武内 維積(たけうち いせき、1846年3月22日(弘化3年… 武内 維積(たけうち いせき、1846年3月22日(弘化3年2月25日)- 1903年(明治36年)11月7日)は、明治期の日本の検察官、内務官僚。官選佐賀県知事。位階および勲等は従四位・勲四等。幼名は検一郎。 播磨国揖西郡龍野(現兵庫県たつの市)出身。武内宇三郎の二男として生まれる。林田藩儒・河野鉄兜に学んだ。 1883年12月27日、検事に任官。その後、内務省に転じ、内務権少書記官、大阪府少書記官、同書記官、大分県書記官、愛媛県書記官、宮城県書記官などを歴任。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に兵庫県第8区から出馬するが落選。 1897年4月、第2次松方内閣により佐賀県知事に任じられた。
加賀美 光賢(かがみ みつかた、弘化3年2月24日(1846… 加賀美 光賢(かがみ みつかた、弘化3年2月24日(1846年3月21日) - 1907年(明治40年)4月8日)は、日本の海軍軍人(軍医)、医師。宮中顧問官。最終階級は海軍軍医総監。位階および勲等は正四位・勲三等。 弘化3年(1846年)2月24日、甲斐国西山梨郡住吉村(現在の山梨県甲府市で、身延線の甲斐住吉駅周辺)にある住吉神社の神職・加賀美光矩と、その妻である察の子として生まれる。清和源氏武田氏流・加賀美氏の末裔。 薩摩藩の医師石神良策に師事し、西洋医学をイギリス人医師のウィリアム・ウィリスに学ぶ。1872年、海軍軍医部の創設にともない軍医頭となり、1892年、海軍軍医学校長に任命された。
大寺 安純(おおでら やすずみ、1846年3月9日〈弘化3年… 大寺 安純(おおでら やすずみ、1846年3月9日〈弘化3年2月12日〉- 1895年〈明治28年〉2月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現:鹿児島県鹿児島市)で、薩摩藩士・大寺七郎の二男として生まれる。幼名は彌七。幼くして父を失う。 20歳にして造士館助教(授讀助)となった。 戊辰戦争従軍の後は陸軍にすすむ。1871年(明治4年)に陸軍少尉に任官して一番大隊分隊長、陸軍中尉として半小隊長、東京鎮台付などを経て、1874年(明治7年)2月から5月にかけて佐賀の乱に出征し、続いて台湾出兵に従軍した。 広島鎮台付、歩兵第12連隊付などを経て、陸軍戸山学校で学ぶ。
浮田 桂造(うきた けいぞう、1846年3月2日(弘化3年2… 浮田 桂造(うきた けいぞう、1846年3月2日(弘化3年2月5日)- 1927年(昭和2年)9月16日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、大阪商業会議所会頭。旧姓・梅咲。 大和国十市郡池之内村(奈良県磯城郡安倍村、桜井町を経て現桜井市)で梅咲善六の二男として生まれ、1870年(明治3年9月)五龍円の販売で知られた売薬卸小売業・先代浮田桂造の養子となり、1871年(明治4年)家督を相続し浮田桂造を襲名した。 1873年(明治6年)10月、南大組第6区安堂寺橋通4丁目戸長に就任。南大組第6区3等戸長、第2大区6小区3等戸長、第2大区4小区2等戸長兼5等学区取締、書籍館掛、中学校事務掛、学監などを歴任。
小林 やす(こばやし やす、1846年3月2日(弘化3年2月… 小林 やす(こばやし やす、1846年3月2日(弘化3年2月5日)? - 1964年(昭和39年)5月29日)は、長寿日本一とされていた山梨県大月市の女性。その長寿記録は老年学研究者団体ジェロントロジー・リサーチ・グループ (GRG) によって認定されていない。資料によっては「やそ」、「やと」という表記も見られるが、「やす」が正しい。 1846年(弘化3年)に山梨県東山梨郡平等村(現在の山梨市)の雨宮重右衛門の娘として出生。大月市役所保存の戸籍では妻(やすの母)は不詳で次女となっているが、山梨市役所保存の戸籍では妻:いえの子で長女であるとしている。また、養子の婿によると甲府勤番の武士であった福島某の孫で各地を養女として転々としたと言われている。
