森 薫(もり かおる、1904年(明治37年)4月24日 -… 森 薫(もり かおる、1904年(明治37年)4月24日 - 1986年(昭和61年)9月18日)は、日本の実業家である。出身地は大阪府。神戸電鉄の会長、阪急電鉄・北大阪急行電鉄の社長を務めた。 大阪府出身。宗太郎の息子。 1928年、京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、当時の新京阪鉄道に入社した。当時、新京阪を含む京阪電気鉄道グループは事業の拡張のため多くの大学・専門学校卒業生を採用しており、森もその一人だった(戦後、京阪の社長を務めた青木精太郎は同じ京大電気工学科を卒業して同期で京阪に入社している)。新京阪の京阪への合併、京阪と阪神急行電鉄の合併による京阪神急行電鉄の発足と京阪の再分離を経て、阪急電鉄に就職した。
荒木 三郎(あらき さぶろう、1904年 <明治37年> 3… 荒木 三郎(あらき さぶろう、1904年 <明治37年> 3月30日 - 1981年 <昭和56年> 10月16日)は、日本の経営者である。呉羽化学工業 (現在のクレハ) 社長を務めた。位階は正四位。 兵庫県出身。1930年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年5月に呉羽紡績に入社。1946年2月に呉羽化学工業常務に就任し、1948年2月に専務を経て、1949年3月に社長に就任。1973年11月に会長に就任。 1965年5月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年10月16日、脳血栓のために死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
佐島 敬愛(さじま よしなり、1904年〈明治37年〉2月2… 佐島 敬愛(さじま よしなり、1904年〈明治37年〉2月23日 - 1990年〈平成2年〉7月20日)は、日本の実業家。日本の民族学の初期を第16代日本銀行総裁の渋沢敬三とともに資金的に支えた。また、大日本帝国陸軍と国策を動かす仕事をし、第二次世界大戦後は知的人脈や優れた語学センスで、歴史の裏舞台で日本済の発展に心血を注ぐなど、スケールの大きな行動力からアジア版アラビアのロレンスと呼ばれる。 太平洋戦争前は岩畔豪雄(陸軍中野学校設立者)に協力し、国策会社「昭和通商」運営に深く関わる。また第三高等学校 (旧制)に今西錦司とともに山岳部をつくり、加藤泰安の就職に関与するなど、のちに京都大学が探検大学と呼ばれるような基礎となる多くの探検には佐島の影響があった。
趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月… 趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月6日 - 1983年1月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の産婦人科医、実業家、政治家。第2・3・4代韓国国会議員、第3代前・後期民議院副議長。 本貫は咸安趙氏。ジャーナリストの趙鏞寿(朝鮮語版)の叔父である。 慶南咸安出身。培材高普、セブランス医学専門学校(現・延世大学校)卒、京都帝大大学院修了。産婦人科医、大邱民報社長、大邱時事新報社長、慶北国民訓練院長、国民会大邱市副委員長・大邱支部組織部長・慶尚北道支部長・中央本部副会長、大韓労総最高委員を歴任した。1948年の初代総選挙に出馬したが落選し、1950年の第2代総選挙で大邱市から初当選し、自由党院内議員部政策委員長・中央委員、国会懲戒資格委員長・内務治安委員長・全院委員長・内務委員長、第3代国会民議院副議長を務めた。
本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2… 本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2008年1月29日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。長男は北國銀行第6代頭取の本陣靖司。 石川県小松市出身。1929年に京都帝国大学法学部を卒業し、1930年2月に加越合同銀行に入行した。1943年12月に北國銀行に転じ、1948年2月に常務に就任し、1950年10月に専務、1954年11月に副頭取を経て、1961年1月には頭取に就任。1966年7月には会長も兼任し、1968年11月には頭取を退任。 近現代の日本画をはじめとした美術品収集を趣味としており、小松市立本陣記念美術館にコレクションが収蔵されている。 2008年1月29日、老衰のために死去。
北村 謹次郎(きたむら きんじろう、1904年(明治37年)… 北村 謹次郎(きたむら きんじろう、1904年(明治37年) - 1991年(平成3年))は、日本の実業家・茶人。北村林業取締役、北村文華財団理事長。 奈良県吉野郡上市町(現・吉野町)出身。林業を営む北村又左衛門の二男。衆議院議員の北村又左衛門は実兄。1928年、京都帝国大学経済学部を卒業した。 文化人として40歳の時に建設が終了した四君子苑で多くの文化人や茶人をもてなした。 謹次郎が収集した茶道具・古美術品を保存するため、1975年に財団法人北村文華財団が設立、1977年に北村美術館が開館した。1991年に死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
