井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元… 井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元治元年10月21日)- 1932年(昭和7年)12月12日)は、日本の鉄道官僚、政治家。衆議院議員。 出羽国由利郡、後の本荘町(現由利本荘市)で井出章造の長男として生まれる。1891年、帝国大学法科大学法律学科を卒業。 司法省に入省し、司法官試補、東京地方裁判所検事を歴任。1896年、逓信省に転じ、鉄道事務官、逓信省書記官・通信局鉄道船舶課長、鉄道院参事、同理事、同北海道鉄道管理局長を務め、1915年に退官。1919年、鉄道院神戸鉄道管理局長として復帰し、東京鉄道管理局長に異動。1920年、鉄道省が発足すると監督局長に就任し1923年まで在任した。
菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年… 菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年11月19日) - 昭和17年(1942年)9月30日)は、日本の教育者。 岩手県紫波郡紫波町出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1896年(明治29年)、陸軍教授となり、1898年(明治31年)に第一高等学校教授に転じた。1919年(大正8年)、第一高 等学校校長に就任し、1924年(大正13年)に退官した。 退官後は第一高等学校講師・東洋大学講師を務め、1931年(昭和6年)に第一高等学校名誉教授の称号を受けた。
菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10… 菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10月18日) - 1943年(昭和18年)11月13日)は、明治-昭和前期の日本のドイツ語学者・書家。号は無為、白雲、陵雲。夏目漱石の親友で、第一高等学校の名物教授としても知られた。芥川龍之介から尊敬され、芥川の処女刊行本『羅生門』の題字の揮毫をした挿話も有名である。 筑後国御井郡呉服町(現・福岡県久留米市城南町)の医師、菅京山の次男として生まれた。1880年(明治13年)、17歳の時上京し、1891年(明治24年)日本初のドイツ文学士として帝国大学文科大学独逸文学科を卒業する。卒業後、教師として、東京外国語学校、第五高等学校、第三高等学校教授等を歴任。
田中 隆三(たなか りゅうぞう、1864年11月14日〈元治… 田中 隆三(たなか りゅうぞう、1864年11月14日〈元治元年10月15日〉- 1940年〈昭和15年〉12月6日)は、明治から昭和初期の農商務官僚・政治家である。衆議院議員。文部大臣。族籍は秋田県士族。 出羽国楢山(のち秋田県秋田市)出身。田中隆世の長男。秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)、大学予備門、1889年(明治22年)7月に帝国大学法科大学卒業。農商務省鉱山局長・農商務次官を経て、その後実業界に入り秋田鉱山専門学校(現:秋田大学工学資源学部)の設立に尽力した。ついで政界に転じ、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙で当選した。濱口内閣・第2次若槻内閣で文部大臣を務め、議員を7期務めて1932年(昭和7年)に引退した。
横河 民輔(よこがわ たみすけ、1864年10月28日(元治… 横河 民輔(よこがわ たみすけ、1864年10月28日(元治元年9月28日) - 1945年(昭和20年)6月26日)は、明治・大正・昭和期の建築家・実業家。横河グループ創業者。日本の鉄骨建築の先駆者。アメリカの雑誌で鉄骨構造を知る。 播磨国加古郡東二見村(現・兵庫県明石市二見町東二見)で、蘭方医・横河安鼎の四男として生まれる。 帝国大学工科大学造家学科で建築学を学ぶ。1889年(明治22年)7月に卒業。卒業同期には葛西万司、宗兵蔵らがいる。卒業設計では東京の町屋を取り上げ、論文で町屋の生活改善と建物の耐震耐火性の向上をテーマとした。その後、下町の二階建ての土蔵造や煉瓦造をどうしたら簡便に耐震化できるかを考え、1891年に著書『地震』を刊行した。
草鹿 甲子太郎(くさか きしたろう、1864年10月26日(… 草鹿 甲子太郎(くさか きしたろう、1864年10月26日(元治元年9月26日) - 1927年(昭和2年)6月26日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。 大聖寺藩士(藩医。禄高:150石)・草鹿泰仲の長男として、加賀国江沼郡大聖寺仲町(大聖寺町を経て、現加賀市大聖寺仲町)に生まれる。1898年(明治31年)家督を相続する。 1876年(明治9年)上京し、伯父で元富山始審裁判所検事正の草鹿換の家に寄寓する。翌年、東京外国語学校に入りフランス語を学び、三島中洲に師事し漢学を修めた。ほか、中江篤介の仏語塾にも入り、1882年(明治15年)7月、東京外国語学校仏語科を卒業する。卒業後、法学に目覚め、司法省法学校を経て、帝国大学に入り、1888年(明治21年)7月、同大法科大学法律学科仏蘭西部を卒業し法学士となった。
