吉村 友之進(よしむら とものしん、1873年(明治6年)2… 吉村 友之進(よしむら とものしん、1873年(明治6年)2月24日 - 1951年(昭和26年)4月13日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。吉村角次郎の子。 地元の旧家で実業家・貴族院議員の吉村角次郎の長男として和歌山県那賀郡、のちの岩出村(岩出町を経て現岩出市)に生まれ、1891年(明治24年)東京法学院を卒業する。1902年(明治35年)5月、家督を相続する。農業を営む傍ら、家業の製糸業を継ぎ、吉村製糸社長、和歌山紡績取締役、南方酒造監査役などを歴任した。 1939年(昭和14年)和歌山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
窪谷 逸次郎(くぼたに いつじろう、1873年(明治6年)1… 窪谷 逸次郎(くぼたに いつじろう、1873年(明治6年)1月27日 - 1937年(昭和12年)7月26日)は、内務官僚、岡山市長。 岡山県浅口郡船穂町(現在の倉敷市)出身。坪井良一郎の二男として生まれ、窪谷勝蔵の養子となった。1896年(明治29年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1900年(明治33年)、判事検事登用試験に合格し、さらに高等文官試験にも合格した。1902年(明治35年)に検事となり、東京区裁判所・東京地方裁判所に勤務した。翌年、辞職して弁護士を開業した。 その後内務属として内務省に入り、大阪府警視、関東州民政署警視、関東都督府事務官兼参事官、統監府書記官、佐賀県事務官・警察部長、熊本県事務官・警察部長、高知県内務部長、群馬県内務部長を歴任した。
岡田 栄(おかだ さかえ、1873年〈明治6年〉1月10日 … 岡田 栄(おかだ さかえ、1873年〈明治6年〉1月10日 - 1940年〈昭和15年〉7月19日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲政友会)。位階は正七位。勲等は勲四等。 高知県高岡郡松葉川村(窪川町を経て現四万十町)生まれ。東京法学院(現在の中央大学)を卒業。判事検事登用試験・弁護士試験に合格。神戸地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事を経て、関東総督府審理官、関東都督府法院判官を歴任し、韓国政府法務補佐官を務めた。その後、官を辞して弁護士を開業した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1918年(大正7年)の衆議院補欠選挙で再選された。 その他、北海道と朝鮮で農場を経営した。
岡田 宇之助(おかだ うのすけ、1872年12月30日(明治… 岡田 宇之助(おかだ うのすけ、1872年12月30日(明治5年12月1日) - 1949年(昭和24年)10月17日)は、日本の内務官僚。官選県知事。旧姓・原。 兵庫県出身。原丈之助の弟として生まれ、岡田家の養子となる。第三高等学校を卒業。1896年、東京法学院(現・中央大学)を卒業。1897年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。 以後、島根県参事官、長野県参事官、同事務官・第一部長兼第三部長、愛媛県事務官、同内務部長などを歴任。 1912年12月、茨城県知事に就任。青柳橋の架橋、水海道分署新築、御大礼記念教育館建設、県道整備計画の策定などに尽力。1917年1月、佐賀県知事に転任。
戸叶 薫雄(とかの よしお / しげお、1872年12月24… 戸叶 薫雄(とかの よしお / しげお、1872年12月24日(明治5年11月24日)- 1917年(大正6年)9月26日)は、明治後期から大正期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員。旧名・初五郎。田中正造の後継者と目された人物。 栃木県安蘇郡長谷場村(野上村長谷場、田沼町を経て現佐野市長谷場町)で、戸叶庄造の長男として生まれる。1885年(明治18年)2月、家督を相続し薫雄に改名した。栃木師範学校で学んだが教師と対立して退校。1896年(明治29年)自由民権思想の普及のため政治小説『想夫恋』を出版。1898年(明治31年)7月、東京法学院(前身英吉利法律学校、現中央大学)を卒業し、1899年(明治32年)7月、日本法律学校(現日本大学)を卒業した。
田中 清文(たなか せいぶん / きよふみ、1872年11月… 田中 清文(たなか せいぶん / きよふみ、1872年11月24日(明治5年10月24日)- 1951年(昭和26年)10月3日)は、明治から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、富山県東礪波郡福野町長、初代北日本新聞社長。旧姓・有川。 新川県礪波郡福野村(現:富山県南砺市)で、有川甚造の二男として生まれ、親族で豪農の田中清三の養子となる。1903年(明治36年)中央大学法律科を卒業。帰郷後、田中貯蓄銀行を設立し頭取に就任し、さらに田中銀行頭取となる。 1903年9月、富山県会議員に当選し副議長に就任。1913年(大正2年)2月、第11回衆議院議員総選挙で富山県郡部から選出された広瀬鎮之が選挙法違犯で辞職したことに伴い繰上補充となり、衆議院議員を1期務めた。
