瀧 巖(たき いわお、1901年(明治34年)6月19日 -… 瀧 巖(たき いわお、1901年(明治34年)6月19日 - 1984年(昭和59年)5月31日)は、日本の軟体動物学者、分類学者。表記揺れにより、瀧巌や滝巌と表記されることもある。兄である滝庸や波部忠重、黒田徳米らと共に、多板類、頭足類や腹足類など、多くの軟体動物を記載した。 1901年(明治34年)6月19日に愛媛県松山市に生まれる。兄に勧められ、1920年(大正9年)広島高等師範学校理科第3部(博物・地理)に入学し、1924年(大正13年)卒業し福岡県立中学伝習館教諭となる。1925年(大正14年)京都帝国大学理学部動物学科に入学し、1928年(昭和3年)に卒業とともに嘱託として瀬戸臨海実験所で働く。
佐藤 通次(さとう つうじ、1901年5月26日 - 199… 佐藤 通次(さとう つうじ、1901年5月26日 - 1990年7月3日)は、日本の独文学者、哲学者。学位は文学博士(九州帝国大学・1944年)。皇學館大学学長。皇學館大学名誉教授。 山形県川西町生まれ。旧制山形高等学校を経て、1926年に京都帝国大学文学部独文科卒。九州帝国大学法文学部助教授、文部省教学錬成所員、大日本言論報国会理事。1944年に「ゲーテノ生命体験」で九州帝国大学より文学博士の学位を取得。 戦後は、『皇道哲学』を著したことから公職適否審査会の調査対象となり、言論報国会理事であったことで公職追放となり、追放解除後の1955年に亜細亜大学教授、1965年に皇學館大學教授、1973年から1980年まで同学長、名誉教授。
小川 裕人(おがわ ひろと、1901年5月14日 - 197… 小川 裕人(おがわ ひろと、1901年5月14日 - 1974年10月27日)は、日本の歴史学者。専門は東洋史。東方文化学院研究員(東亜研究所委託事業嘱託、1939年1月 - 1944年)、大谷大学教授、大阪商業大学教授。 長野県出身。京都帝国大学文学部卒業。1933年に外務省の文化事業部は満蒙文化研究事業という名目で助成金を出し、東京帝国大学と京都帝国大学に委託したが、京都帝国大学では羽田亨を中心に、田村実造、若城久治郎、外山軍治、小川裕人らが研究を行った。 京都帝国大学は1938年から『満蒙史論叢』を刊行したが、小川裕人が第2巻の編集を担当している。 関西大学講師、大谷大学教授、大阪商業大学教授を務めた。
一本松 珠璣(いっぽんまつ たまき、1901年4月29日 -… 一本松 珠璣(いっぽんまつ たまき、1901年4月29日 - 1985年1月24日)は日本の実業家。電気工学者。元日本原子力発電社長、同最高顧問。従三位勲一等工学博士。日本の原子力発電事業の草分け的存在。 広島県佐伯郡能美村(現:広島県江田島市能美町)出身。1924年京都帝国大学工学部電気工学科卒。大阪市電気局(現:大阪市交通局)を経て関西配電(現:関西電力)入社。1942年同社企画課長を経て取締役神戸支店長。1945年「大都市電力系統計画論」で工学博士。1947年常務、1950年アメリカ視察で渡米。1956年、石川一郎原子力委員団長らと副団長として第1回の訪英調査団派遣に参加。世界最初の実用規模の原子力発電所・コールダホール型原子力発電所を視察、またアメリカの状況も視察した。
岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 -… 岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 - 1978年〈昭和53年〉3月1日)は、日本の数学者。理学博士(京都帝国大学、・論文博士・1940年)。奈良女子大学名誉教授。奈良市名誉市民。従三位勲一等瑞宝章。 1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市東区田島町(現・中央区)で生まれた。父祖の地は和歌山県伊都郡紀見村(現・橋本市柱本)である。1925年(大正14年)、京都帝国大学講師、1929年(昭和4年)、同大学助教授。1929年(昭和4年)、フランス留学。中谷宇吉郎と中谷治宇二郎に出会い、妻の岡ミチも合流する。1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授。1938年(昭和13年)、病気で郷里に戻り、孤高の研究生活に身を投じた。
毛利 与一(もうり よいち、1901年4月15日 - 198… 毛利 与一(もうり よいち、1901年4月15日 - 1982年1月30日)は、日本の弁護士。 福岡県北九州市で生まれる。 1925年に京都帝国大学法学部を卒業。1928年には大阪で法律事務所を開く。その後は第2次大本教事件、人民戦線事件、天理本道事件などの弁護人を務める。戦後、東京裁判では平沼騏一郎の補佐弁護人を務め、鈴木大阪警視総監名誉毀損事件ではGHQの裁判干渉に抗議しながら弁護に当たった。その他にも松川事件、八海事件、破壊活動防止法京都事件、朝日訴訟、砂川事件などで弁護活動を行った。 1958年『自由心証論 : 有罪心証としての』で立命館大学法学博士を取得。1959年に大阪弁護士会会長を務めた。