岡田 正之(おかだ まさゆき、1864年10月5日(元治元年… 岡田 正之(おかだ まさゆき、1864年10月5日(元治元年9月5日) - 1927年(昭和2年)7月28日)は、日本の漢文学者、教育者。 1864年、越中国新川郡清水村(現・富山県富山市)にて富山藩士、岡田信之(呉陽)の長男として生まれる。18歳の時に上京し、重野成斎らに学んだ後、帝国大学に入学。 卒業後は陸軍大学校教授、学習院教授、東京帝国大学教授などを勤める。漢文や中国の歴史に通じ、大学で講義をする傍ら多数の書籍の著作、編纂に携わった。1926年には、御講始で漢書の進講も行った。同年学習院名誉教授となった。 主なものに『支那歴史』、『新定十八史略鈔』、『新制漢文讀本』、『越中史料』などがある。
古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治… 古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治元年8月28日) - 1912年(大正元年)10月25日)は、日本の薬学者、教育家。薬学博士。千葉医学専門学校教授。正五位勲五等。 石川県士族・古屋安左衛門の二男。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。医科大学助手となった。京都府医学校教諭に任じ1897年12月、第一高等学校教授に任じ正七位に叙せられた。1912年9月、薬学博士の学位を授与された。住所は東京市本郷区駒込西片町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡崎 正也(おかざき まさや、前名・源之助、1864年9月2… 岡崎 正也(おかざき まさや、前名・源之助、1864年9月25日〈元治元年8月25日〉 - 1942年〈昭和17年〉2月19日)は、明治時代から昭和初期の日本の弁護士、会社役員、資産家。族籍は三重県平民。 三重県河芸郡一身田村字上津部田(現・津市)出身。岡崎源十郎の長男。生家は代々農業を営む。1878年、新潟英語学校に入り、在学2年で4ヶ年の課程を終え学業が大に進む。1881年、大学予備門に入り、その後病気のため2年休学する。1883年、家督を相続し、前名・源之助を改める。 1886年、大学予備門の課程を終え1887年、高等中学法科を卒業する。1890年、帝国大学法科大学を卒業、法学士の称号を受く。
添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年… 添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 昭和4年(1929年)7月4日)は、明治・大正期の財政家(大蔵官僚)・銀行家・実業家・経済学者・官庁エコノミスト。法学博士(1899年)。貴族院議員。筑前(現在の福岡県)の出身。日本法律学校(現日本大学)の設立に加わった。 近代日本における財政確立の功労者の一人であるとともに、経済学の教育・普及に尽力した「官庁エコノミスト」の先駆け的人物として知られている。 1864年、筑前国遠賀郡広渡村(現・福岡県遠賀郡遠賀町)の職人・添田新三郎の三男として生まれる。出生当時は添田家は相当の資産家であったが、父新三郎が私欲が無く慈善を好んだため資産を使い果たし、家族と共に7歳から諸国を流浪することとなる。
芳賀 栄次郎(はが えいじろう、1864年9月15日(元治元… 芳賀 栄次郎(はが えいじろう、1864年9月15日(元治元年8月15日) - 1953年(昭和28年)2月27日)は、日本の陸軍軍医。最終階級は軍医総監。医学博士。レントゲン技術の日本への導入に貢献したほか、軍陣医学の発展に寄与した。 幕末の会津若松城下で、会津藩藩士の芳賀家に生まれる。戊辰戦争の敗戦により一家は離散したが、兄の直政は弁護士となり、姉(又は妹)は旧会津藩士で検事となった小原朝忠に嫁ぎ、小原夫妻の養子が小原直である。 帝国大学を最優等で卒業。大学院で外科を専攻し、スクリバに師事する。在学中に郷里で発生した磐梯山噴火の際は、三輪徳寛とともに現地で負傷者の救護にあたった。大学院を卒業し、『特発脱疽ニ就テ』で医学博士号を授与される。
尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治… 尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治元年8月11日)- 1917年(大正6年)3月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。従四位勲四等。貴族院男爵議員。 土佐藩士・尾崎忠治の長男として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)10月、家督を継承し、同年11月6日、男爵を襲爵した。 東京帝国大学法科大学を修了。1883年(明治16年)前橋始審裁判所書記に就任。ほどなく退官して、日本銀行文書局書記、同検査役、都銀行取締役などを務めた。1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、死去するまで在任した。 1917年3月、神奈川県鎌倉郡鎌倉町長谷の私邸で療養中に死去した。
