江尻 宏一郎(えじり こういちろう 1920年9月1日 - … 江尻 宏一郎(えじり こういちろう 1920年9月1日 - 2015年4月21日)は、日本の実業家。三井物産第6代社長。神奈川県横浜市生まれ。位階は従三位。 父は三井物産勤務の商社マンだった。東京府立一中卒業後、柔道の力量を見込まれ第六高等学校に入学した。六高を経て、東京帝国大学法学部入学。中学時代から柔道部に所属し、六高、東大と通じてキャプテンを務めた。六高柔道部先輩に永野重雄、同部同期に亀長友義(参議院議員、農林事務次官)らがいた。同じクラスの石井多加三(国際電電社長、郵政事務次官)とは親友だった。1943年(昭和18年)9月、戦時中の折、東京帝大法学部を繰り上げ卒業し、父と同様三井物産入社。
阿部 喜夫(あべ よしお、1920年8月17日 - 没年不明… 阿部 喜夫(あべ よしお、1920年8月17日 - 没年不明)は、日本の経営者。群馬県出身。 1943年に東京帝国大学農学部農経科を卒業し、同年4月に日本勧業銀行に入行。1970年5月に取締役に就任し、1974年11月に第一勧業銀行常務、1979年6月に専務、1982年6月に副社長を経て、1983年6月にはオリエントファイナンス社長に就任した。1991年6月には会長も兼任し、1993年6月には会長に専任。
中村 大造(なかむら たいぞう、1920年(大正9年)7月2… 中村 大造(なかむら たいぞう、1920年(大正9年)7月25日 - 1987年(昭和62年)5月6日)は、日本の官僚、実業家。元運輸事務次官・全日本空輸社長。三重県桑名市出身。
佐藤 恕(さとう ひろし、1920年7月6日 - 2001年… 佐藤 恕(さとう ひろし、1920年7月6日 - 2001年2月26日)は、日本の実業家。東京近鉄百貨店社長、京都近鉄百貨店社長・取締役相談役などを歴任した。 兵庫県神戸市東灘区出身。 1943年(昭和18年)9月、東京帝国大学経済学部を卒業した後、兵役に出た。復員後、1945年(昭和20年)11月に近畿日本鉄道へ入社。同社百貨店部に勤め、1969年(昭和44年)5月に近鉄百貨店上本町店の店長になった。1972年(昭和47年)の百貨店部の分離独立に当たって取締役に就任し、2年後には常務取締役に就いた。1976年(昭和51年)、東京都武蔵野市吉祥寺に三越と共同出資で「東京近鉄百貨店」の出店が決まり、佐藤は社長として、店長の髙田多喜男と共に店の立ち上げに奔走した。
北嶋 千代吉(きたじま ちよきち、1920年6月18日 - … 北嶋 千代吉(きたじま ちよきち、1920年6月18日 - 2003年5月16日)は、日本の経営者。秋田県出身。 1942年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に日本軽金属に入社。1973年11月に取締役に就任し、1976年6月に常務、1977年6月に専務を経て、1979年1月に副社長に就任し、同年6月には社長に昇格。1987年6月には相談役に就任。 2003年5月16日肺炎のために死去。82歳没。
坂野 常和(さかの つねかず1920年6月14日 - 201… 坂野 常和(さかの つねかず1920年6月14日 - 2011年7月10日)は、日本の実業家。元日本化薬社長。元大蔵省証券局長。父は坂野常善(海軍中将)、叔父は坂野鉄次郎(逓信官僚)、岳父は原安三郎(日本化薬社長・会長)。
渋沢 正一(しぶさわ まさかず、1920年5月17日 - 1… 渋沢 正一(しぶさわ まさかず、1920年5月17日 - 1981年12月8日)は、日本の実業家。渋沢栄一の孫。アジア経済研究所理事長(1958年 - 1967年)、海外技術協力事業団(1967年 - 1970年)、渋沢事務所社長(1970年 - 1981年)を務めた[要出典]。 東京帝国大学農学部を卒業。 父は渋沢栄一の三男の渋沢正雄。母は池田鄰子。従兄弟に渋沢敬三(子爵)と渋沢信雄。従兄弟違(従兄・敬三の長男)に渋沢雅英。 妻・和子は植村甲午郎の娘。子供に渋沢寿一がいる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
坪内 正勝(つぼうち まさかつ、1920年5月1日 - 没年… 坪内 正勝(つぼうち まさかつ、1920年5月1日 - 没年不明)は、日本の経営者。富士紡績社長、会長を務めた。静岡県出身。 1945年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、1946年1月に富士紡績に入社。1968年6月に取締役に就任し、1971年12月に常務、1977年7月に専務を経て、1980年7月に社長に就任。1984年7月に会長に就任。 1990年11月に勲三等瑞宝章を受章。