菊池 楯衛(きくち たてえ、弘化3年2月2日(1846年2月… 菊池 楯衛(きくち たてえ、弘化3年2月2日(1846年2月27日) - 1918年〈大正7年〉4月8日)は、日本の果樹園芸家。「青森リンゴの先駆者」や「青森りんごの始祖」と呼ばれる。 現在の青森県弘前市鷹匠町出身。家は津軽藩の武家の成田瀧弥の次男として生まれ、菊地家の養子となった。実父は儒者の工藤他山の友人であった。明治2年(1869年)に津軽藩において山林取締役を命ぜられ、樹藝方を兼務し各地の山林の樹木植付に従事した。明治4年(1871年)に家屋建築用の材木配布方を命ぜられ明治6年(1873年)まで務めた。明治7年(1874年)には青森県山林調査係を命ぜられ、翌年中調査を結了した 明治8年(1875年)に内務省勧業寮から青森県庁を通じてリンゴやブドウなどの果樹苗の下付けを受けて洋種果樹の栽植に着手した。
太田 紋助(おおた もんすけ、1846年2月11日(弘化3年… 太田 紋助(おおた もんすけ、1846年2月11日(弘化3年1月16日) - 1892年4月3日)は日本の実業家。北海道厚岸郡厚岸町の開拓に尽力し、屯田兵村、太田村の村名にその名を残した。日本人とアイヌの混血である。 1846年2月11日(弘化3年1月16日)に場所請負人山田文右衛門の番人、中西紋太郎と奔渡村のアイヌの女性であるシャリコトムの間に生まれる。庶子であった上、幼少期に父を失ったことで母親に女手一つで育てられていたが、それを不憫に思った国泰寺の住職、香山聞禅に引き取られて読み書きそろばんや農業を教わり、8年間同寺の寺男として働いている。1867年(慶応3年)には22歳でアイヌの女性、真歌と結婚する。
岩崎 小二郎(いわさき こじろう、弘化3年1月10日(184… 岩崎 小二郎(いわさき こじろう、弘化3年1月10日(1846年2月5日) - 1895年(明治28年)6月22日)は、幕末の大村藩士、明治期の大蔵・内務官僚、政治家。県知事、元老院議官、貴族院議員。旧姓・朝山。 大村藩士・朝山松台の二男として彼杵郡下嶽村(現西海市)に生まれる。藩校・五教館に入り松林廉之助に学び、藩内の尊皇攘夷派に加わり活動した。 明治2年6月(1869年7-8月)、民部官に出仕し、大主典兼監督大祐、兼庶務大祐、権少史などを務める。明治4年1月(1871年)から黒田清隆開拓次官に随行しアメリカ合衆国、ヨーロッパを訪問。同年7月から大蔵省留学生としてロンドンで学び、1874年(明治7年)7月に帰国。
大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月… 大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月5日(弘化3年1月10日)- 1914年(大正3年)1月8日)は、明治期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、初代山形県米沢市長。 出羽国置賜郡米沢屋代町下ノ町(山形県南置賜郡米沢屋代町下ノ町を経て現米沢市)で生まれた。 1873年(明治6年)置賜県学区取締・十三等出仕となる。権少属、小属、権中属を歴任し、1882年(明治15年)置賜県廃止となり失職した。その後、沖縄県三等属に発令され、租税課権勧業課長を務めた。1883(明治16年)に退官。 その後実業界に転じ、米沢元商社副社長、同社長、米沢製糸場社長などを務めた。1889年(明治22年)7月、初代米沢市長に就任し、1899年(明治32年)7月まで2期在任。
草郷 清四郎(そうごう せいしろう、1846年1月28日〈弘… 草郷 清四郎(そうごう せいしろう、1846年1月28日〈弘化3年1月2日〉 - 1924年〈大正13年〉8月9日)は、幕末の武士、明治・大正期の実業家である。 和歌山出身で元は紀州藩士。福澤諭吉の慶應義塾で学び、明治維新後は義塾の塾監や大学東校総幹事など教育に関わっていたが1880年(明治13年)より実業界に転身。主として鉄道会社の経営に関わり小田原電気鉄道(小田急箱根の前身)を長く務めた。 草郷清四郎は、弘化3年1月2日(新暦:1846年1月28日)、草郷久次郎の三男として生まれた。出身地は紀伊国和歌山城下の岡領町(現・和歌山県和歌山市)で、父は紀州藩士であった。13歳で父が死去すると遠縁にあたる勢州奉行三木家に寄居し文武を修める。