鷲山 恭平(わしやま きょうへい、1872年11月24日 -… 鷲山 恭平(わしやま きょうへい、1872年11月24日 - 1957年2月15日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。 嶺向報徳社社長(初代)、掛川信用組合組合長、大日本報徳社副社長、静岡県小笠郡土方村長などを歴任した。 浜松県出身の篤農家である。報徳運動や農村復興運動を推進し、嶺向報徳社の初代社長を経て、大日本報徳社の副社長となった。また、日本国内最古の信用金庫として知られる島田掛川信用金庫の源流である掛川信用組合の経営にも携わった。政治家としても活動しており、故郷である土方村で村長を務めた。 1872年11月24日、浜松県城東郡嶺向村にて生まれた。上京して東京法学院に入学し、英語法律学科にて学んだ。
竹内 友治郎(たけうち ともじろう、明治5年10月2日(18… 竹内 友治郎(たけうち ともじろう、明治5年10月2日(1872年11月2日) - 昭和11年(1936年)11月10日)は、日本の逓信官僚、農商務次官、衆議院議員(立憲政友会)。 山梨県巨摩郡百田村(現在の南アルプス市)出身。東京法学院(現在の中央大学)卒業。逓信省に入省後、高等文官試験に合格。日露戦争時に金沢郵便局長を務めていたが、当時逓信次官であった田健治郎男爵に見出され、独立第13師団(樺太出征軍)郵便部長に抜擢された。その後、樺太庁第二部長、東京逓信局長、朝鮮総督府逓信局長を歴任した。 田健治郎が第8代台湾総督に在任中、1922年(大正11年)秋に台湾行啓が内定すると、警備に万全を期すためとして、田は斎藤実朝鮮総督と交渉の上、竹内を台湾総督府警務局長に転任させた。
木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872… 木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872年8月8日) - 昭和23年(1948年)12月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 岐阜県安八郡大垣町(現在の大垣市)出身。上田甚助の長男として生まれ、木村家の婿養子となった。東京法学院(現在の中央大学)で学び、雑誌「濃州」を発刊した。のち日刊に改め、美濃新聞社、美濃大正新聞社の経営にあたった。大垣町会議員、安八郡会議員、大垣市会議員、大垣市会副議長、岐阜県会議員を歴任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。
渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4… 渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1926年(大正15年)4月9日)は、明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、俳人。佐賀県出身。本名渋川柳次郎。ほかに薮野椋十(やぶの むくじゅう)の筆名を用いる。 佐賀県杵島郡西川登村小田志(現武雄市西川登町小田志)出身。長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し、福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務。熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。
稲見 貞蔵(いなみ ていぞう、1872年(明治5年5月)- … 稲見 貞蔵(いなみ ていぞう、1872年(明治5年5月)- 没年不詳)は、三重県四日市市長。 秋田県秋田市出身。1892年(明治25年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。滋賀県属、奈良県属、内務省地方局勤務、新潟県佐渡郡長、同北蒲原郡長、新潟県勧業課長、北海道庁空知支庁長を歴任した。1916年(大正5年)に退官し、三井炭鉱庶務課長、新潟市貯蓄銀行支配人を務めた。 1918年(大正7年)、四日市市長に選出され、1期在任。退任後の1923年(大正12年)、旭川市助役に選ばれた。 その後東京市麻布区長を務めた。
小栗 盛太郎(おぐり もりたろう、1871年7月9日(明治4… 小栗 盛太郎(おぐり もりたろう、1871年7月9日(明治4年5月22日) - 1949年(昭和24年)11月12日)は、日本の会計検査院検査官。福岡県若松市長。神奈川県横須賀市長。 岐阜県出身。平民・小栗辨之右衛門の長男。1892年(明治25年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。判事、検事を務めた後、会計検査院に転じ、検査官・第二部第二課長を務めた。 後、福岡県若松市長を経て、1928年(昭和3年)3月、神奈川県横須賀市長に就任した。関東大震災の震災復旧、復興事業による赤字財政を立て直すため、経費の緊縮や海軍助成金の増額認可獲得などに奔走したが、世界恐慌の状況下でうまく事は運ばず、1930年(昭和5年)5月、病により辞任した。
山崎 林太郎(やまさき りんたろう、明治4年4月18日(18… 山崎 林太郎(やまさき りんたろう、明治4年4月18日(1871年6月5日) - 1944年(昭和19年)5月24日)は、明治時代から昭和初期の政治家。山口県下関市長などを務めた。 兵庫県出身。1893年(明治26年)に東京法学院(現在の中央大学)を卒業した後、『上毛新聞』の主筆となった。星亨の知遇を得て、星が朝鮮法部顧問となると、顧問付となった。帰国後、前橋市会議員に当選。1901年(明治34年)、星が東京市会議長に就任すると市会書記長となった。尾崎行雄市長時代には市区改正課長、庶務課長、勧業課長、臨時市区改正局主事、助役を歴任した。1909年(明治42年)から2年余りイギリスを視察。帰国後、浅草区長となり、1919年(大正8年)には東京市助役に再任され、さらに市理事を務めた。
