加藤 正人(かとう まさと、1886年〈明治19年〉8月24… 加藤 正人(かとう まさと、1886年〈明治19年〉8月24日 - 1963年〈昭和38年〉8月24日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(2期)。大和紡績社長、旧日経連(現経団連)代表常任理事。 紡績界の代表的人物で政財界にもパイプがあり、自社内では「加藤天皇」と呼ばれるほどであった。 群馬県館林出身。1910年慶應義塾大学部理財科卒業、1913年鐘淵紡績入社、1924年退社。浪速紡績取締役を経て1925年錦華紡績取締役、1937年同社長、1941年錦華などが合併して誕生した大和紡績社長。1949年に日経連代表常任理事に就任。 1950年6月に行われた第2回参議院議員通常選挙に無所属で全国区から出馬、初当選し、緑風会に所属、1956年7月の第4回参議院議員通常選挙で再選した。
松田 三徳(まつだ みのり、1886年(明治19年)6月11… 松田 三徳(まつだ みのり、1886年(明治19年)6月11日 - 1962年(昭和37年)12月19日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・小島。 香川県三野郡、のちの三豊郡詫間村(詫間町を経て現三豊市詫間町)で小島家に生まれ、1897年(明治30年)松田寛吾の養子となり家督を相続した。1909年(明治42年)慶應義塾大学部法律科を卒業した。一年志願兵として入隊し陸軍三等主計に任官し除隊した。 台湾総督府秘書官、同官房秘書課長を務めた。帰郷して農業、塩業を営む。讃岐産業取締役、讃岐米肥社長、日本マグネシユーム取締役などを務めた。 政界では香川県会議員、所得税調査委員、相続税調査委員、官有財産調査会委員、小作制度調査会委員などを務めた。
吉村 萬治郎(よしむら まんじろう、1886年(明治19年)… 吉村 萬治郎(よしむら まんじろう、1886年(明治19年)3月22日 - 1969年(昭和44年)5月23日)は、古河合名会社(古河財閥)副総帥、古河鉱業(現在の古河機械金属)社長、富士通信機製造(現在の富士通)創業者・初代社長。古河財閥創始者・古河市兵衛の大甥(兄弟姉妹の孫のこと)。 京都府生まれ。古河市兵衛の大甥であり、市兵衛の実兄(木村万治郎)の孫に当たる。父親は木村長兵衞。古河家親族の中川末吉らと共に財閥解体まで古河財閥の要職を歴任した。古河財閥総帥の古河虎之助は義兄(妻の兄)。
久留島 通彦(くるしま みちひこ、1886年〈明治19年〉2… 久留島 通彦(くるしま みちひこ、1886年〈明治19年〉2月20日 - 1977年〈昭和52年〉10月2日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家である。戦前は主として電気事業に関わり矢作水力の支配人から副社長まで昇任。戦後は同社から派生した化学メーカー東亞合成化学工業(現・東亞合成)の会長を務めた。大分県出身。 久留島通彦は、1886年(明治19年)2月20日、大分県士族久留島通與の四男として生まれた。生家の久留島家は江戸時代に森藩家老を務めた家。また母の修は森藩8代藩主久留島通嘉の娘である。兄に東邦電力常務や揖斐川電気(現・イビデン)社長を務めた久留島政治がいる。 慶應義塾普通部を経て1910年(明治43年)3月に慶應義塾大学部理財科を卒業。
大和田 健三郎(おおわだ けんざぶろう、1884年(明治17… 大和田 健三郎(おおわだ けんざぶろう、1884年(明治17年)12月 - 1943年(昭和18年)8月4日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 茨城県新治郡石岡(現・石岡市)出身。渡邊盛作の三男として生まれ、大和田三郎左衛門の養子となる。慶應義塾大学部理財科で学んだ。 1917年(大正6年)より石岡町会議員のほか、新筑酒造、新筑醤油醸造各組合長、鹿島参宮鉄道、北総電気、茨城電気の各取締役などを歴任する。 のち茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、1932年(昭和7年)9月29日から1939年(昭和14年)9月28日まで1期在任し、同成会に所属した。
原 泰一(はら たいいち、1884年(明治17年)11月 -… 原 泰一(はら たいいち、1884年(明治17年)11月 - 1977年(昭和52年)7月23日)は、貴族院勅選議員、日本赤十字社副社長。救護法の大家であり、方面委員(現在の民生委員制度)を考案した。旧姓・大藪。 江戸南町奉行所与力・原胤昭の養子。岐阜県安八郡大藪の庄屋青木松三郎の長男として生まれる。1908年(明治41年)に慶應義塾大学理財科を卒業後、三井銀行に入社。1921年(大正10年)に米国留学。 1923年(大正12年)に欧米を視察し、1924年(大正13年)以降司法省事務嘱託、少年保護司、内務省社会局事務嘱託、保険調査会委員、中央社会事業委員会委員、軍事保護院専門委員等のほか、中央社会事業委員会理事、東京盲人会副会長、国際社会事業会議日本委員会常任理事等となり、社会保険制度調査会委員、日本赤十字社副社長となる。
秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 -… 秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 - 1970年10月23日)は、日本の経営者。栃木県栃木市出身。 1905年に慶應義塾大学法学部政治科を卒業し、1910年に大日本製糖に入社。常務、専務、副社長を経て、1949年6月には日本専売公社総裁に就任し、1953年5月までに務めた。慶應義塾大学理事も務めた。 1964年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1970年10月23日心不全のために死去。86歳没。
岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月2… 岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月20日 - 1963年(昭和38年)5月1日)は、大正、昭和期の実業家、企業経営者。岡崎財閥の創業者で、神戸財界の雄と呼ばれた岡崎藤吉の婿養子。佐賀県出身。慶應義塾大学部理財科卒業。 岡崎財閥の創業者岡崎藤吉には男子がいなかったため、岡崎藤吉の兄である石丸忠英の息子・石丸忠雄を婿養子に迎えた。これが後の岡崎忠雄である。忠雄は大学卒業後、養父岡崎藤吉が設立した岡崎汽船で海運業に従事したが、一方で1913年(大正2年)7月、神戸財界の有力者によって内外ゴムが創業された際、出資者の一人として名を連ね、更には1917年(大正6年)5月、養父が神戸岡崎銀行を設立した際は、常務に就任するなど、若いうちから後継者として育てられた。
杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日… 杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日 - 1964年(昭和39年)12月14日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後における大阪・関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治。 八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。位階は正三位、勲等は勲一等。 山口県山口市に生まれた。父の相次郎は県庁勤めをしていた。
島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1… 島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1月5日 - 1937年(昭和12年)8月24日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院議員、男爵、従四位。 伯爵・島津忠亮の二男に生まれ、明治42年(1909年)12月20日、分家して祖父・佐土原藩主島津忠寛の勲功により男爵を叙爵する。その後、慶應義塾大学部理財科を修了。 1910年(明治43年)国光生命保険相互会社監査役となり、のち同社取締役社長を務めた。 1918年(大正7年)7月10日に貴族院男爵議員に選出され、1925年(大正14年)6月24日まで在任した。
宮原 清(みやはら きよし、1882年12月4日 - 196… 宮原 清(みやはら きよし、1882年12月4日 - 1963年10月16日)は、日本の実業家。日本社会人野球協会初代会長。
伊藤 保平(いとう やすへい、1882年〈明治15年〉8月2… 伊藤 保平(いとう やすへい、1882年〈明治15年〉8月26日 - 1965年〈昭和40年〉6月7日)は、明治末から昭和期の酒造家、実業家、政治家。西宮酒造(現・日本盛)社長、参議院議員。旧姓・大岡、幼名・佐吉郎。 兵庫県武庫郡西宮町浜之町(現・西宮市)で、酒樽製造業・大岡佐平治の二男として生まれる。1892年(明治25年)4月、西宮町三号地の酒造業・伊藤米蔵の養嗣子となり、同年、保平に改名した。1906年(明治39年)4月、慶應義塾大学部理財科を卒業した。 同年4月、共同火災保険(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身のひとつ)に入社。1912年(明治45年)5月に家督を相続し、6月に西宮酒造取締役に就任した。
塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、前名・賢二郎、188… 塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、前名・賢二郎、1882年〈明治15年〉8月5日 - 1963年〈昭和38年〉6月24日)は、日本の政治家、実業家、香川県多額納税者、地主。香川県三豊郡仁尾町長。仁尾塩田(現・仁尾興産)社長。 衆議院議員を務めた塩田忠左衛門の三男。 香川県三野郡仁尾村(現・三豊市)出身。塩田忠左衛門の三男。1903年4月、慶應義塾大学部理財科卒業。慶應では福沢諭吉に師事してその薫陶を受けた。貿易商森村組(現・日本陶器)に入社した。 1908年10月、森村組を退社して帰省。1925年、家督を相続し前名・賢二郎を改め襲名した。農業、金銭貸付業を営んだ。1927年1月、仁尾塩田株式会社の取締社長に就任した。