小林 雄七郎(こばやし ゆうしちろう、弘化2年12月23日(… 小林 雄七郎(こばやし ゆうしちろう、弘化2年12月23日(1846年1月20日) - 明治24年(1891年)4月4日)は、幕末期の越後長岡藩士、明治期の官吏、衆議院議員。 新潟町奉行を務めた長岡藩士小林又兵衛の第7子で、「米百俵」で知られた小林虎三郎の弟。藩校の崇徳館に学ぶ。戊辰戦争で敗北し、江戸に出て、明治3年(1870年)慶應義塾に入学。卒業後に大蔵省紙幣寮(現・国立印刷局)の官吏となる。第六十九国立銀行設立に尽力した。その後、文部省・工部省などを転々とし、当時工部省にいた伊藤博文と共に高島炭鉱の後藤象二郎への払い下げを決定した。 明治8年(1875年)東京に在住していた旧長岡藩士と共に育英事業団体「長岡社」を創設、商人や農民も受け入れて広く人材の養成に努めた。
金子 有卿(かねこ ありのり、1846年1月18日(弘化2年… 金子 有卿(かねこ ありのり、1846年1月18日(弘化2年12月21日)- 1923年(大正12年)1月16日)は、日本の政治家、神職、華族。貴族院男爵議員。有郷と表記される場合がある。 石見国安濃郡川合村(現島根県大田市川合町川合)で物部神社社家・金子有久の二男として生まれる。元治元年7月7日(1864年8月8日)父の隠居に伴い家督を相続し第47代石見国造となる。1875年(明治8年)9月、華族に列せられ、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。 明治4年(1871年)物部神社権宮司に就任し、権大講義、大教正、神道大社教副管長などを歴任。明治元年(1868年)から川合国漢塾を設け神道教育と共に国漢教育を行い、また、皇典講究所委員にも就任した。
池田 甚之助(いけだ じんのすけ、1846年1月9日(弘化2… 池田 甚之助(いけだ じんのすけ、1846年1月9日(弘化2年12月12日)- 1901年(明治34年)10月27日)は、明治時代の政治家。池田家12代当主。貴族院多額納税者議員。秋田銀行の前身行の一つである、旧秋田銀行初代頭取。 出羽国山本郡高梨村(秋田県仙北郡高梨村、仙北村、仙北町を経て現大仙市)に生まれる。生家は豪農で庄屋を務めた。 大区小区制が敷かれると、1872年(明治5年)秋田県第八大区第二小区戸長となり、ついで高梨村戸長、初代高梨村長などを歴任した。明治期の秋田県の鉄道敷設に際しては発起人を務めた。 1890年(明治23年)秋田県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1891年(明治24年)10月15日まで在任した。
池田 寬治(いけだ かんじ/ひろはる、1846年(弘化3年)… 池田 寬治(いけだ かんじ/ひろはる、1846年(弘化3年) - 1881年(明治14年))は、明治時代の日本の外交官、幕末長崎の阿蘭陀通詞。別名は池田 政懋(いけだ まさよし)、呉 常十郎(ご じょうじゅうろう)。大学南校大助教や岩倉使節団四等書記官等を経て、のちに初代在天津領事や大蔵省長崎税関長を務めた。 1846年(弘化3年)、長崎の唐通事呉家に生まれる。1861年(文久元年)稽古通詞。1864年(元治元年)小通詞末席。フランス語を修め、阿蘭陀通詞からフランス語教員に転じ、1868年(明治元年)から長崎府仏学助教、仏学教授、仏学教導を歴任し、済美館や長崎府広運館(のちの長崎英語学校、長崎県立長崎中学校)で教鞭を執った。
花島 兵右衛門(はなじま ひょうえもん、1846年〈弘化3年… 花島 兵右衛門(はなじま ひょうえもん、1846年〈弘化3年〉- 1929年〈昭和4年〉)は日本の実業家。静岡県三島市(旧田方郡三島町)出身。日本で初めて練乳(煉乳、コンデンスミルク)の量産化に成功し「金鵄ミルク(きんしミルク)」として販売。このほか、女子教育の推進や三島銀行の設立、伊豆箱根鉄道の前身である豆相鉄道の創設に参加するなど、駿東地域の経済発展に貢献した。 幕末の1846年(弘化3年)に、現在の三島市中央町三丁目にあたる田方郡三島町竹林寺小路(ちくりんじこうじ)地区に生まれる。家業は造り酒屋だったが、ジェームス・ハミルトン・バラに出会い1886年(明治19年)にキリスト教(プロテスタント)に入信して酒屋を廃業。
