大島 鎌吉(おおしま けんきち、1908年(明治41年)11… 大島 鎌吉(おおしま けんきち、1908年(明治41年)11月10日 - 1985年(昭和60年)3月30日)は、日本の陸上競技選手。専門は三段跳で、1932年ロサンゼルスオリンピック銅メダリストにして元世界記録保持者だった。 石川県金沢市出身。関西大学卒業。 引退後は大阪体育大学副学長(のちに名誉教授)や日本オリンピック委員会 (JOC)委員(のちに名誉委員)を務めた。 金沢市の手広く履物商を営む商家に生まれ、金沢商業学校(現・石川県立金沢商業高等学校)在学中に第四高等学校(現・金沢大学)主催の中等学校陸上競技大会の三段跳で優勝する。関西大学法律科に進学し、1928年アムステルダムオリンピックの予選会を兼ねた全日本選手権で走幅跳2位、三段跳3位となるも選に漏れた(この時選手に選ばれた織田幹雄は三段跳びで日本人初の金メダリストとなった)。
辻合 喜代太郎(つじあい きよたろう、1908年6月25日 … 辻合 喜代太郎(つじあい きよたろう、1908年6月25日 - 1993年7月2日)は、服飾史研究者。 大阪府出身。大阪天王寺師範学校卒、関西大学法文学部哲学科卒。1959年「日本上代文様の研究」で関西大学文学博士。大阪市立大学家政学部助教授、教授、京都府立大学教授。72年定年退官、琉球大学教授、帝国女子大学教授。
松井 静郎(まつい しずろう、1908年6月23日 - 19… 松井 静郎(まつい しずろう、1908年6月23日 - 1997年12月18日)は、日本の経営者。 兵庫県赤穂市出身。1931年に関西大学法学部法科を卒業した。大蔵省、国税庁での勤務を経て、1967年にロッテに転じた。1971年に専務、1976年には副社長に就任した。1971年から1995年までロッテオリオンズ(1992年、千葉ロッテマリーンズに改称)球団社長を務めた。 1978年に勲三等瑞宝章を受章した。 1997年12月18日、腎不全で死去した。89歳没。
菊久池 博(きくいけ ひろし、1908年1月13日 - 19… 菊久池 博(きくいけ ひろし、1908年1月13日 - 1989年12月10日)は、日本の経営者、銀行家。大阪府出身。 1927年9月に関西商工無尽に入社し、1953年3月に関西大学専門部法科を卒業。1959年4月に取締役に就任し、1957年11月に近畿相互銀行常務、1960年11月に専務、1963年8月に副社長を経て、1967年5月には頭取に就任。1979年6月には相談役に退いた。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1989年12月10日肺炎のために死去。81歳没。
出口 神暁(でぐち しんぎょう 1907年5月30日 – 1… 出口 神暁(でぐち しんぎょう 1907年5月30日 – 1985年3月9日)は、日本の蔵書家、郷土史家。 岸和田市の称名寺の長男として生まれる。平安中学校卒業。岸和田市役所書記等を勤めたのち、1947年、称名寺住職を継ぐ。市役所勤務のころから、郷土資料の収集・研究を行い、のちに反町茂雄から「異常に熱心な郷土資料の蒐集家」と評された。1943年4月に蔵書をもとに鬼洞文庫を設立。蔵書は、現在は関西大学図書館や大阪歴史博物館などに収められている。1949年には和泉文化研究会を設立し、機関誌として『流木』(のち『和泉志』と改題)を創刊し、また和泉文化研究会図書館の館長も務めた。その他に「鬼洞叢書」や「和泉史料叢書」として史料集の編纂刊行を行った。
林 弘高(はやし ひろたか、1907年(明治40年)2月1日… 林 弘高(はやし ひろたか、1907年(明治40年)2月1日 - 1971年(昭和46年)6月27日)は、興行師、芸能プロモーター。吉本興業社長、吉本株式会社(東京吉本))社長、太泉映画(東映の前身)社長。大阪府大阪市北区出身。 姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(泰三)の妻の吉本せい。兄は旧吉本興業株式会社の社長を務めた林正之助。長男は吉本株式会社社長や吉本興業常務を務めた林英之。 米穀商を営んでいた林豊次郎の四男として兵庫県明石市に生まれる。出生名は林 勝(はやし まさる)といった。 1925年(大正14年)、関西甲種商業学校(現・関西大学第一高等学校)を卒業後、上京して中央大学法学部を卒業した後、社会民衆党の機関紙の編集に関わった。
阿部 甚吉(あべ じんきち、1907年1月25日 - 198… 阿部 甚吉(あべ じんきち、1907年1月25日 - 1981年7月30日)は、日本の弁護士、大阪弁護士会会長、日本弁護士連合会会長。 1907年、徳島県に生れる。1922年、徳島県橘郵便局に就職。1925年、大阪逓信局監督課に転勤。在勤のまま、北陽商業学校(現・関西大学北陽中学校・高等学校)を卒業。1929年、関西大学専門部法律科に入学し、 1932年に同校を卒業。翌年司法試験に合格。さらに翌年に大阪逓信局を退職。はじめは村野弁護士事務所に勤めたが、1938年に独立して自宅に事務所を開く。その後、1954年大阪弁護士会副会長、 1957年近畿弁護士会連合会理事、 1964年大阪弁護士会会長・近畿弁護士会連合会理事長・日本弁護士連合会常務理事を歴任した。
