菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)… 菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(一塁手、三塁手、外野手)。
愛媛県:1,527人
菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)… 菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(一塁手、三塁手、外野手)。
秋山 正親(あきやま まさちか、1916年(大正5年)2月2… 秋山 正親(あきやま まさちか、1916年(大正5年)2月29日 - 1985年(昭和60年)1月6日)は、昭和時代の政治家。愛媛県北条市長(2期)。 愛媛県温泉郡北条町(北条市を経て現松山市)出身。松山北予中学校卒業。1937年(昭和12年)愛媛県庁に入る。民生、企画の各部長、出納長を歴任する。1978年(昭和53年)3月県庁を退職。退職後は愛媛相互銀行(現・愛媛銀行)監査役、愛媛県人事委員会委員となった。同年11月北条市長に当選。2期務めるが、2期目の1984年(昭和59年)9月病気のため市長を辞職。翌1985年(昭和60年)1月に死去した。
八木 徹雄(やぎ てつお、1916年(大正5年)1月31日 … 八木 徹雄(やぎ てつお、1916年(大正5年)1月31日 - 1971年(昭和46年)7月4日)は、自由民主党衆議院議員(5期)。 愛媛県越智郡乃万村延喜(現今治市延喜)生まれ。愛媛県立今治中学校卒業後上京し、砂田重政立憲政友会衆議院議員秘書。1937年、大倉高等商業学校卒業。1951年、保守党の最年少議員として、愛媛県議会議員に初当選。日本民主党愛媛県支部幹事長を経て、1958年2月、第27回衆議院議員総選挙愛媛2区補欠選挙に自由民主党で立候補するが、落選。同年5月の第28回衆議院議員総選挙愛媛県第2区に自由民主党から立候補し、初当選。以後、連続5期務める。1963年7月、第2次池田第3次改造内閣文部政務次官 。
景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 194… 景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 1945年5月20日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手(外野手、投手)。
吉野 義子(よしの よしこ 1915年7月13日 - 201… 吉野 義子(よしの よしこ 1915年7月13日 - 2010年12月6日)は、俳人。台湾台北市に生まれる。父は言語学者の小川尚義。幼時に母方の伯父の養女となり、愛媛県松山市にて育つ。県立松山高等女学校(現松山南高等学校)を経て、1933年、同志社大学英文科に入学。1934年、結婚のため中退。当初は詩を作っていたが、1947年に俳句に転向。1948年、「濱」に入会、大野林火に師事。1954年、「濱」同人。1972年、濱同人賞受賞。1979年、「芭蕉の精神を基盤とした叙情を継承する」として「星」を創刊・主宰。2001年、『流水』により第1回俳句四季大賞受賞。2003年、「星」終刊。代表句に「むらさき着て掌にあたたむる龍の玉」など。
香川 美人(かがわ よしと、1915年(大正4年)― 200… 香川 美人(かがわ よしと、1915年(大正4年)― 2008年(平成20年))は、愛媛県大三島出身の歌人。実兄の香川末光,甥の香川哲三も歌人。1930年(昭和5年)、「満州短歌」(後の「短歌中原」)に入会し八木沼丈夫に師事した。終戦後、郷里の愛媛県大三島に引き揚げ、1948年(昭和23年)に香川末光・藤原弘男らと「うづしほ短歌会」を結成した。1954年(昭和29年)に「歩道短歌会」に入会し佐藤佐太郎に師事した。「満州短歌」及び「短歌中原」時代の作品を纏めた歌集『碧落』、「歩道」入会後の作品を収めた歌集『風濤』、歌集『海光』がある。写生に立脚した精緻な対象描写と日常生活を柔軟な感性で捉えた歌風に特色がある。
門上 千恵子(かどがみ ちえこ、1914年12月8日 - 2… 門上 千恵子(かどがみ ちえこ、1914年12月8日 - 2007年8月6日)は、愛媛県出身の弁護士。日本における初めての女性検事。門上チエ子、門上チヱ子とも表記する。旧姓、福枡。論理学の東京経済大学名誉教授である門上秀叡は夫。三男の門上光照は京都造形芸術大学芸術学部教授。 愛媛県伊予郡松前町で米屋の長女として生まれる。愛媛県立松山高等女学校(現・愛媛県立松山南高等学校)から広島県立女子専門学校(現・県立広島大学)国文科を経て、1939年に九州帝国大学法文学部法律学科を卒業。在学中、1937年にはローマ法の研究で帝国学士院から賞を受ける。岡山県林野高等女学校(現・岡山県立林野高等学校)の英語教諭を経て、1940年に九州帝国大学へ戻り、1944年まで法律学研究室の副手(のち助手)として勤務。