高橋 一郎(たかはし いちろう、1901年(明治34年)3月… 高橋 一郎(たかはし いちろう、1901年(明治34年)3月19日 - 1951年(昭和26年)12月23日)は、日本の内務・警察官僚。陸軍司政官、最後の官選長崎県知事。 静岡県出身。高橋栄蔵の養子となる。第二高等学校を卒業。1924年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、内務省に入省し京都府書記となる。 以後、京都府社会課長、鳥取県警察部保安課長、同特別高等課長、熊本県学務課長、同庶務課長、神奈川県庶務課長、愛媛県書記官・警察部長、静岡県書記官・経済部長などを歴任し、1942年10月31日、陸軍司政官に就任。1943年3月から1944年12月まで第16軍軍政監部付・スラバヤ市長を務めた。
芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34… 芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34年> 3月4日 - 2003年 <平成15年> 7月12日)は、昭和期の実業家。関西電力元社長・会長・名誉会長。位階は正三位。芦原義倫は四男。 香川県高松市出身。高松中学、旧制第六高等学校を経て、1924年3月京都帝国大学工学部電気工学科卒業。同年、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄、企業としては現・阪急阪神ホールディングス)に入社した。1942年の配電統制により関西配電へ引継採用され、工務部電務課長に就任した。1946年、同社常務取締役、1950年、同社取締役副社長。 1951年の電気事業再編成により、関西電力常務取締役に就任した。1959年に太田垣士郎の後任として取締役社長に就任し、黒部川開発を始めとした電源開発と共にいち早く原子力発電を導入した。
清棲 幸保(きよす ゆきやす、1901年〈明治34年〉2月2… 清棲 幸保(きよす ゆきやす、1901年〈明治34年〉2月28日 - 1975年〈昭和50年〉11月2日)は、日本の鳥類学者。位階は正五位。宇都宮大学教授。 東京帝国大学卒業。学位は理学博士(京都大学)。 爵位は伯爵。位階は正五位。伊達政宗の男系子孫である。旧姓・真田(真田伯爵家)。清棲家は、2代当主が幸保である。 幸保は、鳥類の渡り、繁殖、食性、日本アルプス、中国、朝鮮などの鳥の生態を研究、特に野鳥の写真を撮影し、貴重な資料とした。日本における野鳥撮影の第一人者である。14年をかけたて完成させた「清棲図鑑」と呼ばれる『増補改訂版・日本鳥類大図鑑全3巻、増補版1巻』は戦後最高の鳥類図鑑で名著と名高く、黒田長禮による『鳥類原色大図説』、山階芳麿による『日本の鳥類と其の生態』と並び、日本鳥類三大図鑑と呼ばれ、多くの鳥類学者に影響を与えた。
有馬 知機(ありま ちき / ともき、1901年2月25日 … 有馬 知機(ありま ちき / ともき、1901年2月25日 - 1970年12月11日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長、日本損害保険協会副会長を務めた。 鹿児島県日置郡伊集院町(後の日置市の一部)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1924年3月に旧制山口高等学校文科乙類を卒業。旧制山口高校以来の友人に武安千春(日本セメント社長、会長、相談役)がいる。1927年3月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。 1927年4月、信託株式会社大信社へ入社。1930年3月に大信社を退職して、4月に共同火災保険株式会社へ入社。福岡支店長、関東営業部参事兼本店企画部参事、外国部長などを歴任。
天野 元之助(あまの もとのすけ、1901年2月22日 - … 天野 元之助(あまの もとのすけ、1901年2月22日 - 1980年8月9日)は、日本の中国経済史学者。大阪市立大学文学部教授を経て、追手門学院大学名誉教授。 1901年、大阪市生まれ。1926年に京都帝国大学経済学部を卒業。卒業後は満鉄調査部に入り、満州、山東省、華中、海南島などで農村調査に従事し、同時に古典農書の研究も行った。 1945年に太平洋戦争が終結するが、1946年に中国長春鉄路公司科学研究所経済調査局に主任研究員として留用されることが決定。同研究所に勤務し、1948年に日本へ帰国。帰国後は京都大学人文科学研究所に入り、中国農業史を研究した。1951年、学位論文『中国農業経済要論』を京都大学に提出して経済学博士の学位を取得。
川村 和嘉治(かわむら わかじ、1901年(明治34年)2月… 川村 和嘉治(かわむら わかじ、1901年(明治34年)2月21日 - 1968年(昭和43年)2月19日、満66歳没)は日本の政治家。高知県知事を務めた。 高知県長岡郡本山町出身。1930年京都帝国大学農学部卒業。『大阪毎日新聞』で農政記者として、戦時下の農政団体で活躍する。1947年(昭和22年)の第1回高知県知事選挙に出馬し当選。およそ半年後の1947年(昭和22年)7月25日に公職追放が決定し、解職。追放解除後の1951年(昭和26年)に国民民主党、日本社会党、社会革新党の推薦を得て、現職の桃井直美を約2万票の差で破り当選。1955年(昭和30年)まで再び知事を務めた。1955年の高知県知事選挙では新人の溝渕増巳に敗れて知事を退任。
