岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5… 岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5月4日 - 1996年1月25日)は、プロ野球選手。
日本大学:4,179人
岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5… 岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5月4日 - 1996年1月25日)は、プロ野球選手。
本田 弘慈(ほんだ こうじ、1912年3月31日 - 200… 本田 弘慈(ほんだ こうじ、1912年3月31日 - 2002年4月6日)は、日本の牧師。 1912年(明治45年)3月31日 福井県丸岡町出身。父善太郎、母はつえの長男として生まれる。 1929年(昭和4年)7月22日 丸岡教会で洗礼を受ける。1930年 福井商業学校(現・福井県立福井商業高等学校)を卒業後、上京し、魚河岸の金物屋に勤める傍ら、日本大学文学部に入学する。同大学を中退、米国聖書教会の聖書配布の仕事を務める。 1934年(昭和9年) 関西聖書神学校に入学して、沢村五郎らの薫陶を受ける。1938年(昭和13年) 関西聖書神学校を卒業し、牧師として働く。 1940年(昭和15年)4月22日、森田志づと結婚する。
和田 鶴一(わだ つるいち、1912年(明治45年)3月27… 和田 鶴一(わだ つるいち、1912年(明治45年)3月27日 - 1973年(昭和48年)6月1日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 和田今之助の次男として和歌山県西牟婁郡串本町(現・東牟婁郡串本町)で生まれる。和歌山県師範学校を経て、日本大学法文学部を卒業。 1932年(昭和7年)から和歌山県や東京府の小学校に教員として勤務し、1945年(昭和20年)に帰郷して和歌山県立串本商業学校教諭となった。1947年(昭和22年)、和歌山県水産会総務部長に就任し、1949年(昭和24年)に和歌山県水産振興対策委員会副委員長、串本漁業協同組合理事となり、翌1950年(昭和25年)には推されて和歌山県漁業協同組合連合会長に就任した。
大阪 圭吉(おおさか けいきち、1912年3月20日 - 1… 大阪 圭吉(おおさか けいきち、1912年3月20日 - 1945年7月2日)は、愛知県出身の推理作家、小説家。本名は鈴木 福太郎(すずき ふくたろう)。 愛知県南設楽郡新城町(現・新城市)の旅館、「鈴木屋」の息子として生まれる。地元の小学校から豊橋商業学校(現・愛知県立豊橋商業高等学校)に進学するも、3年で中退。上京して日本大学商業学校(夜間、現在の日本大学第一高等学校)で学ぶ。この頃、坂上蘭吉のペンネームで「中央公論」の文壇アンデパンダン懸賞小説に応募するが選外となる。1931年には大学を卒業、郷里に戻り新城町役場に入職する。 やがて探偵小説を書くようになり、ペンネームも敬愛する江戸川乱歩の「江戸」に対する地名から、「大阪」圭吉と改め、1932年に『日の出』の創刊号懸賞小説に応募した「人喰い風呂」が佳作入選。
重松 九州男(しげまつ くすお、1912年3月10日 - 没… 重松 九州男(しげまつ くすお、1912年3月10日 - 没年不明)は、日本の歯科医師、政治運動家・『日本世直し党』党首。 かつて党本部所在地として届け出ていた神奈川県大和市の住所には歯科医院が存在している。
笠原 良三(かさはら りょうぞう、1912年1月19日 - … 笠原 良三(かさはら りょうぞう、1912年1月19日 - 2002年6月22日)は、日本の脚本家、小説家。本名:笠原 良三郎。社長シリーズなどの喜劇映画の脚本を多く手がけた。 栃木県足利郡足利町(現:足利市)出身。1932年に日本大学芸術学部を中退し、1936年に日活多摩川撮影所脚本部に入社。1941年に新興シネマ脚本部に転属後、大映東京撮影所脚本部に移籍。1955年に東宝撮影所の契約者となる。弟子に東映ヤクザ映画の隆盛を支えた笠原和夫などがいる。オリジナル作品は自らノベライゼーションを行っている。 2002年6月22日、死去。90歳没。 銀座の若大将 - 日本一の若大将 海の若大将 - エレキの若大将 アルプスの若大将 - 歌う若大将 レッツゴー!若大将 - 南太平洋の若大将 - ゴー!ゴー!若大将 フレッシュマン若大将 - ニュージーランドの若大将 ブラボー!若大将 - 俺の空だぜ!若大将 社長になった若大将(テレビドラマ) 加山雄三 - 大矢茂 - 草刈正雄 田中邦衛 - 高松しげお - 湯原昌幸 星由里子 - 酒井和歌子 - 吉沢京子 - いけだももこ - 坂口良子 有島一郎 - 飯田蝶子 - 中真千子 - 三條美紀 - フランキー堺 - 高橋恵子 藤本真澄 - 神谷一夫 - 大森幹彦 - 安武龍 - 田波靖男 田波靖男 - 笠原良三 杉江敏男 - 福田純 - 古澤憲吾 - 岩内克己 - 小谷承靖
