北 謙治(きた けんじ、1893年8月22日 - 1956年… 北 謙治(きた けんじ、1893年8月22日 - 1956年7月25日)は、日本の経営者。広島県広島市出身。 1916年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1945年8月に退職し、山陽パルプ常任監査役を経て、1953年6月に富士重工業社長に就任。 1956年7月25日在職中に脳出血のために死去。62歳没。
東京大学:1,945人
北 謙治(きた けんじ、1893年8月22日 - 1956年… 北 謙治(きた けんじ、1893年8月22日 - 1956年7月25日)は、日本の経営者。広島県広島市出身。 1916年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1945年8月に退職し、山陽パルプ常任監査役を経て、1953年6月に富士重工業社長に就任。 1956年7月25日在職中に脳出血のために死去。62歳没。
実吉 雅郎(さねよし まさお、1893年(明治26年)6月2… 実吉 雅郎(さねよし まさお、1893年(明治26年)6月25日 - 1967年(昭和42年)9月4日)は東京都出身の実業家。日揮の創業者。 学習院初等科・中等科、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒業。卒業後、株式会社横浜正金銀行(現在三菱東京UFJ銀行)、株式会社島商店を経て、1928年(昭和3年)10月25日に日揮株式会社の前身日本揮発油株式会社を創立。 1928年(昭和3年)10月から1966年(昭和41年)5月まで社長を務めたのち会長に就任。翌1967年(昭和42年)9月4日病気のため急逝(享年74)。 その後、遺産を寄附し、日揮・実吉奨学会前身の実吉奨学会を、1968年(昭和43年)、人材の育成と科学・技術の発展に貢献するため、理工系の学科を専攻する大学生・大学院生に対する奨学金の貸与(日本の学生対象)ならびに給与(日本国外から日本国内の学校への留学生のみを対象)、および、若手研究者への研究費助成を行うことを目的として、設立した。
山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 19… 山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 佐賀県佐賀市出身。1919年に行文行政科に合格し、1920年に東京帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に逓信省に入省し、岡山郵便局長、経理局長、航空局長官などを歴任。1943年に退官し、北海道配電(のちの北海道電力)社長に就任。北海道放送取締役、北日本航空社長なども歴任。 1978年1月7日老衰のために死去。84歳没。
時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月2… 時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月23日 - 1989年(平成元年)9月1日)は、日本の実業家、技術者。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。 第四高等学校を経て、1917年東京帝国大学工学部応用化学科卒業、キリンビール入社。1933年仙台工場長。1940年取締役。1942年取締役横浜工場長。1943年監査役。1946年監査役兼企業部長。1951年取締役。1953年常務取締役。1956年常務取締役製造部長。1958年専務取締役。1966年から代表取締役社長を務め、創業家として長年君臨した磯野長蔵亡きあとの経営を担い、ラガービールの品質本位路線などを進めた。
黒川 武雄(くろかわ たけお、1893年3月5日 - 197… 黒川 武雄(くろかわ たけお、1893年3月5日 - 1975年3月8日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。虎屋15代当主、参議院議員(3期)、厚生大臣(第19代)。旧姓は福田。 熊本県出身。製菓業、虎屋・黒川家の養子となる。第一高等学校を経て、1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、第一銀行に入社。1919年(大正8年)、家業に専念し虎屋店主、さらに同会長を務め、東京和生菓子商工業協同組合理事長、全国生菓子協会会長となる。 1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙に東京地方区で日本自由党から出馬し当選。のち自由党、自由民主党に所属。第3回、第5回参議院議員通常選挙で再選され3期務め、1965年(昭和40年)7月、第7回参議院議員通常選挙には出馬せず引退した。
別宮 貞俊(べっく さだとし、1893年2月18日 - 19… 別宮 貞俊(べっく さだとし、1893年2月18日 - 1958年9月19日)は、日本の実業家、工学博士、登山家。住友電気工業初代社長を務めた。 東京都で別宮音五郎の子として生まれる。1917年に東京帝国大学工学部電気科を卒業し、逓信省で電気試験所技師を務め、東京工業大学教授も務めた。 1930年に住友電気工業の前身である住友電線製造所に転職し、常務、専務、社長を歴任した。 東京電機大学教授、日本科学技術情報センター理事長、日本電気学会会長なども歴任した。登山が趣味で日本山岳会会長も務めた。 1958年9月19日、狭心症のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