清滝 幸次郎(清瀧 幸次郎、きよたき こうじろう、1903年… 清滝 幸次郎(清瀧 幸次郎、きよたき こうじろう、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1984年〈昭和59年〉3月14日)は、日本の政治家(池田市議)、実業家。池田銀行頭取。南海毛糸紡績、宝塚ホテル、能勢電気各取締役。池田商工会議所会頭。位階は従五位。元・池田銀行頭取清滝一也は養子。プリンストン大学教授清滝信宏は孫。 大阪府池田市出身。清瀧辰吉の六男。伯父徳兵衛の養子となり1930年、家督を相続。1928年、京都帝国大学経済学部を卒業した。 1930年7月、池田実業銀行取締役に選ばれ同年9月1日頭取に就任した。1951年、池田銀行頭取に就任した。1974年春の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章。
森田 義衛(義衞、もりた ぎえい、1903年(明治36年)1… 森田 義衛(義衞、もりた ぎえい、1903年(明治36年)11月29日 - 1982年(昭和57年)10月24日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。参議院議員(1期)。 三重県、後の上野市(現伊賀市)出身。水戸高等学校を経て、1934年(昭和4年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年に鉄道省に入省し東京鉄道局に配属。同年10月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、岡崎駅長、下関運輸事務所長、札幌鉄道局業務部長、企画院書記官、運輸通信省企画局課長、東京鉄道局業務部長、運輸省配車課長、新潟鉄道局長、日本国有鉄道運輸支配人、東京鉄道管理局長、国鉄理事、同関東総支配人、鉄道建設審議会委員、日本交通文化協会理事などを務めた。
志茂 源吉(しも げんきち、1903年 <明治36年> 11… 志茂 源吉(しも げんきち、1903年 <明治36年> 11月22日 - 1994年 <平成6年> 2月10日)は、日本の経営者、銀行家。奈良県出身。位階は従五位。 1928年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。 華興商業銀行、東洋水産での勤務を経て、1951年8月には七福相互無尽(のちの阪神相互銀行)社長に就任。1973年5月に会長、1975年5月に取締役相談役を経て、1979年11¥2月には相談役に就任。 1968年9月に黄綬褒章を受章し、1974年11月に勲四等瑞宝章を受章を受章。 1994年2月10日老衰のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
中嶋 光矢(なかじま みつや、1903年 <明治36年> 7… 中嶋 光矢(なかじま みつや、1903年 <明治36年> 7月2日 - 1989年 <平成元年> 11月10日)は、日本の経営者。日本短波放送社長を務めた。位階は正五位。 山形県出身。1930年に京都帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に日本経済新聞社に入社。1949年3月に取締役に就任し、1956年2月に常務を経て、1965年5月には日本短波放送社長に就任。1976年6月に最高顧問に就任。 1974年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1989年11月10日老衰のために死去。86歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
若菜 三良(わかな さぶろう、1903年(明治36年)6月2… 若菜 三良(わかな さぶろう、1903年(明治36年)6月26日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、日本の経営者。そごう社長を務めた。 千葉県出身。1927年(昭和2年)京都帝国大学経済学部を卒業後に、野村銀行(大和銀行を経て、現在のりそな銀行)に入行した。1949年に取締役、1954年11月に常務を経て、1958年4月にそごう副社長に就任し、1960年12月から1961年10月まで社長を務めた。 1963年(昭和38年)11月9日に冠動脈不全のため死去した。60歳没。
大谷 一雄(おおや かずお、1902年9月8日 - 1985… 大谷 一雄(おおや かずお、1902年9月8日 - 1985年6月28日)は、日本の実業家。住友化学元社長。富山県出身。 1928年に京都帝国大学法学部を卒業し、住友合資本社に入社した。 1935年に住友化学工業に転職、1944年から1946年まで住友金属工業で勤務したのち、1946年に住友化学工業に復帰し、1956年から専務を務め、1963年2月から1965年2月まで社長を務めた。 関西経済同友会幹事や全日本剣道連盟顧問、副会長なども務めた。 1963年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1985年6月28日心筋梗塞のために大阪市内の病院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