豊田 久吉(とよだ ひさきち、1912年(明治45年)1月2… 豊田 久吉(とよだ ひさきち、1912年(明治45年)1月2日 - 1976年(昭和51年)10月7日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの800メートルリレー金メダリスト。1930年代後半には豊田 満の芸名で短期間映画俳優としても活動。姓はその後峰島となっている。 山口県屋代島(周防大島)出身。安下庄中学(のちの山口県立安下庄高等学校、現在は山口県立周防大島高等学校)卒業、日本大学出身。 1932年ロサンゼルスオリンピックの800メートルリレーで、宮崎康二、遊佐正憲、横山隆志と共に金メダルを獲得した。日本大学出身者初(遊佐正憲とともに)・山口県出身者初の金メダリストとなる。
五十嵐 正(いがらし ただし、1912年 - 1981年)は… 五十嵐 正(いがらし ただし、1912年 - 1981年)は、日本の建築家、北海道滝川町生まれ。デザイナーの五十嵐威暢は甥に当たる。2005年、威暢の毎日デザイン賞(特別賞)決定により、その影響を与えた人物として、五十嵐正に注目した建築系編集者植田実(建築評論家)の手による取材が行われ、「Casa BRUTUS」(マガジンハウス)の雑誌記事と書籍の出版が行われた。 1912年(明治45年)、北海道滝川町の実業家 五十嵐太郎吉の家庭に六男として生まれた。 明治学院大学文学部英文学科に進学するが、目指すものが違うと、その後日本大学工学部(現 理工学部)建築学科 に再入学し建築家を志す。1938年(昭和13年)、同校を卒業し、東京の木田建業に入社する。
李 亀洙(イ・グス、朝鮮語: 이구수/李龜洙、1912年また… 李 亀洙(イ・グス、朝鮮語: 이구수/李龜洙、1912年または1913年4月18日 - 1967年6月6日)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 慶南固城郡大可面(朝鮮語版)岩田里に生まれる。小学校、日本大学法科卒。記者を4年間務めた後、会社員、農業をした。 1948年5月に実施された制憲議会選挙にて、慶尚南道固城郡選挙区から無所属候補として出馬し当選した。国会議員当選後は国会財政経済委員会委員を務めた。1948年6月に「統一と均等社会を確約する無所属倶楽部」(통일과 균등사회를 다짐하는 무소속구락부)を結成し、その後も国会内の若手議員が集まった「成仁会」や「同成会」に所属した。 1948年8月に国会本会議で民族反逆行為を処罰する特別法の早急な制定と特別委員会の設置を主張し、同年9・10月に韓米行政移譲協定と米軍駐屯の反対声明の発表に参加した。
矢沢 恒雄(やざわ つねお、1911年〈明治44年〉11月2… 矢沢 恒雄(やざわ つねお、1911年〈明治44年〉11月29日 - 1994年〈平成6年〉5月17日)は、昭和から平成時代前期の政治家。埼玉県加須市長。加須市名誉市民。 埼玉県北埼玉郡加須町(現加須市)出身。日本大学文学部中退。埼玉県に奉職し、同教育民政部厚生課住宅係長、秘書課長、民生部長、農林部長、総務部長を経て、1984年(昭和59年)加須市長に当選。3期務めた。没後の1994年(平成6年)9月、加須市名誉市民に推挙された。
渡辺 実(わたなべ みのる、1911年10月8日 - 197… 渡辺 実(わたなべ みのる、1911年10月8日 - 1978年3月30日)は、日本の日本史学者。 山梨県生まれ。1941年、日本大学法文学部史学科卒業。1968年、「未解放部落史の研究」で日本大学より文学博士の学位を取得。名古屋大学助教授、文部省教科書調査官を経て、1967年に日本大学教授。
友光 恒(ともみつ つね、1911年(明治44年)9月24日… 友光 恒(ともみつ つね、1911年(明治44年)9月24日 - 1994年(平成6年)11月25日)は、昭和時代の政治家。埼玉県上尾市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 埼玉県北足立郡上尾町(現上尾市)出身。日本大学専門部法科を卒業後上尾町役場に入職する。上尾市議会議員を経て、1968年(昭和43年)同市助役となり、1972年(昭和47年)2月上尾駅東口の再開発(アリコベール)を公約に掲げて市長に当選し4期務めた。上尾市長選挙で北上尾駅開業の是非をめぐり、駅建設見直し派である荒井松司と争い1988年(昭和63年)2月、落選した。1994年死去。死没日付をもって正七位から従五位に進階し、勲四等旭日小綬章を追贈された。
小林 恒夫(こばやし つねお、1911年9月19日 - 19… 小林 恒夫(こばやし つねお、1911年9月19日 - 1991年12月6日)は、日本の映画監督・脚本家。東京都京橋出身。東映で現代劇をメインに撮っていた。 その後、テレビドラマ、PR映画の演出を手がける。テレビ映画では主に東映と古巣の東宝(系列会社宝塚映画も含む)製作作品の演出を多く手がけた。当時東宝の子会社だった円谷プロ作品にも参加する。特に『マイティジャック』でパイロット版を本放送版へ補強する仕事から入り、事実上のメイン監督を務めた。 監督昇進が41歳と遅かったものの、『点と線』における無駄をなるべく排し、テンポの良い時間経過と万人に理解しやすい物語の展開と切り口が持ち味であり、巧みな演出でリアリズム重視の独特の重厚さと緊迫感を与える作風であった。
