伊庭 長之助(いば ちょうのすけ、1916年9月2日 - 2… 伊庭 長之助(いば ちょうのすけ、1916年9月2日 - 2004年)は、日本の広告制作者。 東京都出身。慶應義塾大学文学部を卒業(昭和16年)。戦後、在日駐留軍中央購買局に勤め、昭和33年に日本天然色映画を設立し、社長に(1990年に東北新社に売却)。全日本CM協会理事や、JAC(日本テレビCM制作社連盟)会長なども務めた。平成16年に88歳で死去。 2007年に伊庭記念会が設立された。
平田 恭助(ひらた きょうすけ、1916年7月5日 - 19… 平田 恭助(ひらた きょうすけ、1916年7月5日 - 1940年5月12日)は、昭和戦前期の登山家。伯爵平田栄二(松堂)の四男。母は前田利昭の娘・静子。東京府出身。 慶應義塾大学在学中より谷川岳の登山を行い、1939年9月26日に共に未踏であった一ノ倉沢の滝沢下部の初登攀を果たして山岳界に衝撃を与えた(山岳ガイドの浅川勇夫が同行)。同年には社会人山岳団体である東京登歩渓流会に加入する。 慶應義塾大学には槇有恒・三田幸夫・大島亮吉・早川種三ら優れた登山家を輩出した山岳部があったが、平田は山岳部に所属せずに「モルゲンロートコール」というサークルに所属していた。東京登歩渓流会の幹部であった杉本光作によれば、山岳部は内部進学者が多く、外部から慶應に進学した平田はその空気に馴染めなかったのだという。
梁瀬 次郎(やなせ じろう、1916年〈大正5年〉6月28日… 梁瀬 次郎(やなせ じろう、1916年〈大正5年〉6月28日 - 2008年〈平成20年〉3月13日)は、日本の実業家。位階は従四位。勲等は勲二等。 梁瀬自動車株式会社社長、株式会社ヤナセ社長、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任した。 東京府出身の実業家である。父親・梁瀬長太郎が設立したヤナセグループの経営を引き継ぎ、自動車輸入の最大手企業に発展させた 。アメリカ車の販売に寄与したとして、2004年に日本人としては本田宗一郎や豊田英二らに続く5人目となる米国自動車殿堂入りを果たした。『自動車を斬る』(実業の日本社)など著書多数。 1916年生まれ、東京府出身である。1923年に関東大震災が発生し、父の郷里である群馬県碓氷郡豊岡村(現高崎市)に避難した。
佐々木 正五(ささき しょうご、1916年6月18日 - 2… 佐々木 正五(ささき しょうご、1916年6月18日 - 2014年11月20日)は、日本の海軍軍医(軍医大尉)、微生物学者、医学博士。慶應義塾大学名誉教授、東海大学名誉教授。東海大学医療技術短期大学学長。正七位(1945年)、勲二等瑞宝章(1994年)。 樺太の機関車を扱う商家に生まれた。1925年、慶應義塾幼稚舎入学。慶應義塾普通部卒業後、慶應義塾大学医学部予科修了、慶應義塾大学医学部本科卒業。1941年4月、慶應義塾大学医学部細菌学教室助手、5月に海軍二年現役軍医科士官となる。伊号第四潜水艦軍医長として真珠湾攻撃に参加し、詳細な日記を残した。1944年より陸上勤務。1945年に復員、慶應義塾大学医学部細菌学教室に戻り、小林六造に師事。
山本 勝孝(やまもと かつたか、1916年6月6日 - 19… 山本 勝孝(やまもと かつたか、1916年6月6日 - 1991年4月7日)は、日本の経営者、銀行家。武蔵野銀行頭取を務めた。 東京都出身。1941年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、1942年1月に日本銀行に入行。1970年5月に武蔵野銀行常務に就任し、1976年6月に専務、1978年11月に副頭取を経て、1979年2月から1983年6月までに頭取を務めた。 1991年4月7日、急性心不全のために死去。74歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
宮崎 要(みやざき かなめ、1916年4月27日 - 196… 宮崎 要(みやざき かなめ、1916年4月27日 - 1965年6月17日)は、佐賀県出身のプロ野球選手(内野手)、(監督)。
柳 武彦(やなぎ たけひこ、1916年3月28日 - 生没不… 柳 武彦(やなぎ たけひこ、1916年3月28日 - 生没不明)は、日本のフィールドホッケー選手。 慶應義塾大学経済学部卒業。1936年ベルリンオリンピックでホッケー競技に出場した。 伊藤赳夫 | 伊藤通弘 | 上野安夫 | 大津敏雄 | 菊池信 | 倉内大次 | 酒井義雄 | 杉山益男 | 武知治 | 田中昇 | 浜田駿吉 | 村岡敏 | 柳武彦 | 脇坂貞夫 | 監督: 石川周策 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