藤沼 基利(ふじぬま もととし、1920年4月30日 - 1… 藤沼 基利(ふじぬま もととし、1920年4月30日 - 1984年11月20日)は、日本の実業家。積水化学工業株式会社代表取締役社長。 父・不二男、母・ミキの長男として東京日本橋で出生。不二男は院展系の日本画家。大森第二小学校、芝中学校を経て、1939年(昭和14年)旧制浦和高等学校文科甲類に入学。1944年(昭和19年)東京帝国大学経済学部経済学科卒業。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年(昭和19年)2月、海軍経理学校に入校。同年9月、経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。終戦を迎え、1945年(昭和20年)9月、主計中尉に進み予備役に編入された。 1953年(昭和28年)積水化学工業株式会社に入社。
鈴木 正長(すずき まさなが、1920年 <大正9年> 3月… 鈴木 正長(すずき まさなが、1920年 <大正9年> 3月26日 - 1988年 <昭和63年> 3月5日)は、日本の経営者。日本水産社長、会長を務めた。神奈川県出身。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 1946年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本水産に入社。 1966年に取締役に就任し、1970年5月に常務を経て、1973年5月に副社長に就任し、同年11月には社長に昇格。1975年12月から1978年6月までに会長を務め、1981年には小田原信用金庫理事長に就任。 1978年4月に藍綬褒章を受章。。 1988年3月5日胃癌のために死去。67歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲二等瑞宝章を追贈された。
吉田 茂夫(よしだ しげお、1920年3月13日 - 200… 吉田 茂夫(よしだ しげお、1920年3月13日 - 2009年2月23日)は、日本の経営者。京都府福知山市出身。 1943年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄)に入社。1961年1月に阪急国際交通社(のちの阪急交通社)に転じ、1969年5月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1980年5月に専務を経て、1985年6月に社長に就任。1991年6月に会長に就任し、1994年6月から1年間相談役を務めた 2009年2月23日に死去。88歳没。
須田 孝(すだ たかし、1920年2月23日 - 1980年… 須田 孝(すだ たかし、1920年2月23日 - 1980年11月20日)は、日本の経営者。三菱信託銀行社長を務めた。兵庫県出身。 1941年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、1942年に三菱信託銀行に入行。1970年11月に取締役に就任し、1972年10月に常務、1976年7月に専務を経て、1978年9月には社長に就任。 1980年11月20日に肝不全のために死去。60歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
八木 靖浩(やぎ やすひろ、1920年2月15日 - 199… 八木 靖浩(やぎ やすひろ、1920年2月15日 - 1995年2月15日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。 京都府船井郡八木町出身。1943年に東京帝国大学第一工学部冶金学科を卒業し、同年に川崎重工業に入社した。1950年に川崎製鉄に移り、1971年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1979年に副社長に就任し、1982年に社長に昇格した。1990年に会長に就任し、1993年に取締役相談役に就任し、1995年に相談役に就任した。 1982年に藍綬褒章を受章し、1986年に毎日工業技術賞を受賞した。 1995年2月15日呼吸不全のために死去。75歳没。
中山 了(なかやま さとる、1920年2月10日 - 200… 中山 了(なかやま さとる、1920年2月10日 - 2002年12月27日)は、日本の経営者。産業経済新聞社専務、名古屋タイムズ社長を経て中日新聞社専務、中日ドラゴンズ社長などを務めた。 高知県出身。1942年(昭和17年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1948年(昭和23年)に産業経済新聞社に入社する。1964年(昭和39年)12月に大阪本社編集局長に就任し、その後、取締役、本社編集局長、常務、専務などを歴任し、1974年(昭和49年)2月をもって退任。 名古屋タイムズ社長、名古屋タイムズ印刷社長を経て、1975年(昭和50年)5月に中日新聞社取締役に就任し、常務、専務などを務めた。
金 重泰(キム・ジュンテ、朝鮮語: 김중태、1920年2月9… 金 重泰(キム・ジュンテ、朝鮮語: 김중태、1920年2月9日 - 1990年11月27日)は、大韓民国の官僚、実業家、政治家。第8代韓国国会議員。 本貫は金寧金氏(朝鮮語版)。号は南洲。 日本統治時代の慶尚南道晋州郡(現・晋州市)出身。1945年東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治学科卒。米軍政庁中央経済委員会事務長補・事務長、朝一産業社長、民主共和党麗水麗川地区党事務局長・全羅南道支部組織部長・事務局長、水産業協同組合(朝鮮語版)中央会常任監事・常任理事、民主共和党麗川地区党委員長を経て、第8代国会議員を務めた。議員退任後は麗水で事業を行った。 1990年11月27日、ソウル市麻浦区の自宅アパートにて持病により死去。
