村松 定孝(むらまつ さだたか、1918年6月17日 - 2… 村松 定孝(むらまつ さだたか、1918年6月17日 - 2007年10月5日)は、日本の国文学者。上智大学名誉教授。専門は近代文学。長男は名城大学人間学部教授の村松定史。 山梨県西八代郡市川大門町(現在の市川三郷町)生まれ。1941年、早稲田大学国文科卒。泉鏡花に心酔し、卒業論文の段階から鏡花本人を訪ね、親しく話を聞いた。戦争をはさんで、1949年、早稲田大学大学院博士課程修了、獨協学園高校教諭、1957年昭和女子大学講師、1960年助教授、教授を経て、1968年、上智大学教授、1989年に定年退職。 鏡花研究の権威で、その著書『泉鏡花』は何度も改訂再版されている。ほかに樋口一葉など女性作家も扱い、実証的な手法での研究で知られる。
山崎 清(やまざき きよし、1918年5月9日 - )は、日… 山崎 清(やまざき きよし、1918年5月9日 - )は、日本の経済学者・経営学者。 東京生まれ。早稲田大学法学部仏法学科卒。三菱経済研究所、貿易研修センター勤務、東洋大学経営学部教授。89年杏林大学教授。
伊藤 毅(いとう たけし、1918年5月3日 - 1999年… 伊藤 毅(いとう たけし、1918年5月3日 - 1999年9月11日)は日本の音響工学者。 1964年東京オリンピックの開・閉会式の音響をまとめた功績等が評価され、NHK放送文化賞などを受賞した。
本明 寛(もとあき ひろし、1918年5月1日 - 2012… 本明 寛(もとあき ひろし、1918年5月1日 - 2012年12月6日)は、日本の心理学者、早稲田大学名誉教授。 神奈川県川崎市生まれ。1941年早稲田大学文学部心理学科卒業。1945年早稲田大学助教授、教授。1960年「刺激効果と認知特徴による自我機能診断の方法に関する研究」で早稲田大学文学博士。1989年定年退職、名誉教授。1983年紫綬褒章を受章。1988年11月勲三等旭日中綬章を受章 日本心理学会理事長(1983年 - 1989年)を務め、1988年には日本健康心理学会を創設して20年にわたり理事長を務めた。このほか、NPO健康心理教育実践センター理事長、日本認定心理士会顧問、日本心理職協会・現代QOL学会永世名誉顧問などを歴任した。
熊埜御堂 英二(くまのみどう えいじ、1918年4月26日 … 熊埜御堂 英二(くまのみどう えいじ、1918年4月26日 - 2011年4月4日)は、日本の経営者。三和酒類社長を務めた。大分県宇佐市出身。 1944年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、1947年に特別調達庁福岡支局に入庁。1949年に家業の酒造業を引き継ぎ、1958年に三和酒類を創立し、社長に就任。1978年に会長に就任し、1989年に名誉会長を経て、1999年には相談役に就任。 2011年4月4日心筋梗塞のために死去。92歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
倉田 文作(くらた ぶんさく、1918年4月17日 - 19… 倉田 文作(くらた ぶんさく、1918年4月17日 - 1983年1月23日)は、日本の仏像学者。 千葉県安房郡生まれ。父は画家・倉田重吉。長野県立上田中学校を経て1940年青山学院文学部英文科卒業、1942年早稲田大学文学部文学科卒業、1944年東洋美術国際研究会嘱託。 1945年文部省社会教育局嘱託、1947年国立博物館に入り、調査課嘱託を経て、1948年文部技官、1950年文化財保護委員会事務局美術工芸課彫刻部勤務。1959年彫刻部主査、1964年文化財調査官、1966年事務局美術工芸課長、1969年東京国立博物館学芸部長に転じる。1972年文化庁文化財保護部文化財鑑査官、1975年奈良国立博物館長に就任、1981年博物館振興の功績により文部大臣より表彰を受け、1983年従四位に叙せられ勲二等瑞宝章を受章した。
利根 一郎(とね いちろう、1918年〈大正7年〉4月15日… 利根 一郎(とね いちろう、1918年〈大正7年〉4月15日 - 1991年〈平成3年〉12月16日)は昭和期の作曲家。本名:恩田 良武。 朝鮮で生まれた。本籍は群馬県邑楽郡明和町で、同地に本家と先祖の墓がある。 早稲田大学政経学部中退。 1942年(昭和17年)ポリドール・レコードに入社。その後キングレコードを経てビクターに所属。1947年(昭和22年)、「星の流れに」が大ヒット。作曲家人生49年で1200余曲を作曲する。1966年(昭和41年)、「霧氷」にて第8回日本レコード大賞を獲得。 日本作曲家協会理事を務めた。1990年(平成2年)、勲四等瑞宝章受章。 1991年(平成3年)12月16日死去。
