小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年… 小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年6月1日) - 1914年(大正3年)6月9日)は、大阪府士族で教育者。幼名は小林 卯之助(こばやし うのすけ)。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
東京大学:16,102人
小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年… 小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年6月1日) - 1914年(大正3年)6月9日)は、大阪府士族で教育者。幼名は小林 卯之助(こばやし うのすけ)。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
中村 恭平(なかむら きょうへい、1855年7月4日(安政2… 中村 恭平(なかむら きょうへい、1855年7月4日(安政2年5月21日) - 1934年(昭和9年)1月21日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人で、東京物理学校第3代校長。
中村 精男(なかむら きよお、1855年6月2日〈安政2年4… 中村 精男(なかむら きよお、1855年6月2日〈安政2年4月18日〉- 1930年〈昭和5年〉1月3日)は、明治・大正期の気象学者。第3代中央気象台台長。気象事業の整備や科学的な気象学の育成に尽力。日本の理科教育にも貢献した。 長州藩士の中村粂吉の長男として長門国萩で生まれる。少年の頃松下村塾に学ぶ。1871年(明治4年)に上京し、大学南校を経て1879年(明治12年)には東京大学物理学科を卒業、内務省地理局(国土地理院の前身の一つ)測量課に入る。 1886年(明治19年)から1889年(明治22年)にドイツに留学。ベルリン大学、ハンブルク海洋気象台で気象学を修める。1890年(明治23年)に中央気象台技師となる。
伊藤 新六郎(いとう しんろくろう、1855年(安政2年)5… 伊藤 新六郎(いとう しんろくろう、1855年(安政2年)5月 - 1923年(大正12年))は、日本の教育者。 水戸藩出身。1878年(明治11年)、東京大学理学部化学科に入った。卒業後、和歌山県御用掛・学務課出仕、和歌山中学校教諭・和歌山師範学校教諭を経て、1882年(明治15年)に三重県津中学校校長・三重県師範学校校長に就任した。1885年(明治18年)、東京職工学校御用掛・教諭となり、特許局を兼ねた。その後、東京工業学校教授を経て、1896年(明治29年)から大阪工業学校(のち大阪高等工業学校)校長を務めた。
菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年… 菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年1月29日〉- 1917年〈大正6年〉8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸天神下(現:新宿区喜久井町)の津山藩の下屋敷に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。秋坪は蘭学者箕作阮甫の弟子で、つねはその阮甫の三女である。 蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)に幕府派遣で、1870年(明治3年)に新政府派遣で、2度に渡り英国に留学した。
今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年… 今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年1月26日〉 - 1931年〈昭和6年〉)は、日本の教育者(理学士)・外交官。京都府京都中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)初代校長。 安政2年(1855年)、越前国今立郡松成村(現・福井県鯖江市松成町)の浄土真宗本願寺派の満願寺の第14世今立乗永の五男として生まれる。幼名は芳丸。神童と言われるほど幼い頃から優れた才能を現した。14、5才の時に吐酔と改名。 旧暦1871年(明治4年)、福井藩の藩校明新館(旧明道館)に入学、アメリカ人理化学者ウィリアム・グリフィスに学ぶ。1972年(明治5年)1月にグリフィスが大学南校(東京大学の前身の1つ)教授に転じて福井を去った後、武生進修小学校で1年間英語を教えた(教え子に松本源太郎・土肥慶蔵がいた)。