小沼 文彦(こぬま ふみひこ、1916年3月21日 - 19… 小沼 文彦(こぬま ふみひこ、1916年3月21日 - 1998年11月30日)は、日本のロシア文学者。 埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。慶應義塾大学予科から文学部卒業。予科時代に『罪と罰』を読んで感銘を受け、卒業後、ロシア語ができないままソ連に留学。その後政府留学生として、1943年にブルガリア首都ソフィアのソフィア大学ロシア文学科を卒業。敗戦後の一時期、ソ連に抑留され、約10年間外地に在住、帰国を共にした前夫人・菊池節子は、杉原千畝の義妹(姉幸子が夫人)。 帰国後は金沢大学や中央大学でロシア文学を教え、約30年かけ『ドストエフスキー全集』(筑摩書房)を個人全訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5… 沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5年〉3月14日 - 没年不明)は、日本の実業家、広島県多額納税者。辰栄工業会長。 広島県呉市出身。沢原亮吉の長男。沢原俊雄の孫。1941年、慶應義塾大学経済学部経済学科卒業。1948年3月より1952年3月まで呉市公安委員並びに委員長を務める。1963年7月より1978年7月まで広島県公安委員並びに委員長を務める。呉三田会会長を務める。 趣味は洋楽。宗教は真宗。住所は広島県呉市長ノ木町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中井 信彦(なかい のぶひこ、1916年3月14日 - 19… 中井 信彦(なかい のぶひこ、1916年3月14日 - 1990年11月27日)は、日本の歴史学者。専攻は近世経済思想、農業思想。 台湾生まれ。1938年慶應義塾大学卒、杉野女子短期大学教授をへて1963年慶大教授、1973年「歴史学的方法の基準」で毎日出版文化賞、1980年同書で慶大文学博士、定年となり愛知大学教授。1989年『色川三中の研究 伝記編』で角川源義賞受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中川 三郎(なかがわ さぶろう、1916年〈大正5年〉3月9… 中川 三郎(なかがわ さぶろう、1916年〈大正5年〉3月9日 - 2003年〈平成15年〉10月24日)は、「社交ダンスの父」と呼ばれる日本におけるモダンダンスの創始者。日本タップダンス界の祖。洋舞家。ニューヨーク市立大学シティカレッジ卒。大阪市出身。「日本のディスコの産みの親」とも呼ばれる。 「擬装の麗人」と呼ばれ、昭和の日本の興行界に一大センセーションを巻き起こした。妻は戦前にジャズ歌手として活躍した上村まり子。長男はタップダンサーの中川一郎(本名:大輔)。長女は女優でタップダンサーの中川弘子。次女は女優の中川姿子。三女は「スリー・チャッピーズ」の元メンバー、女優でタップダンサーの中川裕季子(女優当時の芸名:中川ゆき、本名:元子)。
八尋 敏行(やひろ としゆき、1916年(大正5年)2月11… 八尋 敏行(やひろ としゆき、1916年(大正5年)2月11日 - 2014年(平成26年)2月5日)は、日本の実業家、元日本製粉社長、会長。
中野 精紀(なかの きよのり、1916年 <大正5年> 2月… 中野 精紀(なかの きよのり、1916年 <大正5年> 2月6日 - 1986年 <昭和61年> 5月26日)は、日本の経営者。三井石油化学工業社長を務めた。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 東京都出身。1940年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1955年12月に三井石油化学工業に転じ、1969年11月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1977年6月に専務、1981年6月に副社長を経て、1982年12月には社長に就任した。 1982年11月に藍綬褒章を受章。 1986年5月26日、急性心不全のために死去。70歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲二等瑞宝章を追贈された。
