住田 善平(安政2年11月7日(1855年12月15日) -… 住田 善平(安政2年11月7日(1855年12月15日) - 明治39年(1906年)9月8日)は、日本の実業家、政治家。住田呉服店の主人。旧姓・瀬尾。元米子銀行監査役。初代米子町名誉助役。第四代米子町長。 元米子町会議員住田寅次郎の父。娘は境町(現境港市)の回船問屋武良(むら)家に嫁いだ。漫画家水木しげる(本名:武良茂)は善平の曾孫にあたる。 鳥取県西伯郡成実村大字美吉・瀬尾家に生まれた。與喜蔵の二男。幼名を光太郎と称す。米子東倉吉町住田善吉の養嗣となり家督を継承し四代の主となる。住田氏は近世期中ごろから東倉吉町に居住し、“住田屋”を号した。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した。
佐々田 懋(ささだ すすむ / すすみ、安政2年11月6日(… 佐々田 懋(ささだ すすむ / すすみ、安政2年11月6日(1855年12月14日) - 昭和15年(1940年)3月27日)は、日本の実業家、政治家。島根県多額納税者。佐々田合名会社社長。衆議院議員、貴族院議員。 孫・百合子は元中国電力会長櫻内乾雄の妻。 石見国那賀郡木田村(現・島根県浜田市)の豪農である佐々田家に生まれる。佐々田家は尼子義久の子佐々田宗久が、尼子氏の先祖である佐々木氏と妻の実家の名である田中氏の名を取って創始した。和漢学を修めた。 浜田県会議員、浜田県十五等出仕、那賀郡会議員、島根県会議員、島根県会議長を務めた。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に島根県第5区から出馬し衆議院議員に初当選。
沢山 精八郎(澤山、さわやま せいはちろう、1855年12月… 沢山 精八郎(澤山、さわやま せいはちろう、1855年12月11日(安政2年11月3日) - 1934年(昭和9年)3月21日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 肥前大村藩士・沢山熊右衛門の長男として生まれる。長崎広運館にて英学を修める。1899年(明治32年)家督を相続した。島原水電、沢山汽船、沢山兄弟商会、遠洋漁業、九州汽船各社長、長崎銀行頭取、長崎製鉄所取締役などを歴任した。ほか、長崎市名誉参事会員、同市会議員、長崎商業会議所副会頭などを務めた。 1925年(大正14年)長崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1932年(昭和7年)9月28日まで在任した。
中村 弥六(なかむら やろく、安政元年12月8日〔1855年… 中村 弥六(なかむら やろく、安政元年12月8日〔1855年1月25日〕 - 昭和4年〔1929年〕7月7日)は日本の林学者・農商務官僚・政治家(代議士)。号は「背水」または「背山」で、通称「背水将軍」。 日本初の林学博士の一人で、原敬首相暗殺犯中岡艮一の大叔父(中岡の父・精の叔父)にあたる。歴史学者の中山久四郎元東京文理科大学教授は養子で、その長女二三子は、南洋拓殖社長を務めた下田文一の妻。 信濃国伊那郡高遠城下(現在の長野県伊那市)に儒学者・中村元起(黒水と号す)の二男として生まれる。中村家は代々高遠藩の藩儒の家柄。明治2年(1869年)上京し安井息軒に学んだのち、翌年貢進生として開成学校に入学する。
有友 正親(ありとも まさちか、旧姓・檜田、1855年11月… 有友 正親(ありとも まさちか、旧姓・檜田、1855年11月30日(安政2年10月21日)‐ 1913年(大正2年)2月15日) は、明治期の篤農家、名望家、実業家、政治家。衆議院議員。族籍は愛媛県平民。 伊予国喜多郡若宮村(現愛媛県大洲市) の檜田家に生まれ、9歳で同郡菅田村(現大洲市)の有友平右衛門(正盛)の養子となる。藩校で学んだが、ほとんどは独学で学問を習得した。農業を営む。 明治維新後、喜多郡租税掛、愛媛県地租改正顧問、戸長、学務委員、県勧業委員などを務めた。1882年(明治15年)に結成された立憲改進党に入党。1884年(明治17年)5月、愛媛県会議員に選出された。松方デフレで困窮した農民たちを代弁して、県の四国新道開削計画に反対した。
佐々木 正蔵(ささき しょうぞう、安政2年10月21日(18… 佐々木 正蔵(ささき しょうぞう、安政2年10月21日(1855年11月30日) - 昭和11年(1936年)2月7日)は、明治・大正期に活動した治水家・政治家(衆議院議員)。 筑後国御井郡光行村(現・福岡県小郡市)の佐藤家に生まれる。のちに佐々木家の養子となり、上東鯵坂村の庄屋となる。 下西鯵坂村の庄屋であった田中政義・新吾親子とともに、たびたび氾濫を起こしていた筑後川の治水のための調査を進める。明治14年(1881年)、田中政義・新吾親子とともに福岡県会議員に当選、県会で筑後川改修の必要を説いた。また、上京して政府との交渉もおこなっている。 明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙では、福岡県第四区(御井郡・竹野郡など)から立候補して衆議院議員に当選、大成会に属した。
