田尻 生五(たじり せいご、1887年(明治20年)7月5日… 田尻 生五(たじり せいご、1887年(明治20年)7月5日 - 1944年(昭和19年)7月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、鉄道政務次官。商工官僚。 福岡県山門郡大和村(現在の柳川市)出身。旧制一高を経て、1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。1916年(大正5年)、朝鮮総督府試補となり、事務官、全羅北道財務部長を歴任した。1921年(大正10年)、官営八幡製鉄所に転じ、参事、労務部長、理事を歴任した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回、第20回でも再選を果たした。その間、第1次近衛内閣で鉄道政務次官を務めた。
白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8… 白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8日 - 1949年(昭和24年)6月3日)は、大正、昭和期の日本の外交官・政治家。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた。 東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。外務大臣を務めた外交畑の長老石井菊次郎も叔父にあたる。また外務官僚の出淵勝次は義兄(妻の姉の夫)にあたる。息子に白鳥正人元北陸財務局長。 千葉県の長生郡茂原町(現在の茂原市)に生まれた。東京・日本中学、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒。 1913年(大正2年)10月に高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格。
福邑 正樹(ふくむら まさき、1887年6月5日 - 197… 福邑 正樹(ふくむら まさき、1887年6月5日 - 1974年)は、大分県東国東郡出身の内務官僚、政治家。官選島根県知事。 1887年、東国東郡竹田津(現在の国東市)で代々酒屋を営む福邑家の次男として生まれる。大分県立中学校、第五高等学校卒。1913年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 1914年内務省に入省。埼玉県警視、同北葛飾郡長、高知県理事官、新潟県理事官、和歌山県理事官、同書記官、秋田県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、和歌山県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長、福岡県書記官・内務部長などを歴任。1932年、島根県知事となる。
南 鉄太郎(みなみ てつたろう、1887年(明治20年)3月… 南 鉄太郎(みなみ てつたろう、1887年(明治20年)3月29日 - 1944年(昭和19年)9月8日)は、日本の衆議院議員。海軍軍人。弁護士。 兵庫県三原郡賀集村(現在の南あわじ市)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。同大学院で学んだ後、海軍経理学校乙種学生を修了した。海軍では中主計から主計少佐に至った。その間、第十二駆逐隊主計長、臨時南洋群島防備隊附、砲艦「伏見」乗員、海軍経理学校教官、同監事を歴任した。1924年(大正13年)に予備役に編入された後は、弁護士を開業した。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)に兵庫2区(当時)から翼協非推薦で出馬し、当選を果たした。
赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24… 赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24日 - 1972年(昭和47年)9月24日)は、日本の農学博士・政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。文化勲章受章者。 日本において砂防の重要さをいち早く説いた人物で「砂防の父」や「砂防の神様」と称される。 兄は中筋村(現豊岡市)村長の赤木一雄、甥に画家の赤木蘇夫二(そぶじ)、政治学者の赤木須留喜(するき)、子供は1男4女、三女(玲子)の岳父はドイツ語学者の武内大造、四女(淑子)の夫は生物学者の太田次郎。 兵庫県城崎郡中筋村(現豊岡市)引野に生まれる。父甚太夫、母たみの四女二男の末っ子で、地方の豪農であった赤木家は甚太夫で11代目に当たる。
高橋 泰雄(たかはし やすお、1887年(明治20年)2月1… 高橋 泰雄(たかはし やすお、1887年(明治20年)2月10日 - 1967年(昭和42年)9月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→日本自由党)、浦和市長(初代・第5代)。弁護士。 埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市)に衆議院議員高橋安爾の子として生まれる。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。1919年(大正8年)、浦和に弁護士事務所を開業し、後には浦和地方裁判所所属弁護士会長を務めた。1925年(大正14年)、浦和町会議員に選ばれ、1931年(昭和6年)には浦和町長に選ばれた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1934年(昭和9年)、浦和町が市制を施行すると初代市長に就任した。