木下 友三郎(きのした ともさぶろう、1864年9月8日(元… 木下 友三郎(きのした ともさぶろう、1864年9月8日(元治元年8月8日) - 1944年(昭和19年)11月22日)は、日本の司法官、教育者。 1864年(元治元年)、木下誉一郎の三男として紀伊国日高郡御坊町で生まれた。財部村好浄寺住職湯川知城の後凋学舎で漢学を修めた。1880年(明治13年)9月、司法省法学校に入学。同期に横田秀雄(のちの大審院長)や水町袈裟六(のちの日銀副総裁)がいた。司法省法学校の廃校後は東京法学校を経て帝国大学法科大学(仏法科)に編入。1888年(明治21年)7月に卒業して司法部に入り、東京控訴院判事、行政裁判所部長などを歴任した。1913年(大正2年)6月休職となる。
大西 祝(おおにし はじめ、元治元年8月7日〈1864年9月… 大西 祝(おおにし はじめ、元治元年8月7日〈1864年9月7日〉 - 明治33年〈1900年〉11月2日)は、日本の哲学者。郷里岡山の操山()にちなんで操山と号す。「日本哲学の父」「日本のカント」との評価も受ける。 備前国岡山西田町(現・岡山県岡山市)で岡山藩士・木全(きまた)正脩の三男として生まれ、後に母方の実家・大西家の養子となる。1877年(明治10年)9月、同志社英学校普通科に入学。翌年新島襄より受洗。在学中は山崎為徳の薫陶を受け、彼の思想形成に大きな影響を与えた。15歳で、叔父大西定道の家をつぐ。1881年(明治14年)山崎が夭逝した時、大西は呆然自失に陥ったといわれる。1884年(明治17年)、同志社英学校神学科を卒業。
中村 清彦(なかむら きよひこ、元治元年8月7日(1864年… 中村 清彦(なかむら きよひこ、元治元年8月7日(1864年9月7日) - 没年不詳)は、日本の農商務官僚。錦鶏間祗候。 三重県出身。1889年(明治22年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。判事試補、判事を務める。1892年(明治25年)、農商務省に転じ、鉱山監督官、農商務参事官・製鉄所事務官、農商務書記官、福岡鉱山監督署長、大阪鉱山監督署長、東京鉱山監督署長、東京鉱務局長などを歴任した。 退官後は、東京帝国大学や秋田鉱山専門学校などで講師として鉱山法を講義した。1923年(大正12年)5月7日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治… 山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治元年8月1日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月2日)は、日本の教育者、内務官僚、神職。政友会系官選鳥取県知事。 筑前国夜須郡秋月春小路で、秋月藩士・山田正修(まさのぶ)、清(せい)の長男として生まれる。1886年、杉浦重剛の称好塾に入塾し薫陶を受けた。1887年、第一高等中学校を卒業。さらに1890年7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業。同月24日、法制局試補となる。 1893年、鹿児島高等中学造士館教授となる。1895年、静岡県参事官に転任。以後、広島県参事官、福井県書記官、青森県書記官、法制局参事官兼同書記官、大阪府書記官、東京府書記官などを歴任。
田代 義徳(たしろ よしのり、1864年8月27日(元治元年… 田代 義徳(たしろ よしのり、1864年8月27日(元治元年7月26日) - 1938年(昭和13年)12月1日)は明治〜昭和期の医学博士、外科医、日本整形外科の命名者で基礎を築く。東京帝国大学教授、東京市会議員に当選し、東京府社会事業活動を通じて医事衛生問題に取り組む。栃木県出身。 1864年8月27日((旧暦)元治元年7月26日)、下野国足利郡田中村(現栃木県足利市田中町)で代々名主を務めた田部井家三男として誕生。父は田部井森平、幼名を又助と称した。1869年(明治2年)近村にある私塾清花堂で手習いを修め、八幡村(現足利市八幡町)の禅定院にある立教小学校から1877年(明治10年)栃木の中教院学校に入り漢詩を学び、1878年(明治11年)梁田郡掘込村宝勝寺の八幡村小学校の教師になる。
吉武 栄之進(よしたけ えいのしん、1864年7月22日〈元… 吉武 栄之進(よしたけ えいのしん、1864年7月22日〈元治元年6月19日〉 - 1927年〈昭和2年〉1月3日)は日本の応用化学者。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・吉武樗の長男として生まれる。開智学校を経て東京大学予備門に入学。1884年東京大学卒業後、1887年から翌年にかけ東京府第一中学校教諭、さらに東京師範学校教諭を経て、第二高等学校教授、東京高等工業学校教授などに就任、理化学を講じていた。1932年、文部省から毛染及び毛織物捺染法、仕上法の研究を命じられ、イギリス、ドイツに3年間留学。帰国後、再び前職を務める傍ら、文部省視学官に任じられる。1920年東京高等工業学校校長、1923年東京高等工芸学校校長を兼任となる。