松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 200… 松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 2003年9月23日)は、元愛媛県副知事。 愛媛県松山市出身。旧制松山中学卒業、旧制松山高校卒業、1937年 京都帝国大学法学部卒業、内務省に入る。山形県勤務、広島県、熊本県、兵庫県の各課長を経て、1947年 奈良県教育民生部長、1948年 奈良県教育長、1949年 奈良県総務部長、1951年 愛媛県民生部長に転じ、1955年 総務部長、1963年 出納長を経て、1969年から1974年まで副知事を務めた。戦時中は一時陸軍司政官として転出した。推されて松山市長選挙に出馬するが落選した。1975年から愛媛県人事委員会委員長、1976年から1999年まで愛媛県社会経済研究財団専務理事。
佐伯 清(さえき きよし、1914年9月19日 - 2002… 佐伯 清(さえき きよし、1914年9月19日 - 2002年7月16日)は、愛媛県松山市生まれの映画監督である。代表作は昭和残侠伝シリーズ。 愛媛県立松山中学校卒業後に、同郷の伊丹万作を頼り、片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクションに入る。1935年(昭和10年)、『戦国奇譚 気まぐれ冠者』で初めて助監督のクレジットが入る。同期に助監督として活躍した市川崑とは兄弟分の関係で弟のように可愛がっていたという。日活太秦撮影所、新興キネマを経て東宝映画へ移籍した。 1945年(昭和20年)1月、榎本健一 の『天晴れ一心太助』で監督デビュー。東宝争議をきっかけに新東宝へ、1952年(昭和27年)に東映へ。主に東映京都撮影所で時代劇を撮るが、1958年(昭和33年)以降は東映東京撮影所での現代劇が中心となる。
前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 … 前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 - 1971年8月17日)は、愛媛県西宇和郡喜須来村(現:愛媛県八幡浜市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。第39代横綱。本名は萩森 金松(はぎもり かねまつ)。 1914年5月4日に愛媛県西宇和郡喜須来村で生まれる。喜須木尋常高等小学校を卒業後、1928年に高砂一行が高知市へ巡業に来た際、体格の良い金松少年がいるのを見つけた高砂が自ら勧誘した。当時の金松少年は相撲に対して興味を示さなかったが徐々に気持ちが傾き、大工だった兄を頼って上京してその日の夜に高砂部屋へ入門、1929年1月場所で初土俵を踏んだ。金松は入門に関して自惚れのようなものがあり、自分より体の小さい力士がおり、それには勝てるだろうなどと思っていた。
高須 清(たかす きよし、1914年4月28日 - 没年不明… 高須 清(たかす きよし、1914年4月28日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手、外野手)。
坪内 道典(つぼうち みちのり、1914年4月7日 - 19… 坪内 道典(つぼうち みちのり、1914年4月7日 - 1997年9月16日)は、愛媛県伊予郡郡中町(現:伊予市)出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
大内 弘(おおうち ひろし、1914年3月15日 - 没年不… 大内 弘(おおうち ひろし、1914年3月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名大内 一郎(おおうち いちろう)。 1914年(大正3年)3月15日、愛媛県松山市に生まれる。4歳下の妹に女優の大内照子(本名・大内幸香)がいる。 旧制・愛媛縣松山中學校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を卒業、東京に移って、旧制・早稲田大学附属早稲田高等学院(大学予科、現在の早稲田大学高等学院)に進学するが、2年次で中途退学する。京都に移り、1933年(昭和8年)9月、満19歳のときに松竹下加茂撮影所に入社した。 記録に残る最初の出演作品は、同年2月22日に公開された二川文太郎監督の『仁義は耀く』である。同年5月9日に公開された笠井輝二監督の『やくざ無敵』、同年7月18日に公開された同じく『第二新選組』ではすでに主演している。
三森 秀夫(さんもり ひでお、1914年 - 没年不明)は、… 三森 秀夫(さんもり ひでお、1914年 - 没年不明)は、愛媛県出身の社会人野球の選手(投手、内野手)。
