小田 貫一(おだ かんいち、1856年12月29日(安政3年… 小田 貫一(おだ かんいち、1856年12月29日(安政3年12月3日) - 1909年(明治42年)7月22日)は、日本の政治家、広島市長(第六代)。族籍は広島県平民。玄孫に、内閣総理大臣の岸田文雄がいる。 安芸国佐伯郡宮内村(広島県佐伯郡宮内村、廿日市町を経て現廿日市市)に生まれる。小田常吉の長男。家は代々農業を営む。上京して慶應義塾を卒業したのち、広島県会議員を経て宮内村長となる。 第2回衆議院議員総選挙に立憲政友会からの推薦を受けて当選(以後6回当選)。のちに政友会を離党して社交俱楽部を組織した。1908年(明治41年)3月2日の第24回帝国議会「神職養成部国庫補助二関スル建議案委員会」で委員長として「国家神道」という言葉を初めて公に使用した。
7代 羽室 嘉右衛門(嘉右衞門、はむろ かうえもん / かえ… 7代 羽室 嘉右衛門(嘉右衞門、はむろ かうえもん / かえもん、1856年12月26日(安政3年11月29日)- 1924年(大正13年)8月25日)は、明治から大正期の地主・農業経営者・酒造家・実業家・政治家。京都府多額納税者、第一期及び第二期貴族院多額納税者議員互選人。衆議院議員、京都府何鹿郡中筋村長。幼名・逸郎、松逸郎。 郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)初代社長、明瞭銀行頭取。郡是製絲株式会社の第2代社長波多野鶴吉は次弟。比叡山鉄道株式会社初代社長、愛宕山鉄道株式会社取締役で京都法政学校(現・立命館大学)設立評議員・理事の羽室亀太郎は末弟。羽室亀太郎の妻ゆうは衆議院議員河原林義雄の妹。
駒林 広運(こまばやし ひろゆき/こううん、1856年12月… 駒林 広運(こまばやし ひろゆき/こううん、1856年12月23日(安政3年11月26日) - 1935年(昭和10年)11月23日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)。 庄内藩士駒林広明の長子として出羽国田川郡鶴岡大海町(西田川郡鶴岡町を経て現鶴岡市)に生まれ、1875年(明治8年)8月、戸主となる。和漢学を修めたのち1879年(明治12年)3月、三等准訓導となったのち山形県会書記に転じた。1883年(明治16年)には同県会議員に当選し、1886年(明治19年)条約改正に反対を掲げ上京する。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙まで通算5回当選した。
佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856年12月21日(安政… 佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856年12月21日(安政3年11月24日) - 1939年(昭和14年)6月5日)は、日本の教育者。北海道帝国大学初代総長。日本初の農学博士のひとり。 現在の岩手県花巻市出身。父は南部藩士の佐藤昌蔵。1870年(明治3年)1月には藩校の作人館に入り漢学を学ぶ(同窓生に原敬らがいる)。1871年に上京。私塾や大学南校などで英学を修業。また、この頃に横浜でキリスト教に接した。1872年(明治5年)5月に一時帰郷。その後、1874年3月に東京外国語学校に入学(英語科は同年12月27日に東京英語学校に改組、東京開成学校の「予科」と統合されて東京大学予備門となり、現東京大学)。
福羽 逸人(ふくば はやと/いつじん、1856年12月13日… 福羽 逸人(ふくば はやと/いつじん、1856年12月13日〈安政3年11月16日〉- 1921年〈大正10年〉5月19日)は、日本の造園家、園芸家、官僚、農学者。位階・勲等は正三位勲一等。爵位は子爵。宮内省で長く宮廷園芸技師として活躍、小豆島のオリーブや「福羽いちご」として知られるイチゴなど植物栽培、花弁果樹野菜等の品種改良など園芸分野で多く貢献をしたほか、新宿御苑をはじめとする宮内省管轄の庭園等の整備、武庫離宮(須磨離宮)の庭園設計、栗林公園北庭および日比谷公園西洋花壇の設計に当たった。 石見国津和野藩にて津和野藩士、佐々布利厚の三男として生まれる。父とは3歳のときに死別した。1872年(明治5年)、16歳のとき、国学者の同藩士・福羽美静の養子となる。
12代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1856年12… 12代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1856年12月12日(安政3年11月15日) - 1925年(大正14年)11月10日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。貴族院多額納税者議員。 渡辺浄意の長男として、岐阜城下松屋町(現岐阜市松屋町)に生まれる。生家は絹織物製造業を営む。大蔵省の銀行学講習所で学ぶ。 1877年(明治10年)第十六国立銀行(後の十六銀行)を創立し頭取に就任。1878年(明治11年)清に渡り帰朝後に廻瀾社を創立し対清貿易に従事した。1879年(明治12年)岐阜町会議員に当選し、同議長、連合町村会議員、水利土工会議員などを歴任した。 1882年(明治15年)商法会議所を設立し議長を務め、1887年(明治20年)に岐阜商工会と改称し会頭となる。