竹下 一記(たけした かずき、1920年 <大正9年> 1月… 竹下 一記(たけした かずき、1920年 <大正9年> 1月19日 - 2003年 <平成15年> 12月22日)は、日本の郵政官僚、経営者。郵政事務次官、熊本県民テレビ社長を歴任。位階は従三位。 熊本県出身。1941年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に高文行政科にも合格し、逓信省に入省。1962年5月に広島郵便局長、1964年6月に東京郵便局長、1966年7月に大臣官房長、1967年7月に簡易郵便局長、1969年11月に郵務局長を経て、1971年7月から1973年7月までに郵政事務次官を務めた。 1974年4月に簡易保険福祉事業団理事長を経て、1981年11月から1995年5月までに熊本県民テレビ社長を務めた。
森嶋 東三(もりしま とうぞう、1920年1月8日 - 19… 森嶋 東三(もりしま とうぞう、1920年1月8日 - 1984年6月7日)は、日本の経営者、銀行家。東ソー社長を務めた。山梨県出身。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1942年に日本興業銀行に入行。1962年5月に取締役に就任し、1972年11月に常務を経て、1975年5月に副頭取に就任。1978年6月に東洋曹達工業(現在の東ソー)顧問と副社長に就任し、1979年6月には社長に昇格。 1984年6月7日胆管癌のために死去。64歳没。
舘 豊夫(たて とよお、1920年(大正9年)1月3日 - … 舘 豊夫(たて とよお、1920年(大正9年)1月3日 - 1998年(平成10年)4月9日)は、日本の実業家。三菱自動車工業社長。 大日本炭鉱の専務を務めた舘香緑・すえ夫妻の四男として、東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区平河町)に生まれる。舘家は、旧伊勢国桑名藩士の家柄で、陸地測量師の館潔彦は祖父。 旧制東京高校、東京帝国大学経済学部を卒業後、1942年に三菱重工業に入社。三菱商事への出向時代には造船の営業を担当。 1970年6月、三菱重工と米・クライスラーとの合弁で発足する三菱自動車工業に移籍。1977年、取締役に選任され、常務を歴任後、1983年に社長となる。トップ時代には1988年に三菱自動車を東証1部に上場させ、「三菱自動車中興の祖」と呼ばれる。
福田 敏南(ふくだ としなみ、1920年 - 没年不詳)は、… 福田 敏南(ふくだ としなみ、1920年 - 没年不詳)は、日本の学校経営者、学校法人福田学園(現・学校法人純真学園)理事長を長く務め、東和大学学長、純真女子短期大学学長なども歴任した。 父親は裁判官で、兄福田喜東と長姉福田昌子は後にそれぞれ衆議院議員となった。 1938年福岡県中学修猷館、1942年第一高等学校文科丙類を経て、東京帝国大学法学部在学中に満州へ出征して3年間のシベリア抑留を経験し、復員後は官僚となり、商工省(後の通商産業省)に入省した。1972年から1974年にかけて勤めた福岡通産局長を最後に通産省を退職し、1976年1月28日付で学校法人福田学園(現・学校法人純真学園)理事長および純真女子短期大学第二代学長となって、同年の第34回衆議院議員総選挙に福岡県第1区から出馬したが、落選した。
渡辺 健三(わたなべ けんぞう、1919年11月15日 - … 渡辺 健三(わたなべ けんぞう、1919年11月15日 - 2011年3月5日)は、日本の経営者、銀行家。北越銀行頭取を務めた。 新潟県出身。1943年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年10月に横浜正金銀行に入行した。1946年3月に長岡中学校に奉職し、1949年8月に北越銀行に転じ、1968年11月に取締役に就任し、1970年5月に常務、1976年10月に専務を経て、1981年6月には頭取に就任。1987年6月に会長、1993年6月に取締役相談役を経て、1995年6月には相談役に就任。 1986年11月に藍綬褒章を受章し、1991年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 2011年3月5日、心不全のために死去。
岸本 泰延(きしもと やすのぶ、1919年9月23日 - 2… 岸本 泰延(きしもと やすのぶ、1919年9月23日 - 2012年10月17日)は、日本の経営者。昭和電工社長、会長を務めた。 岡山県岡山市出身。1941年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、翌年に昭和電工に入社した。1967年2月に取締役に就任し、同年8月に常務、1973年2月に専務を経て、1979年7月に副社長に就任し、1981年3月には社長に昇格した。1987年3月に会長に就任し、1995年3月から相談役を務めた。 2012年10月17日、転移性肺がんのために死去。93歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