石井 収(いしい おさむ、弘化3年(1846年) - 大正1… 石井 収(いしい おさむ、弘化3年(1846年) - 大正14年(1925年)10月10日)は、日本の武士、警察官、地方官吏である。会津藩士として戊辰戦争を、また西南戦争を戦った。田山花袋は義弟。旧姓生亀、雅号盤石。 会津藩士の生亀家に生まれる。父は可汲。戊辰戦争では佐川官兵衛麾下として北越戦争を戦い、重傷を受け若松へ後送されている。明治5年(1872年)に警察官となり、少警部に昇進。また明治10年(1877年)には陸軍歩兵中尉に任官した。西南戦争に出征し、再び負傷している。警察官としては五等警視 に昇り、淀橋警察署、富岡門前警察署、本郷警察署でそれぞれ署長を務めた。明治19年(1886年)から明治25年(1892年)まで東白川郡郡長を務めて退官した。
山口 新一(やまぐち しんいち、1846年(弘化2年12月)… 山口 新一(やまぐち しんいち、1846年(弘化2年12月) - 1909年(明治42年)11月28日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥前国高来郡諫早村(のち長崎県北高来郡諫早町、現・諫早市)生まれ。漢学を学ぶ。製糸業を営む。諫早好古館教諭、諫早校校長、長崎県立諫早中学、佐賀県立神埼中学校各校長、長崎県会議員を務めた。また、諫早銀行を創立し、頭取となった。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において長崎2区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。1909年に死去した。
猪狩 八郎(いかり はちろう、1846年(弘化3年7月) -… 猪狩 八郎(いかり はちろう、1846年(弘化3年7月) - 1905年(明治38年)8月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 陸奥国江刺郡片岡村(のち岩手県江刺郡岩谷堂町、江刺町、江刺市を経て現・奥州市)生まれ。農業を営む。片岡村戸長、胆沢江刺郡書記、西根三ヶ尻村戸長を経て、1889年の町村制施行による岩谷堂町発足により、初代町長に就任し、1897年まで務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において岩手4区から進歩党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党から立候補したが落選した。1899年から再び岩谷堂町長に就任。1905年8月に退任し、間もなく死去した。
佐々木 高栄(高榮、ささき こうえい、1846年(弘化3年8… 佐々木 高栄(高榮、ささき こうえい、1846年(弘化3年8月) - 1915年(大正4年)7月3日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 安芸国安芸郡(のち広島県安芸郡、現・呉市)生まれ。安芸郡書記、広島県会議員、呉市会議員、同議長、和庄町長となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において広島1区から自由党公認で立候補して当選した、続く同年9月の第4回衆議院議員総選挙で再選した。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では立憲自由党公認で立候補して三選した。衆議院議員を3期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補したが落選した。1915年に死去した。
井上 利右衛門(いのうえ りえもん、1846年(弘化3年7月… 井上 利右衛門(いのうえ りえもん、1846年(弘化3年7月) - 1917年(大正6年)1月7日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。岐阜県吉城郡国府村長。 飛騨国、のちの岐阜県吉城郡国府村(国府町を経て現高山市)出身。 国府村長、吉城郡会議員、三郡連合会議員、徴兵参事員、岐阜県会議員を歴任した。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では岐阜県第7区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
