淀川 郁子(よどがわ いくこ、1904年 - 没年不明)は、… 淀川 郁子(よどがわ いくこ、1904年 - 没年不明)は、英文学者。翻訳家。 長野県長野市生まれ。1925年女子英学塾(現津田塾大学)卒業。長野県立女学校に勤め、工藤好美と知り合い、妹が工藤と結婚する。昭和のはじめに結婚するが、1951年夫が死去し、長野女子短期大学教授を十年間務め、その間工藤との共訳を出し、89歳でジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』を完訳した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大畠 清(おおはた きよし、1904年 - 1983年)は、… 大畠 清(おおはた きよし、1904年 - 1983年)は、日本の宗教学者、東京大学名誉教授。 1928年、東京帝国大学宗教学科卒。1936年、東京帝国大学講師、1947年助教授、1953年教授。1965年定年退官、名誉教授。 古代ユダヤ教、ヘブライ史を専門とした。
田治六郎(たじ ろくろう、1904年 - 1978年)は、日… 田治六郎(たじ ろくろう、1904年 - 1978年)は、日本の造園家。内務技師、地方技師として当該府県の都市計画の策定、とくに都市公園計画に参画して各市を指導。特に西日本や旧満洲の公園緑地の行政と計画設計にあたった。また大阪万博に出展する日本庭園(万博記念公園内に現存)の設計及び施工指導にあたった人物。 1904年(明治37年)、石川県七尾市に生まれる。旧制第四高等学校を経て、1930年に東京帝国大学農学部農学科を卒業。1932年に大学院修了後は内務省都市計画大阪地方委員会技手となり、いくつかの各都市計画地方委員会技手を兼務した。 1937年から2年間は工兵部隊将校として渡満、解除後の1941年から都市計画愛知地方委員会兼愛知県技師。
村田 喜一(むらた きいち、1904年(明治37年) - 1… 村田 喜一(むらた きいち、1904年(明治37年) - 1987年(昭和62年))は、日本の農学者・水産学者・栄養学者。農学博士(北海道帝國大学)。医学博士(大阪帝國大学)。北海道大学名誉教授。元函館大学学長。石川県河北郡津幡町出身。 専門は食品衛生学。また、畜産学や水産食品化学の第一人者として知られ、各種ミルクの成分分析と水産皮革の実用化に貢献、特に急速皮革なめし法の研究は高く評価されている。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
李 亨雨(이형우、イ・ヒョンウ、Lee Hyeong Woo… 李 亨雨(이형우、イ・ヒョンウ、Lee Hyeong Woo、1904年? - 没年不詳)は、大韓民国の教育者。普成専門学校(現・高麗大学校)教授、国学学校副校長、朝鮮大学既成会理事長、朝鮮法学専門学館学長、同徳女子中学校(現・同徳女子大学校)教諭。 大韓民国忠清北道鎮川郡出身。仏教徒。日本へ留学し、1927年3月、立教大学文学部英文学科卒業。立教では金尚鎔(朝鮮語版)(後の梨花女子大学校教授・英文学者、江原道知事)、花房満三郎(後の文藝春秋編集長)の同級生。 帰国した後、ソウルの同徳女子中学校(現・同徳女子大学校)教諭を経て、普成専門学校(現・高麗大学校)教授に就任。 その後、日立工務店に取締役として勤務。
図師 嘉彦(ずし よしひこ、1904年 - 1981年)は、… 図師 嘉彦(ずし よしひこ、1904年 - 1981年)は、日本の建築家。日本建築学会・日本演劇学会共同委員会「劇場小委員会」に属し、劇場建築への造詣が深かった人物。東京出身。 鉄道官僚図師民嘉の次男として東京に生まれ、1929年に早稲田大学理工学部建築学科卒業後、大蔵省営繕課勤務を経てドイツに留学。1934年(昭和9年)帰国、直後に日本共産党に資金提供したとして治安維持法違反で逮捕。釈放後、1935年(昭和10年)に独立。1937年(昭和11年)、自らの建築設計事務所・株式会社図師設計事務所を設立。市浦健・土浦亀城らと新興建築家聯盟を結成。このころ日本共産党の地下印刷所などを設計。 1946年(昭和21年)、今泉善一、梅田穣、海老原一郎ら旧創宇社系メンバーで日本民主建築会結成。
