楠本 憲吉(くすもと けんきち、1921年12月19日 - … 楠本 憲吉(くすもと けんきち、1921年12月19日 - 1988年12月17日)は、俳人、随筆家。大阪府生まれ。実家は料亭・なだ万。灘中学校 (旧制)の同級に遠藤周作がいる。慶應義塾大学法学部卒、さらに学士入学で仏文科卒。在学中、1945年より句作を始め「慶大俳句」を組織し、日野草城に師事。のち草城の「青玄」無鑑査同人となる。俳誌「野の会」を主宰、俳句作家連盟会長、現代俳句協会顧問、東横学園女子短期大学客員教授を歴任。一般向けの随筆も多く、女性論、家族論、手紙、食事、酒など話題が豊富で洒脱な語り口ゆえ、テレビにもしばしば出演した。
島原 落穂(しまはら おちほ、女性、1921年12月9日 -… 島原 落穂(しまはら おちほ、女性、1921年12月9日 - 2013年3月31日)は、日本のロシア語翻訳家、ノンフィクション作家、歌人。 東京府北豊島郡巣鴨町大字巣鴨出身。父は慶應予科教授の島原逸三。1939年普連土女学校卒。1941年玉成保母養成所卒、森村幼稚園に勤務。1944年慶應義塾大学工業図書館勤務。1945年から1946年に母と父が死去。1961年慶應義塾大学附属外国語学校ロシア語科卒。1965年同校講師、1966年日ソ学院講師、東京ロシア語学院講師。 1946年から同人誌「創作」(若山牧水創刊)会員。 島原の遺稿をまとめた芹生一(本名・島原健三〈1928年 - 〉、成蹊大学名誉教授、工業化学)は弟。
白石 孝(しらいし たかし、1921年11月21日 - 20… 白石 孝(しらいし たかし、1921年11月21日 - 2013年10月17日)は、日本の経済学者。慶應義塾大学名誉教授および杏林大学名誉教授。専門は国際経済学、国際貿易論。 1921年に東京市日本橋に生まれる。1934年に明治学院中等部に入学し、翌年に慶應義塾普通部に編入する。1941年に慶應義塾大学経済学部に進学し、岩田仭のゼミで指導を受ける。1943年に同大学を卒業し、同年に南貿汽船株式会社に入社、その後兵役に服す。1945年に慶應義塾大学旧制大学院に入学し、1947年に慶應義塾大学経済学部副手、1949年に同経済学部助教授、1958年に同商学部教授となる。1960年に経済学博士の学位を取得、1964年に慶應義塾志木高等学校校長を兼任する。
久野 洋(くの ひろし、1921年(大正10年)11月18日… 久野 洋(くの ひろし、1921年(大正10年)11月18日 - 1988年(昭和63年)5月27日)は日本の化学者。慶應義塾大学工学部(現理工学部)教授。慶應義塾長。慶應義塾長に工学部出身者が就任するのは久野が初めてであった。日本私立大学連盟会長。 父は生理学者で名古屋大学名誉教授の久野寧。妻の祖父は司法官僚の松室致。 1944年9月慶應義塾大学工学部卒業。同年10月から1945年9月まで文部省大学院特別研究生となる。1946年10月工学部助教授、専攻は応用化学。 1960年3月、慶應義塾大学工学博士。論文の題は「粉体の物理化学的性質とその応用の研究」。 同年8月アメリカのミシガン大学に招聘留学し、1961年10月帰国、1962年4月1日大学教授となる。
坂倉 芳明(さかくら よしあき、1921年(大正10年)10… 坂倉 芳明(さかくら よしあき、1921年(大正10年)10月29日 - 2014年(平成26年)5月13日)は、日本の実業家。西武百貨店、三越各社長、日本百貨店協会会長を歴任した。 東京都出身。麻布中学校、慶應義塾普通部、慶應義塾大学経済学部予科を経て、1943年、慶應義塾大学経済学部を卒業。当時の岩瀬英一郎三越社長と父が旧知の仲であったため、父から強く三越入りを勧められ入社を決めた。入社後は堪能な英会話を活かし、GHQとの交渉にあたる岩瀬社長直属の通訳として活躍した。百貨店の心臓部とされる業務畑を一貫して歩み、一度も売り場に立ったことはなかった。常務時代には松田伊三雄社長の後継として岡田茂と並び称されるが、後継社長に岡田が就任すると真っ先に粛清の槍玉に挙がってしまう。
大島 信雄(おおしま のぶお、1921年10月2日 - 20… 大島 信雄(おおしま のぶお、1921年10月2日 - 2005年1月8日)は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
隈丸 次郎(くままる じろう、1921年9月26日 - 20… 隈丸 次郎(くままる じろう、1921年9月26日 - 2007年6月8日)は、福岡県久留米市出身の男子テニス選手。慶應義塾大学経済学部卒業。第二次世界大戦終戦直後の時代に、日本男子テニス界をリードした名選手のひとりである。彼は1949年から1952年まで全日本テニス選手権男子シングルス4連覇を達成し、1951年と1952年に男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本代表選手を務めた。現役選手時代の体格は、身長174cm・体重57kgほどであった。 隈丸がテニスを始めたきっかけは、佐藤次郎が1934年4月5日にマラッカ海峡で投身自殺した新聞記事の号外だったという。しかし、彼の近くには専門のテニスコーチがいなかったため、技術解説専門書の日本語訳を読みながら独学でテニスを勉強した。
