上郎 清助(こうろ / こうろう せいすけ、旧姓・吉田、18… 上郎 清助(こうろ / こうろう せいすけ、旧姓・吉田、1863年11月17日〈文久3年10月7日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月18日)は、日本の実業家、政治家、資産家、神奈川県多額納税者。 貴族院議員、神奈川県会議長、横浜市会議員。横浜中央銀行、上信銀行各頭取。横浜信託社長。族籍は神奈川県平民。 武蔵国橘樹郡大豆戸村(現・横浜市港北区大豆戸町)出身。吉田三郎兵衛の弟で、磯野庸幸、上郎新二の兄。生家の吉田家は屋号を「堀上(ほりあげ)」といい、天保年間より醤油の醸造をしていた。1893年、上郎幸八の女婿となる。1905年、分家して一家を創立する。 東京大学予備門を経て、1890年、帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
西沢 正太郎(にしざわ しょうたろう、1863年10月21日… 西沢 正太郎(にしざわ しょうたろう、1863年10月21日〈文久3年9月9日〉 - 1910年〈明治43年〉2月2日)は、日本の内務官僚。官選県知事。号・靖軒、獅牢。 信濃国埴科郡鼠宿村(現・長野県埴科郡坂城町)で、西沢陽左衛門の息子として生まれる。慶應義塾に学び、1890年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、内務省試補となり会計局に配属された。 1891年5月、警保局に転じ、同年10月、宮崎県参事官に就任。以後、新潟県参事官、香川県警部長、香川県・滋賀県・大阪府・兵庫県・京都府の各書記官などを歴任。 1904年11月、青森県知事に就任。1908年6月、福島県知事に転じ、産業振興に尽力したが、盲腸炎および肺炎により在任中に死去した。
八木 逸郎(やぎ いつろう、1863年10月21日(文久3年… 八木 逸郎(やぎ いつろう、1863年10月21日(文久3年9月9日) - 1945年(昭和20年)1月4日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(奈良県選出、当選10回)。ドクトルメジチーネ。族籍は奈良県平民。 大和国奈良出身。八木重義の長男。大阪医学専門学校で学んだ後、東京帝国大学医科大学別科を卒業。その後、ドイツに留学し、ロストック大学を卒業し、ドクトルメジチーネの学位を授けられた。 帰国後、静養する。東京帝国大学医科大学附属第一医院副手となるが、間もなくこれを辞して奈良に帰る。医業に従事する。奈良町会議員、奈良市会議員、奈良県会議員、同参事会員、添上郡会議員に挙げられる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
榊原 幾久若(さかきばら きくわか、1863年10月15日(… 榊原 幾久若(さかきばら きくわか、1863年10月15日(文久3年9月3日) - 1936年(昭和11年)2月19日)は、明治から昭和時代初期の司法官。大審院検事、同判事。 榊原光次郎の弟としてのちの愛知県に生まれる。普通学を修めたのち、1886年(明治19年)帝国大学法科大学を卒業する。大学院に進んだのち、1890年(明治23年)東京地方裁判所判事となり、東京控訴院判事、宇都宮地方裁判所長を経て、1899年(明治32年)東京控訴院部長となった。その後、大審院検事および判事を歴任した。大審院判決例の編集に功績がある。
林田 亀太郎(はやしだ かめたろう、1863年9月27日(文… 林田 亀太郎(はやしだ かめたろう、1863年9月27日(文久3年8月15日) - 1927年(昭和2年)12月1日)は、日本の官僚、政治家。衆議院書記官長、衆議院議員。号・雲梯。 熊本藩士・林田俊太郎の長男として現・熊本市に生まれる。大学予備門を経て、1887年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。法制局に入り法制局属として長官官房に配属された。1888年6月、枢密院属となる。 1888年11月、法制局参事官試補として法制部に配属。以後、法制局参事官、臨時帝国議会事務局秘書官、衆議院書記官、兼農商務省参事官、衆議院庶務課長、兼守衛部長、衆議院議事課長などを歴任。 1897年11月、衆議院書記官長に就任。
薗田 宗恵(そのだ しゅうえ、1863年9月9日〈文久3年7… 薗田 宗恵(そのだ しゅうえ、1863年9月9日〈文久3年7月27日〉 - 1922年〈大正11年〉1月3日)は、浄土真宗本願寺派の僧侶。 和泉国出身。旧姓は浅井。号は確堂。帝国大学文科大学卒。和歌山妙慶寺薗田香潤の養子。本山の文学寮の教授となり、のち寮長。明治32年(1899年)本山の命で最初の北米開教師としてサンフランシスコで布教。帰国後、明治38年(1905年)仏教大学(現・龍谷大学)学長、1912年勧学、1915年再び学長に任ぜられる。長男は独文学者の薗田香勲。
葛西 萬司(かさい まんじ、 文久3年7月23日(1863年… 葛西 萬司(かさい まんじ、 文久3年7月23日(1863年9月5日) - 昭和17年(1942年)8月19日)は明治から昭和初期に活躍した設計建築家。盛岡市出身。辰野金吾と建築設計事務所を共同経営したことなどで知られる。 工手学校(現工学院大学)造家学科教員。
