吉田 雅夫(よしだ まさお、1915年1月2日 - 2003… 吉田 雅夫(よしだ まさお、1915年1月2日 - 2003年11月17日)は、日本のフルート奏者。北海道出身。本名︰吉田 正雄。NHK交響楽団首席奏者、東京藝術大学教授、日本フルート協会会長を務めた。演奏者、教育者として日本フルート界の発展に尽力し、多大な功績を残した。 幼少より音楽に強い興味を示し、15歳ではじめにピッコロを、間もなくフルートを始めた。中学校(旧制)卒業にあたって音楽学校へ進むことを親に反対され、慶應義塾大学法学部法律学科(フランス法)に入学。在学中はマンドリンクラブとワグネル・ソサイエティ・オーケストラに在籍した。大学で同姓同名の人物が3人おり、別人宛の月謝の督促状が届いたことに腹を立てて、以後「雅夫」を名乗るようになった。
下田 謙治(しもだ けんじ、1915年1月2日 - 1985… 下田 謙治(しもだ けんじ、1915年1月2日 - 1985年1月17日)は、日本の経営者。 東京都出身。1937年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。金沢支店長、計理局長、国庫局長を歴任。1965年5月に退職し、積水化学工業専務に就任した。1969年5月に副社長に就任し、1971年5月には社長に昇格した。1973年5月に取締役相談役に就任し、1979年6月から相談役を務めた。 1985年1月17日結腸がんのために死去。70歳没。
高山 捷一(たかやま しょういち、1915年1月2日 - 2… 高山 捷一(たかやま しょういち、1915年1月2日 - 2017年3月5日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、航空工学者。最終階級は海軍技術少佐、航空自衛隊空将。戦前は零戦の審査補佐、銀河の設計・試作、紫電改の開発審査など、戦後は防衛庁技術幹部、技術開発官として国産初の量産型ジェット機T-1の開発やF-104Jの選定・ライセンス生産などを手掛けた。叙正四位。 1915年1月2日、高山益三の息子として名古屋で生まれる。父の転勤のため、1917年に大阪に転居。1927年に北野中学校に入学。父の失業により、鴻池家の奨学金を受けて卒業。私塾「清和塾」の塾生になり、奨学金を受けて第三高等学校、東京帝国大学に入学した。
千葉昇 隆利(ちばのぼり たかとし、1915年1月2日 - … 千葉昇 隆利(ちばのぼり たかとし、1915年1月2日 - 没年不詳)は、千葉県野田市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は長妻 高治。最高位は十両6枚目。 春日野部屋に入門し、1929年1月「野田ノ里」の四股名で初土俵を踏む。1936年5月十両昇進、この間四股名を「千葉昇」に改めた。十両は連続6場所務めた。幕下に落ちた1942年1月に廃業した。
芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1… 芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1日 - 1993年(平成5年)5月9日)は、日本の教育者、詩人、歌人。 山形県白鷹町横田尻に生まれる。 1935年山形師範学校(現:山形大学地域教育文化学部)卒業後、山大教育学部附属小学校、山形南高、上山高での勤務を経て、長井高校長を務める。退職後、日大山形高校に移り教鞭を執った。旧制山形二中・山南には23年にわたり在籍し、児童文学作家である鈴木実は文芸部で指導を受けた。 アララギ派の歌人として出発し、1943年に情報局・朝日新聞主催の懸賞作詞「大日本の歌」が一位入賞。戦後は、戦中の反省から短歌を捨て詩作におもむく。1952年に洋酒壽屋(現:サントリー)主催で公募された新国民歌では応募した「われら愛す」が一位で入選する。