田中 武雄(たなか たけお、1871年4月25日(明治4年3… 田中 武雄(たなか たけお、1871年4月25日(明治4年3月6日) - 1918年(大正7年)2月27日)は、日本の逓信官僚。官選青森県知事、小倉市長。 東京府出身。1896年、東京法学院を卒業。同年12月、判事検事登用第1回試験、文官高等試験行政科試験に合格。逓信省に入省し逓信属となる。 以後、逓信事務官、逓信書記官、一等郵便局長、逓信省経理局調度課長兼電信灯台用品製造所長、兼台湾総督府事務官、東京逓信経理局長などを経て、熊本逓信管理局長に就任。 1913年6月、青森県知事に就任。大凶作への対応に尽力。1914年4月に休職となる。同年に退官。1916年12月、小倉市長に就任。1918年2月、上京中に死去した。
横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈18… 横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈1871年4月10日〉- 大正4年〈1915年〉6月3日)は、富山県中新川郡魚津町(現在の魚津市)出身のジャーナリスト。号は天涯茫々生。他に有磯逸郎・無膓・夢蝶・漂天痴童・樹下石上人といった筆名を用いた。 魚津の網元の家に私生児として生まれ、すぐに左官職人の横山伝兵衛の養子となる。1881年、魚津明理小学校を卒業後、商家(醤油醸造業)に住み込み奉公をしながら独学し、1885年に富山県立富山中学校に1期生として入学する。しかし2年生の時に中退、代言人(弁護士)を目指して上京し、英吉利法律学校(現在の中央大学)に学ぶ。その後、弁護士試験を数度にわたって受験するが合格できず、各地を放浪する。
高野 金重(たかの かねしげ、1871年2月11日(明治3年… 高野 金重(たかの かねしげ、1871年2月11日(明治3年12月22日) - 1932年(昭和7年)4月4日)は、日本の政治家・衆議院議員(中正会)、弁護士。族籍は愛媛県士族。 伊予松山藩士高野金光の長男として松山湊町に生まれる。広島英語学校に英学を修め、芸備日日新聞や大阪毎日新聞に執筆した。1894年(明治27年)、上京して東京法学院(現在の中央大学)に入学して1896年(明治29年)に卒業した。1898年(明治31年)、弁護士試験に合格し、翌年に東京で事務所を開業した。一時期花井卓蔵弁護士事務所で実務を練習し刑事事件に精通したが、高野の得意とする所は民事・商事に関する事件であった。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、187… 森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、1871年1月4日(明治3年11月14日)- 1939年(昭和14年)7月13日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・広輔。 越前国今立郡稲寄村(福井県今立郡稲寄村、国高村稲寄、武生市を経て現越前市)で、豪農、先代・森広三郎の長男として生まれた。1901年(明治34年)8月、家督を相続し広三郎を襲名した。父の反対を受けながらも上京して英吉利法律学校(現中央大学)で学んだが、ついに父の意思に従い中退して帰郷した。 今立郡会議員に就任。1903年(明治36年)9月、福井県会議員に選出され、1905年(明治38年)5月まで在任し、同参事会員も務めた。
今幡 西衛(いまはた にしえ、1870年11月19日(明治3… 今幡 西衛(いまはた にしえ、1870年11月19日(明治3年10月26日)– 1952年(昭和27年)3月16日[要出典])は、高知県出身の自由民権運動家。自由党員、実業家、作家。 1870年11月19日(明治3年10月26日)、竹村九十九(つくも)の次男として高知県幡多郡中村町(現 高知県四万十市)に生まれる。のち今幡西衛(初代)の養子となり、その名を襲う。 1890年(明治23年)、自由党に入党して林有造、片岡健吉らに連れられ上京。代議士・三崎亀之助の書生となる。 1893年(明治26年)、中央大学を卒業。 竹内鉱業株式会社に入社して、北海道夕張炭鉱の取締役支配人となる。 1915年(大正4年)3月、竹内明太郎が立憲政友会の推薦を受けて、衆議院議員選挙(第12回)に立候補すると、故郷高知県に戻って選挙活動に奔走した。
跡田 直一(あとだ なおいち、明治3年10月4日(1870年… 跡田 直一(あとだ なおいち、明治3年10月4日(1870年10月28日) - 昭和10年(1935年)7月17日)は日本の実業家。 1870年10月、大分県に跡田善策の長男として生まれる。1893年法學院(現・中央大学)を卒業し、逓信省鉄道局(後に鉄道省を経て日本国有鉄道の前身となる)に入省。1910年名古屋運輸事務所長(戦後の名古屋鉄道管理局長に相当)に就任。 1912年、名古屋電気鉄道(現名古屋鉄道の前身)の経営陣に請われ、官職を辞して支配人(現在の鉄道部長に相当)に就任。以後は1920年に同社取締役、1921年の(旧)名古屋鉄道(名古屋電気鉄道の郊外線部門を分社化)発足時も、引き続き取締役兼支配人を務め、1925年には常務取締役、1933年には取締役社長(当時の社名は名岐鉄道)に就任。