末延 道成(すえのぶ みちなり、1855年11月28日(安政… 末延 道成(すえのぶ みちなり、1855年11月28日(安政2年10月19日) - 1932年(昭和7年)5月24日)は、日本の実業家・政治家。東京海上火災保険取締役会長、貴族院議員。 土佐国(高知県)香美郡夜須村出身。医師の末延立誠(1827-1896)の長男として生まれる。15歳で藩校・到道館に入り、1872年(明治5年)に大阪に出て英語を学んだ後、上京して立教学校(立教大学の前身の一つ)で学ぶ。その後、開成学校を経て1879年(明治12年)に東京大学法学部を卒業。翌年磯野計とともに岩崎弥太郎の給費留学生に選ばれて英国留学後、三菱入社。三菱汽船支配人や取締役ほか、日本郵船の重役を務め、1887年(明治20年)には明治生命、東京海上の取締役を務めた。
石塚 重平(いしづか じゅうへい、安政2年10月10日(18… 石塚 重平(いしづか じゅうへい、安政2年10月10日(1855年11月19日) - 明治40年(1907年)8月12日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲政友会→甲辰倶楽部→大同倶楽部)。 信濃国佐久郡小諸城下(長野県佐久郡小諸町、北佐久郡小諸町を経て現在の小諸市)の商家に生まれる。1877年(明治10年)に盤鴻社という政社を結成して、政談会や討論会を開催して自由民権運動を推進した。また小諸町会議員や北佐久郡会議員に選出され、布施銀行や小諸銀行の設立にも関わった。 1881年(明治14年)、自由党の創設に加わったが、1884年(明治17年)に自由党は大阪で解党を決定した。大阪からの帰途、内乱陰謀の嫌疑で逮捕されるが程なく釈放された。
浜名 信平(はまな しんぺい、安政2年10月10日(1855… 浜名 信平(はまな しんぺい、安政2年10月10日(1855年11月19日) - 大正5年(1916年)1月29日)は、日本の衆議院議員(同志倶楽部→憲政党→立憲政友会)。 常陸国真壁郡関本上町(現在の茨城県筑西市)出身。漢学を学んだ後、結城藩の乗彜学館に通った。やがて自由民権運動に加わり、共議社という政社を組織した。また1882年(明治15年)、茨城勧業世話役に選ばれ、また茨城県蚕糸茶共進会を開催した。 同年、茨城県会議員に選出され、1889年(明治22年)に議長に就任した。1894年(明治27年)、第4回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、9回連続当選を果たした。
丹後 直平(たんご なおへい、1855年11月18日(安政2… 丹後 直平(たんご なおへい、1855年11月18日(安政2年10月9日)- 1920年(大正9年)3月17日)は、日本の実業家、篤農家、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。族籍は新潟県平民。 越後国蒲原郡本郷村(後の北蒲原郡中条町大字本郷、現新潟県胎内市)で、丹後宗民の十二男として生まれ、1882年、丹後宗淳の後を相続した。家は医業を営む。 漢学塾に入り漢籍を学ぶ。経伝諸子百家の書を渉猟する。1873年、大学南校に入学する。東京大学文学部で学び、第一科を修める。病により退学して帰郷する。 帰郷後、町村会議員、北蒲原郡会議員、新潟県会議員、学務委員、徴兵参事員などを務めた。実業界では、農業、絵具塗料製造・販売を営み、蚕糸業組合長、中条共立銀行取締役などを務めた。
伊藤 義平(いとう ぎへい、1855年11月16日(安政2年… 伊藤 義平(いとう ぎへい、1855年11月16日(安政2年10月7日)- 1923年(大正12年)2月9日)は、明治から大正期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・山崎。 伯耆国久米郡、のちの鳥取県東伯郡灘手村(現倉吉市)で、鳥取藩士・山崎左馬の四男として生れ、安政5年3月(1858年)伊藤弥平の養子となる。町医者・中原松斎の塾で漢学を修めた。 1874年(明治7年)豊岡県に奉職。以後、兵庫県属・会計事務、会計検査院、神奈川県収税署長、島根県税務署、東京府庁、衆議院事務局会計課などに勤務し、この間、東京法学院(英吉利法律学校前身、現中央大学)の夜学に通い1896年(明治29年)に卒業した。
寺尾 寿(てらお ひさし、安政2年9月25日(1855年11… 寺尾 寿(てらお ひさし、安政2年9月25日(1855年11月4日) - 大正12年(1923年)8月6日)は、明治・大正時代の福岡県出身の日本の天文学者、数学者。近代日本天文学の基礎を固めたことで知られている。門下生には平山信、木村栄、平山清次らがいる。
森 秀次(もり しゅうじ、旧姓・西岡、1855年11月1日〈… 森 秀次(もり しゅうじ、旧姓・西岡、1855年11月1日〈安政2年9月22日〉 - 1926年〈大正15年〉9月9日)は、日本の部落解放運動家、政治家、会社役員。衆議院議員(大阪府郡部選出、当選4回)。大阪府会議員。族籍は大阪府平民。従五位勲四等。 和泉国南王子村(後の大阪府泉北郡八坂町、現在の和泉市)出身。西岡惣市郎の二男。豊島郡古江村(のちに合併して細河村、現在の池田市)の森家に養子として迎えられた。医学を修めた。1878年、分家して一家を創立する。医業に従事し、のち農業を営んだ。 大阪府会議員、同議長等を務めた。硫酸肥料監査役、阪神土地取締役、大阪朝報社常務取締役を務めた。1903年、第8回衆議院議員総選挙に立候補、初当選。