丹羽 正道(にわ せいどう、文久3年6月27日〈1863年8… 丹羽 正道(にわ せいどう、文久3年6月27日〈1863年8月11日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月5日)は、明治から大正にかけて活動した日本の電気技術者である。日本で5番目に開業した電力会社名古屋電灯で初代技師長を務めたほか嘱託技師として大阪市電の開業に携わった。愛知県名古屋市出身。 文久3年6月27日(新暦:1863年8月11日)、丹羽氏任の長男として名古屋城下・広小路御園の屋敷で生まれた。父・氏任は尾張藩に仕える儒学者(藩儒)。また丹羽家は一色公深を祖とするという。正道は幼少期から聡明であったといい、東京に出て大学予備門で学んだのち工部大学校へ進学。工部大学校では成績優秀のため官費生であった。
大沢 岳太郎(おおさわ がくたろう、1863年8月9日(文久… 大沢 岳太郎(おおさわ がくたろう、1863年8月9日(文久3年6月25日) - 1920年12月5日)は、日本の解剖学者。医学博士。理学博士。旧姓は大橋。 尾張国海東郡津島村(現・愛知県津島市)出身。1882年に帝国大学医学科を卒業し、1887年に助手となる。1894年に妻を亡くしたのを機に、1895年に自費でドイツに留学。1897年にドイツ人女性と再婚し、同年に帰国、医学博士の学位を取得。1900年に東京帝国大学の教授となる。両生類や爬虫類などの比較組織学を研究。著作に「解剖学講本」などがある。1916年にサンショウウオの研究論文で理学博士の学位を取得。 1920年12月3日、大学での講義を終え、布佐駅で下車して帰宅する途中で倒れ、通行人により自宅へ運ばれるが昏睡状態となり、12月5日に死去した。
早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1… 早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1863年8月5日) - 大正11年(1922年)10月14日)は、明治、大正期の官僚、実業家、政治家。三井財閥の幹部の一人。 石川県金沢市出身。明治20年(1887年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。明治22年(1889年)、同大学院農政学研究科修了。明治23年(1890年)1月、大蔵省入省。明治32年(1899年)日本銀行監理官。明治33年(1900年)辞職。 明治34年(1901年)、三井銀行専務理事。明治42年(1909年)三井銀行常務取締役。大正7年(1918年)、三井合名会社副理事長。1920年(大正9年)6月2日、貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。
大塚 専一(おおつか せんいち、1863年7月30日(文久3… 大塚 専一(おおつか せんいち、1863年7月30日(文久3年6月15日) - 1920年(大正9年)7月9日)は、日本の地質学者、登山家。理学博士。日本各地の巡検を通じて地質調査に先鞭をつけ、多くの地質図作成に貢献した。 大垣藩士・大塚岱中の二男。1863年、美濃国(現・岐阜県)に生まれる。1887年、帝国大学理科大学地質学科を卒業。卒業論文では、関東地方の地質調査を取りまとめ、その中で秩父古生層の名付け親となった。卒業後は、農商務省地質調査所に入った。1888年、磐梯山噴火が発生すると和田維四郎とともに現地調査を行った。1892年前後には、岩手県釜石市周辺の鉄鉱床の調査を行い釜石鉱山の発展に寄与した。
平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈186… 平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈1863年7月19日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月26日)は、日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。作家三島由紀夫の祖父。農商務官僚平岡梓の父。 文久3年6月4日(1863年7月19日)、播磨国印南郡志方村上富木村字横山(現在の兵庫県加古川市)で、農業を営んでいた父・太吉と、母・つる(寺岡久平の長女)の間に二男として生まれる。 少年の頃は、皇道精神を基調とする鼎(かなえ)塾に学んだ。ここでは忠君愛国の講話が行われた。兄の萬次郎はやがて姫路の洋学塾へ進み、定太郎も同じ地の師範伝習所へ入った。伝習所はすぐ神戸へ移り、神戸師範(御影師範学校、現・神戸大学)と改称、入学年齢は「二十一歳以上」とあったが、明敏な定太郎は16歳で許され3年間の寄宿生活を送った。
白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久… 白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久3年6月2日) - 1932年(昭和7年)5月30日)は、日本の植物学者・菌類学者。日本の植物病理学や本草学史の開拓者。博物学者。 1863年に江戸霊岸島の福井藩中屋敷(現在の東京都中央区新川)に生まれる。元治元年、藩地に移転の為、福井城下毛矢町に移住する。1886年に東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科を卒業。 卒業後すぐに東京農林学校の助教授となり、翌年教授に就任。1890年に帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に異動して助教授となり、植物学講座を担当した。 1899年から1901年まで、ドイツに留学して植物病理学の研究に取り組んだ。