青山 政次(あおやま まさじ、1902年8月31日 - 19… 青山 政次(あおやま まさじ、1902年8月31日 - 1999年10月20日)は、日本の実業家。京都セラミツク(現在の京セラ)社長を務めた。兵庫県出身。 1928年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。日本電磁器、松風工業での勤務を経て、1959年に稲盛和夫らと共に京都セラミックを創立し、専務に就任し、1964年には社長に昇格。1966年には会長に就任し、1971年に取締役相談役を経て、1973年から監査役を務めた。 趣味は音楽で、1987年には私財を投じて、京都市郊外に青山音楽記念館を建設した。 1999年10月20日急性心筋梗塞のために死去。97歳没。
外島 健吉(としま けんきち、1902年6月30日 - 19… 外島 健吉(としま けんきち、1902年6月30日 - 1994年1月23日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長、会長を務めた。奈良県出身。 1927年に京都帝国大学工学部を卒業し、1932年11月に神戸製鋼所に入社した。1949年8月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1958年11月から社長に就任し、在任中は鉄鋼業界で初めてプラントの輸出に手掛けたり、同社で初の海外事務所を開設し、海外進出にも積極的に取り組んだ。1972年5月から1974年11月までに会長を務めた。 1976年11月から1982年10月までに神戸商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、1981年の神戸ポートアイランド博覧会の開催に尽力した。
武安 千春(たけやす ちはる、1902年 <明治35年> 4… 武安 千春(たけやす ちはる、1902年 <明治35年> 4月29日 - 1991年 <平成3年> 2月13日)は、日本の経営者。日本セメント社長、会長を務めた。山口県出身。位階は正四位。 1927年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年4月に浅野セメント(のちの日本セメント)に入社。1949年12月に取締役に就任し、1961年12月に常務、1964年12月に副社長を経て、1966年12月には社長に就任。1974年12月に会長に就任し、1982年7月には相談役に就任。 1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年2月13日呼吸不全のために死去。88歳没。死没日付をもって正八位から正四位に進階した。
梅溪 通虎(梅渓、うめたに みちとら、1902年(明治35年… 梅溪 通虎(梅渓、うめたに みちとら、1902年(明治35年)3月8日 - 1984年(昭和59年)8月9日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・松平。梅溪家12代当主。 三重県で、実業家・松平家晃、則子夫妻の二男として生まれる。生まれてすぐ母方の梅溪家当主・梅溪通魯の養子となり、養父の死去に伴い、1920年(大正9年)6月21日に子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)3月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。さらに同大学院を修了した。日本鉱業監査役、日本水産本店庶務課長、日本海洋漁業統制(株)理事などを務めた。 1945年(昭和20年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
坂野 常礼(さかの つねひろ、1902年(明治35年)2月2… 坂野 常礼(さかの つねひろ、1902年(明治35年)2月27日 - 没年不明)は、日本の実業家。阪急バス監査役。 岡山県出身。坂野鉄次郎の長男。1927年、京都帝国大学法科卒業。新京阪電鉄に入社。1954年、関西観光自動車専務取締役に就任。 宗教は日蓮宗。趣味は囲碁、園芸。住所は兵庫県芦屋市宮塚町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 198… 田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 1983年11月12日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。高知県出身。 1925年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、1928年に八幡製鉄所に入社した。1934年に日本製鉄を経て、1946年に日鉄鉱業に転じ、1947年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1963年11月から1967年11月までに社長を務めた。 1983年11月12日老衰のために死去。81歳没。