本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元… 本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元治元年6月10日)- 1922年(大正11年)1月14日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。幼名・大吉。位階は正四位。勲等は勲四等。 薩摩藩士・本田親雄の二男として生まれる。1898年(明治31年)12月、親済と改名。父の死去に伴い、1909年(明治42年)3月25日、男爵を襲爵した。 札幌農学校、帝国大学法科大学を修了。イギリスに留学して、1890年(明治23年)英国ニューポート大学を卒業。 帰国後、食塩 (株) 社員、駅逓 (株) 社員、芝銀行取締役、鴻池銀行東京支店副長、宮内省式部官、逓信大臣秘書官代理などを務めた。
杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日(1864年6月… 杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日(1864年6月30日) - 1934年(昭和9年)3月6日)は、戦前日本の開業医。幼少期を沼津で過ごし、上京して医学を修め、神戸・丹後・隠岐島・盛岡で病院院長を歴任し、横浜、大森に医院を構えた。号は東江・峯州医生・梅所・槑翁。杉田玄白4世孫。 元治元年(1864年)5月27日江戸浜町山伏井戸に杉田玄端の五男として生まれた。幼名は鶴五郎。明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い、両親・兄杉田武と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移った。明治2年(1869年)沼津で親戚杉田廉卿が病没すると、祖父の命でその跡を継いだ。 父に『三字経』『大統歌』『大学』『孝経』『論語』で漢学、『ウイルソン・リーダー』『ミッチェル(ロシア語版)地理書』で英学、母に習字を学んだ。
岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年… 岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年5月4日〉- 1934年〈昭和9年〉3月23日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の文部官僚、政治家。号は恭堂。 旧制山口高等学校(山口大学の前身の一つ)校長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、文部次官・大臣、東洋大学学長、大日本報徳社社長、産業組合中央会会頭、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 遠江国佐野郡倉真村(現:掛川市)出身。東京府第一中学では、澤柳政太郎、狩野亨吉、松崎蔵之助、幸田露伴などが同期に当たる。大学予備門を経て、1887年(明治20年)7月、帝国大学文科大学哲学科(のちの東大文学部)卒業、大学院へ。 第二高等中学校教授を経て、1893年(明治26年)に文部省視学官。
石本 鏆太郎(いしもと かんたろう、1864年5月9日(元治… 石本 鏆太郎(いしもと かんたろう、1864年5月9日(元治元年4月4日) - 1933年(昭和8年)12月30日)は、大正から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員。大連市長。台湾から関東州へアヘン専売制を持ち込み巨万の富を築き大連のアヘン王と呼ばれた。 土佐国長岡郡八幡村(高知県長岡郡岡豊村八幡を経て、現在の南国市)に生まれる。東京大学予備門に学ぶ。渡清し、上海でフランス語、中国語を学ぶ。北京にも留学した。西郷隆盛大使附通訳官を経て、日清、日露両戦役に陸軍通訳として従軍する。ついで台湾総督府専売局翻訳官、関東州民政署満州利源調査委員、関東都督府事務嘱託を経て、大連市長に就任する。ほか、大連高等女学校や奉天日々新聞を経営する傍ら、アヘン製造販売業に従事し巨万の富を得た。
亀井 英三郎(かめい えいざぶろう、1864年4月29日(元… 亀井 英三郎(かめい えいざぶろう、1864年4月29日(元治元年3月24日) - 1913年(大正2年)2月26日)は、日本の法制・内務官僚、政治家。貴族院議員。肥後国(現熊本県)出身。 熊本藩士・亀井忠左衛門の三男として生まれる。1888年(明治21年)、帝国大学法科大学(現東京大学法学部)卒業。同年12月、高等試験に合格し法制局試補となる。1890年(明治23年)、法制局参事官に就任。 1902年(明治35年)2月、徳島県知事に就任。その後、1904年(明治37年)1月に静岡県知事、1905年(明治38年)12月、宮城県知事に就任。 1908年(明治41年)の第2次桂内閣の際に警視総監に就任。
三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治… 三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治元年3月21日) - 1950年(昭和25年)10月11日)は、日本の医学者(内科学)。東京帝国大学名誉教授。外人教師依存から独立した日本人による内科学を確立した。仏医学を日本に紹介した。神経学を主に、生化学、寄生虫学、脚気など多彩な研究を行った。日本神経学会(1903年)、日本内科学会(1904年)の創立に寄与した。1906年学士院会員、1949年文化勲章。 陸奥国伊達郡高成田村(現・福島県伊達市)生まれ。1877年に上京外国語学校ドイツ語科を経て、1878年東京帝国大学医科大学予科入学。1883年本科に進学。1887年に東京大学医学部本科を卒業し、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となる。