中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 19… 中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 1954年11月21日)は、日本の実業家、映画製作者、弁護士、政治家である。大正から昭和初年にかけて衆議院議員であり、日本活動写真(日活)の専務取締役、代表取締役社長として映画を製作した。衆議院議員の中谷元は孫。 1887年(明治20年)、茨城県真壁郡下妻町(現・下妻市)に元下妻藩士・中ノ内昌為の四男として生まれる。 1901年(明治34年)母の兄弟であった、もと土佐藩士で大審院判事や樺太地方裁判所長などを務めた中谷速水の養子となった。 1913年(大正2年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。三井物産に入社して香港支店勤務となるが辞職して台湾に移り、弁護士を開業。
小島 智善(こじま ともよし、1887年(明治20年)1月1… 小島 智善(こじま ともよし、1887年(明治20年)1月10日 - 1950年(昭和25年)3月7日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 福島県田村郡飯豊村(現在の小野町)出身。第二高等学校を経て、1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。大場茂馬の弁護士事務所に勤務した後、1917年(大正6年)に東京市麹町区に事務所を開いた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に日米信託株式会社顧問を務めた。
村井 八郎(むらい はちろう、1886年(明治19年)12月… 村井 八郎(むらい はちろう、1886年(明治19年)12月24日 - 1970年(昭和45年)10月11日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。衆議院議員、福島県知事、郡山市長、川崎市長、会津若松市長を歴任した。旧姓・阿部。位階は従四位。 福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。阿部又吉の五男として生まれ、村井半之助の養子となる。会津中学、第一高等学校を経て、1912年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し福島県属兼警部となる。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、新潟県東蒲原郡長、同三島郡長、同理事官、長野県警察部長、大分県警察部長、熊本県書記官・警察部長、山形県書記官・内務部長、大阪府書記官・警察部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。
稲葉 圭亮(いなば けいすけ、1886年12月10日 - 1… 稲葉 圭亮(いなば けいすけ、1886年12月10日 - 1975年12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県出身。東京帝国大学法学部に入り、上杉慎吉の下で憲法学と社会学を学ぶ。在学中に七生社を結成する。1917年に同大学を卒業。翌年、中国に渡り、大総統府に勤務する。帰国後は法政大学講師となり、東亜研究所に勤務し、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で新潟2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。当選後は大政翼賛会政調会商工委員、事務局参与となった。終戦後の1945年に無所属倶楽部に加入したが、翌年公職追放となった。
井上 英(いのうえ えい / ひで、1886年(明治19年)… 井上 英(いのうえ えい / ひで、1886年(明治19年)12月 - 1975年(昭和50年)4月2日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選佐賀県知事、旭川市長、新潟市長。旧姓・村田。 埼玉県出身。村田謙吉の二男として生まれ、井上家の養子となる。第四高等学校を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し福井県属となる。 以後、福井県警視、同理事官、長野県理事官、大阪府理事官、茨城県警察部長、熊本県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長などを歴任。 1930年7月、佐賀県知事に就任。風水害からの復旧、教育調査会の設置などに尽力。
宮崎 一(みやざき はじめ、1886年〈明治19年〉11月2… 宮崎 一(みやざき はじめ、1886年〈明治19年〉11月21日 – 1951年〈昭和26年〉10月10日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市)に衆議院議員宮崎鏋三郎の長男として生まれる。浦和中学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学を卒業した。卒業後は浦和で弁護士事務所を開業した。1919年(大正8年)に埼玉県会議員に当選し、後には議長も務めた。また浦和弁護士会長にも選ばれた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。その間、米内内閣で陸軍参与官に、幣原内閣で陸軍政務次官・第一復員政務次官に就任した。