西条 皎(さいじょう あきら、1904年 - 1972年)は… 西条 皎(さいじょう あきら、1904年 - 1972年)は、日本の詩人、俳人。また、居住地で村長を務めた。 滋賀郡滋賀郡真野村(現・大津市真野)に生まれる[要出典]。1927年に東海詩人協会に加わり、『東海詩集』に「軍艦」、「大佛」、「飛行船」、「仁王」等を発表。井口蕉花、高木斐瑳雄、野々部逸二、中西悟堂らの詩誌『青騎士』に「草屋詩情」等を発表。東京で佐藤惣之助と同人誌をつくる。また、岐阜市の詩魔詩人会とも交流があった。[要出典] 戦後、真野村最後の村長を務め、1964年には堅田町立真野小学校(現・大津市立真野小学校)の校歌を作詞した[要出典]。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
小沢 兵輔(おざわ ひょうすけ、1904年〈明治37年〉 -… 小沢 兵輔(おざわ ひょうすけ、1904年〈明治37年〉 - 1984年〈昭和59年〉)は、昭和時代の鉄道実業家。 長野県上伊那郡小野村(現・辰野町小野)に生まれる。松本教育実業学校を卒業し、三菱日東生糸に入社し、横浜日東製糸原料部次長となる。兵役を経て、1947年(昭和22年)郷里に丸善石灰を創業。ついで塩尻陸運常務、信州急送社長を経て、名鉄運輸の提案を受け、1962年(昭和37年)信州急送と南信定期を名鉄運輸に合併して信州名鉄運輸を創立し、同社社長に就任した。ほか、信州名鉄タクシー社長を兼務し、1976年(昭和51年)信州名鉄運輸の会長に就任した。この間、日本トラック協会理事、長野県トラック協会長を務めた。
高橋 一智(たかはし かずとも、1904年(明治37年) -… 高橋 一智(たかはし かずとも、1904年(明治37年) - 1983年(昭和58年))は、日本の陶芸家。弘前中学時代から絵画、彫刻に取り組んでいたが、バーナード・リーチの作品に感銘を受けて陶芸の道へ。帰郷後は、故郷の素材による陶芸の道を歩み、土探しに心血を注いだ。また、こぎん刺しの図案を収集し、その研究も行った。
土方 辰三(ひじかた たつぞう、1904年 -1999年)は… 土方 辰三(ひじかた たつぞう、1904年 -1999年)は、日本の英文学者。成蹊大学名誉教授。 旧制・千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)、旧制浦和高等学校(現在の埼玉大学教養部)を経て、東京帝国大学文学部英文科卒業。第五高校(現在の熊本大学教養部)教授、浦和高校教授、東京大学教養学部教授、1965年定年退官。成蹊大学教授、名誉教授。 1975年、イギリスの詩人、A. E. Housmanの熱心な研究者、愛読者により、日本ハウスマン協会(The Housman Society of Japan)が設立された際、会長を務めた。 妻の幸は、浦和高校時代の恩師・乙骨五郎(のち成蹊大学学長)の姪。
田村 秀治(たむら ひでじ、1904年 – 1988年10月… 田村 秀治(たむら ひでじ、1904年 – 1988年10月2日)は、日本の外交官。アラブに長く勤務し、日本とアラブ諸国の友好関係樹立に貢献したとされる。 福井県大飯郡高浜村(現・高浜町)和田で生まれる。 旧制小浜中学校を経て、1927年3月に、大阪外国語学校(後の大阪外国語大学、現・大阪大学外国語学部)を卒業した。外務省留学生試験に合格し、エジプトへ派遣され、エジプト大学(現・カイロ大学)でアラビア語を学んだ。そのまま現地にとどまり、1930年4月よりアレキサンドリア総領事館に勤務した。ギリシャ人の女性と結婚。エジプトで田村は、日本とは大きく異なる気候・風土の中で土地を愛し、現地人になり切って友好関係の樹立を図った。
三木 義雄(みき よしお、1904年または1905年6月6日… 三木 義雄(みき よしお、1904年または1905年6月6日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。1920年代にハードル競走で活躍して日本記録を更新、1928年アムステルダムオリンピックに出場した。 兵庫県揖保郡揖西村構(現在のたつの市揖西町構)に生まれる。旧制龍野中学校(現在の兵庫県立龍野高等学校)に入学し、1923年の日本陸上競技選手権大会では走高跳に1メートル (m)65の記録で優勝する。この年の第6回極東選手権競技大会予選では走高跳で4位となり、代表選手に選出された。しかし「大会参加選手」に名前が載っているものの、大会本番での記録は残っておらず、実際に出場したかどうかは不明である。 慶應義塾大学に進学し、1925年には明治神宮競技大会の200mハードル種目で24秒6の記録を出した(当時の日本記録・世界記録という)。