山崎 良純(やまさき よしずみ、1856年12月7日(安政3… 山崎 良純(やまさき よしずみ、1856年12月7日(安政3年11月10日)- 1918年(大正7年)10月4日)は、明治期の政治家、実業家。衆議院議員、鹿児島県会議長。旧姓・平川。 薩摩国高城郡水引郷宮内村(鹿児島県高城郡水引郷水引村、東水引村、薩摩郡東水引村、川内町、川内市宮内町を経て現薩摩川内市宮内町)で、鹿児島県会議員を務めた山崎良尚の息子として生まれた。兄・良弼と共に西南戦争で薩摩軍として従軍したが、戦後に父の勧めで上京した。その後、帰郷して平川家の養嗣子となるが、兄が病死したため山崎家に復籍した。 1885年(明治18年)1月、鹿児島県会議員に選出され、1894年(明治27年)4月、第9代県会議長に就任した。
正木 直太郎(まさき なおたろう、安政3年11月9日(185… 正木 直太郎(まさき なおたろう、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 昭和9年(1934年)4月20日)は日本の教育者。 信濃国上田藩士、正木六郎左衛門の長男として上田城下(長野県上田市)に生まれる。1864年藩校明倫堂に学ぶ。1874年上京して同人社で英学を学び、1882年東京師範学校中等科を卒業。1884年旧制郡立小県中学校(長野県上田高等学校)校長に就任、1886年長野師範学校教諭となり、1893年同校長に就任し、信濃教育会長も務める。1899年埼玉師範学校長、1901年香川師範学校長を歴任するが、教科書裁判に連座し休職となった(のちに無罪)。 1904年弘文学院教授、のち清国安慶高等師範学堂に招かれ、1913年帰国。
上原 勇作(うえはら ゆうさく、1856年12月6日〈安政3… 上原 勇作(うえはら ゆうさく、1856年12月6日〈安政3年11月9日〉- 1933年〈昭和8年〉11月8日)は、日本の陸軍軍人。元帥陸軍大将従一位大勲位功二級子爵。 陸軍大臣、教育総監、参謀総長。この「陸軍三長官」を歴任した上で元帥府に列せられたのは、帝国陸軍史上、上原、杉山元の2名のみである。兵科は工兵科。 薩摩藩領であった日向国都城(現:宮崎県都城市)出身。妻は野津道貫の娘、槙子。山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)。
千頭 清臣(ちかみ きよおみ、1856年12月5日(安政3年… 千頭 清臣(ちかみ きよおみ、1856年12月5日(安政3年11月8日) - 1916年(大正5年)9月9日)は、日本の教育者、内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。幼名・徳馬。 土佐藩士・千頭清雄の二男として生まれる。1880年、東京大学文学部を卒業。1881年7月、東京大学予備門教諭に就任。1886年、イギリスに留学。帰国後、第一高等中学校教諭となり、さらに、鹿児島高等中学造士館教授、高知県尋常中学校長、第二高等学校教授を歴任。 1896年8月、内務省に転じ、内務書記官兼内務省参事官に就任。1897年11月、栃木県知事(「栃木県知事一覧」参照)に就任。以後、宮城県・新潟県・鹿児島県の各知事を歴任。
井口 在屋(いのくち ありや、安政3年10月30日(1856… 井口 在屋(いのくち ありや、安政3年10月30日(1856年11月27日) - 大正12年(1923年)3月25日)は、石川県金沢市出身の機械工学者。東京帝国大学教授。荏原製作所の創業者の一人。 1856年(安政3年)加賀(現在の金沢市)に生まれる。1882年(明治15年)に工部大学校機械科第4期を首席で卒業し、工部大学校助教授、その後は海軍機関学校、海軍大学校の教官を歴任した。1894年(明治27年)にヨーロッパ留学し、1896年(明治29年)に帝国大学教授となる。1897年(明治30年)に日本機械学会を設立、1899年(明治32年)に工学博士となる。1905年(明治38年)に「渦巻ポンプの研究」を発表、1909年(明治42年)には帝国学士院会員となる。
桐山 篤三郎(きりやま とくさぶろう、1856年11月23日… 桐山 篤三郎(きりやま とくさぶろう、1856年11月23日(安政3年10月26日) - 1928年(昭和3年)5月20日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(… 飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(安政3年10月15日)- 1918年(大正7年)10月12日)は、明治から大正前期の教育者、政治家。衆議院議員。 豊前国企救郡小倉城下(福岡県企救郡小倉町、小倉市を経て現北九州市小倉北区)で、小倉藩士、槍指南役・飯森辰蔵の第二子として生まれる。藩校・育徳館(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)で学び、13歳で長崎遊学に選抜され、重野成斎(重野安繹)に師事した。 1880年(明治13年)鹿児島中学校(中学造士館の前身)の教員となり、その後、各地の旧制中学校、商業学校で教員を務め、1890年(明治23年)実業界に転じた。 1900年(明治33年)から17年間、小倉市会議員に在任し、この間、学務、水道、防疫、築港などの委員を務めた。