安念 次左衛門(あんねん じざえもん、1855年10月31日… 安念 次左衛門(あんねん じざえもん、1855年10月31日(安政2年9月21日) - 1934年(昭和9年)1月23日)は、日本の実業家。政治家、衆議院議員(2期)。子に安念精一。 越中国礪波郡、のちの富山県東礪波郡太田村(砺波町を経て現砺波市)出身。安念次郎左衛門の次男として生まれ、先代の安念次左衛門の養子となる。1876年、石川県師範学校卒。町村連合会議員、石川県会議員、富山県会議員、中越鉄道(株)、中越銀行、富山日報を創立し、重役となる。 1903年の第8回衆議院議員総選挙において富山県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙で再選した。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。
高橋 健三(たかはし けんぞう、1855年10月27日(安政… 高橋 健三(たかはし けんぞう、1855年10月27日(安政2年9月17日) - 1898年(明治31年)7月22日)は、明治期のジャーナリスト・官僚・政治家。英吉利法律学校(中央大学の前身)創立者の一人。岡倉天心とともに『国華』を創刊のほか、『官報』の創刊(1883年)にも尽力した。別称に自恃居士(じじこじ)。 江戸で元尾張藩士、書道家になった高橋石斎の子として生まれる。後に父が戸田氏に仕官して下総国曾我野藩士となる。明治3年(1870年)曾我野藩の貢進生に選ばれて大学南校(東京大学の前身の一つ)に入学し、法律を学ぶ。明治11年(1878年)、東京大学を中退し、翌年官途につく。以後、駅逓局・文部省を経て、明治16年(1883年)に太政官官報報告掛に任じられて官報の創刊に参画する。
小西 甚之助(こにし じんのすけ、1855年10月27日(安… 小西 甚之助(こにし じんのすけ、1855年10月27日(安政2年9月17日)- 1928年(昭和3年)6月28日)は、明治期の政治家。衆議院議員、香川県会議長。旧姓・中原、佐々木。号・渓香。 讃岐国寒川郡志度村(香川県寒川郡志度町 、大川郡志度町を経て現さぬき市志度)で、仮大庄屋・中原七郎の息子として生れ、同村の伯父・佐々木数平の養嗣子となる。1867年(慶応3年)高松藩洋式練兵場で兵学を学び、小隊司令士、教官を務めた。18歳で寒川郡長尾名村(長尾村、長尾町を経て現:さぬき市長尾名)の庄屋・小西平蔵の養嗣子となる。 1876年(明治9年)8月、有志と翼賛社を設立し自由民権運動を推進。1880年(明治13年)8月、讃岐の総代として元老院に国会開設建白書を提出した。
小村 寿太郎(こむら じゅたろう、旧字体: 小村 壽太郞、1… 小村 寿太郎(こむら じゅたろう、旧字体: 小村 壽太郞、1855年10月26日〈安政2年9月16日〉- 1911年〈明治44年〉11月26日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員(侯爵終身)などを務めた。イギリス・アメリカ・ロシア・清国・朝鮮(韓国)の公使・大使を務め、特に2度の外相時代には日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約の締結、条約改正の完成(関税自主権の完全回復。治外法権は陸奥宗光が改正)などの業績をのこし、近代日本外交を体現した人物として知られる。特に外相在任は通算7年4カ月と、史上二番目に長い(史上最長は内田康哉で通算7年5カ月)。爵位は侯爵。 小村寿太郎は、安政2年(1855年)9月16日、日向国飫肥藩の藩士・小村寛(寛平)(1830 - 1900)と梅(梅子)(? - 1901)の長男として生まれた。
南部 球吾(なんぶ きゅうご、1855年10月15日〈安政2… 南部 球吾(なんぶ きゅうご、1855年10月15日〈安政2年9月5日〉 - 1928年〈昭和3年〉11月4日)は、明治から大正に活動した日本の鉱山技術者。 越前国福井藩士で、維新後官吏となった南部広矛の次男として生まれる。 慶応2年(1866年)、藩の英学者の瓜生寅のもとで英学を修めた。1869年(明治2年)、開成学校に入学する。1870年(明治3年)、大学南校に移り化学を専攻した。 1875年(明治8年)、文部省の第1回アメリカ合衆国への留学生となり、長谷川芳之助とともにコロンビア大学で鉱山学を学んだ。1880年(明治13年)10月に帰国後、三菱に入社し、高島炭鉱の坑長を務め、工学博士となった。
宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日… 宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日(安政2年9月4日) - 1928年(昭和3年)4月18日)は、三重県津市出身の法学者。法学博士。東京帝国大学教授(法制史)。日本法律学校(現・日本大学)創立者(総代)。 1855年(安政2年)9月に、伊勢国安濃郡津新道(現在の三重県津市)にて出生。藩校有造館で漢籍や国史などを学んで、1872年(明治5年)に上京。日本法律学校(現日本大学の前身)の創立時には、設立評議員の一人である司法大臣山田顕義らによって、宮崎は若手の法律学者11名とともに設立者の代表として創立に深く関与している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