武藤 嘉門(むとう かもん、旧姓・辻、1870年10月27日… 武藤 嘉門(むとう かもん、旧姓・辻、1870年10月27日(明治3年10月3日) - 1963年(昭和38年)8月11日)は日本の政治家・実業家。岐阜県知事・衆議院議員、岐阜県名誉県民。岐阜商工会議所会頭。 元衆議院議員の武藤嘉一は長男。衆議院議員を務め外務大臣、総務庁長官などを歴任した武藤嘉文は孫にあたる。曾孫は衆議院議員の武藤容治。 岐阜県山県郡千疋村(現:関市千疋)出身。辻丈助の二男。岐阜県岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て、東京法学院(現:中央大学)を中退。 その後、稲葉郡会・岐阜県会の議員をつとめる一方、家業の酒造業(『菊川』)を経営するほか、食糧営団・電力会社・地方鉄道・地方新聞(岐阜日日新聞、岐阜合同新聞)の会社などを経営して経済界の発展のために数数の業績を残した。
佐柳 藤太(さやなぎ とうた、1870年10月14日(明治3… 佐柳 藤太(さやなぎ とうた、1870年10月14日(明治3年9月20日) - 1925年(大正14年)2月24日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、熊本市長、小樽市長。 讃岐国多度郡(後に仲多度郡豊原村、現:多度津町)で生まれる。第三高等学校を経て、1892年、東京法学院(現:中央大学)を卒業。1894年、弁護士試験に合格。1895年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1896年、内務省に入り県治局属となる。 以後、新潟県内務部第一課長、山形県内務部長、福岡県事務官・内務部長などを歴任。 1912年12月、滋賀県知事に就任。1914年4月、千葉県知事に転じた。米作、教育、社会教育の振興に尽した。
松浦 五兵衛(まつうら ごへえ、1870年10月9日〈明治3… 松浦 五兵衛(まつうら ごへえ、1870年10月9日〈明治3年9月15日〉- 1931年〈昭和6年〉3月12日)は、明治から昭和初期の政治家・実業家。衆議院副議長を務めた。旧姓は栗田。 遠江国城東郡沢水加村(現在の菊川市域)で栗田文次郎の二男として生まれる。1892年(明治25年)、東京法学院を卒業。1893年(明治26年)、佐野郡西郷村五明(現在の掛川市域)の松浦家の養子となる。小笠郡会議員、静岡県会議員、同参事会員を歴任。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に静岡県郡部区から立憲政友会所属で出馬し当選。以後、第16回総選挙まで連続10回の当選を果たした。日本製糖汚職事件に連座し、1909年(明治42年)7月3日、有罪判決を受けて衆議院議員を退職。
金田 平兵衛(かねだ へいべえ、1870年10月4日(明治3… 金田 平兵衛(かねだ へいべえ、1870年10月4日(明治3年9月10日)- 1938年(昭和13年)11月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 備後国御調郡宇津戸村(広島県御調郡宇津戸村、世羅郡甲山町を経て現世羅町)出身。1893年、東京法学院卒。農業を営み、宇津戸村長、広島県議、同参事会員、同郡部会副議長、尾道穀物、尾道鉄道、尾道銀行各(株)取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において広島10区から憲政会公認でで立候補して当選した。1924年の第15回衆議院議員総選挙でも再選した。衆議院議員を2期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1938年死去。
横田 千之助(よこた せんのすけ、1870年9月17日〈明治… 横田 千之助(よこた せんのすけ、1870年9月17日〈明治3年8月22日〉- 1925年〈大正14年〉2月4日)は、日本の政治家。栃木県足利市出身。法制局長官や司法大臣を歴任し、普通選挙の実現や貴族院改革に取り組む。通称「横千」(よこせん)。立憲政友会のニューリーダーとして期待されたが急逝した。 下野国足利の織物商の次男として生まれる。実家が没落したため、織物商の丁稚奉公を経て上京し、東京法学院(現:中央大学)に通いながら新聞記者や星亨の書生を務める。1893年(明治26年)に代言人(今の弁護士)試験に合格して星の主宰する法律事務所に所属、1899年(明治32年)に独立した。翌年の立憲政友会の結党に星とともに参加、その頃より実業界にも進出して複数の企業の役員も務めた。
寺尾 規矩郎(てらお きくろう、1870年8月15日〈明治3… 寺尾 規矩郎(てらお きくろう、1870年8月15日〈明治3年7月19日〉 - 1944年〈昭和19年〉1月24日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。大蔵官僚。朝鮮総督府官僚。埼玉県川越市長。 加賀国金沢に生まれる。朝田家に生まれ、のち寺尾家の養子となる。1889年(明治22年)英吉利法律学校を卒業。衆議院属、大蔵省属、韓国総税務司、関税局税関、朝鮮総督府税関各事務官などを経て1922年(大正11年)退官する。その後、東洋拓殖嘱託、同参事、満蒙毛織常務取締役などを務めた。 1927年(昭和2年)川越市長に就任。政争に巻き込まれ市会で不信任を突きつけられるが県により取り消し命令が下る。在任中は耕地整理組合の設立、常備消防署や体育協会の設置などに尽力した。