井上 定雄(いのうえ さだお、1902年1月1日 - 198… 井上 定雄(いのうえ さだお、1902年1月1日 - 1985年8月23日)は、日本の実業家。京王帝都電鉄(現:京王電鉄)代表取締役社長(第2代)。京王プラザホテル代表取締役社長(初代)。東急車輛製造(現:総合車両製作所)取締役。 西新宿(淀橋浄水場跡地)で初の超高層ビルとなった京王プラザホテルの創業者であり、“西新宿をつくった男”の異名がある。京王帝都電鉄の初代社長であった三宮四郎の後任として、1960年代の高度成長期に京王帝都電鉄と京王グループの発展に寄与した。 京王電気軌道の実力者で30年の長きにわたって社長を務めた井上篤太郎とは、同姓であるが血縁関係は無い。旧京王電気軌道ではなく、旧小田急電鉄の出身者である。
栗本 順三(くりもと じゅんぞう、1901年 <明治34年>… 栗本 順三(くりもと じゅんぞう、1901年 <明治34年> 12月16日 - 1979年 <昭和54年> 4月28日)は、昭和時代の経営者。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 1901年(明治34年)12月16日生まれ。 生家は江戸時代末期に華岡青洲を生んだ華岡家。 栗本鐵工所創業者の栗本勇之助に見込まれ養子となる。 1927年(昭和2年)、京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、栗本鐵工所に入社。常務、専務を経て社長、会長をつとめる。 この間、大阪商工会議所副会頭、大阪市助役、阪神高速道路公団理事長、大阪府教育委員長、関西経済連合会副会長、帝塚山学院理事長などの要職を歴任した。 1979年(昭和54年)、77歳で死去。
平井 寛一郎(ひらい かんいちろう、1901年 <明治34年… 平井 寛一郎(ひらい かんいちろう、1901年 <明治34年> 12月15日 - 1978年 <昭和53年> 1月23日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 1930年に京都帝国大学工学部電気学科を卒業し、同年に大同電力に入社。日本発送電を経て、1952年11月に関西電力取締役に就任し、1958年5月に常務を経て、1959年11月に副社長を経て、1962年12月に東北電力社長に就任。1969年11月に会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1978年1月23日脳梗塞のために死去。76歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。
楠根 宗生(くすね むねお、1901年10月25日 - 19… 楠根 宗生(くすね むねお、1901年10月25日 - 1989年8月10日)は、日本の実業家。 西日本鉄道社長を務め、西鉄ライオンズオーナーも歴任した。 1901年10月25日に大分県中津市で生まれる。1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、翌年に西日本鉄道の前身である九州電気軌道に入社した。 庶務課長、総務部長、取締役を経て1963年から社長に就任し、西鉄ライオンズのオーナーにも就任した。しかし、社長在任時に黒い霧事件が発生し、チームの八百長事件の責任を取る形で1970年に社長と球団オーナーを辞任した。社長は吉本弘次が、球団オーナーは木本元敬が継いだ。 1966年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等瑞宝章を受章した。
一本松 珠璣(いっぽんまつ たまき、1901年4月29日 -… 一本松 珠璣(いっぽんまつ たまき、1901年4月29日 - 1985年1月24日)は日本の実業家。電気工学者。元日本原子力発電社長、同最高顧問。従三位勲一等工学博士。日本の原子力発電事業の草分け的存在。 広島県佐伯郡能美村(現:広島県江田島市能美町)出身。1924年京都帝国大学工学部電気工学科卒。大阪市電気局(現:大阪市交通局)を経て関西配電(現:関西電力)入社。1942年同社企画課長を経て取締役神戸支店長。1945年「大都市電力系統計画論」で工学博士。1947年常務、1950年アメリカ視察で渡米。1956年、石川一郎原子力委員団長らと副団長として第1回の訪英調査団派遣に参加。世界最初の実用規模の原子力発電所・コールダホール型原子力発電所を視察、またアメリカの状況も視察した。
芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34… 芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34年> 3月4日 - 2003年 <平成15年> 7月12日)は、昭和期の実業家。関西電力元社長・会長・名誉会長。位階は正三位。芦原義倫は四男。 香川県高松市出身。高松中学、旧制第六高等学校を経て、1924年3月京都帝国大学工学部電気工学科卒業。同年、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄、企業としては現・阪急阪神ホールディングス)に入社した。1942年の配電統制により関西配電へ引継採用され、工務部電務課長に就任した。1946年、同社常務取締役、1950年、同社取締役副社長。 1951年の電気事業再編成により、関西電力常務取締役に就任した。1959年に太田垣士郎の後任として取締役社長に就任し、黒部川開発を始めとした電源開発と共にいち早く原子力発電を導入した。