須永 武義(すなが たけよし、1855年10月2日(安政2年… 須永 武義(すなが たけよし、1855年10月2日(安政2年8月22日) - 1925年(大正14年)10月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功三級。 武蔵国幡羅郡飯塚村(埼玉県幡羅郡太田村、大里郡太田村、妻沼町を経て現熊谷市)出身。士族・須永宗司の長男。陸軍兵学寮に入り、1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少尉に任じ、参謀本部第2局員、近衛歩兵第2連隊長、陸軍教導団長、第9師団参謀長を経て、1899年(明治32年)8月、大佐に進んだ。この間、日清戦争に従軍した。日露戦争が勃発すると西島助義に代わり、1904年(明治37年)9月、陸軍少将に進級と同時に歩兵第7旅団長に補され、遼陽会戦から参戦。
末松 謙澄(すえまつ けんちょう、1855年9月30日〈安政… 末松 謙澄(すえまつ けんちょう、1855年9月30日〈安政2年8月20日〉- 1920年〈大正9年〉10月5日)は、日本の明治から大正期のジャーナリスト・政治家・歴史家。正二位勲一等子爵。帝国学士院会員。幼名は千松(または線松)、号は青萍。 豊前国京都郡前田村(現在の福岡県行橋市前田)に大庄屋役末松房澄と伸子の4男として生まれる。1865年(慶応元年)より地元の碩学村上仏山の私塾水哉園にて漢学・国学を学んだ。1866年(慶応2年)の第二次長州征討(小倉戦争)時には、末松家は戦火で焼け出された。 1871年(明治4年)に上京、佐々木高行宅の書生となり、佐々木の娘・静衛がグイド・フルベッキの娘に英語を教わっていた縁で、フルベッキ家に居候していた高橋是清と親交を結んだ。
饗庭 篁村(あえば こうそん、安政2年8月15日(1855年… 饗庭 篁村(あえば こうそん、安政2年8月15日(1855年9月25日)- 1922年6月20日)は、明治時代の日本の小説家、演劇評論家。根岸派の重鎮。本名は與三郎。別号は竹の屋主人、龍泉居士、太阿居士。居住地の南傳町二丁目より南傳二とも。日本人として初めてポーの作品を翻訳した人物としても知られる。 ほぼ独学ではあるが和漢学に造詣が深く俳諧の道にも明るかった。作家としては「戯作者」世代と坪内逍遥、幸田露伴ら新時代の作家たちとの過渡期に位置づけられる。篁村はこの時期の代表的な作家のひとりと見られており、幸田露伴は、饗庭篁村と須藤南翠が明治20年前後の「二文星」、「当時の小説壇の二巨星」であったと記し、江見水蔭は「篁南両大関時代」としたという。
荒木 三郎(あらき さぶろう、1855年9月24日〈安政2年… 荒木 三郎(あらき さぶろう、1855年9月24日〈安政2年8月14日〉 - 1882年〈明治15年〉7月4日)は、日本の警察官である。戦国大名荒木村重の子孫で、西南戦争を戦ったのち殉職した。警察官としての階級は一等巡査(現在の警部補相当職)。 荒木家は荒木信重が保科正之に仕えて以来、江戸時代を通じ会津松平家家臣であった。父は重義と名乗り、会津戦争において会津若松城に籠城したが、開城後ほどなく病死している。荒木三郎重謹はその三男であった。母とともに斗南へ移り開墾に従事したが、約六年の斗南生活を終えて上京した。巡査となった荒木は西南戦争において勅使として派遣された柳原前光に従って鹿児島へ向かい、のち別働隊に加わり度々功績を挙げた。
井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年… 井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年8月10日〉- 1925年〈大正14年〉3月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将 従二位勲一等功二級。日清戦争、日露戦争期を代表する軍人の一人である。駿河国出身。 歩兵第九聯隊大津分営に兵卒として入営し、翌年、陸軍士官学校を受験している。 陸軍士官学校(旧2期)、陸軍大学校(1期)を経て1887年(明治20年)にドイツ留学。日露戦争時には満州軍総司令部参謀となり、奉天会戦などの作戦指揮にあたった。児玉源太郎は口癖のように、「俺には普賢菩薩と文殊菩薩がついている。」と井口と松川敏胤の両名を頼りにしていたという。またドイツ留学の経験を生かし、いろいろな訳書を行った。
井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8… 井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8月8日)- 1925年(大正14年)8月31日)は、三重県四日市市(伊勢国)出身の政治家、教育者、実業家。第2代四日市市長(官選市長)。 井島家は戦国時代には北畠氏の家臣であったが、1570年(元亀元年)に多気郡浅香(現在の松阪市嬉野町付近)から四日市に移住して、北勢四十八家の1つの浜田氏の重臣となった。江戸時代には、市場町四日市を開拓した旧家として名高く、代々庄屋を務めた。1804年(文化元年)以降は苗字帯刀永久御免となった。 竪町(現在の四日市市北町)に誕生した茂作は、1867年(慶応3年)に庄屋役見習い、1872年(明治5年)には度会郡の山田国札引替役に任命された。