村瀬 清(むらせ きよし、1904年 - 1966年4月27… 村瀬 清(むらせ きよし、1904年 - 1966年4月27日)は日本の政治家。初代東京都千代田区長。
永井 武雄(ながい たけお、1904年 - 1938年4月1… 永井 武雄(ながい たけお、1904年 - 1938年4月19日)は、日本の野球選手・監督。兵庫県出身。
成田 勝四郎(なりた かつしろう、1904年(明治37年) … 成田 勝四郎(なりた かつしろう、1904年(明治37年) - 1982年(昭和57年)10月26日)は、日本の外交官。在ドイツ日本大使や終戦連絡中央事務局第一部長、国連政府代表団代表などを歴任。東京府出身。
八田 秋(はった おさむ、1904年 - 1986年)は、日… 八田 秋(はった おさむ、1904年 - 1986年)は、日本の外科学者。九州大学名誉教授。専門は温泉治療学。
平山 重勝(ひらやま しげかつ、1904年(明治37年) -… 平山 重勝(ひらやま しげかつ、1904年(明治37年) - 1994年(平成6年)4月5日)は、日本の植物病理学者。タバコモザイク病などの研究を行った。 三重高等農林学校を卒業後、京都帝国大学農学部に入学、1928年卒業、大学院に進学し、1930年、徳川生物学研究所の嘱託研究員となった。徳川生物学研究所でタバコモザイク病の研究をはじめ、1935年に「煙草・モザイク病の細胞学的研究1」を発表した。1939年に徳川生物学研究所を退職、厚生省衛生試験所技師となり、1947年に厚生省衛生試験所植物部長などを務め、病変米菌の代謝生物に関する研究などを行った。1949年、「タバコモザイク病に関する研究」にて農学博士(京都大学)。
小松 義雄(こまつ よしお、1904年 - 1999年12月… 小松 義雄(こまつ よしお、1904年 - 1999年12月22日)は、日本の昭和期の洋画家・抽象画家である。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
金 正実(キム・ジョンシル、朝鮮語: 김정실/金正實、190… 金 正実(キム・ジョンシル、朝鮮語: 김정실/金正實、1904年 - 1969年10月27日または11月26日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、放送関係者、法学者、教授、政治家。第2代檀国大学(現・檀国大学校)学長、第2代韓国国会議員。 慶南固城郡固城邑生まれ、ソウル出身。普成専門学校(現・高麗大学校)、中央大学法学部卒。東亜日報記者、中央放送局職員として長年勤務した後、解放後に大韓民国臨時政府傘下政治工作隊総務、金九が設立した建国実践員養成所の講師、木材会社重役、金剛山工芸会社専務、朝鮮政治学館(現・建国大学校)教授・教務局長・教務主任、放送協会会員、世宗大学教授、檀国大学副学長・第2代学長、建国大学校畜産大学学長・憲法学教授、高等考試委員、国会法制司法委員長、自由党議員代表幹事、刑事訴訟法草案公聴会委員長を務めた。
呉 龍国(オ・ヨングク、朝鮮語: 오용국/吳龍國、1904年… 呉 龍国(オ・ヨングク、朝鮮語: 오용국/吳龍國、1904年または1905年10月28日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の政治家。安徳面長、西帰面長、制憲韓国国会議員などを歴任した。 済州島南済州郡出身。済州公立農業学校、東京帝国大学法科卒。1924年に西帰面で養源私塾を設立したほか、西帰面会計、済州農会書記、安徳面長、西帰面長、蚕糸業経営者を歴任した。光復後は西帰面建国準備委員会委員長、西帰面孝敦水利組合長、南朝鮮過渡立法議院議員、制憲国会議員を務めた。無所属で国会議員当選後は民主国民党に入党し、憲法制定委員・交逓委員、反民族行為処罰法起草特別委員会委員を務めた。朝鮮戦争中の1950年7月18日、ソウルで北朝鮮に拉致された。