中森 三彌(なかもり さんや、1907年(明治40年)- 2… 中森 三彌(なかもり さんや、1907年(明治40年)- 2002年(平成14年)7月16日)は、日本の写真家である。 大阪新橋の染物屋に生まれる。関西大学専門部中退。大阪光芸倶楽部、銀影探光倶楽部を経て、1940年(昭和15年)、浪華写真倶楽部に入会。小石清、本庄光郎、花和銀吾らから指導を受ける。長く同倶楽部の幹事長や代表を務めた。中藤敦らと堺公共職業補導所写真科にて指導、なんばデザイナー学院写真科教授。サンフォトクラブを主宰する傍ら、他写真クラブを指導しアマチュア写真家の育成に携わった。他にくらぶ草土会、オール関西写真集団に属した。日赤大阪府支部写真奉仕団団長、大阪写真材料商業組合理事、全日本写真連盟関西本部顧問を務め、日本写真協会功労賞、全日本写真連盟関西本部表彰、日本赤十字社厚生大臣特別表彰など各方面から受賞。
澤山宗海(さわやま むねおみ、1906年12月12日 - 1… 澤山宗海(さわやま むねおみ、1906年12月12日 - 1977年9月27日)は、奈良県出身の武道家。日本拳法の開祖。本名は勝(まさる)。 澤山宗海は1906年に奈良県に生まれ、幼くして養子となり、山陰地方の名門として知られる、豪族・山名氏の門流である澤山家の人となる。生来病弱であったうえに養父母が溺愛し、少しでも危険と見れば、わずかな運動すらさせなかったゆえに、小学生の頃は通学するだけで疲れるほどひ弱だったという。 自分の体力のなさに一念発起し、大正8年(1919)、偕行社小学校の尋常科を終え、日進商業学校に進学したときにボディービルと柔道を始め、のちに五段の腕前になる。しかし、柔道において一般に当身の攻防の練習が軽視されていたことに失望し、のちに糸東流を創始する摩文仁賢和との出会いを機に彼に師事して空手(当時は「唐手」と呼ばれていた)を学び、昭和5年(1930)6月、通っていた関西大学に「唐手研究会」を立ち上げる。
村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年… 村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年8月12日 - 1999年5月4日)は、兵庫県出身のプロ野球監督、実業家。 小学校時代の友人に、関西大学野球部監督、大阪タイガース二軍監督などを歴任する森田忠勇がいる。旧制天王寺中学で三塁手を務める。 慶應義塾大学野球部マネージャを経て、1932年にに阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス・阪急電鉄)に入社する。1936年にはプロ野球球団阪急軍の創設に尽力する。球団代表に就任して25年間球団経営に携わった。 1937年には、秋季シーズンの監督を務める。初代阪急軍の監督である三宅大輔がこのシーズンも指揮を執るはずであったが、三宅の一切の妥協を許さぬ厳格な姿勢が選手達からの猛反発を受けてしまい、三宅は解任に追い込まれたために4試合目からの途中就任であった。
津田 晴一郎(つだ せいいちろう、1906年7月26日 - … 津田 晴一郎(つだ せいいちろう、1906年7月26日 - 1991年9月20日)は、島根県松江市出身の日本の陸上競技選手(長距離)。1928年アムステルダムオリンピックと1932年ロサンゼルスオリンピックでマラソンに出場し、連続して入賞を果たした。 旧制松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て関西大学予科に進学する。旧制中学時代から陸上競技を始めたが、当時は県内大会に出場する程度のレベルであった。 しかし、「なぜ日本のマラソン選手はオリンピックで勝てないのか」という疑問を抱くようになり、親交のあった大阪毎日新聞や大阪朝日新聞の運動記者から資料を得て、研究を行うようになる。その中で、ハンネス・コーレマイネンやパーヴォ・ヌルミをはじめとするフィンランドの長距離選手の強さに着目し、彼らのようなトラックでのスピードをつけることがマラソンで勝つために必要だと考えるに至る。
松野 幸吉(まつの こうきち、1906年 <明治39年> 3… 松野 幸吉(まつの こうきち、1906年 <明治39年> 3月28日 - 1989年 <平成元年> 1月30日)は、日本の経営者。日本ビクター社長、会長を務めた。位階は正四位。 兵庫県神戸市出身。1933年に関西大学法学部を卒業し、同年に松下電器産業に入社。1944年8月に取締役に就任し、1963年1月に常務を経て、1973年11月に日本ビクター社長に就任した。1979年6月から会長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1989年1月30日、肺炎のために死去。82歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
