蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28… 蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28日 - 1960年(昭和35年)6月6日)は、明治から昭和にかけて活動した日本の歴史地理学者。旧福井藩士家に生まれ、早稲田大学卒業後、東京帝国大学史料編纂掛に所属、次いで越前松平家等華族諸家や帝国学士院の委嘱により歴史調査に携わった。『大日本地誌大系』『大日本読史地図』の編纂や、明治大学蔵蘆田文庫などで知られる。 1877年(明治10年)9月28日、石川県管下越前国足羽郡福井日ノ出下町(旧新屋敷、現・福井県福井市日之出)に、石川県第三師範学校(後の福井師範学校)漢学教授蘆田碩と福井藩士有沢権四郎娘岩子の間の長男に生まれた。1882年(明治15年)9月旭小学校に入学、1891年(明治24年)に福井県尋常中学校(現・福井県立藤島高等学校)に進んだ。
亀井 喜一郎(かめい きいちろう、1877年(明治10年)9… 亀井 喜一郎(かめい きいちろう、1877年(明治10年)9月11日 - 1935年(昭和10年)8月2日)は、日本の銀行家。函館製綿監査役。函館貯蓄銀行支配人・同行取締役。族籍は北海道平民。評論家亀井勝一郎の父。 北海道・工藤嘉七の叔父。1906年、先代亀井ミヤの入夫となり、家督を相続した。東京専門学校(現・早稲田大学)邦語行政科卒業。函館貯蓄銀行支配人をつとめ、1919年に辞任する。北海道函館市元町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
奥村 千太郎(おくむら せんたろう、1877年8月23日 -… 奥村 千太郎(おくむら せんたろう、1877年8月23日 - 1954年5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。1897年、東京専門学校政治経済科卒。大阪朝日新聞記者、同客員となる。中国に渡り、天津取引所常務取締役、天津信託(株)取締役、天津商業会議所評議員となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀4区から無所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1954年に死去した。
鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう、1877年〈明治10年〉… 鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう、1877年〈明治10年〉8月22日 - 1943年〈昭和18年〉8月16日)は、日本の株式相場師、政治家。衆議院議員(群馬県高崎市選出、当選1回)。通称「鈴久」。族籍は東京府平民。 埼玉県北葛飾郡八丁目村(現在の埼玉県春日部市八丁目)に生まれる。鈴木庄五郎の二男。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学ぶ。 実兄の7代目兵右衛門が1897年(明治30年)、埼玉県南埼玉郡越ヶ谷町(現在の埼玉県越谷市)に鈴木銀行を設立し、1903年(明治36年)同銀行草加支店長となった。 海外の経済状態の視察中、香港から急遽帰国して株の買占めに着手し、日露戦争中に株売買で大儲けをし成金鈴木と話題を呼ぶ。
森 一兵(もり いっぺい、1877年6月10日 - 1945… 森 一兵(もり いっぺい、1877年6月10日 - 1945年11月13日)は大正から昭和前期にかけて活動した日本のジャーナリスト、写真家、新聞経営者。 1877年(明治10年)6月、岡山県勝田郡吉野村(現在の勝央町)で新谷英太郎の長男として生まれる。父の英太郎は旧勝北郡の2代目郡長を務め、岡山県立勝間田高等学校の前身校に当たる林園書院、のち勝間田農林学校の創立者として知られる名士であった。その後、父が養子となっていた新谷家から生家の森家へ復したことに伴い、森姓となる。 東京専門学校を卒業後、博文館に入社し『太陽』の記者を務めていたが三井銀行を経て安田財閥持株会社の安田保善社に入り、安田倉庫の大阪支配人に就いた。
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日… 窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員。元早稲田大学教授。文化功労者。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。 草創期の「明星」に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。古典の評釈でも功績が大きい。詩歌集に『まひる野』(1905年)、歌集に『土を眺めて』(1918年)など。 長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。長野県尋常中学校(現長野県松本深志高等学校)から東京専門学校文学科に進学するも、一度中退。代用教員として働いていたときに校長の影響で作歌を始める。