黒川 純一(くろかわ じゅんいち、1904年 - 1985年… 黒川 純一(くろかわ じゅんいち、1904年 - 1985年3月7日)は、日本の社会学者。 1927年東京帝国大学文学部社会学科卒、東京大学教養学部教授、1963年定年退官、名誉教授、明治学院大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
皆藤 幸蔵(かいとう こうぞう、1904年 - 1983年2… 皆藤 幸蔵(かいとう こうぞう、1904年 - 1983年2月5日)は、日本の翻訳家、国際ジャーナリスト。東京外国語学校英語科卒業。 茨城県出身。同盟通信ロンドン特派員、時事通信外信部長、リーダーズ・ダイジェスト編集総務などを歴任。戦後は『アンネの日記』の翻訳のほか、国際問題、推理小説などを翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
幸田 清喜(こうだ きよき、1904年(明治37年) - 1… 幸田 清喜(こうだ きよき、1904年(明治37年) - 1992年(平成4年)12月2日)は、日本の地理学者。東京文理科大学卒、第四高等学校教授、1953年「北陸工業地域の実証的研究」で東京教育大学より理学博士の学位を取得。東京教育大学教授、1967年定年退官、名誉教授、千葉敬愛経済大学教授。
手代木 啞々子(てしろぎ ああし、1904年 - 1982年… 手代木 啞々子(てしろぎ ああし、1904年 - 1982年12月5日)は、現代俳句の俳人。農民俳句の実践者と評される。本名は、手代木茂守(てしろぎ しげもり)。「合歓」主宰。金子兜太の「海程」同人。妻は、手代木かよ(俳号: 胆振かよ)[出典無効]。 父・円治郎 (志賀家)、母・ミスの長男として北海道有珠郡伊達村大字紋鼈村(現在の伊達市)で誕生した。1918年(大正7年) 函館區立寶小学校高等科を卒業し、同年4月函館商業学校に入学した(旧24回生)。後に「この頃から新聞や雑誌に投稿していて、よく俳句が採用されのめり込んでいった。」と語っている。 1923年(大正12年)、大倉高等商業学校(現在の東京経済大学)へ入学した。
松田 ナミ(まつだ なみ、平仮名で「なみ」とも、1904年 … 松田 ナミ(まつだ なみ、平仮名で「なみ」とも、1904年 - 1995年11月14日)は、日本の医師。クリスチャンでもあった。国立療養所菊池恵楓園、国立療養所沖縄愛楽園、国立療養所星塚敬愛園でハンセン病患者のために働いた。戦時中は男子医師が応召したので、松田ら女医も活動する機会も多かったが、療養所は戦災に遭い、苦労した。 在学中、日本キリスト教団の教会に出席したことがある。卒業の翌年に賛育会の錦糸病院に勤務したが、そのとき本院の内科部長が内村鑑三の聖書研究会に出席していた植木良佐であった。松田は、将来ハンセン病の女医になる大西富美子や名和千嘉とともに聖書研究会に出席した。 「ハンセン病は予想以上に悲惨な病気であると知った。
前島 昇(1904年 - 不明)は、満洲国、晋北自治政府、蒙… 前島 昇(1904年 - 不明)は、満洲国、晋北自治政府、蒙古聯合自治政府の日本人官僚。 宮城県仙台市出身。家は仙台藩の儒学者の出であるという。第二高校に進学、独文科3年生の時に水泳部設置運動に関わる。東北帝国大学法文科に進学し、在学中は応援団長を務めた。1928年卒業後は長野県庁職員で、社会課社会事業主事補、農林主事であったが、満洲国に渡り、実業部農務司となる。間もなく吉林省磐石県参事官として宣撫工作に功を上げる。この際、匪賊との接触を断つべく、農民を一か所に強制移住させる「集団部落」構想を立案したとされ、500ページにわたる提言書を提出。阿城県副参事を経て、大同学院教授。 1937年10月15日、晋北自治政府が成立すると軍の依頼で最高顧問に就任。
尹 泳善(ユン・ヨンソン、朝鮮語: 윤영선、1904年または… 尹 泳善(ユン・ヨンソン、朝鮮語: 윤영선、1904年または1905年 - 1997年12月18日(旧暦11月19日))は、大韓民国の実業家、政治家。初代光州市長、第2代韓国国会議員を歴任した。 本貫は海南尹氏(朝鮮語版)、孤山尹善道の13世宗孫である。元朝鮮総督府中枢院参議の尹定鉉(朝鮮語版)は父。長男の尹亨植は長い間、14代宗孫として海南尹氏宗家の緑雨堂(朝鮮語版)に住んでいる。 全羅南道海南または光州出身。法政大学政経学部卒。郡属、府属、理事官、光州農科大学・光州医科大学期成会理事、国民会全羅南道総務部長を経て、東光新聞副社長、初代(または第5代)全羅南道光州市(現・光州広域市)長、木浦白泉企業会社会長、興国海運会長、国会財経委員、成均館理事長を務めた。