安香 堯行(あこう たかゆき、1855年3月2日(安政2年1… 安香 堯行(あこう たかゆき、1855年3月2日(安政2年1月14日) - 1928年(昭和3年)1月5日)は、日本の薬学者。正五位勲四等。薬学博士。陸軍三等薬剤正。九州薬学専門学校(のち熊本薬学専門学校)長。族籍は静岡県士族。叔父に榎本武揚。 静岡県出身。1882年、東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士の称号を得た。大阪薬専、名古屋薬専の教授をつとめた。1913年5月、薬学博士の学位を授与された。1928年1月5日死去。遺族宅は東京市渋谷区渋谷。二男の愛二は厚生技師、衛生局勤務。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
賀古 鶴所(かこ つるど、1855年2月18日〈安政2年1月… 賀古 鶴所(かこ つるど、1855年2月18日〈安政2年1月2日〉 - 1931年〈昭和6年〉1月1日)は、明治期から昭和初期の医師。日本陸軍軍医で日本に耳鼻咽喉科学をもたらした。歌人として常磐会を開催する。遠江国の出身。恩賜財団済生会病院の発起人の一人。 1855年2月18日((旧暦)安政2年1月2日)、遠江浜松藩の藩医賀古公斎と母カネ子の間に5人兄弟の長男として生まれる。幼名を銀弥といい、松雲と号した。明治維新後の転封(鶴舞藩)に伴い千葉県市原に転居。1870年(明治3年)藩主井上正直の命により江戸に遊学し箕作秋坪の塾に学び、第一大学区医学校に入学。在籍中の1881年(明治14年)に25歳で結婚し、翌7月、陸軍依託生として同じ陸軍軍医になる菊池常三郎・森林太郎(鷗外)・小池正直等と東京大学医学部を卒業すると、直後に陸軍軍医に任官した。
関谷 清景(せきや きよかげ(後に せいけい)、安政元年12… 関谷 清景(せきや きよかげ(後に せいけい)、安政元年12月11日(1855年1月28日) - 明治29年(1896年)1月8日)は、日本人初の地震学者。世界初の地震学専任教授。 安政元年12月11日(1855年1月28日)、父は美濃大垣藩士・衣斐玄助(えびげんすけ)、家は代々戸田候に仕えた、母はユキの長男として歩行町(おかちまち 現・大垣市歩行町)に生まれる。兄妹に5歳下の弟(銘次郎・歩兵第34連隊長陸軍大佐、日露戦争で戦死)と妹(美志 泉法輪に嫁ぐ)がいる。幼名は鉉太郎(げんたろう)といった。父玄助(関谷家に養子に行った)の実兄衣斐精蔵が病死し、その子が幼いことから鉉太郎が出て後を継いだが、後、養家の子の成長後本姓の関谷に戻り名前も清景に改めた。
岩川 友太郎(いわかわ ともたろう、安政元年12月8日(18… 岩川 友太郎(いわかわ ともたろう、安政元年12月8日(1855年1月25日) - 昭和8年(1933年)5月2日)は日本の教育者、動物学者。分類学的手法に基づく貝類目録を、日本で初めて上梓したことでも知られる。東京帝国大学卒。。 陸奥国弘前(現青森県弘前市) にて、父豊吉、母いちの長男として生まれる。豊吉は貧しい表具師であったが、祖父は国文学者として津軽藩校で教鞭を執っていた。生活苦のため寺に小僧に出されたものの、叔父岩川藤兵衛の伝手を頼り、15歳で藩の海軍局へ入局、機関学を学ぶこととなる。 藩校で英語を学んだ後、当時新設されたばかりの東奥義塾(1872年11月27日創設)にて英語教師に就く。
浜田 玄達(はまだ げんたつ、旧字体:濱田 玄達、嘉永7/安… 浜田 玄達(はまだ げんたつ、旧字体:濱田 玄達、嘉永7/安政元年11月26日〈1855年1月14日〉 - 1915年〈大正4年〉2月16日)は、日本の産婦人科医。医学博士。東京帝国大学医科大学教授、医科大学長を歴任。日本婦人科学会初代会長。日本における産科婦人科学及び助産師(産婆)養成の基礎づくりに貢献した。 肥後国宇土郡里浦村(現・熊本県宇城市三角町大岳)において、熊本藩の医師濱田玄齊(波多村の医家からの養子)の長男として生まれた(旧名は慶吉)。数え2歳で母を、11歳で父を亡くし、父方の伯父のもとで読書習字をならい、14歳で儒医福田元澤に入門、調剤の傍ら漢学及び蘭学を兼修した。1870年(明治3年)10月開設の西洋医学の藩立病院、通称・古城医学校(熊本大学医学部の源流)への入学を許され、翌年招聘されたオランダ人軍医マンスフェルトに師事した。
小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7… 小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) - 1914年1月1日)は、日本の陸軍軍人。貴族院議員。陸軍軍医総監・正四位・勲一等・功二級・医学博士・男爵。山形県鶴岡市出身。 鶴岡藩医・小池正敏の長男として生まれる。大学東校に入り、陸軍軍医生徒となり、1881年3月、東京大学医学部を卒業。同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、佐藤佐、賀古鶴所であった。 同年6月、陸軍軍医副に任官し、東京陸軍病院に配属。大阪陸軍病院、軍医本部付(釜山駐在)、近衛付、軍医学舎教官、兼陸軍省医務局副課員、医務局第1課長心得などをへて、1888年3月からドイツに官費留学し、ミュンヘン大学で学んだ。
