久喜 邦康(くき くにやす、1954年(昭和29年)5月30… 久喜 邦康(くき くにやす、1954年(昭和29年)5月30日 - )は、日本の医師、政治家。埼玉県秩父市長(3期)、秩父市議会議員(1期)を務めた。 埼玉県秩父市生まれ。祖父は元秩父市長(旧市)の久喜文重郞、父は元秩父市議会議員(旧市)の久喜愛三郎。日本医科大学医学部卒業、同大学院修了。1988年、秩父市で久喜医院を開業。この病院は、2009年の秩父市長選出馬以降は妻(東京女子医科大学卒の医師)が院長を務めており、久喜自身は経営、診療のいずれからも離れている[要出典]。 2003年(旧市)、2005年(現市)には、秩父市長選にいずれも無所属で出馬したが、当時の現職市長の栗原稔に敗れ落選。2006年の秩父市議選に無所属で出馬し、3,353票を獲得。
釜萢 敏(かまやち さとし、1953年7月5日 - )は、日… 釜萢 敏(かまやち さとし、1953年7月5日 - )は、日本の医師・医学者、政治家。自由民主党所属の参議院議員(1期)。医学博士(日本医科大学・1984年)。公益社団法人日本医師会・副会長、小泉小児科医院・院長、公益社団法人日本医師会・常任理事、内閣新型インフルエンザ等対策推進会議委員。厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボード構成員、新型コロナウイルス感染症対策分科会委員などを務めた。2025年、引退表明した羽生田俊に代わり第27回参議院議員通常選挙に日本医師会の組織内候補として立候補し当選した。 群馬県高崎市出身。1972年(昭和47年)東京教育大学附属駒場高等学校卒業。1978年(昭和53年)日本医科大学医学部卒業。
内田 全一(うちだ ぜんいち、1930年(昭和5年)3月6日… 内田 全一(うちだ ぜんいち、1930年(昭和5年)3月6日 - 2012年(平成24年)7月25日)は、昭和から平成時代前期の政治家。精神科医。埼玉県秩父市長。秩父市名誉市民。位階は正五位。 埼玉県秩父郡秩父町(現秩父市)出身。1947年 (昭和18年) 埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)、1954年(昭和29年)日本医科大学医学部を卒業。卒業後、精神科医となる。秩父中央病院院長を務めた。1987年(昭和62年)5月、秩父市長に就任し、2003年(平成15年)4月まで務めた。在任中は西武鉄道の秩父乗り入れ、秩父公園橋の架橋、国道や県道の改良、国道140号雁坂トンネル、皆野寄居バイパスの開通などに尽力した。
松崎 俊久(まつざき としひさ、1930年〈昭和5年〉2月2… 松崎 俊久(まつざき としひさ、1930年〈昭和5年〉2月23日 - 2004年〈平成16年〉5月24日)は、日本の政治家、医師。参議院議員(1期)。 1930年、福島県会津若松市に生まれる。日本医科大学を卒業し、循環器内科に入局。財団法人東京都老人総合研究所(現東京都健康長寿医療センター)疫学第一研究室長や疫学部長を歴任。定年後、琉球大学医学部保健学科保健管理教室教授となる。1995年、第17回参議院議員通常選挙比例区(新進党)で落選したが、1998年6月、繰り上げ当選。同11月、民主党に入党し、1999年、民主党会計監査を務めた。2001年の選挙には出馬せず引退。 2004年5月24日、心不全のため死去。
肥後 正典(ひご まさのり、1915年(大正4年)12月27… 肥後 正典(ひご まさのり、1915年(大正4年)12月27日 - 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の政治家、鹿児島県指宿市長(2期)。医師、医学博士。鹿児島県議会議員、山川町議会議員も務めた。位階は正五位。 鹿児島県指宿市出身。旧制鹿児島県立指宿中学校(現鹿児島県立指宿高等学校)、日本医科大学予科を経て、1943年日本医科大学卒業。陸軍に入隊し、陸軍軍医学校卒業後、上海検疫官(陸軍軍医大尉)。1946年7月復員、1946年10月開業。復員後は旧揖宿郡山川町に居住。1953年新制鹿児島大学・旧制県立鹿児島医科大学の桝屋富一内科教室専攻生。1955年4月30日から山川町議会議員を務める。
丸木 清美(まるき せいみ、1914年(大正3年)11月12… 丸木 清美(まるき せいみ、1914年(大正3年)11月12日 - 1994年(平成6年)8月27日)は、日本の医師、精神科医、政治家、教育者。 埼玉医科大学創立者。日本医科大学卒業、医学博士(東京大学)。 埼玉県入間郡毛呂村(現毛呂山町)生まれ。旧制埼玉県立川越中学校から、1939年(昭和14年)3月に日本医科大学を卒業後、東京帝国大学(現東京大学)精神科教室に入局。教授は内村祐之。医学博士(東京大学)、同年10月海軍軍医(中尉)。1944年(昭和19年)少佐。1947年(昭和22年)に祖父の丸木清太郎が創設した毛呂病院の院長となった。1949年(昭和24年)精神薄弱児施設(現障害児入所施設)育心寮を、1950年(昭和25年)救護施設育心寮を開設。