山本 伊三郎(やまもと いさぶろう、1906年1月25日 -… 山本 伊三郎(やまもと いさぶろう、1906年1月25日 - 1971年7月8日)は、日本の政治家、参議院議員(3期)。位階は従四位。勲等は勲二等。浪華商業学校、関西大学専門部卒業。 大阪市生まれ。1918年(大正7年)小学校卒業。社会主義理論の原典を知りたいとの思いから大阪キリスト教青年会英語学校入学。 1926年(大正15年)、大阪市役所採用。1947年(昭和22年)、日本社会党入党。1948年(昭和23年)、大阪市職員労働組合委員長。 1956年(昭和31年)、全日本自治団体労働組合中央執行委員長。1959年(昭和34年)、第5回参議院議員通常選挙全国区当選。1965年(昭和40年)、第7回参議院議員通常選挙二選。
吉永 登(よしなが みのる、1906年1月16日 - 198… 吉永 登(よしなが みのる、1906年1月16日 - 1989年1月28日)は、日本の国文学者。 奈良県出身。1927年関西大学専門部国文科卒。1960年「万葉集の研究」で関西大文学博士。1943年関西大学専門部教授、1948年同文学部教授、1976年定年、名誉教授。1978年勲三等旭日中綬章受章。
藤井 健造(ふじい けんぞう、1906年1月14日 - 19… 藤井 健造(ふじい けんぞう、1906年1月14日 - 1991年 2月10日)は、神戸又新日報記者、大日本帝国陸軍情報将校、大手前大学創立者。大阪府守口市出身。 藤井健造は1906年(明治39年)、大阪府北河内郡守口町(現・守口市)に、樋口家の長男として生まれた。幼い頃から馬と自動車に興味を持ち、関西大学へ進学後は馬術部で活躍し、第4回全国乗馬大会では個人三等で入賞している。 神戸又新日報記者時代 大学卒業後、神戸又新日報に記者として入社するも、馬と車に情熱を燃やした。1932年ロサンゼルスオリンピックでは、バロン西の愛称で知られる男爵の西竹一陸軍中尉が障害飛越競技で出場することから、自費通信員の資格を得て、民間人で唯一の付き人として同行渡米し、担当記者として取材。
田中 久雄(たなか ひさお、1905年(明治38年)12月1… 田中 久雄(たなか ひさお、1905年(明治38年)12月18日 - 1981年(昭和56年)4月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 三重県出身。1928年、関西大学専門部商業科を卒業。 時事新報社横浜販売局長、鐘淵紡績東北販売店取締役店長、鐘淵盛岡産業監査役、仙台市繊維製品統制組合理事長、東海航空社長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に三重県から立候補し当選。その後、第23回、第25回から第27回総選挙まで4回当選し、衆議院議員を通算五期務めた。この間、第2次鳩山一郎内閣・防衛政務次官、改進党政策委員会文部々長、自由民主党青年局長などを歴任した。 1976年4月の春の叙勲で勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
森田 忠勇(もりた ちゅうゆう、1905年8月10日 - 1… 森田 忠勇(もりた ちゅうゆう、1905年8月10日 - 1975年12月2日)は、兵庫県出身の野球選手・監督・公式記録員。
辰巳 柳太郎(たつみ りゅうたろう、1905年〈明治38年〉… 辰巳 柳太郎(たつみ りゅうたろう、1905年〈明治38年〉4月20日 - 1989年〈平成元年〉7月29日)は、日本の俳優。兵庫県赤穂郡坂越村(現・赤穂市)生まれ。本名は新倉武一。 島田正吾と共に、新国劇の屋台骨を支えた1人。 少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら関西甲種商業学校(現・関西大学第一中学校・高等学校)を経て、商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)を中退。 1919年、小林一三が国民劇創設のため作った「男子養成会」の創設メンバー(男子専科生第一期生)として宝塚入り。 1926年に旅回りの一座に入り、長野県で初舞台を経験。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団して東伍作の名で舞台に立つ。
福田 繁芳(ふくだ しげよし、1905年〈明治38年〉3月1… 福田 繁芳(ふくだ しげよし、1905年〈明治38年〉3月15日 - 1977年〈昭和52年〉2月12日)は、日本の政治家。自由民主党の衆議院議員。 1927年関西大学専門部法律学科卒業後、1946年の第22回衆議院議員総選挙に立候補するが次点で落選。しかしその後三木武吉の公職追放により繰り上げ当選となる。 1951年10月5日、高松地方検察庁に観音寺競輪場誘致運動資金の一部を横領した容疑で逮捕される。 1961年3月、日興連汚職事件で福田に対して懲役1年の実刑判決が確定し、公民権停止となったため国会法の規定で退職(自動失職)。賄賂罪の実刑判決が確定して国会議員が退職(失職)となったのは初めてであった。