野口 恒樹(のぐち つねき、1901年2月7日 - 1989… 野口 恒樹(のぐち つねき、1901年2月7日 - 1989年11月7日)は、日本の哲学者。皇学館大学名誉教授。 福岡県遠賀郡芦屋町生まれ。愛媛県師範学校教諭、海軍教授、長崎県立短期大学教授を経て、皇学館大学教授・名誉教授。
速水 敬二(はやみ けいじ、1901年(明治34年)2月5日… 速水 敬二(はやみ けいじ、1901年(明治34年)2月5日 - 1974年(昭和49年)7月8日)は、日本の哲学者。専門はヘーゲルの哲学。 1901年、三重県で生まれた。京都帝国大学で学び、卒業。 1946年に國學院大學教授となった。1962年、学位論文『誰:顔の形而上学』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。1974年に死去。 「学者一家」として知られる東畑家の次男坊で、速水家に婿養子に入った。
13代千宗左(せん そうさ、1901年〈明治34年〉1月27… 13代千宗左(せん そうさ、1901年〈明治34年〉1月27日 - 1979年〈昭和54年〉8月29日)は、茶道表千家の家元。 京都府生まれ。12代惺斎千宗左の次男。即中斎。幼名は覚二郎、号に無尽・清友軒。慶應義塾大学文学部及び京都帝国大学史学選科卒。1936年、兄・不言斎が急逝、1937年、父・惺斎の死去のため、表千家13代家元を継ぐ。1949年、財団法人不審庵を設立。1973年、京都市文化功労者。1975年、表千家同門会を発足させ茶の普及につとめた。また不審庵伝来の「元伯宗旦文書」を公刊。1979年、死去。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。学位は、理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。 宮地が定年退官後、京都大学の教室は京大出身で九州大学助教授であった森下正明が引き継いだ。 その森下正明が定年退官後、川那部浩哉が引き継いだ。杉山幸丸も宮地の流れを汲んでいる。
小島 吉雄(こじま よしお、1901年(明治34年)1月24… 小島 吉雄(こじま よしお、1901年(明治34年)1月24日 - 1989年(平成元年)10月21日)は、日本の国文学者。 学位は、文学博士(九州帝国大学・論文博士・1945年)(学位論文「後鳥羽上皇と新古今和歌集」)。大阪大学名誉教授。 大阪府出身。1924年京都帝国大学文学部国文科卒。九州帝国大学助教授、教授、1945年「後鳥羽上皇と新古今和歌集」で九州帝国大学より文学博士の学位を取得。1950年大阪大学文学部教授、1965年定年退官、名誉教授。 「新古今和歌集の研究」をはじめ、中世歌論、連歌、俳諧、浄瑠璃を研究した。 1982年(昭和57年)には各種の古典講座を開催し、一般市民に古典文学への興味と理解を深めさせ、古典文学の普及に尽力してきたとして、大阪文化賞を受賞する。
天野 末治(あまの すえじ、1901年1月21日 - 197… 天野 末治(あまの すえじ、1901年1月21日 - 1976年3月1日)は、日本の弁護士、社会運動家。扱った事件の多くは、小作争議、労働争議、思想弾圧事件などであり、自由法曹団東海支部結成においては指導的役割を果たした。愛知大学事件、大須事件の弁護団長として知られる。旧姓は柴田。 愛知県美合村大字岡村(現:岡崎市岡町字西側25番地)に、父柴田喜十、母たまの末っ子として生まれた。生家は農業で、当時その地方では養蚕が盛んであったことから、養蚕家が集まって蚕種製造組合を創った。父の柴田喜十は推されてその組合長となり、村会、信用組合などの役員などもした。 1914年(大正3年)、男川尋常高等小学校高等科を修了。
吉川 大二郎(きっかわ だいじろう、1901年(明治34年)… 吉川 大二郎(きっかわ だいじろう、1901年(明治34年)1月14日 - 1978年(昭和53年)9月25日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は、法学博士(1947年)(学位論文「保全訴訟における裁判の効力」)。立命館大学名誉教授。元日本弁護士連合会会長。国際法曹協会名誉会長。1971年勲一等瑞宝章受章。 戦前から戦後のながきにわたり日本の民事手続法研究と実務をリードした。特に民事執行・保全法に関する研究は吉川がこの分野のパイオニアとされる。そのため吉川の考えは現在の民事執行法・保全法の基本的な考えとなっている。例えば、吉川以前は、保全訴訟において被保全権利の存在は審理の対象ではなかったが、吉川が被保全権利の存在は仮処分命令の発令要件であると唱えて以来、この考えが通説となっている。