小島 新一(おじま あらかず、1893年2月9日 - 198… 小島 新一(おじま あらかず、1893年2月9日 - 1987年3月3日)は、日本の商工官僚、経営者。茨城県出身。 1918年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、農商務省に入省。商工省で貿易局長や事務次官などを歴任。1941年に日本製鉄取締役に就任し、1945年には副社長に就任し、1946年に公職追放を受けて、辞任。1952年に八幡製鉄副社長として復帰し、1956年1月に社長に昇格した。社長在任時には、戸畑製鉄所や堺製鉄所の建設に尽力し、君津製鉄所への進出を決定し、業界の近代化を推進した。1962年5月に会長に就任し、1967年5月から相談役を務めた。 1970年から1974年までに日本銀行政策委員会委員を務め、日本鉄鋼連盟会長、経済団体連合会副会長、産業構造審議会会長なども歴任した。
池田 謙蔵(いけだ けんぞう、1893年2月2日 - 197… 池田 謙蔵(いけだ けんぞう、1893年2月2日 - 1974年7月17日)は、日本の経営者。三菱信託銀行社長を務めた。 奈良県出身。1918年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に三菱合資に入社。 1933年に三菱信託銀行に転じ、1945年10月に常務を経て、1946年12月に社長に就任。1959年5月に会長を経て、1965年5月に相談役に就任。 1958年5月に藍綬褒章を受章し、1972年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1974年7月17日、脳出血のために死去。81歳没。墓所は青山霊園。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小菅 小之助(こすげ このすけ、1892年〈明治25年〉12… 小菅 小之助(こすげ このすけ、1892年〈明治25年〉12月2日 - 没年不明)は、日本の実業家。東京急行電鉄取締役。 東京市出身。小菅利八の長男。1917年、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 1925年、家督を相続する。鬼怒川水力電気取締役兼技師長、小田急電鉄取締役兼技師長を経て、1942年に東京急行電鉄取締役。 宗教は神道。趣味は読書。住所は東京市本郷区菊坂町(現・東京都文京区本郷五丁目)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
桃原 茂太(とうばる / ももはら しげた、1892年(明治… 桃原 茂太(とうばる / ももはら しげた、1892年(明治25年)11月18日 - 1955年(昭和30年)2月28日)は、沖縄県出身の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 宜野湾間切大謝名(現宜野湾市)で、桃原正裕の長男として生まれる。沖縄県第一中学校、第五高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。その後、東洋拓殖 (株) に入社。同参事、同監事、同太田及び釜山支店支配人、日蘇石油販売 (株) 専務取締役などを務めた。 1934年、帰郷して那覇市松山町で弁護士を開業。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で沖縄県選挙区から出馬し、翼賛政治体制協議会の非推薦候補であったが当選し衆議院議員を一期務めた。
渋沢 秀雄(しぶさわ ひでお、1892年10月5日 - 19… 渋沢 秀雄(しぶさわ ひでお、1892年10月5日 - 1984年2月15日)は、東京市出身の実業家・文化人。 渋沢栄一の四男として兜町の洋館で生まれる。幼少時は邸宅の近くにあった日本橋川で泳いでいた。 大学時代の1916年から1917年ころに親戚筋の女性と結婚し、長男の和男(アコーディオン演奏者)・華子(小説家)ら2男2女を成すも離婚する。1917年、東京帝国大学法科大学仏法科卒業。日本興業銀行に勤務したが、1年半勤めて退職。欧米で住宅事情を学び、設立間もない田園都市株式会社に取締役として入社する。この会社は、田園調布や洗足田園都市の計画的で大規模な宅地開発を行い、その開発地区のための鉄道敷設・電力供給、多摩川園遊園地の運営も行った。
久能木 慎治(久能木 愼治、くのき しんじ、1892年〈明治… 久能木 慎治(久能木 愼治、くのき しんじ、1892年〈明治25年〉9月16日 - 没年不明)は、日本の弁護士、弁理士、久能木法律事務所主、会社役員。関東興業監査役。 東京府人・久能木宇兵衛の二男。久能木宇兵衛の弟。鈴木信太郎、團伊能、山田珠樹らと共に構想し、1917年、『攻魂珠』が創刊される。東京高師附属中学、第一高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学仏法科卒業。事務所を設立し、開業する。一般の法律事務に従事する。 趣味は乗馬、釣り。宗教は浄土宗。住所は東京日本橋室町2丁目。
