保岡 武久(やすおか たけひさ、1902年11月25日 - … 保岡 武久(やすおか たけひさ、1902年11月25日 - 1983年2月7日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。 奄美大島にある鹿児島県大島郡宇検村の生まれ。旧制鹿児島県立大島中学校と旧制第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒。1929年、高等文官試験行政科に合格。群馬県警察警部補を振り出しに、1934年内務省警視庁警視に任命される。海軍司政官、二・二六事件を担当、1939年大阪府刑事課長、地方警視、鹿児島県副知事などを経て、1951年の第2回鹿児島県知事に自由党公認で立候補したが落選。1954年に行われた奄美群島の日本復帰に伴う衆院選に奄美群島区から自由党公認で立候補した。
小園 安名(こぞの やすな、1902年〈明治35年〉11月1… 小園 安名(こぞの やすな、1902年〈明治35年〉11月1日 - 1960年〈昭和35年〉11月25日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校第51期卒業。最終階級は海軍大佐剥奪。 1902年(明治35年)11月1日、鹿児島県川辺郡万世町(現・南さつま市)に生まれる。旧制鹿児島県立川辺中学校を経て1920年8月26日に海軍兵学校第51期に入学。同期に樋端久利雄、山本祐二、三代一就、大井篤らがいる。1923年7月14日、同校を卒業し、少尉候補生。練習艦「磐手」乗組み。 1926年3月、霞ヶ浦海軍航空隊第14期飛行学生、11月、卒業。空母「赤城」分隊長着任。霞ヶ浦航空隊教官着任。小園に思想的影響を受けた飛行学生の中尉らが五・一五事件を起こし、小園も「皇道革新」を主張し五・一五事件を支持したことから転勤させられる。
村尾 薩男(むらお さつお、1902年(明治35年)8月25… 村尾 薩男(むらお さつお、1902年(明治35年)8月25日 - 1970年(昭和45年)1月5日)は、昭和期の社会運動家、政治家、実業家。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡、のちの川内町(川内市を経て現薩摩川内市)で、鹿児島市の山形屋呉服店常務取締役の息子として生まれる。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て第七高等学校造士館に入学。是枝恭二、喜入虎太郎らと文芸、哲学、社会問題の研究会を立上げ、ロシア飢饉救済運動にも加わった。1923年(大正12年)東京帝国大学文学部社会学科に進み、新人会に加入して活動したが、京都学連事件で検挙され、第1審で禁固1年の判決を受け、1926年(大正15年)1月に大学を中退した。
迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月… 迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月5日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の大蔵官僚、弁護士、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。 いわゆる「玉音放送」を起草した人物の一人として知られる。 内閣書記官長(第51代)、総合計画局長官、貴族院議員、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)、経済企画庁長官(第9・10代)、郵政大臣(第17代)、鹿児島工業短期大学学長(初代)などを歴任した。
鳥濱 トメ(とりはま トメ、1902年6月20日 - 199… 鳥濱 トメ(とりはま トメ、1902年6月20日 - 1992年4月22日)は、鹿児島県の食堂経営者。 川辺郡知覧町(現在の南九州市知覧町郡104)で「富屋食堂」を営み、多くの特攻隊員の面倒を見た。 名前の読みは戸籍上「トメ」であるが、相星雅子の聞き取りによるとこの「トメ」を嫌って人には「トミ」と呼ばせており、これが富屋食堂の名前の元になっている。また1945年に富屋食堂を取り上げた新聞記事にも「おとみさん」という名で掲載されている。 1902年(明治35年)、川辺郡西南方村坊下浜(現在の南さつま市坊津町坊)に生まれた。18歳で旧家出身の鳥濱義勇と結婚する。 1929年(昭和4年)にトメが27歳の時に富屋食堂を開業。
岩崎 與八郎(いわさき よはちろう、1902年(明治35年)… 岩崎 與八郎(いわさき よはちろう、1902年(明治35年)5月1日 - 1993年(平成5年)12月28日)は、鹿児島県の実業家で、岩崎産業グループの創業者である。岩崎与八郎と表記されている場合もある。 1902年(明治35年)5月1日、当時の鹿児島県囎唹郡岩川村(岩川町、大隅町を経て現在の曽於市の一部)に、父斎藤斉(さいとうひとし)と母岩崎たねの間に生まれる。父は宮崎県西諸県郡小林村(現在の小林市)出身の人物で、岩川の種畜場に来て働いているうちに岩崎たねと結婚したが、酒飲みであることをたねの両親に嫌われて與八郎誕生後まもなく離縁され、與八郎は岩崎姓で育つことになった。父親は、與八郎が小学生のうちに死去している。