大西 尹明(おおにし ただあき、1918年4月3日 - 20… 大西 尹明(おおにし ただあき、1918年4月3日 - 2001年6月5日)は、日本の翻訳家。 東京出身。早稲田大学英文科卒業、戦後、明治大学政治経済学部教授を務めた。 1968年に川瀬広保らが創設した明治大学SF研究会の会長。レイ・ブラッドベリ『ウは宇宙船のウ』、H・P・ラブクラフトの作品などSF、怪奇小説の翻訳で知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
室 淳介(むろ じゅんすけ、1918年3月17日 - 200… 室 淳介(むろ じゅんすけ、1918年3月17日 - 2000年11月16日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 兵庫県生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒業。早大教授、1988年定年、名誉教授。
汐ノ海 運右エ門(しおのうみ うんえもん、1918年3月1日… 汐ノ海 運右エ門(しおのうみ うんえもん、1918年3月1日 - 1983年7月18日)は、兵庫県印南郡(現:兵庫県姫路市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は岸本 忠夫(きしもと ただお)。最高位は西大関。得意手は右四つ、寄り、筈押しなど。現役時代の体格は180cm、113kg。 1918年3月1日、兵庫県印南郡(現:兵庫県姫路市)で生まれた。小学生の頃から体格が良く腕力も強かったことから、大人と同じ塩田作業に従事していたが、岸本少年の素質を見出した同郷の好角家に笠置山勝一を紹介され、出羽海部屋へ入門した。笠置山は当時としては珍しい大学出身(早稲田大学)のインテリ力士で、当時の出羽海部屋では「打倒双葉」を合言葉に双葉山の連勝を止めるための研究・対策を繰り広げていた。
有馬 頼義(ありま よりちか、1918年〈大正7年〉2月14… 有馬 頼義(ありま よりちか、1918年〈大正7年〉2月14日 - 1980年〈昭和55年〉4月15日)は、日本の小説家。中間小説、社会派推理小説の分野で活躍した。旧・筑後国久留米藩主有馬家の第16代当主。 伯爵有馬頼寧の三男として東京市赤坂区青山(現・東京都港区青山)に生まれる。母貞子は北白川宮能久親王の第2王女。 頼寧の母・寛子(頼義の祖母)は岩倉具視の五女。頼義の妹の澄子は足利惇氏の妻。姉の正子は亀井茲建の妻であり、衆議院議員亀井久興は甥にあたる。 兄2人の早世と病弱により早くから伯爵家を嗣ぐことを決められる一方、有馬家と母の実家・北白川宮家の複雑な家庭環境を肌で感じる多感な幼少期を過ごした。
岩井 慶光(いわい よしみつ、1918年2月6日 - 198… 岩井 慶光(いわい よしみつ、1918年2月6日 - 1983年11月2日)は、日本の英語学者。 名古屋生まれ。東海中学校卒、1940年早稲田大学文学部英文科卒、44年まで兵役で北支那などに転戦。岐阜県立恵那中学校、高等学校などの教諭、1957年鳥取大学講師、助教授、1961年愛知学院大学教養部助教授、66年教授。65歳で死去。恵那中学校で亀井俊介を教えた。
渡邊 睦裕(わたなべ むつひろ、1918年1月18日 - 2… 渡邊 睦裕(わたなべ むつひろ、1918年1月18日 - 2003年4月1日)は、大日本帝国陸軍の軍人。近衛歩兵第一連隊所属。最終階級は軍曹、ポツダム曹長。 捕虜監視員として東京俘虜収容所本所(大森)、第四分所(新潟県直江津)、第十二分所(長野県満島)に勤務。日本軍によって捕らえられた戦争捕虜を虐待していたことで知られる。捕虜たちから「ザ・バード(the Bird)」とあだ名されていた。敗戦後、戦犯として指名手配されるが、連合国軍による占領終結まで逃げ延び、起訴されることはなかった。 6人兄弟の4番目として、ホテルや鉱山を経営する豊かな家に生まれる。早稲田大学に進学し、フランス文学を専攻。卒業後、徴兵されるまでの1か月間、同盟通信社に勤務していた。
金 周黙(キム・ジュムク、朝鮮語: 김주묵/金周默、1918… 金 周黙(キム・ジュムク、朝鮮語: 김주묵/金周默、1918年1月14日または1920年 - 1988年11月8日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第4代韓国国会議員。 本貫は旧安東金氏。号は東石(トンソク、동석)。ジャーナリストの金相範は父、学者で元保健福祉部次官の金学黙は兄、演出家・プログラムディレクターの金在衡と金在衍、実業家の金在徽は甥。 日本統治時代の忠清北道陰城郡出身。京城公立高等普通学校、早稲田大学法学部卒。1958年の第4代総選挙では民主党の候補として陰城郡選挙区から出馬し当選したが、4・19事件の直前に自由党に鞍替えし、5・16事件の後にまた野党側に戻った。他には国務総理秘書官、韓国日報政治部長、朝鮮日報政治部長、民主党中央委員、大韓証券協会常勤副会長などを務めた。