大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3… 大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3年7月6日)- 1922年(大正11年)6月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 伊予国越智郡蔵敷村(現在の愛媛県今治市)出身。1886年(明治19年)、松山中学校を卒業。英吉利法律学校(東京法学院、現在の中央大学)で英語法学を学び、1889年(明治22年)に首席で卒業。その後も穂積陳重のもとで学んだ。1892年(明治25年)に弁護士試験に合格し、松山市に事務所を開いた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 三・一運動の際には、花井卓蔵・木尾虎之助らとともに、騒擾罪に問われた孫秉煕ら指導者の弁護にあたった。
宮館 貞一(みやだて ていいち、1870年(明治3年)7月 … 宮館 貞一(みやだて ていいち、1870年(明治3年)7月 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、朝鮮総督府官僚。青森県弘前市長。 青森県弘前市出身。東奥義塾を経て、1891年(明治24年)に東京法学院(現在の中央大学)を卒業した。1895年(明治28年)、自由新聞社に入社し、翌年に警視庁警部となり、同外事係長となった。1906年(明治39年)、統監府に転じ、理事庁警視となった。朝鮮総督府警務総監部庶務課長、朝鮮総督府事務官、群山府尹、平壌府尹、大邱府尹を歴任した。1926年(大正15年)に退官した後は、京城府の英字新聞『セウル・プレス(英語版)』の社長に就任した。 1930年(昭和5年)7月、弘前市長に選任されたが、1933年8月に病のため辞職した。
大村 貞蔵(おおむら さだぞう、明治3年(1870年)7月 … 大村 貞蔵(おおむら さだぞう、明治3年(1870年)7月 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。旧姓は勝部。島根県平民、島根県多額納税者。町会議員。平田銀行取締役。松江銀行監査役。松江銀行常務取締役。農業。 六女真佐子は坂口合名会社・代表社員会長2代目坂口平兵衛の妻。坂口合名会社・代表社員会長3代目坂口平兵衛は孫。坂口合名会社・代表社員社長坂口清太郎・山陰放送社長坂口吉平は曾孫。 島根県人・勝部仙太郎の九男。先代キチの養子となる。明治29年(1896年)家督を相続する。 松江中学、中央大学に学ぶ。農業を営む。 地方自治および産業振興に尽くした。
鎌田 三郎兵衛(かまた さぶろうべえ、1870年5月18日(… 鎌田 三郎兵衛(かまた さぶろうべえ、1870年5月18日(明治3年4月18日) - 1934年(昭和9年)10月20日)は、明治時代後期から大正時代の政治家、銀行家。衆議院議員。旧名は悦蔵。 先代鎌田三郎兵衛の長男として、但馬国養父郡口大屋村(現・養父市大屋町)に生まれる。1899年(明治32年)8月、襲名し家督を相続する。1894年(明治27年)東京法学院を卒業する。 農業を営む傍ら、口大屋村会議員、同村長、養父郡会議員、兵庫県会議員を歴任する。ほか、養父郡畜産組合長、同農会長、大屋銀行頭取、五十五銀行・西谷銀行各取締役を務めた。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で兵庫県第13区から無所属で出馬して当選し、1期務めた。
鹿又 武三郎(かのまた たけさぶろう、明治3年3月13日(1… 鹿又 武三郎(かのまた たけさぶろう、明治3年3月13日(1870年4月13日) - 1933年(昭和8年))は、仙台市長。検事。弁護士。 仙台出身。1895年(明治28年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、判事検事登用試験に合格した。1898年(明治30年)、湯沢区裁判所検事となり、奈良地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事、名古屋地方裁判所検事、富山地方裁判所検事正、名古屋控訴院検事、旭川地方裁判所検事正などを歴任した。 1919年(大正8年)、仙台市長に就任し、2期8年務めた。3期目を目指した1927年(昭和2年)8月の仙台市長選挙では、市会(市議会)投票において13票を獲得するも、15票を獲得した山口龍之助に及ばず落選した(当時の市長は公選ではなかった)。
稲村 辰次郎(いなむら たつじろう、1870年1月21日(明… 稲村 辰次郎(いなむら たつじろう、1870年1月21日(明治2年12月20日) - 1917年(大正6年)8月31日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 下総国印旛郡平岡村(千葉県印旛郡木下町、印西町を経て現印西市)で、農業・稲村巳之助の長男として生まれた。1903年、東京法学院(現・中央大学)卒。印旛郡会議員、千葉県会議員となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において千葉県郡部から無所属で立候補して当選した。のち立憲政友会に入り、1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1917年に死去した。