松本 節造(まつもと せつぞう、1855年9月18日(安政2… 松本 節造(まつもと せつぞう、1855年9月18日(安政2年8月8日) - 1933年(昭和8年)11月24日)は日本の政治家。渡村長(第2代)、渡村会議員。 渡村(現在の鳥取県境港市渡町)の富農「下渡辺」渡辺又衛の次男として生まれ、千鳥屋松本に婿養子に入った。千鳥屋は渡村草分けの一軒といわれている旧家で、農業の傍ら酒・醤油醸造業を営む富豪だった。 38歳で村長となった節造は、村の発展は道路整備が第一と、改修が終わった外浜街道と渡を直線で結ぶ渡・余子間里道の改修を成し遂げたほか、消防組を設置し、衛生組合の創設や、伝染病避病舎建築等を果たした。
三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2… 三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2年8月6日〉- 1921年〈大正10年〉12月24日)は、明治時代の海軍軍人。官位は海軍大将・正三位勲一等功二級男爵。近江国(現:滋賀県)出身。 彦根藩士三須熊次郎の長男として生まれた。藩主井伊直弼がペリー来航に際して江戸湾防衛を担当した際、死を覚悟して事前に「宗観院柳暁覚翁居士」の戒名を手に入れて赴任したことにちなみ、熊次郎は藩主の戒名から最初の一字を頂き、長男を宗太郎と命名した。三須本人も開国に殉じた藩主を尊敬し、元服しても名を改めようとしなかった。 明治4年(1872年)8月、海軍兵学寮に入った。カリキュラムを修了するまでの7年間、兵学寮に留まったが、生徒の多くが薩摩藩や佐賀藩の出身者で、彦根出身の三須には居心地のよい場所ではなかったらしい。
植田 惣五郎(うえだ そうごろう、1855年9月12日(安政… 植田 惣五郎(うえだ そうごろう、1855年9月12日(安政2年8月2日) - 没年不明)は、日本の篤農家、実業家。植田合名会社代表社員。族籍は山口県平民。 長門国彦島(現・山口県下関市)出身。植田惣三郎の長男。1874年、家督を相続した。三菱を背景として弟子待及び江ノ浦一帯の海岸を埋築して貯炭場を作り、あるいは数10隻に余る帆船を造り、ほとんど全国にまたがり海運業を営み、日清、日露戦役から欧州大戦にかけてにわかに家運膨張し、一躍巨万の富をなした。 三菱の引立てがあったといえども惣五郎の手腕と英断がなければ成功は成し遂げられなかった。蓄財の反面子弟の教養に意を注ぎ、末子2人は帝大を卒業して三菱社員となった。
秋元 源彌(秋元 源弥、あきもと げんや、1855年9月5日… 秋元 源彌(秋元 源弥、あきもと げんや、1855年9月5日〈安政2年7月24日〉 - 1915年〈大正4年〉7月26日)は、日本の商人(皮革商、近江屋主)、会社役員。日本肥料取締役。族籍は東京府平民。 近江国坂田郡甲田村(のち滋賀県坂田郡鳥居本村、現彦根市甲田町)出身。秋元平太郎の三男。分家して一家を創立する。僅かに旅費を持ち、1879年に単身で東京に来る。 製皮事業が有利であることを予知し、2年間某商の徒弟となり、1881年に独立して近江屋商店を開業する。「都下に於ける皮革商中の大商賈」と称され、直接国税約1000円を納める。 所得税調査委員、東京製革業組合頭取などをつとめる。長らく病気のところ薬石効なく1915年7月26日に死去する。
鵜飼 郁次郎(うかい いくじろう、1855年9月2日(安政2… 鵜飼 郁次郎(うかい いくじろう、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1901年(明治34年)9月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 佐渡国加茂郡河崎村(新潟県佐渡郡河崎村、両津市を経て現佐渡市)出身。1876年、新潟師範学校卒。卒業後は東京府雇、新潟師範学校教員、中学校教諭、新潟県会議員となる。また、雑誌「回天」を発行する。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において新潟9区から自由倶楽部公認で立候補して初当選する。1892年の第2回衆議院議員総選挙では独立俱楽部から立候補して再選した。1894年の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して落選した。1901年に死去した。
奈須川 光宝(なすがわ みつとみ、1855年9月2日(安政2… 奈須川 光宝(なすがわ みつとみ、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1926年(昭和元年)12月29日)は、日本の政治家。青森県八戸町長、衆議院議員。 八戸城下の八戸藩士川勝家の子として生まれる。1862年(文久2年)に奈須川光武の養子となる。八戸初の英学校である開文舎で英語などを学び、1875年(明治8年)に八戸小学校の教諭となる。 1885年(明治18年)に青森県会議員に初当選。1888年(明治21年)に県会副議長を務め、翌年に自由党系の政治結社である八戸土曜会を結成した。 1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に青森県第1区から出馬し当選。その後、第5回、第6回総選挙で当選し、衆議院議員を通算三期務めた。