神林 虎二(かんばやし とらじ、1921年9月14日 - 没… 神林 虎二(かんばやし とらじ、1921年9月14日 - 没年不明)は、日本の経営者、銀行家。近畿銀行社長、会長を務めた。茨城県出身。 1950年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1951年に近畿相互銀行に入社。1968年5月に取締役に就任し、1975年5月に常務を経て、1979年6月には社長に就任した。1983年6月に会長を経て、1987年6月には相談役に就任。 1985年11月に藍綬褒章を受章。
芳賀 日出男(はが ひでお、1921年9月10日 - 202… 芳賀 日出男(はが ひでお、1921年9月10日 - 2022年11月12日)は、日本の写真家、民俗研究家。日本・世界の祭り・民族・民俗芸能の写真取材をおこなった。子息は写真家の芳賀日向。 関東州大連(現・中華人民共和国遼寧省内)に生まれる。慶應義塾大学文学部を卒業した[要出典]。大学では折口信夫に教えを受け、それに触発されて卒業後に民俗を撮影する写真家となる。 1973年に全日本郷土芸能協会を設立した(のちに理事長を務める)。1985年に株式会社芳賀ライブラリーを設立して取締役会長となる[要出典]。 複数の賞や顕彰を受けている(詳細後述)。 100歳を超えた2021年にも活動していた。 2022年11月12日、老衰のため死去。
荒川 法勝(あらかわ のりかつ / ほうしょう、1921年9… 荒川 法勝(あらかわ のりかつ / ほうしょう、1921年9月7日 - 1998年5月6日)は、日本の作家、詩人、文芸評論家。 岩手県下閉伊郡崎山村(現・宮古市)出身。慶応義塾大学文学部哲学科卒。 1951年、千葉県で地方公務員の公立高校教諭となり、千葉県立佐原第一高等学校教諭、1959年千葉県立成東高等学校教諭。 1965年第3次千葉県詩人クラブ初代会長に就任。1977年日本現代詩人会常任理事。1989年多摩美術大学教授。
大久保 房男(おおくぼ ふさお、1921年9月1日 - 20… 大久保 房男(おおくぼ ふさお、1921年9月1日 - 2014年7月25日)は、日本の編集者、作家。 三重県北牟婁郡紀伊長島町(現紀北町)生まれ。旧制津中学校を経て、慶應義塾大学国文科で折口信夫に師事する。学徒出陣で1943年に出征、海軍予備学生(第4期)を経て、1944年暮れに海軍少尉となる。敗戦により復員し、1945年10月に復学、1946年9月に卒業する。同年11月、講談社に入社する。1955年から1966年まで『群像』の編集長を務めた。石原慎太郎や有吉佐和子の作品を一切掲載しない一方で、吉行淳之介や安岡章太郎など「第三の新人」と呼ばれた作家たちを陰で支えた。その仕事ぶりは「文学の鬼」「純文学の鬼」などと称された。
中村 渓男(なかむら たにお、1921年8月26日 - 20… 中村 渓男(なかむら たにお、1921年8月26日 - 2001年5月19日)は、日本の美術評論家。日本画家・中村岳陵の長男。息子の中村宗弘も日本画家。 神奈川県生まれ。本名は秀男。慶應義塾大学文学部史学科卒。美術史学会・美術評論家連盟所属。宇都宮文星短期大学教授、成田山書道美術館副館長。 2001年5月19日、心不全のため死去。
増井 敬二(ますい けいじ、1921年8月14日 - 200… 増井 敬二(ますい けいじ、1921年8月14日 - 2007年9月21日)は、オペラ評論家、音楽ディレクター。 東京出身。慶應義塾大学経済学部卒。1946年、NHKに入社し音楽ディレクターを務める。またラジオのステレオ音楽番組を創始した。1958年、第10回イタリア賞を受賞。NHKを定年退職後は音楽評論の他、神奈川大、横浜国大、武蔵大、東京声專音楽学校で講師を務めた。
松本 昇三(まつもと しょうぞう 1921年8月12日 - … 松本 昇三(まつもと しょうぞう 1921年8月12日 - 1996年9月4日)は朝日放送元プロデューサー。 「お笑いの昇ちゃん」と言われるほど演芸、お笑い番組を多数手がけた。 大阪松屋町筋の生まれ、子供のころ母に連れられ近所にあった松竹館という寄席に漫才や落語を見に行ったことで興味を持つようになる。 慶應義塾大学法学部に入学、学生時代も四谷の下宿先から大学に通わず近所にあった喜よしという寄席に足繁く通った。 1946年に大学卒業、卒業後も就職せずに大阪戎橋松竹の楽屋に出入りし芸人らと交友を持つようになる。 1951年、戎橋松竹をラジオ中継していた朝日放送に学芸部員として入社、寄席の中継番組などを携わる。