志村 喬(、1905年〈明治38年〉3月12日 - 1982… 志村 喬(、1905年〈明治38年〉3月12日 - 1982年〈昭和57年〉2月11日)は、日本の俳優。本名は島崎 捷爾()。身長163cm。実兄の島崎敬夫は横浜ゴム社長を務めた人物。 兵庫県朝来郡生野町出身。舞台俳優を経て映画俳優となり、戦前は時代劇などで活躍したのち、戦後は東宝を中心に数多くの作品に出演。映画出演本数は400本以上に及び、特に黒澤明監督作品には欠かせない俳優であった。 1905年(明治38年)3月12日、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市生野町)に生まれる。三菱生野鉱業所の冶金技師をする父・島崎毛登女(もとめ)と、母・喜与の次男として口銀谷の生野鉱山社宅(甲社宅)で育つ。祖父・雄次は土佐藩主・山内容堂の小姓から250石取りの祐筆に上がり、鳥羽・伏見の戦いには隊長として出陣した経歴を持つ武士であった。
光村 甚助(みつむら じんすけ、1905年(明治38年)2月… 光村 甚助(みつむら じんすけ、1905年(明治38年)2月20日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 鹿児島県肝属郡牛根村、後の垂水市牛根境に生まれる。貧農の塩屋家の8人兄弟の五男。小学校卒業後、母校の小間使いとして働く。1919年(大正8年)鉄道員の求人に応募し、福岡県の折尾駅に勤務。1年半後に鉄道員を辞め、大阪の紡績会社で給仕として働きながら夜学に通う。その後、上京して新聞配達をしながら神田の予備校に通ったが、関東大震災被災のため大阪へ戻って、ガラス会社の職工となり、1925年(大正14年)関西大学専門部別科入学。さらに京阪商業学校(後の大阪府立守口高等学校、現大阪府立芦間高等学校)を経て、1931年(昭和6年)関西大学専門部法科を卒業した。
吉橋 鐸美(よしはし たくみ、1905年1月28日 - 没年… 吉橋 鐸美(よしはし たくみ、1905年1月28日 - 没年不明)は日本の大蔵官僚。名古屋財務局理財部長、名古屋財務部長、東海財務局長(初代)、近畿財務局長、名古屋証券取引所理事長などを歴任。 愛知県出身。1929年12月に高等試験司法科に合格し、1930年10月には高等試験行政科に合格。関西大学法文学部法律学科卒業。1932年1月 大蔵省入省(専売局書記・大阪地方専売局)。1946年11月 銀行局監査課長。1947年9月 名古屋財務局理財部長。1949年6月1日 名古屋財務部長。1950年5月4日 東海財務局長。1952年3月1日 近畿財務局長。1953年11月2日 退官。同年11月 地方銀行協会常務理事。
藤本 進治(ふじもと しんじ、1905年 - 1987年)は… 藤本 進治(ふじもと しんじ、1905年 - 1987年)は、日本のマルクス主義哲学者。 大阪市生まれ。1934年、関西大学大学院中退。経済学者の藤本昭(神戸大学教授)は甥。長女は福井扶未子。谷沢永一が師と仰いだ。
山口 次郎(やまぐち じろう、1904年11月25日 - 1… 山口 次郎(やまぐち じろう、1904年11月25日 - 1997年1月1日)は、日本の工学者。大阪大学名誉教授、摂南大学名誉教授。専門は電気工学、半導体工学。工学博士(京都帝国大学)(1945年)。 大阪府生まれ。
上林山 榮吉(かんばやしやま えいきち、1904年10月18… 上林山 榮吉(かんばやしやま えいきち、1904年10月18日 – 1971年8月10日)は、日本の政治家。衆議院議員、防衛庁長官を務めた。 現在の鹿児島県指宿市生まれ。鹿児島実業学校出身。関西大学専門部法律学科中退後、1928年日本大学法律科を卒業、鹿児島毎夕新聞社記者、鹿児島県庁勤務を経て、1936年鹿児島市会議員補欠選挙に当選。1939年からは鹿児島県会議員を務める。1946年第22回衆議院議員総選挙で日本自由党から旧鹿児島1区にて立候補し初当選する(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・川崎秀二・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
藤本 亀(ふじもと ひさし、1904年7月4日 - 1989… 藤本 亀(ふじもと ひさし、1904年7月4日 - 1989年2月14日)は、日本の経営者。山陽放送社長を務めた。 岡山県出身。1925年に関西大学法学部法科を卒業し、1927年に朝日新聞社に入社。1945年に合同新聞(のちの山陽新聞社)に転じ、1947年に取締役に就任し、1958年には山陽放送常務に就任し、1964年に専務を経て、1974年5月には社長に就任した。1981年6月に会長に就任し、1983年に取締役相談役を経て、1984年6月に相談役に退いた。 1979年5月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年2月14日、呼吸不全のために死去。84歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
