佐竹 次郎(さたけ じろう、1896年7月10日 - 195… 佐竹 次郎(さたけ じろう、1896年7月10日 - 1959年10月21日)は、日本の経営者。 山梨県甲府市出身。1921年に東京帝国大学経済学部を卒業。 南満洲鉄道、富国徴兵保険での勤務、日産生命保険社長を経て、1951年4月から1953年9月までに富国生命保険社長を務め、1953年10月には昭和電工社長に就任。 1959年10月21日自殺により、死去。63歳没。
長崎 惣之助(ながさき そうのすけ、明治29年(1896年)… 長崎 惣之助(ながさき そうのすけ、明治29年(1896年)6月25日 - 昭和37年(1962年)11月7日)は、日本の鉄道官僚、実業家。第3代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1951年-1955年)。日本エアウェイ開発社長(在任1961年-1962年)。 秋田県南秋田郡川尻村(後の秋田市川尻上野町)で村長の長崎惣太郎の長男として生まれる。幼少の頃から成績優秀で長身でもあり、川尻小学校・牛島高等小学校を経て秋田中学校へと入る。中学校ではボート部に所属し、その後第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部独法科を卒業。 1920年鉄道省入省。1926年在外研究員として欧米に派遣され、その後1930年に設置された国際観光局の庶務課長に任命され、1932年経理局会計課長となる。
北代 誠弥(きただい しげひろ、1896年(明治29年)5月… 北代 誠弥(きただい しげひろ、1896年(明治29年)5月13日 - 1986年(昭和61年)1月10日)は、日本の実業家、銀行家である。 和歌山県和歌山市に生まれ、東京帝国大学経済学部(現在の東京大学大学院経済学研究科・経済学部)に入学する。1920年(大正9年)に卒業後は日本銀行に勤務し、秘書役や外事局長、理事、札幌支店長等を歴任した。第二次世界大戦直後の1946年(昭和21年)には当時総裁を務めていた一万田尚登の補佐として副総裁に就任し、総裁と共に戦後のインフレーション抑制にあたる。 翌1947年(昭和22年)には金融面における産業の復興のために復興金融金庫(現在の日本政策投資銀行)の理事長を1949年(昭和24年)の退任まで兼任し、1966年(昭和41年)には日本ソフトウエアの社長を務めた。
李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4… 李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4月26日または1906年6月6日 - 1961年6月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の農業経済学者、農学者、教育者、政治家、実業家、ジャーナリスト。制憲・第5代(参議院)韓国国会議員、檀国大学学長、成均館大学校総長を務めた。 本貫は韓山李氏(朝鮮語版)。号は心堂。キリスト教徒。 忠清南道舒川郡麒山面出身。漢学教育を経て、1920年に水原農林専門学校卒、1924年に東京帝国大学(現・東京大学)農学部農科卒。日本留学中にキリスト教に入信した。公州永明学校教員を2年間務めた後、1927年にカンザス州立大学大学院修了、1929年にウィスコンシン州立大学大学院農業経済学専攻修了(博士)。
高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 -… 高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 - 1969年3月12日)は、第2代東京電力(現:東京電力ホールディングス)社長。関東配電社長。 新潟県加茂市出身。1920年(大正9年)、東京帝国大学電気工学科を出て猪苗代水力電気入社。東京電燈、関東配電と技術畑で育ち、1946年に関東配電社長。1952年に東京電力社長。 1958年、社員が収賄罪で起訴され引責辞任。1969年3月、腸腫瘍のため東京電力病院で死去。72歳。 初代 安蔵弥輔 / 2代 高井亮太郎 / 3代 青木均一 / 4代 木川田一隆 / 5代 水野久男 / 6代 平岩外四 / 7代 那須翔 / 8代 荒木浩 / 9代 南直哉 / 10代 勝俣恒久 / 11代 清水正孝 / 12代 西沢俊夫 / 13代 廣瀬直己 / 14代 小早川智明 初代 新木栄吉 / 2代 新井章治 / 3代 安蔵弥輔 / 4代 菅礼之助 / 5代 青木均一 / 6代 木川田一隆 / 7代 平岩外四 / 8代 那須翔 / 9代 荒木浩 / 10代 田村滋美 / 11代 勝俣恒久 / 12代 下河邉和彦 / 13代 数土文夫 / 14代 川村隆 この項目は、エネルギーに関連した書きかけの項目です。
大山 秀雄(おおやま ひでお、1896年(明治29年)3月1… 大山 秀雄(おおやま ひでお、1896年(明治29年)3月19日 - 1990年(平成2年)8月20日)は、日本の実業家。京成電鉄第4代社長。 岡山県出身。旧制興譲館中学(現:興譲館高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1920年に東京帝国大学法学部を卒業後、鉄道省に入省。1955年11月から1958年11月まで京成電鉄代表取締役社長を務めた。退任後、京成電鉄会長、日本交通協会会長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