松本 新八郎(まつもと しんぱちろう、1913年11月24日… 松本 新八郎(まつもと しんぱちろう、1913年11月24日 - 2005年12月10日)は、日本の歴史学者、専修大学教授。 愛媛県で生まれる。1931年愛媛県立松山中学校を卒業、1934年に松山高等学校を卒業し、同年、東京帝国大学文学部国史学科に入学。同期入学に、家永三郎、石母田正らがいた。1937年、東京帝国大学を卒業。 1937年から東京帝国大学史料編纂所に勤務する傍ら、1940年からは早稲田実業学校第二本科で講師も勤めた。戦後の1945年、松山経済専門学校(現・松山大学)教授となった(1948年まで)。 1947年4月20日に行われた第1回参議院議員選挙に愛媛県選挙区から立候補するが落選。
丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日… 丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 - 2005年(平成17年)3月22日)は、日本の建築家、都市計画家。一級建築士(登録番号第15182号)。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック信徒(洗礼名:ヨセフ)。 日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。また、日本人並びにアジア人として初めてプリツカー賞を受賞した人物である。
毛利 松平(もうり まつへい、1913年7月16日 – 19… 毛利 松平(もうり まつへい、1913年7月16日 – 1985年5月24日)は、日本の政治家。第5代環境庁長官。
石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18… 石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18日 - 1969年(昭和44年)11月21日)は、愛媛県出身の日本の俳人。本名は哲大(てつお)。水原秋桜子に師事、『馬酔木』に拠ったのち、『鶴』を創刊・主宰。初期の青春性のあふれる叙情句から始まり、自己の生活を見つめる、人間性に深く根ざした作風を追求。加藤楸邨、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。昭和の第二次世界大戦前に流行した新興俳句運動を批判し、韻文精神の尊重を説き、切れ字を重視。戦中には結核を発病し、戦後は病と対峙する自身の生活を題材とする境涯俳句を詠み続けた。 愛媛県温泉郡垣生村大字西垣生に、父惣五郎、母ユウの次男として生まれる。
中村 信一(なかむら しんいち、1913年2月22日 - 没… 中村 信一(なかむら しんいち、1913年2月22日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(内野手)。 北予中学校(現松山北高)在学中に第8回選抜中等学校野球大会に出場、準々決勝に進出する。その後法政大学に進学し、1936年に東京セネタースへ入団。遊撃手として二塁手の苅田久徳、三塁手の高橋輝彦らとともに「百万ドルの内野陣」を形成した。1937年秋シーズン途中に応召し、1940年に復帰。1941年にチームが名古屋金鯱軍と合併し大洋軍と改称、金鯱軍で遊撃を守っていた濃人渉が大洋軍でもそのまま遊撃を守ったため三塁に転向する。終戦後の1946年はゴールドスターで復帰するが、翌1947年に退団、そのまま現役引退した。
福岡 正信(ふくおか まさのぶ、1913年2月2日 - 20… 福岡 正信(ふくおか まさのぶ、1913年2月2日 - 2008年8月16日)は愛媛県出身の農学者。自然農法を提唱した。世界各地で粘土団子による砂漠緑化にも取り組んだ。 愛媛県伊予郡南山崎村(現・伊予市大平)に生まれる。旧制松山中学校、岐阜高等農林学校(現・岐阜大学応用生物科学部)卒。 若い頃は横浜税関の植物検査課に所属していたが、急性肺炎にかかり死に直面すると、「この世には何もない」と悟り、仕事をやめて地元に戻り農業を始めた。「やらなくてもいい」ことを探しながら、自然農法を確立した。 著作『無Ⅲ 自然農法』の口絵の説明では、不耕起(耕さない)、無肥料、無農薬、無除草を四大原則とする自然農法を行うとしているが、著作中には肥料と農薬(除草剤、除虫剤)の使用について記述がある。
星田 三平(ほしだ さんぺい、1913年2月2日 - 196… 星田 三平(ほしだ さんぺい、1913年2月2日 - 1963年5月31日)は日本の探偵小説家。『新青年』などの雑誌に短編を発表した。代表作に「せんとらる地球市建設記録」「エル・ベチョオ」など。本名は飯尾 傳(いいお つとう)。 1930年(昭和5年)に『新青年』の懸賞小説に3等入選した「せんとらる地球市建設記録」を、改稿の後に『新青年』夏期増刊号で発表しデビュー。以後、短編を散発的に発表するが、1933年(昭和8年)発表の「もだん・しんごう」を最後に沈黙。その後、太平洋戦争時の空襲で蔵書や草稿を失ったこともあり、小説界からは完全に離れた生活を送った。 1963年(昭和38年)5月31日に死去。
磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12… 磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12日 - 1993年(平成5年)6月20日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は大尉。 愛媛県松山市出身。松山中学卒業後、海兵団を経て1932年(昭和7年)10月、操縦練習生となる。同期生に半田亘理。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、龍驤飛行機隊に配属される。そこでのちに撃墜王となる赤松貞明と知り合い、親交を深める。のち内地に転属し、霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊附教官。この時の教え子の一人に、岩本徹三(操練34期)がいる。 日中戦争(支那事変)勃発後の1937年(昭和12年)10月、加賀飛行機隊を経て1939年(昭和14年)末より第十二航空隊に配属され桂林攻撃に参加するが、この時よりすでに撃墜王として武名をはせていた赤松や岩本とは異なり、戦線を通じて大きな空戦に恵まれることはなかった。
松村 正恒(まつむら まさつね、1913年1月12日 - 1… 松村 正恒(まつむら まさつね、1913年1月12日 - 1993年2月28日)は、愛媛県大洲市出身の日本の建築家である。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山上 次郎(やまがみ じろう、1913年(大正2年)1月1日… 山上 次郎(やまがみ じろう、1913年(大正2年)1月1日 - 2010年(平成22年)3月13日)は、日本の歌人・文筆家。別名「童馬堂人」。 愛媛県出身。愛媛県立三島中学校(旧制中学)を卒業後、農業従事のかたわら短歌を学んだ。1941年太平洋戦争に従軍しビルマにて負傷、1942年に帰還した。従軍時の歌集「弾雨に禊ぐ」が第一歌集となる。敗戦後、農民組合を結成し農民運動に参加した。1951年には愛媛県議会議員に当選し、以後12年間県政に参与した。その間、斎藤茂吉に関する著書を出版するとともに歌集を上梓するなど旺盛な文筆活動を続けた。1967年以降は文学・著述に専念し、正岡子規や斎藤茂吉の研究に没頭した。
高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19… 高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19日 - 2015年(平成27年)12月25日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。航空参謀、艦上爆撃機操縦士。全日空顧問。海兵61期。階級は海将(海上自衛隊)、海軍少佐(大日本帝国海軍)。 1912年(大正元年)12月19日、愛媛県松山市生まれ。6人兄弟の3男。旧制松山中では剣道は初段、サッカーでは主将を務め四国大会で優勝した。医者志望であったが、兄の勧めで1930年(昭和5年)4月、海軍兵学校入学(61期)。同期に野中五郎、板倉光馬、大野博、吉川猛夫など。1933年(昭和8年)11月、卒業。 「磐手」で遠洋航海を行った後、「加古」、「多摩」乗組みを経て、1935年(昭和10年)10月、飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊、1936年(昭和11年)12月には艦爆の延長教育課程を大村海軍航空隊で受け、1937年(昭和12年)4月、佐伯海軍航空隊に配属された。
道上 伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 200… 道上 伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 2002年8月4日)は、日本の柔道家である。講道館七段、フランス柔道連盟九段。 愛媛県八幡浜市出身。1926年、愛媛県立八幡浜商業学校(のちの県立八幡浜高校)入学を機に柔道を始める。1927年に大日本武徳会柔道初段を取得。しかし実際は1926年の時点で既に昇段審査を通過しており、13歳という当時としては異例の若さでの合格だった為、試験官の一存によりこの時点での昇段は見送られていた。その後、15歳の誕生日を迎えた時に改めて正式に初段の段位を与えられている。 1929年、武徳会二段を取得。1930年、アメリカ渡航の夢を抱き、誰にも告げずに八幡浜から出奔。