高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(185… 高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の化学者、実業家。工学博士号と薬学博士号を受ける。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。日本人による開発型ベンチャー企業やスタートアップの先駆者とされる。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。 現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒、応用化学を専攻し、社会人となってから3年間、官費で留学。 1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。
林 泰輔(はやし たいすけ、1854年11月16日(嘉永7年… 林 泰輔(はやし たいすけ、1854年11月16日(嘉永7年9月26日) - 1922年(大正11年)4月7日)は、日本の漢学者。下総の人。号は進斎、字は浩卿、名は直巻。 儒学者・島田篁村の影響を受け経学を修める。はじめ朝鮮史の研究に従事し、明治時代の朝鮮史研究の開拓者となった。その後、中国の古代史の研究に転じ、1903年(明治36年)、中国で甲骨文字の拓本である『鉄雲蔵亀』が刊行されると(背景は中国の書道史#甲骨文を参照)、林はその古代文字を一見して非常な興味を覚え、『鉄雲蔵亀』をもとに未知の文字の解読を開始した。東京高等師範学校教授を務め、著書『周公と其時代』で学士院恩賜賞を受賞、『亀甲獣骨文字』の刊行で日本の甲骨学の先駆者となる。
梅津 清中(うめつ せいちゅう、1854年11月5日(安政元… 梅津 清中(うめつ せいちゅう、1854年11月5日(安政元年9月25日)- 1940年(昭和15年)7月27日)は、日本の政治家。元山形県南村山郡上山町長。 山形県南村山郡上山町(現上山市)出身。上山藩医の梅津清明の三男として生まれる。幼少の頃、上山藩の漢学者浅野普平から漢学を学ぶ。1870年(明治3年)から、東京帝国大学東校に学ぶ。 1880年(明治13年)8月に山形県議会議員改選に初当選、1884年(明治17年)5月満期退任。1899年(明治42年)3月に山形県議会議員補欠選挙に当選、1901年(明治44年)9月満期退任。1923年(大正12年)6月8日から1926年(大正15年)7月22日まで上山町長を務めた。
辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7… 辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日) は、日本の建築家である。
古市 公威(ふるいち こうい、嘉永7年閏7月12日〈1854… 古市 公威(ふるいち こうい、嘉永7年閏7月12日〈1854年9月4日〉- 昭和9年〈1934年〉1月28日)は、日本の学者。工学博士。帝国大学工科大学初代学長。東京仏学校(法政大学の前身の一つ)初代校長。土木学会初代会長、日本工学会理事長(会長)、理化学研究所第2代所長。東京帝国大学名誉教授。男爵。 帝国大学工科大学長・土木学会長・工学会(日本工学会)理事長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を創った。 古市公威は、大和武士古市氏の末裔である姫路藩士古市孝の長男として旧暦嘉永7年(1854年)に江戸の藩屋敷で生まれた。明治2年(1869年)に旧幕府の開成所を復興し開校した開成学校に入学、明治3年(1870年)には姫路藩の貢進生として大学南校(旧開成学校)へ進学した。
菊池 武夫(きくち たけお、1854年8月21日(嘉永7年7… 菊池 武夫(きくち たけお、1854年8月21日(嘉永7年7月28日) - 1912年(明治45年)7月6日)は、日本の法学者。法学博士。陸奥国岩手郡外加賀野村(南岩手郡を経て岩手県盛岡市加賀野)出身。司法省民事局長、東京弁護士会会長、中央大学初代学長、貴族院勅選議員等を務めた。 1854年(嘉永7年)7月28日、岩手郡外加賀野村(後の盛岡市加賀野)にて、盛岡藩士の菊池長閑と茂の長男として生まれた。武夫の名は元服の際に作人館の教授であった江幡五郎(後の那珂通高)によって名付けられた。 1875年(明治8年)大学南校(後の東京大学)を卒業し、明治政府の留学制度である「文部省貸費留学生規則」の第一回貸費留学生として、アメリカボストン大学法学校へ留学した。
鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7… 鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7年7月12日)- 1945年(昭和20年)8月20日)は、明治時代から昭和時代の医師、軍医。 三河国田原藩士の鈴木方舊の三男として生まれる。1879年家督を継ぐ。東京医学校を卒業。1883年、愛知県立医学校(現在の名古屋大学医学部)の校長に就任。後に海軍に入り、軍医となって軍医学校長などを歴任。1900年、海軍軍医総監となる。横須賀鎮守府、呉鎮守府、佐世保鎮守府の医務部長を歴任した。海軍軍医中将となり、1902年に医学博士となる。1906年、予備役に編入となる。 1907年、東京市麻布区飯倉にて肺結核専門の鈴木医院を開業する。1911年には鎌倉七里ヶ浜に鈴木結核療養所を設立した。
岡山 兼吉(おかやま けんきち、1854年7月31日(嘉永7… 岡山 兼吉(おかやま けんきち、1854年7月31日(嘉永7年7月7日) - 1894年(明治27年)5月28日)は、明治時代の弁護士、衆議院議員(当選1回)。東京専門学校(早稲田大学の前身)および英吉利法律学校(中央大学の前身)の創設に参画したことでも知られる。号は梧堂。 遠江国城東郡横須賀(現在の静岡県掛川市)生まれ。初名重吉。父の定基は横須賀藩の元締役。1865年(慶応元年)に同藩の三好左衛の養子となり、このとき兼吉と改名。維新後いったん実家に戻り、横須賀藩は安房国の花房藩に転封となったため、1869年移住する。同藩士の赤岩亀六の養子となるが、勉学で身を立てるに伴い解消している。藩の家老であった永富謙八の助けで、新潟英語学校に入学し、東京開成学校を経て、1882年に東京大学を卒業。
鈴木 充美(すずき みつよし/すずき じゅうび、安政元年6月… 鈴木 充美(すずき みつよし/すずき じゅうび、安政元年6月16日(1854年7月10日)- 昭和5年(1930年)5月23日)は、日本の政治家、外交官、弁護士。旧姓・木村。 伊勢国河曲郡神戸(現三重県鈴鹿市)で、神戸藩士・木村家の二男として生まれ、鈴木公充の養子となる。藩選抜により上京し、慶應義塾を経て、1881年(明治14年)、東京大学法学部を卒業。 学習院教授兼監事、外務省御用掛などを務める。1886年(明治19年)2月、朝鮮国仁川在勤領事に就任。1889年(明治22年)3月、香港在勤領事に転じ、1890年(明治23年)2月まで務めた。 第9代内務次官として1898年(明治31年)7月から10月まで勤める。
千本 福隆(せんもと よしたか、1854年6月19日(嘉永7… 千本 福隆(せんもと よしたか、1854年6月19日(嘉永7年5月24日) - 1918年(大正7年)10月30日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。東京高等師範学校名誉教授。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 1919年(大正8年)6月に、東京高等師範学校(現在の筑波大学)へ千本の旧蔵書192冊が収められ、現在は千本文庫とよばれている。
吉原 三郎(よしはら さぶろう、1854年4月5日(嘉永7年… 吉原 三郎(よしはら さぶろう、1854年4月5日(嘉永7年3月8日)- 1916年(大正5年)11月16日)は、日本の内務官僚。内務次官、錦鶏間祗候。幼名・虎之助、号・陽山。 上総国夷隅郡作田村(現在のいすみ市)出身。名主・吉原重郎の三男として生まれ、吉原白水の養嗣子となる。大多喜藩校、東金郷校、荻野山中県興譲館で学ぶ。教員となり、1874年5月、山梨県白井学校訓導試補に就任。以後、小学岩崎学校、小学梁木学校、小学松島学校で勤務。 1876年(明治9年)7月、司法省法学校生徒となる。1885年(明治18年)4月、判事補に任官し司法権大書記官となり、同月、高知始審裁判所詰。1886年(明治19年)8月に辞任。
木村 九兵衛(きむら くへえ、安政元年2月28日(1854年… 木村 九兵衛(きむら くへえ、安政元年2月28日(1854年3月26日) - 昭和8年(1933年)7月28日)は、日本の明治初頭から昭和にかけて活動した大地主、両羽農工銀行と荘内貯蓄銀行の創業者、電力会社役員、政治家。山形県田川郡水沢村(現:鶴岡市)出身、東京大学農学部卒。 伊藤知正の4男として田川郡水沢村(後の上郷村)に生まれ、民吉と名付けられる。明治18年(1985年)に矢馳村(のちの大泉村)の豪農である木村九兵衛の婿養子に入る。明治24年(1891年)に家督相続。九兵衛を襲名した。 耕地整理事業に取り組んでいた九兵衛は東大卒業後、耕作地の水不足を解消するためにドイツからドイツ製の15馬力の電動機を輸入し、石川島造船所(IHI)製のポンプと組み合わせた「電力揚水機」を設置した。
巨智部 忠承(こちべ ただつね、1854年3月11日(嘉永7… 巨智部 忠承(こちべ ただつね、1854年3月11日(嘉永7年2月13日) - 1927年(昭和2年)3月29日)は、明治から大正時代の地質学者。農商務省地質調査所長。統監府農商工部技監。 巨智部英三郎の長男としてのちの長崎市爐粕町に生まれる。東京大学を卒業し、1880年(明治13年)7月、同校理学部地質学教授となる。勧農局事務取扱、地質課勤務を兼ね、1883年(明治16年)11月、農商務省御用掛となり、翌年文部省御用掛を兼ねる。ついで農商務権少技長に任じ地質局に奉職し、1888年(明治21年)地質局課長心得となり、1893年(明治26年)地質調査所所長に任じた。応用地質学の先駆者で地質図の作製、鉱床調査や油田開発などを手掛けた。