大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年… 大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年11月17日) - 1920年(大正9年)12月30日)は、日本の刑法学者、弁護士、政治家。元公安審査委員会委員長の大場茂行は息子。 明治から大正の日本の刑法学は、富井政章、穂積陳重らがよってたつ主観主義を前提とする新派・近代学派と、客観主義を前提とする旧派・古典学派が対立しており、当時、旧派を代表する学者であり、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子でもある宮城浩蔵は、犯罪を社会的害悪であると同時に道徳的悪であるとしてフランス新古典派がよってたつ折衷主義の立場をとっていた。 1871年のドイツ刑法典を参考にし、ドイツの近代学派が主張した新しい刑事政策的思想を取り入れた現行刑法が1907年に成立すると、新派の牧野英一は、独自の法律進化論の立場から、刑法は旧派刑法理論から新派刑法理論に進化していくものであると主張し、現行刑法の成立こそ新派の勝利の証であるとして凱歌をあげた。
高島 七郎右衛門(たかしま しちろうえもん、1869年11月… 高島 七郎右衛門(たかしま しちろうえもん、1869年11月9日(明治2年10月5日) - 1923年(大正12年)11月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。福井県多額納税者、福井新聞発起人(取締役)、越前電気取締役、越前製瓦代表、農業。旧名・多作。 福井県出身。東京法学院で学ぶ。丹生郡立待村(現在の鯖江市)会議員、同村長、福井銀行、越前電気各(株)取締役、福井県農工銀行監査役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において福井4区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1923年に現職のまま死去した。
福田 辰五郎(ふくだ たつごろう、明治2年10月1日(186… 福田 辰五郎(ふくだ たつごろう、明治2年10月1日(1869年11月4日) - 大正7年(1918年)8月5日)は、衆議院議員(維新会→新政会)、弁護士。旧姓・丸山。 武蔵国入間郡南畑村(現在の埼玉県富士見市)出身。自由民権運動活動家で埼玉県会議員・衆議院議員の福田久松の養子となる。1890年(明治23年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、翌年には東京法学院(現在の中央大学)を卒業。高等文官試験に合格して、前橋地方裁判所検事に任命された。1894年(明治27年)、横浜地方裁判所上席検事に昇進した。1898年(明治31年)、司法大臣曾禰荒助の勧めでアメリカ合衆国に留学した。アメリカではイェール大学・コロンビア大学で学び、博士号を取得した。
羽田 彦四郎(はだ ひこしろう、明治2年7月4日(1869年… 羽田 彦四郎(はだ ひこしろう、明治2年7月4日(1869年8月11日) - 昭和21年(1946年)7月16日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。弁護士。実業家。 臼杵藩士羽田角弥の二男として臼杵城下に生まれる。1892年(明治25年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。弁護士として活動し、東京弁護士会副会長に選ばれた。また実業家としても中央鉄道(のち武州鉄道)社長、米田鉱業株式会社社長、日本紙工株式会社取締役、日英石鹸株式会社監査役などを務めた。 1926年(大正15年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。
福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年… 福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年6月21日)- 1924年(大正13年)4月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、奈良県北葛城郡高田町長。 大和国葛下郡疋田村(奈良県葛下郡新庄村、北葛城郡新庄村、新庄町大字疋田を経て現葛城市疋田)で生まれた。1879年(明治12年)新庄村立小学校を卒業。田中右章から漢籍を学び、さらに五十川三武郎の塾に入った。1897年(明治30年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)で法政学を1年間学んだ。 1894年(明治27年)新庄村会議員となる。1907年(明治40年)5月、高田町会議員に選出され4期在任。同年9月、奈良県会議員に当選し、同参事会員も務めた。
東 武(あずま たけし、明治2年4月14日(1869年5月2… 東 武(あずま たけし、明治2年4月14日(1869年5月25日) - 昭和14年(1939年)9月3日)は日本の政治家、出版事業家。従四位勲二等。所属政党は立憲政友会。別名、東牧堂(あずま ぼくどう)。 大和国十津川(現・奈良県吉野郡十津川村)に東義次の長男として生まれる。東家は旧十津川郷士であった。郷校文武館(現・奈良県立十津川高等学校)を経て東京法学院(現・中央大学法学部)に在学中、1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、十津川村の住民を指導して北海道新十津川村(現在の新十津川町)への移民事業に挺身。1891年(明治24年)、自らも北海道に移住して開拓事業を推進した。森源三、五十嵐久助とともに菊亭農場の管理人となり、農場解体後は土地の譲受者となった。