北村 治禧(きたむら はるよし、1915年1月1日 - 20… 北村 治禧(きたむら はるよし、1915年1月1日 - 2001年8月21日)は、日本の彫刻家、日本芸術院会員。長崎県出身。父は北村西望、妻路子(大正12年生まれ)は柿原万蔵(秩父鉄道社長)の二女。 父西望は曠原社を率いると、1922年(大正11年)、西ケ原に彫刻研究所を開いた。1953年(昭和28年)に父が当時の滝野川区から東京都武蔵野市にアトリエと住まいを移すと、北村治禧がひとりで創作を続け、1983年(昭和58年)に建て替えた。東京都北区は治禧の没後、2002年にアトリエを受贈し、寄託された作品とともに「(仮称)彫刻アトリエ館」として定期的に公開している。 主な執筆者、編者の順。
福知海 勝美(ふくちうみ かつみ、1915年1月1日 - 没… 福知海 勝美(ふくちうみ かつみ、1915年1月1日 - 没年不明)は、昭和時代の元大相撲力士。若藤部屋所属。本名は水上 勝美。最高位は十両9枚目。 福岡県宗像郡福間町(現福津市)出身。若藤部屋に入門し、1932年2月「西郷」の四股名で初土俵を踏む。1936年5月十両昇進、この間四股名を「福知海」に改めた。十両で5勝6敗と負け越し、幕下に落ちた。1937年5月に廃業した。
名越 時正(なごや ときまさ、1915年(大正4年)1月 -… 名越 時正(なごや ときまさ、1915年(大正4年)1月 - 2005年(平成17年)10月11日)は、日本の近世思想研究者。専門は水戸学(徳川光圀の唱えた日本学)。彰考館総裁の名越克敏(南渓)の子孫である名越時孝(漠然)の孫であり、父は名越時中(陸軍少将)。 東京帝国大学で平泉澄に学び、その高弟として知られている。水戸市文化財審議会委員・茨城県文化財審議会委員。水戸史学会会長。日本学協会の設立準備委員会の理事。
不破 整(ふわ せい、1915年 - 1982年11月)は、… 不破 整(ふわ せい、1915年 - 1982年11月)は、東京府出身のサッカー選手。ポジションはGK。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)を卒業して、第一早稲田高等学院へ、その後早稲田大学に入学。ア式蹴球部に在籍した。 不破が21歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出されたが、同じ早稲田大学から代表に選出された佐野理平がスタメンを占めたため、出場機会は無かった。 また、早稲田大学在学中の1938年に全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝、1939年には同大會(第19回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で準優勝に貢献した。 1940年に早稲田大学理工学部採鉱冶金学科を卒業、同年日本製鋼所に入社するが、1941年春に太平洋戦争のために召集され満州に配属された。
木村 幸吉(きむら こうきち 1915年 - 1945年)は… 木村 幸吉(きむら こうきち 1915年 - 1945年)は、日本の元アマチュア野球選手。愛知県出身。 愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)から1935年に早稲田大学に進み、野球をプレーした。ポジションは左翼手だったと伝わる。 早大卒業後応召され、1945年(正確な死没月日は不明)にフィリピンで戦死した。享年30。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
成沢 翠映(なりさわ すいえい、本名:喜三郎、1915年(大… 成沢 翠映(なりさわ すいえい、本名:喜三郎、1915年(大正4年) - 1998年(平成10年))は、日本の画家。
三井 惣一(みつい そういち、1915年(大正4年) - 1… 三井 惣一(みつい そういち、1915年(大正4年) - 1953年(昭和28年))は、日本の画家。