入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月2… 入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月26日 - 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の海軍軍人(海兵52期卒)。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 鹿児島県出身。郵便局長・入佐俊祥の息子として生れる。鹿児島二中を経て、1924年(大正13年)7月、海軍兵学校(52期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1928年(昭和3年)12月から翌年11月まで第19期飛行学生として学んだ。 日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、その技量と用兵から陸攻の神様 海軍の至宝と言われた。常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも絶大な信頼を寄せられた。 鹿屋空飛行長で太平洋戦争開戦を迎え、南方進攻作戦に活躍、その後、海軍兵学校教官として内地へ帰還するが、1944年(昭和19年)3月、再建された機動部隊(第一機動艦隊)の第六〇一海軍航空隊司令兼空母大鳳の飛行長として新鋭空母大鳳に乗り組むことになる。
平瀬 實武(実武、ひらせ さねたけ、1901年11月17日 … 平瀬 實武(実武、ひらせ さねたけ、1901年11月17日 - 1994年1月18日)は、日本の政治家、革新首長。第15代鹿児島市長、第2代鹿児島県串木野市長、第6代串木野町長。鹿児島県議会(鹿児島県会)議員、鹿児島市会議員、同副議長も歴任した。串木野市名誉市民。位階は従五位。 鹿児島市下荒田町の旧家・最上家に生まれる(平瀬は養子先の姓)。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1922年旧制第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)文科卒業、1926年に東京帝国大学農学部農業経済学科卒業。同じ下荒田町出身で後輩の佐多忠隆とは、旧制中学生(通う中学は別)と旧制七高生のとき、ともに社会主義について勉強した。
谷口 慶吉(たにぐち けいきち、1901年(明治34年)11… 谷口 慶吉(たにぐち けいきち、1901年(明治34年)11月10日 - 1971年(昭和46年)11月14日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(2期)。 鹿児島県鹿児島郡吉田村大字東佐多浦(現鹿児島市東佐多町)出身。1918年(大正7年)鹿児島県立川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)を卒業した。 鹿児島県鹿児島郡吉田村会議員、同村農会長、同村煙草耕作組合長などを務めた。1932年(昭和7年)上京して運輸事業に従事した。 戦後、鹿児島県食糧調整委員、吉田村北農業協同組合長、鹿児島県経済農業協同組合連合会長、全国販売農業協同組合連合会理事、全国運輸農業協同組合連合会長、鹿児島県農業会議議員、同県茶業振興会長、同県鹿児島茶輸出協会長、同県農業協同組合中央会理事、同県トラック協会監事、鉄道貨物協会監事などを務めた。
海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう、1901年〈明治3… 海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう、1901年〈明治34年〉11月5日 - 1977年〈昭和52年〉12月1日)は、日本の小説家・作家。本名は末冨 東作(すえとみ とうさく)。鹿児島県伊佐郡大口村(現・伊佐市)生まれ。次女は日本テレワークの社長を務めた末冨明子。 1901年、鹿児島県伊佐郡大口町(現・伊佐市大口里)の山師の家に生まれる。幼い頃に体が大きかったことから、1年繰り上げで小学校に入学。実際は何をするにも1歳年上の同級生たちに及ばず、学校生活は苦労の多い辛いものだった(のちにこれが文学を志すきっかけとなったと語っている)。國學院大學高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら創作を始める。
滿尾 君亮(みつお きみすけ、1901年(明治34年)9月5… 滿尾 君亮(みつお きみすけ、1901年(明治34年)9月5日 - 1994年(平成6年)8月3日)は、日本の政治家、衆議院議員、運輸官僚。 満尾彦吉の長男として、鹿児島県鹿児島市上之園町で生まれ。4年生まで中洲尋常小学校に通い、鹿児島県師範学校附属小学校に転校し卒業する。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て第七高等学校造士館 (旧制)文科甲類卒業する。旧制鹿児島二中では、のちの鹿児島市長平瀬實武と同級となる。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科に入学し。在学中の1925年(大正13年)11月高等文官試験外交科に合格する。1925年(大正14年)に卒業し。鉄道省に奉職する。その年の月に高等文官試験行政科にも合格する。
寺園 勝志(てらぞの かつし、1901年(明治34年)7月2… 寺園 勝志(てらぞの かつし、1901年(明治34年)7月25日 - 1998年(平成10年)2月11日)は日本の政治家、元官僚。鹿児島県知事や南日本放送会長を務めた。 1901年(明治34年)、姶良郡栗野村(のちの栗野町、現在の湧水町栗野地域)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て東京帝國大学(現・東京大学)を卒業。 内務官僚となり 、厚生省部長、鹿児島県経済部長、同県副知事などを経て、1955年(昭和30年)から鹿児島県知事を3期12年務めた。在任中、戦後の混乱で厳しい財政の中で農業振興や交通・通信の整備に尽力し、大隅半島の広大なシラス台地である笠野原台地に大規模灌漑で農業用水を提供する土地改良事業をおこなった。