林 太一郎(はやし たいちろう、1856年11月12日(安政… 林 太一郎(はやし たいちろう、1856年11月12日(安政3年10月15日) - 1914年(大正3年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 能登国鹿島郡中挟村(石川県鹿島郡徳田村を経て現七尾市)で、林太郎平の三男として生まれる。1876年(明治9年)石川県師範学校を卒業し、鹿島郡内の小学校で教員として務めた。1877年(明治10年)4月、陸軍教導団に入団し、1878年(明治11年)10月、歩兵科を卒業し軍曹に任官して大阪鎮台に配属された。1881年(明治14年)12月、陸軍士官学校(旧4期)を卒業し 歩兵少尉に任官。1882年(明治15年)1月、歩兵第8連隊付となる。1886年(明治19年)12月、陸軍大学校(2期)を卒業。
的場 中(まとば なか、安政3年10月12日(1856年11… 的場 中(まとば なか、安政3年10月12日(1856年11月9日) - 1933年(昭和8年)4月20日)は、日本の冶金学者、工学博士。工部大学校(現・東京大学工学部)卒業、冶金鉱山学研究のためドイツに留学、東京帝国大学工科大学教授、東京帝国大学名誉教授の称号を得た。 伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)出身。1882年(明治15年)、工部大学校鉱山学科を卒業。工部大学校助教授、東京帝国大学工科大学助教授を歴任した。1890年(明治23年)から1893年(明治26年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学した。1894年(明治27年)、東京帝国大学工科大学教授となり、1899年(明治32年)に工学博士の学位を得た。
新山 荘輔(にいやま そうすけ、安政3年10月10日(185… 新山 荘輔(にいやま そうすけ、安政3年10月10日(1856年11月7日) - 昭和5年(1930年)11月7日)は、獣医学博士、下総御料牧場長、新冠御料牧場長、馬政官、農商務技師、宮中顧問官。日本の官民両面における畜産業、特に馬産事業の貢献者。正三位旭日重光章受章。 種畜の改良、繁殖、育成等を通じた飼養管理や治療法等の功績により『日本獣医学の生みの親』として知られる。 岩山敬義によって創設された駒場農学校(後の東京大学農学部)で獣医学を学び、ヨーロッパの畜産業の視察のため藤波言忠子爵に随行した。この間、ドイツ語が堪能であったことから渡欧中だった伊藤博文一行と会い、通訳や翻訳の仕事にあたり、明治憲法制定に一役買ったとされる。
浅香 克孝(あさか こくこう、1856年11月6日(安政3年… 浅香 克孝(あさか こくこう、1856年11月6日(安政3年10月9日)- 1914年(大正3年)1月5日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(6期)。 武蔵国足立郡千住町(東京府南足立郡千住町、東京市足立区を経て現東京都足立区千住地域)に生まれる。生家は豪農として知られた。25歳にして東京府会議員に選出され、同常置委員、郡部会副議長を歴任する。 のち立憲改進党に入党し、1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では東京府第11区から出馬し当選。以来第2回、第3回、第5回、第6回、第8回総選挙でも当選し衆議院議員を通算6期務めた。議員在任中は憲政本党の幹部などを務めた。
長町 耕平(ながまち こうへい、安政3年(1856年)11月… 長町 耕平(ながまち こうへい、安政3年(1856年)11月 - 大正8年(1919年)6月23日)は、香川県出身の医師、山梨県病院院長、香川県立高松病院長。号は象東、藻海。 讃岐国高松藩富熊村(現在の香川県丸亀市)の薬種商、長町徳兵衛の子として生まれる。明治14年(1881年)7月に東京帝国大学医科大学を卒業、新潟県の公立三条病院長を経て、明治17年(1884年)2月8日に山梨県病院(現在の山梨県立中央病院)の第5代院長となり、明治24年(1891年)4月2日まで務めた後、香川県立高松病院長となり、明治31年(1898年)には高松市西新通町に拙誠堂医院を開業。また、高松市会議員を務めている。 山梨県内における地方病 (日本住血吸虫症)の最初の公式記録である、明治14年(1881年)に東山梨郡春日居村から東山梨郡役所経由で山梨県に提出された、その惨状を訴え出た「御指揮願」、明治17年(1884年)2月20日に同村から再度の上申書が提出され、当該上申書に基づき山梨県が同年3月15日に検診医を現地に派遣しているが、その後も、予防の方法もないまま地方病の患者が増加していく村の現状を憂いた同村は、明治20年(1887年)2月10日付で再度地方病の原因調査を山梨県に上申している。