太田 正孝(おおた まさたか、1886年〈明治19年〉11月… 太田 正孝(おおた まさたか、1886年〈明治19年〉11月13日 - 1982年〈昭和57年〉7月10日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員(7期)、参議院議員(1期)。 静岡県出身。静岡商業学校、七高を経て、1912年に東京帝国大学法科大学経済学科(現・東京大学経済学部)を卒業し、大蔵省に入省(東京税務監督局兼主税局)。後に主計官となる。 1919年退官。政界入りするまでに報知新聞社副社長、中央大学教授等を務める。1924年には経済学博士号を取得。 1930年の第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で立候補し初当選。その後大蔵参与官、大蔵政務次官などを歴任。1939年の政友会分裂に際し金光庸夫、犬養健らとともに中立派に属す。
柏田 忠一(かしわだ ただかず、1886年(明治19年)11… 柏田 忠一(かしわだ ただかず、1886年(明治19年)11月5日 - 1958年(昭和33年)10月3日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)、弁護士。 岩手県二戸郡金田一村(現在の二戸市)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、オックスフォード大学に留学した。その後、上海日日新聞社主筆を経て、1916年(大正5年)に弁護士を開業。また財団法人東亜攻究会理事を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後は、拓殖大学教授やハルビン市公署顧問を務めた。 またその他に、東北桐材株式会社取締役、アマゾン興業株式会社監査役、馬淵電気株式会社顧問などを務めている。
前田 利男(まえだ としお、1886年〈明治19年〉11月4… 前田 利男(まえだ としお、1886年〈明治19年〉11月4日 - 1966年〈昭和41年〉12月29日)は、大正・昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院伯爵議員。旧名・溝口 正男。 旧新発田藩主家当主・溝口直正の五男として生まれ、1911年(明治44年)4月、伯爵・前田利同の養子となる。養父の死去に伴い利男と改名し、1922年(大正11年)1月20日に伯爵を襲爵した。 学習院を経て、1913年(大正2年)6月、東京帝国大学農科大学を卒業。1915年(大正4年)以降、内閣総理大臣秘書官、皇子傅育官(秩父宮附)、宮内事務官兼式部官などを務めた。 1946年(昭和21年)5月9日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
秋田 重季(あきた しげすえ、1886年(明治19年)10月… 秋田 重季(あきた しげすえ、1886年(明治19年)10月12日 - 1958年(昭和33年)2月13日)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。 旧公家出身の伯爵大原重朝の二男であったが、元三春藩主で子爵の秋田映季に嫡男が居なかったため、その娘の芳子と結婚して秋田家を継いだ。養父の死去に伴い1907年(明治40年)3月6日、子爵を襲爵。 1910年(明治43年)に東京帝国大学工科大学を卒業。同年、逓信省臨時発電水力調査局雇となり、鉄道院技手、同技師などを務める。また、歌会始講頌となる。 1919年(大正8年)5月17日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属し貴族院が廃止された1947年(昭和22年)5月2日まで在任。
徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19… 徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19年)10月5日 - 1976年(昭和51年)9月6日)は、日本の政治家、植物学者、狩猟家。尾張徳川家第19代当主。位階・勲等・爵位は従二位勲二等侯爵。戦前の貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから、虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に『最後の殿様』がある。 父は越前松平家・松平慶永(春嶽)で、1908年に尾張徳川家の婿養子となり、家督を相続した。同家の東京移転に際し、愛知県下の土地等の財産の処分を指揮し、1931年に財団法人徳川黎明会を設立して、同家伝来の什宝・書籍を同財団付属の徳川美術館・蓬左文庫で保存・公開した。
阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4… 阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4日 - 1944年(昭和19年)12月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員、陸軍主計少尉。旧公家の阿野家。 子爵・阿野実允の三男として生まれ、父の死去に伴い、1887年(明治20年)10月20日、子爵を襲爵した。 1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)十五銀行に入行し、秘書業務部副長、監理課長、大阪支店長、取締役、副頭取などを歴任。その他、藤永田造船所取締役、第一信託取締役、園池製作所会長、蓬莱殖産専務取締役、帝国倉庫運輸監査役などを務めた。 1944年3月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動したが、出征し同年12月に戦死した。
長谷川 赳夫(はせがわ たけお、1886年(明治19年)10… 長谷川 赳夫(はせがわ たけお、1886年(明治19年)10月3日 - 1980年(昭和55年)6月25日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。官僚。貴族院多額納税者議員。錦鶏間祗候。 長谷川市郎左衛門の長男。新潟県出身。1896年(明治29年)家督を相続し前名の亀一郎を改める。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学を卒業し、同大学院を修学する。文官高等試験に合格する。 1915年(大正4年)貴族院試補となって以降、衆議院、貴族院、内閣(内閣官房総務課長)各書記官、帝都復興院、臨時震災救護事務局各兼任書記官、臨時営繕局事務官、法制局勅任参事官、内閣統計局長などを歴任した。ほか、資源局、社会局各参与、新潟県農業会長、国際統計協会正会員などを務めた。