守田 保太郎(もりた やすたろう、1882年〈明治15年〉3… 守田 保太郎(もりた やすたろう、1882年〈明治15年〉3月27日 - 1959年〈昭和34年〉12月12日)は、日本の実業家。ラヂウム製薬社長。守田商店代表。族籍は東京府平民。 東京府・守田重次郎の長男。守田治兵衛の従兄。1918年、家督を相続した。大成中学卒業。慶應義塾大学に学んだ。武田長兵衛商店に勤務した。ラヂウム製薬会社に入り専務取締役を経て社長となる。 宗教は真宗、あるいは浄土宗。趣味は読書。住所は東京大森区新井宿、牛込市谷本村町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
村瀬 末一(むらせ すえいち、1882年(明治15年)1月2… 村瀬 末一(むらせ すえいち、1882年(明治15年)1月27日 - 1953年(昭和28年)3月24日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家。主として電気事業に関係し、当時の大手電力会社である大同電力の副社長などを務めた。岐阜県出身。 村瀬末一は1882年(明治15年)1月27日、村瀬与平の次男として生まれた。出身は岐阜県本巣郡網代村(現・岐阜市)。生家の村瀬家は江戸時代は士分であったが、明治に入り家禄を失い、末一が生まれた頃には所有の山林田畑を売り払って没落していた。 先に勤めに出た兄の支援で上京し慶應義塾普通部に入学。次いで大学部法律科へ進み、1907年(明治40年)、26歳のとき慶應義塾を卒業した。
石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月… 石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月2日 - 1964年〈昭和39年〉7月23日)は、日本の実業家、ジャーナリスト、政治家。ダイヤモンド社創業者であり、東宝劇場や理研電線の役員、東京市会議員、衆議院議員、日本雑誌協会会長、日本読書推進協会会長、東京新潟県人会会長などを歴任した。位階勲等は従四位勲三等。 新潟県西蒲原郡曽根村(現在の新潟市西蒲区)生まれ。出生直後に父と死別し、同県中蒲原郡白根町(後の白根市、現在の新潟市南区)にあった母方の実家にて幼年期~青少年期を過ごした。白根尋常高等小学校卒業後、白根郵便局、加茂郵便局勤務を経て 22歳の時上京。日本大学別科中退後、慶應義塾商業学校(慶大の夜間商業学校)を卒業した。
海江田 準一郎(かいえだ じゅんいちろう、1881年(明治1… 海江田 準一郎(かいえだ じゅんいちろう、1881年(明治14年)10月23日 - 1935年(昭和10年)12月22日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員(1期)、陸軍歩兵少尉。 海江田平治の長男として鹿児島県日置郡市来郷湊村(西市来村、市来町を経て現いちき串木野市)に生まれる。1906年(明治39年)に慶應義塾大学部法律科を卒業。同年、一年志願兵として陸軍に入隊し、陸軍歩兵少尉で除隊した。西市来村会議員を経て、日置郡米穀商同業組合長、海江田銀行頭取、明正社、鹿児島化学研究所、日本橋商事各取締役、東海化学工業監査役などを務めた。 1914年(大正3年)鹿児島県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月7日から、1918年(大正7年)9月28日まで1期在任。
津田 信吾(つだ しんご、1881年(明治14年)3月29日… 津田 信吾(つだ しんご、1881年(明治14年)3月29日 - 1948年(昭和23年)4月18日)は、大正・昭和期の実業家。鐘紡の第2代社長を務めた。鐘紡争議を収束させ社長となる。昭和初期のインド綿花不買運動で知られる。旧姓西山。 愛知県額田郡岡崎能見町(現・岡崎市)に岡崎藩士・西山芳六の四男として生まれる。7歳の時に福井県庁の土木課長を務めていた津田於菟の養子となる。福井県立福井小学師範学校から福井県尋常中学校に進む。2年浪人したのち慶應義塾大学予科に入学。同大学卒業後、鐘淵紡績に工員として入社。1911年(明治44年)、西大寺工場長に就任。ついで淀川工場長となる。1930年(昭和5年)に副社長となり、同年4月から6月にかけて八つの工場で発生した労働争議(いわゆる鐘紡争議)の解決にあたる。
浜田 精蔵(濱田 精藏、はまだ せいぞう、1880年(明治1… 浜田 精蔵(濱田 精藏、はまだ せいぞう、1880年(明治13年)12月9日 - 1926年(大正15年)9月8日)は、明治末から大正期のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員、福岡市会議長。清蔵の表記有り。 鹿児島県 姶良郡、のちの加治木村(加治木町を経て現姶良市)で、浜田清四郎の二男として生まれた。1905年(明治38年)慶應義塾大学政治科を卒業した。 時事新報記者となりロンドン特派員、経済部長などを務めた。千代田生命保険に転じ、福岡支部長などを務めた。その後、博多商業会議所副会頭、諏訪炭礦専務取締役、西部合同瓦斯会社(現西部ガスホールディングス)社長、日本水電取締役などを務めた。 政界では、福岡市会議員に選出され、同議長にも在任した。
青木 知四郎(あおき ちしろう、明治13年(1880年)9月… 青木 知四郎(あおき ちしろう、明治13年(1880年)9月7日 - 昭和50年(1975年)2月22日)は、衆議院議員(1期)、鉄道実業家。藍綬褒章受章者。 岐阜県羽島郡、後の上中島村(現羽島市)出身。明治41年(1908年)慶應義塾大学部法律科卒業。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で岐阜県四区から選出され、立憲民政党に所属。加藤六蔵(愛知)、東郷実(鹿児島)、三橋四郎次(静岡)ら9名と共に農民党議員として知られた。 岐阜県会議員、同参事会員、岐阜県農会議員、同農事協会副会長、羽島郡農会会長、同農事協会長。岐阜製氷、日本絹布会社、濃飛農工銀行各監査役。竹鼻銀行、竹鼻鉄道取締役を経て赤坂通運社長などを歴任した。