山田 六左衛門(やまだ ろくざえもん、1901年2月28日 … 山田 六左衛門(やまだ ろくざえもん、1901年2月28日 - 1978年3月24日)は、共産主義活動家。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現在の南種子町)字平山生まれ。早稲田高等学院政経科中退。1927年(昭和2年)に日本労働組合評議会に加盟。1928年(昭和3年)に日本共産党に入党。同じ年の3月15日の三・一五事件などで検挙。 戦後は1946年(昭和21年)日本共産党に再入党。1949年1月、第24回衆議院議員総選挙において和歌山県第1区から日本共産党公認で立候補して落選した。1950年(昭和25年)の日本共産党の分裂時に関西の「国際派」の指導者となったため、除名された。1955年(昭和30年)に日本共産党が統一した際に復党し、1958年(昭和33年)に中央委員となった。
葉梨 新五郎(はなし しんごろう、1901年〈明治34年〉2… 葉梨 新五郎(はなし しんごろう、1901年〈明治34年〉2月20日 - 1956年〈昭和31年〉3月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 茨城県稲敷郡木原村(現:美浦村木原)に葉梨伴之助の四男として生まれた。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を卒業し、明治大学専門部法律科中退、国士舘高等部(国士舘大学の前身)中退。 中央新聞、日本電報通信社(後の電通)の記者、関東長官秘書官などを経て、1932年旧茨城1区から立憲政友会公認で第18回衆議院議員総選挙に初当選し、戦前・戦後合わせて公職追放の期間を挟み、5回当選した(第18回、第20回、第22回、第23回、第26回)。
小原 貞敏(おばら さだとし、1901年1月29日 - 19… 小原 貞敏(おばら さだとし、1901年1月29日 - 1988年7月19日)は、日本の工学者。専門は機械工学。鹿児島大学名誉教授 。鹿児島大学工学部長や鹿児島工業高等専門学校初代校長を歴任。 鹿児島県鹿児島市高麗町出身。1918年鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。1922年第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1925年京都帝国大学工学部機械工学科卒業。大学卒業後に南満州鉄道へ入り機関士見習いからたたき上げ、あじあ (列車)の設計に携わる。終戦直前に満鉄本部運輸局長。戦後1946年から鹿児島県立工業専門学校 (旧制)でボイラー関係を教える(県立工業専門学校は学制改革で1949年2月に鹿児島県立大学工学部となる)。
藤田 実彦(ふじた さねひこ、1900年〈明治33年〉12月… 藤田 実彦(ふじた さねひこ、1900年〈明治33年〉12月25日 - 1946年〈昭和21年〉3月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士33期、陸大42期。 別名、田友・田通。髭の参謀とも呼ばれた。通化事件の首謀者として八路軍に拘束され、肺炎で急死した。 鹿児島県の士族出身。薩摩郡隈之城村大字東手(現在の薩摩川内市宮崎町)出身。陸士卒業後、歩兵第23連隊附。陸大卒業後は独立軽装甲車第2中隊長として華北戦線、南京攻略戦に参加。内地に帰還し内閣情報局第1部第3課長、戦車第1連隊長を歴任。1945年、再び大陸へ向かい第125師団参謀長となった。 ポツダム宣言が受諾された翌日、関東軍にも武装解除命令が通達されたが、納得の行かない藤田は関東軍作戦班長の草地貞吾大佐に電話をかけ、「草地君、ワシの師団は関東軍命令はきかないからなあ」と命令拒否と師団の徹底抗戦を宣言した。
入来 重盛(いりき しげもり、1900年12月10日 - 1… 入来 重盛(いりき しげもり、1900年12月10日 - 1984年2月9日)は、日本の生物学者・動物学者。東京教育大学名誉教授。専門は動物細胞学・細胞生物学。理学博士。 現在の鹿児島県鹿児島市谷山地区出身。(旧制)鹿児島県立第二鹿児島中学校、東京高等師範学校、京都帝国大学理学部卒業。「両棲類の染色体、とくに性染色体に関する研究」の論文で理学博士号取得。 東京高等師範学校および東京文理科大学の教授から学制改革によって東京教育大学理学部教授となり、1964年に定年退官。著書に『動物の解剖』(地球出版、1966年)などがあり、生物学や理科の教科書・参考書の共著をしているほか、児童向け図鑑の編著・共著が多数ある。
大谷 贇雄(おおたに よしお、1900年11月2日 - 19… 大谷 贇雄(おおたに よしお、1900年11月2日 - 1970年12月23日)は、日本の政治家。名古屋市会議員(2期)、参議院議員(3期)。愛知県教育委員長(初代)、農林政務次官、参議院懲罰委員会委員長などを歴任した。位階勲等は従三位勲二等。 明治33年(1900年)11月2日、学校法人桜花学園の創立者である大渓専の長男として、鹿児島県に生まれる。鹿児島市出身。2歳になるまでを鹿児島、姫路にて過ごした後に、父の郷里である愛知県幡豆郡横須賀村(後の吉良町、西尾市)で育つ。大正8年(1919年)3月に旧制尾張中学校(現・名古屋大谷高等学校)を卒業した。 大正14年(1925年)3月に慶應義塾大学文学部を卒業すると、桜花高等女学校(現・桜花学園高等学校)で教鞭をとった。