大村 義雄(おおむら よしお、明治25年(1892年)7月2… 大村 義雄(おおむら よしお、明治25年(1892年)7月24日 - 没年不詳)は日本の実業家。 大正9年(1920年)東大経済学部卒。 人権擁護委員、出雲大社神社総代を歴任。 八田工業(株)取締役会長、出雲造船(株)取締役。 宗教は神道。住所は島根県簸川郡大社町(現出雲市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
関 義長(せき よしなが、1892年〈明治25年〉6月20日… 関 義長(せき よしなが、1892年〈明治25年〉6月20日 - 1970年〈昭和45年〉7月12日)は、日本の技術者、実業家。三菱電機会長を務めた。 徳島県知事、山形県知事等を務めた関義臣男爵の次男(庶子)として生まれる。貴族院議員関義寿男爵は異母兄。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
星野 直樹(ほしの なおき、1892年〈明治25年〉4月10… 星野 直樹(ほしの なおき、1892年〈明治25年〉4月10日 - 1978年〈昭和53年〉5月29日)は、日本の大蔵官僚、政治家、実業家。 満洲国では国務院総務長官として腕を振るい、満洲国の実力者「弐キ参スケ」の一角を占める。第2次近衛内閣の企画院総裁、東條内閣では内閣書記官長を務め、終戦後にA級戦犯として起訴された。終身禁固刑を受けるも釈放され、その後は旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任した。 1892年(明治25年)4月10日に横浜市で生まれた。当時の高等科二年時(現在の小学校6年)、府立一中(現在の日比谷高校)へ願書を持って行ったところ、その年、中学校に入れるのは1892年4月2日以前の生まれの者に限られるとして、断られた。
菅野 秀次郎(すがの ひでじろう、1892年3月10日 - … 菅野 秀次郎(すがの ひでじろう、1892年3月10日 - 1977年4月7日)は、日本の経営者。三重県上野市(現在の伊賀市)出身。 1917年に東京帝国大学法学部独法科を卒業し、同年に住友総本店に入社。1948年に住友本社清算人となり、住友不動産で社長、常務監査役を歴任した。 1977年4月7日、心不全のために死去。85歳没。
坂本 直道(さかもと なおみち、1892年(明治25年)3月… 坂本 直道(さかもと なおみち、1892年(明治25年)3月5日 - 1972年(昭和47年)7月30日)は、日本の実業家。南満州鉄道参与を務めた。坂本龍馬の甥の一人である坂本直寛の長男(第三子)。 高知県生まれ。1897年、父・直寛(郷士坂本家5代当主)ら一族で北海道訓子府に移住する。1906年釧路で北米・中国に鉄道枕木を輸出する目的で坂本商会を設立本拠地は釧路市となる。1911年に父が亡くなり、いったん郷士坂本家を相続する(郷士坂本家6代当主となる)が、1913年に直道が隠居する形で、郷士坂本家は義兄の彌太郎(郷士坂本家7代当主)が家督を継ぐこととなる。 1920年(大正9年)に東京帝国大学法学部を卒業して南満州鉄道に就職。
高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1… 高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、日本の実業家。 1892年3月1日、茨城県鉾田町の高杉健作の子として生まれる。1910年(明治43年)、土浦中学校卒業(岡野保次郎と同期)。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業。 同年三菱合資銀行部に入社。名古屋支店長を経験し、監査、取締常務を歴任する。1947年(昭和22年)1月、三菱電機社長となる。1956年(昭和31年)11月、三菱電機会長となる。1962年(昭和37年)、同会長を退任。 1964年(昭和39年)12月14日、日韓会談における日本側首席代表の杉道助が死去。
團 伊能(だん いのう、1892年〈明治25年〉2月21日 … 團 伊能(だん いのう、1892年〈明治25年〉2月21日 - 1973年〈昭和48年〉2月9日)は、日本の実業家、政治家、美術史家。男爵。 1892年(明治25年)、三井合名会社理事長團琢磨の長男として、福岡県大牟田市に生まれる。 東京帝国大学文学部美術史学科で瀧精一に師事。ハーヴァード大学、ロンドン大学およびリヨン大学に学ぶ。東京帝国大学文学部美術史学科助教授時代の門人に坂倉準三、富永惣一、今泉篤男などがいる。デビュー作『パリ万国博覧会日本館』を設計する機会を坂倉に与えたのは團だった。また、坂倉の初期の代表作で昭和期の代表的な住宅建築である飯箸邸(東京都世田谷区等々力)は、1941年(昭和16年)に團の都内別邸として建てられたものである。