阿川 幸寿(阿川 幸壽、あがわ ゆきひさ、1901年〈明治3… 阿川 幸寿(阿川 幸壽、あがわ ゆきひさ、1901年〈明治34年〉1月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月26日)は、満州国官吏、日本の実業家。阿川機工、構造物コンサルタント各社長。 長崎県・田中良蔵の甥。大阪府立天王寺中学校を経て1924年、第七高等学校造士館を卒業。1927年、京都帝国大学経済学部を卒業。 満鉄に入社する。安東、奉天各地方事務所に勤務。瓦房店、四平街各地方事務所庶務係長、大石橋地方事務所長を経て満州国に転じ、審計局審計官第一處勤務。後に四平街市長となる。1940年、安東市長に就任する。 1950年に阿川機工を設立、社長に就任。1962年に構造物コンサルタントを設立、社長を兼務。
松本 美行(まつもと よしゆき、1901年〈明治34年〉 -… 松本 美行(まつもと よしゆき、1901年〈明治34年〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。 島根県松江市生まれ。1925年、京都帝国大学経済学部を卒業。山陰合同銀行参与、山陰貯蓄銀行頭取、松江市議会議長、島根県松江市教育委員会委員長などをつとめた。 趣味は読書。宗教は禅宗。住所は松江市寺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
王 秉鐸(おう へいたく、1901年 – 没年不詳)は、満洲… 王 秉鐸(おう へいたく、1901年 – 没年不詳)は、満洲国の官僚。実兄は、同じく満洲国で官僚をつとめた王子衡。 旅順師範学堂卒業後、兄・王子衡の資金援助を受けて日本に留学した。まず山形高等学校で学ぶ。次いで1927年(民国16年/昭和2年)4月、京都帝国大学法学部に入学し、1930年(民国19年/昭和5年)3月に卒業した。 帰国後は満洲国で監察院審計官、奉天市公署総務科長、奉天省理事官、民政部理事官兼総務庁参事官、大同学院教官、民生部参事官、民生部大臣官房弁事、民生部社会司社会科長、民生部厚生司長兼大同学院教官を歴任する。1941年(康徳8年)6月、総務庁統計処長に任命され、1944年(康徳11年)12月16日、北安省長に抜擢された。
瀧本 義一(たきもと ぎいち、1900年(明治33年)12月… 瀧本 義一(たきもと ぎいち、1900年(明治33年)12月23日 - 1986年(昭和61年)8月5日)は、日本の建築工学・建築構造学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(京都大学)。建築学教室担当。 専門は、建築工学・建築構造(特にラーメン構造・構造計算)、建築材料(特にコンクリート工学)。 京都帝国大学工学部建築学科卒業(指導教授:京都帝国大学建築学科創設者で、関西建築界の父といわれる武田五一)。のちに工学博士(京都大学)。大阪工業大学工学部建築学科に着任。1958年同学科教授。1971年大阪工業大学名誉教授。大阪工業大学建築学科にて長きに渡り教鞭を執り、大学初期の建築構造・建築材料の研究推進・育成に貢献した。
小原 謙太郎(おはら けんたろう、1900年(明治33年)1… 小原 謙太郎(おはら けんたろう、1900年(明治33年)12月15日 - 1990年(平成2年)10月2日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍・岐阜県。官僚・小原駩吉の長男として生まれる。父の死去に伴い、1932年(昭和7年)6月15日、男爵を襲爵した。 1927年(昭和2年)3月、京都帝国大学法学部を卒業した。同年、大阪商船に入社し、東京支店勤務を経て、本社勤務となった。 1944年(昭和19年)7月22日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。同年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した。
矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1… 矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1982年2月23日)は、日本の教育学者。ソビエト教育学研究会会長。 1900年、長崎県長崎市に生まれた。1919年、旧制山口高等学校に入学。1926年、京都帝国大学文学部英文学科を卒業。戦前は日本大学工学部予科教授などを務めた。英語教育に携わる傍ら、科学読物の英和注釈本などの出版を通して、科学教育の実践を試みた。独学でロシア語を習得し、ソビエト教育理論や実践を紹介した。 太平洋戦争後は、教育学者として民間教育運動の理論的指導者として活躍した。学界では1960年以降、ソビエト教育学研究会会長を務めた。1982年に死去。 これらの他にロシア共和国教育科学アカデミー編『ソビエト教育科学アカデミヤ版ソビエト教育科学辞典』明治図書出版、1963をソビエト教育学研究会が編訳。