松井 簡治(まつい かんじ、1863年7月3日〈文久3年5月… 松井 簡治(まつい かんじ、1863年7月3日〈文久3年5月18日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月26日)は、日本の国語学者(文学博士)。旧姓は宮内。号は刀水、碧湾。東京文理科大学名誉教授。 下総国銚子(現・千葉県銚子市)出身。父は国学者の宮内嘉雄。帝国大学特約生教育学科を修了後、文科大学国文学科選科に在籍。その後学習院教授、東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授を歴任。墓所は雑司ヶ谷霊園。 20年近くかけて国語辞典『大日本国語辞典』を著し、刊行後も修訂を続けた。 この項目は、言語学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 言語学)。
下平 用彩(しもだいら ようさい、文久3年5月16日(186… 下平 用彩(しもだいら ようさい、文久3年5月16日(1863年7月1日) - 大正13年(1924年)2月23日)は、三重県出身の医師、第四高等学校、金沢医学専門学校、金沢医科大学の教授。 紀伊国紀州藩阪本村(現在の三重県南牟婁郡御浜町)に新宮藩に仕える漢方医の父「秀作」、母「きん」の長男として生まれる。明治9年(1877年)に三重県立医学校(現在の三重県立大学)に入学し、明治22年(1889年)10月に帝国大学医科大学を卒業、同年11月に同大学の助手となり第二医院外科部に勤務。明治23年(1890年)12月23日に医術開業免状を授与され、明治24年(1891年)5月15日に山梨県病院(現在の山梨県立中央病院)の第6代院長となり、明治26年(1893年)11月3日に山梨医会会長に就任、明治30年(1897年)9月に山梨県病院院長を辞し、同年10月11日に第四高等学校医学部教授に任ぜられた。
西久保 弘道(にしくぼ ひろみち、1863年6月30日〈文久… 西久保 弘道(にしくぼ ひろみち、1863年6月30日〈文久3年5月15日〉- 1930年〈昭和5年〉7月8日)は、日本の内務官僚、政治家、剣道家。 福島県知事(第19代)、北海道庁長官(第13代)、警視総監(第23代)、貴族院議員(勅選)、大日本武徳会武道専門学校校長(第5代)、東京市長(第11代)を歴任した。流派は一刀正伝無刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。 三重県警部長従七位の西久保紀林の子、肥前国佐賀郡鍋島村八戸(現:佐賀市)に生まれる。司法省法学校予科を経て、東京帝国大学法科大学卒。 内務省に出仕し官吏として累進した弘道は福島県知事、北海道長官、警視総監を歴任する。その後大礼使参与を務め、その功により勲二等瑞宝章を受章。
三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久… 三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久3年3月3日) - 1942年(昭和17年)9月13日)は、岩手県南岩手郡加賀野村磧町(現盛岡市加賀野)出身の医師、教育者、政治家である。
太田 峰三郎(おおた みねさぶろう、文久3年2月23日(18… 太田 峰三郎(おおた みねさぶろう、文久3年2月23日(1863年4月10日) - 大正3年(1914年)4月6日)は、明治時代の官僚。福岡藩出身。貴族院書記官長などを務めた。位階および勲等は正三位・勲一等。 福岡藩士・太田來作の三男として生まれる。明治21年(1888年)、東京帝国大学法科卒業後、判事試補、法制局参事官補になる。明治22年(1889年)に欧米諸国を視察して、翌年帰国すると新設された貴族院書記官に任じられる。明治31年(1898年)6月に農商務省に転じて農務局長に任じられるが、9月には今度は行政裁判所評定官に転じ、更に同年11月18日に貴族院書記官長を兼ねた。従三位勲一等に叙され、明治44年(1911年)7月1日以降は書紀官長専任となる。
山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(… 山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(文久3年2月23日) - 1930年(昭和5年)3月2日)は、日本の病理学者。人工癌研究のパイオニアとして知られる。 信濃国上田城下(現在の長野県上田市)に上田藩士の山本政策(まさつね)の三男として生まれる。後に同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指した。1880年に東京大学予備門、1885年には東京大学医学部(のちの東京帝国大学医学部)に入学し、二位で卒業する。1891年に東京帝大医学部助教授となる。1892年からドイツに留学し、コッホ、フィルヒョウに師事。帰国後の1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学。