佐竹 弘造(さたけ こうぞう、1916年2月3日 - 199… 佐竹 弘造(さたけ こうぞう、1916年2月3日 - 1993年2月1日)は、日本の政治家。石川県小松市長(2期)。 石川県出身。1941年慶應義塾大学法学部卒。読売新聞に入り、政治部記者となる。その後ジャパンタイムス政経部長、佐藤栄作国務大臣秘書官、同内閣総理大臣秘書官を経て、1967年小松市長選に立候補し、現職の藤田栄次を破って初当選した。1971年2回目の市長選でも当選した。市長在職中は小松空港の整備拡張、下水道事業などに取り組んだ。1972年7月、衆院選に立候補するために市長を辞職。12月の総選挙に石川1区から無所属で出馬したが落選した。1993年死去。
近藤 鉄己(こんどう てつみ、1916年 - 1945年8月… 近藤 鉄己(こんどう てつみ、1916年 - 1945年8月3日)は、日本のアマチュア野球選手。愛知県出身。ポジションは捕手。 愛知商業(現・愛知県立愛知商業高等学校)在学中は、甲子園に2回出場(内訳は春1回〔1935年〕。夏1回〔1935年〕。)出場した大会でどちらもベスト4まで進出し、自身は1935年春の大会で優秀選手賞を受賞した。 愛知商業卒業後、1936年に慶應義塾大学に進学。六大学野球でも活躍し、1939年秋季リーグで高木正雄とバッテリーを組み、慶大の13季ぶりの優勝の立役者となった。 しかし慶大を卒業後応召され、終戦12日前の1945年8月3日にフィリピンルソン島イフガオ州キャンガンにて、胸部貫通銃創により戦死した。
高木 正雄(たかぎ まさお 1916年 - 1944年6月1… 高木 正雄(たかぎ まさお 1916年 - 1944年6月18日)は、日本の元アマチュア野球選手。京都府出身。ポジションは投手。
戸板 康二(といた やすじ、1915年12月14日 - 19… 戸板 康二(といた やすじ、1915年12月14日 - 1993年1月23日)は、日本の演劇・歌舞伎評論家、推理作家、随筆家。 東京市芝区三田四国町(現在の東京都港区芝)出身。旧姓山口。藤倉電線に勤める父・三郎、母ひさの長男として生まれる。父親の仕事の関係で中国に引っ越し、上海小学校に通い、帰国後愛宕小学校(東京都港区)に入学。山口家に男子が生まれたら母方の戸板家の養子になる約束があり、初めは「康夫」と名付けられたが、養子になった1923年7月9日、「康二」と改める。 幼時、母方の祖母で戸板裁縫女学校の創立者である戸板関子の養子となる。関東大震災のとき、鎌倉材木座の別荘にいた母親が幼い次男をかばって圧死するも、康二は東京の自宅にいたため難を逃れる。
小池 禮三(こいけ れいぞう、1915年(大正4年)12月1… 小池 禮三(こいけ れいぞう、1915年(大正4年)12月12日 - 1998年(平成10年)8月3日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎの銀メダリスト。1936年ベルリンオリンピックの200m平泳ぎの銅メダリスト。オリンピック2大会連続でメダルを獲得。 静岡県沼津市出身。沼津商業時代に頭角を現した。 1932年ロサンゼルスオリンピックでは本命視されるも、体調を崩していたこともあり鶴田義行に次いで銀メダルを獲得した。 慶應義塾大学法学部政治学科に進学。200m平泳ぎで世界最高記録を樹立した。 1936年ベルリンオリンピックでは、葉室鐵夫、エルヴィン・ジータス(ドイツ)に次いで銅メダルを獲得した。
成相 善十(なりあい ぜんじゅう、1915年(大正4年)12… 成相 善十(なりあい ぜんじゅう、1915年(大正4年)12月4日 - 1998年(平成10年)11月10日)は、日本の政治家、参議院議員を務める(2期)。柔道家。 島根県出雲市出身。慶應義塾大学法学部政治学科を1941年に卒業。島根県議会議員を経て、1977年の第11回参議院議員通常選挙に出馬し当選。同郷の櫻内義雄に近かったため中曽根派に所属し、参議院議院運営委員会筆頭理事、参議院農林水産委員長、自由民主党参院副幹事長などの要職を歴任した。1989年の第15回参議院議員通常選挙では自民党公認が得られず、無所属で出馬して落選、政界を引退した。 1998年11月10日、肺炎のため出雲市の島根医科大学医学部附属病院で死去、82歳。
江崎 惇(えざき あつし、1915年9月28日 - 1995… 江崎 惇(えざき あつし、1915年9月28日 - 1995年1月8日)は日本の小説家。 静岡県出身。慶應義塾大学を卒業後、放送局勤務を経て作家活動に入る。主に時代小説の分野で活躍した。