内田 敏雄(うちだ としお、1900年〈明治33年〉11月1… 内田 敏雄(うちだ としお、1900年〈明治33年〉11月1日 - 没年不詳)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。位階は正四位。 海軍士官・内田正敏の養子・栄(矢部善作の二男)の長男として生まれる。養曽父・正敏の死去に伴い、1922年(大正11年)6月2日、男爵を襲爵した。 1926年(大正15年)4月、京都帝国大学法学部政治経済学科を卒業。1927年(昭和2年)東京市社会局嘱託となる。その後、南洋拓殖人事課長、同参事などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1977年(昭和52年)時点でのインタビューが残っている。
今道 潤三(いまみち じゅんぞう、1900年(明治33年)1… 今道 潤三(いまみち じゅんぞう、1900年(明治33年)10月11日 - 1979年(昭和54年)5月25日)は、日本の実業家。TBS元社長・会長。長崎県諫早市高来町出身。 1925年(大正14年)に京都帝国大学経済学部卒業。大阪商船(現在の商船三井)での勤務を経て、1952年(昭和27年)にラジオ東京(現在のTBSホールディングス)に入社した。 1965年(昭和40年)からは東京放送社長を務め、テレビドラマと報道番組の強化により、「報道とドラマのTBS」として一時代を築いた。1969年(昭和44年)11月28日から会長、1976年(昭和51年)からは相談役を歴任した。 その一方で、1968年(昭和43年)から1974年(昭和49年)までは日本民間放送連盟会長を務めた。
江頭 恒治(えがしら つねはる、1900年10月7日 - 1… 江頭 恒治(えがしら つねはる、1900年10月7日 - 1978年10月5日)は、日本の経済学者。滋賀大学名誉教授。 佐賀県生まれ。1924年佐賀高等学校を卒業。同年、京都帝国大学経済学部に入学し、本庄栄治郎のもとで日本経済史を学び、1927年卒業。浪速高等学校講師などを務めたのち、1933年黒正巌が開設した日本経済史研究所の所員となる。1937年、満州建国大学助教授、1940年に同大学教授。戦後、1947年2月に彦根経済専門学校講師となり、翌3月同校教授。1949年に同校が新設の滋賀大学に包摂されると、同大学教授となり、兼ねて同大学彦根経済専門学校教授に任ぜられる。1961年、定年退官、名誉教授。
平澤 興(ひらさわ こう、1900年(明治33年)10月5日… 平澤 興(ひらさわ こう、1900年(明治33年)10月5日 - 1989年(平成元年)6月17日)は、日本の医学者。新潟県出身。専門は脳神経解剖学。京都大学教授、京都大学第16代総長などを務めた。 1900年(明治33年)新潟県西蒲原郡七穂村(のち味方村、現新潟市南区)に生まれる。 幼時より医師になることを志し、地元の小学校を卒業した後父の居た京都に独りで赴き、1912年(大正元年)に京都市立平安中学に入学、1915年(大正4年)に府立第二中学へ転校し1917年(大正6年)に卒業。同年7月、金沢の第四高等学校(金沢大学の前身)に入学、1920年(大正9年)高校を卒業し、京都帝国大学医学部に入学。
戸坂 潤(とさか じゅん、1900年9月27日 - 1945… 戸坂 潤(とさか じゅん、1900年9月27日 - 1945年8月9日)は、日本の哲学者。
伊藤 郷一(いとう ごういち、1900年(明治33年)9月2… 伊藤 郷一(いとう ごういち、1900年(明治33年)9月23日 - 1987年(昭和62年)9月8日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(7期)。 北海道白糠郡白糠村(現白糠町)で生まれる。1927年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。横浜市総持寺高等女学校教師、釧路市文化協会理事長、中華民国新民会河南省総会次長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に北海道第二区から日本自由党所属で出馬し当選。その後、北海道第5区で第27回総選挙まで連続6回当選し、その後第29回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算7期務めた。この間、衆議院図書館運営委員長、同文部委員長、第2次吉田内閣農林政務次官、北海道開発審議会委員、裁判官訴追委員長、自由党両院議員総会副会長、同党政調会文教部長、同党総務、自由民主党文教制度調査会副会長などを歴任した。
草薙 正夫(くさなぎ まさお、1900年9月20日 - 19… 草薙 正夫(くさなぎ まさお、1900年9月20日 - 1997年8月1日)は、日本の哲学者。神奈川大学名誉教授。 1900年、香川県生まれ。1928年、京都帝国大学文学部哲学科を卒業。 卒業後は神奈川大学教授。1950年12月、武藤光朗・鈴木三郎・金子武蔵らとヤスパース協会創立のための準備会を開き、翌年2月23日(2月23日はヤスパースの誕生日)発足。1960年に学位論文「実存哲学の根本問題 ヤスパース研究」を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得。1971年に神奈川大学を定年退任し、名誉教授の称号を得る。神奈川県立外語短期大学学長を務めた。