永戸 多喜雄(えいと たきお、1921年8月11日- 201… 永戸 多喜雄(えいと たきお、1921年8月11日- 2010年9月12日)は、フランス文学者。 フランス文学者永戸俊雄の子。東京出身。府立六中(現都立新宿高等学校)を経て慶應義塾大学文学部仏文科卒、同経済学部教授、経済学部長を務め、1987年定年退任、名誉教授。サルトルの翻訳をおこなった。 2010年9月12日、心不全のため89歳で死去した。
吉原 三郎(よしはら さぶろう、1921年 <大正10年> … 吉原 三郎(よしはら さぶろう、1921年 <大正10年> 8月10日 - 2008年 <平成20年> 2月3日)は、日本の経営者、銀行家。千葉興業銀行頭取を務めた。位階は従五位。 千葉県出身。1946年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1948年5月に千葉銀行に入行。1952年1月に千葉興業銀行に転じ、1963年5月に取締役に就任し、1975年11月には頭取に昇格。1986年6月に会長、1996年6月に取締役相談役を経て、1997年6月には相談役に就任。 1986年11月に藍綬褒章を受章し、1995年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2008年2月3日急性心筋梗塞のために死去。86歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
三雲 四郎(みくも しろう、1921年(大正10年)7月28… 三雲 四郎(みくも しろう、1921年(大正10年)7月28日 - 2007年(平成19年)1月11日)は、日本のジャーナリスト。産業経済新聞社取締役論説委員長。 鹿児島県出身。学徒出陣後に復学し、慶應義塾大学経済学部を卒業。 「自分はペンで生活していきたい」と、1946年産業経済新聞社に入社。本社経済部長や編集局次長、外信記者としてロンドン特派員、パリ支局長、欧州総局長を務めたほか、論説委員長も担った。娘・孝江も小学2年の夏から小学6年までロンドンで過ごしたという。 1971年に東京都公害審査委員会委員に就任し、1983年3月まで務めた。 2007年1月11日午後8時2分、肺炎のため東京都内の病院で死去。
見掛 道夫(みかけ みちお、1921年7月7日 - 2010… 見掛 道夫(みかけ みちお、1921年7月7日 - 2010年4月15日)は、日本の実業家。兵庫県出身。 1946年に慶応義塾大学経済学部を卒業した後に阪神電気鉄道に入社した。 不動産部長、土地経営部長を経て、1975年5月には取締役に就任し、1980年6月には常務取締役、1982年6月には専務取締役を歴任した。1986年6月には副社長に就任した。1988年には阪神タイガースに出向し、球団社長に就任した。1990年に球団社長を辞任した。 1988年4月に藍綬褒章を受章。 2010年4月15日に肺炎のため死去。88歳没。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
村瀬 敏郎(むらせ としお、1921年7月1日 - 1997… 村瀬 敏郎(むらせ としお、1921年7月1日 - 1997年12月14日)は日本の医師。日本医師会会長を務めた。 旧制横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)を経て、1946年に慶應義塾大学医学部を卒業。翌年より国立三島病院で勤務し、この頃から小児科を専門とした。1950年に静岡県由比町(現・静岡市清水区)に村瀬医院を開業し、1964年に東京都渋谷区に医院を移している。 1972年からは厚生省予防接種禁忌小委員会の委員なども務め、予防接種行政に関する提言を行なって1976年の予防接種法改正に貢献した。1984年に日本医師会の常任理事となり、公衆衛生への功労で厚生大臣賞を受賞した。翌年には厚生省のAIDS調査検討委員会の委員としてアメリカの状況を調査している。
益田 一(ますだ はじめ、1921年6月18日 - 2005… 益田 一(ますだ はじめ、1921年6月18日 - 2005年12月8日)は、日本の写真家、魚類研究家。 1921年に東京で生まれる。慶應義塾大学文学部独文科卒業。 1960年代以降水中写真家として活動し、多くの魚類図鑑を刊行した。益田海洋生物研究グループを結成して活動。当時としては画期的なカラー写真による生態観察の成果を次々と発表し、海洋関係の学会に新風を吹き込んだ。 1964年、伊豆海洋公園(静岡県伊東市)に伊豆海洋公園ダイビングセンターを設立、所長を務めた。また、東海大学の海洋学部アクアラング訓練所を改称し、潜水訓練センターを設立(1985年閉鎖)。1974年、株式会社益田海洋プロダクションを設立し、代表取締役会長を務めた。