小倉 処平(おぐら しょへい、弘化3年(1846年)-明治1… 小倉 処平(おぐら しょへい、弘化3年(1846年)-明治10年(1877年)8月18日)は、日本の武士(飫肥藩士)、官僚、思想家。大学南校少舎長、大学権大丞、大蔵省七等出仕。通称は処平。諱は良儔。明治維新以降も小倉処平で知られる。 郷党からは「飫肥西郷」とも言われる。また小村寿太郎を見出したことで有名で、平田東助と共に貢進生制度を建議した。西南戦争では西郷隆盛率いる私学校党中心の西郷軍側についた党薩諸隊の一つ飫肥隊を統率し、西郷軍奇兵隊総軍監となる。和田越の戦いで戦傷し、可愛岳近くの高畑山で屠腹自害する。 石高65石で乗馬以上(馬廻)の飫肥藩士である長倉喜太郎の次男かつ長倉訒の弟として出生。父の妹で処平の叔母は平部嶠南の妻である。
国司 仙吉(くにし せんきち、1846年(弘化9年) - 1… 国司 仙吉(くにし せんきち、1846年(弘化9年) - 1915年(大正4年)12月25日)は、幕末の長州藩士、明治期の官僚。秋田県権令。他の通称・千吉郎、号・水門。 長門国萩城下で長州藩士・国司右内、まし夫妻の息子として生まれた。安政4年(1857年)春、松下村塾に入り、安政5年(1858年)吉田松陰の野山再獄まで指導を受ける。文久3年(1863年)若殿様御前詰、元治2年(1865年)御小姓役となる。また、干城隊に入り、その後御楯隊に転じ、改組された整武隊に慶応3年(1867年)まで在籍した。慶応4年2月(1868年)、御蔵元順番検使役に任ぜられ、以後会計局検使、大坂検使役、会計局権大属などを歴任。
小倉 甚吉(おぐら じんきち、1846年(弘化3年5月) -… 小倉 甚吉(おぐら じんきち、1846年(弘化3年5月) - 1911年(明治44年)3月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国熊毛郡島田村(のち山口県熊毛郡島田村、周南町、光町を経て現・光市)生まれ。萩明倫館で学ぶ。熊毛郡御用掛、島田村会議員、同副議長、山口県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員となる。 1893年9月、曽禰荒助の辞職による山口4区の補欠選挙に立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。1911年に死去した。
長 冰(ちょう ひょう、弘化3年(1846年) – 明治16… 長 冰(ちょう ひょう、弘化3年(1846年) – 明治16年(1883年)11月26日)は、幕末から明治期にかけての勤皇の志士、官僚、漢詩人、画家。漢学者長三洲の弟。明治初期の学制起草に関与し、のち陸軍省御用掛を務めた人物である。諱は革。通称は綱吉・四郎・子金、号は士金・斉などを用いた。画家としては長古雪として知られる。 弘化3年(1846年)に長梅外の子として生まれる。安政3年(1856年)1月、兄・長三洲の紹介により、11歳で咸宜園に入学した。 慶應3年(1867年)には忠勇隊に属し、幕末動乱期の活動にも関与した。 明治維新後、兄・三洲とともに新政府の教育制度整備に深く関わり、明治5年(1872年)には学制起草委員の一人として『学制一覧』の編集を担当した。
青木 住真(あおき すみね/すみまさ、弘化3年(1846年)… 青木 住真(あおき すみね/すみまさ、弘化3年(1846年)– 昭和3年(1928年)3月17日)は、長州藩出身の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。海軍の水路(測量)事業の草創期に参加し、水路部初期の功労者として知られる。春日丸の艦長を務めた。名は住眞とも。 周防国佐波郡、のちの山口県佐波郡佐波村(現防府市)に安政2年(または弘化3年(1846年))に生まれる。長州藩の船舶・水軍を管理運用し海上警備や輸送を担った船手組の出身である。父は長州藩士・青木住衛(三郎兵衛)。 維新後は海軍に入り、明治3年(1870年)5月の日英共同測量の一員となった。水路事業の拡充が進む中、明治5年(1872年)に水路局が廃止され水路寮が置かれると、創設期の中核要員として青木(ほか中村雄飛・五藤国幹ら)が挙げられ、長州藩から推薦され長崎で研修を受けた伝習生であり、北海道測量にも参加した有能の士である青木は明治6年9月から測量課長を務めた。