池内 義資(いけうち よしすけ、1900年9月9日 - 19… 池内 義資(いけうち よしすけ、1900年9月9日 - 1979年10月18日)は、日本の法制史学者、教員。 愛媛県生まれ。広島高等師範学校で新見吉治に学び、1923年卒業。高知師範学校で教員を務めた後、1927年京都帝国大学文学部史学科に入学し、卒業論文「武士発生史の研究」をまとめ、1931年3月に卒業。京都府立第一高等女学校、兵庫県立第二神戸中学校、大分県立宇佐中学校等の教員を勤め、愛媛県立松山北高等学校校長等を歴任する。その傍ら、中世法制史研究を行い、佐藤進一と共に「中世法制史料集」(岩波書店)の編纂を行う。また、特に御成敗式目の研究を専門として、1971年に「式目傅寫本の系譜に関する研究」により京都大学から文学博士の学位を授与される。
田中 周友(たなか かねとも、1900年9月4日 - 199… 田中 周友(たなか かねとも、1900年9月4日 - 1996年11月14日)は、日本の法学者。専門はローマ法。京都大学博士。 1900年9月4日、京都市に生まれる。実家は700年続く下鴨神社の社家で、自宅は糺の森の一角・京都市左京区下鴨森本町24番地(旧・愛宕郡下鴨村24番地)にあった。夏目漱石は、当時この家を借りていた親友・狩野亨吉(京都帝国大学文科大学初代学長)を訪ね、1907年3月28日から15日間滞在し、短編「京に着ける夜」(『大阪朝日新聞』1907年4月9日~4月11日)を執筆し、『虞美人草』の構想を練った。 1924年3月、京都帝国大学法学部独逸法律学科を卒業。1926年1月から1929年3月にかけて、ローマ法研究のためドイツ、フランス、イタリアへ文部省在外研究員として出張。
臼井 二尚(うすい じしょう、1900年〈明治33年〉8月2… 臼井 二尚(うすい じしょう、1900年〈明治33年〉8月27日 - 1991年〈平成3年〉3月8日)は、日本の社会学者。京都大学名誉教授。 長野県南安曇郡三田村田尻(現:安曇野市堀金三田)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校文科乙類を経て、1926年京都帝国大学文学部社会学科を卒業した。 1929年、京都帝国大学専任講師に着任。ドイツ、米国、フランスに研究留学した後、1932年に助教授昇進。1944年に教授昇進。1945年、学位論文『社会と民族』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。1949年より京都大学文学部教授。1963年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。
清水 亘(しみず わたる、1900年8月20日 - 1986… 清水 亘(しみず わたる、1900年8月20日 - 1986年9月20日)は、水産学者。愛媛県出身。 1927年京都帝国大学農学部卒。1947年より京都大学農学部教授。1963年の京大退官以降は日本大学農獣医学部教授となった。 魚肉ハムや魚肉ソーセージの考案者である。1960年には魚肉冷凍すり身を考案するなど水産加工品の発展に大きく寄与し、初代かまぼこ博士として知られた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6… 青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6日 - 1982年〈昭和57年〉4月21日)は、日本の内務・警察官僚、公選初代愛媛県知事(1期)。 長野県更級郡牧郷村(現:長野市)に青木善蔵の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、石川県警部となる。 以後、麻布警察署長、六本木警察署長、深川警察署長、西平野警察署長、関東局警務課長、同特別高等警察課長、同警察官教習所長、満州国治安部特務科長、福井県書記官・警察部長、内務事務官、厚生省監理課長、情報局第一部第二課長、首相秘書官、内務省監査官、千葉県書記官・警察部長などを経て、福島県内政部長に就任。
大岩 誠(おおいわ まこと、1900年(明治33年)7月8日… 大岩 誠(おおいわ まこと、1900年(明治33年)7月8日 - 1957年(昭和32年)1月11日)は、日本の政治学者。専門は政治思想史。 東京出身。1926年京都帝国大学法学部卒、同助教授となるが、1933年滝川事件で滝川教授の休職処分に抗議し辞職。立命館大学教授兼図書館長となり、満鉄調査局を経て、戦時期には東南アジア、南アジアの独立運動を研究。 戦後1948年公職追放。日本電報通信社広告室(現:電通)、カトリック通信社などに勤め、1951年南山大学教授。 18世紀フランス啓蒙思想、イタリア・ルネサンスの思想原典(多賀善彦名義を含め)の翻訳を行った。 1957年1月11日、心臓衰弱のため死去、享年56歳。