世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年1… 世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年10月31日〉- 明治33年〈1900年〉8月1日)は、日本の海軍軍人。アナポリス海軍兵学校 1881年次卒業。最終階級は海軍少将。 海軍省主事、海軍省軍務局軍事課長、戦艦「富士」艦長、戦艦「三笠」回航委員長などの要職を歴任したが、現役の海軍少将のまま、満43歳の若さで病死した。 ※ 本節の出典は、特記ない限り、秦 2005, p. 222, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:世良田亮。 信濃国・上田藩の上田城下に出生。父は、上田藩士で弓術師範を務めた山本義隆。幼名は山本源之丞で、廃藩の際に本姓に復し、世良田亮と名乗った。 世良田は神童の評判が高く、9歳の時から上田藩の藩校に学んだ。
寺田 徳三郎(てらだ とくさぶろう、1856年10月21日〈… 寺田 徳三郎(てらだ とくさぶろう、1856年10月21日〈安政3年9月3日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、実業家、政治家。貝塚銀行取締役。和泉水力電気監査役。貝塚町会議員。族籍は大阪府平民。 大阪府岸和田市の人・寺田甚与茂、寺田元吉の弟。寺田甚右衛門の三男。1881年の分家の際は岸和田本町に居を構え、綿糸商を営む。1882年に現住邸宅を買収し住所を変え、酒造業を営む。 家業の傍ら会社銀行等の営利事業に関与する。貝塚銀行については創立当時監査役だったが、数年ならず取締役に転じた。1892年より10年余町会議員をつとめた。郡会開設の当時、議員に挙げられ、1期間就任した。 分家して一家を創立する。
長谷川 宗治(はせがわ そうじ / むねはる、1856年10… 長谷川 宗治(はせがわ そうじ / むねはる、1856年10月19日(安政3年9月21日)- 1936年(昭和11年)11月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県大里郡御正村長。旧姓・多田。 武蔵国大里郡原島村(のち埼玉県大里郡大幡村、現:熊谷市)で、多田貞助の長男として生まれ、大里郡三ッ本村(のち御正村、現:熊谷市)の長谷川貴重の養子となる。普通学を修めた。熊谷商業銀行取締役を務めた。 三ッ本村戸長、御正村会議員、同助役、同村長を歴任。1894年から埼玉県会議員に25年間在任し、この間、同参事会員、同議長(2回)を務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第三区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
清水 宜輝(しみず よしてる、安政3年9月13日〈1856年… 清水 宜輝(しみず よしてる、安政3年9月13日〈1856年10月11日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月7日)は、明治から昭和初頭にかけて活動した日本の銀行経営者・実業家である。十五銀行支配人・取締役や中央電気第2代社長などを務めた。新潟県出身。 清水宜輝は、安政3年9月13日(新暦:1856年10月11日)、越後高田藩士・清水宜義の長男として生まれた。生家は高田。1873年(明治6年)上京し中村正直(敬宇)の「同人社」に学ぶ。1874年(明治7年)には大蔵省銀行局の官費生に選ばれ、4年間ヨーロッパで経済学を学んだ。 1877年(明治10年)、華族に交付された金禄公債を原資として第十五国立銀行が設立された。
大隈 英麿(おおくま ひでまろ、安政3年9月11日(1856… 大隈 英麿(おおくま ひでまろ、安政3年9月11日(1856年10月9日) - 1910年(明治43年)5月14日)は、明治時代の教育者、政治家。東京専門学校(早稲田大学の前身)初代校長(1882年 - 1886年)や衆議院議員を務めた。陸奥盛岡藩主南部家に生まれ、一時期は大隈重信の婿養子になったが、後に離縁した。 1856年10月9日(安政3年9月11日)、第14代盛岡藩主南部利剛の次男として盛岡城内に生まれる。幼名(初名)は剛建。1870年(明治3年)、14歳のときに姉・郁子の夫である華頂宮博経親王に従って渡米する(従者に五十川基)。現地の小・中学校を経てダートマス大学へ入学して天文学を専攻、のち指導教授の転任に伴いプリンストン大学に移り、数学を修めた。
松島 廉作(まつしま れんさく、安政3年8月29日(1856… 松島 廉作(まつしま れんさく、安政3年8月29日(1856年9月27日) - 昭和14年(1939年)4月22日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党)。 遠江国豊田郡美川村(現在の静岡県袋井市)に金井文平の二男として生まれ、長上郡五島村(現在の浜松市中央区)の松島五右衛門の養子となった。東京専門学校(現在の早稲田大学)で政治学・経済学を学んだ。1886年(明治19年)、静岡県会議員に当選した。1892年(明治25年)、第2回衆議院議員総選挙に当選。以後、当選回数は6回を数えた。 また、静岡民友新聞社を創設し、社長を務めた。