溝呂木 繁(みぞろぎ しげる、1919年 <大正8年> 9月… 溝呂木 繁(みぞろぎ しげる、1919年 <大正8年> 9月20日 - 2016年 <平成28年> 11月19日)は、日本の経営者。日本衛星放送社長、会長を務めた。位階は正四位。 神奈川県出身。1942年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に逓信省に入省。大臣官房長、1969年11月に経理局長、1971年7月に郵政局長、1973年7月から1975年7月までに郵政事務次官を務めた。1977年11月には田村電機製作所社長に就任し、1984年6月に会長を経て、1984年12月から1988年6月までに日本衛星放送社長を務めた。 1989年11月に勲二等旭日重光章を受章した。2016年死去。死没日付をもって従七位から正四位に進階した。
村上七郎(むらかみ しちろう、1919年〈大正8年〉9月14… 村上七郎(むらかみ しちろう、1919年〈大正8年〉9月14日 - 2007年〈平成19年〉9月18日)は、日本の実業家。テレビ新広島副社長、フジテレビジョン専務取締役、関西テレビ放送社長、日本民間放送連盟副会長などを務めた。 陸軍大将を務めた菅野尚一・ハルの七男に生まれる。東京で誕生後、山口県に転居(一部のプロフィールには山口県出身と明記)。末子であるため、学生時代に村上水軍の末裔である母方の血筋を継ぎ、村上健三の養子となる。第22代因島村上家当主。 第一高等学校を経て、1947年東京大学法学部卒業後、共同通信社に入社。社会部記者として出発し、同期にはのちにTBSニュースキャスターを経て参議院議員となる田英夫がいた。
木下 浩次(きのした ひろじ、1919年8月7日 - 200… 木下 浩次(きのした ひろじ、1919年8月7日 - 2006年4月12日)は、日本の経営者。大同特殊鋼社長、会長を務めた。熊本県出身。 1943年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本製鐵に入社。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 その後、日本製鐵に復帰、1975年5月に取締役に就任し、1979年6月に常務、1982年6月に専務を経て、1982年9月に大同特殊鋼副社長に就任し、1986年5月には社長に昇格。1988年5月に会長に就任し、1992年6月に相談役に就任。
渥美 健夫(あつみ たけお 1919年(大正8年)7月24日… 渥美 健夫(あつみ たけお 1919年(大正8年)7月24日 - 1993年(平成5年)10月14日)は、日本の実業家、官僚。鹿島建設(鹿島)名誉会長。 大阪商船取締役・渥美育郎の長男として東京に生まれる。 東京府立一中、旧制浦和高校を経て、1943年(昭和18年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、商工省入省。鹿島守之助の長女・伊都子と結婚する。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年(昭和18年)9月、海軍経理学校に入学。1944年(昭和19年)3月に卒業し、海軍主計中尉に任官。呉経理部に配属。1945年(昭和20年)3月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1945年10月に商工省に復職。
津田 鉄夫(つだ てつお、1919年7月19日 - 1990… 津田 鉄夫(つだ てつお、1919年7月19日 - 1990年11月24日)は、日本の経営者。中山製鋼所社長、会長を務めた。岡山県出身。 1942年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に八幡製鉄に入社。1973年5月に新日本製鐵取締役に就任し、1975年6月に中山製鋼所副社長を経て、1976年6月には社長に就任。1983年3月には会長に就任。 1990年11月24日急性肺炎のために死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
檪木 茂男(いちき しげお、1919年7月13日 - 201… 檪木 茂男(いちき しげお、1919年7月13日 - 2010年11月25日)は、日本の経営者。バンドー化学社長を務めた。山口県出身。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1942年1月に日本興業銀行に入行。 1971年1月にトリオ商事副社長、1976年6月にバンドー化学副社長を経て、1977年6月には社長を就任。1988年6月に会長、1992年6月に取締役相談役を経て、1994年6月には相談役に就任。 1993年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2010年11月25日肺炎のために死去。91歳没。