海蔵寺 弘司(かいぞうじ こうじ、1915年9月20日 - … 海蔵寺 弘司(かいぞうじ こうじ、1915年9月20日 - 生死不明)は、広島県安芸郡府中町出身のプロ野球選手。 広陵中学校では1935年の第12回選抜野球大会にセンターとして出場し、準優勝メンバーとなる。 慶應義塾大学を経て1938年秋に南海軍へ入団。翌年のシーズン終了後に退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
岩城 力也(いわき りきや、1915年8月26日 - 199… 岩城 力也(いわき りきや、1915年8月26日 - 1999年12月21日)は、日本の俳優。旧芸名は岩城 力。本名は岩城 力夫。富山県出身。 慶應義塾大学卒業。東映東京撮影所の現代劇映画に端役として出演する一方、テレビドラマにも早くから進出。相馬剛三・河合絃司らと共にバイプレイヤーとして、刑事ドラマから特撮まで東映制作のテレビ作品に多く出演した。 1973年より放送された『非情のライセンス』では特捜部・岩田刑事役で全シリーズに出演した(第3シリーズのみ退職後の役)。同番組の主演俳優・天知茂との親交も深く、時代劇も含め様々な作品で共演している。同じテレビ朝日系の『特捜最前線』にも、メインゲストを務めた第214話「バラの花殺人事件!」をはじめ複数に出演。
浅田 晃彦(あさだ てるひこ、1915年〈大正4年〉8月11… 浅田 晃彦(あさだ てるひこ、1915年〈大正4年〉8月11日 - 1996年〈平成8年〉7月31日)は、日本の小説家、医師。 群馬県勢多郡富士見村(現・前橋市)出身。 祖父・浅田長太郎は平藩の足軽の家の出で勢多郡新里村山上の浅田民次郎の養子となり、後に初代新里村長となった。 晃彦は勢多郡富士見村に生まれ、利根郡片品村で幼少期を過ごした。1934年(昭和9年)に旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1941年(昭和16年)に慶應義塾大学医学部を卒業。翌1942年(昭和17年)陸軍軍医として入隊、ラバウルで勤務し1946年(昭和21年)に復員した。 戦後は前橋で内科小児科を開業し、のちに日本郵船の船医となる。
田辺 節郎(たなべ せつろう、1915年7月29日 - 20… 田辺 節郎(たなべ せつろう、1915年7月29日 - 2013年7月10日)は、日本の経営者。アルナ工機社長、宝塚音楽学校校長を務めた。山梨県出身。創業者である小林一三の甥。 1938年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)に入社。1959年に宝塚映画製作所代表取締役に就任し、1971年から1975年までに阪急電鉄監査役、1974年から1983年までにアルナ工機社長、1985年から1991年までに宝塚音楽学校校長を歴任した。 2013年7月10日心不全のために死去。97歳没。
諏訪 博(すわ ひろし、1915年(大正4年)6月11日 -… 諏訪 博(すわ ひろし、1915年(大正4年)6月11日 - 1989年(平成元年)12月9日)は、日本の実業家。北海道小樽市出身。TBS社長などを務めた。 小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)、慶應義塾大学経済学部卒業後、国際電気通信に入社。 1951年(昭和26年)、TBSの前身であるラジオ東京の設立に参加。ラジオ編成部長、テレビ演出部長、テレビ営業局長、1964年(昭和39年)11月常務を歴任。1969年(昭和44年)11月28日社長に昇格、1977年(昭和52年)6月29日会長に退き、山西由之に社長を譲る。 1983年(昭和58年)相談役、1986年(昭和61年)山西が死去したため3月25日会長に復帰し、1989年(平成元年)6月29日特別顧問。
伊藤 通弘(いとう みちひろ、1915年〈大正4年〉3月20… 伊藤 通弘(いとう みちひろ、1915年〈大正4年〉3月20日 - )は、日本のフィールドホッケー選手。 慶應義塾大学経済学部卒業。1936年ベルリンオリンピックで男子トーナメントに出場した。慶應義塾からは伊藤のほか、上野安夫、柳武彦、浜田駿吉が参加している。 伊藤赳夫 | 伊藤通弘 | 上野安夫 | 大津敏雄 | 菊池信 | 倉内大次 | 酒井義雄 | 杉山益男 | 武知治 | 田中昇 | 浜田駿吉 | 村岡敏 | 柳武彦 | 脇坂貞夫 | 監督: 石川周策 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