板倉 卓造(いたくら たくぞう、明治12年(1879年)12… 板倉 卓造(いたくら たくぞう、明治12年(1879年)12月9日 - 昭和38年(1963年)12月23日)は、日本の法学者、ジャーナリスト、新聞経営者、政治家。慶應義塾大学法学部教授。時事新報社長。貴族院勅選議員。広島県比婆郡庄原村(現庄原市)生まれ。息子は三井銀行(現・三井住友銀行)社長を務めた板倉譲治。 庄原英学校を経て1895年、慶應義塾普通部に入学。その後大学部理財科に進んだが政治科に転じ、卒業後の1903年、普通部の英語教師となる。1905年恩師の福沢諭吉が創立した「時事新報」に入り社説を担当。自由主義の論陣を張り、福沢亡きあとの「時事新報」の論壇を支えた。1907年米英仏に留学し、コロンビア大学でウィリアム・アーチボルド・ダニング(英語版)に、イギリスでラサ・オッペンハイムに師事した。
小寺 源吾(こでら げんご、1879年(明治12年)9月7日… 小寺 源吾(こでら げんご、1879年(明治12年)9月7日 - 1959年(昭和34年)6月15日)は、日本の実業家。大日本紡績(ニチボー・ユニチカの前身)元社長。旧姓は西松。養家・小寺家共々岐阜県出身。(『小寺源吾別荘 (「世界の有名な別荘地#日本#兵庫県」の節)』、「日本一の富豪村・住吉村の本邸」も参照) 岐阜県平民西松権兵衛の三男にして西松喬の実弟。兵庫県及岐阜県士族・小寺成蔵の婿養子となった。1903年4月、慶應義塾大学部理財科を卒業。 同年尼崎紡績に入社。1918年、大日本紡績取締役となる。 1936年、綿業会館(日本綿業倶楽部)で開催された臨時株主総会の決議により同社社長に就任した(58歳)。
高石 真五郎(たかいし しんごろう、1878年(明治11年)… 高石 真五郎(たかいし しんごろう、1878年(明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)2月25日)は、日本のジャーナリスト、実業家。国際オリンピック委員会(IOC)委員。毎日新聞社最高顧問。特殊法人日本自転車振興会第2代会長。 千葉県鶴舞町(現在の市原市)で高石四郎治の五男として生まれた。1901年(明治34年)に慶應義塾大学法学部を卒業すると共に、紹介により小松原英太郎の秘書となるが、7月に小松原が当時社長を務めていた大阪毎日新聞社に外国通信部員として入社する。 1902年(明治35年)に三井家から援助を受け、社籍を置いたままイギリスに留学するが、1904年(明治37年)の日露戦争開戦によりデイリー・エクスプレスの嘱託記者となり、翌年末には大阪毎日の特派員としてロシアのサンクトペテルブルクに赴いて半年以上現地に滞在し、その状況を日本に伝えた。
里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月… 里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月5日 - 1952年(昭和27年)8月3日)は、日本の実業家、社会教育家。大丸社長、大阪ユネスコ協会会長などを務めたほか、大阪夕陽丘学園高等学校および大阪夕陽丘学園短期大学の源流となる大丸洋裁研究所を創設した。 現在の千葉県山武市松尾町に生まれる。1882年、日本基督教会で受洗する。1903年、慶應義塾大学部理財科を卒業。同大学部助手に就き、直後、助手兼舎監となる。 1908年、三越に入社。1919年、業界視察のために欧米に出張する。1921年、三越を退社し、国際労働機関の会議に商業使用人顧問として出席する。 1923年、大丸の上席専務取締役として入社。
角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月… 角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月18日 - 没年不詳)は、大正から昭和戦前期にかけての日本の実業家である。主として電気事業に関与し、名古屋電灯やその後身東邦電力で常務を務めた。群馬県出身。 角田正喬は、1877年(明治10年)10月18日、角田徳太郎の長男として生まれた。出生地は群馬県利根郡沼須村(のちの利南村、現・沼田市)。上京して慶應義塾大学部に学び、1903年(明治36年)5月理財科を卒業した。卒業後はまず横浜の石川商会に入るが、翌1904年(明治37年)8月、大阪の商社日本綿花へと転じる。1905年(明治38年)8月からは同社上海支店勤務となった。 1910年(明治43年)に日本綿花を退職し帰国。
森竹 邦彦(もりたけ くにひこ、1877年9月9日 - 没年… 森竹 邦彦(もりたけ くにひこ、1877年9月9日 - 没年不詳)は、日本の実業家。森竹商店経営者、京新聯合会(現・銀座通連合会)初代会長。銀座繁栄の立役者で、銀座通連合会共通商品券の発行等を進めた。 1877年9月9日、機械金物商と熱海にて植林事業を営み公共の為尽くした森竹五郎の長男として生まれる。 慶應義塾、立教大学で学ぶ。その後、横浜にて機械商の見習いを務める。 1898年、英国マンチェスター工業学校(Manchester Technical School、現・マンチェスター大学)で学び、帰国後、家業に従事し、森竹商店の経営者を務める。 森竹商店は、小売りもしていたが、東京市営の水道敷設工事に使用する材料一般を請け負い、水道局へ納入していた。