田村 正(たむら ただし、1904年(明治37年) ‐ 19… 田村 正(たむら ただし、1904年(明治37年) ‐ 1986年(昭和61年)2月8日)は、日本の農学者・水産学者。学位は、農学博士(北海道帝國大学)。専門は灌水増殖学。北海道大学名誉教授。函館短期大学学長。位階は従四位。新潟県出身。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
赤城 源三郎(あかぎ げんざぶろう 1904年 ‐ 1999… 赤城 源三郎(あかぎ げんざぶろう 1904年 ‐ 1999年9月17日)は、日本の郷土史家。 新潟県東蒲原郡津川町生まれ。1929年、早稲田大学商学部を卒業。新潟県立津川高等学校等で教員を務める傍ら、東蒲原郡を対象とした地域史研究、民俗学研究を行う。東蒲原郡は越後国でありながら、会津藩領でもあったことから、自らの研究手法を「両属論」と名付けた。新潟県史編さん参与も務めた。
横田 瑞穂(よこた みずほ、男性、1904年 - 1986年… 横田 瑞穂(よこた みずほ、男性、1904年 - 1986年2月19日)は、ロシア文学者。元早稲田大学名誉教授。 北海道函館市出身。早稲田大学露文科卒。井伏鱒二に師事した。戦時中は情報局嘱託。1949年から母校の教員となり、教授として五木寛之や後藤明生を教えた。1974年定年退職。 ミハイル・ショーロホフ『静かなドン』の翻訳で知られる。他にゴーリキー、ゴーゴリなどの翻訳がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
柳 寅坤(リュ・インゴン、朝鮮語: 류인곤、1904年 - … 柳 寅坤(リュ・インゴン、朝鮮語: 류인곤、1904年 - 1970年10月10日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 ユ・インゴン(漢字同、유인곤)とも表記される。 早稲田大学政経学部卒。鮮満拓殖の社員を務めた後、1950年の第2代総選挙では大韓国民党の候補として全南霊岩郡選挙区から出馬し、民主国民党の金俊淵を破って当選した。
穐近 祐(龝近 祐、あきちか ゆたか、1904年 - 200… 穐近 祐(龝近 祐、あきちか ゆたか、1904年 - 2000年7月17日)は日本で活躍した日系アメリカ人の宣教師。イエス福音教団の創設者。息子の穐近祈が後継者になる。 鳥取県倉吉市出身。1919年に農民の子として15歳でアメリカに移住する。同じ日系人の夫人と結婚して、1男(祈)1女を儲ける。ラジオ・バイブル・クラスのデハーン博士の伝道で回心する。 1945年8月に太平洋戦争が終結すると日本宣教の許可を求めてダグラス・マッカーサー陸軍元帥に手紙を送って直訴する。マッカーサーより日本宣教の許可の電報を受ける。 1947年1月アメリカのデンバー市で極東福音十字軍が結成されて、最初の宣教師として穐近夫妻が選ばれる。
伊藤 茂(いとう しげる、1904年(明治37年) - 19… 伊藤 茂(いとう しげる、1904年(明治37年) - 1944年(昭和19年)11月21日)は、海軍軍人、海軍大佐。 新潟県村上市出身。海軍兵学校第52期。 1944年、戦艦「金剛」に乗り組み、台湾沖にて戦死をとげた。 この項目は、軍事上の人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:軍事、プロジェクト:軍事史/Portal:軍事)。
鎌谷 仙龍 (かまたに せんりゅう、1904年 - 1982… 鎌谷 仙龍 (かまたに せんりゅう、1904年 - 1982年) は、日本の曹洞宗の僧侶。 元大本山永平寺後堂、単頭、眼蔵会講師。遷化後、贈西堂。大樹寺専門僧堂堂長。 鳥取県舟岡町に生まれる。1915年(大正4年)、12歳で出家得度する。1929年(昭和4年)より元大本山永平寺西堂橋本恵光老師に随身する。 1948年5月、鳥取県を大樹寺 (鳥取県八頭町)21世に就任した。1955年5月に大樹寺境内に僧堂を建立し、橋本恵光老師を師家として招き拝請して大樹寺専門僧堂を開単する。1956年5月に大樹寺 (鳥取県八頭町)専門僧堂を開単する。 1959年8月、大本山永平寺単頭に就任した。1963年9月、永平寺単頭乞暇。