北條 誠(ほうじょう まこと、1918年1月5日 - 197… 北條 誠(ほうじょう まこと、1918年1月5日 - 1976年11月18日)は、日本の小説家、劇作家。 東京生まれ。1934年旧制府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)を四修で卒業。1940年早稲田大学国文科卒。出征ののち、1943年東亜交通公社勤務。川端康成に師事し、1940年『埴輪と鏡』で芥川賞候補。戦後、鎌倉文庫に入社、編集をおこなう。1946年『寒菊』『一年』で野間文芸奨励賞受賞。1947年(昭和22年)、ラジオドラマ『向う三軒両隣』の脚本を八住利雄、伊馬春部、北村寿夫とともに交代で執筆。終戦直後の民主的で明るい人間関係を描くホームドラマは人気番組となった。1953年(昭和28年)『白扇』で直木賞候補。
中村 太郎(なかむら たろう、1918年1月2日 - 201… 中村 太郎(なかむら たろう、1918年1月2日 - 2011年4月22日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)、労働大臣(第50代)。 山梨県東山梨郡勝沼町(現甲州市)出身。1941年、早稲田大学法学部を卒業。第二次世界大戦に陸軍主計大尉として満洲へ出征。 1950年、峡東貨物株式会社社長に就任し、山梨市教育委員会委員長などを歴任。1959年、山梨県議会議員に当選し4期務めた。その間、自由民主党山梨県支部連合政調会長、同議員団会長、県議会議長などを歴任。 1974年7月の第10回参議院議員通常選挙に山梨県選挙区から自由民主党公認で立候補し当選。以後、第12回、第14回参議院議員通常選挙で再選され3期務め、1992年7月の第16回参議院議員通常選挙には出馬せず引退した。
田沢 吉郎(たざわ きちろう、1918年1月1日 - 200… 田沢 吉郎(たざわ きちろう、1918年1月1日 - 2001年12月12日)は、日本の政治家。位階は正三位。 自由民主党所属の衆議院議員。青森県南津軽郡田舎館村出身。姓のうち「沢」の戸籍上の表記は「澤」。 津島文治元青森県知事の娘婿で、1947年、29歳で青森県議会議員に初当選。1960年、「津軽のケネディ」を名乗って衆議院議員選挙に立候補し、初当選。以来12回連続当選(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・亀岡高夫・仮谷忠男・細田吉蔵・小沢辰男・佐々木義武・谷垣専一・久保田円次・伊藤宗一郎・田川誠一・藤井勝志など)。 自民党内では宏池会(池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)に属し、衆議院議院運営委員長、国土庁長官、自民党国会対策委員長、農林水産大臣、防衛庁長官などを歴任。
米川 信夫(よねかわ のぶお、1918年(大正7年) - 2… 米川 信夫(よねかわ のぶお、1918年(大正7年) - 2008年(平成20年))は、日本の翻訳家。
西川 博夫(にしかわ ひろお、1918年 - 1944年7月… 西川 博夫(にしかわ ひろお、1918年 - 1944年7月3日)は、日本の元アマチュア野球選手。埼玉県出身。ポジションは外野手。 浦和中学(現・埼玉県立浦和高等学校)在学中は、甲子園に2回(春2回〈1935年、1937年〉)出場した。浦和中は1935年春には、初出場(埼玉県内では川越中学〈現・埼玉県立川越高等学校〉に次いで2番目の出場)ながらベスト8に入る活躍を見せたが、1937年春の大会では初戦(3月29日)の対・滝川中学〈現・滝川中学校・高等学校〉戦で0-27という大敗を喫した。 1938年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦にも出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年7月3日、中国北支・石門の陸軍病院にて戦病死した。
永丘智郎(ながおか ちろう、1918年-1986年7月6日)… 永丘智郎(ながおか ちろう、1918年-1986年7月6日)は、日本の心理学者。 早稲田大学文学部心理学科卒、同大学院修了、関東学院大学助教授、甲南大学文学部教授をへて、聖徳栄養短期大学教授を務めた。