川手 泰二(かわて たいじ、1911年9月1日 - 1986… 川手 泰二(かわて たいじ、1911年9月1日 - 1986年8月22日)は、日本の新聞記者、会社経営者。名古屋放送株式会社代表取締役社長、会長。全国朝日放送取締役。 山梨県北杜市(旧須玉町若神子)出身。父は、昭和初期に立憲政友会所属で山梨県選出の衆議院議員だった川手甫雄。兄は、山梨トヨタ自動車社長やテレビ山梨取締役を務めた川手淳一。弟は、日軽アルミニウム工業専務を務めた川手雄三。 山梨県立甲府中学校、日本大学法学部卒業。大学卒業後の1936年に朝日新聞社に入社。社会部の事件記者として鳴らし、警視庁キャップを務めた。1961年に東京本社特信部長に就任。 1962年4月、名古屋放送の開局に際して放送界に転じ、取締役東京支社長に就任。
水野 洽(みずの ひろし、1911年9月1日 - 1997年… 水野 洽(みずの ひろし、1911年9月1日 - 1997年11月4日)は、日本の映画監督である[4][5]。別名片岡 均(かたおか きん)[4]。
金 善太(キム・ソンテ、朝鮮語: 김선태、1911年7月15… 金 善太(キム・ソンテ、朝鮮語: 김선태、1911年7月15日または8月2日または8月8日 - 1978年11月29日または12月29日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の法曹、政治家、大学教員。第3・4・5代韓国国会議員。 本貫は金陵金氏(朝鮮語版)。別名は逸松、日本名は金澤善太。 全羅南道莞島郡郡外面生まれ、本籍地は忠清南道公州郡。1927年に莞島郡外普通学校を卒業、中学2年生の時にこっそりと海南郡で家の牛を売り、そのお金でソウルに上京した。中東中学校、儆新学校、京城法政学校を経て1936年に日本大学専門部法科に編入、1939年3月に卒業した。同年に高等文官試験司法科に合格した後、光復までは全州・清州・清津で地方法院の判事を務めた。
猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1… 猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1979年8月7日)は、日本の脚本家・映画監督、映画評論家。東京府出身。 牛込出身。父が検事という厳格な家庭に育つ(のちに初期テレビドラマ『検事』の脚本も手がけている)。父の転任のたびに、長野、東京、千葉、新潟、福岡と転々とする。少年時代から学業を嫌い、文学書に親しみ、中学3年生の時には新聞『万朝報』の長編小説募集に応募、落選するもそれ以降は雑誌にの懸賞小説に毎年応募をし続けたが、当選することは一度もなかった。 日本大学芸術学部卒業後は、福岡で1年半ほど職に就けないでいたが、『九州日報』の短編小説募集で一等に入り、賞金5円を貰い、1934年に松竹蒲田撮影所にシナリオ・ライターの研究生として入社した。
河本 敏夫(こうもと としお、1911年〈明治44年〉6月2… 河本 敏夫(こうもと としお、1911年〈明治44年〉6月22日 - 2001年〈平成13年〉5月24日)は、日本の政治家、実業家。 衆議院議員を連続17期務め、沖縄開発庁長官(第15代)、対外経済問題・民間活力導入担当大臣(第2次中曽根第1次改造内閣)、経済企画庁長官(第32・34代)、通商産業大臣(第34・36代)、郵政大臣(第28代)、衆議院議員(17期)、自由民主党政務調査会長などを歴任し、一時は「三角大福」に次ぐ自民党の実力者としても知られた。また、政界入り前は海運大手の1社だった三光汽船社長を務めており、政界入りに当たって辞任した後も事実上のオーナーであった。 正三位勲一等旭日大綬章受章。
煤孫 伝(すすまご つとう/でん、1911年6月16日 - … 煤孫 伝(すすまご つとう/でん、1911年6月16日 - 没年不明)は、岩手県花巻市出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手、外野手。 盛岡商業学校(現・岩手県立盛岡商業高等学校)在学中は、1930年の甲子園東北大会決勝で、東北中学を相手に猛打を振るい語り草となった(試合自体は敗れ、甲子園出場とはならなかった)。卒業後は、日本大学、仙台鉄道局(現・JR東日本東北硬式野球部)でプレーした。 1937年春、大東京軍に入団。岩手県出身者としては初のプロ野球選手となった。1937年5月1日の名古屋戦(洲崎球場)で一塁手の守備(浅原直人の代役)としてデビュー。5月8日の金鯱戦(上井草球場)ではプロ初打席初安打をマークし、6月1日の金鯱戦(甲子園球場)では初ホームランを打つなど、前評判通りの打棒を見せ、1937年春季シーズンはレギュラーとして定着した(規定打席にも到達し26位だった)。