新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1… 新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1855年8月31日) - 昭和14年(1939年)4月10日)は、日本の実業家、日米生糸貿易の創始者。旧姓名は星野良助。星野長太郎の実弟、孫娘の夫に駐日米国大使のエドウィン・O・ライシャワー。 上野国勢多郡(現群馬県桐生市)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目した兄星野長太郎と連携し、日本製生糸の市場開拓のためニューヨークに渡った。直ちに顧客獲得に取り組み、日本初の生糸直輸出を実現した。有力絹織物業者などとの取引を通して生糸輸出量の飛躍的拡大を図った。絶えず高い品質維持を目指し品質向上にも努め、市場からの高い評価と信頼を勝ち取った。
五味 卯三郎(ごみ うさぶろう、1855年8月28日〈安政2… 五味 卯三郎(ごみ うさぶろう、1855年8月28日〈安政2年7月16日〉 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の政治家、資産家、地主。東京府会議員、東京市会議員、神田区会議員。族籍は東京府平民。 栃木県宇都宮の人で、宇都宮藩士・五味吉房の二男。1869年、東京に出て吉川慎堂の門に入り漢籍・洋書を学んだ。1875年、分かれて一家を創立した。 1873年、樺太に渡り、後九州に於いて警察官となり西南戦争に従う。1879年、兄が病んで没した。卯三郎は官を辞めて上京し、遺子・保に其の後を継がせ、自ら分家した。 1892年、神田区会議員に挙げられ、以来20有余年間毎回当選した。1896年、東京府会議員に挙げられ、1897年、東京市会議員に選出された。
山本 讃七郎(やまもと さんしちろう、安政2年7月12日(1… 山本 讃七郎(やまもと さんしちろう、安政2年7月12日(1855年8月24日) - 1943年(昭和18年)4月5日)は明治時代の写真師。岡山県井原市出身。維新後上京して林董宅に住み、中島待乳に写真術を学び、新橋で開業後、北京王府井に写真館を構え、西太后等要人や北京内外の風景を写真に残した。 安政2年(1855年)7月12日備中国後月郡梶江村(岡山県井原市芳井町梶江)に生まれた。1868年(明治元年)頃阪谷朗廬と親戚の医者の息子(山鳴弘斎三男清三郎か坂田警軒兄待園)が大坂で学んだ湿板写真を披露するのを見て、初めて写真に触れた。 明治4年(1871年)兄讃太郎を頼って上京し、1874年(明治7年)8月叔父梅園の師林洞海の子林董の書生となった。
斎藤 修一郎(さいとう しゅういちろう、1855年8月24日… 斎藤 修一郎(さいとう しゅういちろう、1855年8月24日〈安政2年7月12日〉- 1910年〈明治43年〉5月6日)は、日本の外交官、農商務官僚、実業家。農商務次官。号・半狂学人、談笑門人。「斉藤」と表記する場合がある。 越前国南条郡武生で、福井藩越前府中領主本多家家臣・眼科医、斎藤策順の息子として生まれる。沼津兵学校付属小学校、大学南校で学ぶ。1873年(明治6年)、大学南校が開成学校と改称して、1875年(明治8年)に卒業し、同年7月、文部省第一回海外留学生として渡米し、1878年(明治11年)6月、ボストン大学法科を卒業した。 1880年(明治13年)9月に帰国し、同年11月、外務省権少書記官に任じられ公信局勤務となる。
菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年… 菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年8月22日) - 昭和17年(1942年)2月12日)は、明治期、大正期の小説家、新聞記者。本名は佐藤蔵太郎。鶴谷外史の号もある。 豊後国国東郡佐伯(現・大分県佐伯市)にて出生。 1875年(明治8年)、大分県師範学校を卒業し、鶴谷女学校の教員をとなる。 1881年(明治14年)、上京して報知新聞社に入社。翌年『月氷寄縁 艶才春話』を刊行。 1884年(明治17年)、大阪毎朝新聞社に転じ、ついで神戸新報社に入る。 1900年(明治33年)、新聞記者を辞し、郷土史家として著述業に専念した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
片山 国嘉(かたやま くによし、安政2年7月7日(1855年… 片山 国嘉(かたやま くによし、安政2年7月7日(1855年8月19日) - 1931年(昭和6年)11月3日)は、日本の法医学者。 遠江国周智郡犬居村(現在の静岡県浜松市天竜区)の医師の二男として生まれる。大学東校を経て、1879年(明治12年)に東京大学医学部を卒業。東京大学助教授となり内務省衛生局にも勤務した。1884年(明治17年)から1888年(明治21年)まで法医学研究のためドイツ・オーストリア=ハンガリーに留学し、ベルリン大学とウィーン大学で学んだ。帰国後、東京帝国大学医科大学教授に就任し、法医学講座を担当した。また1891年(明治24年)に医学博士の学位を得た。法学部で法医学の授業を担当したほか、東京慈恵医院医学専門学校(現在の東京慈恵会医科大学)講師も務めた。