今泉 定助(いまいずみ さだすけ、文久3年2月9日〈1863… 今泉 定助(いまいずみ さだすけ、文久3年2月9日〈1863年3月27日〉 - 昭和19年〈1944年〉9月11日)は、日本の神道家、思想家、国文学者。宮城県白石市出身。 神宮奉斎会会長。日本大学皇道学院院長。東洋文化研究所講師。前名は定介(さだすけ)、号は竹の屋主人。 東京大学古典講習科入学以来、明治時代は純粋な国文学者としての道を歩む。初代司法大臣山田顕義にかわいがられ、将来を嘱望され、皇典講究所の講師を依頼された。大正の初期に川面凡児の実践的神道論に影響を受けてより、本居宣長以来の国文学的神道論に加え、実践に基づく信仰的な神道論を加えて「皇道」と呼び、それを国民の指針として普及する活動に尽力する。
鈴木 宗言(すずき そうげん、1863年3月24日(文久3年… 鈴木 宗言(すずき そうげん、1863年3月24日(文久3年2月6日) - 1927年(昭和2年)2月24日)は、明治から大正時代の司法官僚。台湾総督府官僚。実業家。名古屋地方裁判所長。台湾総督府覆審法院長。大審院検事。位階は正三位。旧姓は柴野。 柴野宗八の弟、中村是公の兄として安芸国佐伯郡五日市村(五日市町を経て現広島県広島市佐伯区)に生まれ、1873年(明治6年)9月、鈴木正言の養子となったのち分家する。柴野家の墓は現在でも広島県佐伯区五日市の光禅寺にある。1888年(明治21年)7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業し、判事補となり1890年(明治23年)判事に進む。以来、横浜地方裁判所判事、同部長、東京控訴院判事、同部長、名古屋地方裁判所長、台湾総督府法院判官、覆審法院部長、同法院長などを歴任し、1907年(明治40年)8月、大審院検事に任じた。
朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日(186… 朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日(1863年3月5日) - 昭和2年(1927年)6月14日)は、日本の衆議院議員、弁護士。 加賀国金沢出身。石川県専門学校、東京英和学校を経て、1885年(明治18年)に東京大学法学部選科に入学した。その後本科に移り、1889年(明治22年)に帝国大学法科大学英法科(東京大学から改称)を卒業した。渋沢栄一の知遇を得て第一銀行法律顧問となり、さらに浅野総一郎の法律顧問も務めた。また東京法学院、東京専門学校、東京商業学校、専修学校、日本法律学校などの講師に就任した。1890年(明治23年)に弁護士となり、1896年(明治29年)には日本弁護士協会の結成に参加した。
阪谷 芳郎(さかたに よしろう、1863年3月5日〈文久3年… 阪谷 芳郎(さかたに よしろう、1863年3月5日〈文久3年1月16日〉- 1941年〈昭和16年〉11月14日)は、日本の大蔵官僚、政治家。子爵、法学博士。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任した。父親は阪谷朗廬。曾孫の橋本久美子は首相を務めた橋本龍太郎の妻である。 後月郡西江原村(現:岡山県井原市)、幕末に開国派として活躍した漢学者、阪谷朗廬の四男として生まれる。1873年(明治6年)に父の友人である箕作秋坪の三叉学舍に入り、1876年(明治9年)には東京英語学校に入学、1880年(明治13年)には東京大学予備門を卒業。 1884年(明治17年)、東京大学文学部政治学科(現:法学部第3類)を卒業後、大蔵省に入省する。
竹村 欽次郎(たけむら きんじろう、1863年3月1日(文久… 竹村 欽次郎(たけむら きんじろう、1863年3月1日(文久3年1月12日)- 1932年(昭和7年)4月16日)は、明治から昭和初期の大蔵官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・古瀬。 出羽国最上郡、のちの山形県最上郡新庄町(現新庄市)で、素封家、新庄藩士・古瀬鉄之助の第五子として生れ、同藩士・竹村勝行の養子となる。1888年(明治21年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 1888年11月24日、大蔵省試補に任官し出納局に配属。出納局配賦課事務取扱、大蔵主計官、預金局勤務、兼預金局収支課長、理財局国庫課長、青森県収税長、岡山県収税長、新潟税関長、司税官、新潟県税務管理局長、大蔵主計官などを歴任し、1898年(明治31年)10月27日に退官した。
中川 恒次郎(なかがわ つねじろう、1863年(文久3年)3… 中川 恒次郎(なかがわ つねじろう、1863年(文久3年)3月 - 1900年(明治33年)8月14日)は、明治時代の日本の外交官、経済学者。在タウンズビル日本帝国領事館や在シドニー日本帝国領事館の初代領事などを務めた。 1863年(文久3年)3月、江戸に生まれる。1884年(明治17年)、東京大学法理文学部政治学及理財学科を卒業し、文学士の学位を取得し、卒業後、大蔵省に入省した。 大蔵省勤務のかたわら、1886年(明治19年)から1887年(明治20年)にかけて『経済實學講義』二巻を著し、同書はドイツ歴史学派を日本で紹介した最初の導入書とされる。1887年(明治20年)の国家学会創立時には雑誌委員を務めた。
坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(186… 坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(1863年2月22日) - 大正2年(1913年)5月26日)は、日本の自然人類学者。日本初の人類学者として、日本における考古学・人類学の普及と確立に尽力した。坪井信道の孫で、坪井信良の子。 蘭方医・坪井信道の孫として江戸の両国矢之倉(現・東日本橋)に生まれた(父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良である)。1877年大学予備門に入り、1886年帝国大学理科大学動物学科卒業。同年、東京人類学会を結成。帝国大学大学院に進学し人類学を専攻、修了後の1888年帝国大学理科大学助手。翌年より3年間イギリスに留学し、1892年10月帰国し帝国大学理科大学教授。
岡倉 天心(おかくら てんしん、文久2年12月26日〈186… 岡倉 天心(おかくら てんしん、文久2年12月26日〈1863年2月14日〉 - 大正2年〈1913年〉9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉 覚三(おかくら かくぞう)。幼名は岡倉 角蔵(読み同じ)。 横浜の本町5丁目(現在の同市中区本町1丁目、横浜開港記念会館付近)で生まれる。福井藩出身の武家で、1871年に家族で東京に移転。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の設立に大きく貢献し、後年に日本美術院を創設した。近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与した。
柴田 家門(しばた かもん、1863年2月6日〈文久2年12… 柴田 家門(しばた かもん、1863年2月6日〈文久2年12月18日〉- 1919年〈大正8年〉8月25日)は、文部大臣、貴族院議員などを務めた政治家。 萩城下平安古(現在の山口県萩市平安古東区)に柴田英佐(えいすけ)の長男として出生。同郷に田中義一、藤井幸槌がいる。 1882年(明治15年)に上京し、大学予備門(第一高等中学校、現在の東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)に進学。1890年(明治23年)に同大学卒業後、内閣書記官、法制局参事官、行政裁判所評定官等を務める。 1898年(明治31年)、第2次山縣内閣の内務省地方局長を務める。1901年(明治34年)、第1次桂内閣の内閣書記官長に就任。
頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年… 頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年12月4日〉- 1943年〈昭和18年〉2月15日)は、日本のジャーナリスト、衆議院議員(1期)。英語力に秀で、伊藤博文や渋沢栄一といった実力者に重用され、長年にわたって国際的舞台で活躍するジャーナリストとなったほか、英語教育教材の開発者、代議士としても活動した。右翼的国家主義者と評されることが多い。 伯耆国(後の鳥取県日野郡黒坂村、黒坂町を経て現日野町)出身。鳥取県と愛知県の中学校に在籍した後、東京大学予備門を経て、1880年に札幌農学校に入学し、武信由太郎や志賀重昂らとともに4期生として学んだ。在学中にジュゼッペ・マッツィーニの文章に触れ、日本の国情を海外へ紹介することを自らの使命と決意したとされる。
堀 鉞之丞(ほり えつのじょう、1863年1月17日(文久2… 堀 鉞之丞(ほり えつのじょう、1863年1月17日(文久2年11月28日) - 没年不明)は、愛知英語学校出身の理学士。儒学者・堀杏庵の子孫にあたる。 1885年(明治18年)東京大学理学部卒業。1891年(明治24年)、衛生試験所技師。第一高等学校教授。1908年10月30日から1914年4月30日まで尾張徳川家の御相談人、1914年9月から同家の家令を務め、1917年に明倫中学校と附属博物館を愛知県に譲渡し、名古屋の同家所有地の整理・処分を進めるなど、家政改革を推し進めた。 1914年(大正3年)5月に尾張徳川家の家令となると、前年に東京麻布区富士見町に新居を構えていた同家第19代当主・徳川義親の意を受けて、名古屋市大曽根から東京への拠点移転に向けて、家政改革を進めた。
山口 俊太郎(やまぐち しゅんたろう、1863年〈文久3年〉… 山口 俊太郎(やまぐち しゅんたろう、1863年〈文久3年〉- 1923年〈大正12年〉)は、明治・大正期の鉄道技術者。岩倉使節団の副使であった山口尚芳の長男であり、使節団に尚芳の従者として同行した。使節団帰国後も引き続きイギリスに滞在する。1887年に帝国大学工科大学を卒業し、アメリカ合衆国に再留学の後、鉄道作業局に入局する。その後九州鉄道、三井鉱山、三井物産で鉄道関係の業務を担当した。