村田 不二三(むらた ふじぞう、1869年5月4日〈明治2年… 村田 不二三(むらた ふじぞう、1869年5月4日〈明治2年3月23日〉 - 1957年〈昭和32年〉11月10日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。 鳥取県西伯郡淀江町(現在の鳥取県米子市)出身。村田晋の長男。父の下に専ら漢学を修め、傍ら小学校に通う。 1883年(明治16年)に上京し、二松學舍(現在の二松學舍大学)で学んだ後、獨逸協會學校(現在の獨協大学)を卒業。 神奈川県足柄上郡で役所雇及び小学校授業生をした後、1888年(明治21年)に東京法学院に入学した。1891年(明治24年)には東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、翌年に代言人試験に合格した。1893年(明治26年)、札幌で弁護士事務所を開業し、後には札幌弁護士会長に選出された。
木下 謙次郎(きのした けんじろう、明治2年2月28日(18… 木下 謙次郎(きのした けんじろう、明治2年2月28日(1869年4月9日) - 昭和22年(1947年)3月28日)は、日本の明治から昭和初期にかけての政治家。貴族院議員、衆議院議員、関東長官。美食家としても知られ、著書『美味求真』は、食通の原典として今日も名高い。 1869年(明治2年)に大分県宇佐郡安心院町木裳(現在の宇佐市)に生まれる。1892年(明治25年)東京法学院(現中央大学)卒業。政治家を志し、貴族院議員、衆議院議員として当選9回。この間、所属政党は、国民党、立憲同志会・憲政会、立憲政友会、政友本党などにめまぐるしく移り変わり、政界の策士と呼ばれた。選挙違反事件に連座したこともあったが、1927年(昭和2年)の大喪の礼に伴う恩赦で赦免された。
柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明… 柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明治2年1月14日) - 1932年8月28日)は、日本の政治家。元立憲民政党衆議院議員(6期)。台湾を中心とした植民地事業で財を成した企業家であり、32社の経営に関わった。 岩手県西磐井郡中里村(現:一関市)出身。1889年英吉利法律学校(現:中央大学)卒。山梨日々新聞主筆、東京毎日新聞編集長などを経て、大倉組台湾支店支配人、合名会社柵瀬商会を設立した。1910年の第10回衆議院議員総選挙で初当選。以来6回当選。加藤高明内閣と第1次若槻内閣で商工政務次官を務めた。
斎藤 二郎(さいとう じろう、明治元年11月10日(1868… 斎藤 二郎(さいとう じろう、明治元年11月10日(1868年12月23日) - 大正6年(1917年)7月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 片倉氏の家臣斎藤良知の二男として白石城下(現在の宮城県白石市)に生まれる。1886年(明治19年)、上京して英吉利法律学校(現在の中央大学)に入学し、1889年(明治22年)に卒業した。翌年、代言人試験に合格し、星亨の法律事務所で訴訟事務を扱った。1895年(明治28年)、星が李氏朝鮮の法律顧問官に就任すると、法部補佐官・法官養成所教授として招かれた。翌年に帰国してからは再び弁護士業務に従事し、星が駐米公使を務めている間はその事務所を預かり、のちに自らの事務所を開業した。
横山 金太郎(よこやま きんたろう、1868年12月14日〈… 横山 金太郎(よこやま きんたろう、1868年12月14日〈明治元年11月1日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月25日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(広島県第三区選出、当選9回)。文部政務次官。第16代広島市長。族籍は広島県平民。 広島県比婆郡東城村(後の東城町、現在の庄原市)で、行商人の家庭に生まれる。横山要平の長男。3歳の時に父・要平が死去する。家督を相続する。 役場の書記をつとめる。1886年(明治19年)、代言人・渡邊又三郎を頼って家出、渡邊は「見処がある」と直覚して世話することにしたという。 横山は玄関番・書生となり広島法律学校に入り、1890年(明治23年)3月に同校を卒業、同年4月に東京法学院(現在の中央大学)3年級に編入。
岡田 泰蔵(おかだ たいぞう、明治元年10月16日(1868… 岡田 泰蔵(おかだ たいぞう、明治元年10月16日(1868年11月29日) - 昭和28年(1953年)8月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。妻由衛の父・義父は京都府多額納税者、第一期及び第二期貴族院多額納税者議員互選人、衆議院議員、郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)初代社長羽室嘉右衛門。義叔父は郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)第2代社長波多野鶴吉。同じく義叔父に比叡山鉄道株式会社初代社長、愛宕山鉄道取締役で京都法政学校(現・立命館大学)設立評議員・理事の羽室亀太郎。義叔母の羽室亀太郎の妻ゆうは、衆議院議員河原林義雄の妹。義弟は郡是製絲株式会社第4代社長、参議院議員波多野林一。
卜部 喜太郎(うらべ きたろう、1868年11月25日〈明治… 卜部 喜太郎(うらべ きたろう、1868年11月25日〈明治元年10月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉11月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(埼玉県郡部選出、当選1回、立憲国民党)。中央大学理事。東京弁護士会会長、東京弁護士会常議員会議長などを歴任。族籍は埼玉県平民。 1868年(明治元年)、武蔵国児玉郡沼和田村(埼玉県児玉郡旭村を経て現本庄市沼和田)に生まれた。卜部喜平の長男で、先代キンの養子である。幼くして怜悧であり、よく物の理義を悟った。児玉中学校を卒業した。18歳の時埼玉県師範学校に於いて小学校教員試験に応じて及第し、埼玉県小学校訓導に任ぜられ本庄小学校に在勤した。 1887年(明治20年)、家督を相続した。