上田 孝吉(うえだ こうきち、1886年(明治19年)9月1… 上田 孝吉(うえだ こうきち、1886年(明治19年)9月18日 – 1952年(昭和27年)8月16日)は、日本の政治家で立憲政友会所属の衆議院議員、弁護士。 石川県石川郡金石町(現在の金沢市)に扇能長平の二男として生まれ、上田喜久代の養子となった。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、弁護士となった。大阪市会議員を務め、参事会員、副議長を歴任した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。5回連続当選を果たした。その間、平沼内閣で逓信参与官を、鈴木貫太郎内閣で農商政務次官をそれぞれ務めた。 戦後、推薦議員のため公職追放となった。
佐藤 謙之輔(さとう けんのすけ、1886年(明治19年)9… 佐藤 謙之輔(さとう けんのすけ、1886年(明治19年)9月17日 - 1957年(昭和32年)11月15日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。謙之助と表記する場合がある。 新潟県南蒲原郡小栗山村(新潟村、見附町を経て現見附市)で、旧家・佐藤宗弥の二男として生まれる。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1914年(大正3年)家督を相続した。 大学卒業後、新潟自動車商会に入り、その後、同社長となる。その他、相互信用無尽会社社長、新潟土地取締役、新潟建物取締役、新潟硫酸監査役、新潟新聞監査役、新潟銀行(現第四銀行)取締役、新潟港湾倉庫取締役、日本海倉庫取締役などを務めた。
加納 久朗(かのう ひさあきら、1886年〈明治19年〉8月… 加納 久朗(かのう ひさあきら、1886年〈明治19年〉8月1日 - 1963年〈昭和38年〉2月21日)は、日本の銀行家、政治家。子爵。千葉県一宮町出身。元千葉県知事、元国際決済銀行取締役、副会長。父は、最後の上総国一宮藩主であった加納久宜。 1886年8月1日、子爵加納久宜・文子の次男として東京府小石川の私邸に生まれる。兄・久元は夭逝していたため、事実上の嫡男であった。 1894年、県知事に任命された父に従い鹿児島県に移り、その後現地に赴任してきたアメリカ・オランダ改革教会宣教師ピークから英語とキリスト教を弟の久憲とともに学ぶ。 1900年、久宜が鹿児島県知事の業務を辞して一家は東京へ戻り、父が設立に関わった学習院中等科へ編入した。
米倉 昌達(よねくら まさよし / まさたつ、1886年(明… 米倉 昌達(よねくら まさよし / まさたつ、1886年(明治19年)7月15日 - 1937年(昭和12年)2月17日)は、大正から昭和期の薬学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・山口、旧名・重士。 子爵・山口弘達の三男として生まれ、1913年(大正2年)子爵・米倉昌臧の養子となり、同年3月、昌達と改名。養父の死去に伴い、1916年(大正5年)12月20日、子爵を襲爵した。 1911年(明治44年)東京帝国大学医科大学薬学科を卒業。さらに1916年、同大学医学科を卒業した。 1917年(大正6年)東京帝国大学伝染病研究所技手に就任。以後、同大学医科大学化学教室副手、同附属医院分院薬局長、日本医学専門学校教授兼学生監、千葉医科大学講師、京都薬学専門学校校長、昭和女子薬学専門学校校長、日本医科大学教授、同校学生監兼予科主任などを務めた。
菅原 英伍(すがわら えいご、1886年(明治19年)6月1… 菅原 英伍(すがわら えいご、1886年(明治19年)6月15日 – 1964年(昭和39年)2月4日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。弁護士。 宮城県栗原郡一迫村(現在の栗原市)出身。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。弁護士を開業し、仙台弁護士会長、東北弁護士連合会会長を歴任した。また宮城県会議員、同参事会員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第16回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他、斎川電気株式会社社長、仙台電気工業株式会社取締役、広瀬電力株式会社監査役などを務めた。
中島 弥団次(中島 彌團次、なかじま やだんじ、1886年〈… 中島 弥団次(中島 彌團次、なかじま やだんじ、1886年〈明治19年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚、実業家。衆議院議員。 高知県安芸郡野根村(現東洋町野根)で、海運業・中島弥平次、也久夫妻の長男として生まれる。野根尋常高等小学校、江陽学舎、高知県立中学海南学校を経て、1908年7月、第六高等学校文科甲類を卒業。上京して濱口雄幸の書生となる。1909年9月、東京帝国大学法科大学政治学科に入学し、1912年7月に卒業。 1912年7月、大蔵省雇となり、1913年11月8日、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し青森県属となる。1915年1月、大蔵省へ転じ専売局書記に任じられ高崎専売支局勤務となる。