松浦 栄(まつうら さかえ、1900年7月1日 - 1990… 松浦 栄(まつうら さかえ、1900年7月1日 - 1990年5月3日)は、日本の法学者、警察官僚、衆議院議員(当選1回)。専門は行政法。地方自治法や警察法を研究対象としている。 福井県福井市で生まれ、まもなく北海道追分町(のち安平町)に移住。1922年(大正11年)に北海道帝国大学農学部卒業。1924年、京都帝国大学法学部英法科卒業。 北海道庁警部兼通訳、北海道警察練習所所長、北海道庁外事課長・警視課長、沖縄県警察部長、長崎県警察部長、宮城県学務部長、茨城県内務部長、茨城新聞社理事などを歴任。 1947年には、第23回衆議院議員総選挙で日本自由党公認で、北海道4区から出馬し初当選するが、1949年の第24回衆議院議員総選挙では落選。
若林 義孝(わかばやし よしたか、1900年(明治33年)5… 若林 義孝(わかばやし よしたか、1900年(明治33年)5月30日 - 1981年(昭和56年)5月17日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員(2期)。福井県敦賀市長、大阪府箕面市長。 三重県上野市にて生まれる。1927年(昭和2年)京都帝国大学法学部を卒業し、同大学生監事務嘱託を経て、国民同志会に入る。同会では理事に進み、長らく国民の政治教育に傾倒した。のち、学士会倶楽部大阪支部書記長を経て、1938年(昭和13年)12月12日に前福井県敦賀市長の森本一雄が逝去すると、同職の後任となった。 ついで、日本人造皮革工業連合会長、黒住教顧問などを歴任。1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙岡山全県区に自由党から出馬して当選し、第24回総選挙でも当選して計2期在任した。
佐々 憲三(ささ けんぞう / さっさ けんぞう、1900年… 佐々 憲三(ささ けんぞう / さっさ けんぞう、1900年5月4日 - 1981年11月18日)は、日本の土木・地球物理学者。理学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授、大阪工業大学第4代学長。日本の地すべり・防災工学研究の第一人者の一人。勲二等旭日重光章受章。 日本地すべり学会創設者・初代会長。文部省測地学審議会委員、日本学術会議会員、地震学会委員長(現・日本地震学会会長)、京都市防災会議地震対策委員会委員長、財団法人防災研究協会理事長などを歴任した。京都大学関連では京都大学防災研究所元所長、京都大学阿武山地震観測所元所長、元桜島火山観測所施設長などを歴任している。 専門は、地球物理学・土木地質学・地学/地すべり学、地震学・火山学・防災工学。
中原与茂九郎(なかはら よもくろう、正字は中原與茂九郎、19… 中原与茂九郎(なかはら よもくろう、正字は中原與茂九郎、1900年〈明治33年〉4月16日 - 1988年〈昭和63年〉3月27日)は、日本の西洋史学者、アッシリア学者、京都大学名誉教授。日本における古代メソポタミア研究の先駆けの一人で、特にシュメール行政・経済文書の研究で優れた業績を残した。 出身は岡山県倉敷市浅口郡西阿知町(現・倉敷市西阿知地区)。1919年(大正8年)に岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、1922年(大正11年)に第六高等学校、1925年(大正14年)3月に京都帝国大学文学部(西洋史学専攻)を卒業した。同大文学部助手ののち、翌1926年(大正15年)3月、新設の広島高等学校教授に任命された。
西広 忠雄(にしひろ ただお、1900年(明治33年)3月2… 西広 忠雄(にしひろ ただお、1900年(明治33年)3月28日 - 1958年(昭和33年)9月23日)は、日本の内務・警察官僚。官選宮崎県知事。旧姓・中村。 広島県出身。中村百太郎の二男として生まれ、西広興一郎の養子となる。第三高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し山形県属となる。 以後、山形県事務官、兵庫県事務官、内務事務官、岐阜県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、内務省書記官・計画局防空課長、同防空局企画課長、警視庁部長・警務部長、東京府内政部長などを歴任。 1943年7月1日、宮崎県知事に就任。
冨倉 徳次郎(とみくら とくじろう、1900年3月8日 - … 冨倉 徳次郎(とみくら とくじろう、1900年3月8日 - 1986年5月26日)は、日本の国文学者、博士。駒澤大学名誉教授。専門は中世文学。 東京生まれ。第二高等学校理科から東京帝国大学理学部を経て、1926年(大正15年)3月に京都帝国大学文学部国文科を卒業。京都女子専門学校教授を命ぜられるが、軍隊に服する。 京大時代は講師として立命館中学に赴任。生徒の一人に中原中也がいた。あるとき、中也が答案の代わりに詩を書いて提出したことがきっかけで彼との交友が始まった。友人富永太郎を中也に引き合わせたことでも知られる。 1952年、駒澤大学に着任し教授。のち国文学科主任、大学院国文専攻主任をつとめる。
