、下位打者として93試合に出場した。1952年は控えとして、代打や守備交代などでの途中出場が多かったが、翌年からはレギュラーに戻った。1956年は再び控えの外野手になり、この年限りで引退した。 1955年5月24日の毎日×大映戦(後楽園球場)、大映は毎日の荒巻淳投手にノーヒットノーランに押さえられるも、毎日も点が入らず0-0のまま延長戦、そして延長11回1死に増田がヒットを打ってノーヒットは途絶え、その後抑えられてた大映打線が息を吹き返して4-0で勝利した(「延長でノーヒットが途絶えた」で「最終的に4点差」は最多得点差)。
林 義一(はやし ぎいち、1920年2月1日 - 2008年… 林 義一(はやし ぎいち、1920年2月1日 - 2008年1月17日)は、徳島県徳島市常三島出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。