小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6… 小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、日本のジャーナリスト、民俗学研究家、歌人、俳人。名は「ぞん」とも読む。号は粲楼(さんろう)、粲楼学人、烏啼(うてい)。新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市江南区)出身。 1877年、小林祐保・ミン夫妻の末子として生まれる。小林家は代々、新発田藩蒲原横越組の大庄屋を務めた素封家で、郡内の有力地主の一つであった。横越小学校・亀田高等小学校を経て上京し、第一高等学校への進学を目指すが失敗し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学、坪内逍遥に学んだ。また、同校在学中の1894年に蒲原有明、山岸荷葉、林田春潮らと同人誌『落穂双紙』を発刊した。
山宮 鼎(さんぐう かなえ、1877年〈明治11年〉6月5日… 山宮 鼎(さんぐう かなえ、1877年〈明治11年〉6月5日 - 1951年〈昭和26年〉11月6日)は、日本の内務官僚。名古屋市助役。 山形県東置賜郡高畠町出身。米沢藩士の山宮咸一の長男として生まれる。山形中学校出身。1905年(明治38年)、早稲田大学法律科を卒業し、文部属となり普通学務局に配属された。1907年(明治40年)11月、文官高等試験に合格。東京府属、三重県事務官、長崎県事務官、鳥取県警察部長、北海道庁警察部長、栃木県内務部長を経て、1920年(大正9年)に神奈川県産業部長に就任した。その後、内務監察官を経て、1924年(大正13年)に退官した。 その後、名古屋市助役を1927年(昭和2年)まで務めた。
塩谷 鵜平(えんや うへい、1877年(明治10年)5月30… 塩谷 鵜平(えんや うへい、1877年(明治10年)5月30日 - 1940年(昭和15年)12月8日)は、日本の俳人。本名は熊蔵、のちに宇平。別号に芋坪舎、華園など。農業。岐阜県稲葉郡鏡島村(現在の岐阜市)出身。 岐阜県鏡島村の裕福な地主の家に生まれる。塩谷宇平の長男。1898年、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科(現在の政治経済学部)卒業。農業を営む。俳句は中学から詠み始め、当初は正岡子規に師事しホトトギスに投句するも、新傾向俳句に移行していった河東碧梧桐に陶酔し、碧梧桐の門人となる。自身の句誌『壬子集』と合併する形で、碧梧桐が主宰する海紅に参加、自由律俳句を詠むようになる。海紅同人とともに、郷里の岐阜でも『鵜川』『俳薮』などの俳誌を次々と発行、とくに1913年に発行した個人誌『土』は生涯に渡って続けられた。
中村 吉蔵(なかむら きちぞう、1877年5月15日 - 1… 中村 吉蔵(なかむら きちぞう、1877年5月15日 - 1941年12月24日)は、日本の劇作家、演劇研究家。文学博士。早稲田大学教授。 島根県津和野生まれ。後田今市にあった魚屋の岩崎屋に生まれた。大阪に出て為替貯金管理所に勤めるかたわら、雑誌へ小説を投稿する。大阪で高須梅渓らと雑誌「よしあし草」を発行。1899年、作家の広津柳浪を頼って23歳で上京し、東京専門学校(現・早稲田大学〉文学科に入学。在学中から春雨と号して「無花果」など多くの小説を発表。1903年(明治36年)で卒業(27歳)、同年結婚。妻のこうはバイオリニストで晩香女学校などで講師をした。 1906年(明治39年)からアメリカ、ドイツ等で留学し、雑誌記者や日本人倶楽部の文書係などをしながら、演劇を研究する。
碧川 企救男(みどりかわ きくお、明治10年(1877年)4… 碧川 企救男(みどりかわ きくお、明治10年(1877年)4月27日) - 昭和9年(1934年)4月12日)は日本のジャーナリスト。 婦人運動家碧川かたの夫、映画カメラマン碧川道夫の父。 福岡県企救郡小倉町(後の小倉市、その後北九州市小倉区を経て現在は分区により小倉北区)に長崎裁判所小倉区裁判所長碧川真澄、みねの二男として生まれた。父真澄は、もと伊予新谷藩の下級武士。 米子の角盤高等小学校、鳥取中学(現在の鳥取西高等学校)を経て東京専門学校英語政治科(現在の早稲田大学)を卒業。北海道集治監釧路分監出張所(現在の網走刑務所)に行き、そこで一年間生活をした 明治35年(1902年)『小樽新聞』の論説記者になる。
青柳 郁次郎(あおやぎ いくじろう、1877年(明治10年)… 青柳 郁次郎(あおやぎ いくじろう、1877年(明治10年)3月20日 - 1930年(昭和5年)8月18日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県鞍手郡下新入村(のち鞍手郡新入村、現:直方市下新入)で生まれる。1906年、早稲田大学法律科を卒業。農業を営む。 新入村会議員、鞍手郡会議員、福岡県会議員、同参事会員、同副議長、帝国農会議員、鞍手郡農会顧問、鞍手育英会評議員などを歴任。農業視察のためアメリカ合衆国に渡航している。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第十区から立憲政友会所属で出馬して当選。第15回、第17回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた。