笹山 忠夫(ささやま ただお、1896年3月9日 - 197… 笹山 忠夫(ささやま ただお、1896年3月9日 - 1974年9月26日)は、日本の実業家。アラスカパルプ社長。 大分県大分市出身。旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学卒。卒業後は日本銀行に入り、その後安田銀行を経て、日本興業銀行に勤める。戦後の1946年、財閥解体による持株会社整理委員長に就任した。持株会社整理委員長時代の1948年、昭和電工に関する問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1953年、戦後初の海外事業会社アラスカパルプを設立した。1956年、同社の社長に就任、1968年に会長に就任した。1974年死去。 1957年には日本相撲協会に請われて設立されたばかりの運営審議委員会委員となった。
野中 春三(のなか しゅんぞう、1896年(明治29年)3月… 野中 春三(のなか しゅんぞう、1896年(明治29年)3月3日 - 1960年(昭和35年)6月6日)は、日本の官僚・実業家。西日本鉄道社長を務めた。 福岡県柳川市出身。1921年(大正10年)東京帝国大学法学部を卒業後、鉄道省に入省。1940年(昭和15年)仙台鉄道管理局局長に就任。退官後は日本通運理事を経て、西日本鉄道副社長に就任。1945年(昭和20年)に同社社長に就任。1951年(昭和26年)に同社会長に就任した。このほか、RKB毎日放送、井筒屋の各取締役などを歴任した。 1959年(昭和34年)に西日本鉄道社長に再就任したものの、在任中の1960年(昭和35年)6月6日に九州大学病院(福岡市)で死去。
諸井 貫一(もろい かんいち、1896年1月11日 - 19… 諸井 貫一(もろい かんいち、1896年1月11日 - 1968年5月21日)は、東京府(現東京都)生まれの実業家。セメント製造事業の開拓を手掛けた諸井恒平(渋沢栄一とは親類関係に当たる)の長男で、東諸井家12代当主。秩父セメント(現太平洋セメント)社長、秩父鉄道会長、埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)会長、日本煉瓦製造会社会長を歴任し、経済団体連合会(経団連)の創設など日本の近代化に深く貢献した。従三位勲一等。
吉原 政智(よしはら まさとも、1896年(明治29年) -… 吉原 政智(よしはら まさとも、1896年(明治29年) - 1988年(昭和63年)11月14日)は、日本の実業家。東洋汽船代表取締役社長や、東京會舘代表取締役社長、初代パレスホテル代表取締役社長、日本ホテル協会会長等を歴任した。 1896年、佐賀県生まれ。1922年東京帝国大学法学部卒業、安田保善社(現安田不動産)入社。1941年安田保善社参事。1943年東洋汽船社長。1948年協立汽船会長、東京會舘社長。1960年に商工省貿易庁直轄バイヤーズホテルの東京會舘への払い下げが行われたことを受け設立されたパレスホテルの初代社長に就任。吉原政雄と親子2代にわたり、岳父小林一三の思想であったオフィス併設型にすることにより得る賃料収入による経営安定化というホテル経営を推し進めた。
岡村 丹二(おかむら たんじ、1895年12月19日 - 1… 岡村 丹二(おかむら たんじ、1895年12月19日 - 1954年12月8日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1921年に東京帝国大学経済科を卒業し、鉄道省、大阪鉄道での勤務を経て、1930年10月に宇治川電気(のちの山陽電気鉄道)に入社。 1940年10月に常務、1943年10月に専務を経て、1949年4月に社長に就任。 1954年12月8日、社長在任中に死去。58歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
福田 悌夫(ふくだ やすお、1895年(明治28年)12月4… 福田 悌夫(ふくだ やすお、1895年(明治28年)12月4日 - 1966年(昭和41年)8月28日)は、大正から昭和期の地主、農業経営者、著述家、教育者、実業家、政治家。衆議院議員、山口県都濃郡福川町長。 山口県都濃郡福川村(福川町(第1次)、徳山市、福川町(第2次)、南陽町、新南陽市を経て現周南市)で福田秀夫の五男として生まれ、素封家福田民平の養子となる。1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 農業を営む。著述業にも従事し、雑誌『新思潮』を経営。その後、徳山実業実践学校講師、徳山商業学校教諭を務めた。政治家道源権治の後継者と目され、都濃郡農会長、同教育会長の後任に推薦されて就任。