生島 実(實、いくしま みのる、1921年 <大正10年> … 生島 実(實、いくしま みのる、1921年 <大正10年> 6月12日 - 2004年 <平成16年> 12月11日)は、日本の経営者。北海道ガス社長を務めた。位階は正五位。 愛知県名古屋市出身。1947年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1948年に東京ガスに入社。1972年9月に取締役に就任し、1973年9月に常務、1977年1月に専務を経て、1981年7月に副社長に就任し、1985年6月には北海道ガス社長に就任。1990年6月に取締役相談役に就任。 1991年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2004年12月11日肺水腫のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
福田 武(ふくだ たけし、1921年〈大正10年〉6月5日 … 福田 武(ふくだ たけし、1921年〈大正10年〉6月5日 - )は、日本の政治家。元栃木県鹿沼市長(2期)。 栃木県出身。旧制宇都宮中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)、慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学経済学部卒。卒業後は陸軍に入隊する。 戦後は地元で肥料商を始め、鹿沼相互信用金庫に入り、理事長、会長となる。ほか、鹿沼商工会議所会頭、栃木県信用金庫協会会長、全国信用金庫協会理事などを歴任する。 1992年(平成4年)鹿沼市長稲川武が2回目の当選を決めた直後に急逝したために行われた市長選挙に立候補し、対立候補に大差を付け、当選。1996年(平成8年)に再選。2000年(平成12年)に三選を目指したが、元鹿沼市議会議長の阿部和夫に敗れた。
原 五郎(はら ごろう、1921年5月26日- 2012年6… 原 五郎(はら ごろう、1921年5月26日- 2012年6月16日 )は、日本の経営者。三井倉庫社長、会長を務めた。 岐阜県出身。1946年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年に三井倉庫に入社した。1973年に取締役に就任し、1974年5月に常務、1977年3月に専務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1981年6月には社長に昇格した。1993年6月に会長に就任し、2001年6月には相談役に就任。 1985年11月に藍綬褒章を受章し、1991年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2012年6月16日、呼吸不全のために死去。91歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高橋 茂(たかはし しげる、1921年4月1日 - 2005… 高橋 茂(たかはし しげる、1921年4月1日 - 2005年11月22日)は、日本の工学者。東京工科大学名誉教授。工学博士。 慶應義塾大学工学部電気工学科卒業。1944年6月、慶應義塾大学卒業前に運輸通信省電気試験所第5部に入所する。 1953年に「電気絶縁材料の誘電特性とその測定法の研究」において、慶應義塾大学第一号となる工学博士の学位を授与された。 その後トランジスタ計算機の開発に着手し、ETL Mark IIIを完成させた。ETL Mark IIIは、日本では2番目、トランジスタ式計算機としては日本初の電子式コンピュータである。 さらに次いで、接合型トランジスタの採用で安定性を増し、多くの計算機メーカーが製品化のベースとしたETL Mark Ⅳを完成させるなど、国産電子計算機の発展に大きな貢献をした。
後藤 義夫(ごとう よしお、1921年3月15日 - 200… 後藤 義夫(ごとう よしお、1921年3月15日 - 2004年3月31日)は、日本の経営者。帝国興信所(現在の帝国データバンク)社長を務めた。東京都出身。 1941年に帝国興信所に入社し、1943年には慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。 1942年に取締役に就任し、1954年に副社長を経て、1963年には社長に就任。1998年には会長に就任。 2004年3月31日多臓器不全のために死去。83歳没。
安藤 英治(あんどう ひではる、1921年3月3日 - 19… 安藤 英治(あんどう ひではる、1921年3月3日 - 1998年12月17日)は、日本の社会学者。成蹊大学名誉教授。マックス・ヴェーバーの研究者であった。東京出身。 社会思想史面や人物としてのヴェーバー研究を行った。また剣道家で、成蹊大学剣道部の顧問を務めた。ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)精読を、竹刀の素振りにも喩えている(なお晩年接した弟子によると、読み潰し3冊目を買い直していた)[要出典]。ゼミの指導学生に杉原哲彦(元東亜大学教授)などがいる。