近藤 重三郎(こんどう じゅうさぶろう、1886年6月1日 … 近藤 重三郎(こんどう じゅうさぶろう、1886年6月1日 - 1953年7月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1914年、東京帝国大学農芸化学科卒。岡崎市会議員、同参事会員、岡崎商業会議所会頭、所得税調査委員、伊勢屋、伊豆水電各(株)取締役社長、岡崎電燈(株)ほか数社の取締役、燧洋電気(株)ほか数社の監査役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において愛知3区から憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1953年死去。
新井 尭爾(新井堯爾、あらい たかじ / ぎょうじ、1886… 新井 尭爾(新井堯爾、あらい たかじ / ぎょうじ、1886年(明治19年)5月15日 – 1966年(昭和41年)5月9日)は、日本の政治家、鉄道官僚。衆議院議員(2期) 埼玉県南埼玉郡篠津村(現在の白岡市)に衆議院議員新井啓一郎の三男として生まれる。旧制第四高等学校を経て、1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。高等文官試験に合格し、鉄道院書記、沼津駅助役、程ヶ谷駅駅長、鉄道院参事補、同副参事、同参事、鉄道書記官、監督局業務課長、門司鉄道局運輸課長、東京鉄道局運輸課長、運輸局国際課長、同局配車課長などを歴任した。 1930年(昭和5年)、国際観光局が新設されると局長に就任し、観光基盤作りに尽力した。
小日山 直登(こびやま なおと、1886年(明治19年)4月… 小日山 直登(こびやま なおと、1886年(明治19年)4月26日 - 1949年(昭和24年)8月28日)は、昭和期日本の実業家、政治家。南満洲鉄道総裁を務め、第二次世界大戦末期の鈴木貫太郎内閣に入閣。ポツダム宣言受諾の意思を示した。 福島県出身。生家は士族出身であったが、生活は貧しく小さな水車小屋で生まれ育つ。会津中学、第二高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学英法科を卒業すると共に文官高等試験に合格して南満洲鉄道株式会社(満鉄)に入社する。塔連炭鉱事件(満鉄疑獄事件)に連座して一時偽証罪で起訴されるが控訴審で無罪となり、満鉄に復帰。理事を経て、1943年(昭和18年)7月、満鉄生え抜きの人材として初めて満鉄総裁となる。
遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3… 遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月18日)は、日本の政治家、官僚、実業家、弁護士。衆議院議員。貴族院議員。参議院議員。武蔵野銀行初代頭取。 埼玉県葛飾郡千塚村(北葛飾郡行幸村、幸手町を経て現幸手市)生まれ。遠藤幸五郎の二男。第二高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業後、文官高等試験に合格し、内務省に入る。朝鮮総督府に入り試補、同書記官、同秘書官を務めた。1920年、東京府産業部長、次いで千葉県内務部長、青森・三重県知事を歴任した。 1928年、埼玉3区から立憲政友会に属して衆議院議員となった。弁護士を開業し、武蔵野鉄道会社社長に就任。
金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉… 金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉3月17日 - 1959年〈昭和34年〉6月16日)は、日本の大蔵・法制官僚、政治家、憲法学者。岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。 愛知県名古屋市生まれ。愛知一中、旧制一高を経て、1912年(明治45年)東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験行政科試験に合格し大蔵省に入省、税務監督局属兼大蔵属。 1914年(大正3年)法制局に移り、法制局参事官、第一部長を歴任。この間、大学で法学、憲法学を講じ、『帝国憲法要説』等を著わした。1934年(昭和9年)岡田啓介内閣の法制局長官に就任するが、在任中に法制局長官就任以前の著作『帝国憲法要説』が天皇機関説的であるという理由で右翼勢力から攻撃を受け、1936年(昭和11年)辞任に追い込まれた。
加賀谷 朝蔵(かがや あさぞう、1886年(明治19年)3月… 加賀谷 朝蔵(かがや あさぞう、1886年(明治19年)3月15日 - 1981年(昭和56年)3月3日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。秋田市長や京都市長を務めた。勲三等瑞宝章。 秋田県出身。加賀谷長右衛門の二男として生まれる。第二高等学校を卒業。1912年、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し新潟県属となる。 以後、新潟県西頸城郡長、同魚沼郡長、同中蒲原郡長、宮城県理事官、警察講習所教授、岩手県警察部長、皇宮警察長、静岡県書記官・内務部長、徳島県書記官・内務部長などを歴任。1935年に退官。 1936年、京都市助役に就任。1940年6月8日から1942年6月22日まで京都市長を務め、横大路ゴミ焼却場の操業開始、京阪電鉄三条・五条間市報償金問題の解決に尽力。
木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2… 木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2月7日 - 1982年〈昭和57年〉8月8日)は、日本の政治家、検察官、弁護士、剣道家である。 検事総長(第19代)、第一東京弁護士会会長(第16代)、法務大臣(初代)、保安庁長官(初代)、防衛庁長官(初代)、全日本剣道連盟会長(初代)等を歴任した。 太平洋戦争での日本の敗戦直後に政官界へ転じ、幣原喜重郎首相によって検事総長に登用され、続く吉田茂内閣では司法大臣として初入閣。1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法には、首相の吉田、無任所国務大臣の幣原に続き三番目に署名した。 その後、公職追放令により公職追放されるが、追放解除程無くして第3次吉田内閣の改造時に法務府初代総裁として再入閣。