木下 哲(きのした てつ、1911年(明治44年)6月 - … 木下 哲(きのした てつ、1911年(明治44年)6月 - 1961年(昭和36年)7月25日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県宇佐郡安心院村(安心院町を経て現宇佐市)で、木下淳太郎、ウメの息子として生まれる。大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1935年(昭和10年)日本大学法律学科を卒業した。 家業の弁当屋・梅乃屋を継承した。兄木下郁から影響を受け、1946年(昭和21年)日本社会党に入党し、1947年(昭和22年)大分県議会議員に当選し2期在任。この間、社会党大分県連書記長、同会長を務めた。1955年(昭和30年)兄の郁が大分県知事選挙に転じたことに伴い、同年2月の第27回衆議院議員総選挙で大分県第1区から右派社会党公認で出馬して初当選し、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙では社会党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
栗原 一登(くりはら かずと、1911年〈明治44年〉5月2… 栗原 一登(くりはら かずと、1911年〈明治44年〉5月24日 - 1994年〈平成6年〉12月19日)は、日本の演出家、児童劇作家。女優栗原小巻の父。 福岡県出身。小倉師範卒業、満州(現、中国東北部)に渡り、大連市に居住。のちに日本大学演劇科卒。 日本大学の講師、テレビ俳優学院理事長などを務め、「泥かぶら」(真山美保作)などを演出する。『学生演劇』を創刊し、教科書用戯曲教材の執筆など、児童・青少年演劇の育成に努めた。日本児童演劇協会会長を務めた。 1981年、『飛ぶ教室』編集委員。 (1994-12-19) 1994年12月19日(83歳没)。住所は東京都杉並区永福1丁目。
本多 猪四郎(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 19… 本多 猪四郎(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 1993年2月28日)は日本の映画監督。山形県東田川郡朝日村(現・鶴岡市)出身。数々の東宝特撮映画を撮った。
原田 観峰(はらだ かんぽう、1911年〈明治44年〉3月2… 原田 観峰(はらだ かんぽう、1911年〈明治44年〉3月21日 - 1995年〈平成7年〉7月)は、日本の書家、教育者。福岡県にて生まれ、戦前は東京都で教鞭を取り、戦後は福岡に戻って複数の幼稚園を開設した。後の日本習字教育財団を創立して日本全国で書道教育を推進したほか、海外の文化資料の蒐集を行った。開設した博物館である観峰館には蒐集した資料が所蔵されている。 本名は原田孝太郎。1911年3月21日、福岡県山門郡瀬高町(現・みやま市)に生を受ける。実家は酒樽の製造を営んでいた。教育熱心な父親の下に育ち、幼少期から書道を嗜み、また学問にも秀でていたとされる。当時は小野鵞堂の作品を手本として筆の練習をしていた。
尹 亨南(ユン・ヒョンナム、朝鮮語: 윤형남、1911年3月… 尹 亨南(ユン・ヒョンナム、朝鮮語: 윤형남、1911年3月16日または1912年 - 2002年10月9日)は、大韓民国の官僚、政治家、弁護士、ジャーナリスト。漆谷郡・尚州郡郡守、第3・4・5代韓国国会議員を歴任した。本貫は坡平尹氏。 日本統治時代の全羅南道順天郡(現・順天市)出身。全羅南道公立師範学校(現・光州教育大学校)を経て日本大学法学科卒。高等文官試験司法科・行政科合格。漆谷郡・尚州郡(現・尚州市)郡守、外務部法務課長、法制処法制官、光州朝鮮衆報主筆、弁護士、民主党中央委員・全南道党副委員長、内閣責任制改憲起草委員、第5代国会民議院法制司法委員長(1960年10月2日~1961年5月16日)を務めた。
籠瀬 良明(かごせ よしあき、1911年3月4日 - 200… 籠瀬 良明(かごせ よしあき、1911年3月4日 - 2000年12月21日)は、日本の地理学者。 富山県入善町の黒部川扇状地で生まれる。日本大学卒。 日大第三中学校教諭を経て、日本大学文学部助教授、横浜市立大学文理学部教授、日本大学文理学部教授を歴任。1981年に定年退任。 1960年に『わが国に於ける低位生産水田地域の地理学的研究』で日本大学より文学博士の学位を取得。 1990年に『自然堤防の諸類型に関する研究 - 河岸平野と災害』で日本大学より理学博士の学位を取得。 黒部川扇状地研究所名誉所長、日本城郭史学会名誉会長。 地図と現地調査を重視し、平野の水害や土地利用、集落や歴史的変遷の研究を専門とした。
廣幡 憲(ひろはた けん、1911年2月21日 - 1948… 廣幡 憲(ひろはた けん、1911年2月21日 - 1948年10月9日)は、昭和時代に活動した日本の洋画家である。主に抽象画を描いた。残されている作品は少ない。 1911年(明治44年)2月21日、秋田県仙北郡中仙町字大清水(現・大仙市)に高橋幸之助、エシの二男として生まれた。本名は憲太郎である。4人兄弟である。 1918年(大正7年)に清水尋常小学校(現・大仙市立清水小学校)に入学、その後、小学2年の夏に養子話が持ち上がり、1919年(大正8年)9月19日、養子縁組の手続きがとられた。これは、母の妹で男鹿市脇本の本明寺に嫁いだ叔母のトヨに子がなかったためである。養父は廣幡耕道、憲太郎は養子に入ってから名前を憲導と改めた。