山岡 康人(やまおか やすひと、1917年12月21日 - … 山岡 康人(やまおか やすひと、1917年12月21日 - 1963年10月24日)は、日本の経営者。ヤンマーディーゼル社長を務めた。創業者山岡孫吉の長男。 大阪府大阪市出身。1942年に早稲田大学政治経済学部を卒業。1943年9月に25歳で取締役に就任し、1945年3月に山岡内燃機副社長、1961年7月にヤンマー農機社長を歴任し、山岡孫吉をサポートし、会社を牽引していた。組織体制の強化を図り、新規事業への進出と海外事業の再編などにも取り組み、中でも小型貨物自動車の開発に意欲を見せ、臨時車輌部を新設し、1958年5月には「ヤンマーポニー」の愛称で知られる小型ディーゼルエンジンを搭載した農用作業車を世に送り出した。
山崎 剛太郎(やまさき こうたろう、1917年12月16日 … 山崎 剛太郎(やまさき こうたろう、1917年12月16日 - 2021年3月11日)は、日本の詩人、フランス文学の翻訳家。 福岡県福岡市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。在学中加藤周一、福永武彦らの『マチネ・ポエティク』同人となり、卒業後外務省勤務を経て東宝東和に入社し、『大いなる幻影』など多数のフランス映画の字幕翻訳を行う。調布学園女子短期大学教授、早稲田大学講師を歴任した。1979年、フランス政府より芸術文化勲章シュヴァリエを受勲。1990年、フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受勲される。 2021年3月11日、肺炎のため東京都港区内の病院で死去。103歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
佐藤 泰正(さとう やすまさ、1917年11月26日 - 2… 佐藤 泰正(さとう やすまさ、1917年11月26日 - 2015年11月30日)は、山口県出身の日本近代文学研究者・文芸評論家。学位は、文学博士(早稲田大学)。元梅光学院大学学長。 山口県生まれ。1934年(昭和9年)に山口県立豊浦中学校4年修了、第一早稲田高等学院を経て、1940年(昭和15年)に早稲田大学文学部卒業。早稲田大学より文学博士の学位を取得。 梅光女学院大学教授、副学長、学長を歴任。磯田光一を専任教員に迎えて大学院の設置に尽力し、詩人の北川透を客員教授に迎えるなどして、西日本における日本近代文学研究の拠点を作り、学長に就任した1972年から梅光女学院大学公開講座を行い、毎年論集を刊行した。
樫尾 忠雄(かしお ただお、1917年(大正6年)11月26… 樫尾 忠雄(かしお ただお、1917年(大正6年)11月26日 - 1993年(平成5年)3月4日)は、日本の実業家。カシオ計算機の創業者である。 高知県長岡郡久礼田村(現・南国市)出身。1923年に一家で東京に移り、旋盤工を皮切りに機械・道具製作の道に進む。その間に早稲田工手学校(現・早稲田大学)にも在籍した。 1946年、東京都三鷹市に樫尾製作所を創業。すぐ下の弟である俊雄が逓信省を退官して参加。俊雄の考案した「指輪パイプ」(喫煙補助具)がヒットしてできた資金を元に電気式計算機の開発を開始、俊雄の弟である和雄と幸雄も加わって1957年に商品化に成功し、同年カシオ計算機が設立される(初代社長は忠雄ら兄弟の父である樫尾茂(1898〜1986))。
丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 -… 丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 - 1999年)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、演出家、文筆家である。脚本家としての筆名に栄町 はじめ(さかえまち はじめ)がある。日本映画監督協会元会員、日本放送作家協会会員、日本脚本家連盟信託者。専修大学文学部講師、シナリオ・センター講師を歴任した。黒澤明の『生きる』、『生きものの記録』でチーフ助監督を務めたことでも知られる。 1917年(大正6年)11月17日、三重県多気郡下御糸村(現在の同県同郡明和町)に生まれる。のちに三重県立松阪高等学校の教諭を務めた丸林勝人(1921年 - 2010年)は実弟。 1937年(昭和12年)3月、早稲田第二高等学院(現在の早稲田大学高等学院)を卒業、同年4月には旧制早稲田大学文学部国文科(現在の早稲田大学文学部日本語日本文学コース)に進学、当時の恩師に河竹繁俊(1889年 - 1967年)がいた。
浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1… 浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1985年5月26日)は、千葉県印旛郡成田町成田(現在の成田市本町)出身の野球選手、実業家、馬主。早稲田大学在籍時には「100万ドルの名外野手」と謳われた。 旧制成田中学校を経て1935年に早稲田大学に入学した。全国中等学校優勝野球大会での実績がないなか同大学の野球部に入部し、中堅手としてレギュラーに選出された。1938年に早稲田大学専門部商科を卒業。1939年には現役の選手でありながら、唐津中学の監督に就任。これは、同校野球部の強化を望んでいた学校関係者が、同校卒業生で当時早大野球部に在籍していた下尾勝馬を通しての依頼であるという。当初は1週間ほどの予定であったが、指導に熱が入ったため、最終的には45日間にもわたる熱心な指導となった。
大柴 滋夫(おおしば しげお、1917年(大正6年)11月1… 大柴 滋夫(おおしば しげお、1917年(大正6年)11月11日 – 1998年(平成10年)11月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、社会民主連合副代表。 山梨県北巨摩郡小淵沢村(現北杜市)生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。故郷の貧しい農村の状況を見て社会主義革命による変革を望み、1945年に日本社会党に入党。社会党が左右に分裂した際は左派社会党に所属した。以後党本部書記の地位に15年間あった他、中央執行委員・組織部長・総務部長などを歴任する。 1953年の第26回衆議院議員総選挙から旧東京2区(定数3)で立候補し、1960年の第29回衆議院議員総選挙で初当選。1963年の第30回衆議院議員総選挙では、自由民主党の菊池義郎、宇都宮徳馬を抑えトップ当選(大柴の当選により、割を食う形で社会党のベテラン加藤勘十が次点で落選した)。
田村 良平(たむら りょうへい、1917年10月13日 - … 田村 良平(たむら りょうへい、1917年10月13日 - 1995年12月16日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(7期)。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。元自民党参議院議員の田村公平は長男。 高知県土佐山田町(現香美市)で、政治家・田村實、淑美の三男として生まれる。1940年早稲田大学政治経済学部卒。1947年に高知県議に初当選。5期務めた。1963年の第30回衆議院議員総選挙で吉田茂元首相の後継者として高知県全県区から立候補し当選する(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・藤尾正行・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮など)。
中部 新次郎(なかべ しんじろう、1917年10月9日 - … 中部 新次郎(なかべ しんじろう、1917年10月9日 - 没年不明)は、プロ野球チーム・横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の元オーナー。 山口県下関市出身。早稲田大学専門部商科を経て、1942年に水産講習所を卒業後、大洋漁業の前身である林兼商店に入社。大洋漁業下関支社営業部長、営業本部長などを歴任し、1973年から副社長を務めた。中部謙吉の死去に伴い、1977年から横浜大洋ホエールズのオーナーに就任した。 1987年に古葉竹識が監督に就任し、その披露パーティーでたけし軍団に因んで、「竹識軍団となってばく進せよ!」とスピーチした。 1990年のシーズンをもって、オーナーを退任。 同社の軟式野球部で投手、遊撃手としてプレーしたことがある。
中居 英太郎(なかい えいたろう、1917年(大正6年)9月… 中居 英太郎(なかい えいたろう、1917年(大正6年)9月27日 - 2007年(平成19年)1月2日)は、政治家。元日本社会党衆議院議員。岩手県宮古市出身。 1935年、岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒。早稲田大学に入るが中退する。中退後は帰郷し、家業の(株)中居製材所を継ぎ、社長となる。戦後、日本社会党に入党し、1947年、岩手県議会議員に当選し、2期務める。その後、石川金次郎の後継として1953年の衆議院議員選挙に当時の岩手1区から右派社会党公認で出馬し初当選。2期務めた後に民主社会党に参加し、1970年から1974年、1989年から1993年まで通算2期、地元の宮古市長を務めた。