淺野 三彌(あさの さんや、新字体:浅野 三弥、1863年〈… 淺野 三彌(あさの さんや、新字体:浅野 三弥、1863年〈文久3年〉 - 1905年〈明治38年〉12月11日)は、明治時代の医師。号は烏城。群馬県高崎市の医師・淺野誠伯の子として生まれ、医科大学別課を卒業後、アメリカ合衆国・カリフォルニア州のクーパー医科大学で学んだ。のちにハワイおよび高崎で医業に従事した。 文久3年、高崎の医家に生まれる。父は医師の淺野誠伯である。号として「烏城」を用いた。 明治19年6月、医科大学(現在の東京大学医学部の前身)別課を卒業した。卒業後は、東京神田駿河台の佐々木病院にて名医・佐々木東洋に師事し、明治21年5月頃まで実地研修を積んだ。 その後、医学の奥義を究めるため渡米し、カリフォルニア州のクーパー医科大学(後のスタンフォード大学医学部)で学んだ。
富島 暢夫(とみしま のぶお、文久2年11月3日(1862年… 富島 暢夫(とみしま のぶお、文久2年11月3日(1862年12月23日) - 昭和20年(1945年)8月6日)は、日本の衆議院議員。弁護士。裁判官。 安芸国安芸郡荘山田村(現在の広島県呉市)出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。判事となり、大阪始審裁判所、松江地方裁判所、横浜地方裁判所を歴任した。1894年(明治27年)、官を辞し弁護士を開業し、後に広島弁護士会長を務めた。また広島市会議員、同議長に選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第8回・第9回・第10回・第13回と再選された。
秋山 金也(あきやま きんや、文久2年11月1日〈1862年… 秋山 金也(あきやま きんや、文久2年11月1日〈1862年12月21日〉 - 昭和14年〈1939年〉2月2日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。医師。 下野国安蘇郡佐野町(現在の栃木県佐野市)出身。1884年(明治17年)、東京帝国大学医科大学別科を卒業。1886年(明治19年)より鹿児島医学校助教諭・附属病院診察医を務めた。1891年(明治24年)、佐野町に戻り安蘇病院院長となった。日清戦争の際には日本赤十字社救護医員として従軍した。1902年(明治35年)、安蘇郡医師会長に選出。1904年(明治37年)、佐野町伝染病院院長に就任した。1908年(明治41年)には栃木県医師会副会長に、1910年(明治43年)には同会長に選出された。
正木 直彦(まさき なおひこ、1862年12月17日〈文久2… 正木 直彦(まさき なおひこ、1862年12月17日〈文久2年10月26日〉 - 1940年〈昭和15年〉3月2日)は、明治から昭和初期の美術行政家。文部官僚出身で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を1901年から1932年までの長期にわたって務めた。号十三松堂。 1862年(文久2年)和泉国堺夕栄町(現・大阪府堺市)に、父林作の三男として生まれた。幼名政吉。 1892年(明治25年)に東京帝国大学法科大学法律科卒業後、奈良県の教育行政全般の指導を請われ、はじめ奈良県尋常中学校長を任ぜられる。1895年(明治28年9月)に奈良県師範学校校長に就く。在職期間は短かったが、長野宇平治の設計である師範学校校舎の新築に尽力した。
荒川 義太郎(あらかわ よしたろう、1862年 11月19日… 荒川 義太郎(あらかわ よしたろう、1862年 11月19日(文久2年9月28日)- 1927年(昭和2年)4月1日)は、日本の内務官僚・政治家。官選県知事、横浜市長、貴族院議員、錦鶏間祗候。 荒川利貞の長男として武蔵国豊島郡に生まれる。1884年、東京大学法学部を卒業し、内務省に入り御用掛となる。 1886年8月、岡山県書記官に就任。以後、内務省参事官、富山県・群馬県・神奈川県の各書記官、兼臨時横浜築港局次長などを歴任。 1897年11月、35歳の若さで鳥取県知事に就任。産業振興、賀露港修築を推進した。1899年5月、三重県知事に転じた。1900年1月、香川県知事となり、同年10月には長崎県知事に転じた。
長沢 市蔵(ながさわ いちぞう、文久2年7月22日(1862… 長沢 市蔵(ながさわ いちぞう、文久2年7月22日(1862年8月17日) - 大正4年(1915年)3月3日)は、山梨県出身の衆議院議員(憲政本党)、第一高等学校教授。 甲斐国巨摩郡天神中条村(後の南巨摩郡増穂町、現在の南巨摩郡富士川町)に、農業の傍ら質屋業を営む父「源三郎」の三男として生まれる。少年時代は長沢村の墨池堂大森塾で大森杜庵から学び、明治10年(1877年)4月に静岡県沼津中学校に入学後、明治12年(1879年)に同校を退学し同年2月に東京府第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転学し同校を卒業。明治12年(1879年)9月に東京大学予備門に入学後、明治19年(1886年)7月に東京帝国大学文科大学を卒業、大学院を経て、明治20年(1887年)11月には第一高等中学校教諭、明治23年(1890年)9月26日には第一高等学校教授となった。