茂木 克己(もぎ かつみ、1915年3月1日 - 2005年… 茂木 克己(もぎ かつみ、1915年3月1日 - 2005年4月26日)は、日本の経営者。キッコーマン社長、会長を務めた。位階は従四位。 千葉県出身。キッコーマン初代社長・茂木七郎右衛門 (6代)の弟・藤崎勘三郎の五男として生まれる。1938年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、同年に野田醤油(のちのキッコーマン)に入社。 1958年2月に取締役に就任し、1963年6月に常務、1974年2月に副社長を経て、1980年3月には社長に就任。1985年10月に取締役相談役に就任し、1994年3月に相談役を経て、2002年6月には特別顧問に就任。 2005年4月26日心不全のために死去。90歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
山川 茂夫(やまかわ しげお、1915年2月26日 - 19… 山川 茂夫(やまかわ しげお、1915年2月26日 - 1990年5月30日)は、日本の経営者。阪急百貨店社長、会長を務めた。大阪府池田市出身。 1937年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄に入社。1947年に分社化に伴い、阪急百貨店に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1975年5月に専務、1979年6月に副社長を経て、1986年6月に社長に就任した。1988年6月から会長を務めた。阪急電鉄取締役、関西テレビ放送取締役も務めた。 小学校からテニスをプレーしており、1985年にはダンロップグランドマスターズで優勝を果たした。 1990年5月30日心不全のために死去。
吉田 雅夫(よしだ まさお、1915年1月2日 - 2003… 吉田 雅夫(よしだ まさお、1915年1月2日 - 2003年11月17日)は、日本のフルート奏者。北海道出身。本名︰吉田 正雄。NHK交響楽団首席奏者、東京藝術大学教授、日本フルート協会会長を務めた。演奏者、教育者として日本フルート界の発展に尽力し、多大な功績を残した。 幼少より音楽に強い興味を示し、15歳ではじめにピッコロを、間もなくフルートを始めた。中学校(旧制)卒業にあたって音楽学校へ進むことを親に反対され、慶應義塾大学法学部法律学科(フランス法)に入学。在学中はマンドリンクラブとワグネル・ソサイエティ・オーケストラに在籍した。大学で同姓同名の人物が3人おり、別人宛の月謝の督促状が届いたことに腹を立てて、以後「雅夫」を名乗るようになった。
熊倉 正弥(くまくら まさや、1915年-1995年)は、日… 熊倉 正弥(くまくら まさや、1915年-1995年)は、日本の記者、作家。神田仁人(ほうじん)とも 。 熊倉弥五郎の次男で、姉に島津フミヨがいる。慶應大学出身。1939年に朝日新聞社へ入社し、論説委員などを務める。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松宮 康夫(まつみや やすお、1915年 - 1995年)は… 松宮 康夫(まつみや やすお、1915年 - 1995年)は、日本の実業家。東京貿易株式会社創業者、東京貿易社長。 1940年(昭和15年)慶応義塾大学経済学部卒業。 兵役を終えて帰国した後、1947年東京貿易商会(1957年東京貿易に社名変更)を設立。その他日本貿易会、日本鉄鋼輸出組合、日中経済協会、ソ連東欧貿易会、国際貿易促進協会各理事、経済団体連合会評議員、東京商工会議所貿易部会常任委員、経済同友会幹事、日豪経済委員会、日ソ経済委員会各委員、日本・カタール友好協会副会長を務め、1995年取締役会長に就任した。 第1回経済界大賞 敢闘賞受賞 1973年 藍綬褒章受章 東京貿易グループ社史 35年のあゆみ
播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年… 播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年7月19日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。兵庫県神戸市出身。 兵庫県御影師範学校附属小学校を経て、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)に入学し、サッカー部に所属。右近徳太郎が2年先輩に、直木和、津田幸男および二宮洋一が1年後輩に当たる。1933年1月に開催された第15回全国中等学校蹴球選手権大会での優勝に貢献した。 1933年に神戸一中を卒業して、慶應義塾大学予科に入学。慶應入学後よりソッカー部に所属して予科1年次よりレギュラー選手となった。また、在学中には慶應BRBで1度(1936年)、慶應義塾大学として1度(1937年)の計2回全日本選手権(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝した。