野溝 伝一郎(のみぞ でんいちろう、1877年(明治10年)… 野溝 伝一郎(のみぞ でんいちろう、1877年(明治10年)3月1日 - 1947年(昭和22年)8月5日)は、日本の衆議院議員(革新倶楽部)。 長野県上伊那郡東春近村(現在の伊那市)出身。1899年(明治32年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。上伊那農業学校助教諭・舎監を務めた後、東春近村長に選ばれた。さらに東春近村会議員、上伊那郡会議員、同議長、長野県会議員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、南信毎日新聞社社長、財団法人尚志社理事、上伊那信用販売組合理事を務めた。
井上 雅二(いのうえ まさじ、1877年(明治9年)2月23… 井上 雅二(いのうえ まさじ、1877年(明治9年)2月23日(6月23日とする資料もある) - 1947年(昭和22年)6月23日)は、日本のアジア主義者・南進論者・実業家・衆議院議員(中正倶楽部所属)。 兵庫県氷上郡神楽村(現在の丹波市)に足立多兵衛の二男として生まれ、井上藤兵衛の養子となった。海軍兵学校に入るが、大陸に志を抱いて退学した。その後、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学。在学中からアジア主義団体の東亜会に関係し、1898年(明治31年)に東亜会と同文会が合同し、東亜同文会が成立すると、幹事に就任した。1899年(明治32年)に東京専門学校英語政治科を卒業。1900年、清国(中国)で義和団の乱が勃発すると、立憲派(勤王派 / 康有為派)の唐才常による「自立軍」蜂起計画を援助し、東亜同文会による「連邦保全」策に関与した。
角田 柳作(つのだ りゅうさく、1877年〈明治10年〉1月… 角田 柳作(つのだ りゅうさく、1877年〈明治10年〉1月28日 - 1964年〈昭和39年〉11月29日)は、群馬県出身の日本文化の研究者・教育者。コロンビア大学に日本文化研究所を設立し、日本研究コレクションのキュレーターを務めた。日本文学研究者ドナルド・キーンの師として知られる。 1877年(明治10年)1月28日、群馬県勢多郡津久田村(現・群馬県渋川市赤城町津久田)の農家に、父庄作、母ぎんの次男として生まれた。5歳の時父をコレラで失い、祖父の金造と母ぎんに育てられた。1890年4月、群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学したが、1893年10月に退学。 上京して東京専門学校(現・早稲田大学)文学科に入学し、坪内逍遙、アーサー・ロイドの教えを受けた。
薄田 斬雲(うすだ ざんうん、「すすきた ざんうん」とも、1… 薄田 斬雲(うすだ ざんうん、「すすきた ざんうん」とも、1877年(明治10年)1月27日 - 1956年(昭和31年)3月27日)は、日本の小説家・ジャーナリスト。伝記作品を多く残した。本名は貞敬。 青森県弘前町蔵主町(現・弘前市)出身。1895年(明治28年)青森県尋常中学校を経て、1899年(明治32年)に東京専門学校(現・早稲田大学)文学科選科を卒業。京成日報記者を経て早稲田大学出版部編集委員となる。1917年(大正6年)には衆議院議員野田卯太郎、頭山満、子爵で法学博士の田尻稲次郎らの組織した大民団(大民倶楽部)に加わり山田三七郎とともに運営本部の任にあたった。作家としては、デビュー当初は自然主義の影響下にある小説・戯曲・随筆などを発表していたが、徐々に関心のメインは伝記などへ移っていった。
張振武(ちょう しんぶ、1877年 - 1912年8月16日… 張振武(ちょう しんぶ、1877年 - 1912年8月16日)は、清末民初の民主革命家・軍人。武昌起義の主要人物の一人。原名は堯鑫、字は春山、別名竹山として知られる。湖北省羅田県出身だが、後に竹山県に居住した。共和元勲の尊称を持ち、同じく名前に「武」が入る孫武や蔣翊武と併せて「辛亥三武」と呼ばれる。 張振武は湖北省羅田県の裕福な家庭の出身で、後に竹山県に居住した。 沈廷楷、韓孝堅ら地元名士に師事。県の高等学堂卒業後、1900年に湖北師範学校に入学、法律と政治を勉強するために1904年に自費で早稲田大学へ留学、体育を通して軍事訓練に参加した。 1905年に中国同盟会参加。 1907年(光緒33年)卒業後は清に戻り、武昌の黄鶴楼小学校で教鞭をとったが、反清革命を広めたとして、江蘇巡撫陳夔龍(中国語版)に危うく逮捕されるところだった。
野田 正昇(のだ まさのり / せいしょう、1876年(明治… 野田 正昇(のだ まさのり / せいしょう、1876年(明治9年)12月21日 - 1947年(昭和22年)6月11日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、陸軍軍人。衆議院議員、愛知県会議長、愛知県丹羽郡大口村長、陸軍歩兵少尉。 愛知県丹羽郡大屋敷村(太田村、大口村を経て現大口町)で、代々庄屋を務めた野田家当主・野田庄右衛門の長男として生まれる。1886年(明治19年)家督を相続した。陸軍教導団に入団し日露戦争に従軍。陸軍歩兵少尉に進み陸軍幼年学校教官として務め予備役編入となった。1907年(明治40年)早稲田大学専門部法律科を卒業して帰郷し、農業を営む。 丹羽郡養蚕組合長、同桑苗組合長、同農会長、愛知県養蚕業組合連合会長、同耕地協会副会長などを務めた。