尾亀 清四郎(おがめ せいしろう、1915年 - 2015年… 尾亀 清四郎(おがめ せいしろう、1915年 - 2015年)は、日本の建築設備士。大阪工業大学大樹会初代会長。三晃空調元会長・相談役。日本建築協会・日本建築設備士協会元理事。建築設備技術者協会近畿支部長。大阪府建築士会名誉顧問・元副会長。 空気調和・衛生工学会近畿支部元副支部長。 1936年関西高等工学校(現:大阪工業大学)工学部建築学科卒業。戦時下で外地中隊指揮班での任務を経て、内地に引き揚げた後の1946年三晃空調に入社。1947年同社取締役。1960年専務取締役。1964年同社代表取締役社長。1979年同社取締役会長。この間、1974年大阪工業大学建築士同窓会「大樹会」初代会長を務めた。
小坂 淳夫(こさか きよお、1915年 - 2005年)は、… 小坂 淳夫(こさか きよお、1915年 - 2005年)は、日本の内科医。岡山大学学長や、岡山県立大学学長、大学入試センター所長を務めた。従三位勲二等旭日重光章。 岡山県赤磐郡鳥取上村(現赤磐市)山口生まれ。1940年岡山医科大学(現岡山大学)卒業。1949年医学博士。1957年岡山大学医学部教授(内科学)。1965年岡山県医師会理事。1973年医学部長。同年岡山県三木記念賞受賞。74年日本糖尿病学会中国・四国支部長。75年岡山大学学長。82年大学入試センター所長。83年山陽新聞社賞受賞。87年勲二等旭日重光章受章。88年岡山県文化賞受賞。同年赤坂町名誉町民。93年初代岡山県立大学学長。05年従三位。
磯野 政次(いその せいじ、1915年 - 没年不明)は、和… 磯野 政次(いその せいじ、1915年 - 没年不明)は、和歌山県出身のプロ野球選手。 海南中学校から関西大学を経て、1938年に東京セネタースへ入団。同年の秋に退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
熊倉 正弥(くまくら まさや、1915年-1995年)は、日… 熊倉 正弥(くまくら まさや、1915年-1995年)は、日本の記者、作家。神田仁人(ほうじん)とも 。 熊倉弥五郎の次男で、姉に島津フミヨがいる。慶應大学出身。1939年に朝日新聞社へ入社し、論説委員などを務める。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松宮 康夫(まつみや やすお、1915年 - 1995年)は… 松宮 康夫(まつみや やすお、1915年 - 1995年)は、日本の実業家。東京貿易株式会社創業者、東京貿易社長。 1940年(昭和15年)慶応義塾大学経済学部卒業。 兵役を終えて帰国した後、1947年東京貿易商会(1957年東京貿易に社名変更)を設立。その他日本貿易会、日本鉄鋼輸出組合、日中経済協会、ソ連東欧貿易会、国際貿易促進協会各理事、経済団体連合会評議員、東京商工会議所貿易部会常任委員、経済同友会幹事、日豪経済委員会、日ソ経済委員会各委員、日本・カタール友好協会副会長を務め、1995年取締役会長に就任した。 第1回経済界大賞 敢闘賞受賞 1973年 藍綬褒章受章 東京貿易グループ社史 35年のあゆみ
長濱 善夫(ながはま よしお、1915年(大正4年) - 1… 長濱 善夫(ながはま よしお、1915年(大正4年) - 1961年(昭和36年)6月)は日本の医学者、眼科医。医学博士。千葉医科大学(千葉大学)卒業。千葉大学医学部講師、国立横浜療養所内科医長を歴任した。日本東洋医学会の創設にも携わる。 1915年、神奈川県生まれ。1940年千葉医科大学卒業後、同大の眼科教室に所属し、伊藤弥恵治の薫陶を受け、主として東洋医学研究室において研究に従事する。 1947年(昭和22年)藤平健らとともに千葉医科大学の公認課外講座として「東洋医学自由講座」を設置、1950年(昭和25年)日本東洋医学会の創設にあたっては学会準備委員会委員として尽力した。 1949年春に、千葉医科大学で視神経萎縮という悪性の眼病を患った鍼響に敏感な患者と遭遇したことがきっかけで鍼響の研究を行うようになった。
相沢 久(あいざわ ひさし、1915年 - )は、日本の政治… 相沢 久(あいざわ ひさし、1915年 - )は、日本の政治学者。宮城県生まれ。東京帝国大学法学部卒。福島大学助教授、1964年から1965年、1970年から1971年にかけての2度、西ドイツ・ケルン大学に学ぶ。アテネオ・デ・マニラ大学 (Ateneo de Manila University) 客員教授、上智大学法学部教授、法学部長。文化庁宗教法人審議会委員。 1962年 東北大学 法学博士 「政教分離・信教の自由の研究」