高見 三郎(たかみ さぶろう、1904年1月8日 – 197… 高見 三郎(たかみ さぶろう、1904年1月8日 – 1978年2月28日)は、昭和期の政治家、内務・警察官僚。位階は正三位。 衆議院議員(8期)、文部大臣を歴任した。 山口県美祢郡東厚保村(現・美祢市)小杉に、農業・高見政五郎の次男として生まれる。高等小学校を卒業後、炭焼きをしながら独学で教員免許を取得、小学校代用教員となる。その後軍隊生活等を経て、1928年大阪府天王寺師範学校第二部(現・大阪教育大学)を卒業、1929年関西大学専門部法科卒業後、大阪府庁学務部に勤務するが、1929年に高等文官試験行政科に合格する。翌1930年には法律科にも合格し、1938年内務省に入省する。 秋田県社会部長、警視庁警視、和歌山県警察部長、奈良県経済部長等を経て、静岡県経済部長となるが、1951年次期県知事の有力候補者であった県総務部長の斎藤寿夫と親しいことを理由に、当時の小林武治知事によって左遷される。
北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条、1902年(明… 北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条、1902年(明治35年)11月7日 - 1996年(平成8年)5月19日)は、劇作家、演出家、著述家。本名:飯野 秀二(いいの ひでじ)。 大阪市西区西長堀生まれ。 大阪市立甲種商業学校(現大阪市立天王寺商業高等学校)予科に進む。同校本科には進まず、1920年に日本電力に入社。同社で働きながら、関西大学専門部文学科(夜間)を卒業。 商業学校在学中の1919年に、室町銀之助の筆名で宝塚少女歌劇の第5回脚本公募に応募し、一等に入選する。1920年7月、宝塚公会堂劇場で入選脚本が「コロンブスの遠征」として上演された。 1926年、久松一声の誘いで宝塚歌劇団に入社の話があったが、面接での宝塚幹部の態度が傲慢だと感じ、入社拒否。
井戸崎 好次(いどさき よしつぐ、1902年 <明治35年>… 井戸崎 好次(いどさき よしつぐ、1902年 <明治35年> 6月30日 - 1977年 <昭和52年> 10月27日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。 和歌山県出身。1926年に関西大学専門部経済科を卒業し、同年に栗本鐵工所に入社。 1946年11月に副社長に就任し、1961年5月には社長に昇格。1967年10月に相談役を経て、1969年6月には特別顧問に就任した。 1964年に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1977年10月27日、老衰のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 19… 鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 1972年6月11日)は、日本の洋画家。神奈川県中郡須馬村(現在の平塚市)生まれ。本名は正夫。 茶色を基調とした渋い色調の絵具を多用し、土壁のような絵肌の単純化された構図の作品を数多く制作した。 砂を混ぜた渋い色調の絵具を厚く盛り上げたのち、それをノミで削り取る技法を好んで用い、単純な構成とざらざらとした絵肌の重厚な質感により、雅趣に富む味わいと気品を湛える画風を確立した。この技法には、鳥海がたびたびアジア諸国へ旅行した際に見た土が影響しているとも考えられる。また彼の茶を基調にした作品は、日本の油彩画の一典型とも見なされている。
朴 沃圭(パク・オッキュ、朝鮮語: 박옥규、1901年11月… 朴 沃圭(パク・オッキュ、朝鮮語: 박옥규、1901年11月5日 - 1971年1月28日)は大韓民国の軍人、海軍中将。第2代海軍参謀総長を務めた。 日本統治下時代の朝鮮(釜山)生まれ。1916年4月、関西大学専門部予科に入り、1919年3月に修了した。朝鮮に戻り、1920年4月、仁川海員養成所第2期航海科に入学。本科3年を修了し、朝鮮総督府逓信局の実習船で3年間の実習を完了したことで、1926年3月に卒業と同時に甲種二等運転士免許を取得した。朝鮮人として初の卒業生であった。 朝鮮郵船という会社で3年間運転士(航海士)として生活したのち、1929年、日本に渡り川崎汽船のぼるどう丸に二等運転士として勤務し、約3年間世界各地を回った。
飯国 壮三郎(飯國 壯三郎、いいぐに / いいくに そうざぶ… 飯国 壮三郎(飯國 壯三郎、いいぐに / いいくに そうざぶろう、1901年(明治34年)9月8日 - 1955年(昭和30年)10月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県簸川郡塩冶村上塩冶(現出雲市上塩冶町)で、飯国恒一の六男として生まれる。同郷出身の宍道政一郎(出雲製織創業者)の書生を務めながら、堺中学(現大阪府立三国丘高等学校)、関西大学専門部法律科を卒業した。 宍道が経営していた大阪帆布、出雲製織で勤務。1941年(昭和16年)、出雲製織、錦華紡績、日出紡織、和歌山紡織が合併して大和紡績が設立されると、出雲工場長に就任。戦後は、常務、専務取締役を務めた。その他、島根県商工経済会評議員、石見人絹工場取締役、島根繊維工業取締役・社長、大和工業取締役、浜田機械工業取締役、大和農機具工業社長なども務めた。