箱根 宏(はこね ひろし、1919年(大正8年)7月5日 -… 箱根 宏(はこね ひろし、1919年(大正8年)7月5日 - 1987年(昭和62年)10月6日)は、日本の政治家、実業家。第11・14・15代土浦市長。 茨城県出身。1941年(昭和16年)旧制水戸高校を卒業。1944年(昭和19年)東京帝国大学経済学部卒業し、軍需省に入り総動員局秘書課勤務となる。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。同年9月、海軍経理学校に入学し1945年(昭和20年)に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して解員(復員)した。 戦後の1950年(昭和25年)土浦土木建築工業代表取締役となり、1966年(昭和41年)には社長となる。この間、土浦一高、三高の講師も務めた。 1971年(昭和46年)土浦市長に初当選。
吉國 二郎(よしくに じろう、1919年6月11日 - 19… 吉國 二郎(よしくに じろう、1919年6月11日 - 1997年9月5日)は、日本の大蔵官僚、実業家。位階は従三位。国税庁長官(第11代)、大蔵事務次官、横浜銀行頭取を務めた。 神奈川県出身。旧制東京高等学校を経て1941年11月、東京帝国大学法学部法律学科卒業後、大蔵省に入省(預金部兼大臣官房文書課)。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年6月、海軍省調査課勤務となる。同年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年9月に予備役に編入された。 1945年10月に下京税務署長。主税局税制第二課長、理財局証券第二課長、理財局証券第一課長、主税局総務課長、主税局総務課長兼主税局国際租税課長、主税局総務課長、大臣官房文書課長、大臣官房財務調査官(主税局担当)、東京国税局長などを経て、1967年8月に証券局長、同年11月に主税局長、1969年より国税庁長官に就任。
梅本 純正(うめもと よしまさ、1919年〈大正8年〉5月2… 梅本 純正(うめもと よしまさ、1919年〈大正8年〉5月27日 - 2015年〈平成27年〉12月28日)は、日本の厚生官僚・実業家。 社会保険庁長官、厚生事務次官、環境事務次官、内閣官房副長官、武田薬品工業社長などを務めた。 大阪府大阪市出身。浪速高等学校を卒業。1942年7月、高等試験行政科試験に合格。同年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。厚生省に入省し、生活局属となる。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。第九五八海軍航空隊に配属されラバウルに赴任。1944年5月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 以後、児童局企画課長、内閣官房総務課長(首席参事官)、援護局長、大臣官房長、保険局長、社会保険庁長官、厚生事務次官などを歴任。
高妻 安幸(こうづま やすゆき、1919年5月5日 - 19… 高妻 安幸(こうづま やすゆき、1919年5月5日 - 1981年1月30日)は、日本の経営者。ダイハツ自動車販売社長を務めた。宮崎県出身。 1943年に東京帝国大学法学部を卒業し、1946年11月にトヨタ自動車工業に入社。1950年7月にトヨタ自動車販売に転じ、1966年11月に取締役に就任し、1975年6月に参与、1975年9月にダイハツ自動車販売取締役を経て、同年9月にダイハツ自動車販売副社長に就任し、1976年9月には社長に昇格。 1981年1月30日心不全のために死去。61歳没。
内田 隆滋(うちだ たかしげ、1919年(大正8年)3月20… 内田 隆滋(うちだ たかしげ、1919年(大正8年)3月20日 - 2016年(平成28年)7月29日)は、昭和から平成時代の土木工学者、鉄道官僚、実業家。位階は従四位。東武鉄道社長。 1943年(昭和18年)東京帝国大学工学部土木工学科卒業、海軍技術将校として教育に当たる。戦後、鉄道省に入省し、施設局附となる。1963年(昭和38年)建設局計画課長、1968年(昭和43年)幹線調査室長、1970年(昭和45年)建設局長、1972年(昭和47年)常務理事を経て、1975年(昭和50年)退官。民間に転じ、1976年(昭和51年)東武鉄道常務、専務を経て、1983年(昭和58年)日本鉄道建設公団総裁となる。
影山 衛司(かげやま えいじ、1919年 <大正8年> 2月… 影山 衛司(かげやま えいじ、1919年 <大正8年> 2月17日 - 1998年 <平成10年> 11月20日)は、日本の官僚、経営者。商工組合中央金庫理事長を務めた。位階は正四位。 広島県出身。第六高等学校を卒業。1939年10月、高等試験行政科試験に合格。1940年に東京帝国大学法学部を卒業。同年、商工省に入省し燃料局属に任官。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進し、第101海軍燃料廠セラム支廠勤務で終戦を迎えた。 戦後、商工省、通商産業省での勤務を経て、1966年4月から1967年9月までに中小企業庁長官を務めた。