稲田 孝(いなだ たかし、1915年 - 2005年)は、日… 稲田 孝(いなだ たかし、1915年 - 2005年)は、日本の中国文学者。 1940年東京帝国大学文学部支那文学科卒。東京学芸大学助教授、教授、1978年定年退官、名誉教授、杏林大学教授、日本大学文理学部教授。
横塚 光雄(よこづか みつお、1915年 - 1977年)は… 横塚 光雄(よこづか みつお、1915年 - 1977年)は、フランス文学者、小説家。 東京帝国大学仏文科卒、1939年佐倉で入営、華北へ赴く。1943年除隊、1944年再召集、1945年伍長で復員。1953年横浜大学[疑問点 – ノート]助教授、横浜市立大学教授。在職中に死去。アンドレ・マルローの研究、フランス文学の翻訳を行い、軍隊経験を描いた小説が没後刊行された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - 2013年)は… 吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - 2013年)は、日本の美術評論家。 神奈川県横浜市出身。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山富士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。 東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。
矢板 玄(やいた くろし、1915年 - 1998年)は、昭… 矢板 玄(やいた くろし、1915年 - 1998年)は、昭和期の実業家。亜細亜産業株式会社社長。 1915年(大正4年)、栃木県矢板市にて、矢板玄蕃(げんば)の長子として生まる。玄蕃の跡を継ぎ、矢板家の十五代当主となる。なお玄蕃の祖父は矢板市の名士矢板武である。 横浜高等工業学校(現在の横浜国立大学理工学部)の電気化学科を卒業後、昭和電工に入社した。その後まもなく中国大陸に渡り、大日本帝国陸軍の命を受け、矢板機関を組織し活躍した。1940年(昭和15年)、勲六等瑞宝章を受勲する。 第二次世界大戦後は亜細亜産業株式会社を起業し、社長となる。亜細亜産業が解散した後は、1957年(昭和32年)に東山工業株式会社の取締役となる。
森下 貞義(もりした さだよし、1915年〈大正4年〉 - … 森下 貞義(もりした さだよし、1915年〈大正4年〉 - 2001年〈平成13年〉3月)は、日本の紙芝居師。東京府荒川出身。父は紙芝居師の森下貞三、弟も同じく紙芝居師の森下正雄。 17歳のとき、ごく自然に父と同じ紙芝居師の仕事に就いた。当時は日本全国の紙芝居師の数は5万人ともいわれる、紙芝居の全盛期であった。 戦中は仕事を中断したものの、1948年(昭和23年)に復帰。この頃が紙芝居の第2のピークであり、東京だけでも3000人以上の紙芝居師がいた。1953年(昭和28年)、東京都紙芝居コンクールで特選に選ばれた。前年の同コンクールで弟の正雄も特選に選ばれていたことで、紙芝居一家として有名になった。
小金丸 幾久(こがねまる いくひさ、大正4年(1915年) … 小金丸 幾久(こがねまる いくひさ、大正4年(1915年) - 平成15年(2003年)3月6日)は、長崎県壱岐郡武生水村(現・壱岐市)出身の彫刻家、太平洋美術学校教授、東京大学建築学科講師。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