江口 襄(えぐち のぼる、1854年3月8日(嘉永7年2月1… 江口 襄(えぐち のぼる、1854年3月8日(嘉永7年2月10日) - 1924年(大正13年)7月31日)は、栃木県烏山町出身の医師、陸軍二等軍医正。作家江口渙の父。 1881年(明治14年)、東京医学校卒。同期に森鷗外、小池正直らがいた。軍医となり、日本で最初に肺外科手術に成功した。小倉師団では森鷗外の前任軍医部長を務めた。鷗外の『雁』のモデルの一人と言われている。 1885年(明治18年)東京府が「郡区医職務章程」を制定した際、郡医志願者の試験委員を務め、死体検案試験を担当した。 1892年(明治25年)相馬事件の解剖主任を務める。相馬誠胤(陸奥中村藩6万石第13代藩主)の死因に疑義がもたれたため青山霊園に葬られた遺骸を掘り起こし、胃部、心臓部などの局部を解剖した。
高平 小五郎(たかひら こごろう、1854年1月29日〈嘉永… 高平 小五郎(たかひら こごろう、1854年1月29日〈嘉永7年1月1日〉- 1926年〈大正15年〉11月28日)は、日本の外交官。男爵。貴族院議員等を務めた。日露講和会議で小村寿太郎とともに全権委員を務め、日露戦争後の日米関係を定めた高平・ルート協定を締結した。 現在の岩手県一関市の生まれ。陸奥国一関藩の藩士田崎三徹の三男であったが、同藩士高平真藤の養子となった。1868年の戊辰戦争には奥羽越列藩同盟側として従軍した。1870年(明治3年)貢進生として大学南校(現在の東京大学)に入学し、1873年(明治6年)には同校を卒業して工部省に出仕した。1876年(明治9年)以降は外務省に出仕し、1879年(明治12年)には在米国公使館在勤。
西川 鉄次郎(にしかわ てつじろう、1854年1月22日(嘉… 西川 鉄次郎(にしかわ てつじろう、1854年1月22日(嘉永6年12月24日) - 1932年(昭和7年)6月1日)は、幕末の会津藩士。明治期の裁判官。白虎隊士として戊辰戦争を戦い、裁判官として大審院判事にいたる。中央大学の前身である英吉利法律学校の創立者の一人。 会津藩士の子として生まれる。父、西川俊治は、禄高6石5斗2人扶持、御書簡所物書勤めである。16歳で戊辰戦争を迎え、白虎寄合二番隊士として8月より越後方面で戦ったが、退却を余儀なくされ、9月6日より会津若松城に戻り三の丸警備にあたる。 戦後静岡藩に留学し、沼津兵学校附属小学校で学ぶ。1878年(明治11年)旧東京大学法学部を卒業。西川は旧東京大学法学部の最初の卒業生の一人であり、同期生6人には河上謹一などがいる。
栗本 東明(くりもと とうめい、嘉永6年10月8日(1853… 栗本 東明(くりもと とうめい、嘉永6年10月8日(1853年11月8日) - 大正10年(1921年)1月1日)は、医学博士。狂犬病の予防注射液を世界で初めて発見し、第五高等学校教授、旧制長崎医科大学の主事心得、長崎医学専門学校長崎病院内科医長兼眼科医長などを歴任した。従五位勲六等。また、ロシア皇帝ニコライ2世から神聖アンチ第三等勲章が授与されている。 出羽国田川郡大山(現・山形県鶴岡市大山)に庄内藩医・栗本良意の子として生まれる(長男は医学者の栗本節安)。幼名は亀五郎。慶応2年(1866年)江戸で医師をしていた兄の節安を頼りに江戸に出府し、蘭方医・伊東玄朴に医術と英語を学ぶ。明治維新と共にいったん帰郷し、明治3年(1870年)11月に慶應義塾に入り、地理書などを学び、明治5年(1872年)に慶應義塾に再入学した。
河喜多 能達(かわきた みちただ、嘉永6年8月2日(1853… 河喜多 能達(かわきた みちただ、嘉永6年8月2日(1853年9月4日) - 大正14年(1925年)4月3日)は、日本の応用化学者。 熊本藩出身。1881年(明治14年)、工部大学校を卒業し、工部大学校助教授、東京帝国大学工科大学助教授を務めた。1895年(明治28年)、応用化学研究のためドイツ・イギリスに留学。1897年(明治30年)、帰国し東京帝国大学工科大学教授に任命された。1899年(明治32年)、工学博士の学位を得た。1921年(大正10年)に退官し、翌年に名誉教授の称号を受けた。墓所は多磨霊園。
向坂 兌(さぎさか なおし、嘉永6年4月27日(1853年6… 向坂 兌(さぎさか なおし、嘉永6年4月27日(1853年6月3日) - 明治14年(1881年)6月14日)は明治時代のイギリス留学生。佐野藩貢進生として大学南校に学び、開成学校より文部省留学生に抜擢された。ロンドンミドル・テンプルに学んで法廷弁護士となり、西欧を歴遊して研鑽を積んだが、肺病のため帰国後間もなく死去した。 嘉永6年(1853年)4月27日、出羽国上山藩士五十嵐道歖の三男として生まれた。館林藩士林成昌養子となった後、慶應2年(1866年)3月19日下野国佐野藩士向坂弘孝養子となり、藩校観光館に学んだ。 明治3年(1870年)冬東京に上り、佐野藩貢進生として大学南校英学部に入学し、明治7年(1874年)9月開成学校法学本科に進んだ。