朝吹 常吉(あさぶき つねきち、1877年(明治10年)5月… 朝吹 常吉(あさぶき つねきち、1877年(明治10年)5月28日 - 1955年(昭和30年)3月10日)は、日本の実業家。元三越社長。元帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。 長男朝吹英一は木琴(シロフォン)の研究家で日本木琴協会(現 日本マリンバ協会)創立者、三男朝吹三吉は元慶應義塾大学法学部教授(フランス文学)、長女朝吹登水子は翻訳家として知られる。フランス文学者で詩人の朝吹亮二は孫。小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した朝吹真理子は曾孫。2001年、ノーベル化学賞を受賞した野依良治とは親族関係である。 実業家朝吹英二の子として東京府(現・東京都)に生まれた。慶應義塾幼稚舎を経て1893年12月、慶應義塾正科を卒業。
高木 利平(たかぎ りへい、1876年(明治9年)10月19… 高木 利平(たかぎ りへい、1876年(明治9年)10月19日 - 1931年(昭和6年)9月7日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北葛飾郡彦成村長。 埼玉県葛飾郡上口村(のち北葛飾郡彦成村、現:三郷市上口)の農家に生まれる。1894年、慶應義塾大学を卒業して家業を継いだ。 彦成村会議員、埼玉県会議員、同参事会員、同副議長、彦成村長などを務めた。 1915年、北葛飾郡の非政友派を取り纏めて北葛飾倶楽部を組織。同年3月、第12回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲同志会所属で出馬して当選。第13回総選挙では 憲政会所属で出馬して当選したが、1917年10月24日に議員を辞職し、衆議院議員を二期務めた。
田中 徳次郎(たなか とくじろう、1876年(明治9年)5月… 田中 徳次郎(たなか とくじろう、1876年(明治9年)5月15日 - 1933年(昭和8年)5月15日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。主として電気事業に関与し、戦前期の大手電力会社東邦電力の専務などを務めた。愛知県出身。長男の田中精一は中部電力第4代社長。甥に洋画家の佐分眞がいる。 1876年(明治9年)5月15日、田中嘉七の次男として生まれる。生家は愛知県海西郡弥富町(現・弥富市)で酒造業を営んでいた。1895年(明治28年)慶應義塾理財科を卒業し、横浜の豪商若尾幾造の商店に入る。その後三井銀行に招かれて同社に転じ、1903年(明治36年)より大阪支店にて勤め、支店長代理を経て大阪支店次長まで昇進した。
松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、18… 松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、1875年(明治8年)12月1日 - 1971年(昭和46年)6月16日)は、「電力王」「電力の鬼」と言われた日本の財界人。政治家(帝国議会衆議院議員1期)。美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。氏名は「松永安左ヱ門」と表記されることもある。
奥村 信太郎(おくむら しんたろう、1875年9月22日 -… 奥村 信太郎(おくむら しんたろう、1875年9月22日 - 1951年3月4日)は、日本のジャーナリスト、元毎日新聞社社長。 東京府荏原郡品川村大字北品川宿(現東京都品川区北品川)で父奥平昌邁、母岡見りきの間に生まれ、奥平家の菩提寺である清光院住職奥村成岳の長男として入籍。慶應義塾幼稚舎を経て1896年12月慶應義塾大学文学部を卒業。在学中に森鷗外から美学を学んだ。1897年1月博文館編集局に入社。1899年に退社して真宗日報(後に広島日報)主筆として広島に赴任したが、翌1900年、道楽が原因で夜逃げし、東京に戻る。1901年4月、慶應義塾長鎌田栄吉の紹介で大阪毎日新聞社に入社、通信部員となる。
小山 完吾(こやま かんご、1875年〈明治8年〉5月18日… 小山 完吾(こやま かんご、1875年〈明治8年〉5月18日 - 1955年〈昭和30年〉7月23日)は、明治・大正時代に活動した日本のジャーナリスト、大正・昭和時代の実業家である。時事新報社の記者を経て実業界に入り、明治生命保険取締役や時事新報社社長を務めた。記者時代に衆議院議員(当選1回)、晩年に貴族院勅選議員も務めた。長野県出身。 1875年(明治8年)5月18日、長野県佐久郡小諸町(現・小諸市)に小山謙吾の五男として生まれる。実家の小山家は小諸の与良に居を構え酒造業を営む旧家であり、父・謙吾は長野県会議員も務めた人物である。兄に酒造業を継いだ謹之助、千代田生命保険に勤めた禎三がいる。上京して福澤諭吉が開いた慶應義塾に学び、1904年(明治37年)大学部法律科を卒業。
