豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23… 豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23日 - 1975年〈昭和50年〉10月9日)は、日本のピアニスト、音楽教育者。日本藝術院会員。佐賀県佐賀市出身。 1933年、東京音楽学校卒。高折宮次、レオ・シロタらに師事。1936年ドイツに留学、1943年東京音楽学校教授。その後、京都市立音楽短期大学教授を経て、1959年に武庫川女子大学音楽部長となった。 1940年にベートーヴェンのピアノソナタとピアノ協奏曲全作品の連続演奏会、1949年にバッハ死後200年記念ピアノ曲連続演奏会、さらに1950年にもバッハのピアノ曲全作品の連続演奏会をおこなった。1956年、日本人として初めてベルリンフィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に出演した(指揮はヨーゼフ・カイルベルト)。
山口 久太(やまぐち ひさた、1911年4月26日 - 19… 山口 久太(やまぐち ひさた、1911年4月26日 - 1993年7月12日)は、日本の教育者。元日本体育協会副会長、名誉副会長。東海大学体育学部長。 1911年、、佐賀県東松浦郡相知町(現唐津市)に生まれる。下村湖人の薫陶を受け、旧制唐津中学(現在の佐賀県立唐津東高等学校)卒業後、周囲が旧制高等学校の進学を薦める中、日本一の体育教師を目指して、東京高等師範学校(現・筑波大学)体育科に進学する。1934年3月、東京高等師範学校体育科を卒業。体育教諭として、旧制甲府中(現・山梨県立甲府第一高等学校)、旧制広島一中(現・広島県立国泰寺高等学校)に奉職。戦後千葉県に体育担当地方事務官として招かれて、千葉県立佐原高等女学校校長、千葉県立船橋高等学校校長を務める。
中地 シゲヨ(なかち シゲヨ、1905年〈明治38年〉2月1… 中地 シゲヨ(なかち シゲヨ、1905年〈明治38年〉2月1日 - 2021年〈令和3年〉1月11日)は、日本の教育者、長寿の女性(スーパーセンテナリアン)。佐賀県佐賀市出身。存命中は田中カ子に次いで日本国内で2番目の長寿者であった。 1905年(明治38年)2月1日、佐賀県佐賀市西与賀町の米屋の5人兄弟の2番目の長女として生まれる。12歳で佐賀高等女学校に入学。女学校時代に大隈重信から講義を受けた経験を持つ。卒業後、17歳から小学校教員として30年間勤務し、戦後は資格を取得して62歳まで幼稚園教員として14年間働いた。 小学校教員の頃は厳しい指導がモットーで、勉強が苦手な児童を毎日放課後居残りで指導したが、頑張ったご褒美にあんパンを食べさせた。
森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は… 森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は、日本の造園家、作庭家、造園教育者。 造園指導者として人材育成にあたる傍ら、多くの造園作品を残す。大別して住宅庭園や公園緑地(遊園地等)庭園、学校庭園等が多いが、設計のほか施工監督指導等になるものも含めると作品数は多数に及ぶ。 佐賀県唐津市生まれ。 1914年(大正3年)、千葉県立園芸専門学校(現・千葉大学園芸学部)卒業ののち、一時、当時宮内省出入の植木師として名のあった東京府下戸塚の小川重次郎方に徒弟として造園実務にたずさわった。1915年、恩師本郷高徳の推挙で大阪府吏員となり、大屋霊城と共に府営住吉公園改良工事に従事することとなる。
井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月… 井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月11日 - 1966年(昭和41年)5月3日)は、明治末から昭和期の僧侶、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・岡。 佐賀県藤津郡、のちの七浦村(現鹿島市)の関家で生まれる。1904年(明治37年)鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)を卒業後、すぐに鹿児島市和田の妙行寺のおじを頼って来鹿し第七高等学校造士館に入学。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学文科大学哲学科(教育学)を卒業した。 佐賀の龍谷中学校(現龍谷中学校・高等学校)で勤務後、のちの出水市、西照寺・井上尽済の養子となる。鹿児島別院副輪番などを務め、出水高等女学校教員、伊作高等女学校長に在任。
石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月… 石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月19日)- 1939年(昭和14年)3月19日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員をつとめた。 肥前国小城郡、のちの佐賀県小城郡南多久村(現在の多久市)に生まれる。生家の石井家は、旧佐賀藩主鍋島家の外戚家門で、佐賀地方で繁栄した一族であった。 地元で小学校の教師として働き始めるが、郷里の先輩である大隈重信らの活躍に憧れて、政治家を志す。1888年(明治20年)には、弱冠20歳にして郡会議員に選ばれ、政治家としての第一歩を踏み出す。10年後には佐賀県会議員に当選し、その期間、第17代県会議長もつとめた。また、小城郡是製糸、多久金融、多久土地の各社の取締役社長などもつとめた。