三鬼 隆(みき たかし、1892年1月14日 - 1952年… 三鬼 隆(みき たかし、1892年1月14日 - 1952年4月9日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後に日本製鐵(現・日本製鉄)社長を務め、日鐵解体後は八幡製鐵の初代社長となった。日本経営者団体連盟(旧日経連)の第2代会長(代表常任幹事)を務めるなど財界に重きをなしたが、航空機事故で遭難死した。父は実業家・政治家の三鬼鑑太郎。長男は元新日本製鐵会長の三鬼彰。 1892年(明治25年)、岩手県盛岡市に生まれる。父の三鬼鑑太郎は当時岩手県庁の官吏であったが、のちに実業界(花巻軽便鉄道社長)から衆議院議員(1936年当選)に転身する人物である。五男四女の二男であるが、兄が夭折しているために、実質的には長男として育っている。
小林 光政(こばやし みつまさ、1892年(明治25年)1月… 小林 光政(こばやし みつまさ、1892年(明治25年)1月13日 - 1962年(昭和37年)7月9日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事、読売新聞社専務取締役。 栃木県下都賀郡絹村延島(現小山市)出身。小林長蔵の長男として生まれた。第一高等学校を卒業。1916年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1917年3月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、同特別高等課長、兼警察講習所教授、朝鮮総督府事務官、台湾総督府事務官・警務局保安課長、警視庁書記官・官房主事、内務省警保局勤務、福岡県内務部長、埼玉県書記官・内務部長などを歴任。
土井 藤右衛門(どい とうえもん、旧姓・木村、前名・卓爾、1… 土井 藤右衛門(どい とうえもん、旧姓・木村、前名・卓爾、1892年(明治25年)1月9日 - 没年不明)は、日本の会社役員。族籍は三重県平民。 三重県員弁郡東員村(現東員町)出身。木村誓太郎の七男。木村秀興の弟。先代藤右衛門の養子となり、1910年に家督を相続し、卓爾を改め襲名する。 1912年、第三高等学校を卒業。1916年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業する。東京練炭製造所、北山索道、草津電鉄、日化燃料、佐藤衡器各会社の重役である。 紀勢東線相賀尾鷲間の工事開始等は土井が帝都にあって尽くすところが多かった。 住所は三重県北牟婁郡尾鷲町大字南浦(現・尾鷲市)、東京市芝区白金三光町、赤坂区青山南町二丁目。
窪井 義道(くぼい よしみち、1892年(明治25年)1月4… 窪井 義道(くぼい よしみち、1892年(明治25年)1月4日 - 1949年(昭和24年)11月13日)は、日本の政治家・弁護士・実業家。立憲政友会→昭和会→政友会革新同盟→日本進歩党所属の衆議院議員で内務政務次官や海軍参与官を務めた。 山口県熊毛郡三丘村(現・周南市)出身。1918年(大正7年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。大倉商事に入社したが、1922年(大正11年)に法律研究のためドイツに留学した。1924年(大正13年)に帰国し、弁護士を開業した。 1924年(大正13年)、衆議院補欠選挙に出馬し当選。さらに第18回衆議院議員総選挙から第21回衆議院議員総選挙まで4期連続当選を果たした。
荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月… 荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月4日 - 没年不明)は、日本の医師(内科医)、実業家、政治家。旭土地、耕地整理組合各顧問。愛知中央鉄道取締役。医学博士。名古屋市会議員。 愛知県人・荒川徳右衛門の三男。後に前名松次郎を改め、1922年に兄徳次郎方より分かれて一家を創立する。第八高等学校を経て1918年に東京帝国大学医科大学医学科を卒業し、杏雲堂医院に勤務し後に郷里に帰り医を開業する。傍ら会社の重役である。 名古屋市会議員、同市参事会員に選ばれる。趣味は観劇、謡曲、芝居。宗教は真宗大谷派。住所は愛知県名古屋市中区長良町、西日置町廻間口、中村区日置通。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
渡部 生一(わたなべ しょういち、1891年〈明治24年〉1… 渡部 生一(わたなべ しょういち、1891年〈明治24年〉12月 - 没年不明)は、昭和時代の実業家。政治家。小野田市会議長。 山口県出身。渡部秀之丞の長男。1910年(明治43年)家督を相続する。1917年(大正6年)東京帝国大学政治科を卒業後、三井物産に入り、1930年(昭和5年)小野田セメントに転じ、取締役兼営業部長となった。 その後、大阪通船運輸代表、小野田市会議長を歴任した。
羽仁 路之(はに みちゆき、1891年11月25日 - 19… 羽仁 路之(はに みちゆき、1891年11月25日 - 1980年7月12日)は、日本の経営者。太平鉱業社長。位階は正四位。 山口県萩市出身。1917年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月に三菱合資会社鉱山部に入社。1918年4月に三菱鉱業に転じ、1946年11月に取締役に就任し、1950年4月に太平鉱業(のちの三菱金属鉱業)社長に就任。1956年5月には相談役に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1980年7月12日肺炎のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