高田 蒔(たかた まき、1892年〈明治25年〉12月30日… 高田 蒔(たかた まき、1892年〈明治25年〉12月30日 - 1978年〈昭和53年〉3月4日)は、日本の生化学者、内科学者、内科医。医学博士。東邦大学名誉教授、アメリカ国際アカデミー名誉会員。雅号は日庵主人。 新潟県新潟市学校町通(現 新潟市中央区学校町通)の新潟県直税署職員・高田善一郎の四男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)9月に仙台医学専門学校医学科に入学、1913年(大正2年)8月に東京府北豊島郡巣鴨町巣鴨(現 東京都豊島区巣鴨)の溝口伯爵家家扶・高田政敏の養子になった。 1915年(大正4年)9月に東北帝国大学医学専門部医学科を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
邦枝 完二(くにえだ かんじ、1892年12月28日 - 1… 邦枝 完二(くにえだ かんじ、1892年12月28日 - 1956年8月2日)は、日本の小説家。本名は邦枝 莞爾。雅号は双竹亭竹水。戸籍上の誕生日は1893年1月1日。 1892年(明治25年)12月28日東京市麹町区(現・千代田区)東京麹町生れ。祖父は300石取りの幕臣、父は馬術に長じていたという。母方の叔父が浮世絵収集や江戸戯作者を好む通人であったところから、少年時代からその影響を受ける。 麹町小学校を経て商工中学校卒業後、慶應義塾大学予科、東京外国語学校に籍を置いたことになっているが、学生とは名ばかりで、創作に熱心であった。在学中から永井荷風に私淑し、荷風の推薦で処女作『廓の子』が雑誌「三田文学」に掲載された。
岡崎 義恵(おかざき よしえ、男性、1892年12月27日 … 岡崎 義恵(おかざき よしえ、男性、1892年12月27日 - 1982年8月6日)は、日本の国文学者・文芸学者。文学博士。日本学士院会員。 高知市生まれ。東京帝国大学卒、1923年東北帝国大学助教授、のち東北大学教授、1955年共立女子大学教授。1965年日本学士院会員。 美学に基づく日本文芸学を唱えた。1937年谷崎潤一郎が『源氏物語』の現代語訳を出した際、光源氏と藤壺の密通の場面が削除されたことを批判した。『岡崎義恵著作集』全10巻がある。 墓所はさいたま市西区三橋の青葉園。
土井 辰雄(どい たつお、1892年12月22日 - 197… 土井 辰雄(どい たつお、1892年12月22日 - 1970年2月21日)は、大正・昭和期の日本のカトリック教会高位聖職者。洗礼名はペトロ。日本人初の東京大司教かつ、日本人初の枢機卿。 宮城県仙台市出身。1902年4月21日に洗礼を受ける。仙台第一中学(現・宮城県仙台第一高等学校)・第二高等学校(旧制)卒業後、ローマのウルバノ大学に留学し、神学・哲学の学位を得て帰国。1921年5月1日に司祭叙階。宮城県、岩手県の教会にて司牧活動の後、在京ローマ教皇使節秘書を務めていた。 パリ外国宣教会によって司牧されていた東京大司教区が1937年に邦人教区として独立した時、初代邦人大司教として東京教区長に任命され、1938年2月13日にジャン・アレキシス・シャンボン大司教の手により司教叙階を受けた。
浜田 三郎(はまだ さぶろう、1892年12月21日 - 1… 浜田 三郎(はまだ さぶろう、1892年12月21日 - 1973年11月10日)は、日本の彫刻家。 北海道函館市出身。1918年(大正7年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科本科塑造部を卒業した。1926年(大正15年)の第7回帝展に「母」が初入選した。1927年(昭和2年)に斎藤素巌らの構造社に参加した。1932年にロサンゼルスオリンピックの芸術競技の造形種目に参加した。 1944年(昭和19年)から神奈川県湘南中学、1950年(昭和25年)から茅ケ崎高校で教鞭をとった。 1964年(昭和39年)に「楽人」で日展の菊華賞を受賞し、1966年(昭和41年)に日展会員となった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