中尾 幸雄(なかお さちお、1895年11月3日 - 199… 中尾 幸雄(なかお さちお、1895年11月3日 - 1998年10月4日)は、日本の経営者。ゼネラル石油社長を務めた。愛媛県南宇和郡愛南町出身。 1920年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1947年7月にゼネラル物産(のちのゼネラル石油)に転じ、1948年4月に取締役に就任し、1953年4月に副社長を経て、同年11月から1967年11月までに社長を務めた。1961年5月から1963年5月までに石油連盟会長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章した。 1998年10月4日心不全のために死去。102歳没。
甘粕 二郎(あまかす じろう、1895年10月24日 - 1… 甘粕 二郎(あまかす じろう、1895年10月24日 - 1987年9月13日)は、日本の経営者、銀行家。山形県出身。甘粕正彦の弟。 1919年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。三菱商事、三菱銀行での勤務を経て、1927年に三菱信託銀行に転じ、取締役、常務、副社長を歴任し、1959年6月に社長に就任。1965年5月には会長に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1975年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年9月13日老衰のために死去。91歳没。墓所は多磨霊園。
内ヶ﨑 贇五郎(うちがさき うんごろう 1895年(明治28… 内ヶ﨑 贇五郎(うちがさき うんごろう 1895年(明治28年)9月25日 – 1982年(昭和57年)9月22日)は、日本の実業家。 宮城県黒川郡富谷町(現・富谷市)に造り酒屋の家に生まれる。父は富谷村長を務めた内ヶ崎儀左衛門。一族には、政治家で衆議院議長を務めた内ヶ崎作三郎がいる。 旧制第二高等学校から東京帝国大学工学部電気工学科に進み、1919年(大正8年)に大阪電燈に入社。大阪電燈が大阪市営になって後は大同電力に移り、第二次世界大戦時に設立された日本発送電東北支店長・東北配電社長を歴任し電力事業に一貫して携わった。 1951年(昭和26年)5月1日、第二次世界大戦後の電力事業再編に伴う、日本発送電・東北配電の解体・改組に伴い設立された東北電力の初代社長に就任。
岩崎 彦弥太(いわさき ひこやた、1895年9月15日 - … 岩崎 彦弥太(いわさき ひこやた、1895年9月15日 - 1967年9月8日)は、三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員で、三菱合資会社元社長・岩崎久弥の長男。 東京府(現:東京都)出身。 1908年に東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1913年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。その後、旧制学習院高等科を経て1920年に東京帝国大学文学部社会学科を卒業。 一旦大学院に進むが、1922年英国に留学し、帰国後の1926年に三菱合資会社に入社。1934年副社長に就任。三菱財閥傘下の企業の取締役にも就任した。戦前の長者番付では常連と化しており、1939年公表の納税額は日本一となる228万2076円を記録。
小泉 梧郎(こいずみ ごろう、1895年(明治28年)8月2… 小泉 梧郎(こいずみ ごろう、1895年(明治28年)8月24日 - 1974年(昭和49年)3月4日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 鳥取県出身。小泉謙蔵の五男として生まれる。第三高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し山梨県属となる。 以後、内務省社会局事務官、山形県書記官・警察部長、熊本県書記官・経済部長、広島県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、国民精神総動員本部常任理事、大政翼賛会協力会議部長などを歴任。 1942年1月、島根県知事に就任。
伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 19… 伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 1959年3月18日)は、日本の経営者。資生堂社長を務めた。 大分県中津市出身。1920年に東京帝国大学理学部化学科を卒業し、大学院で研究活動をする傍らに福原資生堂に入社した。1930年に資生堂取締役に就任し、専務を経て、1954年6月に社長に就任した。 1957年に藍綬褒章を受章した。 1959年3月18日、脳溢血のためにで死去。63歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中山 理々(なかやま りり、1895年5月20日 - 198… 中山 理々(なかやま りり、1895年5月20日 - 1981年7月27日)は、東京都出身の日本の宗教家・実業家。浄土真宗東本願寺派法善寺住職。東京大学文学部哲学科卒業。 国際派の仏教人として知られ、世界平和の推進に尽力。日本仏教鑚仰会理事長、世界宗教者平和会議日本委員会常務理事、ガンジー平和連盟理事長、東京博善社社長、仏教タイムス社長、真宗大谷派宗議会議員などの要職を歴任した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