依田 仙右衛門(よだ せんえもん、安政2年6月27日〈185… 依田 仙右衛門(よだ せんえもん、安政2年6月27日〈1855年8月9日〉 - 1923年〈大正12年〉)は、明治から大正時代の政治家、貴族院多額納税者議員。長野県北佐久郡南御牧村長。幼名は亀太郎直温。 中山道八幡宿の大地主・依田七郎兵衛の長男として生まれ、1874年(明治7年)1月、家督を相続する。御牧原の開発を進め、1889年(明治22年)町村制の施行に伴い、八幡村・蓬田村・桑山村・矢島村が合併し南御牧村が成立すると初代村長に就任し、1893年(明治26年)3月まで務めた。 1911年(明治44年)長野県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで1期在任した。
一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年… 一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1931年〈昭和6年〉9月2日)は、日本陸軍の軍人。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級。 教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。 弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年(明治7年)10月には陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、1876年(明治9年)3月には陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征し、負傷する。同年5月、少尉に進級する。1878年(明治11年)2月、歩兵第1連隊付に移り、1880年(明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。
末岡 精一(すえおか せいいち、旧字体:末岡 精一、1855… 末岡 精一(すえおか せいいち、旧字体:末岡 精一、1855年8月2日(安政2年6月20日) - 1894年(明治27年)1月22日)は明治時代の日本の法学者。法学博士。 帝国大学法科大学教授、東京図書館(現・国立国会図書館)館長。日本法律学校(現・日本大学)の創立者の一人。東京大学にて、日本人として初めて国法学の講義を担当した。
小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6… 小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1918年〈大正7年〉8月15日)は栃木県出身の建築家であり教育者。アメリカのコーネル大学建築学部を卒業、日本人で初めて建築の学士号を取得したとされる。旧制第一高等学校などで図学や英語を教え、多くの後進を育てた。東京芸術大学構内に残る赤レンガの建物(旧東京図書館書籍庫)は小島の作品である。 下野国河内郡雀宮(後の栃木県宇都宮市)で幕臣・小島信民の家に生まれる。旧名は作次郎、兄は信之。 明治維新後、横浜で外国人に英語を学び、1870年(明治3年)、大学南校に入学、アメリカ人教師ハリスに認められる。1873年(明治6年)学校を中退、ハリス、箕作佳吉とともにアメリカに渡り、ハートフォード中学に入学。
松沢 求策(まつざわ きゅうさく、安政2年6月15日(185… 松沢 求策(まつざわ きゅうさく、安政2年6月15日(1855年7月28日) - 明治20年(1887年)6月25日)は、現在の長野県安曇野市出身の自由民権家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石黒 五十二(いしぐろ いそじ、1855年7月23日(安政2… 石黒 五十二(いしぐろ いそじ、1855年7月23日(安政2年6月10日) - 1922年(大正11年)1月14日)は、明治時代の官僚、土木技術者、政治家。 加賀藩士・石黒千尋の二男として加賀国石川郡金沢に生まれる。明治維新前は、藩校で修めた西洋砲術を教授していたという。 維新後は、加賀藩主の命を受けて大学南校(開成学校を経て、後に東京大学)に進み、1878年(明治11年)、土木工学科を卒業。同年、神奈川県土木課に出仕したが、翌1879年(明治12年)、文部省の選抜によりイギリスに留学した。留学中は、アレキサンドリア港の水道工事をはじめ多数の工事に携わったほか、ジョン・フレミングとともにインシュライトの発明を行うなどもした。