楢原 良一郎(ならはら りょういちろう、1900年3月1日 … 楢原 良一郎(ならはら りょういちろう、1900年3月1日 - 1976年5月22日)は、日本の経営者。東京都出身。 1923年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1943年に古河鉱業に転じ、1949年に取締役に就任し、1953年に常務、1958年に専務、1961年に副社長を経て、同年11月には社長に就任。1971年2月に会長に就任。 1963年に日本鉱業協会会長に就任し、藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1976年5月22日肝硬変のために死去。76歳没。
西谷 啓治(にしたに けいじ、1900年〈明治33年〉2月2… 西谷 啓治(にしたに けいじ、1900年〈明治33年〉2月27日 - 1990年〈平成2年〉11月24日)は、日本の哲学者。専門は宗教哲学。京都学派に属する。京都大学名誉教授。文化功労者。 1900年、石川県鳳珠郡能登町生まれた。宇出津小学校に入学するが、1年生の時に一家で東京へ移住。1912年に早稲田中学に進学。成績優秀であり、卒業時には大隈重信総長から優等賞を授与された。しかし、中学卒業時に肺結核へ罹患していることが分かり、大きな衝撃を受けた。第一高等学校への進学をあきらめて北海道函館で療養生活を送ったが、1年後に回復し、第一高等学校へ進学。 大学進学にあたっては、若年のうちに同郷(現かほく市)の出身である西田幾多郎の著書『思索と体験』に出会っていたこともあり、京都帝国大学文学部哲学科に入学。
上野 益三(うえの ますぞう、1900年(明治33年)2月2… 上野 益三(うえの ますぞう、1900年(明治33年)2月26日 - 1989年6月17日)は、日本の生物学者(昆虫学者)、陸水学者。京都大学名誉教授。水生昆虫の分類および生態学的研究のほか、日本の生物学史(博物学史)の研究でも知られる。動物分類学会名誉会員。長男は昆虫学者の上野俊一。 大阪府大阪市生まれ。小学校5年生の時に豊中村(現:豊中市)に引越し、旧制大阪府立北野中学校、旧制大阪薬学専門学校を卒業。1923年に京都帝国大学理学部動物学科に進学、川村多実二に師事。鰓脚類の研究を行い1926年に卒業、動物学教室の助手に就任した。また在学中にはトワダカワゲラを発見し、のちに新種として記載した。 1929年には京都帝国大学の大津臨湖実験所に講師として就任。
中井 正一(なかい まさかず、1900年(明治33年)2月1… 中井 正一(なかい まさかず、1900年(明治33年)2月14日 - 1952年(昭和27年)5月18日)は、日本の美学者・評論家・社会運動家。国立国会図書館副館長をつとめた。相愛女子専門学校(現:相愛女子短期大学・相愛大学)講師。 1900年2月14日 大阪市の緒方病院で帝王切開にて誕生。日本最初期の帝王切開で、執刀医の緒方正清は緒方洪庵の孫娘の婿。正清から一字もらって正一と命名された。本籍は広島県賀茂郡竹原町(現:竹原市)で、尾道市に育った。 広島高師附属中学に入学し、1918年に卒業。第三高等学校文科甲類に進み、1922年に卒業した。 1922年、京都帝国大学文学部哲学科に入学。大学では、深田康算、九鬼周造らに師事した。
黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年… 黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年12月2日)は、日本の法学者。京都大学教授、東京都立大学 教授、神奈川大学教授および学長代行を務めた。 京都府京都市出身。第三高等学校から1923年3月に京都帝国大学法学部を卒業、同年4月より大学院に進む。京都帝大では憲法学・国法学の正系とされる森口繁治に師事[要出典]。 1925年(大正14年)京都帝大法学部助教授に就任した。ドイツ法を専攻し、純粋法学のハンス・ケルゼンと彼が所属したウィーン学派の研究を手がけた。1927年から1930年まで、文部省在外研究員として渡欧し、このときにはケルゼン本人に受講、個人的な親交を結んでいる。しかし、帰国後にケルゼンの影響からは次第に遠ざかったとされる。
高坂 正顕(こうさか まさあき、1900年(明治33年)1月… 高坂 正顕(こうさか まさあき、1900年(明治33年)1月23日 - 1969年(昭和44年)12月9日)は、日本の哲学者(カント哲学)。京都学派の一人。西谷啓治、高山岩男、鈴木成高と共に「京都学派四天王」と呼ばれている。 1900年、愛知県名古屋市で生まれた。第四高等学校を卒業し、京都帝国大学哲学科に進んだ。大学では、慕っていた西田幾多郎に師事し、カント哲学の研究の道に進んだ。同期には、三土興三などがいた。1923年に京都帝国大学を卒業。 卒業後は京都医科大学予科の教授に就任。兼任で三高、同志社大学、母校の京都帝国大学法学部ならびに文学部でも教鞭をとった。東京文理科大学助教授、東京商科大学、武蔵高等学校でも講師を務めた。