窪田 俊彦(くぼた としひこ、1895年4月1日 - 198… 窪田 俊彦(くぼた としひこ、1895年4月1日 - 1984年4月12日)は、日本の経営者。石川県出身。 1921年に東京帝国大学を卒業。北海道炭礦汽船での勤務を経て、1961年5月から1965年11月までに札幌テレビ放送社長を務めた。 1984年4月12日、心不全のために死去。89歳没。
李家 孝(りのいえ たかし、1895年(明治20年)3月28… 李家 孝(りのいえ たかし、1895年(明治20年)3月28日 - 1978年(昭和53年)2月18日)は、日本の実業家。三菱製鋼株式会社元取締役会長。剣道範士。 李家隆介の次男として生まれる。1919年(大正8年)、東京帝国大学工学部機械科卒業後、三菱重工業に入社。1941年(昭和16年)、三菱重工業神戸造船所造機工作部長を務める。1950年(昭和25年)、東日本重工業社長に就き、1952年(昭和27年)、三菱日本重工業株式会社取締役を経て、1955年(昭和30年)に三菱製鋼株式会社取締役会長兼三菱日本重工業株式会社取締役(後に相談役)に就任した。 趣味は剣道、謡曲、打球。宗教は真宗。 長男・孝信(三井物産・三井リース事業副社長)は新田帯革製造所(現ニッタ)社長新田長三の次女・絢子と結婚した。
前田 一(まえだ はじめ、1895年3月25日-1978年5… 前田 一(まえだ はじめ、1895年3月25日-1978年5月2日)は、昭和時代の経営者。日本経営者団体連盟(日経連)発足時から21年にわたって専務理事を務めた。一説には「サラリーマン」という語を広めた人物とされている。 佐賀県小城郡三日月村(現在の小城市)出身。東京帝国大学法学部を卒業後、経済学部に再入学して1921年に卒業、北海道炭礦汽船会社に入社して労務係となり、以後一貫して総務畑を歩む。1927年に著した『サラリマン物語』が日本に「サラリーマン」という和製英語を定着させるきっかけになったと言われている。1929年にヨーロッパに留学し、日本政府の要請で第12回国際労働会議の日本政府代表嘱託に加わっている。
石川 定俊(いしかわ さだとし、1895年(明治28年)3月… 石川 定俊(いしかわ さだとし、1895年(明治28年)3月24日- 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政長官、実業家。 石川龍助の長男として、秋田県秋田市に生まれる。札幌中学から東北帝国大学農学科予科にすすみ北海道帝国大学農学部を経て、1922年(大正11年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、台湾総督府殖産局に奉職する、高等試験行政科に合格。1924年(大正13年)10月、地方理事官に進み、台北州七星郡守に任じ、台北市助役、新竹州内務部地方課長、警務部理蕃課長、台北州警務部長、内務局土木課長、交通局鉄道部長などを歴任した。その後、1942年(昭和17年)7月に陸軍司政長官に任じ、ケドウ州(現インドネシア共和国ジャワ島中部ジャワ州)長官となった。
南家 碩次(なんけ せきじ、1895年〈明治28年〉3月3日… 南家 碩次(なんけ せきじ、1895年〈明治28年〉3月3日 - 没年不明)は、日本の実業家。 鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)に生まれる。1917年、第六高等学校を卒業する。1920年、東京帝国大学工学部採鉱学科を卒業する。満鉄に入社する。鞍山製鉄所に勤務する。 1923年、鞍山製鉄所桜桃園採鉱所長。1924年、撫順炭鉱古城子採炭所に勤務する。1931年、撫順炭鉱揚柏堡採炭所長。昭和製鋼所採鉱部次長、採鉱部部長を経て1941年理事に就任。 1943年、満州製鉄理事。1945年、満州製鉄東辺道支社長。鋼管鉱業取締役、三信建設社長、三信採石社長、三信コンサルタント社長をつとめる。 著書は『鑛山に賭ける』、『或る鉱山技師の手記』などがある。
小坂 武雄(こさか たけお、1895年(明治28年)1月23… 小坂 武雄(こさか たけお、1895年(明治28年)1月23日 - 1971年(昭和46年)10月26日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。小坂財閥小坂善之助の子。 1895年、長野県長野市で小坂善之助の息子として生まれる。東京帝国大学法学部卒業後、1924年に兄・小坂順造の経営する信濃毎日新聞社に入社する。1942年に同社社長に就任し、同年の衆議院選挙に翼賛政治体制協議会の推薦で長野県第1区から出馬して当選した(所属は翼賛政治会→大日本政治会→日本進歩党)。戦後、公職追放により社長を辞任するが、1953年に公職追放解除により再び社長に就任、積極経営で同社を発展させた。その後は長野商工会議所会頭などを歴任する。