有馬 彦吉(ありま ひこきち、1874年3月18日 - 19… 有馬 彦吉(ありま ひこきち、1874年3月18日 - 1950年2月25日)は明治時代から昭和初期の実業家。貿易商社有馬洋行の創業者で代表取締役社長。 1874年(明治7年)3月、有馬新之助の二男として鹿児島市に生まれる。12歳で父を失い上京、伯父に引き取られる。 1893年(明治26年)に慶應義塾大学を中退後、近衛騎兵に志願して日清戦争に従軍。1895年(明治28年)に除隊。翌年日本銀行に入行して台湾出張所勤務となり、1898年(明治31年)の台湾銀行創立に伴い日銀から移籍した。1901年(明治34年)から台南支店勤務となり、1902年(明治35年)に有馬洋行を創業。 台湾での製糖業の勃興を予見して製糖機械の販売を始め、数年で100万円(当時)の利益を挙げた。
佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7… 佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7月6日 - 1954年(昭和29年)6月2日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。東洋拓殖総裁、貴族院勅選議員。 秋田県仙北郡花館村(大曲市花館を経て現大仙市)で、佐々木多右衛門の三男として生まれ、1885年(明治18年)6月、叔父・佐々木福蔵の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1899年(明治32年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 福澤諭吉の紹介で堺市の会社に就職。その後、1900年(明治33年)山口銀行に入行し、理事兼営業部長、常務取締役などを歴任。三和銀行の創設に尽力した。その他、山口合資会社理事長、日本生命保険会長、共同火災保険会長、トヨタ自動車工業監査役、財団法人東亜研究所評議員、南洋協会評議員などを務めた。
小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3… 小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3日 - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の実業家、政治家。阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。 鉄道を中心とした都市開発(不動産事業)、流通事業(百貨店・スーパーなど)、観光事業などを一体的に進め相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げ、後に全国の大手私鉄や民営化したJRがこの小林一三モデルを採用し、日本の鉄道会社の経営手法に大きな影響を与えた。これらの事業は後に阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝として阪急東宝グループを形成する。その過程で阪急沿線での六甲山麓の高級住宅地の開発、学校法人関西学院等の高等教育機関の誘致や温泉、遊園地、野球場など娯楽施設の整備を行い、日本最初の田園都市構想を実現した。
名取 和作(なとり わさく、1872年6月3日〈明治5年4月… 名取 和作(なとり わさく、1872年6月3日〈明治5年4月28日〉 - 1959年〈昭和34年〉6月4日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家である。電機メーカー富士電機製造(現・富士電機)の初代社長や時事新報社社長などを務め、貴族院廃止直前の短期間だが貴族院勅選議員にも在任した。子に写真家・編集者の名取洋之助がいる。 名取和作は、明治5年4月28日(新暦:1872年6月3日)、筑摩県諏訪郡上蔦木村(現在の長野県諏訪郡富士見町)に名取和三郎の長男として生まれた。名取家は「桔梗屋」の屋号で造り酒屋を営む旧家で、元は裕福な家であったものの、明治時代に入ってからは松方デフレの影響で没落していた。
出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年… 出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年6月20日)- 1960年(昭和35年)8月14日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(6期)、立憲政友会総務、羽生市初代市長等を歴任。 武蔵国埼玉郡下羽生村(のち埼玉県北埼玉郡須影村、現:羽生市)で、地主・出井熊吉の三男として生まれる。慶應義塾大学を2年で中退し、農業を営む。のち埼玉新聞社を経営。 北埼玉郡会議員、須影村会議員、須影村村長を経て、埼玉県会議員、同副議長、同議長などを務めた。1928年(昭和3年)2月20日の第16回衆議院議員総選挙に立憲政友会の推薦を受けて当選。以後、1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙まで連続6回の当選を果し政友会総務を歴任。