藤田 若水(ふじた わかみ、1876年(明治9年)12月11… 藤田 若水(ふじた わかみ、1876年(明治9年)12月11日 – 1951年(昭和26年)12月30日)は、日本の弁護士、衆議院議員(立憲民政党)。司法参与官。広島市長(官選)。早稲田大学評議員。 愛媛県新居郡中荘村大字中村(現在の新居浜市)出身。藤田甸之の四男。 1898年(明治31年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語行政科を卒業。1900年(明治33年)、弁護士試験に合格。 1901年(明治34年)、大阪に弁護士事務所を開き、1903年(明治36年)に広島市に移った。広島では弁護士副会長や弁護士会長を務めた。 広島市会議員、広島県会議員、県参事会員、県会副議長を歴任した後、1927年(昭和2年)の衆議院議員補欠選挙に当選。
長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11… 長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11月26日 - 1940年〈昭和15年〉8月30日)は、20世紀初期に活躍した日本の文芸評論家である。本名は長谷川誠也。 新潟県刈羽郡高浜町出身、柏崎に育つ。高田中学入学後上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、坪内逍遥や大西祝に学ぶ。卒業後は博文館に勤務し、雑誌『太陽』の編集にたずさわる。「小説家と時代精神」を発表し、評論活動にはいる。『太陽』1906年10月に「幻滅時代の芸術」を発表した。その後、『太陽』1908年1月の「現実暴露の悲哀」にいたるまで、自然主義文学を擁護する立場から論陣をはる。 1910年、社命により渡欧してからは評論活動よりも出版者としての活動が主となり、博文館の取締役もつとめた。
赤松 桂(あかまつ かつら、1876年(明治9年)10月5日… 赤松 桂(あかまつ かつら、1876年(明治9年)10月5日 - 1943年(昭和18年)8月26日)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛媛県北宇和郡高光村長、宇和島市長。 愛媛県宇和郡宇和島御殿町(現在の宇和島市)で士族・告森桑圃の四男として生まれ、北宇和郡高光村の旧庄屋・赤松新古の養嗣子となる。1900年(明治33年)東京専門学校(現・早稲田大学)政治科を卒業する。 1910年(明治43年)5月より郷里の高光村長を5期務めたのち、1930年(昭和5年)5月に清家吉次郎の補欠で県会議員となり、任期満了まで務めた。1936年(昭和11年)7月、宇和島市長に就任するが、任期途中の1938年(昭和13年)3月、病気を理由に辞任した。
富田 八郎(とみた はちろう、1876年10月4日 - 19… 富田 八郎(とみた はちろう、1876年10月4日 - 1947年11月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。東京専門学校で学ぶ。酒造業を営む。伊香郡議、同議長、滋賀県議、所得税調査委員、木之本町(現・長浜市)長、伊香相救社理事社長、木之本製糸、滋賀県農工銀行、滋賀県合同貯蓄銀行、江州日日新聞社各(株)取締役、江北銀行取締役頭取、滋賀県酒造組合連合会会長、全国酒造組合連合会評議員、近江信託(株)監査役となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において滋賀県全県区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
埴原 正直(はにはら まさなお、1876年〈明治9年〉8月2… 埴原 正直(はにはら まさなお、1876年〈明治9年〉8月25日 - 1934年〈昭和9年〉12月20日)は、日本の外交官。外務次官、駐アメリカ大使、ワシントン会議全権委員。位階および勲等は正三位・勲一等。洋画家の埴原久和代は妹。 山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)生まれ。1897年(明治30年)に東京専門学校卒業後は東洋経済新報社に勤務し、日本最初の外交専門誌『外交時報』を刊行する。 翌1898年(明治31年)に第7回外交官及領事官試験に合格し外務省に入省。同期に田中都吉、本多熊太郎らがいる。清国(現・中国)アモイ領事館補を皮切りに、以降順調に昇進を果たす。外務次官時代には当時の海軍大臣・加藤友三郎や駐アメリカ大使・幣原喜重郎とともにワシントン会議の全権委員に選任された。
竹岡 陽一(たけおか よういち、1876年(明治9年)8月1… 竹岡 陽一(たけおか よういち、1876年(明治9年)8月13日 - 1966年(昭和41年)11月24日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家。戦前期の大手電力会社東邦電力の第3代社長を務め、戦後は四国電力初代会長となった。大分県出身。 竹岡陽一は1876年8月13日、大分県・竹岡茂平の次男として生まれた。兄は大分県会議員や中津市長を務めた竹岡吉太郎。妹のカヅは松永安左エ門に嫁いでおり、松永は義弟にあたる(ただし松永の方が1875年生まれであり年長)。1902年(明治35年)、東京専門学校邦語政治科を卒業した。 実業界における経歴は義弟の松永とほとんど一緒であり、長年松永の補佐役であった。