香川 美人(かがわ よしと、1915年(大正4年)― 200… 香川 美人(かがわ よしと、1915年(大正4年)― 2008年(平成20年))は、愛媛県大三島出身の歌人。実兄の香川末光,甥の香川哲三も歌人。1930年(昭和5年)、「満州短歌」(後の「短歌中原」)に入会し八木沼丈夫に師事した。終戦後、郷里の愛媛県大三島に引き揚げ、1948年(昭和23年)に香川末光・藤原弘男らと「うづしほ短歌会」を結成した。1954年(昭和29年)に「歩道短歌会」に入会し佐藤佐太郎に師事した。「満州短歌」及び「短歌中原」時代の作品を纏めた歌集『碧落』、「歩道」入会後の作品を収めた歌集『風濤』、歌集『海光』がある。写生に立脚した精緻な対象描写と日常生活を柔軟な感性で捉えた歌風に特色がある。
初代 猿若 清方(しょだい さるわか きよかた、1915年(… 初代 猿若 清方(しょだい さるわか きよかた、1915年(大正4年)- 2003年(平成15年))は、日本舞踊家、振付師、俳優、脚本家。江戸時代以来途絶えていた舞踊である猿若流を復興した。本名、堀越実。 大正4年、東京・亀戸生まれ。新内の太夫だった父の影響で4歳から坂東三寿次に師事し日本舞踊を習う。11歳より初代花柳輔三郎の内弟子となり、花柳輔五郎を名乗った。1941年(昭和16年)に当時の花柳流家元である二代目花柳壽輔の許しを得て花柳流を辞し、猿若舞雀(さるわか ぶじゃく、舞雀は初代傳九郎の俳名)を名乗り、江戸時代以来途絶えていた猿若流を復興させ七世家元となった。1947年(昭和22年)に清方と改名。
安藤 之制(あんどう ゆきのり、1915年 - 没年月日不明… 安藤 之制(あんどう ゆきのり、1915年 - 没年月日不明)は、愛知県出身の元プロ野球選手(内野手)。
若松 紀志子(わかまつ きしこ、1915年 - 2012年4… 若松 紀志子(わかまつ きしこ、1915年 - 2012年4月23日)は、日本のピアニスト。2010年現在95歳を迎えた時点でも、ピアノ指導に従事。教え子の数は1000人を超える。指揮者小林研一郎を見出した。アザミ会・アートスペースエリコーナ主宰。夫は画家の若松光一郎。
磯野 友彦(いその ともひこ、1915年 - 1986年11… 磯野 友彦(いその ともひこ、1915年 - 1986年11月9日)は、日本の哲学者。 東京出身。成蹊小学校、東京市立第一中学校、正則中学校、早稲田大学文学部哲学科卒、同文学部助教授、教授、85年定年、名誉教授。1966年『哲学逍遥 懐疑主義と動物的信』(ジョージ・サンタヤーナ)で日本翻訳文化賞受賞。
村瀬 輝光(むらせ てるみつ、1915年 - 1985年5月… 村瀬 輝光(むらせ てるみつ、1915年 - 1985年5月9日)は、昭和時代後期日本の中等教育教員。神奈川県の2代目県民歌「光あらたに」の作詞者として知られる。 また、推理作家としてのペンネームに深草 蛍五(ふかくさ けいご)がある。 横浜市中区出身。旧制厚木中学校を経て神奈川師範学校を卒業した後、1945年(昭和20年)に旧制相洋中学校の国語教諭となり、1947年(昭和22年)の新制高等学校への改組に伴い校歌を作詞した。 1950年(昭和25年)、神奈川県が行った2代目県民歌の懸賞公募で応募作「光あらたに」が採用され、同年4月10日付で制定される。ところが、制定から15年余りを過ぎた1967年(昭和42年)に当時の津田文吾知事が4番の歌詞について「大気汚染が社会問題化する中で不適切な表現ではないか」として改訂を指示し、作曲者の飯田信夫と共に難色を示したが結論が出ないまま1968年(昭和43年)を以て知事から問題視された4番自体が廃止されることになった。
加藤 淑子(かとう としこ、1915年 - 2017年1月2… 加藤 淑子(かとう としこ、1915年 - 2017年1月2日)は、ロシア料理店スンガリーの店主。 1915年、京都府に呉服商の娘として生まれる。京都市立堀川高等女学校卒業。 1935年に津田幸四郎と結婚する(婿入り婚)。その直後、満州に移住する。幸四郎は満州国の特務機関員をしていたとの情報がある。白系ロシア人宅に間借りして住んでいたこともある。1943年ごろ、幸四郎が徴兵される。終戦直後、収容所生活となる。ソ連軍兵士が土足で入ろうとした際、毅然と「ここは私たちの眠る場所です。畳の上を靴で歩かないでください」と注意する 。 1946年秋、日本に帰国する。無事だった夫・幸四郎に再会し、一家5人の生活がスタートする。