井阪 光暉(いさか みつあき、1855年7月20日(安政2年… 井阪 光暉(いさか みつあき、1855年7月20日(安政2年6月7日) - 1920年(大正9年)2月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 和泉国南郡、のちの大阪府泉南郡八木村(春木町を経て現岸和田市)出身。大阪府会議員、同常置委員となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において大阪府郡部から無所属で立候補したが25票差で次点で落選した。1908年の第10回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙でも再選。1915年の第12回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年の第13回衆議院議員総選挙では次点で落選。しかし、7月に本出保太郎の死去により、繰上当選となった。
小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年… 小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年6月1日) - 1914年(大正3年)6月9日)は、大阪府士族で教育者。幼名は小林 卯之助(こばやし うのすけ)。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
岡 五郎(おか ごろう、1855年7月12日(安政2年5月2… 岡 五郎(おか ごろう、1855年7月12日(安政2年5月29日) - 1928年(昭和3年)10月31日)は、日本の教育者・文部官僚。 越前藩出身。岡源太夫の五男。藩校で漢学を学ぶ。福井県師範学校変則生を経て、1877年(明治10年)に官立愛知師範学校を卒業。東京麹町清水小学校訓導、千葉県鶴舞小学校校長、茂原町中学校教諭を歴任した。1882年(明治15年)、東京師範学校(後の東京高等師範学校)を卒業。その後、徳島県師範学校一等教諭・学務課勤務、徳島県中学校一等教諭、高等師範学校助教諭・附属小学校主任、同教諭、女子師範学校教諭・同高等女学校主任、同教授・文部省普通学務局勤務、高等師範学校書記・教授、文部省普通学務局第一課長、宮城県尋常師範学校校長、東京府視学官・文部省視学官を歴任した。
川上 親晴(かわかみ ちかはる、1855年7月6日(安政2年… 川上 親晴(かわかみ ちかはる、1855年7月6日(安政2年5月23日) - 1944年(昭和19年)5月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、京都市長、警視総監、貴族院議員。 大隅国姶良郡、のちの鹿児島県姶良郡加治木村(加治木町を経て現姶良市)において、加治木島津家家臣で書役を務める川上正兵衛の長男として生まれる。 私学校に入学したが軍事教練一辺倒とその閉鎖性に嫌気がさし退学する。その際に生徒の自主性を理解しない西郷隆盛に罵倒され、故郷で村八分となった。 西南戦争時の1877年4月、警視庁警部補に任官した。沖縄県十等警部、大阪府十等警部を経て、1882年8月、石川県に転じ、警部補・高岡警察署詰となる。
中村 恭平(なかむら きょうへい、1855年7月4日(安政2… 中村 恭平(なかむら きょうへい、1855年7月4日(安政2年5月21日) - 1934年(昭和9年)1月21日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人で、東京物理学校第3代校長。
宮崎 栄治(みやざき えいじ、1855年7月4日(安政2年5… 宮崎 栄治(みやざき えいじ、1855年7月4日(安政2年5月21日)- 1915年(大正4年)1月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(8期)。 宮崎広茂の長男として、肥前福江藩領松浦郡福江村(長崎県南松浦郡福江村、福江町、福江市を経て現五島市)に生まれる。1882年(明治15年)12月、家督を相続する。福江藩校に入り和漢学を修めたのち上京し英学を学ぶ。本業は農業を営んだ。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では長崎県第5区から出馬し当選。第2回総選挙では候補を大坪利晋に譲り、つづく第3回総選挙で再び衆議院議員となる。その後、第4回、第5回、第6回、第7回、第8回、第9回総選挙でも当選し衆議院議員を通算8期務めた。
斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5… 斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5月15日) - 1938年(昭和13年)12月9日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員。 1855年(安政2年)に下総国相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)の齋藤家の長男として生まれる。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)[要出典]、弟に文学博士である斉藤隆三がいる[要出典]。 1859年(安政6年)頃より守谷町愛宕の私塾で木村正之に学び、1866年(慶応2年)より親戚の中山家に移り、後に東京帝国大学教授になる漢詩人の信夫恕軒や木戸栄伯、盛岡栄三郎に学んだ[要出典]。