当間 重慎(とうま じゅうしん、1876年(明治9年)8月1… 当間 重慎(とうま じゅうしん、1876年(明治9年)8月11日 - 1923年(大正12年)9月22日)は、戦前の沖縄県の政治家で初代那覇市長。 政治家の当間重剛・重民兄弟の父である。 明治9年(1876年・光緒2年)6月7日に琉球藩具志川間切(現沖縄県うるま市)で生まれた。明治16年(1883年)に那覇に移る。明治34年(1901年)に上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に入学するが病気のため中退し、那覇に戻った。 那覇では琉球新報の記者になったが、まもなく退職し「沖縄毎日新聞」を創刊する。沖縄毎日新聞では、那覇住民の立場に立った論陣をはった。 明治42年(1909年)の沖縄県会発足に際して、議員に選出され政治家としての一歩を歩みだした。
小山 谷蔵(こやま たにぞう、1876年(明治9年)8月10… 小山 谷蔵(こやま たにぞう、1876年(明治9年)8月10日 – 1951年(昭和26年)1月1日)は、衆議院議員(立憲政友会→中正会→立憲民政党→国民同盟→立憲民政党)。外務政務次官、内務参与官、文部副参政官。 和歌山県西牟婁郡三栖村(現在の田辺市)出身。1898年(明治31年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科を卒業。渡米して、コロンビア大学などで修士号と博士号を得た。帰国後、台湾総督府専売局で翻訳官を務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は合計で8回を数えた。その間、第2次大隈内閣で文部副参政官を、第2次若槻内閣で内務参与官を、米内内閣で外務政務次官をそれぞれ務めた。
三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 -… 三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 - 1935年(昭和10年)5月23日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。 岡山県岡山市出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。大阪朝日新聞記者、東京日日新聞記者を経て、1909年(明治42年)、横浜市市政顧問に就任。1910年(明治43年)に横浜貿易新報社を創設し、初代社長に就任した。大正期に横浜市会議員、神奈川県会議員を経て、1927年(昭和2年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選回数を数えた。1932年(昭和7年)に発足した立憲民政党横浜支部の初代支部長に就任。党内では同じく新聞人出身の永井柳太郎と親しかった。
江崎 幸太郎(えさき こうたろう、1876年〈明治9年〉5月… 江崎 幸太郎(えさき こうたろう、1876年〈明治9年〉5月18日 - 1923年〈大正12年〉2月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県下妻郡、のちの八女郡水田村(現筑後市)出身。1895年(明治28年)東京専門学校政治科卒。福岡県会議員、同参事会員、福岡県地方森林会議員となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において福岡14区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1923年、在職中に死去した。
近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月… 近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月4日 - 1944年〈昭和19年〉4月23日)は、日本の小説家、評論家。岡山県生まれ。本名は徳田丑太郎。17歳のとき、浩司と改名。 露骨な愛欲生活の描写によって、代表的な私小説作家の一人とされる。 1876年(明治9年)、岡山県和気郡藤野村田ヶ原(現和気町藤野)に農家の四男として生まれる。少年時代は『雪中梅』(末広鉄腸)や『経国美談』(矢野龍渓)などの政治小説を好んだ。家は代々農業を営んでおり、1892年(明治25年)、岡山県尋常中学校(後の岡山一中、現在の岡山県立岡山朝日高等学校)に入学するが翌年退学。1894年、父に書置一通を残し上京。
和田 純(わだ じゅん、1876年〈明治9年〉5月2日 - … 和田 純(わだ じゅん、1876年〈明治9年〉5月2日 - 没年不詳)は、日本の判事、内務官僚、朝鮮総督府官僚。弁護士。 東京府東京市に津田仙の子として生まれ、和田謙吉の養子となった。1902年(明治35年)、早稲田大学邦語行政科を卒業。司法官試補、平壌控訴院判事、海州地方法院部長を務めた。その後、高知県警察部長、和歌山県警察部長、愛媛県内務部長、新潟県内務部長、慶尚南道知事を歴任した。 1928年(昭和3年)に退官した後は弁護士を開業し、海軍協会常務理事を務めた。
西川 光二郎(にしかわ こうじろう/みつじろう、1876年(… 西川 光二郎(にしかわ こうじろう/みつじろう、1876年(明治9年)4月29日 - 1940年(昭和15年)10月22日)は、日本の社会主義者。号は白熊。妻の西川文子は婦人運動家。 兵庫県津名郡佐野村(現在の淡路市津名町)の生まれ。札幌農学校に入学し新渡戸稲造の教え子となる。後に上京し東京専門学校(現在の早稲田大学)に転校し、1896年から1899年まで社会学を学ぶ。 その後、1901年(明治34年)に社会民主党の創設者となり、1903年(明治36年)に平民社、1906年(明治39年)に日本平民党(後の日本社会党)の創設にも携わった。また、同時期に足尾銅山事件や東京市内電車値上げ反対運動に関与したため、大杉栄と共に投獄刑を受けるといった不運があった。