遠藤 忠二郎(えんどう ちゅうじろう、1917年9月20日 … 遠藤 忠二郎(えんどう ちゅうじろう、1917年9月20日 - 戦死)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手、外野手。 浜松一中(現・静岡県立浜松北高等学校)から早稲田大学に進学。1936年に早大を中退して、大東京の結成に参加。投手で入団したが、当時の大東京軍は弱小球団かつ選手不足だったため、野手との二刀流で試合に出場する事となった。1936年秋季シーズン、大東京は5勝21敗2引き分け(うち16連敗〈1リーグ時代の最多連敗記録〉がある)と悲惨な成績だったが、遠藤はエースとして活躍。4勝5敗、防御率3.03とチームの勝ち頭の成績を残した(このシーズンの大東京の投手では、他に桜井七之助しか勝ち星を挙げた投手はいなかった)。
松島 栄一(まつしま えいいち、1917年8月24日 - … 松島 栄一(まつしま えいいち、1917年8月24日 - 2002年12月12日 )は、日本の歴史学者。元大東文化大学教授。歴研・民科・歴教協等で活躍。 大阪府大阪市天王寺区に生まれる。1924年に大阪市立天王寺第五尋常小学校(現在の大阪市立五条小学校)、1930年に灘中学校、1935年に早稲田高等学院、1937年に早稲田大学文学部史学科にそれぞれ進学。大学在学中、教えを受けた津田左右吉に大きく傾倒する。 大学卒業の1940年、花見朔巳の勧めで東京帝国大学史料編纂所に勤務。当時の東京帝国大学国史研究室は平泉澄によって支配されていたが、その影響が及ばず実証主義をかたく守っていた史料編纂所に就職し、そこで家永三郎や遠山茂樹と同僚となったことは、その後に大きな影響を与えた。
宮谷 重雄(みやたに しげお、1917年(大正6年)8月22… 宮谷 重雄(みやたに しげお、1917年(大正6年)8月22日 - 1991年(平成3年)3月6日)は日本の建築家、建築積算士。建築積算設計事務所の二葉積算を創設。元日本積算協会会長。旧満州・大連生まれ。昭和30年代から積算業を日本に根付かせ、また英国の積算士(QS:w:Quantity surveyor)の業務を日本に広く紹介した人物。 父親は南満州鉄道大連駅助役。この関係で、内地(日本本土)に渡るまで旧満州で暮らす。 1935年(昭和10年)、早稲田大学理工学部建築学科に入学。同級生には吉阪隆正がいる。 1941年(昭和16年)、大学卒業。満州拓殖公社建築技師補になるが、程なくして応召して騎兵集団隷下の工兵中隊に配属される。
磯部 俶 (いそべ とし、1917年〈大正6年〉7月24日 … 磯部 俶 (いそべ とし、1917年〈大正6年〉7月24日 - 1998年〈平成10年〉11月25日)は、日本の合唱指揮者、作曲家である。東京都大田区大森生まれ。NHK交響楽団で長く首席クラリネット奏者を務めた磯部周平は子息。元学習院長の磯部忠正は兄。 早稲田大学文学部芸術学科を卒業。在学中から平尾貴四男に作曲を学び、15年間早稲田大学グリークラブの専任指揮者を務め、共立女子大学合唱団・いそべとし男声合唱団・フレーベル少年合唱団など、多くの合唱団の指導に当たった。1955年、新しい子供の歌の創作活動「ろばの会」を大中恩、中田喜直らと結成し、数々の賞を受賞した。 後半生は神奈川県藤沢市鵠沼に住み、「湘南コールグリューン」を指導し、福永陽一郎に協力して藤沢市民オペラを発足させるなど、地域文化の向上に努めた。
中村 浩三(なかむら こうぞう、1917年(大正6年)7月1… 中村 浩三(なかむら こうぞう、1917年(大正6年)7月10日 - 2008年(平成20年))は、日本のドイツ文学者、翻訳家、早稲田大学名誉教授。 島根県生まれ。1944年早稲田大学文学部独文科卒。早稲田高等学校講師、1951年早稲田大学理工学部助教授、1957年教授、1968 - 1974年語学教育研究所長、1988年定年退任、名誉教授。 1991年『少年ルーカスの遠い旅』で産経児童出版文化賞受賞。ドイツの児童文学を多く訳し、『大どろぼうホッツェンプロッツ』三部作がロングセラーとなっている。