八田 貞義(はった さだよし、1909年9月8日 - 198… 八田 貞義(はった さだよし、1909年9月8日 - 1986年12月20日)は、日本の政治家。位階は従三位。 自由民主党衆議院議員(9期)。 現在の福島県会津若松市出身。父は陸軍省参与官などを務めた八田宗吉。会津中学を経て1933年に日本医科大学を卒業後、東京市衛生試験所医学部長、厚生省国立衛生試験所細菌部長、日本医科大学教授を経て、1955年の第27回衆議院議員総選挙に自由党公認で福島2区から立候補し初当選。以後通算当選9回。恩給問題に詳しく、予算編成では党の実力者として恩給予算の適正化に尽力した。 自由民主党では池田→前尾→大平派に所属し、1962年には第2次池田内閣第2次改造内閣において内閣官房副長官を務めるなどしたが、1963年に同一選挙区から初当選した伊東正義が大平正芳の古くからの親友であったため、以降伊東に地盤を切り崩されるようになる。
指田 吾一(さしだ ごいち、1909年〈明治42年〉 - 1… 指田 吾一(さしだ ごいち、1909年〈明治42年〉 - 1969年〈昭和44年〉3月24日)は、日本の医師、政治家。東京都田無市(現在の西東京市)長を務めた(2期)。 熊本県宇土市出身。日本医科大学を卒業した。戦時中は軍医として活動する。1945年、広島で原子爆弾により被爆する。この時の被爆体験を記録し、後日『原爆日記』として出版した。1953年12月、東京都北多摩郡田無町で開業する。1962年、田無町長に就任した。田無町は東京のベッドタウンとして人口が急増し、町長2期目の1967年に田無町は市制施行した。教育施設の整備のほか、急増する人口にともない、ゴミや屎尿の処理が大きな問題となり、市内に屎尿処理場を建設することを決定した。
山口 久吉(やまぐち ひさきち、1892年5月24日 - 1… 山口 久吉(やまぐち ひさきち、1892年5月24日 - 1968年5月20日)は、日本の医師、弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。日本医学校(現・日本医科大学)に学び、1920年、明治大学法律科を卒業する。医師となり、警視庁検疫医員、長谷川病院勤務、仁寿生命保険(株)審査医となる。精工塗料(資)代表社員、東洋青果市場(株)取締役、東京都指圧師会長を務める。弁護士の業務に従事し、東京市議、東京都議となった。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において東京7区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。1936年の第19回衆議院議員総選挙で当選した。1937年の第20回衆議院議員総選挙では昭和会から立候補したが落選した。
松坂 義正(まつざか よしまさ、1888年〈明治21年〉7月… 松坂 義正(まつざか よしまさ、1888年〈明治21年〉7月12日 - 1979年〈昭和54年〉11月13日)は、日本の皮膚科・泌尿器科医師、政治家。広島県医師会会長。日本赤十字社理事。医学博士。広島市名誉市民。広島市会議長(21代、22代)。広島市会副議長(28代)。 宮城県仙台市出身。松坂佐兵衛の長男。1908年(明治41年)、日本医学校(現・日本医科大学)卒業。同年11月より1912年(明治45年)3月まで東大医学部専攻生。1929年(昭和4年)11月より1934年(昭和9年)3月まで東大医学部研究生。 1912年(明治45年)3月、広島県警察医。1915年(大正4年)、開業する。1921年(大正10年)、広島市会議員に当選する。
増島 徳(ますじま とく、1886年(明治19年)1月29日… 増島 徳(ますじま とく、1886年(明治19年)1月29日 - 1965年(昭和40年)6月21日)は、日本の医師、政治家。 奥富村(現・狭山市)出身。1909年、日本医学校(現日本医科大学)を卒業。1920年、飯能町(現・飯能市)に病院を創設した。戦後、飯能町議会議員に当選、公約の学校給食の実施を行った。1949年、細田栄蔵に替わり町長に就任したが、元加治分村問題を受け、1952年に辞任した。 1958年、飯能市長選に出馬したが、現職の町田右之亮に敗れた。1962年、飯能市長に無投票当選。公約の下水道と終末処理場の建設を行った。在職中の1965年6月21日に79歳で急死した。 菊作りと蘭の栽培でも知られる。
小俣 政一(おまた まさいち、1879年(明治12年)3月1… 小俣 政一(おまた まさいち、1879年(明治12年)3月1日 - 1933年(昭和8年)9月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。医師。 山梨県北都留郡賑岡村(現在の大月市)出身。1900年(明治33年)、済生学舎を卒業。東京小児科婦人科院を開業し、東京府医師会理事を務めた。東京府会議員、同参事会員、東京市会議員、同参事会員を歴任。また『江東公論』の主筆を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙(東京府第4区)に出馬し、当選。第17回でも再選を果たした。 1931年(昭和6年)、東京市疑獄事件(板舟権疑惑・青物市場疑惑等)により東京地方裁判所で懲役2ヵ月・追徴金1200円の判決を受けたが、翌年に東京控訴院で無罪判決が下った。