田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4… 田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4月21日(元治元年3月16日) - 1905年(明治38年)6月21日)は、日本の菌類学者である。日本における最初の近代菌類学書、『日本菌類図説』を執筆した。植物病理学の分野でも桑樹萎縮病の対策に貢献した。 江戸・千住南組の酒問屋の長男に生まれた。 東京帝国大学理科大学植物学科を1889年に卒業した。高等菌類、植物寄生菌など、広い分野に関心を持った。在学中に『植物学雑誌』の発行を提唱し、自らもハツタケなどキノコの2新種の記載論文を発表し、日本人による菌類の新種の初記載論文とされ、イギリスの雑誌に転載された。後に田中の与えた学名、Lactarius hatsudake はイギリスのマイルズ・ジョセフ・バークリーによって命名された種、Lactarius lividatusのシノニムとなった。
中村 静興(なかむら せいこう、1864年4月21日(元治元… 中村 静興(なかむら せいこう、1864年4月21日(元治元年3月16日) - 1927年(昭和2年)4月22日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根町、阿久根市)。1890年、第五高等中学校医学部(のち長崎医学専門学校→長崎医科大学、現・長崎大学医学部)、1893年、東京帝国大学専科、1900年、伝染病研究所(のち東京大学医科学研究所)研究科卒。医師を開業する。阿久根村で温泉を経営し、阿久根村会議員、出水郡会議員、出水郡医師会長、鹿児島県医師会代議員、日本医師会代議員となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から無所属で立候補して当選した。
戸田 恒太郎(とだ こうたろう、1864年4月20日(元治元… 戸田 恒太郎(とだ こうたろう、1864年4月20日(元治元年3月15日) - 1934年(昭和9年)12月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選宮崎県知事、行政裁判所評定官。 長門国萩出身。長州藩士・戸田雅喬の長男として生まれる。1886年、帝国大学文科大学を卒業した。 1890年10月、石川県参事官に就任。以後、長野県参事官、長野県警部長、高知県警部長、青森県書記官、福井県書記官、茨城県書記官、静岡県書記官、同事務官・第一部長などを歴任。 1905年12月、宮崎県知事に就任。1906年7月に休職。1907年4月、行政裁判所評定官に就任。1913年6月に休職し、1924年11月に退官した。
若杉 喜三郎(わかすぎ きさぶろう、元治元年3月13日(18… 若杉 喜三郎(わかすぎ きさぶろう、元治元年3月13日(1864年4月18日) - 大正5年(1916年)3月26日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。医師。 越後国蒲原郡五十嵐浜村(現在の新潟県新潟市西区)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学医科大学を卒業。1891年(明治24年)より新潟市に若杉病院を開業した。1901年(明治34年)、新潟市会議員に選出され、1904年(明治37年)には市会議長に選ばれた。その後、1908年(明治41年)から1年余りの間、医学研究のためドイツに留学した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
水町 袈裟六(みずまち けさろく、1864年4月16日〈元治… 水町 袈裟六(みずまち けさろく、1864年4月16日〈元治元年3月11日〉- 1934年〈昭和9年〉7月10日)は、日本の官僚。大蔵次官、英仏駐在財務官、日本銀行副総裁、会計検査院長、枢密顧問官を歴任。横浜正金銀行頭取。法政大学総長。 佐賀藩士水町邦実の次男として生まれる。水町家は佐賀藩の重臣の家系。佐賀変則中学校、大学予備門を経て、1891年(明治24年)に帝国大学法科大学(現東京大学法学部)を卒業後、同年大蔵省(現在の財務省)に入省。 理財局長、大蔵次官、1908年(明治41年)から英仏駐在財務官を歴任する。1911年(明治44年)に大蔵省を退官して日本銀行副総裁に就任した(1919年まで)。
佐野 友三郎(さの ともさぶろう、元治元年3月10日〈186… 佐野 友三郎(さの ともさぶろう、元治元年3月10日〈1864年4月15日〉 - 大正9年〈1920年〉5月13日)は、明治・大正期の教育者・図書館学者。息子に、戦前の日本共産党(第二次共産党)中央委員長を務めた佐野文夫、孫に慈善家の吉田千鶴がいる。GreenT株式会社代表の吉田愛一郎はひ孫にあたる。 上野国前橋藩士の子として武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に生まれる。明治15年(1882年)に群馬中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業後、明治18年(1885年)に東京大学(後の帝国大学)に入学する。だが、卒業直前に外国人教師との対立を理由に大学を中退、明治23年(1890年)に山形県の米沢中学校に教師として赴任し、翌年に地元の医師の娘と結婚した。