加藤 定吉(かとう さだきち、1871年2月1日(明治3年1… 加藤 定吉(かとう さだきち、1871年2月1日(明治3年12月12日) - 1934年(昭和9年)4月14日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 のちの静岡県城東郡土方村(小笠郡土方村、城東村、大東町を経て現掛川市)に生まれる。土方嶺小学校、韮山の伊豆学校を経て、1891年(明治24年)慶應義塾大学部を卒業する。ドイツ人の経営するイリス商会、横浜貿易商会、兜町金万商会と転じた。日清戦争後の1895年(明治28年)に台湾に渡り、さらに義和団の乱が勃発すると中国に渡り、天津や北京で請負雑貨商を営み巨万の富を築いた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選。
菊本 直次郎(きくもと なおじろう、1870年10月6日(明… 菊本 直次郎(きくもと なおじろう、1870年10月6日(明治3年9月12日) - 1957年(昭和32年)10月28日)は、日本の実業家。三井銀行取締役会長や寿重工業取締役会長、日本パルプ工業取締役を歴任。松尾芭蕉の研究家としての顔も持つ。 1870年(明治3年)、藤堂家旧臣菊本保有の次男として伊賀国阿拝郡上野萬町(現・三重県伊賀市)に生まれる。 1892年(明治25年)12月、慶應義塾大学部理財科(現在の経済学部)を第一期生として卒業。翌年、三井銀行に入行。 1918年(大正7年)1月、三井銀行常務取締役に就任。 1934年(昭和9年)、三井銀行取締役会長に就任。当時、三井銀行では社長制から会長制へ変わったため、菊本は初代会長となった。
神川 長久(かみかわ おさひさ、1870年7月14日(明治3… 神川 長久(かみかわ おさひさ、1870年7月14日(明治3年6月19日)- 1936年(昭和11年)11月11日)は、明治から昭和前期の日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 大隅国大隅郡大根占郷神川村鳥浜(鹿児島県南大隅郡神川村、大根占村、肝属郡大根占村、大根占町を経て現錦江町)出身。鹿児島造士館を経て、1891年(明治24年)に上京し、1893年(明治26年)慶應義塾卒。農業、木炭製造販売業を営み、1903年(明治36年)鹿児島県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務めた。 1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙(鹿児島県郡部、立憲政友会)で当選した。衆議院議員を1期務め、1920年(大正9年)の第14回総選挙には立候補しなかった。
足立 荘(あだち そう、明治3年4月8日(1870年5月8日… 足立 荘(あだち そう、明治3年4月8日(1870年5月8日) - 昭和22年(1947年)11月15日)は日本の実業家。日本徴兵保険社長(1936-1941)。教育者足立正の弟。 鳥取県上道村(現在の境港市上道町)に足立国五郎の次男として生まれる。父・国五郎は村の助役、収入役、村会議員等を歴任した人物。 旧制鳥取県尋常中学校(現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、明治25年(1892年)慶應義塾大学部文学科を卒業し時事新報社に入社。主として翻訳小説を同紙上に掲載する。後政治部に転じ、専ら外交、政治方面に活動し伊藤博文、陸奥宗光等の知遇を得た。日清戦争では大本営付き主任記者となり、後政治部長に栄進、明治34年(1901年)編集長となる。
堀江 覚治(覺治、ほりえ かくじ、1870年3月26日(明治… 堀江 覚治(覺治、ほりえ かくじ、1870年3月26日(明治3年2月25日)- 1930年(昭和5年)4月23日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・志賀。 陸奥国磐前郡、のちの福島県磐前郡鹿島村(石城郡鹿島村、小名浜町、磐城市を経て現いわき市鹿島町)の志賀家に生まれる。1895年(明治28年)8月、伊達郡梁川村(梁川町を経て現伊達市梁川町)の堀江里の養子となり、1898年(明治31年)10月、家督を相続した。1890年(明治23年)慶應義塾大学部文科を卒業。 郷里の石川義塾(現学校法人石川高等学校・石川義塾中学校)講師に就任。岐阜日日新聞(現岐阜新聞)から招聘され主筆となる。
鹿島 房次郎(かじま ふさじろう、旧姓・田部、1868年11… 鹿島 房次郎(かじま ふさじろう、旧姓・田部、1868年11月5日(明治元年9月21日) - 1932年(昭和7年)7月29日)は、日本の実業家、政治家。神戸市会議員を経て第4代神戸市長(在任:1910年2月28日 - 1920年)。 自治体官僚主導による都市経営手法の源流を創った人物の一人とされ、その人格および手腕は、歴代神戸市長中の白眉と称される。族籍は兵庫県平民。 広島県比婆郡庄原村(現・庄原市)出身。裕福な農家、田部香蔵の弟。鹿島家に入り慶應義塾幼稚舎を経て、慶應義塾大学部理財科を卒業し、次いで東京高等商業学校(後の一橋大学)を矢野二郎排斥事件により中退、さらにアメリカ合衆国のミシガン大学に4年間留学した。
磯野 敬(いその けい、1868年7月6日(明治元年5月17… 磯野 敬(いその けい、1868年7月6日(明治元年5月17日)- 1925年(大正14年)10月25日)は、明治後期から大正期の林業家、実業家、政治家。衆議院議員。 上総国夷隅郡、のちの千葉県夷隅郡市野郷村(現:勝浦市市野郷)で、富豪・磯野市郎兵衛の長男として生まれる。1892年(明治25年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。1904年(明治37年)12月、家督を相続し、造林業を営む。 地方森林会議員、日新護謨取締役なども務める。 1912年(大正元年)、東京府東京市小石川区大塚窪町(現:東京都文京区小石川五丁目)に近代和風建築の粋を集めた自邸が竣工。同邸は2005年(平成17年)12月27日、「旧磯野家住宅」として国の重要文化財に指定される。