寺内 一隆(てらうち かずたか、1912年9月3日 - 戦死… 寺内 一隆(てらうち かずたか、1912年9月3日 - 戦死)は、愛媛県出身のプロ野球選手(外野手)。
村上 三島(むらかみ さんとう、本名 村上 正一、むらかみ … 村上 三島(むらかみ さんとう、本名 村上 正一、むらかみ まさかず、1912年(大正元年)8月25日 - 2005年(平成17年)11月20日)は、日本の書家。勲三等旭日中綬章受章者。文化勲章受章者。「現代書道の巨匠」と呼ばれている。贈従三位(没時叙位)。
吉川 猛夫(よしかわ たけお、1912年(明治45年)3月7… 吉川 猛夫(よしかわ たけお、1912年(明治45年)3月7日 - 1993年(平成5年)2月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。
勝田 龍夫(しょうだ たつお、1912年2月22日 - 19… 勝田 龍夫(しょうだ たつお、1912年2月22日 - 1991年5月28日)は、元日本債券信用銀行会長。朝鮮銀行入行後、日本不動産銀行(のちの日本債券信用銀行)に入り、常務、副頭取、頭取を歴任。父は朝鮮銀行総裁、大蔵大臣等を務めた勝田主計。妻は西園寺公望の秘書・原田熊雄の娘。『重臣たちの昭和史』『中国借款と勝田主計』を著す。 東京府下豊多摩郡渋谷町中渋谷に、愛媛県松山市出身の大蔵官僚勝田主計・伊与子の4男として生まれる。 東京府青山師範学校附属小学校、東京府立一中に入学。その頃、一中においてサッカー部が創部され、キャプテンになる。1930年、一中卒業と同時に、同校地にあった旧制府立高等学校に入学。
湯山 勇(ゆやま いさむ、1912年1月18日 - 1984… 湯山 勇(ゆやま いさむ、1912年1月18日 - 1984年6月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)、参議院議員(1期)。 愛媛県宇摩郡別子山村出身。愛媛師範学校を首席で卒業後、愛媛県内の北予中学校、愛媛師範学校、松山高等女学校などで教師を務めた。戦後、愛媛県教職員組合が結成されるとこれに参加し1951年に委員長に就任、翌1952年には愛媛地方労働組合評議会議長にもなる。 1953年の参議院選挙に愛媛県選挙区から出馬(日本教職員政治連盟)し初当選する。勤評闘争では強硬姿勢を取った愛媛県知事久松定武を相手に激しく抵抗し、1958年には参議院文教委員長となったが1959年の参院選で落選する。
白石 大二(しらいし だいじ、1912年〈明治45年〉1月1… 白石 大二(しらいし だいじ、1912年〈明治45年〉1月13日 - 1989年〈平成元年〉8月30日)は、日本の国語学者。文部官僚。 愛媛県今治市生まれ。1935年東京帝国大学文学部国文科卒。文部省に入り、文部省調査局国語課長。早稲田大学教育学部教授。1982年定年退任。現代仮名遣いの策定に関わり、国語行政を先導した。
藻利 重隆(もうり しげたか、1911年11月30日 - 2… 藻利 重隆(もうり しげたか、1911年11月30日 - 2000年2月18日)は、日本の経営学者。専門は労務管理。一橋大学名誉教授、山梨学院大学名誉教授である。博士(商学)(1960年、一橋大学にて取得)。紫綬褒章及び勲二等瑞宝章受章。元日本経営学会理事長。 1911年、愛媛県松山市で生まれた。1924年3月、愛媛師範学校附属小学校(現・愛媛大学教育学部附属小学校)を卒業し、愛媛県立松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高等学校)に進学。1929年3月に卒業し、同年4月に無試験で山口高等商業学校(現・山口大学経済学部)に入学した。在学中の1930年4月から1932年3月まで、山口高等商業学校特待生であった。
小西 英雄(こにし ひでお、1911年(明治44年)11月2… 小西 英雄(こにし ひでお、1911年(明治44年)11月23日 - 1964年(昭和39年)12月8日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)。 愛媛県新居郡神郷村(現新居浜市)で生まれた。別子銅山で働き、鷲尾勘解治の自彊舎で学び1927年(昭和2年)に卒業した。優秀工員として評価され満州に派遣された。その後独立して康徳金属会社を設立し社長となる。戦時下では、関東軍嘱託、軍需省生産隊本部長などを務めた。 戦後、1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で愛媛県第2区から日本自由党公認で出馬したが落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
和田 茂樹(わだ しげき、1911年4月12日 - 2008… 和田 茂樹(わだ しげき、1911年4月12日 - 2008年4月29日)は、愛媛県松山市出身の国文学者。愛媛大学名誉教授。