播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年… 播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年7月19日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。兵庫県神戸市出身。 兵庫県御影師範学校附属小学校を経て、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)に入学し、サッカー部に所属。右近徳太郎が2年先輩に、直木和、津田幸男および二宮洋一が1年後輩に当たる。1933年1月に開催された第15回全国中等学校蹴球選手権大会での優勝に貢献した。 1933年に神戸一中を卒業して、慶應義塾大学予科に入学。慶應入学後よりソッカー部に所属して予科1年次よりレギュラー選手となった。また、在学中には慶應BRBで1度(1936年)、慶應義塾大学として1度(1937年)の計2回全日本選手権(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝した。
山本 甚作(やまもと じんさく、1915年(大正4年) - … 山本 甚作(やまもと じんさく、1915年(大正4年) - 1996年(平成8年)10月4日)は、日本の画家。
室井 豊(むろい ゆたか、1915年 - 1965年10月6… 室井 豊(むろい ゆたか、1915年 - 1965年10月6日)は、大阪府出身のプロ野球選手。主なポジションは捕手。
中田 武雄(なかた たけお、1915年(大正4年) - 19… 中田 武雄(なかた たけお、1915年(大正4年) - 1943年(昭和18年)7月22日)は、昭和初期の中等学校野球及び大学野球で活躍した野球選手。1933年(昭和8年)の第19回全国中等学校優勝野球大会準決勝において、兵庫県立明石中学校の投手として中京商業学校との延長25回の試合を投げきったことで著名。左投げ左打ち。
由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11… 由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11月26日)は、日本のアマチュア野球選手。東武雄や梶原英夫と並んで、東京大学野球部史上の「名投手三羽烏」と呼ばれる人物の一人。1943年11月26日満州興山で戦死。野球殿堂博物館の「戦没野球人モニュメント」に刻まれている。
本橋 精一(もとはし せいいち 1915年 - 1946年1… 本橋 精一(もとはし せいいち 1915年 - 1946年1月31日)は、日本の元アマチュア野球選手。東京都出身。
佐々木 現順(ささき げんじゅん、1915年 - 2010年… 佐々木 現順(ささき げんじゅん、1915年 - 2010年1月26日)は、天台真盛宗の僧、仏教心理学者。 1915年、福井県生まれ。京都帝国大学文学部を卒業し、大谷大学助教授、教授を務めた。1950年代にはドイツ、ハンブルク大学で仏教学の客員教授も務めた。1962年、「仏教心理学の研究」を大谷大学に提出して文学博士号を取得する。1986年に定年退職し、名誉教授となった。西徳寺住職。 仏教を心理学の立場からとらえる仏教心理学の提唱者である。
畑江 五郎(はたえ ごろう、1915年 - 1980年11月… 畑江 五郎(はたえ ごろう、1915年 - 1980年11月9日)は、日本の競走馬生産者、馬主。 兵庫県神戸市出身。慶應義塾大学法学部卒業後の1941年、北海道・日高に渡り、牧場を開設して学生時代から思い描いていた競走馬生産を始める。牧場を開設するにあたり、当時の馬産牧場の最大手であり名門でもあった小岩井農場からフロラヴァースを譲り受けるなどして自身の理想を実現しようと力を入れていた。 第二次世界大戦末期の1944年、赤紙が届く。出征前、牧場所有の繁殖牝馬を保存しておくように家族に命じていたという。 畑江は中国大陸での戦闘に従事。1945年の第二次世界大戦終結後、ソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留を経験することとなる。