有馬 知機(ありま ちき / ともき、1901年2月25日 … 有馬 知機(ありま ちき / ともき、1901年2月25日 - 1970年12月11日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長、日本損害保険協会副会長を務めた。 鹿児島県日置郡伊集院町(後の日置市の一部)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1924年3月に旧制山口高等学校文科乙類を卒業。旧制山口高校以来の友人に武安千春(日本セメント社長、会長、相談役)がいる。1927年3月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。 1927年4月、信託株式会社大信社へ入社。1930年3月に大信社を退職して、4月に共同火災保険株式会社へ入社。福岡支店長、関東営業部参事兼本店企画部参事、外国部長などを歴任。
阿川 幸寿(阿川 幸壽、あがわ ゆきひさ、1901年〈明治3… 阿川 幸寿(阿川 幸壽、あがわ ゆきひさ、1901年〈明治34年〉1月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月26日)は、満州国官吏、日本の実業家。阿川機工、構造物コンサルタント各社長。 長崎県・田中良蔵の甥。大阪府立天王寺中学校を経て1924年、第七高等学校造士館を卒業。1927年、京都帝国大学経済学部を卒業。 満鉄に入社する。安東、奉天各地方事務所に勤務。瓦房店、四平街各地方事務所庶務係長、大石橋地方事務所長を経て満州国に転じ、審計局審計官第一處勤務。後に四平街市長となる。1940年、安東市長に就任する。 1950年に阿川機工を設立、社長に就任。1962年に構造物コンサルタントを設立、社長を兼務。
松本 美行(まつもと よしゆき、1901年〈明治34年〉 -… 松本 美行(まつもと よしゆき、1901年〈明治34年〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。 島根県松江市生まれ。1925年、京都帝国大学経済学部を卒業。山陰合同銀行参与、山陰貯蓄銀行頭取、松江市議会議長、島根県松江市教育委員会委員長などをつとめた。 趣味は読書。宗教は禅宗。住所は松江市寺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
今道 潤三(いまみち じゅんぞう、1900年(明治33年)1… 今道 潤三(いまみち じゅんぞう、1900年(明治33年)10月11日 - 1979年(昭和54年)5月25日)は、日本の実業家。TBS元社長・会長。長崎県諫早市高来町出身。 1925年(大正14年)に京都帝国大学経済学部卒業。大阪商船(現在の商船三井)での勤務を経て、1952年(昭和27年)にラジオ東京(現在のTBSホールディングス)に入社した。 1965年(昭和40年)からは東京放送社長を務め、テレビドラマと報道番組の強化により、「報道とドラマのTBS」として一時代を築いた。1969年(昭和44年)11月28日から会長、1976年(昭和51年)からは相談役を歴任した。 その一方で、1968年(昭和43年)から1974年(昭和49年)までは日本民間放送連盟会長を務めた。
楢原 良一郎(ならはら りょういちろう、1900年3月1日 … 楢原 良一郎(ならはら りょういちろう、1900年3月1日 - 1976年5月22日)は、日本の経営者。東京都出身。 1923年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1943年に古河鉱業に転じ、1949年に取締役に就任し、1953年に常務、1958年に専務、1961年に副社長を経て、同年11月には社長に就任。1971年2月に会長に就任。 1963年に日本鉱業協会会長に就任し、藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1976年5月22日肝硬変のために死去。76歳没。
16代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英夫、189… 16代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英夫、1899年〈明治32年〉11月3日 - 1984年〈昭和59年〉1月8日)は、日本の実業家。大日本除虫菊会長を務めた。大日本除虫菊の創業者上山英一郎の三男。同社会長を務めた上山英介の実父、同じく会長を務めた上山直武の養父。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。1924年、京都帝国大学経済学部卒業。日本勧業銀行に入り、検査役・鑑定役・大阪支店副支配人などを歴任し、1938年、退職して大日本除虫菊会社副社長に就任。1943年、勘太郎を襲名し第3代社長に就任。1981年、会長に就任。 上山英一郎の三男、十五代勘太郎、英三の弟であり、1932年に分家した。
那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 196… 那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 1968年12月7日)は、岐阜県出身の実業家・興行師。京都帝国大学卒業。株式会社東京楽天地社長などを歴任した。土木工学者・鉄道官僚の那波光雄は父。日本郵船社長の有吉義弥は義兄。 1899年(明治32年)11月3日に岐阜県に生まれた。父は土木工学者・鉄道官僚の那波光雄である。愛媛県の旧制松山高等学校を第1回生として卒業後、1926年(大正15年)に京都帝国大学法学部を卒業した。旧制松山高校の同窓には後に三和銀行頭取となる上枝一雄、後に日本郵船社長となる有吉義弥などがいた。大学卒業後には小林一三が率いる東宝グループの阪神急行電鉄、東京瓦斯、東京宝塚劇場などに勤務した。