市橋 保(いちはし たもつ、1921年 <大正10年> 2月… 市橋 保(いちはし たもつ、1921年 <大正10年> 2月18日 - 2005年 <平成17年> 9月17日)は、日本の銀行家。福井銀行頭取、会長を務めた。位階は正五位。 福井県福井市出身。1944年に慶應義塾大学工学部を卒業し、1945年11月に日本銀行に入行。1962年4月に福井銀行に転じ、1965年11月に取締役に就任し、1969年4月に常務、1972年11月に副頭取を経て、1982年10月に頭取には就任。1992年10月には会長に就任。 1987年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2005年9月17日心不全のために死去。84歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
佐々木 直亮(ささき なおすけ、1921年1月17日 - 2… 佐々木 直亮(ささき なおすけ、1921年1月17日 - 2007年9月9日)は、医学博士、弘前大学名誉教授(衛生学)、疫学者。 1921年1月17日東京都港区三田綱町に生まれる。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1943年9月慶應義塾大学医学部卒業。1956年弘前大学医学部教授(衛生学)に就任。1986年退官、弘前大学名誉教授の称号を授与される。2007年9月9日午後9時頃、脳卒中のため青森県弘前の自宅で死去(享年86)。墓所は東京都港区の青山霊園。二男は指揮者の佐々木修。幕末の豪商伊藤八兵衛の曾孫。渋沢栄一の後妻の兼子は伯叔母にあたる。 1974年日本における高血圧の疫学的研究について毎日学術奨励賞、1981年衛生学青森県褒賞、1983年青森県の特産物であるりんごの高血圧予防効果を世界にさきがけて指摘したことにより木村甚弥賞(りんご顕彰会)、1986年脳卒中・高血圧予防についての疫学研究と地域住民の保健活動の推進の貢献に対し保健文化賞(厚生大臣賞))、1995年勲三等旭日中綬章、1996年、脳血管障害に関する基礎的臨床的研究分野における多大の貢献に対し美原賞、同年日本公衆衛生学会推薦により中冨健康科学振興賞、2002年青森りんごの発展に貢献した功績により青森りんご勲章を授与された。
新納 真人(にいの まびと、1921年1月17日 - 200… 新納 真人(にいの まびと、1921年1月17日 - 2008年8月23日)は、日本の経営者。鐘淵化学工業(現在のカネカ)社長、会長を務めた。 東京都出身。1943年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に鐘淵紡績に入社。1949年に鐘淵化学工業(のちのカネカ)に転じ、1966年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1974年11月に専務を経て、1978年11月に副社長に就任し、1984年11月には社長に昇格。1989年6月に会長に就任し、1994年6月から相談役を務めた。 2008年8月23日胆嚢癌のために死去。87歳没。
桑原 啓善(くわはら ひろよし、1921年1月1日 - 20… 桑原 啓善(くわはら ひろよし、1921年1月1日 - 2013年7月22日)は、日本の詩人、心霊研究家。ペンネームは山波 言太郎(やまなみ げんたろう)。慶應義塾大学経済学部卒業。 学生時代に心霊研究の迷信を叩くことを試みるが、逆に心霊研究を正しいと考えるようになり、同研究の道に入る。心霊科学研究会を創設した浅野和三郎の後継者である脇長生に師事。1985年、任意団体「シルバー・バーチの会」(後のニューエイジ団体『生命の樹』)を設立し、「ネオ・スピリチュアリズム」を唱導する。 1992年、癒やしの力を持つ発声法として「リラ」を考案。人間の耳には聞こえない自然界の呼吸音が癒やしと生命力の回復になると考え、これを「自然音楽」と呼び、この自然音楽で人を癒やす「自然音楽療法」を1995年に開始。
小林 幸雄(こばやし ゆきお、1921年1月1日 - 201… 小林 幸雄(こばやし ゆきお、1921年1月1日 - 2012年6月11日)は、日本の経営者。北海道テレビ放送社長を務めた。東京都出身。 1944年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業。召集され武山海兵団に入団。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、舞鶴経理部に配属。同年12月、海軍主計少尉に任官。小松基地第48魚雷調整班主計長に転じ、1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1946年1月に朝日新聞社に入社。東京本社週刊朝日編集部員、社会部員、西部本社社会部次長、福岡総局次長、東京本社通信部次長、同社会部次長、静岡支局長などを務めた。