山田 薫(やまだ かおる、1853年5月24日(嘉永6年4月… 山田 薫(やまだ かおる、1853年5月24日(嘉永6年4月17日) - 1925年(大正14年)8月17日)は、日本の薬学者。正四位勲三等。薬学博士。宮内省侍医療薬剤師長。日本薬学会名誉会員。薬剤師試験委員。族籍は福井県士族。 福井県士族・山田小十郎の二男。1879年、東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士の称号を得た。1907年11月、薬学博士の学位を授与された。住所は東京市牛込区払方町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(185… 石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(1853年2月5日) - 昭和7年(1932年)11月25日)は、日本の武士(幕臣)、土木技術者。工学博士。位階および勲等は従四位・勲二等。 幕臣与力の中井国蔵長親・中井ふくの五男として嘉永5年12月27日、江戸浅草新堀端に生まれる。元治元年、幕臣石橋和三郎福庵の養子となったが、義父福庵は明治元年4月2日失踪した。明治12年(1879年)工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業。同年、下谷区仲御徒町に住する幕臣青山安保(義父福庵の異母兄)の長女の菊(文久3年6月28日生)と結婚。逓信省に出仕。イギリスに留学し灯台工事、その他の海上工事を研究する。
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、嘉永5年12月20日〈… 北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、嘉永5年12月20日〈1853年1月29日〉- 昭和6年〈1931年〉6月13日)は、日本の微生物学者、教育者。位階勲等は、従二位勲一等男爵。 貴族院議員、私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、私立北里研究所、北里研究所病院(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長・北里大学学祖、慶應義塾大学部医学科学長(1920年から慶應義塾大学医学部初代学部長)、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代院長。 「近代日本医学の父」として知られる。1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年(明治23年)に血清療法を開発、さらに、1894年(明治27年)にペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれる。
曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11… 曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11月24日) - 1937年(昭和12年)12月6日)は日本の建築家。
大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(185… 大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(1852年12月20日) - 1912年2月19日)は日本の外科医、医学博士。日本の腹部外科の開拓者。 1852年(嘉永5年)、上山藩御典医、大森快春の長男として江戸に生まれる。以後、出羽国上山藩に移り、藩校の明新館に入学。 1879年東京大学医学部卒業後、福岡医学校に赴任し、1885年同校校長となる。1885年日本で初めて帝王切開手術に成功し、以来次々に腹部手術を行う。 1903年、福岡医科大学が創設された際に、初代学長兼付属医院長となり、外科学講座をもつ。1909年病気により退官、1911年九州帝国大学名誉教授。 1910年、九州大学医学部に大森の銅像が建てられた。
高野瀬 宗則(たかのせ むねのり、1852年11月3日(嘉永… 高野瀬 宗則(たかのせ むねのり、1852年11月3日(嘉永5年9月22日) - 1915年(大正4年)4月3日)は、理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