豊島 至(とよしま いたる、1900年10月10日-1947… 豊島 至(とよしま いたる、1900年10月10日-1947年9月20日)は、アメリカ統治下の奄美群島の首長。臨時北部南西諸島政庁知事。元は鹿児島県大島郡の教育者。 現在の鹿児島県大島郡瀬戸内町出身(奄美群島加計呂麻島芝地域生まれ)。1921年、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)卒業。管鈍尋常小学校(後の瀬戸内町立管鈍小学校)の代用教員となったのを皮切りに教育者としての道を歩み、諸鈍や小野津の校長を務める。大島郡教育会主事を経て、鹿児島県大島支庁総務課振興係主任となる。 1946年2月、奄美群島が日本と行政分離されアメリカ合衆国の統治下に入ったことに対応するため全大島連絡委員会が発足し、豊島は大島支庁振興主事として同会幹事に就任する。
古垣 鉄郎(ふるかき てつろう、1900年(明治33年)9月… 古垣 鉄郎(ふるかき てつろう、1900年(明治33年)9月20日 - 1987年(昭和62年)3月8日)は、日本のジャーナリスト、外交官。筆名は中馬 藤十郎。 1900年(明治33年)に鹿児島県日置郡日置村大字日置(現在の日置市日吉町日置)に生まれる。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、第一高等学校を卒業したのち、島津奨学資金の援助でフランス共和国のリヨン大学法学部へ留学し同校を卒業した。1923年(大正12年)からジュネーブに駐在し国際連盟事務局情報部に勤務した。同部ではロックフェラー3世(英語版)が連盟を学ぶために配属されており、古垣は彼と同室で過ごして面倒を見ている。1929年(昭和4年)に国際連盟事務局を退職し、同年に朝日新聞社に入社してロンドンとパリに在住し、論説委員としてロンドン支局長、欧米部長、ヨーロッパ支局長などを務めた。
池田 清志(いけだ きよし、1900年(明治33年)9月15… 池田 清志(いけだ きよし、1900年(明治33年)9月15日 - 1991年(平成3年)7月29日)は、日本の内務・警察官僚、政治家、弁護士。衆議院議員、最後の官選栃木県知事。
内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日… 内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争中に第二次遣独潜水艦作戦を完遂した伊号第八潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中を経て海軍兵学校49期を卒業。皇族2名を除いた席次は174名中29番。同期に原為一、長澤浩、鹿岡円平などがいる。1922年(大正13年)5月海軍少尉に任官した。中尉時代に5艦の呂号潜水艦に乗艦し、大尉進級。水雷学校高等科へ進み、さらに同専攻科を卒業。伊号潜水艦水雷長、潜水学校教官を務め、1933年(昭和8年)11月、少佐へ進級。以後潜水学校甲種学生(潜水艦長養成過程)をはさみ5艦の潜水艦長を歴任。
田島 ナビ(たじま ナビ、1900年〈明治33年〉8月4日 … 田島 ナビ(たじま ナビ、1900年〈明治33年〉8月4日 - 2018年〈平成30年〉4月21日)は、日本のスーパーセンテナリアン。鹿児島県喜界町在住の長寿の女性。2017年9月15日以降死去するまで長寿世界一となっていた。また、生年月日に確証のある人物としては世界最後の19世紀生まれの人物となった。 1900年8月4日に鹿児島県大島郡荒木地区の集落で田島家の長女として誕生。喜界島に在住し、尋常小学校を卒業後、織工場で働く。1919年に富二子を婿として迎え、共にサトウキビ農業を80歳頃まで勤めた。富二子は1991年(平成3年)に94歳で亡くなった。富二子の死後は長男夫妻のもとで生活していた。2002年(平成14年)2月に特別養護老人ホーム「喜界園」に入居した。
錦洋 与三郎(にしきなだ よさぶろう、1900年7月5日 -… 錦洋 与三郎(にしきなだ よさぶろう、1900年7月5日 - 1960年3月1日)は、鹿児島県姶良郡福山町(現霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は豊平 才蔵。最高位は関脇(関西角力協会では大関をつとめた)だった。現役時代の体格は176cm、111kg。得意技は押し、寄り、掬い投げ。 井筒部屋に入門し、1917年5月場所に初土俵をふむ。1923年5月、新十両、1925年1月に新入幕を果たす。出足早く、攻めの相撲で鳴らした。1925年5月場所には、前頭12枚目で10勝1敗の好成績を挙げたが、優勝は同じ平幕でも上位の大蛇山酉之助に奪われた。そこから上昇気流に乗り、1927年10月には新小結、1928年には関脇に昇進した。
林 太平(はやし たへい、1900年(明治33年)3月23日… 林 太平(はやし たへい、1900年(明治33年)3月23日 - 1984年(昭和59年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)で生まれた。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第73連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した。 1930年(昭和5年)8月、歩兵第24連隊付となり、陸軍戸山学校教官、豊予要塞参謀を経て、1932年(昭和7年)7月、参謀本部付勤務となる。参謀本部員、参謀本部付(在支武官室)を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐に進級した。
丸野 弥高(まるの やこう、1900年3月20日-1976年… 丸野 弥高(まるの やこう、1900年3月20日-1976年3月22日)は、日本の国文学者。明治大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市平之町に生まれ、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を1918年3月に卒業。同校3年次に1年休学しており、その間、文学書を読みあさっていた。また、当時の校長の方針で旧制第二鹿児島中では国語の副読本に田山花袋の随筆「椿」が使われており、この頃から自然主義文学に興味を抱く。 1926年3月に第七高等学校造士館 (旧制)を、1930年に東京帝国大学文学部国文学科をそれぞれ卒業。旧制第七高校では文芸部に入っていた。また、学生時代から「潮騒」主宰の太田水穂に師事して短歌をつくる。