武田義孝(たけだ よしたか、1911年(明治44年)2月15… 武田義孝(たけだ よしたか、1911年(明治44年)2月15日 - 1943年(昭和18年)8月)は、日本の体操選手。愛媛県人初のオリンピック選手。 愛媛県越智郡朝倉村(現・今治市朝倉上)に生まれる。松山商業学校を経て、日本体操学校を卒業し、教師として東京都内の中学校で体育を教えた。その後、1932年ロサンゼルスオリンピックと1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1943年(昭和18年)8月、腎臓病のため死去した。
森 一生(もり かずお、1911年1月15日 - 1989年… 森 一生(もり かずお、1911年1月15日 - 1989年6月29日)は、日本の映画監督、演出家である。通り名で「もり いっせい」とも呼ばれる。
真鍋 元之(まなべ もとゆき、1910年9月12日 -198… 真鍋 元之(まなべ もとゆき、1910年9月12日 -1987年10月30日)は、日本の小説家、文芸評論家。大衆文学研究会会員。 愛媛県宇摩郡関川村(現・四国中央市)出身。1931年、広島高等師範学校(現・広島大学)国文科中退。上京して日本プロレタリア作家同盟に加入するが、後に脱退。1939年博文館に入社し、勤務の傍ら時代小説を執筆。戦後は数年間、新小説社の『大衆文芸』の編集をし、自ら「炎風」を連載。1958年『炎風』で新鷹会賞特別奨励賞を受賞。その後は実作及び評論を手がける。
岡本 虎二郎(おかもと とらじろう、1910年7月21日 -… 岡本 虎二郎(おかもと とらじろう、1910年7月21日 - 1998年5月29日)は、日本の実業家。月賦百貨店であった緑屋(現:クレディセゾン)の創業者である。 1910年(明治43年)7月21日に愛媛県今治市で、米穀商をしていた岡本繁満太の長男として生まれた。岡本家は後に一家で大阪に移り、岡本虎二郎は天王寺中学校に通っていたが1926年(大正15年)に父親が44歳で死亡し天王寺中学校を中退し大阪の中井洋紙店に奉公した。従兄で月賦販売店の丸共の銀座店の支店長であった辻田貞二に誘われ、1927年(昭和2年)に上京し、丸共銀座店に入店。 1935年(昭和10年)には独立し、義兄の立野究と共同で江戸川区小岩井に一軒の店を構えた。
弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本… 弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本の映画監督。愛媛県松山市生まれ。県立松山中学を卒業後、1937年新興キネマ京都撮影所に助監督として入社。溝口健二監督の下でチーフ助監督を務める。 以下に日本映画データベースに従い公開日、作品名、監督名を記載。製作会社はすべて大映京都撮影所。
篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975… 篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975年10月17日)は、愛媛県出身の俳人、編集者・出版者。伊予郡南伊予村(現・伊予市)生。本名・敏之(としゆき)。俳号「梵」は郷里の松山で男の子のことを「ボン」と呼んだことによるという。 旧制松山高等学校を経て、1934年、東京大学文学部国文学科を卒業。1938年、中央公論社に入社。戦中の1944年、退職して郷里の愛媛青年師範学校で教師をしていたが、1948年に中央公論社に復職、「中央公論」編集長、同社出版部長、取締役を経て中央公論事業出版専務に就任。その後同社の社長に就任し、丸の内出版社の社長も兼任した。出版人として毎日出版文化賞、広告電通賞などを受賞している。
田中 七郎(たなか しちろう、1910年3月22日 - 19… 田中 七郎(たなか しちろう、1910年3月22日 - 1977年5月11日)は、日本の経営者。愛媛県松山市出身。 1931年に横浜専門学校を卒業し、1932年に石川ペイントに入社。1940年に大和塗料工業所(現在のアサヒペン)を設立し、1947年には代表取締役(のちの社長)に就任。 1974年に紺綬褒章を受章。 1977年5月11日、死去。67歳没。
中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年… 中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。1937年の登録名は相原 輝夫(あいはら てるお)。
浦野 まつほ(うらの まつほ、1910年 - 1935年11… 浦野 まつほ(うらの まつほ、1910年 - 1935年11月29日)は、昭和初期の宝塚歌劇団・娘役スター。宝塚歌劇団14期生(1924入学※劇団と音楽学校が分離しておらず入学=入団)。愛媛県松山市出身。本名は松浦芳子。後に洋画家・岸田劉生の実弟で日本初のレビューを作った岸田辰彌(辰弥)の妻となる。 1935年(昭和10年)11月、当時患っていた腹膜炎が原因で死去した。満25歳(数え年26歳)没。墓所は多磨霊園。