八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9… 八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9日 - 1938年(昭和13年)1月16日)は、日本の政治家、実業家、陸軍軍人である。幼名は吉之丞。立憲政友会所属の衆議院議員。馬議員、鉄道代議士、百姓代議士などの異名があった。 日本医科大学教授で衆議院議員の八田貞義は息子。 福島県河沼郡日橋村(現・会津若松市)出身。福島中学を経て、陸軍軍人となり歩兵大尉まで進級している。故郷である日橋村村長となったのが政治家としての第一歩で、県会議員、参事会員を歴任。実業家としては福島県農工銀行、只見川水力電気、日本化学工業、会津電力の役員を務めている。 1917年(大正6年)福島二区から衆議院議員に初当選。
山田 永俊(やまだ えいしゅん、明治5年10月13日(187… 山田 永俊(やまだ えいしゅん、明治5年10月13日(1872年11月13日) – 昭和31年(1956年)9月24日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。医師。漢詩人。 岐阜県本巣郡七郷村(現在の岐阜市)出身。済生学舎で学び(現・日本医科大学)、1895年(明治28年)に医術開業試験に合格。1901年(明治34年)に岐阜市に眼科医院を開業した。1913年(大正2年)より岐阜市会議員に選ばれ、議長にも選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、岐阜県医師会長、同保険部長、日本医師会理事、同副会長、岐阜脳病院理事長などを務めた。 また五洋と称し漢詩を善くした。
木村 清治(きむら せいじ、1870年9月10日(明治3年8… 木村 清治(きむら せいじ、1870年9月10日(明治3年8月15日)- 1961年(昭和36年)1月25日)は、明治から昭和前期の医師、政治家、実業家。衆議院議員。 陸奥国磐前郡、のちの福島県磐前郡大浦村(石城郡大浦村、四倉町を経て現いわき市四倉町)で、木村玄策の二男として生まれる。1890年(明治23年)済生学舎(現日本医科大学)を卒業。医術開業試験に合格し、1893年(明治26年)に帰郷して医院を開業した。 1911年(明治44年)福島県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務めた。大浦村会議員、石城郡会議員にも在任した。1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙(福島県第3区、立憲政友会公認)で初当選し、1930年(昭和5年)2月の第17回総選挙(福島県第3区、立憲政友会公認)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
岩崎 宗茂助(いわさき そもすけ、1865年5月6日(慶応元… 岩崎 宗茂助(いわさき そもすけ、1865年5月6日(慶応元年4月12日)- 1941年(昭和16年)2月23日)は、明治から昭和前期の医師・政治家・実業家。衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡志布志郷野井倉村(現・鹿児島県志布志市有明町野井倉)で、岩崎宗之助、ケサヨの長男として生まれる。都城の坂本陽斉から漢方医学を学び、東京医学専門学校済生学舎で学ぶ。1885年(明治18年)第6師団に衛生兵として入隊。1891年(明治24年)に帰郷し志布志村で医師を開業する。日清戦争に衛生兵として出征し、日露戦争にも従軍し陸軍三等軍医となる。 囎唹郡医師会長、鹿児島県産業組合連合会理事、志布志漁業、志布志醸造各 (株) 社長、志布志無尽、志布志倉庫運送各 (株) 取締役を歴任する。
西島 英利(にしじま ひでとし)は、日本の政治家、精神科医。… 西島 英利(にしじま ひでとし)は、日本の政治家、精神科医。北九州市にある医療法人財団小倉蒲生病院理事長。自由民主党所属の元参議院議員(1期)。 宮崎県立日南高等学校を経て日本医科大学卒業後、福岡県内の大学病院での勤務を経て小倉蒲生病院勤務となる[要出典]。やがて病院開設者の婿養子となり、1984年(昭和59年)に理事長職を継いだ[要出典]。その後は地元医師会の幹部を歴任し、1998年(平成10年)より日本医師会常任理事[要出典]。 2004年(平成16年)7月、第20回参議院議員通常選挙に比例区から立候補し初当選。当選後は、現役の医師議員として厚生労働関係を中心に活動した。2010年(平成22年)7月11日の第22回参議院議員通常選挙にも再選を目指し、日本医師連盟と各地の医師政治連盟からの推薦を集め立候補したものの、前年の第45回衆議院議員総選挙で落選した人物などが多数立候補し、特に党内でトップ5を女性が占めていた状況で、知名度不足のため個人票を集めることができず落選した。