松本 洪(まつもと こう、明治9年(1876年)4月12日 … 松本 洪(まつもと こう、明治9年(1876年)4月12日 - 昭和40年(1965年)2月25日)は、大分県宇佐郡四日市村(現在の宇佐市四日市 (宇佐市))出身の漢学者。如石と号する。 早稲田中学校、豊山中学校教諭、国士舘専門学校、早稲田大学、大東文化学院(大東文化大学の母胎)、東洋文化研究所、東京藝術大学に教鞭を執る。無窮會理事(終戦後)、東洋文化學會評議員・幹事、東洋文化研究所講師・所長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - … 押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - 1914年11月16日)は、日本の作家(冒険小説、SF、武侠小説)、編集者。愛媛県松山市出身、本名は方存(まさあり)。冒険小説のジャンルを定着させ、雑誌『冒険世界』『武侠世界』で主筆を務めて多くの後進の作家、画家育成に尽力した。 松山市生まれ。父は牧師でNHK朝の連続テレビ小説『はね駒』の主人公の恩師・松浪毅のモデルとなった押川方義。弟押川清は日本のプロ野球創始者として知られる。 生後8か月で、新潟で伝道を行っていた父に母とともに呼び寄せられる。1878年(明治11年)、1879年(明治12年)と続いた新潟大火のため、方義は伝道地を仙台に移し、同行。
右近 和作(うこん わさく、旧姓・八十島、1876年〈明治9… 右近 和作(うこん わさく、旧姓・八十島、1876年〈明治9年〉3月11日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家。日本海上火災保険相談役。日本海上ビルデイング社長。日海興業、右近商事各取締役。日本生命保険監査役。早稲田大学評議員。族籍は福井県平民。 福井県平民・八十島五郎右衛門の三男。八十島五郎右衛門の弟。生家は代々酒造家であった。1898年、右近権左衛門の養子となり、1916年、養弟の権左衛門方より分家して一家を創立した。 1901年、東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒業。米国に遊学した。養父の統督する日本海上保険に入り、常務取締役として手腕を発揮した。戦後、公職追放となった。 趣味は読書、書道。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日 - 1944年(昭和19年)8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年〈明治9年〉2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年〈明治9年〉2月17日 - 1944年〈昭和19年〉8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。 1876年、長野県更級郡石川村(現・長野市)の豪農の家に生まれる。旧制長野県尋常中学校(現・長野県松本深志高等学校)在学中は、病のため療養生活を送った。その間、当時東京専門学校出版局(現・早稲田大学出版部)から発行されていた講義録雑誌で勉強した。1895年、編入試験を受けて東京専門学校(現・早稲田大学)に入学。1896年、同校政治科を卒業。東京日日新聞の記者になる。1901年、コロンビア大学に留学し、1902年、マスター・オヴ・アーツの学位を取得した。
小山 松寿(こやま しょうじゅ / こやま まつじゅ、187… 小山 松寿(こやま しょうじゅ / こやま まつじゅ、1876年〈明治9年〉1月28日 - 1959年〈昭和34年〉11月25日)は、日本の政治家、新聞経営者。第33代衆議院議長(1937年7月 - 1941年12月)。歿時正三位勲一等旭日大綬章受章。 長野県佐久郡小諸与良町(現:小諸市)に、生糸仲買人・小山与右衛門の長男として生まれる。1895年(明治28年)、東京専門学校(現:早稲田大学)法律科を卒業後、中国研究のため福建省廈門に渡り、貿易事情を中心に調査活動を行っていた。1900年(明治33年)、大阪朝日新聞より戦時特別通信員を委嘱されたことを契機に、新聞界入りすることとなる。 帰国後の1902年(明治35年)、大阪朝日に正式採用され、名古屋通信部に赴任する。
山本 慎平(やまもと しんぺい、1876年(明治9年)1月2… 山本 慎平(やまもと しんぺい、1876年(明治9年)1月22日 - 1948年(昭和23年)5月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)出身。1901年(明治34年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科を卒業。長野新聞社・新潟日報社で主筆・社長を務める。 長野県会議員、同参事会員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たす。第16回、第18回でも再選された。その後、稲荷山町長を務めた。 その他に、大日本法令出版株式会社取締役、帝国法規出版株式会社取締役、鹿曲川水力電気会社取締役などを務めた。
喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月… 喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月10日 - 1955年(昭和30年)12月22日)は戦前日本の英語教育者、雑誌編集者。新潟県立高田中学校教諭、早稲田実業学校教員。長年『英語青年』編集を引き受け、引退後は「河畔通信」「鵠沼通信」を連載した。 1876年(明治9年)1月10日愛媛県伊予郡恵久美村(松前町恵久美)の豪農の長男として生まれた。早く父を喪い、教育熱心な母の下、近所の和尚に四書五経を学んだ。地元の小学校に通い、1886年(明治19年)米湊村の高等小学校に編入した。 伯母宅に預けられて松山高等小学校に転校し、『文学之栞』編集に参加した。1889年(明治22年)私立伊予尋常中学校に進学し、1892年(明治25年)卒業した。
菅野 光民(かんの こうみん/みつたみ、1876年 - 19… 菅野 光民(かんの こうみん/みつたみ、1876年 - 1918年6月9日)は、日本の実業家、政治家。十勝日日新聞社長、北海道会議員。 岡山県吉備新本(現・総社市)出身、早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京通信社勤務の後、明治末期に北海道帯広へ移住。先輩から依頼され、小樽新聞(現・北海道新聞)帯広支局長を務めるも1912年に小樽新聞を退職し独立して十勝日日新聞を創刊。1913年の北海道会議員選挙で河西支庁(現・十勝総合振興局)選挙区に出馬し初当選、以降議会活動に注力、1916年に再選し憲政会に所属。 外出時には黒紋付羽織袴姿で手にステッキを持ち町中を闊歩していた。三井徳宝等と「義士会」を結成して毎年演芸会を開き、会の収益を用いて赤穂浪士関係の書籍を収集、没後1921年の解散時には帯広町立大典記念帯広図書館(現・帯広市図書館)に寄贈されている。
田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月2… 田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月20日 - 1957年(昭和32年)12月20日)は、日本の英文学者。 富山県の南日家に生まれ、生後まもなく田部家の養子となる。兄に英語教育者の南日恒太郎、弟に別の田部家へ養子に入った英文学者の田部重治がいる。村松剛・村松英子の母方の祖父。村松えりの曾祖父。 富山中学校、早稲田大学専門部を経て、東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、後年ハーンの研究を行った。女子学習院教授を務め、第一書房の『小泉八雲全集』を大谷正信らと共訳した。 1921年学習院大学教授をしていた時に、近所付合いをしていた小泉一雄(ラフカディオ・ハーンと妻セツの長男)に見送られて横浜から一年間の留学に発った。
馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956… 馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956年4月5日)は、日本のジャーナリスト・政治評論家・実業家。ジャパンタイムズや国民新聞などで自由主義擁護の論陣を張る。第二次大戦後、読売新聞社社長。 岡山県邑久郡長浜村奥浦(現・瀬戸内市牛窓町)に、代々庄屋を務めた馬場家の長男として生まれる。1892年、京都の第三高等学校予科に入学。1895年、三高予科を修了し、仙台の第二高等学校入学。東北学院で押川方義が行っていた聖書の講義に通い、メソジストとして洗礼を受ける。1896年、二高中退。1897年、安部磯雄を追って同志社神学校(現・同志社大学神学部)に入学するが、葛藤の末キリスト教と決別し、一年弱で中退。
小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1… 小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1954年12月4日)は、日本の地理学者、教育者。 秋田県秋田市出身。1899年に高等師範学校の地理歴史科専修科を卒業し、早稲田中学校の教員となった。1914年に早稲田大学の講師に招かれ地理学を講義し、1925年には慶應義塾大学に招かれ地理学を講義した。戦後は国立音楽大学の教授となっている。 郷土会に参加し、1926年に人文地理学会を創設した。1930年には文部省の教育制度調査を嘱託され、尾高豊作らとともに郷土教育連盟を創設した。
木本 主一郎(きもと しゅいちろう、1875年(明治8年)5… 木本 主一郎(きもと しゅいちろう、1875年(明治8年)5月10日 – 1939年(昭和14年)9月18日)は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、和歌山県海草郡木ノ本村長。幼名・八郎。 和歌山県海部郡木ノ本村(海草郡木ノ本村を経て現和歌山市木ノ本)で、地主、酒造業・木本太兵衛の長男として生まれた。1895年(明治28年)東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業。1904年(明治37年)家督を相続し主一郎と改名。家業を営んだ。 1905年(明治38年)8月、木ノ本村長に就任し、1912年(明治45年)4月まで在任。1907年(明治40年)10月、海草郡会議員となり1期在任。1911年(明治44年)9月、和歌山県会議員に当選し、以後、1927年(昭和2年)まで連続して再選され、1928年(昭和3年)2月、衆議院議員に当選のため県会議員を辞職した。