井川 伊勢吉(いかわ いせきち、1909年〈明治42年〉11… 井川 伊勢吉(いかわ いせきち、1909年〈明治42年〉11月7日 - 1990年〈平成2年〉7月4日)は、日本の実業家。大王製紙創業者。幼名高助。大王製紙前会長井川意高の祖父。 1943年(昭和18年)大王製紙設立。1981年(昭和56年)県功労賞。1984年(昭和59年)伊予三島市名誉市民。1986年(昭和61年)愛媛放送賞受賞、同年勲二等瑞宝章。 井川伊勢吉は、幼名高助といった。チビだったため、低助のアダ名がついた。伊勢吉の経営者としてのスタートは、戦時下という特殊な事情もあって苦難の連続であったが、苦労を苦労としない不屈の精神力と決断力が今日を築いたといえる。 伊勢吉について、地元商店街の関係者によると「創業者の井川伊勢吉氏は、身長が百五十センチに満たない小柄な人でしたが、働き者でね。
森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 19… 森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 1979年10月29日)は、日本の実業家。関西電力元社長、会長。愛媛県松山市出身。 1934年に早稲田大学法学部を卒業し、宇治川電気(のちの関西電力)に入社した。 取締役、専務、副社長を経て、1975年7月からは社長を務め、電源開発問題などに取り組むが、体調不良により1977年6月に辞任。労務畑が長く、荒れた労使関係の調整に尽力した。 日本万博博覧会協会理事、宇治電ビル会長、山陽電気鉄道取締役などを歴任した。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1979年10月29日脳血栓により京都市内の自宅で死去。70歳没。
星加 要(ほしか かなめ、1909年7月11日 - 1989… 星加 要(ほしか かなめ、1909年7月11日 - 1989年5月28日)は、昭和時代の労働運動家。国鉄労働組合(国労)書記長、副委員長。 愛媛県新居浜市生まれ。高等小学校卒業後、鉄道教習所を経て、四国鉄道局の運転局総務課に勤務。1946年四国鉄道従業員連合組合(のち国鉄労働組合四国地方本部)の結成を主導。1947年10月の国労第2回臨時大会で右派系執行部の提案(片山内閣の1800円ベース受諾)が否決され、執行部が総辞職、右派系代議員が退場して斉藤鉄郎議長が流会を宣言。11月に斉藤らと中心になって国鉄労組反共連盟(1948年3月国鉄労組民主化同盟に改称)を結成し、民同運動の口火を切った。民同派のリーダーとして共産党グループと国労の主導権を争い、1948年3月から4月、1948年9月から1949年4月(第5回臨時大会から第6回臨時大会)に書記長を務めた。
中野 忠晴(なかの ただはる、1909年5月27日 - 19… 中野 忠晴(なかの ただはる、1909年5月27日 - 1970年2月19日) は、愛媛県大洲市出身の歌手・作曲家。服部良一、ディック・ミネとともに、アメリカのポピュラーソングを戦前期の日本に広め和製ポップスの基礎を築く。
秋山 博(あきやま ひろし、1909年3月15日 - 199… 秋山 博(あきやま ひろし、1909年3月15日 - 1990年4月11日)は、日本の電気工学・半導体物理学者。工学博士。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。 専門は、半導体物理学・電磁気学。 愛媛県今治市出身。東京帝国大学工学部卒業。1950年大阪工業大学工学部電気工学科に着任し、電気工学教室を担当。その後、同学部電気工学科教授を経て、1973年大阪工業大学名誉教授。 大阪工業大学工学部電気工学科にて20年以上の長きに渡り教鞭を執り、大学初期の半導体物理学(のちの半導体工学)・電磁気学の研究育成に貢献した。 主な所属学会は、電気学会、日本物理学会、応用物理学会など。
淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - … 淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - 1986年10月25日)は、日本の数学者。専門は代数学。 愛媛県松山市生まれ。東北帝国大学卒。1945年東北帝国大学教授、後に東北学院大学教授を務めた。ポントリャーギン双対性をコンパクト群へ拡張した淡中-クラインの双対定理で著名。 この定理はグロタンディークによる淡中圏の概念へと発展した。 東京出版の月刊誌『大学への数学』で、「数学雑談」という連載記事の執筆を1960年(昭和35年)から晩年まで担当していた。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。