加藤 厚太郎(かとう こうたろう、1895年(明治28年)1… 加藤 厚太郎(かとう こうたろう、1895年(明治28年)1月11日 - 1959年(昭和34年)2月3日)は、日本の実業家。伯爵。 加藤高明・春路夫妻の次男として東京府東京市(現・東京都)に生まれた。当時、加藤家に居候して厚太郎に勉強を教えていた家庭教師は、後に東急の創業者となる五島慶太であった。1919年(大正8年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、三菱財閥の持株会社・三菱合資会社に入社。イギリスに留学しオックスフォード大学で学び、帰国後三菱系の都市銀行・三菱銀行に入行。その間1926年(大正15年)4月2日に伯爵位を襲爵している。後に三菱系の損害保険会社・東明火災海上保険(現・日新火災海上保険)の取締役を務めた。
児島 健爾(こじま けんじ、1894年12月23日 - 19… 児島 健爾(こじま けんじ、1894年12月23日 - 1966年3月11日)は、日本の経営者、銀行家。千葉興業銀行頭取を務めた。兵庫県出身。 1920年に東京帝国大学独法科を卒業。 安田保善社、安田銀行での勤務を経て、1937年に第九十八銀行社長、1943年に千葉銀行副頭取を歴任し、1952年1月には千葉興業銀行頭取に就任。1963年5月には会長に就任。 1960年に黄綬褒章を受章。 1966年3月11日脳軟化症のために死去。71歳没。
伊藤 武雄(いとう たけお、1894年〈明治27年〉12月1… 伊藤 武雄(いとう たけお、1894年〈明治27年〉12月13日 - 1966年〈昭和41年〉11月19日)は、日本の実業家。大阪商船社長を務めた。 1894年(明治27年)12月13日、名古屋市にて父・釤平、母・みやの長男として誕生。幼少期は陸軍経理部の軍人であった父に伴われて東京、岡山などで暮らした。1913年(大正2年)、旧制岡山中学校を卒業、旧制第一高等学校文科丙類に入学。1916年(大正5年)、同校を卒業、東京帝国大学法学部法律学科に入学。1918年(大正7年)、高等文官試験行政科に合格、翌1919年(大正8年)、東京帝国大学を卒業、大阪商船に入社。 大阪商船では遠洋課に属し、上海、ロンドン、シンガポールに駐在した。
荘 清彦(しょう きよひこ、1894年11月25日 - 19… 荘 清彦(しょう きよひこ、1894年11月25日 - 1967年9月28日)は、日本の経営者。三菱商事社長を務めた。荘清次郎の次男。妻・花子は樺山資英の長女。 東京都出身。1920年に東京帝国大学経済学部を卒業し、三菱造船での勤務を経て、1932年に三菱商事に入社。機械部長、常務を経て、1948年に清光産業社長に就任し、1954年7月に三菱商事副社長に就任し、1960年7月には社長に昇格。1966年に会長に就任し、三菱重工業監査役、原子力産業会議評議員なども歴任。 1963年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1967年9月28日、心筋梗塞のためにで死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
飯田 清三(いいだ せいぞう、1894年8月22日 - 19… 飯田 清三(いいだ せいぞう、1894年8月22日 - 1976年9月24日)は、日本の実業家。野村證券第2代社長。 鹿児島県出身。1919年東京帝国大学卒業。野村證券常務取締役を経て、1940年野村證券専務取締役。1941年9月から1947年8月まで野村證券社長を務め、本店の東京移転などを行った。1942年野村信託取締役。1944年野村銀行取締役。1945年野村生命保険監査役。その後公職追放となり、1950年(昭和25年)に追放解除。1976年(昭和51年)に死去。墓所は多磨霊園。
豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、18… 豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、1894年(明治27年)6月11日 - 1952年(昭和27年)3月27日)は、日本の経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。位階は従五位。勲等は勲四等。豊田佐吉の長男。 トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。 豊田佐吉と佐原たみ(佐吉の妹の友人で最初の妻)の長男として生まれる。1892年(明治25年)から夫婦は東京市浅草外(当時の浅草区千束町)に住んでおり、里帰り出産のため静岡県敷知郡吉津村山口(現在の湖西市山口)で生まれるが、出生3か月のとき、貧困の中家庭を顧みることなく発明に没頭する夫に愛想を尽かした母親が家出したため祖父母の家で育つ。
早田 喜稔(そうだ よしとし、1894年〈明治27年〉6月1… 早田 喜稔(そうだ よしとし、1894年〈明治27年〉6月10日 - 1975年〈昭和50年〉4月12日)は、日本の実業家。帝国化学工業社長。族籍は東京士族。 東京府出身。佐賀県士族で内務省土木技師の早田喜成の長男。1912年、東京府立第一中学校を卒業。1913年、家督を相続。 1915年、第一高等学校を卒業。1918年、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。新田ベニヤ製造所重役を経て1935年、帝国化学工業を創立。 趣味は読書、打球、テニス、ゴルフ。宗教は曹洞宗。住所は東京府東京市大森区(現・東京都大田区)田園調布。 早田家は代々の佐賀藩士で、父祖は槍術指南役を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