池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日〈1867年… 池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日〈1867年8月15日〉 - 昭和25年〈1950年〉10月9日)は、日本の実業家・政治家。 三井合名会社筆頭常務理事(事実上の三井財閥総帥)、第14代日本銀行総裁、大蔵大臣兼商工大臣、内閣参議(第一次近衛内閣・平沼内閣・第2次近衛内閣)、枢密顧問官(東條内閣)、を歴任。1930年代後半には親英米の穏健派として度々首相候補に擬せられたが、軍部の反対などもあって実現しなかった。 『成彬』は音読みで「せいひん」とも、晩年の質素な生活から「清貧」とも呼ばれた。 出羽国(現在の山形県米沢市)に米沢藩士・池田成章の長男として生まれる。江戸留守居役であった父の影響により、米沢藩の米沢中学(現・米沢興譲館高校)で漢学を学んだ後、1880年頃、すぐに東京に出て有馬学校を振り出しに、小永井小舟の濂西塾に入り儒学と漢学を学ぶ。
久保 市三郎(くぼ いちさぶろう、1867年8月9日(慶応3… 久保 市三郎(くぼ いちさぶろう、1867年8月9日(慶応3年7月10日) - 1956年(昭和31年)3月1日)は、明治時代から昭和時代の実業家・政治家。旧姓、小沢。 武蔵国三田ヶ谷村(現・埼玉県羽生市)生まれ。上京後明治義塾(三菱商業学校)、慶應義塾大学部理財科で学ぶ(1893年卒)。 耕余義塾で教員になり、日本銀行を経て森林山野の開発に尽力する。福沢諭吉のすすめで栃木県真岡町の久保家の養子となり、1900年4月2日に久下田銀行(後に足利銀行へ合併)、1912年に真岡銀行(後に常陽銀行へ合併)などを創立する。 1907年(明治40年)10月4日に貴族院多額納税者議員に任命される。その後、栃木県芳賀郡中村の村長、栃木県教育会長、栃木県農工銀行頭取、下野新聞会長を務めた。
武藤 山治(むとう さんじ、1867年4月5日(慶応3年3月… 武藤 山治(むとう さんじ、1867年4月5日(慶応3年3月1日) - 1934年(昭和9年)3月10日)は、明治・大正・昭和前期の経営者、労務管理思想家、言論人、衆議院議員(3期)。 『博聞雑誌』を創刊した後、三井財閥に招聘されて経営に携わり、「紡績王」と呼ばれた。「経営家族主義」と「温情主義」を提唱・実践して日本的経営論を考案した。 晩年は実業同志会(後に国民同志会)を結成して政界に進出し、衆議院議員を3期務めた。また、『時事新報』の編集者として、渋沢栄一の系譜に繋がる政商や、徳富蘇峰などの御用新聞記者を攻撃。「政・財・官」の癒着を次々と暴き、連載『番町会を暴く』で帝人事件を告発した。このために権力者から付け狙われ、1934年(昭和9年)3月に銃撃されて死去した。
守谷 吾平(もりや ごへい、1866年12月12日〈慶応2年… 守谷 吾平(もりや ごへい、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月8日)は、明治から昭和初期にかけての日本の実業家。 専門商社・守谷商会の創業者。 備中国浅口郡本庄村(現在の岡山県浅口市)に、守谷金八の長男として生まれた。 幼少期から林李渓に学んだ。1885年に岡山県師範学校中等科を卒業し、県下の小学校(1886年からは尋常小学校)に勤務した。 その後上京して慶応義塾本科で学ぶ。慶應義塾への入学は、『慶応義塾入社帳 第4巻 入社帳24号-29号』(慶應義塾、1986年)によると1891年10月だった(同書p.174)。1892年に慶應義塾を卒業する。卒業後は三井組に入り、地所部から、芝浦製作所の工場事務、三井銀行の本店や支店に勤務した。
吉田 栄右(よしだ まさすけ、1865年8月21日(慶応元年… 吉田 栄右(よしだ まさすけ、1865年8月21日(慶応元年7月1日) - 1944年(昭和19年)4月17日)は、日本の実業家、教育者。常盤生命保険株式会社(現・朝日生命保険)元支配人、元専務取締役、紐育(ニューヨーク)生命保険会社元日本支店長。実業界に入る前には、学習院大学、東洋協会専門学校(現・拓殖大学)、水産講習所(現・東京海洋大学)等で教鞭を執った。聖公会の信徒。 1865年8月21日(慶応元年7月1日)、石州浜田藩士の吉田保(1834年(天保5年4月16日)〜1907年(明治40年)9月8日)と母志ゆん(同藩士三浦兼義二女、1847年(弘化4年9月)〜1929年(昭和4年)10月27日)の長男として生まれる。
西松 喬(にしまつ たかし、1865年(慶応元年) - ?年… 西松 喬(にしまつ たかし、1865年(慶応元年) - ?年)は、明治・大正・昭和前期の経営者、実業家。綿花を扱う西松商店の創業者。美濃国安八郡大藪町出身。実業家西松龍一の父親。 18歳のときに京都に出て、慶応義塾・別科に入り、1887年、卒業する。その後洗濯業を開業するも失敗する。その後、苦しんでいるときに中上川彦次郎に出会い、中上川の紹介で第三十三銀行就職、山陽鉄道会計課に就職。1889年、24歳のとき、中上川が山陽鉄道を去るに当たり、同行し、武藤山治、和田豊治とともに三井銀行に入る。 慶応義塾草創期の功労者である。 『三井銀行案内』1895年。