丸山 盛雄(まるやま もりお、1875年〈明治8年〉1月25… 丸山 盛雄(まるやま もりお、1875年〈明治8年〉1月25日 - 1947年〈昭和22年〉)は、明治末期の政治家、昭和初期にかけての実業家。長野県会を2期務めたのち信濃電気副社長・六十三銀行常務・長野新聞社長など長野県所在企業の役員を務めた。 丸山盛雄は、1875年(明治8年)1月25日、丸山英一郎の長男として生まれた。丸山家は長野県南安曇郡豊科村(現・安曇野市)の旧家で、酒造業を家業として江戸時代には村の庄屋であった。父・英一郎は南安曇郡などの郡長や長野県会議員、銀行役員などを務めた人物である。 松本中学校を経て早稲田大学を卒業。卒業後に一年志願兵制度を利用して軍務に服すが病気のため兵役免除となった。
堀 英四郎(ほり えいしろう、1874年11月24日 - 1… 堀 英四郎(ほり えいしろう、1874年11月24日 - 1963年7月6日)は、日本の英語学者。 愛媛県今治市出身。1884年徳冨蘆花の英語塾に学び、1888年上京、東京英語学校入学、1894年東京専門学校(早稲田大学)英文科卒、ここで坪内逍遙の講義を受け、神田の国民英学会で英語を教えた。1894年東京府立城北中学校、1897年岡山県立第一中学校に勤め、1902年江田島海軍兵学校教授。1916年-1945年慶応義塾大学教授。この間1932年-1941年NHK英語講座担当。1949年-1954年戸板女子短期大学英文科長。
五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月2… 五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月22日 - 1947年(昭和22年)1月11日)は、日本の国文学者。号は巴千。修辞学・国文学・国語学の領域で多くの業績を残した。 日本の近代修辞学史上、最も多くの修辞学関係書を著した人物である。 山形県米沢市生まれ。米沢中学校を経て、1894年7月、東京専門学校卒業。翌年『早稲田文学』記者に就任。近松同人研究会の一員として、坪内逍遙の指導を受ける。卒業後10年ほどは国文学から離れるが、逍遙の勧めで国文学研究に戻る。1901年、東京専門学校講師。1920年、新たに設置された早稲田大学文学部国文科主任教授に就任。後に文学部学部長を勤めた。1945年、自宅の甲鳥園が空襲によって焼失し、早稲田大学文学部内の五十嵐記念文庫も焼失した。
太田 半六(おおた はんろく、1874年(明治7年)9月26… 太田 半六(おおた はんろく、1874年(明治7年)9月26日 - 1960年(昭和35年)10月24日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。東京瓦斯社長、貴族院勅選議員。 千葉県夷隅郡大多喜城下(現大多喜町)で、太田資長(太田道灌)の後裔、旧大多喜藩士・太田満直の二男として生まれる。1894年(明治27年)東京専門学校政治科を卒業して、大蔵省に入省し大蔵属として主税局に配属された。 1899年(明治32年)に退官し、1900年(明治33年)北海道炭礦鉄道に入社し、東京本社販売主任、室蘭出張所長などを歴任。1912年(大正元年)に退職し海運業を営む。1917年(大正6年)経営難の北海道瓦斯からの要請で入社して業績を回復させた。
細梅 三郎(ほそめ さぶろう、1874年(明治7年)8月18… 細梅 三郎(ほそめ さぶろう、1874年(明治7年)8月18日 - 1951年(昭和26年)7月31日)は、明治から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、山形県北村山郡楯岡町長。ブラジル移民としてサンパウロ州に渡り同地で没した。 山形県村山郡楯岡村(北村山郡楯岡村、楯岡町を経て現村山市楯岡)で、細梅勘六、タニの長男として生れた。1900年(明治33年)1月、家督を相続した。同年、宮城農学校(現宮城県農業高等学校)農科を卒業し、1903年(明治36年)7月、早稲田大学政治経済科を卒業した。農業を営む。 1903年、北村山郡会議員に選出され同議長も務めた。1905年(明治38年)楯岡町長に就任。1907年(明治40年)9月、山形県会議員に選出され、1911年(明治44年)9月まで1期在任した。
沖 禎介(おき ていすけ、1874年(明治7年)6月8日 -… 沖 禎介(おき ていすけ、1874年(明治7年)6月8日 - 1904年(明治37年)4月21日)は、明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。 東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後、横浜で貿易業に従事。1901年(明治34年)に中国に渡り、北京の東文学社の教師となる。1903年(明治36年)には文明学社を設立した。 1904年(明治37年)、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑される。 処刑に際して当初は絞首刑を予定されていたが、彼らの態度が立派だったため現地の司令官がロシア皇帝ニコライ2世に請願し、銃殺刑に変更されたと言われている。