神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日… 神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日 - 1945年(昭和20年)9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。海軍兵学校48期生。 1900年(明治33年)1月23日、鹿児島県出水郡高尾野村(現在の出水市)の神焼酎製造(現神酒造)を営む父・神惣士の長男として生まれる。旧制鹿児島県立川内中学校から1917年海軍兵学校を受けたが不合格となり、同年10月10日、第48期補欠募集で 166名中29番の成績で入校。1919年10月8日、成績優等章授与。1920年7月16日、171名中10番の成績で海兵48期を卒業。海軍少尉候補生となり装甲巡洋艦「浅間」に乗組。 1920年8月21日、練習艦隊遠洋航海( 基隆〜馬公〜香港〜シンガポール〜コロンボ〜ダーバン〜ケープタウン〜リオデジャネイロ〜サントス〜モンテビデオ〜バイアブランカ〜バルパライソ〜イキケ〜カヤオ〜タヒナ〜トラック〜サイパン〜母島〜父島方面巡航の西廻り世界一周)に出発。
田上 松衛(たがみ まつえ、1900年1月10日 - 199… 田上 松衛(たがみ まつえ、1900年1月10日 - 1995年1月28日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。横浜市会議員(3期)。神奈川県議会議員(2期) 鹿児島県揖宿郡山川村(現・指宿市)に生まれる。1917年、鹿児島県大成実業補習学校高等部卒業。1920年、日本海員組合結成に参画。 1926年には社会民衆党、1932年には社会大衆党の創立委員になった。1936年6月、神奈川県会議員選挙に横浜市神奈川区選挙区から立候補して初当選を果たした。1938年3月5日、横浜市会議員選挙に第2選挙区から社会大衆党公認で立候補して初当選を果たした。1940年、県会議員選挙に社会大衆党を抜け、中立候補で神奈川区選挙区から立候補したが、落選した。
鮫島素直(さめじま すなお、1900年〈明治33年〉 - 1… 鮫島素直(さめじま すなお、1900年〈明治33年〉 - 1985年〈昭和60年〉)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。専門は通信および電波兵器で、太平洋戦争期に軍令部通信課長(兼任複数)を務めた。 1900年、鹿児島県に生まれる。川内中学 (旧制)(現・鹿児島県立川内高等学校)を経て、海軍兵学校第48期に入校し、大正9年(1920年)に卒業した。 その後、海軍大学校甲種第31期を昭和8年(1933年)に卒業。海軍通信学校教官、聯合艦隊通信参謀などを歴任し、通信分野の専門家として知られた。 昭和18年(1943年)頃から軍令部第四部第九課長、第十課長兼第十一課長を務め、大本営海軍部通信課長を兼任。
本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 19… 本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 1980年7月30日)は、鹿児島県出身のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社社長、会長、最高顧問、毎日放送会長、相談役を歴任した他、日本新聞協会会長を2期務めた。 本田の祖先は、武蔵国本田郷の領主・本田左衛門尉貞親で、島津忠久夫人の父。 1899年11月21日、鹿児島市下荒田町生まれ。鹿児島師範学校附属幼稚園を経て、1906年に鹿児島市立八幡小学校へ入学。このころ本田の人間形成に与えた訓育がある。旧薩摩藩独自の教育制度・郷中制度の精神を受け継いだ学舎「研明舎」での教育がそれで、本田は5歳ごろより小学校の放課後にここへ通い、先輩舎生の監督下で諸学科の復習や予習をした。
堀 豊彦(ほり とよひこ、1899年9月24日 - 1986… 堀 豊彦(ほり とよひこ、1899年9月24日 - 1986年4月9日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。日本基督教団の会員。オランダ通詞・堀達之助の曾孫。子に倫理学者・英学者の堀孝彦がいる。 山口県赤間に村田豊作、ナリの三男として生まれる。1912年に母方の姓の堀になる。1913年鹿児島のバプテスト教会で青木澄十郎から洗礼を受ける。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)および第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1924年東京帝国大学法学部を卒業する。1926年よりイギリスのオックスフォード大学とドイツに留学し、1929年帰国後に台北帝国大学教授に就任する。 1942年より九州帝国大学教授になる。
島津 忠彦(しまづ ただひこ、1899年(明治32年)8月3… 島津 忠彦(しまづ ただひこ、1899年(明治32年)8月30日 - 1980年(昭和55年)5月12日)は、昭和期の日本の実業家、政治家、華族(男爵)。貴族院男爵議員、参議院議員(2期)。重富島津家第8代当主(越前島津家第23代当主)。 鹿児島県鹿児島市清水町出身。男爵・島津壮之助の長男として生まれる。父の死去に伴い、1925年(大正14年)4月15日、男爵を襲爵した。 鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制) を経て、1923年(大正12年)成蹊実業専門学校本科を卒業。三菱銀行に勤務(約10年間)。以後、三和電機社長、鈴木商店代表者、鹿児島製紙興業社長などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。