三田 了一(みた りょういち、1892年12月19日 - 1… 三田 了一(みた りょういち、1892年12月19日 - 1983年5月29日)は、日本の昭和期に活動したムスリム(イスラム教徒)であり、指導者。宗教家。ムスリム名はウマル。山口県下関市の出身。イスラミックセンタージャパン元顧問。関西学院大学、北九州大学元中国語講師。 1972年に、ムスリムの手による初めてのコーランの日本語訳を出版(1982年改訂版出版)したことで知られる。この翻訳は、世界初の公認翻訳として承認されている。 1892年、山口県下関市に生まれ、1916年、山口高等商業学校(現・山口大学経済学部)を卒業。その後、南満州鉄道に就職して中国大陸に渡り、現地のムスリムとの交流を経てイスラム教へ改宗する。
後藤 鍬五郎(ごとう くわごろう、1892年12月19日 -… 後藤 鍬五郎(ごとう くわごろう、1892年12月19日 - 1976年2月27日)は、愛知県海東郡七宝村(現在のあま市)出身のコンクリート造形師。 最初に鉄筋で骨組みを製作し、隙間にコンクリートを流し込んだ後、表面に漆喰などを塗って仕上げる手法を取った。約40体のコンクリート像の製作に携わっており、聚楽園大仏などが代表作とされる。 1892年(明治25年)、愛知県海東郡七宝村(現在のあま市)に生まれた。両親はろうそくや線香などを製作しており、別院の御用商人だった。1900年(明治33年)に三蔵尋常小学校(名古屋市立栄小学校の前身のひとつ)に入学し、1904年(明治37年)に第六高等小学校(名古屋市立栄小学校の前身のひとつ)に入学し、1906年(明治39年)に第六高等小学校を卒業した。
岩崎 民平(いわさき たみへい、1892年〈明治25年〉12… 岩崎 民平(いわさき たみへい、1892年〈明治25年〉12月18日 - 1971年〈昭和46年〉6月29日)は、日本の英語学者・辞書編纂者。東京外国語大学名誉教授。 1892年、山口県都濃郡富田村(現:周南市)で生まれた。1910年、山口県立徳山中学校(現:山口県立徳山高等学校)を卒業。東京外国語学校に進学し、1913年に卒業。 卒業後は東京府立第四中学校教諭となったが、再び東京帝国大学に入学し、1922年に卒業。 1922年、東京外国語学校(のちの東京外国語大学)教授に就いた。1932年刊行の岡倉由三郎編『新英和大辞典(初版)』(研究社)の改訂にあたり、中心となって作業に当たった。続いて1941年刊行の『簡約英和辞典』(研究社)を編纂。
増田 連也(增田、ますだ れんや、1892年〈明治25年〉1… 増田 連也(增田、ますだ れんや、1892年〈明治25年〉12月16日 - 1965年〈昭和40年〉8月22日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(3期)、群馬県会議長。 群馬県邑楽郡伊奈良村岩田(現板倉町)で、増田甚平、あさ夫婦の三男として生まれる。増田家は伊奈良村の名主を代々勤めた家系で、増田長盛の後裔を称した。群馬県立太田中学校邑楽分校(現・群馬県立館林高等学校)を経て、第四高等学校に入学したが2年で中退した。 1914年(大正3年)まで『満洲日報』の政治記者として、満洲、中国、シベリアなどを視察した。帰国後、実業界で活躍。合同砂利株式会社、合同土木株式会社を設立して利根川・思川の砂利採取事業を経営した。
千田貞季(せんだ さだすえ 1892年12月16日 - 19… 千田貞季(せんだ さだすえ 1892年12月16日 - 1945年3月8日)は、大日本帝国陸軍の軍人。栄典は従四位勲二等功四級。士候26期。栗林忠道大将とは同期。
武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15… 武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 日中戦争、対米交渉、フィリピン戦などに従事。一夕会メンバー。統制派だったが後に東條英機との対立で逆に皇道派の山下奉文の部下に配属された。第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判でA級戦犯に問われ、南方戦線での虐殺事件にも関わっていたことで処刑された。 1892年(明治25年)12月15日、熊本県上益城郡白水村(現・菊陽町)に父・定治、母・加野の間に四人兄弟の次男(兄1人姉2人)として生まれる。武藤家は代々藩医をしていた士族の家系で、地主であった。