砂野 仁(いさの まさし、1899年9月15日 - 1979… 砂野 仁(いさの まさし、1899年9月15日 - 1979年6月30日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。 京都府与謝郡加悦町出身。1926年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1927年に川崎造船所に入社した。主に労務畑に携わり、1954年に川崎航空機副社長に就任し、同社の再建に尽力し、1959年に川崎重工業取締役に就任し、1961年12月に社長に就任した。1969年12月から1973年11月までに会長を務めた。 1969年6月から1976年11月までに神戸商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、日本ルーマニア経済委員会会長、ソ連東欧貿易会会長、関西経済連合会常任理事なども歴任した。
加藤 辨(弁)三郎(かとう べんざぶろう、1899年(明治3… 加藤 辨(弁)三郎(かとう べんざぶろう、1899年(明治32年)8月10日 - 1983年(昭和58年)8月15日)は、日本の実業家。協和醱酵工業(現:協和キリン)会長。従三位勲一等。工学博士。 島根県簸川郡荒茅村(現:出雲市荒茅町)に加藤伊三郎の長男として生まれた。生家は代々清酒醸造業を営んでいたが祖父の代に没落。父は村役場の書記をしていた。1923年京都帝国大学工学部卒業。四方合名会社(現:宝ホールディングス)に入社。1949年協和醱酵工業株式会社が発足。代表取締役社長に就任。1968年同社取締役会長に就任。 1952年在家仏教協会を設立。1961年東レ科学技術賞受賞。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月… 松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の登山家、ジャーナリスト、実業家。ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事、東京ロータリークラブ会長。従三位勲一等瑞宝章。松方家第3代当主。本名は義三郎。筆名として後藤 信夫(G.N.)など。 日本の登山界の草分けの一人で、キスリング・ザックを日本に紹介し、その名称を定着させた人物でもある。 父は明治の元勲で第4代、第6代内閣総理大臣の松方正義。兄は川崎造船所(現・川崎重工)、川崎汽船、国際汽船などの社長を務めた松方幸次郎(幸次郎は三男、義三郎は十五男の末子である)。
春木 榮(はるき さかえ、1899年5月23日 - 2000… 春木 榮(はるき さかえ、1899年5月23日 - 2000年10月25日)は、昭和時代の研究者、経営者。島根県出身。京都帝国大学卒。富士フイルム株式会社社長を歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
李 晶来(イ・ジョンネ、朝鮮語: 이정래/李晶來、1899年… 李 晶来(イ・ジョンネ、朝鮮語: 이정래/李晶來、1899年5月7日 - 1989年7月28日)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲・第5・6代韓国国会議員。 本貫は広州李氏(朝鮮語版)。号はウギョン(우경)。4人息子のうち2人は記者で1人は画家。妻の実家は潭陽郡昌平面で、元国務総理の李漢基(朝鮮語版)の父とは同郷であり、李晶来は彼の母方のおばの夫に当たる。 全南宝城兼白面またはソウル市鐘路区出身。私立中央学校3学年修了。正則英語学校を経て、早稲田大学専門部政治経済学科修了。1943年、京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。1932年からソウル市鐘路で東光堂書店・出版社を経営し、代表取締役を務めた。
廣田 壽一(ひろた ひさかず、1899年5月7日 - 198… 廣田 壽一(ひろた ひさかず、1899年5月7日 - 1984年1月15日)は昭和期の実業家。住友金属工業元社長・会長。 京都府出身。1923年に京都帝国大学工学部卒業後、住友製鋼所へ入社。1949年に新扶桑金属工業社長となり、1952年に住友金属社長、1962年に会長を務め、1973年より相談役を務めた。また、1956年に財団法人関西生産性本部の創立に力を尽くし、20年間にわたり会長を務めるなど、関西の財界で活躍した。1958年日本金属学会会長。その他には毎日放送取締役なども務めた。1984年1月15日、84歳で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