鈴木 亨市(すずき きょういち、1894年5月24日 - 1… 鈴木 亨市(すずき きょういち、1894年5月24日 - 1969年7月30日)は、日本の経営者。愛知県豊橋市出身。 1919年に東京帝国大学法学部独法科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1943年10月に東海銀行に転じ、頭取となり、1959年から会長を務めた。 1962年3月から1968年2月までに名古屋商工会議所会頭を務めた。 1958年に藍綬褒章を受章。
2代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、1894年〈明治2… 2代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、1894年〈明治27年〉5月9日 - 1967年〈昭和42年〉9月28日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。群馬県前橋市長。初名・亮次。 のちに前橋市長を務める先代・江原桂三郎の次男として前橋市新町(現在の朝日町2丁目)に生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、三菱合資会社銀行部(三菱銀行)に勤務する。東京電燈前橋支店勤務、群馬中央銀行調査部長、同行常務取締役、群馬県農工銀行取締役などを歴任。さらに群馬大同銀行(現・群馬銀行)常務取締役となった。1929年(昭和4年)に桂三郎の名を襲名。 1933年(昭和8年)12月24日、前橋市長に就任。
北村 孝治郎(きたむら こうじろう、1894年4月18日 -… 北村 孝治郎(きたむら こうじろう、1894年4月18日 - 1969年12月25日 )は、日本の銀行家、経営者。滋賀銀行頭取を務めた。 滋賀県大津市出身。1917年に東京帝国大学独法科を卒業。横浜正金銀行での勤務を経て、1953年4月に滋賀銀行監事に就任し、1957年10月には頭取に昇格。1963年10月には会長に就任。75歳没。 横浜正金銀行からスイスの国際決済銀行 (BIS)に派遣されていた1945年、同じく派遣者の吉村侃とともに、スイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)およびスイス駐在陸軍武官の岡本清福の支援を得ながら、スウェーデンからBISに派遣されていたペール・ヤコブソンを介して、アメリカの諜報機関戦略情報局 (OSS)のアレン・ウェルシュ・ダレスとの間で日本の終戦工作を(ヤコブソンが別々に日本とアメリカの関係者と会合する形で)おこなった。
阿部 謙夫(あべ しずお、1894年〈明治27年〉4月13日… 阿部 謙夫(あべ しずお、1894年〈明治27年〉4月13日 - 1972年〈昭和47年〉1月2日)は、日本の技術官、実業家。 逓信省、東京市、鉄道省に勤務した後、北海道新聞社社長となり、北海道放送を設立して初代社長を務めた。 阿部宇之八の三男として札幌区に生まれる。札幌区創成尋常小学校、札幌区創成高等小学校、北海道庁立札幌中学校を経て、1911年(明治44年)第一高等学校第二部甲類に無試験検定で入学、1914年(大正3年)同校第二部工科卒業。1917年(大正6年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。 同年逓信省に入省。翌1918年(大正7年)に九州逓信局水力課長となり、九州各地の河川水を発電に利用するための水量調査を行った。
岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月… 岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月27日 - 1972年 <昭和47年> 12月3日)は、日本の経営者。日本鉱業社長を務めた。位階は正五位。 徳島県徳島市出身。1918年に東京帝国大学採掘学科を卒業し、久原鉱業に入社。1939年5月に日本鉱業に転じ、1945年5月に取締役に就任し、1947年4月から1957年11月までに社長を務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1972年12月3日、肺化膿症で死去した。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)… 植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)3月12日 - 1978年(昭和53年)8月1日)は、昭和初期から後期(1920年代 - 1970年代)の財界人、官僚。札幌オリンピック組織委員会会長。 経済団体連合会(現:日本経済団体連合会)創設に加わり事務局長となるも、公職追放となる。解除後、第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) - 1974年(昭和49年) )。 東京府東京市に植村澄三郎の長男として生まれる。父の仕事の関係で、幼少期を札幌で過ごす。札幌区創成尋常小学校、慶應義塾幼稚舎、東京府立一中、第一高等学校を経て1918年(大正7年) 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