木佐木 久(きさき ひさし、1899年〈明治32年〉7月14… 木佐木 久(きさき ひさし、1899年〈明治32年〉7月14日 - 1993年〈平成5年〉12月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。1932年(昭和7年)陸軍大学校第44期卒業。 台湾軍参謀を経て、1941年(昭和16年)7月、第13軍高級参謀に補され、支那事変に出動する。同年8月、陸軍大佐に進む。大東亜戦争が勃発すると1944年(昭和19年)5月、再び台湾軍参謀となり、第10方面軍参謀を経て、1945年(昭和20年)6月10日、陸軍少将に進み、同月27日、西部軍附となり終戦を迎える。
中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月2… 中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月26日 - 1979年(昭和54年)12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県出身。東京で陸軍大尉・中山左源二の長男として生まれる。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し歩兵第7連隊中隊長に就任した。 1931年(昭和6年)5月、東京警備参謀に就任し、参謀本部員を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐に進級した。
高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 19… 高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 1996年5月20日)は、日本の医学者、精神科医。専門は、性格学、森田療法。鹿児島県出身。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年、九州帝国大学医学部卒業。同大学精神神経科講師を経て、1929年、東京慈恵会医科大学に転任する。同年より東京根岸病院に勤務し、森田正馬に師事して森田療法を継承する。1937年、森田の後を継いで東京慈恵会医科大学教授となる。1940年、入院森田療法の施設である高良興生院を設立し、森田療法による神経(質)症の治療を行う。1964年、東京慈恵会医科大学名誉教授。
前田 盛高(まえだ もりたか、1899年1月5日 - 198… 前田 盛高(まえだ もりたか、1899年1月5日 - 1982年6月13日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長、会長、相談役を歴任。 鹿児島県薩摩郡入来村(後の入来町、薩摩川内市の一部)生まれ。1918年3月に鹿児島県師範学校本科(現 鹿児島大学教育学部)を卒業。1918年4月から鹿児島県日置郡の天昌尋常高等小学校(現 日置市立永吉小学校)教諭を務めるが、病気療養のため退職。 1920年10月に大福海上火災保険へ入社し、調査課勤務。1942年7月、大福海上火災保険と大東海上火災保険の合併により共栄火災海上保険が設立されると同時に神戸支店長となり、1944年3月から大阪支店長、1946年12月から近畿支社長。
矢上 純雄(やがみ すみお、1898年(明治31年)11月1… 矢上 純雄(やがみ すみお、1898年(明治31年)11月16日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、昭和戦後の鹿児島県職員。 鹿児島県囎唹郡末吉村(現・曽於市)に生まれる。1918年(大正7年)8月、渡台し、台中郵便局雇、台湾総督府通信手、内務局勤務を経て、1937年(昭和12年)9月、地方理事官に進み、台北市助役に就任する。 1939年(昭和14年)4月、台中州豊原郡守に転じ、1940年(昭和15年)11月、台南州虎尾郡守に就任。1942年(昭和17年)8月、花蓮港庁総務課長を発令された。 終戦後は帰国し、1947年(昭和22年)から鹿児島県農地部農地課に勤務し、農地課長を経て、1949年(昭和24年)経済部水産課長に就く。
臼井 茂樹(うすい しげき、1898年(明治31年)10月3… 臼井 茂樹(うすい しげき、1898年(明治31年)10月30日 - 1941年(昭和16年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県出身。薩摩郡高江村大字久見崎(現在の薩摩川内市久見崎町)に臼井恕助の息子として生まれる。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1928年(昭和3年)3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、ポーランド・ソビエト連邦駐在、ポーランド兼ルーマニア公使館付武官補佐官、参謀本部員、参謀本部付などを務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に昇進。