西松 三好(にしまつ みよし、1898年 <明治31年> 1… 西松 三好(にしまつ みよし、1898年 <明治31年> 10月6日 - 1971年 <昭和46年> 10月22日)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。位階は従四位。 新潟県出身。1922年に京都帝国大学工学部土木学科を卒業し、1926年12月に西松組(のちの西松建設)に入社。1936年に代表幹事を経て、1937年10月に副社長に就任し、1947年5月には社長に昇格。 1956年に藍綬褒章を受章し、1968年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1971年10月22日、急性心筋梗塞のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
池田 清就(いけだ きよなり、1898年〈明治31年〉9月1… 池田 清就(いけだ きよなり、1898年〈明治31年〉9月16日 - 1966年〈昭和41年〉6月4日)は、因幡若桜藩(鳥取西館新田藩)池田家当主、会社役員。最後の藩主であった池田徳定の子。母は、池田慶徳の養女・池田常子(池田敬三郎の長女)。1910年から1947年まで子爵であった。 池田徳定の三男。1910年(明治43年)に襲爵し、学習院高等科を経て、1923年(大正12年)に京都帝国大学経済学部を卒業する。横浜正金銀行に入る。1946年(昭和21年)に退行する。 1951年(昭和26年)にエース商会監査役となり1952年(昭和27年)に取締役、1960年(昭和35年)に常務となる。 菩提寺は向島の弘福寺で、関東大震災後の区画整理により昭和3年に清就が合葬したという記載がある。
児玉 忠康(こだま ただやす、1898年 <明治31年> 7… 児玉 忠康(こだま ただやす、1898年 <明治31年> 7月29日 - 1990年 <平成2年> 10月27日)は、日本の経営者。日本郵船社長、会長を務めた。位階は従三位。広幡忠朝の三男として生まれ、兒玉秀雄の婿養子となった。 東京都出身。1922年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本郵船に入社。1947年1月に取締役に就任し、1952年12月に常務を経て、1958年11月に副社長に就任し、1961年1月には社長に昇格。1965年11月に会長に就任し、1971年5月には相談役に就任。 1990年10月27日肺炎のために東京都新宿区の国立病院医療センターで死去。92歳没。墓所は多磨霊園(8-1-17-1)。
中村 隆一(なかむら りゅういち、1898年4月12日 - … 中村 隆一(なかむら りゅういち、1898年4月12日 - 1992年6月27日)は、日本の経営者。日立金属社長を務めた。 山口県出身。松田忠治の六男として生まれ、芳治の養子となる。弟は元衆議院議員の林佳介。1926年に京都帝国大学法学部を卒業。 藤田銀行での勤務を経て、1928年に戸畑鋳物(のちの日立製作所)に転じ、1947年に取締役に就任し、1955年に常務を経て、1956年に日立金属初代社長に就任し、1971年2月には会長に就任。1977年6月からは相談役を務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1968年に勲三等瑞宝章を受章。 1992年6月27日、肝不全のために死去。94歳没。
富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> … 富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> 3月23日 - 1988年 <昭和63年> 12月28日)は、日本の経営者、工学博士。東洋ゴム工業社長、会長を務めた。位階は従四位。 岡山県生まれ。第六高等学校 (旧制)を経て、1923年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、同大学で助手を務めた。師は喜多源逸。在学中に喜多とともにベークライトの製法特許を取得している。1929年学位論文「ヴィスコースの研究」により京都帝国大学より工学博士号を取得。昭和レーヨン、東洋紡での勤務を経て、1945年8月に東洋ゴム工業社長に就任。1965年5月に会長に就任し、1971年5月に取締役相談役、1975年5月に相談役を経て、1978年6月には名誉顧問に就任。
本多 静雄(ほんだ しずお、1898年(明治31年)1月5日… 本多 静雄(ほんだ しずお、1898年(明治31年)1月5日 - 1999年(平成11年)5月6日)は、愛知県西加茂郡上郷村(現・豊田市)出身の実業家、陶芸研究家。愛知工業大学教授。猿投古窯跡を発見した功績で知られる。 1898年(明治31年)1月5日、愛知県西加茂郡上郷村花本(現・豊田市花本町)に生まれた。父は本多松三郎、母はちかであり、静雄は次男だった。 11歳だった1909年(明治42年)、宇佐美一夫の娘である7歳の宇佐美美恵と見合いし、美恵は静雄の許嫁となった。1910年(明治43年)に西加茂郡猿投第二尋常高等小学校(現・豊田市立青木小学校)を卒業し、1915年(大正4年)3月に愛知県立工業学校(現・愛知県立愛知工業高校)を卒業すると、同年4月には東京・神田の私立東京中学校(現・東京高等学校)に編入した。
下村 彌一(しもむら・やいち、1897年(明治30年)8月1… 下村 彌一(しもむら・やいち、1897年(明治30年)8月16日 - 1990年(平成2年)4月6日)は、日本の実業家。坂本龍一の祖父。 長崎県諫早市出身。下村代助の三男。生家は小さな農家である。1905年に父の代助は家族を連れ佐世保に移住し、市役所の臨時雇いの雑用夫として働いた。 現在の佐世保市立白南風小学校を卒業後、家が貧しかったため佐世保海軍工廠の見習工になった。しかし、進学が諦め切れず旧制長崎県立佐世保中学校の校長を訪ねて直談判し、試験を受けて中学4年に編入学する。1919年に旧制第五高等学校文科甲類に入学し、池田勇人と友人となり、1922年に卒業。1925年に京都帝国大学法学部を卒業し、小学校時代の恩師の娘・美代と結婚。