櫻井 房記(さくらい ふさき、1852年9月28日(嘉永5年… 櫻井 房記(さくらい ふさき、1852年9月28日(嘉永5年8月15日) - 1928年(昭和3年)12月12日)は、明治から昭和初期にかけての日本の教育者。 学位制度草創期の理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)初代所長、第五高等学校第5代校長。 1852年9月28日(嘉永5年8月15日)、櫻井甚太郎・八百夫妻の長男として加賀国加賀藩金沢馬場一蕃丁に生まれる。父・甚太郎は先妻との間に2人の男子がおり、2人の異母兄を含めれば房記は甚太郎の三男にあたる。母・八百は甚太郎の後妻。1869年(明治2年)、藩費生として開成学校(後の大学南校、現・東京大学)に入学。1870年(明治3年)、大学南校で貢進生に選ばれる。
岡 玄卿(おか げんけい / げんきょう、嘉永5年7月18日… 岡 玄卿(おか げんけい / げんきょう、嘉永5年7月18日(1852年9月1日) - 大正14年(1925年)3月25日)は、日本の医師、華族(男爵)、宮中顧問官。医学博士。位階および勲等は正三位勲一等。 津山藩士の岡清二郎の子として大坂の藩の蔵屋敷で生まれる。父は早くに死に、母は再婚したため、親戚の岡芳蔵のもとに引き取られ、養育された。 明治になり上京し、大学東校(1874年に東京医学校に改称)に入学して医学を専攻し、ドイツ帝国からのお雇い外国人医師であるレオポルト・ミュルレルとテオドール・ホフマンに医学を学ぶ。1876年に東京医学校を第一期生として首席で卒業。翌年に東京大学医学部に改称された同校で助教授、教授を歴任し、大学病院内科部長を務めた。
鮫島 晋(さめじま しん、1852年(嘉永5年) - 191… 鮫島 晋(さめじま しん、1852年(嘉永5年) - 1917年(大正6年)12月9日)は、明治、大正時代の理学士。東京物理学講習所(現在の東京理科大学)の設立者の一人。 酒好きで純朴、誠実で不器用な人柄で教師の仕事に熱心であったとされる。 1899年(明治32年)から6年間、小諸義塾の教師仲間に島崎藤村がおり、藤村の『千曲川のスケッチ』、『千曲川旅情の詩』、『貧しい理学士』などに鮫島が描かれた。 他の物理学校設立発起人が、日本の物理学草創期を飾る学者・教育者としてそれぞれ功成り名遂げたのと対照的に、田舎教師として生き貧窮のうちに死去した。晩年には物理学校関係者と連絡を絶っており、その死は他の発起人に知らされることもなく、したがって東京理大の校史においても発起人21名のうち彼の経歴だけが長い間不明になっていた。
服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4… 服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4年2月11日) - 1929年(昭和4年)1月25日)は明治時代の日本の文部・内務官僚。族籍は山口県士族。 東京英語学校、東京大学法・理・文各学部綜理(1880年(明治13年)6月4日)、東京大学予備門(いずれも東京大学教養学部の前身)校長・予備門長、大阪専門学校(京都大学の前身の1つ)綜理、日本地震学会初代会長、東京大学法学部初代学部長、共立女子職業学校(共立女子中学校・高等学校の前身)校長、文部省普通学務局長、岩手・広島・長崎・兵庫の各県知事、貴族院議員を歴任した。 長州藩士槍術指南役渡辺兵蔵の三男として周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市)で誕生する。
印東 玄得(いんどう げんとく、1850年(嘉永3年) - … 印東 玄得(いんどう げんとく、1850年(嘉永3年) - 1895年(明治28年)11月25日)は、幕末から明治にかけての医学者。東京大学助教授。 1850年、紀伊新宮生まれ。本姓は坪井で、後に印東氏を継いだ。東京に出て、大学東校に入る。 1876年、東京医学校卒業。准医学士となり、薬物学に長ず。 1879年、東京帝国大学助教を拝命。1881年頃、助教授に任じ、1884年10月に花岡院長の没後を継いで第一医院副院長心得となり、1887年10月に医学士の称号を授与される。阿部泰蔵等と明治生命保険を創立、その保険医となる。1895年11月25日、東京に没す。墓所は台東区の祝言寺。
鳴瀧 幸恭(なるたき ゆききよ、1849年2月5日(嘉永2年… 鳴瀧 幸恭(なるたき ゆききよ、1849年2月5日(嘉永2年1月13日)- 1925年(大正14年)10月31日)は、日本の政治家。初代神戸市長(在任:1889年5月21日 - 1901年5月20日)。市営の上水道事業実現に取り組み、「水道市長」と呼ばれた。京都府出身。 1849年(嘉永2年)、京都に生まれる。生家は寺侍であった。東京帝国大学卒業後、1873年から兵庫県で小学校教員、県警視課職員、検事補(1881年(明治14年))などを務める。その後兵庫県知事内海忠勝の下で庶務課長として頭角を現した鳴瀧は内海の懐刀と呼ばれるようになり、神戸区長に任命された。この時内海からは市制施行への準備を指示されており、市制施行後の1889年(明治22年)5月にそのまま神戸市初代市長に就任した。