林 勇蔵(はやし ゆうぞう、1898年(明治31年)7月25… 林 勇蔵(はやし ゆうぞう、1898年(明治31年)7月25日 - 1970年(昭和45年)12月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)で生まれた。。1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。1929年(昭和4年)陸軍大学校第41期卒業。 1939年(昭和14年)8月、浜松陸軍飛行学校教官、1940年(昭和15年)3月、飛行第98戦隊長を経て、同年8月、陸軍航空兵大佐に進む。ついで1941年(昭和16年)8月、浜松陸軍飛行学校附白城子陸軍飛行学校教官兼浜松陸軍飛行学校教官、1944年(昭和19年)6月、三方原教導飛行団司令部附を経て、1945年(昭和20年)3月、陸軍少将に進み、同年6月、独立混成第126旅団長に補され、天草諸島で本土決戦に備える中で終戦を迎えた。
伊東 隆治(いとう りゅうじ、1898年7月8日 - 196… 伊東 隆治(いとう りゅうじ、1898年7月8日 - 1968年3月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。参議院議員(1期)。 鹿児島県大島郡龍郷村(現龍郷町)生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校・第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学。帝大在学中の1921年(大正10年)に高等試験行政科・外交科で合格し、卒業後に外務省入りし、在漢口総領事館領事官補。同期入省に井口貞夫(駐米大使、外務事務次官)、田尻愛義(外務次官、大東亜次官、政務局長)、安東義良(駐ブラジル大使、欧亜局長)、西村熊雄(駐フランス大使、条約局長)などがいる。 外務省では通商局第五課長・漢口総領事・興亜院華中連絡部文化局長を歴任し、中華民国大使館参事官を最後に退官する。
前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年… 前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年12月13日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。海兵46期。1945年8月17日のインドネシア独立の平穏無事な実現に重要な貢献をした。栄典はインドネシア共和国建国功労章。兄は大本営海軍報道部長、第10航空艦隊司令長官前田稔海軍中将(41期)。弟は資生堂のデザイナー前田貢。 鹿児島県姶良郡加治木村小山田(現姶良市加治木町)出身。鹿児島県立加治木中学校(旧制)卒業後、海軍兵学校に入学(第46期)。同期生に山階宮武彦王、猪口敏平らがいる。 1918年(大正7年)11月21日卒業。翌年8月、少尉に任官。オランダ公使館付武官、大本営海軍参謀、バタビア在勤武官を歴任し、1945年(昭和20年)に海軍少将およびジャカルタ在勤武官。
永野 芳辰(ながの よしたつ、1898年(明治31年)2月2… 永野 芳辰(ながの よしたつ、1898年(明治31年)2月20日 - 1984年(昭和59年))は、日本の内務官僚・実業家。高知県知事。1953年(昭和28年)12月25日の奄美群島本土復帰立役者のひとり。 鹿児島県大島郡笠利村の佐仁(奄美大島、現奄美市)で、永野孫七の長男として誕生。1918年(大正七年)旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校卒業、1922年(大正11年)旧制第七高等学校造士館卒業、1925年(大正14年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。 愛知県属を振り出しに沖縄県、福島県、北海道、東京府各課長、北海道拓殖部長を経て1941年(昭和15年)大政翼賛会地方部長に就任。その後秋田県総務部長兼学務部長、広島県部長・経済部長、同内政部長を経て、1945年(昭和20年)10月、高知県知事に就任。
原口 純允(はらぐち すみちか、1898年(明治31年)1月… 原口 純允(はらぐち すみちか、1898年(明治31年)1月24日 - 1980年(昭和55年)3月23日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、鹿児島県伊佐郡大口町長。 鹿児島県伊佐郡菱刈村(菱刈町を経て現伊佐市)で生まれた。旧制鹿児島県立加治木中学校(現 鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1918年(大正7年)旧制第七高等学校造士館卒業。1921年(大正10年)東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。 1921年(大正10年)5月、南満州鉄道(満鉄)に入社し、電気作業所に配属された。1926年(大正15年)6月、電気作業所が満鉄から独立し南満洲電気 (株) (のち大連都市交通)に改組し同社員となり、奉天支店長、長春支店長、新京支店長を歴任。
宇都宮 直賢(うつのみや なおかた、1898年(明治31年)… 宇都宮 直賢(うつのみや なおかた、1898年(明治31年)1月9日 - 1997年(平成9年)6月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 本籍鹿児島県。東京府で鉄道省技師・宇都宮新の二男として生まれる。加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1925年(大正14年)4月から1926年(大正15年)3月まで東京外国語学校英語科で委託学生として学んだ。 1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業した。 1930年12月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。1931年(昭和6年)9月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(米班)、参謀本部付(支那研究員、上海・香港駐在)、参謀本部付(上海武官補佐官)、陸軍省兵務局付(防諜班長)を務め、1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐に昇進。