吉村 眞一(よしむら しんいち、1919年2月12日 - 1… 吉村 眞一(よしむら しんいち、1919年2月12日 - 1996年9月7日)は、日本の経営者、銀行家。四国銀行頭取を務めた。 高知県出身。1940年に高文行政科に合格し、1941年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。大蔵省での勤務を経て、1968年5月に四国銀行に転じ、副頭取に就任し、1971年8月には頭取に昇格した。1985年6月に会長を経て、1987年8月に再び頭取に就任し、1988年6月には会長に退いた。 1989年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1996年9月7日、胃癌のために死去。77歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
三好 基之(みよし もとゆき、1918年(大正7年)11月6… 三好 基之(みよし もとゆき、1918年(大正7年)11月6日 - 1989年(平成元年)12月30日)は、日本の実業家。産経新聞社副社長、西友ストア社長、三島製紙社長。 政治家三好英之の長男として鳥取県米子市道笑町に生まれる。1941年東京帝国大学法学部卒。 戦後、経済同友会に勤務していた時に国策パルプ工業社長の水野成夫に認められ、1950年同社に入社。1958年総務部副部長。 1958年、水野が産経新聞社再建の社長として乗り込むと、三好もそれに従い、取締役として産経入りした。その後、常務、専務、副社長と昇進を果たす。水野が産経新聞を退陣する際、三好も行動を共にして退社する決意を固める。その機会を捉えて、西武百貨店の経営陣補強のため堤清二が水野に三好の貰い受けを打診し、水野は快諾。
岡部 実(おかべ みのる、1918年10月23日 - 201… 岡部 実(おかべ みのる、1918年10月23日 - 2011年6月15日)は、日本の経営者。日本原子力発電社長、会長を務めた。 東京都出身。1941年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に日本発送電に入社した。1951年6月に東京電力に転じ、1975年5月に取締役に就任し、1977年6月に常務を経て、1981年6月に日本原子力発電社長に就任。1992年6月に会長、1995年6月に取締役相談役、1997年6月に常任相談役を経て、2001年6月に顧問に就任。 1986年4月に藍綬褒章を受章し、1993年4月に勲二等旭日重光章を受章。 2011年6月15日、脳梗塞のために死去。92歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
服部 正也(はっとり まさや、1918年10月13日 - 1… 服部 正也(はっとり まさや、1918年10月13日 - 1999年11月29日)は、日本の銀行家、実業家。日本人初の世界銀行副総裁。 服部岱三・芳枝夫妻の長男として1918年(大正7年)三重県三重郡三重村(現:四日市市)に生まれる。幼少時は父の海外転勤に従いロンドンで7年間、上海で3年間を過ごした。長崎県の旧制大村中学校、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業。卒業後台湾銀行に入行したがすぐ海軍予備学生となり、海軍大尉としてラバウルで終戦を迎え、そのまま現地で日本人戦犯の弁護人も務めた。 47年復員後日本銀行に入行。1950年フルブライト基金によりミネソタ大学大学院にて留学し財政、金融を学ぶ。
島津 久厚(しまづ ひさあつ、大正7年(1918年)10月8… 島津 久厚(しまづ ひさあつ、大正7年(1918年)10月8日 - 平成26年(2014年)8月2日)は、日本の実業家。第23代学習院院長、丸十産業社長、島津茶園会長、島津山林会長。都城島津氏28代当主。宮崎県都城市出身。位階は正五位。 戦前における爵位は男爵。その他、栄典として紺綬褒章、藍綬褒章、旭日重光章受章。宮崎県公安委員会委員長、日本赤十字社理事などの公職を歴任した。宗派は神道 始祖・資忠は島津氏4代当主忠宗の六男にあたる。代々日向都城3万9千6百余石を領する。明治24年(1891年)12月、特旨を以って華族に列し男爵を授けられた。 男爵島津久家の長男として生まれる。学習院高等科、東京帝国大学農学部卒業。
関根 長三郎(せきね ちょうざぶろう、1918年(大正7年)… 関根 長三郎(せきね ちょうざぶろう、1918年(大正7年)8月25日 - 2000年9月9日)は、日本の実業家。元よみうりランド代表取締役社長。祖父は政治家、実業家の小坂善之助。妻は正力松太郎の次女。 埼玉出身。大正7年(1918年)に関根善作(日本銀行行員、後に第百銀行頭取、合併により三菱銀行副頭取を歴任)と国(小坂善之助三女)の間に三男として生まれる。祖父の小坂善之助は衆議院議員を歴任した政治家であったが、信濃銀行を創業し、信濃毎日新聞社の経営基盤を確立するなど、実業家としても影響力を持っていた。長三郎の叔父で小坂善之助の長男の小坂順造は、父の関根善作と明治37年(1904年)に日本銀行に入社した同期であり、明治40年(1908年)に信濃銀行へ取締役として移籍し、安田銀行への合併処理の後に、信濃毎日新聞社長、衆議院議員を歴任していた。