羽坂 勇司(はさか ゆうじ、1921年1月1日 - 2020… 羽坂 勇司(はさか ゆうじ、1921年1月1日 - 2020年1月12日)は、日本の歯科医師、青山学院元理事長。 1921年東京都生まれ。青山学院中等部卒業、1941年に繰り上げで青山学院高等部卒業、陸軍に召集される。復員後は、現在の日本歯科大学で歯学を学び、さらに慶應義塾大学医学部で細菌学を研究し、1961年に医学博士号取得。論文の題は「ムタビール型変異菌(村瀬)の出現機序に関する研究 」。横浜市で開業し、横浜市磯子歯科医師会会長、同監事などを歴任。1977年から青山学院理事、1988年から青山学院校友会副会長などを歴任し、青山学院理事長に就任し、1990年~2005年までその職にあった。2007年旭日中綬章を受章。
馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術… 馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術者、著作家。工学博士、技術士。 専門分野(化学)の論文、報告書の他、国際政治や国際経済についての著書を多数執筆した。 父親は内務省官僚であり、朝鮮総督府の高官であった。 山口県に生まれる。1931年、小学校4年生の時に父親の退官に伴い、朝鮮半島より内地(愛媛県松山)に戻る。旧制松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、1946年、慶應義塾大学工学部応用化学科卒業。慶應義塾大学大学院工学研究科在学兼東京大学第一工学部付属試験所嘱託。1949年、通商産業省に技官として入省。1961年、通商産業省(課長)を退任後、創立間もないニューヨーク工科大学教授に就任。
李 漢稷(イ・ハンジク、朝鮮語: 이한직、1921年 -19… 李 漢稷(イ・ハンジク、朝鮮語: 이한직、1921年 -1976年7月14日)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の詩人。本貫は全義李氏。号は木南(モンナム、목남)。 京城に生まれた。慶應大学法科卒業。1939年前後に『文章』誌の推薦で文壇に登場した。作品には『風葬』『北極圈』などがあり、光復後の作品では『崩壊』などがある。朝鮮戦争時代は大韓民国空軍に所属し、蒼空俱楽部の一員として活躍した。1960年に文公部の官僚としてまた日本に渡り、日本で僑居した。日本に東京都練馬区の自宅で膵臓癌により55歳で死去した。 寡作のため、生前には詩集を出版しなかった。死後に『李漢稷詩集』が上梓された。
宅嶋 徳光(たくしま のりみつ、1921年 - 1945年4… 宅嶋 徳光(たくしま のりみつ、1921年 - 1945年4月9日)は、大日本帝国海軍の軍人、作詞家。海軍中尉。松島航空隊機長。 福岡市博多区生まれ。奈良屋小学校を経て旧制福岡高等学校に進み、慶應義塾大学法学部政治科を卒業後、鉄道省に奉職。 1943年9月に海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。三重海軍航空隊に入隊。1944年5月に海軍少尉に任官。 筆が立つことで知られ、やがて鹿児島出水海軍航空隊に移動し、飛行訓練の合間に記された手記(「くちなしの花」)は、戦後に多くのメディアで取り上げられ、出版もされている。手記の一部を引用し、美空ひばりが補作詞した「白い勲章」は、船村徹の作曲によって美空ひばりのシングルレコードとして発表されている。
中鉢 正美(ちゅうばち まさよし、1920年12月30日 -… 中鉢 正美(ちゅうばち まさよし、1920年12月30日 - 2013年7月11日)は、日本の経済学者、経済心理学研究者、慶應義塾大学名誉教授。 「生活」をキーワードに、心理学・生態学の視点を加えて人間の経済行動を学際的に研究し、「生活構造論」の方法を確立する傍ら、行政の各種諮問委員として幅広くフィールドワークを行い、日本の社会政策、社会保障の充実に寄与した。元(財)地域開発研究所所長。第4回今和次郎賞受賞。 (「回想・林試の森」(1995)P.203~205より作成) 趣味は、動物生態・能面鑑賞。 カトリック目黒教会(聖アンセルモ教会)の教会員であり、自身の洗礼名もアンセルモ(アンセルムス)。
西川 新次(にしかわ しんじ、1920年(大正9年)12月1… 西川 新次(にしかわ しんじ、1920年(大正9年)12月11日 - 1999年(平成11年)9月18日)は、日本彫刻史学者。慶應義塾大学名誉教授。 1920年12月、福井県武生市(現:越前市)蓬莱の商家に生まれる。慶應義塾大学に進学した。 日本彫刻史の研究を志すきっかけは、和辻哲郎の著『古寺巡礼』の名文に刺激されて日本美術の仏像彫刻に興味を覚えた。慶應の文学部在学時に、生涯の師となる丸尾彰三郎の門を敲く。 1943年9月、同大学文学部哲学科(芸術学専攻)を卒業し、東京帝室博物館に採用となり、列品課勤務(技術雇員)。 1947年5月、国立博物館陳列課勤務(文部技官)。1950年9月文化財保護委員会保存部美術工芸課に配置換。