桑田 時一郎(くわた ときいちろう、1894年 <明治27年… 桑田 時一郎(くわた ときいちろう、1894年 <明治27年> 3月12日 - 1991年 <平成3年> 7月5日)は、日本の経営者。日本化成工業社長を務めた。位階は正四位。 兵庫県姫路市出身。1918年に東京帝国大学理学部応用化学科を卒業し、同年に旭硝子に入社。1940年5月に日本化成工業(のちの三菱化成)に転じ、1943年9月に取締役に就任し、1946年12月に常務を経て、1950年6月には社長に就任。1958年3月にから1959年9月に会長を務めた。 1964年4月には科学技術学園理事長に就任。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1991年7月5日肺炎のために死去。
貴志 喜四郎(きし きしろう、1894年2月6日 - 193… 貴志 喜四郎(きし きしろう、1894年2月6日 - 1933年12月14日)は、大正・昭和期の実業家。関東軍財務顧問。大阪三品取引所常務理事。 佐賀県藤津郡嬉野町(現・嬉野市)出身。東京帝大法科を卒業後、大阪の貴志米吉の養子となる。逓信省書記官を経て、大阪三品取引所の書記となり、のち常務理事に就任。 一方、関東軍財務顧問となり、1932年(昭和7年)建国間もない満州国政府の要請で大陸に渡る。 日蒙貿易協会の石塚忠の仲介により、当時の関東軍参謀長の小磯国昭中将と新会社の設立を計画していたが、新会社は満州産業の開発を目的としており、主に大阪・東京の少壮投資家が出資した3000万円を資本金とした。この新会社は国有企業とし、貴志喜四郎が委託経営をする予定であった。
田口 政五郎(たぐち まさごろう、1894年(明治27年)2… 田口 政五郎(たぐち まさごろう、1894年(明治27年)2月3日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、兵庫県明石市長、同明石郡垂水村長、同垂水町長。 兵庫県明石郡、のちの明石市で生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学経済学部を卒業した。 1923年(大正12年)兵庫県会議員に選出された。その後、垂水村長、垂水町長(2期)を務めた。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で兵庫県地方区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)した。次の第2回通常選挙には出馬せず、参議院議員に1期在任した。この間、第3次吉田内閣大蔵政務次官などを務めた。
篠田 鐐(しのだ りょう、1894年(明治27年)1月25日… 篠田 鐐(しのだ りょう、1894年(明治27年)1月25日 - 1979年(昭和54年)5月8日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。工学博士。 愛知県出身。陸軍少将・工学博士、篠田金の長男として生まれる。東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第1連隊付となる。1917年(大正6年)11月、陸軍砲工学校高等科(23期)を卒業した。陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部応用科学科で学び、1922年(大正11年)3月に卒業した。さらに同大学院で学び、1925年(大正14年)3月に修了した。 1925年5月、陸軍科学研究所員に発令。
山岡 慎一(やまおか しんいち、1894年(明治27年)1月… 山岡 慎一(やまおか しんいち、1894年(明治27年)1月19日 - 没年不明。旧字体:山岡愼一)は、日本の陸上競技選手(短距離走)、実業家。東京帝国大学在学中に1920年アントワープオリンピックに出場した。 山岡清直の長男として、京都府に生まれる。東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部に入学。 在学中に1920年アントワープオリンピックの男子100m・200m走に出場。男子100mは8組4着で記録なし、男子200mは1組4着の23秒9でいずれも予選落ちに終わった。 1922年(大正11年)同大を卒業し、1924年(大正13年)父の経営する高野捺染工業所に入り、翌年取締役に就任。
藤川 博(ふじかわ とおる、1894年 <明治27年> 1月… 藤川 博(ふじかわ とおる、1894年 <明治27年> 1月3日 - 1977年 <昭和52年> 3月25日)は、日本の経営者。熊本県出身。位階は従四位。 1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に帝国生命保険(のちの朝日生命保険)に入社。東京大学経済学部で講師を務め、1942年7月に常務に就任し、副社長を経て、1953年8月には社長に就任。1961年5月から1965年5月までに会長を務め、京浜急行電鉄取締役も務めた。 1958年に藍綬褒章を受章し、1965年4月に勲三等瑞宝章を受章。 19773月25日心筋梗塞のために死去。83歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