西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日… 西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日 - 1989年(平成元年)10月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・赤松。 海軍士官・赤松則良の七男として生まれ、1899年(明治32年)に海軍士官・西紳六郎の養子となる。養父の死去に伴い、1933年(昭和8年)11月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年、第一銀行に入行し書記に就任。その後、南洋拓殖参事、南洋バルブ取締役、太洋真珠監査役、南洋水産監査役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
阿部 孝次郎(あべ こうじろう、1897年1月3日 - 19… 阿部 孝次郎(あべ こうじろう、1897年1月3日 - 1990年10月18日)は、日本の実業家。東洋紡績社長・会長。阿部房次郎の長男。滋賀県出身。 滋賀県出身。知られた美術蒐集家でもあった阿部房次郎とゑみの長男として生まれる。大正10年(1921年)、京都帝国大学工学部機械工学科卒業。 同年父・房次郎が社長を務める東洋紡績に入社。昭和17年(1942年)取締役、昭和21年(1946年)常務を経て、昭和22年(1947年)社長に就任。昭和34年(1959年)会長、昭和41年(1966年)相談役、のち名誉顧問となる。 この間、日本紡績協会委員長、関西経済連合会第6代会長、日本繊維機械学会副会長・会長なども務めた。
白根 清香(しらね きよか、1896年11月6日 - 198… 白根 清香(しらね きよか、1896年11月6日 - 1985年12月30日)は、日本の経営者、銀行家。中央信託銀行初代社長を務めた。山口県出身。 1923年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1946年6月に理事に就任し、1947年に大阪支店長、1950年に日本証券金融社長を経て、1962年5月には中央信託銀行社長に就任。1965年12月から1970年12月までに会長を務めた。京阪電気鉄道相談役を務めた。 1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年12月30日肺炎のために死去。89歳没。
福田 千里(ふくだ ちさと、1896年 <明治29年> 10… 福田 千里(ふくだ ちさと、1896年 <明治29年> 10月20日 - 1992年 <平成4年> 12月26日)は、日本の経営者。大和証券社長、会長を務めた。東京都出身。位階は従四位。 1921年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に藤本ビルブローカー銀行(のちの大和証券)に入社した。台北支配人、取締役、常務、専務を経て、1954年11月に副社長に就任し、1957年11月に社長に昇格。1963年4月には会長に就任した。 1963年から1968年までに日本証券業協会連合会会長を務め、日本教育テレビ取締役、日本経営者団体連盟・経済団体連合会各常任理事も務めた。 1964年に藍綬褒章を受章し、1968年に勲三等旭日中綬章を受章した。
森村 義行(もりむら よしゆき、1896年(明治29年)6月… 森村 義行(もりむら よしゆき、1896年(明治29年)6月4日 - 1970年(昭和45年)11月3日)は、日本の実業家。学校法人森村学園理事長、財団法人森村豊明会第3代理事長、社団法人日本陶磁協会第2代理事長。 公爵:松方正義の十二男として生まれ、後に森村開作(7代目市左衛門)の婿養子となる。旧制兵庫県立第一神戸中学校を経て、1918年に旧制第七高等学校造士館を卒業。1921年京都帝国大学法学部卒業、同年に森村男爵家の婿養子となり一族の諸会社の重役を務める。 1951年、学校法人森村学園理事長・学園長就任。1961年、(財)森村豊明会第3代理事長就任。1970年3月、(社)日本陶磁協会第2代理事長就任。
田中 省吾(たなか しょうご、1896年(明治29年)1月3… 田中 省吾(たなか しょうご、1896年(明治29年)1月31日 - 1967年(昭和42年)10月9日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。 岐阜県出身。田中梅之助の長男として生まれる。東京高等師範学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し土木局属となる。 以後、長野県警察部特別高等警察課長、同警務課長、大阪府警察部特別高等警察課長、内務事務官(欧州駐在)、千葉県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、内務省土木局道路課長、同河川課長などを歴任。 1942年5月、佐賀県知事に就任。戦時体制の整備に尽力。1944年8月、農商省生活物資局長に転じた。