平石 氏人(ひらいし うじんど、元治元年3月10日(1864… 平石 氏人(ひらいし うじんど、元治元年3月10日(1864年4月15日) - 1939年〈昭和14年〉3月17日)は、日本の判事。旅順市長。 土佐国(高知県)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。判事となり、大審院判事まで累進した。のち関東都督府判事に転じ、同高等法院長、関東庁高等法院長を務めた。 1924年(大正13年)、旅順市長に選任された。
磯部 正春(いそべ まさはる、元治元年3月8日(1864年4… 磯部 正春(いそべ まさはる、元治元年3月8日(1864年4月13日) - 昭和3年(1928年)10月12日)は、日本の農商務官僚。錦鶏間祗候。旧名は百輔。 山口県出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学を卒業。農商務試補、法制局試補、鉄道庁事務官、農商務省特許局審判官、農商務省参事官、同書記官、特許局長、農商務省鉱山局長を歴任した。1917年(大正6年)3月に退官し、同年6月21日に錦鶏間祗候となった。 その後、産業組合中央金庫監事を務めた。
宗 兵蔵(そう ひょうぞう、1864年3月29日 - 194… 宗 兵蔵(そう ひょうぞう、1864年3月29日 - 1944年1月30日)は、関西を中心に多くの建築物の設計を手がけた建築家。関西建築界の重鎮として活躍した。プロポーションや細部意匠の取り扱いにすぐれ、折衷主義建築を得意とした。
青木 熊吉(あおき くまきち、1864年3月19日(文久4年… 青木 熊吉(あおき くまきち、1864年3月19日(文久4年2月12日) - 1940年12月1日)は、日本の漁師、海洋生物の採集人。 相模国三崎入船町(後の神奈川県三崎町、現在の三浦市の一部)に、漁師のひとり息子として生まれ、正規の教育は受けないまま漁師となる。 1886年に当時の東京帝国大学が三崎に臨海実験所(後の東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所:通称「三崎臨海実験所」)を設けると、そこで研究に従事する研究者たちの海洋生物採集に興味を持ち、1888年ころから自ら進んでその手伝いをするようになり、箕作佳吉、丘浅次郎、飯島魁、田中茂穂、岸上鎌吉、石川千代松、大島正満など多数の研究者たちと交わりながら海洋生物の採集に従事し、「三崎の熊さん」の愛称で研究者たちから親しまれた。
平沼 淑郎(ひらぬま よしろう、1864年3月14日(文久4… 平沼 淑郎(ひらぬま よしろう、1864年3月14日(文久4年2月7日)- 1938年(昭和13年)8月14日)は、日本の経済学者。学位は法学博士。市立大阪商業学校校長、大阪市助役、第3代早稲田大学学長等を歴任。字は君一。鶴峯、洋堂学入、灑骨野人、鶴廼家などと号す。 首相を務めた平沼騏一郎の兄。平沼赳夫は曾孫。早稲田大学商学部長として学部の充実に貢献し、同大学商学部棟の1階に朝倉文夫作による胸像がある。 平沼家について『日本現今人名辞典』(1900年(明治33年))に「…其先詳ならず八代の祖織右衛門延良駿府與力たり弓術に長ず享保中津山藩の士籍に列す父を晋と云ふ」とある。
中島 徳蔵(なかじま とくぞう、文久4年2月2日〈1864年… 中島 徳蔵(なかじま とくぞう、文久4年2月2日〈1864年3月9日〉 - 1940年〈昭和15年〉5月31日)は、日本の倫理学者、教育者。東洋大学6代・7代学長。文部省を相手に論争した哲学館事件で知られる。号に唯我堂。 上野国佐位郡今井村(現・群馬県伊勢崎市赤堀今井町)に、中島鯛三郎(のち泰三郎)・かよの子として生まれる。地元の今井小学校を優秀な成績で卒業して授業生(代用教員)として採用され、師範学校で講習を受け三級訓導補心得となった。その後群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。同年4月帝国大学予備門専修科に入り、校長・杉浦重剛の薫陶を受けた。
奈佐 忠行(なさ ただゆき、文久4年1月18日(1864年2… 奈佐 忠行(なさ ただゆき、文久4年1月18日(1864年2月25日) - 昭和9年(1934年)6月22日)は、日本の地質学者、地理学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。専門は経済地理学。旧静岡藩士で、旧名本多 忠行。 江戸に生まれる。1876年に東京英語学校に入学した。1881年に東京大学予備門を卒業する。1885年に帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)地質学科を卒業し、理学士を取得し、福岡県立中学校教諭となる。 農商務省に入り、農商務二等技手、農商務技師試補、地質調査所(現・産業技術総合研究所)五等技師などを歴任した。 1894年高等商業学校(現・一橋大学)教授に就任し、従七位に叙された。