上松 泰造(うえまつ たいぞう、1868年11月1日(明治元… 上松 泰造(うえまつ たいぞう、1868年11月1日(明治元年9月17日) - 1949年(昭和24年)8月2日)は、明治から昭和時代前期の大地主、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 関谷與藤治の二男、関谷醇三の弟としてのちの岐阜県に生まれ先代上松治郎一の養子となり1905年(明治38年)1月、家督を相続する。岐阜県師範学校を経て、東京法学院を卒業する。農業を営む傍ら、濃飛農工銀行、岐阜貯蓄銀行、第十六銀行各取締役、鏡島銀行頭取、岐阜不動産、岐阜信託各取締役、岐阜県農会長、稲葉郡農会副会長などを歴任した。 1915年(大正4年)岐阜県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月2日から1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
杉坂 実(すぎさか みのる、慶応4年8月1日(1868年9月… 杉坂 実(すぎさか みのる、慶応4年8月1日(1868年9月16日) - 没年不詳)は、日本の裁判官。 伊勢国飯高郡粥見村(現在の三重県松阪市)出身。1891年(明治24年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1893年(明治26年)、判事検事登用試験に合格し、司法官試補となる。高知区裁判所検事、大阪区裁判所判事、大阪控訴院判事、京都地方裁判所判事、大阪地方裁判所部長、宮城控訴院検事、岐阜地方裁判所検事正、富山地方裁判所所長、前橋地方裁判所所長、新潟地方裁判所所長を歴任した。 その後、台湾総督府法院に転じ、高等法院長を務めた。
黒須 竜太郎(くろす りゅうたろう、慶応4年6月28日(18… 黒須 竜太郎(くろす りゅうたろう、慶応4年6月28日(1868年8月16日) – 昭和26年(1951年)8月10日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)、弁護士。 武蔵国足立郡瓦葺村(現在の埼玉県上尾市)出身。1886年(明治19年)、埼玉県師範学校を卒業し、小学校の校長となった。小学校を辞して東京に出て、1888年(明治21年)から英吉利法律学校(現在の中央大学)と東京英語学校に学んだが、在学中の1891年(明治24年)に弁護士試験に合格し、東京で開業した。1902年(明治35年)、東京弁護士会副会長に選任。 1903年(明治36年)、芝区会議員に選出され、後に区会議長となった。
花井 卓蔵(はない たくぞう、1868年7月31日〈慶応4年… 花井 卓蔵(はない たくぞう、1868年7月31日〈慶応4年6月12日〉- 1931年〈昭和6年〉12月3日)は、明治・大正に活躍した弁護士・政治家。第3代検事総長・中央大学教授を務めた花井忠の岳父。 1868年(慶応4年)、備後国御調郡三原町(現:広島県三原市)に士族・立原四郎右衛門の四男として生まれ、その後、分家により花井姓を名乗った。幼年期から神童と謳われ、10歳の時に進学のため上京するが、経済的に困窮し3年後に帰郷し、広島市の修道学校(現:修道中学校・高等学校)で学ぶ。その後、小学校の代用教員として勤務する傍ら、長谷川桜南の門下生となり、高楠順次郎らと桜南舎で学ぶ。その後3年間ほど教員を務めるが、高楠とともに自由民権運動に参加し、これが原因で教員を免職される。
井上 剛一(いのうえ ごういち、1868年5月4日(慶応4年… 井上 剛一(いのうえ ごういち、1868年5月4日(慶応4年4月12日) - 1946年(昭和21年)5月12日)は、日本の弁護士・政治家で憲政会→立憲民政党所属の衆議院議員。 紀伊国伊都郡学文路村(現・和歌山県橋本市)に、水木重左衛門の二男に生まれ、井上又左衛門の養子となった。和歌山県師範学校を卒業した後、1887年(明治20年)より英吉利法律学校(現・中央大学)で法学を学び、1889年(明治22年)に代言人試験に合格した。浜松代言人組合に所属し、後には静岡弁護士会長や日本弁護士協会名誉理事に選ばれた。 浜松市会議員、静岡県会議員を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
渡邊 龍夫(わたなべ たつお、1868年3月7日〈慶応4年2… 渡邊 龍夫(わたなべ たつお、1868年3月7日〈慶応4年2月14日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月28日)は、明治後期から大正にかけて活動した愛知県名古屋市の政治家・実業家である。政界では名古屋市会議員や愛知県会議員、実業界では大手電力会社大同電力の取締役などを務めた。 慶応4年2月14日(明治元年、新暦:1868年3月7日)、愛知県士族・渡邊永豊の長男として生まれた。1893年(明治26年)に家を継ぐ。学業は中央大学を卒業した。 役員録や人名録によると、1900年(明治33年)時点では大阪生命保険株式会社名古屋出張所長、1908年(明治41年)時点ではガラス商、1913年(大正2年)時点では木材防腐剤商として働いていたとある。