松田 学(松田 學、まつだ まなぶ / がく、1856年9月… 松田 学(松田 學、まつだ まなぶ / がく、1856年9月17日(安政3年8月19日)- 1938年(昭和13年)1月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、札幌市会議長。 但馬国出石郡水上村(現兵庫県豊岡市)で、庄屋・松田甚次郎の長男として生まれる。 1881年6月、徳島県属に任じられ、以後、大蔵省属、根室県収税属、北海道庁属を歴任し、1891年に退官。実業に従事した後、1897年、北海道庁属に再任され、さらに台湾総督府新竹県属、台北県属を務め、1898年に退官した。 その後、札幌に移り、実業界に入った。1907年、札幌木材 (株) 取締役に就任。以後、札幌調帯 (株) 取締役社長、定山渓鉄道 (株) 取締役社長、札幌商業会議所第3代会頭などを歴任。
高川 定次郎(たかがわ ていじろう、1856年9月16日(安… 高川 定次郎(たかがわ ていじろう、1856年9月16日(安政3年8月18日)- 1921年(大正10年)11月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長、兵庫県赤穂郡坂越村長。 播磨国赤穂郡坂越村(兵庫県赤穂郡坂越村、坂越町を経て現赤穂市坂越)で、油製造業、廻船業、塩業・高川定十郎の息子として生まれた。室井源仙に師事し、漢学、習字、算数を修めた。その後、赤穂郡北野中村の鍋島智成から漢籍を学んだ。 1877年(明治10年)坂越村小学校教員となり数年間在任。1883年(明治16年)3月、赤穂郡全町村連合会議員に就任。1885年(明治18年)12月、兵庫県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長も務めた。
山田 順一(やまだ じゅんいち、1856年9月11日(安政3… 山田 順一(やまだ じゅんいち、1856年9月11日(安政3年8月13日) - 1919年(大正8年)10月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。名は篤敬、字は子信、号は忠焉齋、旧姓飯塚。 越後国刈羽郡新道村(のち新潟県刈羽郡日高村→高田村、現・柏崎市)生まれ。神奈川県立修文館で英語を学び、東京湯島共貫義塾を経て、麻布学農社で農学を学ぶ。新潟県会議員、刈羽郡連合会議員、同議長、郡教育会議員、同議長、学務委員、両田尻村(現・柏崎市)外七ヶ村戸長、郡所得税調査委員、徴兵参事員、田尻村会議員、刈羽郡会議員、同議長代理となる。第百三十九国立銀行取締役、柏崎物産(株)社長、越後セメント取締役、柏崎米穀取引所理事長、宝(株)石油、日東石油(株)各取締役、七十七銀行、石地銀行各監査役を務めた。
藤掛 文平(ふじかけ ぶんぺい、1856年9月10日(安政3… 藤掛 文平(ふじかけ ぶんぺい、1856年9月10日(安政3年8月12日) - 1920年(大正9年)1月30日)は、明治から大正時代の政治家。薬剤師。衆議院議員。 美濃国可児郡、のちの岐阜県可児郡兼山町(現可児市)出身。東京薬学校を卒業し、薬剤師として薬種問屋および各種薬品の製造販売業を営む。 区長、戸長、岐阜県会議員を歴任した。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
浅野 長太郎(あさの ちょうたろう、1856年9月7日(安政… 浅野 長太郎(あさの ちょうたろう、1856年9月7日(安政3年8月9日) - 1932年(昭和7年)3月18日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 越中富山藩領婦負郡笹倉村(富山県婦負郡速星村、婦中町を経て現富山市)で、大地主・浅野為都(ためと)の長男として生まれる。 1884年(明治17年)以降、笹倉村会議員、同議長、速星村会議員、同村長、富山県会議員(3期)、婦負郡会議員、同議長代理、速星村農会長、同学務委員などを歴任した。 1906年(明治39年)富山県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年12月13日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
松岡 長康(まつおか ながやす、1856年9月6日(安政3年… 松岡 長康(まつおか ながやす、1856年9月6日(安政3年8月8日) - 1908年(明治41年)4月26日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥後国八代郡高田村(現・熊本県八代市)の地主の家に生まれる。漢学を学ぶ。農業と商業を営み、学区取締、熊本県会議員、熊本県御用掛、県収税属、八代郡所得税調査委員となる。日清戦争後の1895年、台湾総督府雲林支庁長、同法院雲林支部審判官、台中県支庁書記官となり、従七位に叙せられる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において熊本5区から自由党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月… 佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月6日) - 1942年(昭和17年)6月20日)は、現在の広島県福山市出身の宗教家・教育者。 金光教祖の教えを教祖没後も世に遺すべく、教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進した。現在の金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者・初代校長。金光教の三直信の一人で、金光教内では佐藤宿老(さとう しゅくろう)と呼ばれる。 安政3年(1856年)8月6日(戸籍上は2月8日)、備後国安那郡神御領村(現在の広島県福山市神辺町上御領)佐藤吉五郎満貴の三男に生まれる。明治4年(1871年)、16歳の時大工職を目指し弟子入りした。