川並 秀雄(かわなみ ひでお、1901年〈明治34年〉4月9… 川並 秀雄(かわなみ ひでお、1901年〈明治34年〉4月9日 - 1984年〈昭和59年〉1月24日)は、日本の文学研究家。愛知県出身、関西大学卒業。 関西大学大学院でアメリカ・イギリス文学研究を納めた後、1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけてアメリカ合衆国のロチェスター大学、ケンブリッジ大学で比較文学研究を納めた。 1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)まで、アメリカの大学で客員教授として教壇に立った。帰国後は関西大学、大阪商業大学、関西学院大学の講師を歴任。日本国内外で日本文学、特に石川啄木の生涯と文学についての講義を行なった。一方で啄木や有島武郎の研究家としても知られ、資料の発掘に貢献、啄木研究の最長老ともいわれた。
丸尾 長顕(まるお ちょうけん、1901年4月7日 - 19… 丸尾 長顕(まるお ちょうけん、1901年4月7日 - 1986年2月28日)は、作家、演出家。 大阪府生まれ。本名・一ノ木長顕(ながあき)。1918年(大正7年)、関西甲種商業学校(現・関西大学第一高等学校)を卒業後、1922年、旧制・関西学院高等部商科(現・関西学院大学)卒業。 1928年、「芦屋夫人」が「週刊朝日」の懸賞に入選、モダニスムの代表作といわれる。宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の文芸部に所属し、同歌劇団機関誌「歌劇」の編集長も務めた。1933年、新妻莞に誘われて宝塚から大毎に社員として入り学芸部に配属されたが城戸事件により短期間で退社。この年に上京し「婦人画報」編集長となる。戦時中、陸軍省情報部長嘱託となったため、戦後一時公職追放。
中山 幸市(なかやま こういち、1900年12月5日 - 1… 中山 幸市(なかやま こういち、1900年12月5日 - 1968年10月27日)は、日本の実業家・教育者。太平住宅株式会社創業社長で、太平音響株式会社(のちのミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ)ほか10数社の「太平グループ」代表として知られる。岡山県岡山市出身。 1900年(明治33年)12月5日、岡山県吉備郡庭瀬町(現:岡山市)に生まれる。 1921年(大正10年)、大阪の関西大学専門部商科に入学、1924年(大正13年)、同校を卒業する。卒業後、兵庫県神戸市の神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)の実務指導教師となり、夜間の商業練習学校の教諭に転じた。 1930年(昭和5年)、神戸市に関西電話建物を創業、日本電話建物(後の日本電建、現・大東建設)と改称、1933年(昭和8年)、同社を東京に進出させた。
吉田 吉太郎(よしだ よしたろう / きちたろう、1900年… 吉田 吉太郎(よしだ よしたろう / きちたろう、1900年(明治33年)9月25日 - 1968年(昭和43年)1月22日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府出身。1924年(大正13年)関西大学専門部法律科を卒業した。 大阪市役所勤務を経て、映画興業、不動産業を経営し、摂津怛産取締役社長、新大阪土地開発取締役社長、阪神土地興業取締役社長を務めた。 政界では、尼崎市会議員(1940年-1947年)、兵庫県会議員(1947年-1948年)を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区から日本自由党所属で立候補して落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に兵庫県第2区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
山口 冨次郎(やまぐち とみじろう、1900年(明治33年)… 山口 冨次郎(やまぐち とみじろう、1900年(明治33年)9月10日 - 没年不明)は、日本の政治家。大阪府吹田市長。 関西大学法学部卒業。大審院部長を経て、1955年(昭和30年)吹田市長に就任した。
平井 蒼太(ひらい そうた、1900年8月5日 - 1971… 平井 蒼太(ひらい そうた、1900年8月5日 - 1971年7月2日)は愛知県出身のミステリー作家、豆本作家、性風俗文献蒐集家。薔薇蒼太郎、牡丹耽八、書鬼海二等、多数の変名を持つ。 平井太郎(江戸川乱歩)の次弟として名古屋市に生まれる。本名:平井通。 1917年11月、長兄太郎の鳥羽造船所入社に伴い、末弟敏男と共に鳥羽へ移住。1919年に兄弟で上京。東京市本郷区団子坂にて、長兄太郎や末弟敏男と共に古書店「三人書房」を経営。のち大阪へ移り関西大学専門部経済科を修業。1921年から電気部試験係として大阪電気局に勤務。1931年にカリエスを病み、休職して滋賀県甲賀郡寺庄村(現在の甲賀市)なる妻の実家で静養。