馬淵 秀夫(まぶち ひでお、1920年11月12日 - 20… 馬淵 秀夫(まぶち ひでお、1920年11月12日 - 2013年2月19日)は、日本の経営者。日本酸素社長、会長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1943年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三菱商事に入社。1976年6月に取締役に就任し、1979年6月に常務、1984年6月に副社長を経て、1986年7月に日本酸素常勤顧問に就任し、同年9月には社長に昇格。1991年6月から1996年12月までに会長を務めた。 1993年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2013年2月19日急性冠症候群のために死去。92歳没。
佐藤 隆一(さとう りゅういち、1920年10月31日 - … 佐藤 隆一(さとう りゅういち、1920年10月31日 - 1984年12月11日)は日本の外科医、医学研究者、医学博士。群馬県邑楽郡小泉町(現大泉町)生まれ。慶応義塾大学卒業。吉田肉腫に非常に感受性の高いDONRYU-RAT(吉田富三博士提唱)の開発。佐藤の肺がんの樹立(ラットに肺がんを作出し)。受託試験業務の他ゲルマニュウム誘導体「バイオジトン8」(半導体の有機化合物)の薬効研究開発、バイオジトン研究グループ代表としてバイオジトンを世に出した。B型慢性肝炎治療薬セロシオンの開発者。 出典:旧制太田中学卒業後、1946年慶応義塾大学医学部卒業、1946年 第一回医師国家試験合格。1947年群馬県太田市所在の富士重工㈱付属太田医院勤務(外科医)。
川崎 七三郎(かわさき しちさぶろう、1920年10月5日 … 川崎 七三郎(かわさき しちさぶろう、1920年10月5日 - 1995年11月29日)は、日本の経営者。日本火災海上保険社長、会長を務めた。東京都出身。 1942年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1946年に日本火災海上保険に入社。。 1969年6月に取締役に就任し、1974年6月に常務、1975年6月に専務を経て、1976年7月には副社長に就任し、1981年7月には社長に昇格。1984年7月に会長に就任し、1989年6月には取締役相談役に就任。 1985年11月に藍綬褒章を受章。。 1995年11月29日呼吸不全のために死去。75歳没。
渡邉 渡(わたなべ わたる、1920年9月 - 2011年4… 渡邉 渡(わたなべ わたる、1920年9月 - 2011年4月21日)は、日本の経済史学者。特に明治維新の時期を中心とした日本経済史を専門とした。前身の大倉経済専門学校の時代を含め、東京経済大学に長く勤め、経済学部長、学長(1984年 - 1988年)を歴任した。 1920年東京に生まれる。大倉財閥が創設した大倉高等商業学校(東京経済大学の前身校)に学び、1943年に慶應義塾大学経済学部を卒業した。商工組合中央金庫勤務を経て、1946年に大倉経済専門学校と改称していた母校の講師となった。1949年、新制大学として東京経済大学が発足すると、専任講師となり、1951年に助教授、1958年に教授と昇進した。
別当 薫(べっとう かおる、1920年8月23日 - 199… 別当 薫(べっとう かおる、1920年8月23日 - 1999年4月16日)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。
梅田 晴夫(うめだ はるお、1920年8月12日 - 198… 梅田 晴夫(うめだ はるお、1920年8月12日 - 1980年12月21日)は、日本のフランス文学者、劇作家、小説家、随筆家。本名は梅田晃(あきら)。慶應義塾大学大学院修了。舞台劇やラジオドラマの脚本、物の歴史に関する著述や翻訳などで活躍した。パイプや万年筆などの収集家としても知られる。梅田望夫、梅田みかは子。 1920年(大正9年)、東京府東京市四谷区(現東京都新宿区)愛住町の暗闇坂で、ロシア貿易会社を営んでいた父・梅田潔と文学者の母・玲子の間に、6人兄弟の末子として生まれる。当時の梅田家の家風であった、ヨーロッパ的な生活習慣の中で育ち、1926年(大正15年)、慶應義塾幼稚舎入舎。以後18年間大学院まで慶應の一貫教育を受ける。
小林 吉彦(こばやし よしひこ、1920年7月20日 - 2… 小林 吉彦(こばやし よしひこ、1920年7月20日 - 2013年2月18日)は、日本の経営者。フジサンケイグループ代表、ニッポン放送会長を務めた。 栃木県出身。1943年に慶應義塾大学法学部を卒業。三井精機、栃木労働基準局での勤務を経て、1954年にニッポン放送に転じ、1960年に産業経済新聞社への出向を経て、1961年にニッポン放送に復帰。1967年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務に就任し、1969年5月に専務を経て、1977年6月から1986年6月までにサンケイビル社長を務めた。1992年7月から1993年7月までにフジサンケイグループ本社社長を務め、1993年6月から1997年6月までフジサンケイグループ代表とニッポン放送会長を務めた。