青木 定謙(あおき さだかね、安政3年8月4日(1856年9… 青木 定謙(あおき さだかね、安政3年8月4日(1856年9月2日) - 昭和5年〈1930年〉4月10日)は、内務官僚、札幌区長。 秋田市角館出身。1875年(明治8年)に小学校教員となり、その後仙北郡書記、山形県警部、秋田県警部、秋田県属を歴任した。1890年(明治23年)、秋田県参事官に任じられ、高知県参事官、島根県警部長、和歌山県警部長、新潟県警部長、広島県警部長、広島県事務官・第四部長を歴任した。 1906年(明治39年)、札幌区長に選出され、1912年(大正元年)まで在任した。 1922年(大正11年)より義勇財団海防義会の理事を務めた。
保田 棟太(やすだ むねた、1856年9月1日(安政3年8月… 保田 棟太(やすだ むねた、1856年9月1日(安政3年8月3日) - 1919年(大正8年)6月28日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
横田 孝史(よこた こうし、安政3年7月21日(1856年8… 横田 孝史(よこた こうし、安政3年7月21日(1856年8月21日) - 昭和9年(1934年)12月6日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。薬剤師。 播磨国加西郡賀茂村(現在の兵庫県加西市)出身。兵庫県姫路師範学校を卒業後、小学校教員となるが、大阪に出て緒方義塾で薬学を学んだ。1885年(明治18年)より神戸市に薬局を開業し、後に兵庫県薬剤師会会頭、神戸薬業組合長を務めた。また神戸市会議員、同議長、兵庫県会議員、同参事会員に選出された。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回まで3回連続当選を果たした。 その他、神戸商業会議所理事となり、神戸瓦斯株式会社・神戸電気株式会社(後の神戸市電)・兵庫電気軌道株式会社(現在の山陽電気鉄道)の設立にも関わった。
川井 考策(かわい こうさく、1856年8月18日(安政3年… 川井 考策(かわい こうさく、1856年8月18日(安政3年7月18日) - 1920年(大正9年)3月24日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 相模国高座郡下土棚村(神奈川県高座郡六会村を経て現藤沢市)出身。漢学、数学を修める。小学校教員、村会議員、神奈川県会議員を歴任した。ほか、生糸製造業に従事し県製糸同業組合長、相州大成、相模肥料各社長、藤沢町外六ケ村産業組合長を務め、模範共同揚返所を創立した。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では神奈川県郡部から立憲同志会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3… 城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 1936年(昭和11年)1月8日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、教育者、共和主義思想家、自由民権運動家。 旧暦安政3年7月(1856年8月)、越後長岡藩士・河井資信とちよの長男として長岡に生まれる。河井家は譜代の家臣で幕末の禄高が90石、河井継之助は親戚筋にあたる。 藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村(現・長岡市)の遠藤軍平塾を経て、戊辰戦争における同藩の敗北を経験した後、明治3年6月(1870年)、慶應義塾に入塾。明治5年(1872年)に義塾の教員となり(1890年に特選塾員)、新暦1876年(明治9年)からは徳島慶應義塾の二代目校長となる。
根岸 錬次郎(ねぎし れんじろう、1856年8月17日(安政… 根岸 錬次郎(ねぎし れんじろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 没年不詳)は、明治時代の事業家。 1856年、東京府士族根岸勝平の次男として生誕。1880年に家督を相続。東京帝国大学予備門卒業。 千代田鋳工、東京缶詰、東神火災保険、日仏シトロエン自動車で社長、日本商船基隆支店助役、日本郵船ロンドン支店助役などを経て、日本郵船、揖斐川電気の重役。 1918年(大正7年)に東京動産火災保険の発起人・社長となる(翌年には反町茂作が社長に就任)。
大塚 成吉(おおつか なりよし、1856年8月13日(安政3… 大塚 成吉(おおつか なりよし、1856年8月13日(安政3年7月13日) - 1905年(明治38年)3月31日)は、明治時代の政治家。弁護士。衆議院議員(1期)。 江戸、のちの東京市小石川区小日向台町(現東京都文京区小日向)に生まれる。1870年(明治3年)横須賀製鉄所技術伝習生を経て、1872年(明治5年)大学南校に入り、1875年(明治8年)司法省法学校正則第1期補充生となった。1876年(明治9年)司法省御用掛となるが翌年1月に廃官となる。1880年(明治13年)代言人免許を取得し、横浜代言人組合に加入。1882年(明治15年)同会長に就任した。1886年(明治19年)5月、尾上町に横浜法律学校を創立し校主を務めた。