立川 平(たつかわ おさむ、1891年(明治24年)9月12… 立川 平(たつかわ おさむ、1891年(明治24年)9月12日 - 1978年(昭和53年)11月9日)は、大正から昭和期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 長野県北佐久郡岩村田町(浅間町を経て現佐久市岩村田)で、弁護士、政治家立川雲平の長男として生まれる。1898年(明治31年)家督を相続した。第二高等学校を経て、1916年(大正5年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1917年(大正6年)3月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 司法官試補となるが、大阪田中商事 (株) に転じ、さらに十五銀行に移った。大阪地方裁判所勤務を経て、1922年(大正11年)神戸市で弁護士を開業した。
浅原 源七(あさはら げんしち、1891年9月1日 - 19… 浅原 源七(あさはら げんしち、1891年9月1日 - 1970年8月23日)は、日本の実業家、技術者である。日産自動車社長や自動車技術会会長を務め、日本の自動車産業発展の礎を築いた人物の一人である。なお、正確な氏名は旧字体の「淺原源七」であるが、ここでは「浅原」で統一する。 大阪市東区出身。東京帝国大学理学部化学科を卒業後、理化学研究所に勤務。主任研究員として研究を進める。1931年、戸畑鋳物に入社。1933年に同社は日産自動車となり、浅原は民生・軍用トラックの生産を中心とした同社の中心的人物として、日産コンツェルン創始者の鮎川義介を助けた。1942年から1944年までは同社の第3代社長となった。
加藤 五一(かとう ごいち、1891年8月26日 - 198… 加藤 五一(かとう ごいち、1891年8月26日 - 1989年4月9日)は、日本の経営者。三井造船(現在の三井E&S)社長、会長を務めた。愛知県豊田市出身。 1918年に東京帝国大学英法科を卒業。三井物産での勤務を経て、1944年に三井造船に転じ、1946年5月に取締役に就任し、同年12月に常務を経て、1947年5月には社長に就任。1960年5月に会長に就任し、1966年6月には相談役に就任。 日本造船工業会会長、日本原子力事業副社長、経済団体連合会常任理事なども歴任。 1959年にデンマーク・ダンネプログ勲章を受章し、1959年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1989年4月8日呼吸不全のために死去。
野田 哲造(のだ てつぞう、1891年6月21日 - 199… 野田 哲造(のだ てつぞう、1891年6月21日 - 1992年7月30日)は、日本の銀行家、経営者。住友銀行社長兼会長を務めた。 三重県津市出身。旧制津中学、旧制一高を経て1915年に東京帝国大学法学部政治科を卒業し、同年に住友銀行に入行。 常務、専務、副社長などを歴任し、1945年から財閥解体後に初めて社長兼会長に就任したが、公職追放の拡大により、その影響が出ることを恐れ、1947年2月に退任。 大阪銀行協会会長、大阪商工会議所監事、レンゴー相談役、武田薬品工業顧問なども歴任した。 1965年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1992年7月30日、急性心不全のために死去。101歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大志摩 孫四郎(おおしま まごしろう、1891年1月24日 … 大志摩 孫四郎(おおしま まごしろう、1891年1月24日 - 1961年4月28日)は、日本の実業家。南洋拓殖社長。 東京府赤坂区生まれ。1918年に東京帝国大学法学部政治学科卒業後、朝鮮銀行入行。 1938年東洋拓殖入社。資金主任、資金課次席、資金課長、平壌支店長、経理課長、理事を経て、1940年南洋拓殖社長。1944年南洋拓殖会長。 日本の降伏後、公職追放を経て、日本海外移住振興社長を務め、1956年から海外移住審議会委員。1961年従四位勲二等瑞宝章追贈。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山岡 武(やまおか たけし、1891年 - 1982年5月)… 山岡 武(やまおか たけし、1891年 - 1982年5月)は、日本の技術者、実業家。 長野県岡谷市出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1917年東京帝国大学工科大学冶金学科卒業、官営八幡製鐵所(現・日本製鉄八幡製鉄所)入所。第2製銑課長、日本製鐵(現・日本製鉄)本店技術部長、広畑製鉄所製銑部長兼化工部長、同所技師長、同社常務取締役、同社代表精算人、同社監査役、日本鉄鋼協会会長を歴任。 官営八幡製鐵所、日本製鐵在職中は、製銑設備の拡充、改良に努めた。1981年日本鉄鋼協会共同研究賞(山岡賞)が設けられ、鉄鋼の学術技術における共同研究に多大な功績のあったグループに授与されている。