中田 武雄(なかた たけお、1915年(大正4年) - 19… 中田 武雄(なかた たけお、1915年(大正4年) - 1943年(昭和18年)7月22日)は、昭和初期の中等学校野球及び大学野球で活躍した野球選手。1933年(昭和8年)の第19回全国中等学校優勝野球大会準決勝において、兵庫県立明石中学校の投手として中京商業学校との延長25回の試合を投げきったことで著名。左投げ左打ち。
畑江 五郎(はたえ ごろう、1915年 - 1980年11月… 畑江 五郎(はたえ ごろう、1915年 - 1980年11月9日)は、日本の競走馬生産者、馬主。 兵庫県神戸市出身。慶應義塾大学法学部卒業後の1941年、北海道・日高に渡り、牧場を開設して学生時代から思い描いていた競走馬生産を始める。牧場を開設するにあたり、当時の馬産牧場の最大手であり名門でもあった小岩井農場からフロラヴァースを譲り受けるなどして自身の理想を実現しようと力を入れていた。 第二次世界大戦末期の1944年、赤紙が届く。出征前、牧場所有の繁殖牝馬を保存しておくように家族に命じていたという。 畑江は中国大陸での戦闘に従事。1945年の第二次世界大戦終結後、ソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留を経験することとなる。
池田 彌三郎(いけだ やさぶろう、1914年12月21日 -… 池田 彌三郎(いけだ やさぶろう、1914年12月21日 - 1982年7月5日)は、日本の国文学者・民俗学者・随筆家。 1914年、東京市京橋区(現・東京都中央区)で生まれた。生家は銀座の天麩羅屋"天金"で、その次男。 京橋区立泰明小学校、東京市立第一中学校(のちの東京都立九段高等学校)を経て、1931年4月、慶應義塾大学経済学部予科に入学。同級には井筒俊彦や加藤守雄がいた。1934年4月、文学部国文科に転じ、折口信夫に師事。戸板康二たちと共に、折口主宰の短歌結社「鳥船社」に参加。1937年、慶應義塾大学文学部国文科を卒業。 卒業後は、慶應義塾大学文学部に勤務。1963年、学位論文『日本芸能伝承論』を慶應義塾大学に提出して文学博士号を取得。
楠本 保(くすもと たもつ、1914年(大正3年)12月19… 楠本 保(くすもと たもつ、1914年(大正3年)12月19日 - 1943年(昭和18年)7月23日)は、昭和初期の中等学校野球及び大学野球で活躍した野球選手(投手)。
八十島 信之助(やそしま しんのすけ、1914年(大正3年)… 八十島 信之助(やそしま しんのすけ、1914年(大正3年)10月1日 - 1990年(平成2年)7月16日)は、日本の法医学者。札幌医科大学名誉教授。 東京府出身。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1938年に慶應義塾大学医学部を卒業。 東京都監察医として、1949年の下山事件で検視を行う。1951年「感電死の研究」で慶應義塾大学医学博士。慶應義塾大学講師。 1961年札幌医科大学教授。1985年定年退職、名誉教授。多くの司法解剖を行った。 1990年7月16日、死去。75歳没。 父は実業家の八十島親徳。岳父は医学者の川村麟也。兄に実業家の八十島親義、弟に土木工学者で東京大学名誉教授の八十島義之助。
藤川 一秋(ふじかわ いっしゅう、本名・かずあき、1914年… 藤川 一秋(ふじかわ いっしゅう、本名・かずあき、1914年9月14日 - 1992年8月17日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(1期)。トピー工業社長。 愛知県額田郡額田町(現岡崎市)の農家に生まれる。尋常小学校高等科を卒業後、愛知県庁に勤務。1935年(昭和10年)、上京して報知新聞社に入社。1939年(昭和14年)、東京シヤリングに転職。1943年(昭和18年)10月、東京シヤリングは宮製鋼所と合併し東都製鋼が発足。1946年(昭和21年)、同社の取締役に抜擢された。常務を経て1947年(昭和22年)に社長に就任。1952年(昭和27年)、車輪工業社長を兼務。1953年(昭和28年)に慶應義塾大学通信教育課程経済学科卒業。