久野 古夫(くの ひさお、1915年 - 2009年6月22… 久野 古夫(くの ひさお、1915年 - 2009年6月22日)は、テレビ技術者。静岡県生まれ。 松下電器製作所(現在のパナソニック)における、ラジオ、テレビの開発黎明期の中心的メンバーの一人である。
朴 海禎(パク・ヘジョン、朝鮮語: 박해정/朴海禎、1915… 朴 海禎(パク・ヘジョン、朝鮮語: 박해정/朴海禎、1915年または1916年7月21日 - 1966年2月6日)は、大韓民国の警察官僚、政治家。元交通部長官、制憲・第3・4・5代韓国国会議員。本貫は密陽朴氏。 日本統治時代の慶尚北道慶山郡(現・慶山市)出身。大邱公立高等普通学校、大邱師範学校講習科、中央大学専門部・法学部卒。光復後は慶尚北道警察局総務課長、警察庁警察学校副校長、安東警察署長、順天地方警察署長、民主党創設メンバー・中央委員・政策委員・慶山郡党委員長、国会財経委員・予決委員、民主党政権の交通部長官を務めた。 1966年2月6日、ソウル市西大門区の自宅にて脳溢血により死去。享年51。
松岡 三郎(まつおか さぶろう、1915年 - 2010年6… 松岡 三郎(まつおか さぶろう、1915年 - 2010年6月5日)は、日本の法学者。専門は労働法。学位は、法学博士(明治大学・論文博士・1959年)(学位論文『憲法の労働権の法社会学的展開について : 日本における労働権の機能と保障機構の特殊性に関する研究』)。明治大学名誉教授。 1941年東京帝国大学法学部卒、高文(行政科・司法科)合格、同助手。 1945年内務省に入る。のち厚生省、労働省、法務府(法務省の前身)に勤務。この間、労働省設立に伴う労働諸立法事務に従事。 1949年明治大学法学部教授、法学部学部長、理事、1986年定年退任、名誉教授。 1959年に学位論文『憲法の労働権の法社会学的展開について : 日本における労働権の機能と保障機構の特殊性に関する研究』 で明治大学より法学博士の学位を取得。
津留 宏(つる ひろし、1915年(大正4年) - 1982… 津留 宏(つる ひろし、1915年(大正4年) - 1982年(昭和57年)10月13日)は、日本の心理学者。神戸大学名誉教授。発達心理学、青年心理学専攻。 東京生まれ。東京文理科大学心理学科卒。神戸大学教育学部助教授、教授、1979年定年退官、名誉教授。
橘髙 重義(きったか しげよし、1915年 - 2007年1… 橘髙 重義(きったか しげよし、1915年 - 2007年12月8日) は、日本の化学者。学校法人東京理科大学理事長、東京理科大学山口短期大学学長、山口東京理科大学学長、日本私立大学協会会長などを歴任した。勲二等瑞宝章受章。 岡山県出身。1938年東京物理学校(現東京理科大学)理化学部卒業。応用物理学専攻。1959年北海道大学理学博士。1978年静電気学会功績賞受賞。同年から学校法人東京物理学園理事長を務め、東京理科大学の全国規模への拡大を行うなどした。 1987年東京理科大学山口短期大学学長、文部省大学審議会委員。静電気学会顧問、日本障害者高等教育支援センター会長や、日本私立大学協会会長等も務め、1992年日本私立大学団体連合会会長。
張 俊河(チャン・ジュナ、장준하、1915年または1918年… 張 俊河(チャン・ジュナ、장준하、1915年または1918年8月27日 - 1975年8月17日)は、大韓民国の政治家、官僚、ジャーナリスト、独立運動家、社会運動家、実業家。雑誌『思想界(朝鮮語版)』を創刊し、朴正煕政権下での言論面での抵抗に寄与した。日本名は張安俊河。 日本統治時代の朝鮮の平安北道朔州郡に牧師の長男として生まれる。父親が独立運動に関わっていたことから各地を転々とし、中学卒業後に日本へ留学。東洋大学予科を経て、長老派の日本神学校を卒業する。1944年1月20日に学徒出陣によって日本軍に入隊、創氏改名では「張安俊河」と名乗る。平壌駐屯の歩兵第41連隊補充隊(朝鮮第42部隊)で訓練を終えたのち2月から中国戦線に参加し、江蘇省徐州の第65師団輜重隊(専7991部隊)を経て同地の独立歩兵第58大隊(長:柄田節大佐)に配属されたが、同年7月7日に尹慶彬(朝鮮語版)、洪錫勳、金永祿とともに脱走、安徽省阜陽で別の部隊から先に脱走した学徒兵の金俊燁(朝鮮語版)と合流した後、中国中央軍官学校臨泉分校の朝鮮光復軍幹部訓練班に入隊し、国民政府軍へ入隊して準士官に任じられ、1945年1月31日には重慶に赴いて、大韓民国臨時政府の光復軍に加わり金九の秘書となった。