河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年〈明治19年〉1月… 河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年〈明治19年〉1月13日 - 1955年〈昭和30年〉1月22日)は、日本の内務官僚、政治家。内務大臣(第48代)、文部大臣(第50代)、大阪府知事(官選第29代)。貴族院議員、衆議院議員。 旧美作鶴田藩士の奥村就有の子として東京に生まれ、後の福島県南会津郡伊南村(現南会津町)、旧会津藩出身の農学者河原田盛美の養子となる。養父は日本における水産学の先駆者であるが、一時期近衛家の家人となっていたため、稼吉の生涯にも近衛文麿の存在が深く関わってくることになる。 旧制第一高等学校を経て1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学卒業後、内務省に入省。地方事務官、内務書記、熊本県及び長崎県警察部長を経て、内務大臣秘書官床次竹二郎に見出されて社会局労働局長、台湾総督府総務長官、兼台湾総督府交通局総長取扱を歴任後、犬養内閣のとき中橋徳五郎、鈴木喜三郎両内相の内務次官となる。
青塚 恒治(あおづか こうじ、1885年(明治18年)12月… 青塚 恒治(あおづか こうじ、1885年(明治18年)12月21日 - 1958年(昭和33年)7月15日)は、大正から昭和時代前期の政治家。山形県酒田市長。 地主青塚岩治の二男として山形県飽海郡酒田本町に生まれる。生家は代々金物屋を営んだ。荘内中学校を経て第一高等学校に進み、俳句や漢詩を嗜んだ。1917年(大正6年)酒田町会議員に当選し、1920年(大正9年)消防組頭を経て、1926年(大正15年)酒田町助役に就任した。1931年(昭和6年)山形県会議員に当選し、酒田市会議員、同議長を経て、1945年(昭和20年)10月、酒田市長に就任したが、間もなく公職追放となった。 のち初代監査委員に就任した。
大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - … 大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - 1968年6月4日)は、日本の政治家、逓信官僚、俳人。岡田内閣の法制局長官、林内閣の内閣書記官長、社団法人日本放送協会第4代会長、日本電信電話公社第2代総裁。現在の富山県高岡市出身。 日本放送協会会長時、終戦時の玉音放送に携わった。戦後の通信事業近代化に貢献。おじは漢詩人の大橋十右衛門。 富山縣高岡中學校、石川縣尋常中學校を経て、1906年(明治39年)7月に第四高等學校を卒業。 1910年(明治43年)7月に東京帝国大学法科大学を卒業した後、逓信省に入省。同年11月、高等文官試験に合格する。1925年(大正14年)10月に郵務局長、1928年(昭和3年)7月に経理局長となる。
坂口 康蔵(さかぐち こうぞう、1885年(明治18年)12… 坂口 康蔵(さかぐち こうぞう、1885年(明治18年)12月2日 - 1961年(昭和36年)7月28日)は、日本の医師・内科医学者・政治家。東京帝国大学教授や貴族院勅選議員を務めた。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、附属病院副手、伝染病研究所技手、東京帝国大学助手を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学講師となった。同年、医学博士号を受ける。1926年(大正15年)より欧米に留学し、1928年(昭和2年)に帰国したのち、東京帝国大学助教授、東京警察病院院長となった。その後、同大学教授、同医学部附属病院院長、同医学部長となり、1946年に定年退官した。1946年から1956年まで厚生技官となり、国立東京第一病院院長、国立東京第一病院附属高等看護学院長を務めた。
石坂 養平(いしざか ようへい、1885年(明治18年)11… 石坂 養平(いしざか ようへい、1885年(明治18年)11月26日 – 1969年(昭和44年)8月16日)は、日本の文芸評論家、政治家。衆議院議員、埼玉県議会議員(いずれも立憲政友会)。父の石坂金一郎も政治家で、郡会議員、県会議員を務めた。 埼玉県大里郡中奈良村(後の奈良村、現在の熊谷市)に大地主の家の長男として生まれる。幡羅尋常小学校、熊谷中学校を経て1902年(明治35年)に第二高等学校に進学。1906年(明治39年)に東京帝国大学理学部に進学したが中退して、1910年(明治43年)に同文科大学哲学科に再入学した。帝大在学時から文芸評論家として活動を始め、「新自然主義の誕生」や「鈴木三重吉論」などの文学論を発表して中央文壇に認められた。
村上 義一(むらかみ ぎいち、1885年(明治18年)11月… 村上 義一(むらかみ ぎいち、1885年(明治18年)11月10日 - 1974年(昭和49年)1月20日)は、日本の官僚、政治家、実業家。日本通運社長、近畿日本鉄道社長、日本民営鉄道協会顧問、日本交通公社会長。 滋賀県東浅井郡虎姫町(現長浜市)出身。旧制第三高等学校、東京帝国大学法科大学独法科卒業。1912年に鉄道院(のち鉄道省)に入り、1927年(昭和2年)神戸鉄道局長、1928年(昭和3年)大阪鉄道局長、その後1930年(昭和5年)には南満洲鉄道(満鉄)で理事となった。 1937年(昭和12年)には朝鮮運送社長、同年10月1日発足した鉄道省系の国営企業の日本通運の副社長に、1940年には社長に就任する(1943年まで)。
