佐藤 重雄(さとう しげお、1931年10月22日-)は、日… 佐藤 重雄(さとう しげお、1931年10月22日-)は、日本のプロ野球選手。内野手(主に一塁手)。右投げ右打ち。鹿児島県出身。 鹿児島県立甲南高等学校から社会人野球の鹿児島鉄道管理局野球部を経て、1955年から1956年にプロ野球南海ホークス選手。プロ1年目は16試合で一塁を守るなど計30試合に出場したが、2年目で出番は減りプロ野球引退。
鹿児島県:116人
佐藤 重雄(さとう しげお、1931年10月22日-)は、日… 佐藤 重雄(さとう しげお、1931年10月22日-)は、日本のプロ野球選手。内野手(主に一塁手)。右投げ右打ち。鹿児島県出身。 鹿児島県立甲南高等学校から社会人野球の鹿児島鉄道管理局野球部を経て、1955年から1956年にプロ野球南海ホークス選手。プロ1年目は16試合で一塁を守るなど計30試合に出場したが、2年目で出番は減りプロ野球引退。
野母 得見(のも とくみ、1930年12月13日 - 198… 野母 得見(のも とくみ、1930年12月13日 - 1989年12月17日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手(投手)。 川辺高校から鹿児島市電(鹿児島市交通局)を経て、1954年に南海ホークスへ入団。主な同期入団選手に宅和本司、皆川睦男、野村克也、前川忠男などがいる。直球とゆるいカーブが武器。1年目に6勝を挙げ翌年も5勝する。1956年には初の2桁勝利となる14勝を挙げた。1957年と1958年にも8勝を挙げるが1959年はわずか1勝、翌年は1勝も出来ずにこの年限りで現役を引退した。 その後大阪有機化学工業に入社。松任工場に勤務していた1989年12月17日に汚水処理用タンクの配管の溶接の仕事をしていた時に爆発事故に巻き込まれ死亡した。
太田 敏行(おおた としゆき、1930年6月22日 - )は… 太田 敏行(おおた としゆき、1930年6月22日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(内野手)。 鹿島高校へ入学した当初は相撲部に所属しており、国体にも出場経験がある選手だった。そんな折に、同校野球部の創設を支援した元衆議院議員・愛野時一郎が「甲子園に出場し、暗い世相を吹き飛ばせ」と指示したことにより、同校在学生でスポーツが堪能な生徒を強制的に野球部に入部させるが、その中に太田がいた。この影響は大きく、同校は1948年夏の甲子園への出場を決めている。甲子園では2回戦で愛知・享栄商業に大敗を喫した。同級生には野田正樹(阪急)がいる。 その後社会人野球の杵島炭鉱を経て、1954年に中日ドラゴンズへ入団。
入部 久男(いるべ ひさお、1929年6月25日 - )は、… 入部 久男(いるべ ひさお、1929年6月25日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手。 鹿児島県立加治木高等学校から鹿児島市電を経て、1956年に大洋ホエールズへ入団。しかし公式戦出場は2試合に終わるなど結果を残せず、1957年に引退。その後は鹿児島市電の監督を務めた。
前川 忠男(まえがわ ただお、1929年1月28日 - )は… 前川 忠男(まえがわ ただお、1929年1月28日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(内野手)。 鹿児島商業から西日本鉄道、八幡製鐵所を経て1954年に南海ホークスへ入団。南海では控えだったが翌年に移籍したトンボユニオンズではショートのレギュラーを獲得し2番打者として定着した。しかし、1956年にチームが解散し、翌年は東映フライヤーズでプレー。8番ショートでレギュラーとして活躍。1958年オフに引退した。
長島 甲子男(ながしま かねお/きねお、1924年6月14日… 長島 甲子男(ながしま かねお/きねお、1924年6月14日 - )は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。
増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、… 増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。 鹿児島商在学中は、1941年夏の甲子園の鹿児島大会で活躍し、決勝で延長13回の激闘の末鹿児島実に5-4でサヨナラ勝ち、県大会優勝を果たした(その後、本来なら開催されるはずの南九州大会や本大会が戦局の悪化により中止となった)。 1942年に南海軍へ入団。主力選手が次々と応召されていく中、内野のどこでも守れるユーティリティプレイヤーとしてチームを支えた。打撃は非力だが、守備には定評があった。打順は主に7~9番の下位を打っていた。 1943年シーズン中に応召され、戦死した(没年月日、死没場所は不明)。