原 邦道(はら くにみち、1890年12月11日 - 197… 原 邦道(はら くにみち、1890年12月11日 - 1976年10月10日)は、日本の官僚、経営者。日本長期信用銀行初代頭取を務めた。島根県平田市(現在の出雲市)出身。 1916年に東京帝国大学経済科を卒業。大蔵省での勤務を経て、1939年に日本製鉄に転じ、常任監査役、常務、副社長を歴任した。1943年に東京証券取引所副理事長を経て、1944年に野村合名会社総務理事に就任し、野村銀行(現在の大和銀行)社長、野村證券会長、野村生命会長を歴任した。1952年12月に日本長期信用銀行初代頭取に就任し、1957年11月から1959年5月までに会長を務めた。大和銀行相談役も務めた。 1966年5月に勲一等瑞宝章を受章。
坂口 忠次(さかぐち ちゅうじ、1890年12月3日 - 没… 坂口 忠次(さかぐち ちゅうじ、1890年12月3日 - 没年不詳)は、日本の鉄道官僚、実業家。 坂口貫太郎の長男として福岡市東中洲町に生まれる。1910年福岡県立中学修猷館、1914年7月第一高等学校英法科を経て、1917年7月東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。高等文官試験行政科に合格する。 鉄道院に入省し、鉄道省事務官兼参事官、鉄道大臣秘書官を務め、欧米各国に留学後、鉄道局参事となり、仙台鉄道局庶務課長、鉄道省監督局業務課長・総務課長、大臣官房人事課長、広島鉄道局長、東京鉄道局長、鉄道監督官を歴任し、1940年退官する。その後、西武鉄道(旧)社長を務めた。
河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 … 河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 - 1973年9月18日)は、日本の実業家。住友本社常務理事。大阪建物社長。 静岡県掛川市出身。東京帝国大学政治学科を1915年に卒業し、住友に入る。総本店、伸銅所尼崎工場、別子銅山を経て1925年欧米留学。1927年製鋼所、以降本社総務部部長、人事部部長、常務理事兼経理部長などを歴任。この間住友各社の役員を兼務。1946年辞任。1949年大阪建物社長、1960年辞任。 静岡県掛川市出身の政治家河井彌八の血縁者。 神宮寺(静岡県掛川市仁藤65)敷地内墓地にある墓所にて一族と共に眠る。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
永野 護(ながの まもる、1890年9月5日 - 1970年… 永野 護(ながの まもる、1890年9月5日 - 1970年1月3日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。 運輸大臣、衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)を歴任。戦後揃って政経財界で活躍した「永野六兄弟」の長兄。 瀬戸内海、広島県下蒲刈島三之瀬、浄土真宗本願寺派の弘願寺が本家に当たる。父・法城は寺を継ぐことを嫌い、裁判官となって中国地方の裁判所を転々とするが、最初の赴任地、現在の島根県浜田市で生まれたのが護である。その後、松江市で生まれたのが永野重雄(のち新日本製鐵会長、日本商工会議所会頭)、現在の山口県岩国市で生まれたのが永野俊雄(のち五洋建設会長)、現在の山口市で生まれたのが伍堂輝雄(のち日本航空会長)。
3代 澁澤 金蔵(さんだい しぶさわ きんぞう、前名・直一、… 3代 澁澤 金蔵(さんだい しぶさわ きんぞう、前名・直一、1890年〈明治23年〉8月8日 - 1949年〈昭和24年〉9月11日)は、日本の実業家、政治家、群馬県多額納税者。貴族院議員。群馬県新田郡太田町会議員。従五位勲二等。 群馬県新田郡太田町(現・太田市)出身。1917年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。 1926年、家督を相続し前名・直一から名を改め、三代目澁澤金蔵を襲名した。太田町会議員となる。 1937年、鉄道大臣秘書官に任ぜられた。金融業を営み、金山図書館長、太田織布、新田銀行、上毛実業銀行、群馬中央銀行、太田建物、同電気館、同合同運送等諸会社重役であった。また富士産業取締役を務めた。
鶴岡 和修(つるおか かずのぶ、旧名・和文、1890年(明治… 鶴岡 和修(つるおか かずのぶ、旧名・和文、1890年(明治23年)8月 - 1968年(昭和43年)3月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(東京府第6区選出、当選1回)。 東京府出身。鶴岡英文の長男。1916年7月、東京帝国大学文科大学支那文学科を卒業する。1923年、家督を相続する。授産業を営む。 亀戸町長、東京府会議員、亀戸町会議員に挙げられる。1928年、東京府より推されて、衆議院議員に当選。立憲民政党に所属。財団法人光塵授産場を設立し、理事長となる。罐詰製造工場、千葉食料社を経営する。 東京帝国大学卒業後、社会事業に尽くし、授産所を経営し、失業者の相談相手となる。 鶴岡について、『日労研資料 第12巻第21号 450』によると「鶴岡和文はルイ・ナポレオンのような顎ひげをつけた文学士で、社会主義かぶれの噂があったが、なかなかの人気で親譲りの地盤を擁していた。