岡田 英次(おかだ えいじ、1920年〈大正9年〉6月13日… 岡田 英次(おかだ えいじ、1920年〈大正9年〉6月13日 - 1995年〈平成7年〉9月14日)は、日本の俳優。千葉県銚子市生まれ。身長166cm。慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学経済学部を卒業。 1946年、村山知義の第2次新協劇団に入団。1949年に『花の素顔』で映画デビュー。 1950年、今井正監督の『また逢う日まで』で久我美子の相手役を演じたことで一躍注目を浴びる。 「新協劇団」分裂後の1954年、劇団青俳を木村功らと設立。後に現代人劇場を経てフリーに。『真空地帯』『ここに泉あり』などの話題作に次々と出演したほか、1959年にはアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』に出演。世界的にも知られることに。
山本 啓四郎(やまもと けいしろう、1920年6月6日- 1… 山本 啓四郎(やまもと けいしろう、1920年6月6日- 1990年11月23日 )は、日本の経営者。日清紡績社長、会長を務めた。 東京都出身。1943年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日清紡績に入社した。1967年6月に取締役に就任し、1969年6月に常務、1972年12月に専務を経て、1973年5月に社長に就任。1979年7月に会長に就任し、1980年7月から1985年7月までに監査役を務めた。 1990年11月23日、転移性脳腫瘍のために死去。70歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
羽鳥 輝久(はとり てるひさ、1920年5月28日 - 19… 羽鳥 輝久(はとり てるひさ、1920年5月28日 - 1997年1月28日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 東京都千代田区は神田駿河台に生まれ、幼少時に港区の芝へ移った。1932年、慶應義塾幼稚舎6年生の時に三田綱町道場にて柔道を始める。当時から肥満体であったため夏は少し動いただけでも大汗をかき、熱心に稽古をしているように見られて思わぬ景品を受けた事もあったという。3年後には講道館へ入門し飯塚国三郎9段(のち10段)の内弟子となって、同年5月に初段、11月には2段に昇段。また、この頃に併せて指導を受けた中野正三7段(のち10段)は子供相手にも惜しみなく受身を取ってくれたので、羽鳥を含めて幼年組の生徒達は技の体得が早かったという。
加倉井 駿一(かくらい しゅんいち、1920年5月11日 -… 加倉井 駿一(かくらい しゅんいち、1920年5月11日 - 1974年6月7日)は、日本の厚生官僚。公衆衛生局長などを務めた。 茨城県出身。慶応義塾大学医学部を1945年に卒業後、1946年より茨城県衛生課に勤務する。1950年に厚生省に入省した。 1962年に鳥取県厚生部長として出向。着任翌年の1963年、ハンセン病患者への偏見除去を持論としていた加倉井は、患者を国立ハンセン病療養所から一時帰省させる「里帰り事業」を着想し、らい予防法が存在する中、1964年に他の都道府県に先駆けて患者4人の帰省を実現させた。この事業は報道されて話題を呼び、他の都道府県でも追随する形で実施されるようになった。
河内 卓司(こうち たくじ、1920年4月26日 - 201… 河内 卓司(こうち たくじ、1920年4月26日 - 2016年6月8日)は、広島県広島市出身のプロ野球選手(三塁手)。 旧制広島一中(現広島国泰寺高校)から慶應義塾大学へ進み、遊撃手として活躍。1943年(昭和18年)10月16日、出陣学徒壮行早慶戦にも八番遊撃手として出場。この後太平洋戦争の激化により大日本帝国陸軍に入隊し、広島の野砲兵第五連隊・西部第五部隊に所属、中尉として台湾で終戦を迎えた。戦後復員し慶應野球部に戻り1946年春、戦後最初の東京六大学リーグ戦優勝の中心選手となる。リーグ通算14試合出場、39打数7安打、打率.179。卒業後1947年、大洋漁業入社。野球部の四番遊撃手として3番戸倉勝城らと第20回都市対抗野球大会でチーム初出場に貢献(林兼商店としては戦前1930年に出場がある)。
高橋 吉之助(たかはし きちのすけ、1920年4月25日 -… 高橋 吉之助(たかはし きちのすけ、1920年4月25日 - 1992年5月13日)は、日本の会計学者。 福岡県福岡市博多出身。慶應義塾大学法学部法律学科卒、1966年「近代勘定理論の展開 企業会計の基本構造に関する一省察」で経済学博士。慶大理工学部講師、助教授を経て、教授。1986年定年となり、名誉教授、武蔵工業大学教授を務めた。