西脇 教二郎(にしわき きょうじろう、1918年8月15日 … 西脇 教二郎(にしわき きょうじろう、1918年8月15日 - 没年不明)は、日本の経営者。太陽生命保険社長を務めた。東京都出身。 1941年に東京帝国大学経済学部を卒業。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年(昭和17年)1月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年5月、経理学校を卒業。1943年(昭和18年)11月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1962年5月に太陽生命保険に入社。1967年5月に取締役に就任し、1970年5月に常務、1971年5月に専務、1972年5月に副社長を経て、1978年4月に社長に就任。1990年7月に取締役相談役に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章。
河毛 二郎(かわけ じろう、1918年8月2日 - 2004… 河毛 二郎(かわけ じろう、1918年8月2日 - 2004年5月24日)は、日本の経営者。王子製紙社長、会長を務めた。 石川県出身。幼くして父を亡くし、母とともに祖父のもとで育つ。旧制四高を経て1941年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に王子製紙に入社。 1968年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1976年6月に専務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1982年12月には社長に昇格。1989年6月に会長に就任し、1993年10月に名誉会長を経て、1995年6月から相談役を務めた。 1990年から1995年までに日本経営者団体連盟副会長を務めた 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲一等瑞宝章を受章。
九鬼 喜久男(くき きくお、1918年(大正7年)7月31日… 九鬼 喜久男(くき きくお、1918年(大正7年)7月31日 - 2005年(平成17年)10月31日)は、日本の実業家、政治家。第12代四日市市長(1966年(昭和41年)1月22日 - 1972年(昭和47年)11月18日)。九鬼産業グループの経営者。三重県松阪市飯高町(当時の飯南郡波瀬村)の出身、四日市九鬼家の婿養子で、旧姓は田中。四日市公害(四日市ぜんそく)裁判の引き金を引いた政治家である。 飯南郡波瀬村の旧家(大山林地主)田中家で田中彦左衛門の二男として誕生する。婿養子として結婚する前の姓名は田中喜久男であった。三重県知事(1955年 - 1972年)を務めた田中覚とは同族で、遠戚関係にあった。
吉野 照蔵(吉野 照藏、よしの てるぞう、1918年〈大正7… 吉野 照蔵(吉野 照藏、よしの てるぞう、1918年〈大正7年〉7月19日 - )は、日本の経営者。清水建設9代目社長。 群馬県佐波郡境町(現・伊勢崎市)出身。旧制群馬県立太田中学校、旧制水戸高等学校、東京帝国大学工学部建築学科卒業。 1942年(昭和17年)、株式会社清水組(現・清水建設)に入社。 戦時中はセレベス島(現・スラウェシ島)のケンダリで第753海軍航空隊として勤務し、後に海上保安庁長官となる栃内一彦は上官であった。 1970年(昭和45年)、清水建設取締役に就任。 1981年(昭和56年)6月に清水建設社長に就任。 在任中は前社長野地紀一の積極経営路線を継承し、TQCを基盤とするEC(エンジニアリング・コンストラクター)化と国際化を推進し、請負体質からの脱却を図った。
小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 201… 小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 2014年12月31日)は、日本の経営者。大分銀行頭取を務めた。 山梨県出身。1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1971年10月に大分銀行専務に就任し、1973年6月には頭取に昇格。1984年6月に会長に就任し、1992年4月には特別顧問に就任。日銀政策委員も務めた。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2014年12月31日、老衰のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松井 武(まつい たけし、男性、1918年5月10日 - 2… 松井 武(まつい たけし、男性、1918年5月10日 - 2002年9月22日)は、日本の実業家、第2代松井証券社長。 