下店 静市(しもみせ しずいち、1900年2月16日 - 1… 下店 静市(しもみせ しずいち、1900年2月16日 - 1974年6月26日)は、日本の美術史家。 奈良県出身。立命館大学中退。東京帝国大学美学美術史研究室に学び、1928年「京都美術大観」編集に参加。様式と風土の関連から日本・東洋美術史を研究し、「絵そらごと」「俯瞰法」などの概念を基礎づける。帝塚山大学教授。1960年「日本古代絵画史研究」で関西大学文学博士。
大川光三(おおかわ みつぞう、1899年3月30日 - 19… 大川光三(おおかわ みつぞう、1899年3月30日 - 1965年11月7日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。衆議院議員(2期)。 現在の大阪府高槻市生まれ。加島銀行に勤務するかたわら関西大学専門部経済科に通い、1923年に同専門部卒業し弁護士試験に合格。1927年に独立し、弁護士事務所を開業。 1931年に大阪府会議員に当選して政界入り(立憲民政党所属)、大阪府会では副議長まで務め上げ、1942年の総選挙で大阪4区(当時)から翼賛政治体制協議会推薦で立候補して国政入りを果たした。このため戦後、公職追放を受けるも、追放解除後の1952年総選挙に旧大阪3区から改進党から出馬し国政復帰。しかし翌年の総選挙で落選して再度国政から遠ざかる。
高梨 乙松(たかなし おとまつ、1898年〈明治31年〉9月… 高梨 乙松(たかなし おとまつ、1898年〈明治31年〉9月30日 - 1943年〈昭和18年〉7月6日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(大阪府第三区選出、当選1回)。 鳥取県西伯郡外江村(現在の境港市外江町)に生まれる。万太郎の三男。1920年(大正9年)に関西大学を卒業し、1921年(大正10年)に弁護士試験に合格。弁護士事務所を開業した。一般民刑事件の依頼に応じる。 1913年(大正2年)以来国民党の政策に共鳴し、旧党解散の後革新倶楽部となり、更に革新党となるのに伴って一貫して行動を共にする。革新党大阪支部長として同党内に重きをなす。 司法省委員となる。その他、榎本鋳造鉄工所監査役、油谷機械工作所監査役、油谷重工業常監などを務めた。
荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981… 荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981年11月9日)は、昭和期の実業家、警察官。 1924年、関西大学専門部卒業。警察に入り、警察官として勤務し、後に特高警察を経て、太平洋戦争末期に兵庫県警察部の労務係長を辞した。身長180cm、体重95kgの巨体。日本製鉄出入りの運輸会社富島組に入社し常務となる。終戦直後、GHQから、広島県呉市沖の瀬戸内海に堆積していた旧日本陸海軍の砲弾処理作業を請け負い巨額の富を得る。爆弾を2メートル程度の浅瀬に捨て、処理料を得て、再び掘り出して火薬を抜き去り、抜け殻をスクラップとして売り払い二重にもうけた。これを元手に解散寸前の山陽製鋼(現・山陽特殊製鋼)を1000万円で買収、1948年社長に就任した。
山錦 善治郎(やまにしき ぜんじろう、1898年4月17日 … 山錦 善治郎(やまにしき ぜんじろう、1898年4月17日 - 1972年5月27日)は、大阪府大阪市大淀区(現在の北区)出身で出羽海部屋所属の元大相撲力士。本名は山田 善次郎(やまだ ぜんじろう)。最高位は東関脇。現役時代の体格は173cm、107kg。 魚屋の次男に生まれ、関西大学専門部に進んで学生相撲で活躍、大学を中退して同郷の横綱大錦卯一郎を慕って出羽海部屋に入門した。四股名の山錦は本名と大錦の名から一文字ずつ取ったものである。1917年5月場所に初土俵を踏む。その後1922年1月場所に十両に昇進して2場所で通過、1923年1月場所で新入幕を果たす。 1927年10月場所で自己最高位の関脇に昇進したのをはじめ常に幕内上位で活躍、前頭5枚目で迎えた1930年5月場所では3日目に新大関玉錦に初黒星をつけると10日目に横綱宮城山も破り11戦全勝で平幕優勝を果たし、同時に平幕全勝優勝の第1号となった。
東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没… 東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[3][4][5][6][7][8][9]。本名品川 久義(しながわ ひさよし)[3][4]。海外を柔道行脚した前歴から、日本のサイレント映画の全盛期に現れた「スポーツ俳優」のひとりとして知られ、現代劇を中心に多く主演した[9][10]。