河原 修平(かわはら しゅうへい、1915年 - 1974年… 河原 修平(かわはら しゅうへい、1915年 - 1974年8月2日)は、日本の画家。岡山県倉敷市出身。 1915年、倉敷市土手町(現倉敷美観地区)の砂糖卸商に産まれる。小学校時代より竹久夢二に憧れ、金光中学校へ進んだ後から絵筆を握るようになった。卒業後は上京して川端画学校、太平洋美術学校にて修業。池袋モンパルナスに住み、三橋健や渡辺一郎と交流を持った。倉敷に戻ってからは「倉敷素描絵画研究所」を開き、後続の育成にあたる。 晩年は坂田一男と親交を深めており、河原のアトリエ「皮腹堂」は坂田が命名したものである。命名の礼にと河原は知人が狩りで仕留めた狸を写生し、「タヌキ親父の坂田にタヌキ鍋を馳走しよう」と写生した絵『屍狸鶏観図』を贈ったという。
阿部 醒石(あべ せいせき、本名:阿部 俊一(あべ しゅんい… 阿部 醒石(あべ せいせき、本名:阿部 俊一(あべ しゅんいち)、1915年 - 2011年5月18日)は、日本の書道家、合気道家。大阪府高槻市出身。合気道開祖植芝盛平の高弟で、植芝から非公式に合気道十段位を与えられた。 1934年に父親に勧められて書道を習い始め、1948年より書道教師として大阪府立北野高等学校で指導を始めた(1982年まで)。やがて書道家としての技術的・精神的な行き詰まりを感じた阿部は、二木謙三が主催する禊の練成会に参加する。この頃植芝盛平の弟子でもあった二木から合気道を勧められた。 1952年、以前から親交のあった田中万川の合気道道場で植芝と偶然出会い、直後に入門。阿部は書道と並行して合気道の修行を積む中で、書道、合気道、そして禊に共通する呼吸法に感銘を受け、やがて「気」の概念を理解するに至った。
郡司敏夫(ぐんじ としお、俳号:郡司山梔(くちなし)、191… 郡司敏夫(ぐんじ としお、俳号:郡司山梔(くちなし)、1915年(大正4年) - 1991年(平成3年)2月13日)とは、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)の「足尾焼」の陶芸家である。 「足尾銅山」の「古河鉱業」に勤務し「足尾俳壇」で足尾の俳句活動に携わった後、民芸品「足尾山の山の神」を作り出し、「足尾銅山」から新しい伝統工芸品の焼き物「足尾焼」の基礎を作った先駆者の一人であり、足尾町にかつてあった「足尾焼」の窯元「壺中坐」の創始者である。 1915年(大正4年)、栃木県上都賀郡足尾町に生まれる。父親が勤めていた足尾銅山の社宅で生まれ育った。敏夫が生まれる前に実母は鹿沼の実家に戻ってしまい、生まれた敏夫は足尾に戻された。
林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月3… 林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家。本名フミコ。身長140cm少々。 幼少期からの不遇の半生を綴った自伝的小説『放浪記』(1928年)で一躍人気作家となる。詩情豊かな文体で、暗い現実をリアルに描写する作風。一貫して庶民の生活を共感をこめて描き、流行作家として明治・大正・昭和を駆け抜けた。作品に『風琴と魚の町』(1931年)、『晩菊』(1948年)、『浮雲』(1951年)などがある。 著書『放浪記1 林芙美子文庫』の後書きでは山口県下関市生まれとなっている。尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)卒。私生児として生まれ、養父・実母と共に行商を営みながら日本の各地を放浪する生活の中で、露天商やカフェの女給等の様々な職業を経験している。