今野 圓輔(こんの えんすけ、本名は圓助、1914年8月10… 今野 圓輔(こんの えんすけ、本名は圓助、1914年8月10日 - 1982年7月31日)は、日本の民俗学者、毎日新聞社員。 福島県出身。1941年慶應義塾大学文学部国文学科卒業。佐藤信彦、折口信夫から民俗学の薫陶を受けるとともに、柳田國男に師事。毎日新聞社に勤務しつつ、日本民俗学会評議員などを歴任。1947年民俗学研究所設立の際に牧田茂、直江広治らと共に実務面で尽力した。
岡田 茂(おかだ しげる、1914年〈大正3年〉8月3日 -… 岡田 茂(おかだ しげる、1914年〈大正3年〉8月3日 - 1995年〈平成7年〉7月20日)は、日本の実業家。三越社長(1972年 - 1982年)。 1972年から老舗百貨店・三越の社長を10年務めて「流通界の革命児」と呼ばれたが、一方で三越社内にワンマン体制を敷いて「岡田天皇」とも呼ばれるほどの権勢をふるった。愛人の竹久みちへの不正な利益供与など背任行為問題を起こしたことで、1982年の「三越事件」により社長職を解任され、後に特別背任で逮捕、裁判で有罪判決を受けるなど、明暗二様を生きた。 京都府京都市で生まれた。父親は雅号を紫郊といい、京友禅染めの下絵描きだったが、岡田が生まれてまもなく上京。
大江 季雄(おおえ すえお、1914年(大正3年)8月2日 … 大江 季雄(おおえ すえお、1914年(大正3年)8月2日 - 1941年(昭和16年)12月24日)は、日本の元陸上競技選手。元棒高跳日本記録保持者。1936年ベルリンオリンピック銅メダリスト。京都府舞鶴市出身。旧制舞鶴中学校(京都府立西舞鶴高等学校)、慶應義塾大学卒業。 1935年、第6回国際学生陸上(ブダペスト)で4m10をマークし準優勝した。1936年、4m34の日本新記録を樹立。同年、ベルリンオリンピックで4m25の記録で西田修平と2・3位を分け合い、帰国後にお互いのメダルを切断して「銀・銅2色の友情のメダル」を作成した美談は有名であり、西田は大江を銅メダルながら2位の表彰台に立たせたと言う。
渡邊 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1914年5月11日 -… 渡邊 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1914年5月11日 - 1998年6月22日)は、日本の男性フィギュアスケート選手。1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック男子シングル日本代表。慶應義塾大学経済学部卒業。 この項目は、フィギュアスケート選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:フィギュアスケート/プロジェクト:フィギュアスケート)。
井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年5月4日 - 199… 井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年5月4日 - 1993年1月7日)は、文学博士、言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。エラノス会議メンバー、日本学士院会員。語学の天才と称され、大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されている。
遊部 久蔵(あそべ きゅうぞう、1914年4月16日 - 1… 遊部 久蔵(あそべ きゅうぞう、1914年4月16日 - 1977年12月12日)は、日本の経済学者。古典学派とマルクスの価値論および経済学史を研究。 東京府(現・東京都)出身。慶應義塾大学卒。東洋経済新報社、東亜研究所、戦後は慶應義塾大学助教授。1953年に教授、経済学部長。1977年、在職中に死亡。享年63。
林 基(はやし もとい、1914年3月15日 - 2010年… 林 基(はやし もとい、1914年3月15日 - 2010年11月18日、旧姓:渡辺)は、日本の歴史学者。専修大学文学部名誉教授。専攻は日本近世史、特に百姓一揆の研究で知られるが、西欧及び東欧諸国の歴史書も多数翻訳した。 東京市芝区田村町出身。父・八十吉は米卸商を営み、関東大震災を機に実業家へ転身し芝信用金庫を興した。小学校卒業後、東京府立第一中学校・府立高等学校に進学するも、マルクス主義の読書会に関わった廉で官憲に一時拘束されたことや、病気休学などにより府立高校を中退。このため、慶應義塾大学予科に入り直し、同大学文学部国史学科を1940年に卒業する。大学在学中は幸田成友に師事し日欧通交史を研究した。