石丸 重美(いしまる しげみ、文久4年1月14日(1864年… 石丸 重美(いしまる しげみ、文久4年1月14日(1864年2月21日) - 大正12年(1923年)10月18日)は、日本の鉄道官僚、工学博士。貴族院勅選議員。 豊後国臼杵城下(現在の大分県臼杵市)に臼杵藩士石丸袈裟蔵の長男として生まれる。幼名は袈裟次郎。慶応2年1月14日、7歳の時に漢学者の菊川南峰から教えを受ける。8歳で重美に改名。南峰と共に各地を遊学し、11歳で帰郷し、藩校に入学した。1876年から洋学を志し、南峰の反対や家計の問題があったが、母に嘆願し学費を貰いなんとか上京した。 同郷の荘田平五郎の家に寄宿し、1884年(明治17年)、三菱商業学校に入学するが間もなく廃校となったため、神田区の共立学校に転じた。
堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月1… 堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月18日) - 昭和21年(1946年)6月22日)は、日本の内務官僚、甲府市長。 富山県出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学法科大学を卒業。北海道庁属、拓殖務省参事官、内務省事務官・参事官、島根県書記官、同事務官、東京府事務官、神奈川県事務官を歴任し、1914年(大正3年)に樺太庁内務部長に就任した。退官後、中央生命保険相互会社取締役となった。 1919年(大正8年)から1922年(大正11年)まで甲府市長を務めた。
清川 来吉(きよかわ らいきち、1864年2月9日(元治元年… 清川 来吉(きよかわ らいきち、1864年2月9日(元治元年1月2日)- 1957年(昭和32年)10月26日)は、日本の医師、政治家。初代鎌倉市長。広島県出身。 1884年、広島県立医学校(現広島大学医学部)卒業。その後は帝国医科大学(現東京大学医学部)選科で学び、1888年に医師免状を授与される。同年、伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に入所し細菌学の実施研究を行うが、まもなく帰郷して広島県下に診療所を開設。また広島県医師会長を兼ねた。 1889年、栃木県足尾病院副院長に就任し、その2年後(1891年)に鎌倉町雪ノ下に養生所を開設する。これが、来吉と鎌倉との繋がりの始まりである。その後は神奈川県師範学校や鎌倉町内の小学校の嘱託医を務め、1900年には神奈川県検疫官となる。
重岡 薫五郎(しげおか くんごろう、元治元年1月3日(186… 重岡 薫五郎(しげおか くんごろう、元治元年1月3日(1864年2月1日) - 明治39年(1906年)6月21日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、弁護士。 伊予国喜多郡内ノ子村(現愛媛県内子町)にある呉服商兼雑貨屋の次男に生まれる。東京大学法学部を経て、司法省法学校速成科を卒業後、判事登用試験に合格するも、10日間で辞職。1887年(明治20年)からフランス・エクス大学(現エクス=マルセイユ大学)に留学し法学博士号を取得。帰国後、1892年(明治25年)に第2回衆議院議員総選挙に年齢を2歳ごまかして出馬するも、改進党系の有友正親に敗れる。第三高等中学校法学部教授や関西法律学校教授嘱託をつとめたほか、1893年(明治26年)に弁護士業を開業している。
中田 錦吉(なかた きんきち、元治元年12月9日(1864年… 中田 錦吉(なかた きんきち、元治元年12月9日(1864年1月6日) - 大正15年(1926年)2月20日)は、第四代住友総理事である。 出羽国秋田郡大館町(現在の秋田県大館市)出身。1890年(明治23年)東京帝国大学卒業。同年横浜始審裁判所判事に任官。東京控訴院判事、横浜地方裁判所部長、水戸地方裁判所所長を経て、1899年(明治32年)東京控訴院部長に就任。1900年(明治33年)大学の3年先輩である鈴木馬左也の推挽によって住友に入り、1902年(明治35年)別子鉱業所支配人となる。1903年(明治36年)本店理事となり、1909年(明治42年)商工視察のため欧米へ出張し、1910年(明治43年)からは銀行支配人を兼務した。
熊田 鉄次郎(旧字体: 熊田 鐵次郎、くまた てつじろう、1… 熊田 鉄次郎(旧字体: 熊田 鐵次郎、くまた てつじろう、1864年〈元治元年〉 - 1907年〈明治40年〉5月28日)は、明治期の漢文学者、国文学者、教育者。立教学校(現・立教大学)教授や大阪陸軍地方幼年学校教授を務めたほか、各地の旧制中学で教えた。字は黒金、号は彬斉(ひんさい)。弟は二松学舎学長を務めた山田準/済斎。 1864年(元治元年)、備中松山藩士で山田方谷門の木村豊(藩校・有終館の会頭)の次男として生まれる。岡山県高梁市甲賀町(のちの柿木町)出身。兄は木村信行/水洞、弟は山田準/済斎(二松学舎専門学校初代校長・学長)。 14歳の時に、家老・熊田恰の一族・熊田矩光(大輔)の養子となる。
大槻 龍治(おおつき りゅうじ、1863年12月27日(文久… 大槻 龍治(おおつき りゅうじ、1863年12月27日(文久3年11月17日) - 1927年(昭和2年)6月25日)は、日本の官僚、鉄道実業家である。陸軍中将の白石通則は義理の兄弟。 宮城県出身。仙台藩士の大槻武治の次男だったが、兄の大槻栄行の養子となり家督を継ぐ。1890年に帝国大学法科を卒業した後に農商務省に入省し、1902年には参事官に任じられた。神奈川、京都、鳥取の各参事官、大蔵省主税官、長崎税関長などを歴任し、1905年に大阪税関長に就任し、1913年6月に熊本税務監督局長に就任した。 1915年から1927年までに大阪電気軌道社長を務め、債務の整理を行い、建設費の高騰で苦しんでいた大軌を再建した。