裏松 友光(うらまつ ともみつ、1885年(明治18年)11… 裏松 友光(うらまつ ともみつ、1885年(明治18年)11月7日 - 1949年(昭和24年)11月24日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 陸軍将校、子爵・裏松良光の二男として生まれる。父の死去に伴い、1915年(大正4年)10月30日、子爵を襲爵した。 1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。その後、内閣調査局参与、商工省参与、土木会議議員、大蔵省委員、大東亜省委員、南方開発金庫監事、南鮮合同電気監査役、朝鮮電力監査役などを務めた。 1924年(大正13年)9月27日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)3月26日まで四期在任した。
鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9… 鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9月4日 - 1946年(昭和21年)3月12日)は、大正から昭和期の政治家、労働運動家。友愛会創始者。日本の労働運動の草分け的存在といわれる。 宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の旧家鈴木益治の長男として生まれる。10歳の頃に父親とともにキリスト教に入信。宮城県尋常中学校志田郡立分校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、旧制山口高等学校に入学。中学卒業前後に家業が傾き、高校時代苦学するなかで、在野のキリスト教伝道師本間俊平の影響により、社会問題に目覚めていく。東京帝国大学法科大学政治学科に入学後は、同郷の先輩である吉野作造とともに、海老名弾正率いる組合派の本郷教会に所属する。
吉田 茂(よしだ しげる、1885年〈明治18年〉9月2日 … 吉田 茂(よしだ しげる、1885年〈明治18年〉9月2日 - 1954年〈昭和29年〉12月9日)は、昭和時代の内務官僚、政治家。貴族院議員。 岡田内閣の内閣書記官長、米内内閣と小磯内閣で閣僚を務めた。「新官僚」。戦後、神社本庁設立に関わる。同時期に公職追放にあう。 同時代の外務官僚で、戦後に内閣総理大臣を務めた吉田茂は同姓同名の別人。(#同姓同名参照) 大分県臼杵町海添(現在の臼杵市)生まれ。大分県士族・吉田亀次郎の長男。父親の亀次郎が二十三銀行(大分銀行の前進)に勤めた関係で大分に移り、ついで日本銀行に勤務する事になり、東京に移り住み、旧制東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、1911年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。
福井 盛太(ふくい もりた、1885年〈明治18年〉7月14… 福井 盛太(ふくい もりた、1885年〈明治18年〉7月14日 - 1965年〈昭和40年〉12月27日)は、日本の弁護士(第一東京弁護士会会長)、検察官、政治家。検事総長、衆議院議員(3期)、日本弁護士連合会副会長、共立薬科大学理事長等を歴任。また、日本野球機構初代コミッショナーを務めた。従三位、勲二等旭日重光章、館林市名誉市民。囲碁5段、柔道3段。 1885年(明治18年)、群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)に、旧館林藩士・福井盛武の長男として生まれる。館林小学校尋常科・同高等科を経て、1900年(明治33年)群馬県立太田中学校を卒業し旧制第二高等学校に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年弁護士開業。
出塚 助衛(いでづか すけえ、1885年(明治18年)7月1… 出塚 助衛(いでづか すけえ、1885年(明治18年)7月10日 – 1966年(昭和41年)10月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 新潟県北蒲原郡、のちの神山村(笹神村を経て現在の阿賀野市)出身。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、さらに大学院で学んた。弁護士を開業し、また新潟市会議員に選ばれた。 1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙に新潟県第2区から出馬し、当選を果たした。 その他、新潟競馬クラブ理事長、観光ホテル清風株式会社監査役などを務めた。 1967年に出塚助衛の功績を称え出塚記念が新潟競馬場で新潟県競馬組合により実施され、1982年まで16回開催された(1973年と1979年は三条競馬場で施行)[要出典]。
古市 六三(ふるいち ろくぞう、1885年(明治18年)6月… 古市 六三(ふるいち ろくぞう、1885年(明治18年)6月25日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、明治から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京で工学者・古市公威の長男として生まれた。父の死去に伴い、1934年(昭和9年)3月1日、男爵を襲爵した。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学工科大学採鉱及冶金学科を卒業。同年、住友総本店に入社。以後、別子鉱業所採鉱課主任、住友合資技師長、住友本社技師長、住友鉱業取締役、昭和鉱業取締役、帝国鉱業開発副社長、同社長、東北亜鉛鉱業社長、藤田組会長、日本鉱業会会長などを務めた。 1942年(昭和17年)1月17日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