多田 勇(ただ いさむ、1911年(明治44年)2月8日 -… 多田 勇(ただ いさむ、1911年(明治44年)2月8日 - 1990年(平成2年)3月12日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 千葉県香取郡佐原町(佐原市を経て現香取市)で生まれる。1931年(昭和6年)日本大学商業学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)を卒業した。 房総新聞記者となる。以後、千葉県砂糖卸商業組合専務理事、同日用品配給統制組合常務理事、千葉県生活用品販売副社長、東日本産業社長、多田印刷社長、千葉県印刷工業組合理事長、全日本印刷工業組合連合会理事、同常務理事、同副会長、日本印刷工業会理事、全国印刷工業健康保険組合理事、千葉印刷団地協同組合理事長、関東五県印刷工業厚生年金基金理事、千葉陸上競技協会会長、千葉県体育協会副会長、同顧問などを務めた。
柴田 勝治(しばた かつじ、1911年〈明治44年〉1月26… 柴田 勝治(しばた かつじ、1911年〈明治44年〉1月26日 - 1994年〈平成6年〉8月20日)は、日本の元アマチュアボクシング選手・指導者であり、教育者であった人物である。 岩手県二戸郡鳥海村(現在の二戸郡一戸町月館)出身。幼年時代を故郷で過ごした後に旧制日本大学第二中学校へ進学。その後、日本大学高等師範部国語漢文科(現・日本大学文理学部)へ進学。大学時代にボクシング(拳闘)部へ入り、ライト級ボクサーとして活動。1931年(昭和6年)、日本大学2年次の時に日比谷公会堂にて明治大学の選手と公式試合を行った際に最終ラウンドに柴田と対戦相手が互いの強打でキャンパスに沈むダブルノックダウンを喫した。
鈴木 誠一(すずき せいいち、1911年(明治44年) - … 鈴木 誠一(すずき せいいち、1911年(明治44年) - 没年不明)は、東京都小金井市長(3期)。 東京府北多摩郡小金井村(小金井町を経て、現在の東京都小金井市)生まれ。1933年(昭和8年)日本大学法学部を卒業。教員生活を送り、その後は小金井町役場に入り、民生、総務の各課長を務めた。 1955年(昭和30年)小金井町長に初当選。在任中に小金井町は1958年(昭和33年)に市制施行した。 市制施行後は社会福祉協議会の発足、国鉄武蔵小金井駅北口広場の整備、公団小金井団地への入居開始、国鉄東小金井駅の開業などがあった。 市長は1967年(昭和42年)まで務めた。
亀井 トム(かめい とむ、1910年12月29日 - 200… 亀井 トム(かめい とむ、1910年12月29日 - 2000年?)は、日本のジャーナリスト。『週刊埼玉』社長。本名、亀井 兎夢。出生名、久松 兎夢。トム・カメイ名義による著作もある。 子爵久松定弘(旧姓、大河内)の六男として東京市下谷区(現・東京都台東区)に生まれる。1928年、東京府立一商(現・東京都立第一商業高等学校)卒。日本大学専門部経済学科を2年で中退し、叔父の湯目補隆(ゆのめ すけたか、旧制大阪高校や旧制第二高校の校長を歴任)の私塾で学ぶ。1933年、亀井家の養子となる。 埼玉県川越市に住み、1953年から地方新聞『週刊埼玉』を発行。1970年1月、日本国民救援会系の「石川さんを守る会」川越地区の岸野茂(農林技官)と杉山英夫(横川元代議士襲撃事件被告人、大井医院事務長)の来訪と資料提供を受け、1970年2月から同紙で「狭山事件の再検討」を月1回特集する。
長谷川 政友(はせがわ まさとも、1910年(明治43年)1… 長谷川 政友(はせがわ まさとも、1910年(明治43年)11月20日 - 1980年(昭和55年)3月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福井県大野郡上庄村木本(現大野市)出身。政治家を目ざして16歳で上京し、苦学して1935年(昭和10年)日本大学法文学部政治科を卒業した。 北海道庁嘱託、同農林主事を歴任。1942年(昭和17年)に応召し、終戦により1945年(昭和20年)に復員した。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で福井県全県区から民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、1948年(昭和23年)に政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
向井 長年(むかい ながとし、1910年11月6日 - 19… 向井 長年(むかい ながとし、1910年11月6日 - 1980年6月23日)は、日本の労働運動家、政治家、参議院議員(4期)。 1910年、奈良県宇陀郡室生村に生まれる。1932年日本大学法律学科卒業。はじめ東邦電力に入社、奈良支店に配属、戦後は関西電力に属す。日本電気産業労働組合(初代書記長は佐々木良作)が結成されると関西地方本部委員長に就任するが、後に電産執行部の路線を批判して脱退。関西電力労働組合を結成して初代委員長となる。 奈良総評議長4期を経験し、1959年7月の参院選全国区に日本社会党から立候補し初当選(連続4回)。 1960年1月前年に社会党から離党した旧右派系(西尾派、河上派の一部)による民主社会党結成に参加。
岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 196… 岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 1965年7月3日)は日本のコメディアン、俳優、歌手。
荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 19… 荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 1992年6月14日)は、日本の作曲家である。 大阪府に生まれる。15歳よりヴァイオリンを辻吉之助に学び、1929年(昭和4年)兵庫県甲陽中学校卒業後、日本大学国文科に籍を置くも、1933年(昭和8年)12月には中途退学した。1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)の間松平頼則についてピアノおよび作曲法を学び、1932年(昭和7年)自作室内楽発表会を開催後、1934年(昭和9年)には石田一郎、落合朝彦と共に独立作曲科協会を設立し、2回の発表会を行う。 1936年(昭和11年)、日本現代作曲家連盟に入会し、同年11月に上海に渡航してアレクサンドル・チェレプニンに師事して約4ヶ月間作曲法を学び、1942年(昭和17年)まで教示を受けた。
北島 義彦(きたじま よしひこ、1910年〈明治43年〉5月… 北島 義彦(きたじま よしひこ、1910年〈明治43年〉5月30日 - 1959年〈昭和34年〉1月7日)は、日本の政治家。元自由民主党都議会議員。1964年東京オリンピック大会招致実行委員長。位階は正六位。勲等は勲五等。 佐賀県小城郡小城町(現・小城市)生まれ。日本大学卒業。会社顧問、北区立赤羽小学校PTA会長などを歴任した。1943年(昭和18年)3月に東京府会議員となった。同年9月の東京都議会議員選挙に当時の王子区から立候補して初当選を果たした。柔道5段。 戦後の1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に東京1区から立候補したが落選した。落選後は翌1947年(昭和22年)から北区選挙区から民主党公認で都議に当選した。
受田 新吉(うけだ しんきち、1910年5月18日 - 19… 受田 新吉(うけだ しんきち、1910年5月18日 - 1979年9月21日)は、昭和期の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(12期)。 山口県大島郡大島町(現周防大島町)出身。日本大学法科卒業。青年学校長、中学校校長、山口県教職員組合副委員長を経て政界入り。無所属、日本社会党(左右分裂時は右派社会党)を経て民社党結成に参加し、党中央執行委員や国会議員団長を務めた。 1963年8月、大島町公民館建設資金として10万円寄付により1964年4月18日紺綬褒章受章。 1979年、体調を崩し、声が出なくなる病に倒れたため引退を表明し、後継者に受田の元秘書で山口県議会議員の部谷孝之を指名。同年9月21日、肺癌のため茨城県新治郡桜村の筑波大学附属病院で死去した。
坊屋 三郎(ぼうや さぶろう、本名:柴田 俊英、1910年〈… 坊屋 三郎(ぼうや さぶろう、本名:柴田 俊英、1910年〈明治43年〉3月28日 - 2002年〈平成14年〉5月25日)は、日本の芸人、俳優。北海道夕張市出身。 出生時の氏名は石川博、生後数ヶ月で実相寺へ養子に出され、柴田俊英と改名。私立北海中学校に入学し、弓道部に所属した。日本大学専門部宗教科に進学するも、専門部芸術学科(現在の日本大学藝術学部の前身)に転科して声楽を学ぶ。 吉本興業(東京吉本)に入り、1937年に弟の芝利英・川田義雄(第二期は山茶花究)・益田喜頓(北海中学の同級生)とボーイズ演芸のあきれたぼういずを結成。1939年、新興キネマ演芸部に高額報酬を条件に引き抜かれ、吉本子飼いの芸人であった川田を除く3人で移籍した。
内藤 利紀(ないとう としのり、1910年(明治43年)3月… 内藤 利紀(ないとう としのり、1910年(明治43年)3月18日 - 1983年(昭和58年)4月10日)は、日本の政治家。東京都保谷市(現・西東京市)長(2期)。 福島県出身。1934年日本大学法文学部法律科を卒業。卒業後は逓信省に入り、簡易保険局書記となる。1951年保谷町議会議員となり、のち市制施行で保谷市議会議員となる。1969年保谷市長に当選。市長就任後は小学校や保育園、児童館の建設、休日診療所の開設、市街化区域及び市街化調整区域の決定、市の木を「ケヤキ」、市の花を「サザンカ」に決定した。ほか、1977年に市長を退任するまで教育や福祉の各施設、都市計画や環境整備の拡充に力を尽くした。
石川 度治(いしかわ たくじ、1909年12月20日 - 1… 石川 度治(いしかわ たくじ、1909年12月20日 - 1993年5月8日)は、日本の企業経営者、出版人。愛知県出身。 元東京出版販売株式会社(現・株式会社トーハン)社長、会長。元日本出版取次協会会長、元全国出版協会理事長。 1936年、日本大学法学部卒業。 16歳の時、出版取次店の東京堂に入社。 1949年に東京出版販売(1992年にトーハンに社名変更)設立と同時に入社、1952年取締役。常務、専務、副社長を経て、1977年代表取締役社長。1984年から会長。のち顧問。その間、一般社団法人日本出版取次協会会長、公益社団法人全国出版協会理事長(1982年 - 1988年)も歴任した。 親族に元朝日新聞出版社長、会長、元週刊朝日編集長の青木康晋がいる。