松井房吉商店(現在の松井証券)創業の日(1918年5月10日)に創業者・松井房吉の長男として生まれる。旧制府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)、東京高等学校 (旧制)、東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業した。1949年、松井證券の代表取締役社長に就任した。第二次世界大戦で房吉がほとんどすべての財産を失っていたが、戦後約40年間堅実な経営を続け、資本的に完全に独立した証券会社として会社を存続させる。1987年に三菱銀行出身の弟の松井正俊に社長を譲り、会長に就任した。1990年以降、娘婿で日本郵船出身の松井道夫(当時常務取締役営業本部長)が社内改革を始めると、これに口を挟まず陰で改革を支えた。
田中 雄平(たなか ゆうへい、1918年5月9日 - 199… 田中 雄平(たなか ゆうへい、1918年5月9日 - 1992年2月5日)は、日本の経営者。藤田観光社長を務めた。山口県出身。 1943年に東京帝国大学経済学部を卒業。日本建鐵での勤務を経て、1953年に藤田興業に転じ、1970年8月に取締役に就任し、1972年8月に常務、1973年3月に専務を経て、1983年3月に藤田観光副社長に就任し、1985年3月には社長に昇格。1990年6月から取締役相談役を務めた。1985年5月から1992年1月までにワシントンホテル社長も務めた。 1992年2月5日急性心不全のために死去。73歳没。
松澤 秀雄(まつざわ ひでお、1918年4月18日 - 19… 松澤 秀雄(まつざわ ひでお、1918年4月18日 - 1999年8月31日 )は、日本の経営者。サンテレビジョン社長を務めた。 神奈川県出身。1941年に東京帝国大学文学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社した。朝日新聞社で名古屋本社編集局長、大阪本社編集局長を歴任し、1981年6月には兵庫県教育委員会委員長に就任。1982年9月にサンテレビジョン社長に就任し、1987年6月に会長を経て、1990年6月には相談役に就任。 1999年8月31日、心不全のため死去。81歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大林 芳郎(おおばやし よしろう、1918年4月17日 – … 大林 芳郎(おおばやし よしろう、1918年4月17日 – 2003年7月19日)は、日本の経営者。総合建設会社・大林組の第3代社長。大林道路社長・会長。内外テクノス社長。大林不動産社長。大林組二代目社長で母方叔父の大林義雄の養子。全国建設業協会(全建)会長も務めた。 大阪府出身。大林組創業者大林芳五郎の長女ふさとその入り婿・賢四郎の二男。 1941年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、大林組に入社。翌1942年に徴兵された。1943年11月、第2代社長の大林義雄(芳五郎の長男でふさの弟)の急死に伴い3代目社長に就任。以後45年余りにわたって社長職を務めた。1987年には会長職を兼任したが、1988年に4代目社長に津室隆夫を据え、会長職に専任。
石川 潔(いしかわ きよし、1918年4月13日 - 199… 石川 潔(いしかわ きよし、1918年4月13日 - 1995年4月24日)は、日本の経営者。三菱石油社長を務めた。東京都出身。 1940年に東京帝国大学工学部応用学科を卒業し、日産液体燃料に就職。同年9月、海軍技術科短期現役補修学生となり、造機中尉に任官。1945年5月、技術少佐に昇進し、終戦を迎えた。 戦後、農業化学研究所に勤務。1953年3月に三菱石油に転じ、1973年5月に常務、1979年3月に東北石油社長を経て、1983年6月に三菱石油社長に就任し、1989年6月には会長に就任した。 1995年4月24日肺炎のために死去。77歳没。墓所は東京都世田谷区の乗満寺。
小野 晋(おの すすむ、1918年3月29日 - 2001年… 小野 晋(おの すすむ、1918年3月29日 - 2001年9月20日)は、日本の経営者。日本郵船社長、会長を務めた。大分県出身。 1941年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本郵船に入社。1969年5月に取締役に就任し、1971年5月に常務、1975年5月に専務を経て、1976年5月に副社長に就任し、1978年6月には社長に昇格。1984年6月に会長に就任し、1989年6月に相談役に就任。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1988年4月に勲二等旭日重光章を受章。 2001年9月20日に肺炎によって死去。83歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。