安藤彦太郎(あんどう ひこたろう、1917年(大正6年)6月… 安藤彦太郎(あんどう ひこたろう、1917年(大正6年)6月14日 - 2009年(平成21年)10月27日)は、日本の日中関係史学者、早稲田大学名誉教授。 1917年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業。 「中国の会」は、尾崎秀樹が普通社主宰で1960年ごろに立ち上げ、野原四郎、竹内好、橋川文三、安藤、新島淳良、今井清一らをメンバーとした。 早稲田大学政経学部教授を務め、文化大革命の際は新島淳良や野村浩一とともにこれを礼賛した。1988年に定年退任、名誉教授となった。また、日中学院長をつとめ、のち名誉学院長。現代中国学会幹事を長く務めた。2009年10月27日、膀胱癌で死去、享年92歳。
佐藤 達郎(さとう たつろう、1917年5月20日 - 19… 佐藤 達郎(さとう たつろう、1917年5月20日 - 1993年1月11日)は、日本の経営者。時事通信社社長を務めた。 東京都出身。1941年に早稲田大学商学部を卒業。佐藤自身によれば関東軍の野戦部隊に一兵卒として参加し、1942年には北満州(当時)の孫呉県で戦闘訓練に従事していたという。1947年9月に時事通信社に入社。1971年7月に代表取締役に就任し、1977年6月に社長に就任。1978年6月に相談役に就任し、1985年6月から顧問を務めた。 また社外では、1983年8月に発足した中曽根康弘の私的諮問機関「平和問題研究会」の座長代理に選ばれている。 1993年1月11日心不全のために死去。
杉浦 重雄(すぎうら しげお、1917年(大正6年)5月10… 杉浦 重雄(すぎうら しげお、1917年(大正6年)5月10日 - 1988年(昭和63年)4月10日)は、日本の競泳選手。静岡県浜松市出身。旧制静岡見付中(現在の静岡県立磐田南高等学校)、早稲田大学専門部政治経済科卒業。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト。
宮﨑 康平(みやざき こうへい、1917年5月7日 - 19… 宮﨑 康平(みやざき こうへい、1917年5月7日 - 1980年3月16日)は、長崎県島原市生まれの古代史研究家、作家、元会社役員。『まぼろしの邪馬台国』によって日本中に邪馬台国論争を巻き起こした。正確な表記は「宮﨑」(「崎」の字は山偏に竒)であるが「宮﨑」と表記出来ない環境が一部存在するので「宮崎」で通すことが多い。以下本項でも「崎」の字を用いる。
岡田 福吉(おかだ ふくよし、1917年4月25日 - 19… 岡田 福吉(おかだ ふくよし、1917年4月25日 - 1944年12月21日)は、愛知県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手)。
田代 喜久雄(たしろ きくお、1917年〈大正6年〉4月22… 田代 喜久雄(たしろ きくお、1917年〈大正6年〉4月22日 - 1993年〈平成5年〉5月14日)は、日本の新聞記者・実業家。朝日新聞社専務を経て、全国朝日放送(テレビ朝日)社長を務めた。熊本県出身。 早稲田大学第一文学部仏文学科卒業。1940年(昭和15年)満州経済社を経て、朝日新聞社に入社。翌年9月応召され、南方で左肩貫通銃創を負い、内地に移送。回復後は鹿児島で本土決戦に備えていて、陸軍中尉で敗戦を迎えた。1945年晩秋、「ただいま、帰りました」と兵隊そのままの挨拶をして、編集局に復帰した。 1954年(昭和29年)に社会部次長に就き、読解力の正しさ、判断力の正しさ、決断の速さ、よく部員の話に耳を傾けることで、このデスクは一躍人気を集め、1959年6月、社会部長に任じられた。
辻井 弘(つじい ひろし、1917年4月21日 - 1993… 辻井 弘(つじい ひろし、1917年4月21日 - 1993年3月17日)は、京都府出身の野球選手。ポジションは一塁手、捕手。
南村 侑広(みなみむら ゆうこう、1917年4月17日 - … 南村 侑広(みなみむら ゆうこう、1917年4月17日 - 1990年4月17日)は、日本のプロ野球選手(外野手)、野球指導者、野球解説者。旧名は不可止(ふかし)。大阪府出身。
安東 勝男(あんどう かつお、1917年(大正6年)4月 -… 安東 勝男(あんどう かつお、1917年(大正6年)4月 - 1988年(昭和63年)1月30日)は、日本の建築家。建築家の傍ら、長く早稲田大学理工学部建築学科で教授として教育に当たる。日本建築学会副会長も務めた。 東京出身。早稲田大学理工学部建築学科卒業。 代表作に早稲田大学51号館、早稲田大学大久保キャンパス、早稲田大学理工学部新館、真野小学校、浅間小学校、T字形の平面をもつ小住宅ほか多数。