古閑 健(こが たけし、1892年(明治25年)12月11日… 古閑 健(こが たけし、1892年(明治25年)12月11日 - 1984年(昭和59年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。徳島県警部・古閑巌彦の二男として生まれる。中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。1914年(大正3年)8月から12月まで青島の戦いに出征。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、陸軍兵器本廠付(作戦資材整備会議調査班)、陸軍技術本部付兼軍務局課員を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。
美田 千賀蔵(みた ちがぞう、1892年(明治25年)12月… 美田 千賀蔵(みた ちがぞう、1892年(明治25年)12月10日 - 1945年(昭和20年)7月下旬(戦死日不明))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鳥取県岩美郡牧谷村牧谷(現・岩美町)で、同村の素封家である沢田家の番頭の長男として産まれる。鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に進学する。 1912年12月1日、士官候補生として歩兵第55連隊(佐賀市)に入隊し、1年後の1913年12月1日に陸軍士官学校に入校した。1915年5月25日の卒業後は見習士官として原隊復帰後、同年12月25日付で歩兵第56連隊(久留米市)付として歩兵少尉に任官する。 歩兵第56連隊時代の1917年9月15日に陸軍戸山学校に入校した。
小滝 辰雄(おだき ときお、1892年〈明治25年〉12月9… 小滝 辰雄(おだき ときお、1892年〈明治25年〉12月9日 - 1964年〈昭和39年〉5月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。顕八(あきわ)に改名。 長野県埴科郡南条村(現坂城町)出身。1914年(大正3年)早稲田大学政治経済科卒。1916年(大正5年)同大学英法科、1915年(大正4年)明治大学英法科卒。下谷区議、東京市会議員となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において東京8区から憲政会公認で立候補したが落選。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において東京2区から立憲民政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙で落選。
上野 伊三郎(うえの いさぶろう、1892年(明治25年)1… 上野 伊三郎(うえの いさぶろう、1892年(明治25年)12月9日 - 1972年(昭和47年)5月23日)は、建築家。ブルーノ・タウトとの関係で知られる。 1892年京都府生まれ。祖父は京都の宮大工、父・伊助は上野工務店を経営していた。宮大工の修業をしていたが東京へ出て、早稲田大学高等予科理工科を経て早稲田大学理工学部建築学科で学び、1922年(大正11年)に卒業。ドイツのシャルロッテンブルク工科大学、オーストリアのウィーン大学へ留学し、ヨーゼフ・ホフマンのウィーン工房に入所(1924年)。ここで所員の工芸家・リチ(Felice Lizzi Rix、1893年 - 1967年)と出会い、結婚する。
徐 成達(ソ・ソンダル、朝鮮語: 서성달、1892年12月7… 徐 成達(ソ・ソンダル、朝鮮語: 서성달、1892年12月7日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 ソウル出身。日本大学法科卒。三・一運動に参加したあと中国に亡命したが、帰国途中に逮捕・収監された。その後は青年党大会、新幹会などの幹部として活躍し、親日15団体による自治要求宣言運動や朴春琴を中心とした11同盟に参加した(その活動を破壊するために参加したとも言われる)。解放後は大韓独立促成国民会高陽郡支部長、国青ソウル市参謀、朝鮮国旗奉賛会長、民族代表者大会代議員、韓国民主党中央執行委員などを歴任した。