白川 一(しらかわ はじめ、1922年5月25日 - 198… 白川 一(しらかわ はじめ、1922年5月25日 - 1982年3月15日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手(外野手)。 鹿児島商業学校から社会人野球の星野組を経て、1950年に創設された毎日オリオンズへ入団。 1953年に現役を引退。1955年から1957年までコーチを務めた。
古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 20… 古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 2018年10月17日)は、鹿児島市下荒田町出身のプロ野球選手(外野手、1942年のみ捕手)・競馬評論家。 鹿児島二中から、鹿児島商業学校に進学、八幡製鉄を経て、赤嶺昌志の勧誘で1941年に名古屋に外野手として入団。 捕手を務めていた三浦敏一、服部受弘が2人とも応召されてしまったため、1942年は開幕から捕手として起用される。5月12日の対南海軍戦で川崎徳次からサヨナラ本塁打を放つと、5月24日の大洋戦では、2点ビハインドの9回に野口二郎から同点本塁打を放っている。この試合はそのまま延長戦に入り、当時世界最長の延長28回の末、4対4で引き分けている。
政野 岩夫(まさの いわお、1920年8月25日 - 194… 政野 岩夫(まさの いわお、1920年8月25日 - 1944年)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。1944年の登録名は中本 政夫。
西郷 準(さいごう ひとし、1916年4月25日 - 194… 西郷 準(さいごう ひとし、1916年4月25日 - 1945年5月28日)は、鹿児島県鹿児島市出身の元アマチュア野球選手。 西郷菊次郎(元・京都市長)の7男7女のうち六男として出生する。西郷隆盛の孫にあたる。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高、28回卒)を経て立教大学へ進学、東京六大学野球で活躍し神宮球場を沸かせた。 二中に進学すると野球部へ入った。準が1年次の1930年、二中野球部は当時の全国中等学校優勝野球大会に出場し、全盛期を迎えていた。当時は九州から南北それぞれ1校のみ出場でき、全国(甲子園)大会出場は難関だった。1932年には準の2年先輩かつ立教大学野球部でも先輩で、大洋ホエールズ投手・コーチとなる有村家斉がエースとして活躍したが、当時準は遊撃手であった。
有村 家斉(ありむら いえなり、1914年7月24日 - 1… 有村 家斉(ありむら いえなり、1914年7月24日 - 1997年6月23日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。 鹿児島第二中学校では投手として活躍し、1932年の全九州中等学校野球大会で佐賀中学校との試合では20三振を奪っている。 立教大学では4番ファーストとして出場し、卒業後は満州電業、全鹿児島、林兼造船とノンプロチームでプレー。 1952年に38歳という年齢で大洋ホエールズへ入団。1954年に外野手へ転向するが同年引退。1955年から大洋の二軍コーチに就任し、1957年に退団。 その後は北洋水産、柳川商業高校(現・柳川高校)、関東学院大学で監督を務めた。
石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不… 石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不明)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 鹿児島商業では第15回全国中等学校優勝野球大会に出場。この大会では本塁打も記録している。卒業後は明治大学、門司鉄道局へ進み、1937年に名古屋軍へ入団。1938年春季リーグでリーグ3位となる打率.324を記録。俊足の選手であり、1940年の夏季シーズン途中に応召されるが、その時点で32盗塁を記録しており、そのまま追い抜かれることはなく盗塁王を獲得した。 1946年に復帰し、同年引退した。
中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月… 中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月9日(1870年3月10日) - 昭和7年(1932年)3月21日)は、日本の教育者、元野球選手。
是枝 昭男(これえだ あきお)は、日本のアマチュア野球選手、… 是枝 昭男(これえだ あきお)は、日本のアマチュア野球選手、鹿児島放送(KKB)の野球解説員。鹿児島県谷山市(現鹿児島市)出身。
黒木 弥生 は、日本の元女子プロ野球選手。鹿児島県出身。