埴谷 雄高(はにや ゆたか、1909年〈明治42年〉12月1… 埴谷 雄高(はにや ゆたか、1909年〈明治42年〉12月19日 - 1997年〈平成9年〉2月19日)は、日本の政治・思想評論家、小説家。本名は般若 豊()。 共産党に入党し、検挙された。カント、ドストエフスキーに影響され、意識と存在の追究が文学の基調となる。戦後、「近代文学」創刊に参加。作品に『死霊』(1946年 - 未完)、『虚空』(1960年)などがある。 台湾の新竹に生まれる。子供の頃から身体が弱く、常に死を身近に感じていたという。子供心に台湾において「支配者としての日本人」を強く意識し、罪悪感を覚えていた。 青年期に思想家マックス・シュティルナーの主著『唯一者とその所有』の影響を受け、個人主義的アナキズムに強いシンパシーを抱きつつ、ウラジーミル・レーニンの著作『国家と革命』に述べられた国家の消滅に一縷の望みを託し、マルクス主義に接近、日本共産党に入党し、もっぱら地下活動(農民団体「全農全会派」のオルグ活動)に従事し、思想犯取り締まりのため、1932年に逮捕された。
黒田 俊夫(くろだ としお、1909年11月8日 - 200… 黒田 俊夫(くろだ としお、1909年11月8日 - 2006年12月30日)は、日本の人口学者。厚生省人口問題研究所所長、日本大学人口研究所所長、日本人口学会会長などを歴任した。 兵庫県姫路市伊伝居生まれ。姫路市立姫路商業学校(現兵庫県立姫路商業高等学校)では同級生の柿坪正義(のちに特命全権大使)とともに東京商科大学(現一橋大学)を目指し、勉強し、1931年同大学商学専門部卒業、支那経済事情研究会入会。1933年東京商工会議所入所。1936年日本大学商経学部経済学科卒業。1939年上海中支那軍票交換用物資配給組合入所。1947年厚生省人口問題研究所入所。1953年東京商科大学専攻科修了。1961年資源調査会専門委員。
土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日… 土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日 - 1990年〈平成2年〉9月15日)は昭和時代に活躍した日本の写真家。 リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界屈指の名文家としても知られた。 土門は、1950年代の前半頃から「社会的リアリズム」を標榜(後年本人が告白したところでは、実質的には社会主義リアリズムであったという)、「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、日本の写真界に一時期を画した。当時、リアリズム系の写真家としては、木村伊兵衛と双璧をなした。
木原 津與志(きはら つよし、1909年9月28日 - 19… 木原 津與志(きはら つよし、1909年9月28日 - 1971年4月17日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。弁護士。 長崎県出身。1932年日本大学法律科卒。卒業後は朝鮮に渡り、朝鮮総督府で検事をしていた。終戦後に引揚げ、長崎市で弁護士を開業した。長崎県労働委員会中立委員、同会長代理となり、1951年の長崎市長選挙では現職の大橋博に対抗する形で無所属で立候補したが、同じ弁護士の田川務に破れて落選した(現職の大橋も落選)。 その後、1952年第25回衆議院議員総選挙で長崎1区から日本社会党左派公認で立候補して初当選し、6回当選した。この間1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選、1967年の第31回衆議院議員総選挙で復帰、1969年の第32回衆議院議員総選挙に出馬せず引退した。
中田 弘二(なかた こうじ、1909年9月14日 - 没年不… 中田 弘二(なかた こうじ、1909年9月14日 - 没年不詳)は、俳優、政治家である。本名は中田 博二(なかた ひろじ)。 1909年(明治42年)9月14日、長崎県長崎市瀬ノ脇町(現在の同市飽の浦町)に生まれる。父中田猪十郎(生年不詳 - 1914年)は貿易商・土木労力請負業を経営する傍ら、国家主義者頭山満の政治結社玄洋社に入社し、孫文(1866年 - 1925年)の第三革命にも参加していた。 朝日尋常小学校(現在の長崎市立朝日小学校)から長崎県立瓊浦中学(現在は廃校)を経て、1930年(昭和5年)、日本大学専門部芸術科を卒業。卒業後、直ちに野戦銃砲第6聯隊に幹部候補生として入隊。除隊した1932年(昭和7年)10月、スカウトされて日活太秦撮影所に入社。
浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 197… 浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 1972年7月19日)は、日本の実業家。菱備製作所(現・リョービ)創業者。 広島県芦品郡岩谷村(現在の同県府中市目崎町)生まれ。肥料商の長男。旧制府中中学校(現・広島県立府中高等学校)を第1期生として卒業。同級に江草隆繁、岡崎平夫ら。東京株式取引所に就職し、夜学の日本大学専門部商業学科に通い1930年卒業。成瀬証券を経て東京で友人と工具やベルト販売の会社を設立。1943年設立された三菱電機福山工場(現・福山製作所)が航空機部品の協力企業を探していることを耳にして交渉の末、34歳で帰郷し、岩谷村に醤油蔵を改造したダイカスト工場建屋を完成させ、第1号製品を三菱電機に納入した。