川瀬 善太郎(かわせ ぜんたろう、文久2年6月29日(186… 川瀬 善太郎(かわせ ぜんたろう、文久2年6月29日(1862年7月25日) - 昭和7年(1932年)8月29日)は、日本の林学者。 和歌山県出身。1890年(明治23年)、東京農林学校を卒業。営林主事・林務官補となり、1892年(明治25年)より林政学研究のためドイツに留学した。1895年(明治28年)、帰国とともに東京帝国大学農科大学教授となり、農商務省技師・山林局森林監査官を兼ねた。1899年(明治32年)に農学博士の学位を得た。1913年(大正2年)に再び欧米諸国に出張。その後、東京帝国大学附属演習林長、農学部長を歴任した。
田中 敬助(たなか けいすけ、1862年7月5日(文久2年6… 田中 敬助(たなか けいすけ、1862年7月5日(文久2年6月9日) - 1945年(昭和20年)1月22日)は、日本の医師。ツツガムシ病の研究で知られる。 現在の湯沢市出身。1888年に帝国大学医科大学を卒業した。卒業後は帰郷し、自宅で医院を開業した。1890年に公立横手病院長を兼任した。 1890年に私設の研究所である日本沙蝨病研究所を自宅に建て、ツツガムシ病の研究を行った。1892年に論文「日本洪水熱病原研究第一回報告」を皮切りに数多くの論文を執筆し、ダニが病気を媒介することを指摘した。具体的には1899年にツツガムシ病がケダニにより媒介されることを発見し、その成果を1906年に「日本のケダニ病について」としてドイツの伝染病学雑誌に発表した。
箕作 元八(みつくり げんぱち、文久2年5月29日〈1862… 箕作 元八(みつくり げんぱち、文久2年5月29日〈1862年6月26日〉 - 大正8年〈1919年〉8月9日)は、日本の西洋史学者。文学博士、テュービンゲン大学哲学博士。岡山県士族。 1862年(文久2年)、湯島中坂下(現・東京都文京区)にあった祖父・箕作阮甫の家で生まれた。父・秋坪が開設した私塾・三叉学舎で学び、14歳で東京英語学校に入学。1885年(明治18年)、東京大学理学部動物学科を卒業。動物学研究のためドイツ・フライブルク大学に留学するも、近眼のため顕微鏡の使用に困難を感じ、西洋史学の研究に転向した。 ハイデルベルク大学・テュービンゲン大学などでトライチュケやランケの指導を受け、1891年(明治24年)テュービンゲン大学で哲学博士ドクトル、デル、フイロソヒー、マキスデルアルチユームを取得。
田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2… 田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2年5月15日) - 1945年(昭和20年)10月16日)は、純正調オルガンを発明した日本の音響学・物理学者であり、鉄道技師として要職に就いた。また三絃楽速記法を考案して約三千種を採譜した邦楽の研究家としても知られる。 淡路国三原郡八幡村(町村制後:賀集村、現:兵庫県南あわじ市賀集八幡)に生まれ、1882年(明治15年)に21歳の最年少で東京大学理学部物理学科を首席で卒業。 1884年(明治17年)8月、文部省代表として森鷗外などと共にドイツ帝国のベルリン大学へ留学。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの下で音響学と電磁気学について研究する。
高橋 捨六(たかはし すてろく、1862年4月8日(文久2年… 高橋 捨六(たかはし すてろく、1862年4月8日(文久2年3月10日)- 1918年(大正7年)8月14日)は、明治時代から大正時代の弁護士、法律家。 越前国福井藩士の木内盛潔の次男として生まれ、1876年11月に高橋左十郎の養子となる。福井県より選ばれて駒場農学校に入学し、予科、大学予備門を経て東京帝国大学法科に入学する。1885年に同校を首席で卒業し、大蔵省主計局に入って数年後、弁護士に転身。1895年には東京弁護士会の会長となる。日本銀行顧問や横浜正金銀行の監査役などを務めた。また、中央大学の前身である英吉利法律学校の創立に尽力した。後の学長である林頼三郎は弁護士事務所の書生であった。 1918年の春、肺炎に罹ったため、二宮町の別荘で静養していたが、帝大病院に入院後、渋谷町下渋谷氷川裏の邸宅に戻り、同地にて没した。
由布 武三郎(ゆふ たけさぶろう、文久2年2月24日(186… 由布 武三郎(ゆふ たけさぶろう、文久2年2月24日(1862年3月24日) - 大正15年(1926年)2月22日)は、日本の判事・弁護士。錦鶏間祗候。 福岡県出身。熊本バンドのメンバー。1881年(明治14年)、東京大学法学部を卒業。始審裁判所判事、上等裁判所判事、重罪裁判所裁判官、控訴院評定官、地方裁判所所長を歴任した。その後、文部省に転じ、参事官、視学官、高等商業学校(現在の一橋大学)校長などを務めた。1897年(明治30年)、行政裁判所評定官に任じられ、1910年(明治43年)に退官した。退官後は弁護士を開業した。1918年(大正7年)12月16日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久… 山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久2年2月9日) - 1945年(昭和20年)3月4日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の物理学者、官僚。理学博士。 出雲国(現・島根県)松江に、松江藩士・山口軍兵衛礼行(知行は200石)の三男として生まれる。1884年、東京大学理学部物理学科を卒業。 東京大学予備門教諭、第一高等学校教授を歴任。1897年、京都帝国大学理工科大学教授に転じ、文部省から留学生としてドイツ・フランスに派遣され3年間学んだ。1901年、理学博士号を取得した。 その後、学習院に移り次長に就任。1905年、第9代院長となり翌年まで在任。さらに、宮内省に転じ、図書頭、諸陵頭を歴任し、宮中顧問官となる。
荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2… 荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2年1月20日) - 1926年(昭和元年)12月25日)は、日本の実業家。三菱合資会社専務理事。族籍は東京府士族。 肥前大村藩士・荘新右衛門の長男。若年にして東京に出て、一ッ橋英語学校に学び、後大学予備門に入る。1885年、東京大学卒業、法学士の称号を得る。1886年、米国に渡航し、エール大学に入り、1887年にマスター・オブ・ローの学位を受く。米国諸州を巡遊する。欧州に渡り実業を視察して帰朝、直に三菱会社に入る。 1892年、大阪に第百十九国立銀行の支店を設置されるとその支配人に挙げられ、1895年、三菱会社の神戸支店設置と共にその支店長に転じ、1900年、同社庶務部長となる。
森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月… 森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月17日〉 - 大正11年〈1922年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。 石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)出身。東京大学医学部卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。 帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。
岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1… 岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1月1日) - 1908年(明治41年)6月6日) は、日本の法律家。 1862年1月30日(文久2年1月1日)に伊勢国三重郡水沢村(三重県四日市市)で、豐田久三郎の三男として生まれる。号は冠峰。幼時に両親を亡くし、岩村定高(初代三重県令)の養子となる。普通学を修めた後、1879年(明治12年)三重県医学校に入学。明治天皇の巡行の際に選抜され、勅使の前でドイツのハルトマンの病理学書を講読し、賞品を授かる。この年12月に東京大学医学部に県費で入学を命じられる。大学予備門、第一高等中学校を卒業、県の許可を得て帝国大学法科大学に入学する。 1890年(明治23年)に学士の称号を得て卒業。
加藤 彰廉(かとう あきかど、文久元年12月27日(1862… 加藤 彰廉(かとう あきかど、文久元年12月27日(1862年1月26日) - 昭和8年(1933年)9月18日)は、衆議院議員(無所属団→公友倶楽部→公正会)、教育者。 伊予松山藩士宮城正修の二男として江戸に生まれ、加藤彰の養子となった。1884年(明治17年)、東京大学文学部を卒業。文部省御用掛、主税局御用掛、大蔵属を歴任した。1888年(明治21年)、山口高等中学校教諭となり、1894年(明治27年)に広島中学校の校長に就任した。 1895年(明治28年)に市立大阪商業学校(現在の大阪市立大学)教諭に招かれ、1899年(明治32年)に校長となり、1901年(明治34年)まで務めた(任期中に市立大阪高等商業学校に校名変更)。
島邨 俊一(しまむら しゅんいち、文久元年12月25日(18… 島邨 俊一(しまむら しゅんいち、文久元年12月25日(1862年1月24日) - 1923年(大正12年)3月11日)は戦前日本の精神病学者、神経病学者。京都府立医学専門学校長、同校附属病院長。狐憑きの研究でも知られる。 文久元年12月25日(1862年1月24日)江戸駒込片町に生まれた。本籍は東京市本郷区駒込東片町73番地。 1887年(明治20年)3月16日帝国大学医科大学医学部を卒業し、5月3日大学院に進み、精神病学室榊俶に就いたが、榊は東京府癲狂院の患者の診療を任され、精神病学室も同院に置かれており、8月3日島邨も隔日出頭し、9月2日当直医となり、6日大学院を中退、10日医科大学助手として第一医院勤務を命じられた。
佐藤 恒久(さとう つねひさ、1862年(文久2年7月) -… 佐藤 恒久(さとう つねひさ、1862年(文久2年7月) - 1907年(明治40年)2月26日)は、日本の明治期における外科医。順天堂副医院長。武蔵国江戸(後の東京府東京市、現・東京都区部)出身。 1862年(文久2年)旧暦7月、安房国花房藩士松下信久の四男として江戸に生まれる。1873年(明治6年)に父と死別し、兄松下道久の下で育つ。1876年(明治9年)に東京外国語学校に入り、翌1877年(明治10年)に東京大学医学部予科に入学した。1886年(明治19年)、学制変更により東京帝国大学医科大学となった年に卒業する。東京帝国大学医科大学卒業前に陸軍軍医総監佐藤進の養子佐藤梅尾と結婚し、婿養子となる。