東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没… 東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名品川 久義(しながわ ひさよし)。海外を柔道行脚した前歴から、日本のサイレント映画の全盛期に現れた「スポーツ俳優」の一人として知られ、現代劇を中心に多く主演した。 1898年(明治31年)3月26日、島根県に生まれる。『日本映画俳優名鑑』の「昭和四年版」(1929年版・1928年発行)および「昭和五年版」(1930年版・1929年発行)には「島根縣の一寒村」に生まれたと記述されている。 長じて東京に移り、旧制・海城中学校(現:海城中学校・高等学校)に進学、同校を卒業後に大阪に移り、関西大学法学部に進学する。
高垣 善一(たかがき ぜんいち、1898年〈明治31年〉2月… 高垣 善一(たかがき ぜんいち、1898年〈明治31年〉2月25日 - 1966年〈昭和41年〉5月31日)は、日本の政治家。長男は元和歌山市議会議員の高垣弼。曾孫はテレビ朝日アナウンサーの島本真衣[要出典]。 1898年(明治31年)2月25日、和歌山県有田郡田殿村(現在の有田川町)で高垣紋之助の長男として生まれる。父が事業に失敗したため、1912年(明治45年)から地元の郵便局に勤務し、新宮郵便局、和歌山郵便局を経て、大阪中央電話局に転任した。1916年(大正5年)、退職して南海鉄道に入社したが、1918年(大正7年)には鉄道院に転職した。 1925年(大正14年)からは和歌山市三番丁の中村愛三郎法律事務所に勤め、関西大学で法律学や政治学について学んだ。
田中 藤作(たなか とうさく、1898年(明治31年)2月2… 田中 藤作(たなか とうさく、1898年(明治31年)2月20日 - 1979年(昭和54年)11月21日)は、大正末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 大阪府河内郡で、田中秀吉の長男として生まれる。1921年(大正10年)関西大学専門部法律科を卒業した。 1922年(大正11年)弁護士を開業。1931年(昭和6年)大阪府会議員に選出され3期在任し、同副議長も務めた。1937年(昭和12年)大阪市会議員に当選。その他、南方経済協会理事長、高津町会連合会長、高津警防団長、三和信用組合理事長なども務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で大阪府第2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。
森 敏治(もり びんじ、1898年〈明治31年〉1月29日 … 森 敏治(もり びんじ、1898年〈明治31年〉1月29日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の映画俳優。本名は森 敏治(もり としはる)とするものと花川戸 勇(はなかわど いさむ)とするものがある。 1898年(明治31年)群馬県多野郡鬼石町(現・藤岡市)の生まれ。関西大学に学ぶが中退。 倉橋仙太郎の新民衆劇学校で演技を学び、新民衆劇一派(のちに第二新国劇に改称)で活躍。同劇団には原健策、大河内傳次郎らがいた。第二新国劇解散後、日活太秦撮影所に入社。1933年、松竹下加茂撮影所に移籍。1936年、大都映画に移ると、本名の花川戸勇に改名。1939年に東宝へ移り、それから岡譲司劇団に加わる。
信正 義雄(のぶまさ よしお、1897年(明治30年)8月2… 信正 義雄(のぶまさ よしお、1897年(明治30年)8月23日 - 1985年(昭和60年)12月2日)は、大正末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)、滋賀弁護士会長、大津市会議長を務める。 奈良県出身。1919年(大正8年)、大阪府警察部に入り、同巡査、同警部補となる。一方で、1922年(大正11年)に関西大学法科を卒業し、弁護士試験に合格する。関西大学在学中に、同窓の先輩で大津市会議長の信正時治郎の知遇を得て、時治郎の二女・賤子に入婿する。 1923年(大正12年)、大津市材木町に法律事務所を開業し、京都、大阪にも手を広げ、大津弁護士会長を務める。1929年(昭和4年)、大津市会議員に初当選し、同副議長、同議長を務める。
末永 雅雄(すえなが まさお、1897年(明治30年)6月2… 末永 雅雄(すえなが まさお、1897年(明治30年)6月23日 - 1991年(平成3年)5月7日)は、日本の考古学者。橿原考古学研究所初代所長。関西大学名誉教授。文学博士(龍谷大学・論文博士・1948年)。大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)生まれる。日本学士院会員。文化勲章受章者。大阪狭山市名誉市民。奈良県明日香村名誉村民。 河内狭山の旧家の一人っ子として生まれた。1904年に狭山尋常小学校入学、父親の勧めで狭山池周辺の土器片集めに熱中する。隣家の陸軍大将植田謙吉に憧れて陸軍幼年学校入学を希望するも母親に反対され進学を断念、土器石器集めや、祖父が集めた古武器を眺めて暮らすうち、水戸学の学統をひく感化院院長高瀬真卿の日本刀の新聞連載を読み、高瀬と文通を始める。