長 基連(ちょう もとつら、1890年(明治23年)6月16… 長 基連(ちょう もとつら、1890年(明治23年)6月16日 - 1954年(昭和29年)6月6日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧名・本多恭。 旧加賀藩家老・本多政以の二男として生まれる。男爵・本多政樹の弟。従兄の男爵・長克連の死去に伴い家督を継承し、1901年(明治34年)6月7日、男爵を襲爵した。その後、前名・恭を基連と改名した。 1915年(大正4年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1917年(大正6年)三井銀行に入行する。以後、龍王山金山取締役、第一機罐保険社長、東邦物産会頭などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
永田 昌綽(ながた まさのぶ、1890年6月15日 - 19… 永田 昌綽(ながた まさのぶ、1890年6月15日 - 1975年7月25日)は、日本の実業家。北海道拓殖銀行頭取を生え抜きとして初めて務めた。 島根県出身。1917年に東京帝国大学を卒業し、北海道拓殖銀行に入行。取締役を経て、1941年から1947年までに頭取を務めた。 北海道曹達会長、北海道商工会議所顧問、北海道クラブ相談役などを歴任した。 1960年に藍綬褒章を受章し、1971年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1975年7月25日、腎不全のために死去。85歳没。
岩城 隆徳(いわき たかのり、1890年(明治23年)6月8… 岩城 隆徳(いわき たかのり、1890年(明治23年)6月8日 - 1979年(昭和54年)9月21日)は、大正から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・青山、旧名・幸徳。 子爵・青山幸宜の五男として生まれ、子爵・岩城隆邦の養子となる。養父の死去に伴い、1911年(明治44年)4月21日、子爵を襲爵し、同月、隆徳と改名した。 学習院を経て、1914年、東京帝国大学理科大学植物学科を卒業。さらに同大学院で学び、同大経済学部を修了した。 1916年(大正5年)帝室林野局技手に就任。以後、内務省社会局嘱託、日東印刷取締役、興亜産業取締役などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
中原 延平(なかはら のぶへい、1890年 <明治23年> … 中原 延平(なかはら のぶへい、1890年 <明治23年> 5月23日 - 1977年 <昭和52年> 2月25日)は、日本の経営者。兵庫県三原郡神代村(現在の南あわじ市)出身。長男は日本銀行政策委員会審議委員の中原伸之。 1916年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業。富士製紙、小倉石油などでの勤務を経て、1939年に東亜燃料工業常務に就任し、1944年1月には社長に昇格。1962年2月には相談役に就任。 1959年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 19772月25日呼吸不全のために死去。86歳没。
山本 実一(やまもと じついち、1890年5月6日 - 19… 山本 実一(やまもと じついち、1890年5月6日 - 1958年9月17日)は、日本の経営者。中国新聞社社長、ラジオ中国社長を務めた。 広島県安芸郡府中町出身。東京帝国大学農学部を卒業し、1916年に中国新聞社に入社。1918年に副社長を経て、1933年から1947年までに社長を務め、1951年11月には再び社長に就任。ラジオ中国(現在の中国放送)社長も務めた。 1958年9月17日、気管支肺炎のために在任中に死去。68歳没。
西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)… 西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)4月26日 - 1981年(昭和56年)4月23日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。愛媛県八幡浜市長。愛媛県多額納税者。旧姓は本多、幼名は恭礼。 愛媛県東宇和郡宇和町久枝(現・西予市宇和町久枝)で本多好礼の三男として生まれ、1908年(明治41年)宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)卒業とともに八幡浜の素封家・西村家(泉屋)の西村ヒサ方に養子入籍し、当主となる。第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部を卒業し、2年間銀行に勤めたのちに郷里に戻り、家業を継ぎ、名を弥三郎と改める。 第二十九銀行(伊予銀行の前身)取締役、八幡浜信用金庫理事長、西宇和郡社会事業協会理事長、壮年団長などを歴任したのち、1936年(昭和11年)3月に前八幡浜市長の酒井宗太郎が病没すると、第2代八幡浜市長に就任。