小倉 静三(おぐら せいぞう、1898年-1987年)は、日… 小倉 静三(おぐら せいぞう、1898年-1987年)は、日本の洋画家。谷口午二主宰の金羊会の結成メンバー。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。在学時期から大牟礼南島の指導を受けたと推定されている。 旧制中学卒業後は東京美術学校や川端画学校で学び、藤島武二、岡田三郎助らに師事したといわれているが定かではない。鹿児島に帰郷後は山下兼秀のすすめで、大嵩双山とともに谷口午二に師事し、金羊会を結成。 南國美術展の創設にも関わったとされる。その後、上京し、松坂屋宣伝部などに勤め、光風会展や日展に出品。また、示現会に所属。 優れた描写力を生かして戦争画も多く残した。
山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 … 山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 - 1974年4月4日)は、日本の医師・歌人。短歌雑誌『創作』の若山牧水、『潮音』の太田水穂に師事し、吉植庄亮主宰の『橄欖』を経て、1946年『原始林』(第2次)を札幌市で創刊。北海道の歌壇の基礎を築いた一人と評価され、戦前・戦後の北海道文壇・歌壇の指導的な存在であった。 1897年(明治30年)11月29日、鹿児島県鹿児島市東千石町に生まれる。鹿児島第一中学校、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学医学部を卒業。同年5月、北海道帝国大学医学部助手として北海道に移る。北大医学部講師、小樽病院を経て、移住四年後の1926年(大正15年)から国鉄傘下の札幌鉄道病院(現在のJR札幌病院)に勤務。
加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11… 加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月25日)は、日本の海軍軍人。成績優秀な将校であったが、神政龍神会の結成にかかわり、不敬罪に問われ失官となる。最終階級は海軍中佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中より海軍兵学校47期に首席入校。在学中も学術優等章を2度授与され、次席及び恩賜で卒業した。同期生に光延東洋、横山一郎、城英一郎などがいる。 1920年(大正9年)、少尉任官。尉官時代は霞ヶ浦海軍航空隊附としてセンピル教育団に関わり、第一遣外艦隊参謀、練習艦隊副官、戦艦「長門」分隊長、財部彪副官などを歴任。1930年(昭和5年)12月1日、海軍少佐へ進級し海軍大学校甲種30期へ進む。
小原 栄次(おはら えいじ、1897年〈明治30年〉9月13… 小原 栄次(おはら えいじ、1897年〈明治30年〉9月13日 - 1957年〈昭和32年〉1月20日)は、日本の弁護士、弁理士。 人権擁護委員東京連合会副会長、日本弁護士連合会人権擁護第一部長、東京地方裁判所調停委員、東京弁護士会常議員を歴任した。鹿児島県出身。族籍は鹿児島県士族。次女は声優、女優、ナレーター、朗読家の小原乃梨子。 鹿児島県士族・小原萬次郎の息子として同県日置郡上伊集院村上谷口に生まれる。母は奥休太郎の長女・イネ。1937年(昭和12年)に家督を相続した。1914年(大正3年)博約義塾(現・樟南高等学校)を卒業後、上京し、1917年(大正6年)、中央大学法科を卒業。卒業後、農商務省に奉職。
東郷 青児(とうごう せいじ、1897年(明治30年)4月2… 東郷 青児(とうごう せいじ、1897年(明治30年)4月28日 - 1978年(昭和53年)4月25日)は日本の洋画家。本名は東郷 鉄春。夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。 1916年 パラソルさせる女 第1回昭和洋画奨励賞 1928年 日本芸術院賞 1957年 日活映画『誘惑』
川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月2… 川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月21日 - 1944年(昭和19年)12月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県日置郡田布施村(金峰町を経て現南さつま市)で生まれた。川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)7月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第44連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を優等で卒業した。 1929年(昭和4年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(作戦班)、ドイツ駐在、ルーマニア駐在、歩兵第23連隊大隊長、参謀本部員(戦史課)などを務め、1937年(昭和12年)8月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐に進んだ。