秋田 貞夫(あきた ていお、1909年〈明治42年〉6月24… 秋田 貞夫(あきた ていお、1909年〈明治42年〉6月24日 - 1996年〈平成8年〉9月10日)は、日本の出版実業家。秋田書店の創立者。岡山県出身。 岡山県出身。旧制岡山第二中学(現:岡山県立岡山操山高等学校)を経て、日本大学専門部卒業後、1930年に小学館に入社。 入社してまもなく学年誌『小学五年生』編集部主任に配属、挿絵作家の福島鉄次を担当する。その後、上層部との軋轢が生じ、1940年11月に小学館を退社する。翌年1941年、秋田は朝日新聞社に入社、『アサヒグラフ』を担当した後、『週刊少国民』の担当となった。『週刊少国民』では再び福島鉄次を起用しており、二人はお互い仲が良かったことがうかがえる。
淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年〈明治42年〉4月… 淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年〈明治42年〉4月10日 - 1998年〈平成10年〉11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。 約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」と強調して言う独特の語り口から全国的に有名になり、「ヨドチョーさん」「ヨドさん」「サヨナラおじさん」等と呼ばれる程に多くの視聴者に親しまれてきた。 兵庫県神戸市(兵庫区)西柳原町にて芸者置屋の跡取り息子として父・又七、母・りゅうのもとに生まれる。実母は、父の本妻の姪にあたった。長く病身で、自分に子ができないことを悔いた本妻が、妾として姪を夫に推薦したのだった。
渡辺 一太郎(わたなべ いちたろう、1909年(明治42年)… 渡辺 一太郎(わたなべ いちたろう、1909年(明治42年)4月6日 – 1991年(平成3年)1月22日)は、昭和期の内務・警察官僚、政治家。参議院議員、千葉県副知事。 東京府出身。日本大学専門部を経て、1934年(昭和9年)同大学法文学部を卒業した。1936年(昭和11年)長野県巡査に任官。1938年(昭和13年)10月、高等試験行政科試験に合格し、厚生省に入省。以後、徳島県農務課長、鹿児島県庶務課長、神奈川県商工課長、鳥取県警察部長、警察庁参事官、千葉県警察本部長、臨時行政調査会専門委員などを歴任。1963年(昭和38年)千葉県副知事に就任した。また、戦時中は陸軍司政官に転出した。 1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙に千葉県地方区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2… 小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2月14日 - 1966年(昭和41年)10月2日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 福岡県、現在の大牟田市で生まれる。福岡県立三池中学校(現福岡県立三池高等学校)、福岡県八女工業学校(現福岡県立八女工業高等学校)を経て、日本大学で学んだが軍事教練反対で退校処分となり、1928年(昭和3年)長野県師範学校を卒業した。 その後、長野県・福岡県内の公立小学校で勤務。文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得し、朝鮮公立高等女学校、母校の三池中学校、新制三池高等学校の教員を務めた。 戦後、教職員組合の結成に参画し、福岡県教職員連合会文化部長、福岡県高等学校教職員組合副委員長、大牟田地区労働組合評議会会長などを務めた。
占部 秀男(うらべ ひでお、1909年(明治42年)2月11… 占部 秀男(うらべ ひでお、1909年(明治42年)2月11日 - 1978年(昭和53年)10月13日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 神奈川県出身。1929年(昭和4年)日本大学商科を卒業した。 1929年、東京毎夕新聞社に入社。その後、東京都主事に転じた。労働運動に加わり、東京都職員労働組合委員長(7期)、全日本自治団体労働組合(自治労)委員長(5期)、官公労議長などを務めた。自治労政治部長、同東京都本部地方選挙対策委員長として、美濃部亮吉革新知事の実現に尽力した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で全国区に日本社会党公認で立候補して落選。1953年(昭和28年)4月の第3回通常選挙で全国区に左派社会党公認で立候補して落選。