富小路 隆直(とみのこうじ たかなお、1885年(明治18年… 富小路 隆直(とみのこうじ たかなお、1885年(明治18年)6月13日 - 1957年(昭和32年)2月21日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・凖一郎。 華族・富小路治直の息子として生まれる。祖父、子爵・富小路敬直の死後にその養子となり、1892年(明治25年)11月17日に子爵を襲爵。その後、隆直と改名した。 1917年(大正6年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1919年(大正8年)朝日海陸運輸に入社。その後、名教中学校教員などを務めた。 1932年(昭和7年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで二期在任した。
牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月… 牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月26日 - 1961年(昭和36年)6月1日)は、日本の政治家。 岐阜県大野郡高山町上向町(現・高山市)に旅館主・牧野伊平の三男として生まれた。斐太中学、旧制山口高等学校(旧旧山高)を経て東京帝国大学法科大学に進学し、卒業後、官界・法曹界を経て政界に入った。総選挙に通算12回立候補し、10回当選した。 戦前は立憲政友会に所属した。政友会内にあっては自由主義の立場に立ち、1939年(昭和14年)の政友会の分裂に際しては自由主義的な正統派(総裁・久原房之助)に所属し、翌1940年(昭和15年)に反軍演説による斎藤隆夫除名問題に際しても同じ政友会正統派所属の芦田均や宮脇長吉らとともに斎藤除名に対し反対票を投じた(反対票は7票のみ)。
畔田 明(くろだ あきら、1885年(明治18年)5月6日 … 畔田 明(くろだ あきら、1885年(明治18年)5月6日 - 1936年(昭和11年)12月19日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部)。 長野県東筑摩郡松本町(現在の松本市)出身。東京帝国大学法科大学政治科選科修了。1913年(大正2年)に中華民国を漫遊した。衆議院議員尾崎行雄の秘書となり、第2次大隈内閣で尾崎が司法大臣に就任すると司法大臣秘書官となり、大礼使典儀官を務めた。1922年(大正11年)から翌年まで欧米諸国を訪問し、政治・経済情勢を視察した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回衆議院議員総選挙で再選を果たした。
本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月1… 本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月18日 - 1948年(昭和23年)10月4日)は、衆議院議員(立憲民政党→日本自由党)、弁護士。 長崎市出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。司法官試補を経て、鹿児島地方裁判所や長崎地方裁判所で判事を務めた。退官後は弁護士事務所を開業し、長崎市会議員を3期、長崎県会議員を2期務めた。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。 戦後の1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選。第23回でも再選された。その間、第1次吉田内閣で外務政務次官に就任した。
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年… 正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日)は、日本の警察官・内務官僚、実業家、政治家。読売新聞社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。 読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、読売中興の祖として大正力(だいしょうりき)と呼ばれている。 読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したためにプロ野球の父と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したためにテレビ放送の父と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために原子力の父とも呼ばれる。
中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月2… 中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月29日 - 1956年(昭和31年)7月14日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、津山市長、医師。 岡山県苫田郡高野村(現在の津山市)出身。1906年(明治39年)、第一高等学校を卒業。1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学を卒業した。東京帝国大学医科大学内科に勤務した後、日本医学専門学校(現在の日本医科大学)教授・附属病院内科部長に就任した。1914年(大正3年)、津山に中島病院を開院。苫田郡医師会長、美作五郡連合医師会長を歴任した。 1929年(昭和4年)、津山市会議員に当選し、議長に選出された。翌年の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。