上原 六四郎(うえはら ろくしろう、嘉永元年12月3日(18… 上原 六四郎(うえはら ろくしろう、嘉永元年12月3日(1848年12月28日) - 大正2年(1913年)4月1日)は、日本の音響学者・美術工芸教育者。 岩槻藩士として江戸に生まれる。1869年(明治2年)、開成学校に入ってフランス語を学び、翌年大学少得業生となる。文部省少助教となり、陸軍士官学校に出仕。軽気球製作御用取扱を命じられた。1882年(明治15年)より、文部省専門学務局音楽取調掛勤務、東京職工学校勤務、東京商業学校教諭などを歴任した。1889年(明治22年)、東京美術学校数学講師となり、翌年に東京工業学校教諭・東京美術学校教諭となった。1890年(明治23年)に東京工業学校教授・東京美術学校教授となり、翌年に東京工業学校附属職工徒弟学校主事となった。
三宅 秀(みやけ ひいず、嘉永元年11月17日(1848年1… 三宅 秀(みやけ ひいず、嘉永元年11月17日(1848年12月12日) - 昭和13年(1938年)3月16日)は、日本の医師・洋学者・医学者・貴族院議員。東京大学で最初の医学博士、のち名誉教授。幼名は復一(またいち)。
福原 有信(ふくはら ありのぶ、嘉永元年4月8日〈1848年… 福原 有信(ふくはら ありのぶ、嘉永元年4月8日〈1848年5月10日〉 - 大正13年〈1924年〉3月31日)は、日本の実業家。第3代日本薬剤師会会長、資生堂創業者として知られる。 安房国松岡村(現:千葉県館山市竜岡)の郷士の家に、平民である福原市左衛門の次男として生まれる。1865年、18歳で幕府医学所に入って西洋薬学を学び、現代で言う薬剤師として2年後の1867年から同所で雇われる。1868年7月に東京大学病院雇、1869年に大学東校(現在の東京大学医学部)中司薬(職員)となり、1871年海軍病院薬局長となる。 その翌年の1872年、23歳の時には、官を辞して、民間初の洋風調剤薬局となる「資生堂」を銀座に開業。
三輪 光五郎(みわ みつごろう、1848年(嘉永元年) - … 三輪 光五郎(みわ みつごろう、1848年(嘉永元年) - ?)は、明治期の武士(中津藩士)、恵比寿麦酒会社(恵比寿ビール)支配人。 豊前国中津生まれ。進脩館に入り漢籍を学ぶ。1864年(元治元年)福澤諭吉と共に上京し築地福沢塾(慶應義塾)に入り洋学を修める。1866年(慶応2年)長州征伐が起こると奥平氏と同じく徳川氏に与して参戦。海軍兵学寮の教授となり英学を教授する。1876年(明治9年)東京大学医科大学の事務局に入る。のちに退職し東京府目黒村の副支配人となる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
今村 和郎(いまむら わろう / かずろう、弘化3年9月3日… 今村 和郎(いまむら わろう / かずろう、弘化3年9月3日〈1846年10月22日〉 - 1891年〈明治24年〉5月4日)は、明治時代の日本の法制官僚・教育者。 土佐国出身。大学南校(東京大学の前身の1つ)教員を経て岩倉使節団の随員としてフランスに渡り、パリ東洋語学校(フランス国立東洋言語文化学院の前身)に勤務。帰国後は内務省取調局長、法制局(内閣法制局の前身)部長、明治法律学校(明治大学の前身)講師、貴族院議員、行政裁判所評定官を歴任し、法律取調委員会の報告委員として旧民法のうち日本政府法律顧問ボアソナードが起草した財産法部分(ボアソナード民法典)の制定に尽力した。 弘化3年9月3日(1846年10月22日)、土佐国高岡郡高岡村に商家の長男として生まれる。
何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13… 何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13日(1840年8月10日) - 大正12年(1923年)3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した日本の翻訳家、幕臣、官僚、裁判官、教育者、唐通事。通称は礼之助。姓は「か」ではなく「が」と読む。 英語稽古所学頭を務めたほか、長崎で創設した塾は、塾生が300名を越え、維新後に活躍する多くの英才を輩出したが、その実績は幕末蘭学における緒方洪庵の適塾、伊東玄朴の象先堂、佐倉の順天堂と対比すべく、同じ英学においては福澤諭吉の慶應義塾に匹敵するものであった。開成所(現・東京大学)教授も務め、大阪洋学校(現・京都大学)の創設者でもある。
田口 和美(たぐち かずよし、天保10年10月15日(183… 田口 和美(たぐち かずよし、天保10年10月15日(1839年11月20日) - 1904年(明治37年)2月3日)は、日本の医学者。字は士行、号は節堂。 武蔵国埼玉郡小野袋村(現在の埼玉県加須市)出身。医師の家に生まれ、江戸に出て佐藤一斎や塩谷宕陰のもとで漢学を学んだ。その後、林洞海のもとで蘭学を学んだ。1862年(文久2年)より下野国佐野で開業。1869年(明治2年)、大学東校に入り、ウィリアム・ウィリスらについて化学・解剖学・生理学を学んだ。東京医学校教授、東京大学医学部教授、東京帝国大学医科大学教授を歴任。1887年(明治20年)、ドイツに留学し、翌年に日本初の医学博士の学位を得た。墓所は染井霊園(1イ-1-12)。