千早 正次郎(ちはや しょうじろう、1856年8月12日(安… 千早 正次郎(ちはや しょうじろう、1856年8月12日(安政3年7月12日) - 1938年(昭和13年)10月18日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。大日本帝国海軍軍人。衆議院議員。 苗木藩留守居役・千早正理の次男として、美濃国恵那郡日比野村(岐阜県恵那郡苗木村、苗木町、中津川町を経て現中津川市)に生まれる。1878年(明治11年)海軍主計学校を卒業する。同年、兄の千早正路が割腹自殺する。 海軍省に出仕し、1886年(明治19年)供給課長を経て累進し海軍大主計(大尉相当官、後の主計大尉)に進んだ。このころ、同じ海軍主計学舎第一期卒業生の飯村知、加唐為重とともに軍を辞め、生命保険会社設立を企画するも断念(加唐はその後帝国生命保険を設立)。
樋口 喜輔(ひぐち きすけ、1856年8月11日(安政3年7… 樋口 喜輔(ひぐち きすけ、1856年8月11日(安政3年7月11日) - 1933年(昭和8年)11月10日)は、青森県出身の政治家、実業家。 安政3年(1856年)、南津軽郡浪岡村(浪岡町を経て現青森市)に山内伝三郎の三男として生まれた。 一代で財を築き、当時の市財界の指導的立場に立つとともに、町政・市政にも関与。 明治25年に町会議員に当選して以来、20年にわたって町会・市会議員を務め、明治43年には市会議長に就任。明治45年には衆議院に当選(政友会)。 この間、青森港第2期拡張工事、水道事業の開始などに尽力。 大正10年青森貯蓄銀行(のち,みちのく銀行)を設立,頭取となる。他に、第五十九銀行監査役,青森電灯取締役などもつとめた。
穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1… 穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1856年8月11日〈安政3年7月11日〉 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人。東京帝国大学法学部学部長。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵。枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。現在の愛媛県宇和島市出身。獨逸学協会会員。弟子に牧野英一など。 1856年8月11日(安政3年7月11日)、伊予国宇和島藩領で国学者の鈴木(穗積)重樹の次男・邑次郎として生まれた。明治に入り鈴木家は穂積に改姓している。13歳で婿養子として入江家と養子縁組(婚約)をし、宇和島藩の貢進生として大学南校入学時は入江邑次郎、開成学校では入江陳重と名乗っている。
一坂 俊太郎(いちさか しゅんたろう、1856年8月6日(安… 一坂 俊太郎(いちさか しゅんたろう、1856年8月6日(安政3年7月6日) - 1922年(大正11年)2月4日)は、日本の政治家(衆議院議員)。徳島市長。 阿波国名東郡徳島(現徳島県徳島市)で、徳島藩士・一坂周作の長男として生まれた。新居水竹の塾で漢学を学ぶ。 1874年(明治7年)初代徳島市長である井上高格らと共に自由民権運動を訴える「自助社」を結成。しかし自助社が出版した「通諭書」は過激な言葉で日本政府を批判していた為、俊太郎らは政府に捕らわれてしまう。 この事件を裁いた玉乃世履は、公判廷での俊太郎の熱弁に魅了され、俊太郎を自分の養子にする話を持ち出したが、養子にはならなかった。 その後、京都府、内務省、逓信省で書記官などを務めた後、1907年に徳島市長に就任。
二代目 澁澤 金蔵(にだいめ しぶさわ きんぞう、安政3年7… 二代目 澁澤 金蔵(にだいめ しぶさわ きんぞう、安政3年7月4日〈1856年8月4日〉 - 1930年〈昭和5年〉4月12日)は、日本の政治家、銀行家、名望家、群馬県多額納税者、地主。群馬県新田郡太田町長(初代)。族籍は群馬県平民。 上野国新田郡太田町(現・群馬県太田市)出身。質店を営んだ初代澁澤金蔵の長男で、1887年に父から家政を譲られた。前名を直次郎と呼び1889年、家督を相続して二代目金蔵を襲名した。 商業、金銭貸付業を営んだ。上毛実業銀行顧問、上野銀行、新田銀行各取締役、群馬商業銀行監査役などをつとめた。 町村制実施と同時に太田町初代町長となり、太田消防組第一回の組頭として以来町政に貢献し、また町議として活動した。
山田 寒山(やまだ かんざん、男性、安政3年7月3日(185… 山田 寒山(やまだ かんざん、男性、安政3年7月3日(1856年8月3日) - 大正7年(1918年)12月26日)は、明治期の日本の篆刻家である。曹洞宗の僧侶であり詩書画にも堪能であった。 名は潤子、号が寒山。 尾張国愛知郡長久手村(現・愛知県長久手市)出身。曹洞宗の僧であったが、18歳の頃、小曽根乾堂に訪ねて篆刻について問い、24歳のときに福井端隠に入門し高芙蓉の流れを汲む古体派の篆刻を学ぶ。明治16年(1883年)に最明寺(熊野市二木島町)住持を任されるが、明治19年(1886年)には辞して大坂に出る。明治28年(1895年)に東京に移り住み芝瓢箪池畔に芝仙堂と名付けた庵を結ぶ。明治30年(1897年)に清国に渡り、呉昌碩と親しく交わりその門下となっている。