小林 采男(こばやし うねお、1894年 - 1979年)は… 小林 采男(こばやし うねお、1894年 - 1979年)は、日本の実業家・慈善家。小林理学研究所創業者。 弘法大師に憧れ、当初は僧侶になることをめざしたが、東京帝国大学政治学科を1919年に卒業した後、農商務省・商工省に勤務する傍ら地質学を学び、優秀な鉱山技師として知られるようになる。 その後科学の力で人々を救うことを決意して、1934年に小林鉱業株式会社を興し、朝鮮半島各地でタングステン鉱山を操業した。 1940年に小林理学研究所を設立。公職追放を受けたものの、戦後も企業経営や教育機関の運営などで活躍した。1969年に大韓重石鉱業(朝鮮語版)(米軍・韓国政府の接収を経て小林鉱業の資産をもとに設立された韓国企業。
横山 四郎(横山 四朗、よこやま しろう、1893年〈明治2… 横山 四郎(横山 四朗、よこやま しろう、1893年〈明治26年〉11月13日 - 没年不明)は、日本の薬剤師、地主、政治家、神奈川県多額納税者、実業家。神奈川県議会議員、横浜市会議員。第85代神奈川県議会議長横山哲夫の父。 神奈川県橘樹郡旭村(現・横浜市)出身。横山秀民の長男。1916年、東大農科実科を卒業。1919年、薬剤師試験合格。日本大学法科卒業。農業を営む。横浜市方面委員、土地賃貸価格調査委員を経て1938年以来横浜市会議員に2回当選する。 横浜市功労者となり、同市学務委員、所得調査委員、家屋賃貸価格調査委員を歴任する。1955年4月以降3回神奈川県議会議員に当選する。1965年11月、勲五等を受く。
田路 舜哉(とうじ しゅんや、1893年11月12日 - 1… 田路 舜哉(とうじ しゅんや、1893年11月12日 - 1961年7月5日)は、日本の実業家。住友商事の創業者。「ケンカ田路」・「ムラマサ(名刀村正の意)」の異名をもち、住友商事の「建業の大宗」と称された。 1893年、明治26年11月12日、兵庫県宍粟郡一宮町(現宍粟市)安積において出生。父、本條竹五郎、母ユキの長男として生まれる。後に、田路家に養子に入り、母方の田路姓を名乗る。実弟の本條猛二は、山陽自動車運送の創業者。 戦争終結が目前にせまった昭和20年8月9日京都衣笠の住友別邸に第七代住友総理事古田俊之助(住友最後の総理事)以下、住友本社の課長以上の幹部が緊急集結し、戦後の具体策の検討がはじまった。
永井 英修(ながい えいしゅう、1893年(明治26年)11… 永井 英修(ながい えいしゅう、1893年(明治26年)11月7日 - 1967年(昭和42年)2月19日)は、大正から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家。衆議院議員。戦後の炭鉱開発を担った。 佐賀県小城郡多久村(現多久市多久町西ノ原)で永井英迅の長男として生れる。1920年(大正9年)東京帝国大学工学部採鉱学科を卒業した。 1920年、高取鉱業(佐賀県)に入社し、杵島炭鉱長、大鶴炭鉱長、鉱業部長、常務取締役を歴任。その他、湘南製作所取締役、住ノ江造船取締役、西日本坑木取締役、大日鉱業常務取締役、杵島炭礦専務取締役、大日鉱業社長、佐賀相互銀行社長、花菱商事社長、自由文化出版社代表者などを務めた。
高垣 勝次郎(たかがき かつじろう、1893年10月26日 … 高垣 勝次郎(たかがき かつじろう、1893年10月26日 - 1967年4月30日)は、日本の実業家。 旧三菱商事最後の社長で、戦後財閥解体された三菱商事を再興し初代社長も務めた。広島県尾道市出身。東京銀行の最後の頭取及び東京三菱銀行の初代頭取を務めた高垣佑は息子。 第一高等学校から1918年、東京帝国大学法学部を卒業後、新設された三菱商事に入社。ロンドン支店他、上海支店長、新京支店長、ハルビン支店長など、大半を大陸で過ごし三井物産に引けを取らない業績を上げた。1944年取締役、満州で終戦を迎え1946年帰国。同年常務取締役、翌1947年同社代表取締役社長就任。しかしGHQによる解散命令(財閥解体)を受け同社清算人となる。
平沢 長吉(平澤、ひらさわ ちょうきち、1893年(明治26… 平沢 長吉(平澤、ひらさわ ちょうきち、1893年(明治26年)10月5日 - 1960年(昭和35年)6月14日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 秋田県南秋田郡土崎港町本山町(現秋田市土崎港中央)で、平沢喜一郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)東京帝国大学農科大学実科を卒業した。 木材業を営み、出羽林業を設立して取締役に就任。土崎木材商業組合長、秋田県木材業統制組合理事長、同森林組合連合会副会長、同木材業林産組合長、秋田合同運送社長、三協木材社長、東北興業監事などを務めた。 政界では、土崎港町会議員、秋田市会議員、秋田県会議員、同参事会員、同議長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から秋田県民主党公認で出馬して初当選。