稲垣 乙丙(いながき いっぺい、文久3年11月4日(1863… 稲垣 乙丙(いながき いっぺい、文久3年11月4日(1863年12月14日) - 昭和3年(1928年)3月27日)は、日本の農学者。 信濃国諏訪郡上諏訪村(現長野県諏訪市)出身。諏訪藩士・柴田家に生まれ、1885年(明治18年)旧小諸藩士の稲垣重為の養子となった。 1878年(明治11年)、松本師範学校に入学。卒業後、小学校訓導となった。1883年(明治16年)、東京師範学校に入学し、1886年(明治19年)に卒業。長野県師範学校附属小学校訓導・助教試補となった。1887年(明治20年)、東京農林学校に入学し、さらに1891年(明治24年)に帝国大学農科大学に入学した。1894年(明治27年)に卒業後は、大学院に入った。
川島 純幹(かわしま すみもと / じゅんかん、1863年1… 川島 純幹(かわしま すみもと / じゅんかん、1863年12月12日(文久3年11月2日)- 1920年(大正9年)10月25日)は、日本の教育者、内務官僚。師範学校長、県知事。玄洋社社員。旧名・甚太郎。 筑前国出身。川島計の長男として生まれる。1886年(明治19年)、帝国大学法学部を卒業。1892年(明治25年)2月、鹿児島高等中学造士館教授に就任し、同年12月、同舎監を兼任。1893年8月、佐賀県尋常師範学校長となり、さらに奈良県尋常師範学校長を務めた。 1897年(明治30年)5月、内務省に転じ滋賀県参事官に就任。以後、三重県警察部長、佐賀県・大分県・千葉県・鳥取県の各書記官、和歌山県事務官・第一部長兼第三部長などを歴任。
森 直哉(もり なおや、文久3年11月1日(1863年12月… 森 直哉(もり なおや、文久3年11月1日(1863年12月11日) - ?)は戦前日本の医師。旧姓は姫野、後に赤星。東京大学医学部別課卒。宮城県古川病院初代院長。赤星研造養子だったが、離縁し故郷大在村竹下で森医院を営んだ。 文久3年(1863年)11月1日豊後国海部郡竹下村の農家姫野平治郎と綱子の三男として生まれた。14歳の時海部郡儒学者阿部一行に入門した。16歳の春、父不在のため、母の許しを得て豊前国中津に留学して白石照山に学び、同年暮大分県師範学校に入学した。 1881年(明治14年)5月師範学校を退学し、上京して東京大学医学部別課に入学したが、1年後実家が災難に遭い、学資の仕送りを受けられなくなった、群馬県、山梨県の医師等の家に身を寄せた後、再び上京して知人宅に滞在中、友人の紹介で元東京大学医学部教授赤星研造に学資を得られることとなり、養子となった。
白仁 武(しらに たけし、1863年12月1日(文久3年10… 白仁 武(しらに たけし、1863年12月1日(文久3年10月21日)- 1941年(昭和16年)4月20日)は、日本の内務官僚・実業家。官選栃木県知事、日本郵船社長、八幡製鉄所長官。 柳河藩主立花家家従・白仁成功の長男として生まれる。1883年(明治16年)家督を相続。柳河中学、共立学校、大学予備門を経て、1890年(明治23年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年7月、内務省に入り内務試補として会計局に配属された。 1890年11月、県治局勤務となる。以後、内務省参事官、北海道庁参事官・内務部郡治課長、同部地理課長、文部書記官、拓殖務書記官、内務事務官、内務書記官・大臣官房北海道課長、内務省神社局長兼総務局北海道課長などを歴任。
植村 俊平(うえむら しゅんぺい、1863年11月29日 (… 植村 俊平(うえむら しゅんぺい、1863年11月29日 (文久3年10月19日) - 1941年(昭和16年)11月19日)は、日本の政治家。大阪市長。 山口県士族・植村島之丞の二男として生まれる。成立学舎などを経て、大学予備門、1886年(明治19年)7月東京大学法学部首席卒業。翌年には助教授。イギリスに留学し、法廷弁護士の称号を得て帰国。1892年(明治25年)、代言人(弁護士)に。英吉利法律学校(のちの中央大学)などで講義する。その後、日本銀行文書局長時代には、日本銀行幹部ストライキ事件に連座して免職させられた。このストライキで中上川彦次郎も介入したため、中上川と対立して三井を辞めていた岩下清周(三井銀行大阪支店長、慶應・一橋中退、三菱商業学校出身)が、東大出身の日銀幹部らを住友本店に呼び寄せたとされ、植村もその斡旋で住友入りした。
荒井 賢太郎(あらい けんたろう、1863年11月25日〈文… 荒井 賢太郎(あらい けんたろう、1863年11月25日〈文久3年10月15日〉- 1938年〈昭和13年〉1月29日)は、日本の官僚・政治家。新潟県士族。 農商務大臣、枢密院副議長などの要職を歴任した。 新潟県出身。高田藩士荒井直静の子。新潟師範学校(現在の新潟大学教育学部)を卒業し、一時小学校で教鞭を取った後、上京。帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)でフランス法を修める。同期には、若槻礼次郎(後の内閣総理大臣)、安達峰一郎らがおり首席を競う。 1892年(明治25年)に帝国大学を卒業した後、大蔵省に入省。大臣官房第二課に配属。主計局予算決算課長、主計局長などの要職を歴任した。大蔵省時代には、和仏法律学校(現在の法政大学)の講師も務めている。