島村 干雄(しまむら たてお、1856年8月2日(安政3年7… 島村 干雄(しまむら たてお、1856年8月2日(安政3年7月2日) - 1910年(明治43年)11月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1856年(安政3年)、土佐国土佐郡久万村(現在の高知県高知市)に島村重吉の次男として生まれる。1873年(明治6年)上京し陸軍幼年学校に入学するが、放縦の故退学になる。1874年(明治7年)3月、熊本に行き谷干城の兵士になる。佐賀の乱や台湾征伐で武功をあげ、1877年(明治10年)6月、歩兵少尉に任官。1879年(明治12年)から1882年(明治15年)までと、1884年(明治17年)から翌年、渡清し諜報任務に従う。 1896年(明治29年)9月、歩兵第33連隊長に就任。
亀井 忠一(かめい ただかず、安政3年6月30日(1856年… 亀井 忠一(かめい ただかず、安政3年6月30日(1856年7月31日) - 昭和11年(1936年)1月30日)は、三省堂書店、三省堂の創業者で三省堂編修所の代表者でもあった。明治時代の代表的出版人でもあり、日本における近代的辞書の礎を築いた人物のひとり。 江戸小石川で旗本・中川家の五男として生まれ、大政奉還後に家族で沼津に移り住み、困窮する父を助けて、落ち葉集めや卵・糠の行商で糊口をしのぐ。16歳で同じ元旗本・亀井家の婿養子となり、明治6年(1873年)に東京に戻る。はじめ麹町13丁目で下駄商を営むが明治14年(1881年)、四谷の大火により店が焼けた後、兄が営む神田の古本屋「石川桃林堂」に倣って神保町に三省堂を創業した。
浅野 長道(あさの ながみち、安政3年6月27日(1856年… 浅野 長道(あさの ながみち、安政3年6月27日(1856年7月28日) - 1912年(大正元年)8月4日)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛媛県松山市長。幼名は房五郎。 松山城下八坂町にて浅野長英の長男として生まれる。1877年(明治10年)愛媛県師範学校(愛媛大学教育学部の前身のひとつ)を卒業後、派駐訓導を務める。 のち官界に入り、1878年(明治11年)下浮穴郡書記、伊予郡書記として学務係に任じ、1881年(明治14年)下浮穴・伊予郡書記、1886年(明治19年)三野・豊岡郡書記、1887年(明治20年)神奈川県属を経て、1899年(明治32年)温泉郡長に就任した。1902年(明治35年)2月7日、市会で推され、松山市長に就任。
浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月… 浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) - 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家。教育者としても貢献した。
足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年… 足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年6月15日〉 - 1930年〈昭和5年〉6月10日)は、日本の実業家、篤農家、教育家、政治家。鳥取県西伯郡外江村長(第7代)。族籍は鳥取県平民。 現在の鳥取県境港市出身。製糸業を営む。1906年3月から1907年8月まで外江村長をつとめる。高等科設置、校地拡張、校舎増築等教育面で尽力する。また外江村会議員、外江村学務委員、小学校長をつとめる。 第4代外江村長足立長重の弟である。住所は鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)。 『西伯之資力 大正11年10月調』によれば、地価所有高は588円5銭である。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
柴田 榮吉(しばた えいきち、1856年7月16日〈安政3年… 柴田 榮吉(しばた えいきち、1856年7月16日〈安政3年6月15日〉- 1950年〈昭和25年〉)は、明治から昭和時代の政治家(6代・10代八王子町長、初代八王子市長、ほか)、実業家。柴田家に入婿して以降は生涯にわたって八王子を拠点とした。 武蔵国多摩郡芋窪村(旧・東京府北多摩郡大和村芋窪、現・東京都東大和市芋窪)で、農業・竹松善右衛門の四男として生を受ける。1875年(明治8年)八王子南新で笠屋を営む柴田家に入婿した。 1894年(明治27年)7月、八王子繭糸取引所常務理事に就任。1896年(明治29年)八王子撚糸製造組合を創設し頭取となり、1898年(明治31年)撚糸製造業組合を創設。 1901年(明治34年)第4代八王子町長・関谷源兵衛(在任期間:1901年3月7日-1902年3月5日)によって八王子町助役に任命される。