細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年… 細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年3月30日)は昭和時代日本の官僚、実業家。 1890年(明治23年)、東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区)で細野順の長男として出生。1915年(大正4年)に東京帝国大学法学部を卒業し高等文官試験に合格、鉄道省に入省する。イギリス、次いでアメリカ合衆国へ留学し、帰国後に鉄道書記官を経て総務課長へ至る。官僚時代には各地の鉄道局職員が編成したチームの対抗戦「全国鉄道野球大会」への出場経験がある。 阪神電気鉄道へ出向後、取締役支配人に至るが読売新聞社の正力松太郎から甲子園球場を本拠地とする職業野球チーム創設を持ち掛けられ、今西与三郎社長、石井五郎専務らと1935年(昭和10年)12月に阪神タイガースの前身となる「大阪野球倶楽部」設立に尽力した。
名古屋 三吉(なごや さんきち、1890年(明治23年)3月… 名古屋 三吉(なごや さんきち、1890年(明治23年)3月5日 - 1962年(昭和37年)4月4日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 埼玉県北足立郡川口町(現:川口市)で、鋳物業・名古屋六之助の四男として生まれる。1916年(大正5年)東京帝国大学工科大学を卒業し日本製鋼所に入社。同社で勤務し、翌年欧米各国に留学した。 その後、兄の死去に伴い鋳物業を継承。川口鋳物工業組合理事長、埼玉県鉄鋼製品工業組合連合会理事長、川口商工会議所副会頭、埼玉県商工経済会評議員などを務めた。 1946年(昭和21年)埼玉県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年8月16日に就任し、交友倶楽部に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
西村 啓造(にしむら けいぞう、1890年2月24日 - 1… 西村 啓造(にしむら けいぞう、1890年2月24日 - 1955年2月18日)は、日本の実業家、技術者。元古河電気工業社長。元東京大学生産技術研究所協議会会長。 兵庫県出身。西村純一の長男。1914年東京帝国大学工科大学卒業。「古河日光精銅所に於ける精銅並びに加工」により1937年に日本鉱業会学会賞(渡辺賞)を受賞。古河電気工業日光精錬所所長を経て、1946年から古河電気工業社長を務め、サッカー部(のちのジェフユナイテッド市原・千葉)を創設。1948年兵器処理委員会に関する問題で、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1949年に東京大学生産技術研究所協議会が発足すると評議員に就任。
宮原 幸三郎(みやはら こうざぶろう、1890年(明治23年… 宮原 幸三郎(みやはら こうざぶろう、1890年(明治23年)1月22日 - 1966年(昭和41年)9月30日)は、大正から昭和期の内務官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧名・顕三。父は衆議院議員の宮原幸三郎。 広島県安芸郡、のちの呉市胡町で先代宮原幸三郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 内務省に入省し、長野県属、同県下高井郡長、和歌山県伊都郡長、熊本県理事官、帝都復興院事務官兼書記官、内務省復興局書記官、兵庫県理事官などを歴任し、1928年(昭和3年)に退官した。 1935年(昭和10年)呉市助役に就任。
太田 収(おおた おさむ、1890年〈明治23年〉1月12日… 太田 収(おおた おさむ、1890年〈明治23年〉1月12日 - 1938年〈昭和13年〉5月28日)は、日本の実業家。山一証券社長を務めた。投機に失敗し自殺した。証券業界における初の東京帝大出身者。 岡山県吉備郡庭瀬村(庭瀬町、吉備町を経て、現在の岡山市北区)出身。のちに家督を相続する。1916年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同郷の先輩野崎広太の勧めで、小池国三の小池合資会社(のちの山一證券)に入る。古荘四郎彦、河合良成らと、兜町で働く東京帝大法科出の遊会「十八日会」を作り親交した。1926年、山一証券常務に昇進。鐘紡株で巨利を得、社長の杉野喜精に「証券業の天才」と評された。1935年に社長就任。
大岩 復一郎(おおいわ またいちろう、1890年〈明治23年… 大岩 復一郎(おおいわ またいちろう、1890年〈明治23年〉1月1日 - 1956年〈昭和31年〉2月27日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。長野電気取締役兼支配人、中部配電第2代社長、信越放送初代会長などを務めた。 大岩復一郎は、1890年(明治23年)1月1日、愛媛県士族大岩甚太郎の長男として生まれた。出身は愛媛県周桑郡小松町(現・西条市)。愛媛県立西条中学校を経て1913年(大正2年)7月に第五高等学校(熊本)の大学予科工科を卒業したのち、東京帝国大学工学部電気工学科を1919年(大正8年)7月に卒業した。大学卒業後は一旦陸軍に入り中野電信隊の工兵伍長に任ぜられる。