張 二男松(ちょう におまつ、1865年(慶応元年)2月23… 張 二男松(ちょう におまつ、1865年(慶応元年)2月23日 - 1952年(昭和27年))は、日本の教育家。佐賀県師範学校及び長崎県女子師範学校元校長。元トヨタ自動車株式会社名誉会長・張富士夫の祖父。従五位勲五等。族籍は佐賀県士族。 唐津町出身。長崎県師範学校中等師範科卒業。卒業後、同校教諭、諫早中学、小城中学教諭を経て、1884年(明治17年)7月佐賀中学兼佐賀県師範学校教諭に就任。 1886年(明治19年)、教育令改正と共に師範学校教諭となり、1918年(大正7年)に長崎県女子師範学校、1921年(大正10年)に佐賀県師範学校校長となる。 1927年(昭和2年)5月、退職。
中江 豊造(なかえ とよぞう、1861年(文久元年2月)- … 中江 豊造(なかえ とよぞう、1861年(文久元年2月)- 1942年(昭和17年)3月4日)は、明治期の教育者、政治家。衆議院議員。 肥前国松浦郡、のちの佐賀県東松浦郡相知村(相知町を経て現唐津市相知町)で生まれる。1878年(明治11年)佐賀県師範学校速成科を卒業した。 長崎県地租改正御用掛、小学校訓導、小学校長を歴任。佐賀県会議員に選出され、同常置委員を務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙で佐賀県第2区から自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(184… 古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(1845年12月22日)- 大正3年(1914年)12月21日)は、日本の海軍軍人(海軍少佐)、教育者。海城学園の創設者。 肥前国佐賀郡北川副村古賀(現佐賀県)に平尾吉左衛門、よしの次男として生まれ、20石取りの下級武士である古賀家の養子となる。佐賀藩の砲隊司令として奥羽追討の師に加わり、秋田の戦いに功績があって有栖川大総督宮から感状を下賜された。 1891年11月、私財を投じて有栖川宮を始めとする多くの皇族達の賛同を得て海軍予備校、後の海城学園を創設。以降、理事長兼校長として、数多くの将校を育てた。
大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9… 大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。 参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第26・28代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社社友。 通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。 東京専門学校(現・早稲田大学)を創設。官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学の創設に関わったほか、長崎の私塾でチャニング・ウィリアムズに師事して英学を学び、外交的素養を培った旧誼から、立教大学の発展を深く支援した。
江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3… 江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士・権大参事)、明治時代の政治家、官吏、教育者。幼名は恒太郎、又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白または白南。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。位階は贈正四位。 東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議を歴任したが、明治六年政変で下野。佐賀の乱の首謀者として処刑された。 立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、日本近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。
永富 啓子(ながとみ けいこ)は、日本の声楽家(ソプラノ、メ… 永富 啓子(ながとみ けいこ)は、日本の声楽家(ソプラノ、メゾソプラノ)、合唱指揮者、音楽教育者。 佐賀県唐津市出身。東京芸術大学音楽学部声楽科卒業。1971年(昭和46年)ウィーンに渡り、ウィーン国立音楽大学発声科、リート・オラトリウム科、オペラ科の各科を卒業。 畑中良輔、W.シュタインブリック、エリック・ヴェルバ、A.コローに師事。 1974年(昭和49年)のウィーン・カンマーオペラ劇場出演を皮切りに、オーストリアと日本で積極的な演奏活動を行う。特にドイツ歌曲の分野には研鑽を重ね、その演奏は常に好評を受けている。永年にわたってウィーン日本人会婦人部女声コーラス“シュパッツェンコーア”の指揮を務める。