坂本 朝一(さかもと ともかず、1917年3月28日 - 2… 坂本 朝一(さかもと ともかず、1917年3月28日 - 2003年12月31日)は、日本の放送人。第12代日本放送協会(NHK)会長。「朝の連続テレビ小説」の生みの親として知られる。 東京都千代田区にある神田明神境内の割烹料理屋「開花楼」の主人・2代目坂本彦平(坂本猿冠者)の子として生まれる。旧制明治中学校から早稲田大学文学部英文学専攻科に進学し、同校を卒業。 1939年にNHKに入局。主にラジオドラマや演芸などの芸能番組を担当。1940年4月にはテレビ実験放送の公開番組として、日本初のテレビドラマである『夕餉前』を演出した。戦後には『二十の扉』『私は誰でしょう』『向う三軒両隣り』などを担当した。
田場 典正(たば てんせい、1917年 <大正6年> 3月2… 田場 典正(たば てんせい、1917年 <大正6年> 3月28日 - 2006年 <平成18年> 11月2日)は、日本の銀行家。琉球銀行頭取を務めた。位階は正五位。 沖縄県出身。1941年に早稲田大学商学部を卒業し、1942年に日本通運を経て、1948年6月に琉球銀行に入行。1972年1月に専務に就任し、1981年6月には頭取に昇格。1985年6月に会長に就任し、1994年6月には取締役相談役に退いた。 1987年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2006年11月2日に肺炎のために死去。89歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
森 英介(もり えいすけ、本名:佐藤重男、1917年3月13… 森 英介(もり えいすけ、本名:佐藤重男、1917年3月13日 - 1951年2月8日)は、日本の詩人。生前はまったく無名であったが、没後に評価されるようになった。 佐藤重男として、1917年(大正6年)3月13日、山形県米沢市に生まれる。1936年(昭和11年)、早稲田大学文学部哲学科に入学するも、1939年(昭和14年)に中退。1940年(昭和15年)、結婚。1941年(昭和16年)に召集され浜松の航空隊に入隊後、青森県三沢基地に転属、病気のため豊橋の陸軍病院に送還され、1943年(昭和18年)に召集解除。長男、次男が生れた後、1945年(昭和20年)の敗戦前に離婚。1946年(昭和21年)9月に総合雑誌『労農』を米沢で創刊(第3号で休刊)。
山本 茂実(やまもと しげみ、1917年〈大正6年〉2月20… 山本 茂実(やまもと しげみ、1917年〈大正6年〉2月20日 - 1998年〈平成10年〉3月27日)は、日本の小説家。非常に寡作な人物であり、代表作「あゝ野麦峠」で日本文学史にその名を刻んだ。 長野県東筑摩郡松本村(現・松本市)に農家の長男として生まれる。松本青年学校に通うが、1937年(昭和12年)に召集され近衛歩兵第3連隊に入る。終戦後は農業に従事し、31歳になってから上京し、早稲田大学文学部哲学科の聴講生となる。青年海外協力隊の専任講師も務めた。 松本市歴史の里に「山本茂実展示コーナー」がある。夫人山本和加子の回想記『「あゝ野麦峠」と山本茂実』(角川学芸出版、2010年)がある。 1998年3月27日死去。
朴 永鍾(パク・ヨンジョン、朝鮮語: 박영종、1917年2月… 朴 永鍾(パク・ヨンジョン、朝鮮語: 박영종、1917年2月19日 - 1959年4月28日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第3代韓国国会議員。 本貫は咸陽朴氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 日本統治時代の全羅南道光州郡出身。早稲田大学政治学部政治科卒。民族陣営の運動を行った後、光州青年団を組織した。解放後は独立促成中央協議会全南支部組織者、外務部書記官、ソウル新聞記者、湖南新聞編集局長、大韓青年団全羅南道団副団長を歴任した。1954年の第3代総選挙では自由党の候補として潭陽郡選挙区から当選し、国会内務委員・予決委員を務めたが、与党内のよくない所を糾弾したため、自由党から除名され民主党に入党した。
吉阪 隆正(よしざか たかまさ、1917年2月13日 - 1… 吉阪 隆正(よしざか たかまさ、1917年2月13日 - 1980年12月17日)は、日本の建築家。 吉阪俊蔵・花子夫妻の長男として東京都文京区(当時は東京市小石川区)に生まれた。父・俊蔵は内務官僚で、母・花子は動物学者として有名な箕作佳吉の次女。従って隆正は箕作阮甫の玄孫にあたる。 1923年、父の勤務先のスイスから一家で帰国して東京百人町に住み、暁星小学校に入学。小学校6年生の終わりに父の転勤でジュネーヴに移住。中学生の頃から父と登山をはじめる。[要出典]中学3年のとき2度目のスイス滞在から単身帰国し、早稲田高等学院に進み、1941年早稲田大学理工学部建築学科を卒業。大学生時代は山岳部で活動し、一年の半分は山で過ごしていた。