高橋 正則(たかはし まさのり、1914年3月10日 - 2… 高橋 正則(たかはし まさのり、1914年3月10日 - 2006年1月)は、日本の評論家。 山口県阿武郡出身。慶應義塾大学法学部卒。同盟通信社記者を経て、戦後、新夕刊新聞編集局次長、民社党政策審議会嘱託、東京政治研究所事務局長。1969年、第32回衆議院議員総選挙に民社党公認で東京5区から立候補したが落選した。 1973年駒澤大学法学部教授、学部長、1985年常磐大学人間科学部教授、富士社会教育センター理事長、顧問。1985年から1993年まで『月刊自由民主』に「マスコミ批判」「マスコミ批評」「マスコミ時評」を連載した。 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人である宮﨑勤の父親が東京都西多摩郡五日市町(現:あきる野市)で発行していた地域新聞『秋川新聞』(勤の逮捕により廃刊)には、廃刊の約半年前から「論説」や「疑獄物語」といった記事を寄稿・連載していた。
伴 紀雄(ばん のりお、1914年(大正3年)2月11日 -… 伴 紀雄(ばん のりお、1914年(大正3年)2月11日 - )は、日本のボート競技(ローイング競技)選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1914年2月11日、東京府東京市赤坂区(現在の東京都港区)に生まれる。慶應義塾普通部在学中にボート部に所属し、活躍を始める。その後、慶應義塾商工学校を経て慶應義塾大学に進む。中澤篤史の調査によれば、オリンピック出場時に伴は慶應義塾商工学校の所属であるが、『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』では大学入学後のこととして記述されている。 慶應義塾の端艇部には、対校選手団である「三色旗クルー」のほかに複数のかじ付きフォア(英語版)のクルーが編成されており、伴は慶應義塾商工学校OBおよび現役生を中心とした「自尊会」に属していた。
峯岸 甲(みねぎし まさる、1914年1月6日 - 1982… 峯岸 甲(みねぎし まさる、1914年1月6日 - 1982年7月31日)は、日本の経営者。安藤建設社長、会長を務めた。 東京都出身。1937年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年に安藤組(のちの安藤建設)に入社。 1962年に取締役に就任し、1964年に常務、1970年に専務を経て、1972年に副社長に就任し、1976年6月には社長に昇格。1982年6月には会長に就任。 1982年7月31日急性腎不全のために死去。68歳没。
市原 晃(いちはら あきら、1914年1月1日 - 2004… 市原 晃(いちはら あきら、1914年1月1日 - 2004年7月22日 )は、日本の経営者。三越社長、会長を務めた。 東京都出身。1937年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三越に入社。1965年4月に取締役に就任し、常務を経て、1982年9月に社長に就任。社長在任時には、三越事件で混乱していた三越の経営を立て直し、経営理念に「商いと始末」を掲げ、「仕入れの神様」とも呼ばれていた。1986年5月に会長に就任し、1995年5月から相談役を務めた。 1986年5月から1990年5月までに日本百貨店協会会長を務めた。 1991年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2004年7月22日肺炎により、死去。90歳没。
武田 明(たけだ あきら、1913年12月15日 - 199… 武田 明(たけだ あきら、1913年12月15日 - 1992年7月29日)は日本の民俗学者。香川県出身。また、多度津町長も務めた。 1913年(大正2年)、香川県仲多度郡多度津町にて武田亮太郎、ハナの次男に生まれる。実家は、江戸末期からの北前船回船問屋を起源とする事業家。当時は県内の電力、金融等、社会資本関連企業の経営に広く携わっていた。 旧制香川県立多度津中学校(現・香川県立多度津高等学校)5年の時、柳田国男の『石神問答』を読み民俗学を志す。 1931年(昭和6年)、中学を卒業し、慶應義塾大学に入学。予科3年の時、初めて採集した昔話が関敬吾の編集する『昔話研究』第二巻に「祖谷 美馬郡昔話」として掲載され、関の紹介で柳田を自宅に訪ねる。