本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月… 本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月) - 1908年(明治41年)7月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国吉敷郡嘉川村(のち山口県吉敷郡嘉川村、現・山口市)生まれ。嘉川村戸長、同村長、山口県会議員、吉敷郡会議員、同参事会員、同議長となる。また、山口県農会名誉会員、同幹事、同代表者となった。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において山口1区から国民協会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1908年に死去した。
角田 忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年… 角田 忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年12月6日) - 大正7年(1918年)12月15日)は、日本の国学者・神官。通称は由三郎。 信濃国佐久郡長土呂村(現長野県佐久市)の近津神社の神主角田忠守と母小林氏の二男として生まれる。父は岩村田藩主の侍講、藩校達道館教授を務め、終身禄を受け藩士身分となった。弟(父忠守の四男)に同じく神官となった角田信道がいる。 安政2年(1855年)脱藩して江戸に出奔し、藤田東湖に入門。その後は国学者平田銕胤の門人となって塾の運営に関わった。文久3年(1863年)上洛して等持院にある足利三代木像梟首事件に首謀者の一人として関与し、幕吏に追われて伊那谷の松尾多勢子邸に潜伏。
近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年10月9日〈1834年1… 近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年10月9日〈1834年11月9日〉 慶応4年4月25日〈1868年5月17日〉)は、江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保 剛(おおくぼ たけし)を名乗り、後にさらに大久保 大和(おおくぼ やまと)と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。 天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市野水)に百姓である父・宮川久次郎と母・みよの三男として生まれる。幼名は勝五郎、後に勝太と改めた。久次郎には勝五郎の他にも、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎(音次郎、乙五郎、源治郎)、次男・粂次郎(粂蔵、惣兵衛)と、祖父の源次郎がいた。
中島 行孝(なかじま ゆきたか、天保5年8月28日〈1834… 中島 行孝(なかじま ゆきたか、天保5年8月28日〈1834年9月30日〉 - 1914年〈大正3年〉5月1日)は、明治から大正初期の大蔵官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・桐生。 上野国佐位郡、のちの群馬県佐波郡赤堀村(赤堀町を経て現伊勢崎市)で、桐生儀兵衛の長男として生まれ、その後、中島家の養子となる。 1869年(明治2年)大蔵省に入省し、大蔵省一等属となる。牛込で私塾を開き、塾生には郷誠之助らがいた。1882年(明治15年)に退官し実業界に転じた。東京株式取引所理事、前橋電気軌道社長、東京府農工銀行取締役、同農工貯蓄銀行頭取、帝国商業銀行監査役などを務めた。 政界では、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員に在任。
原 忠順(はら ただゆき、1834年9月23日(天保5年8月… 原 忠順(はら ただゆき、1834年9月23日(天保5年8月21日) - 1894年(明治27年)10月28日)は、幕末から明治時代の政治家、武士。貴族院多額納税者議員。通称は弥太右衛門。 肥前鹿島藩士。藩命で江戸の昌平黌に学ぶ。藩主鍋島直彬の側近を務め藩論を尊王に纏めた。鹿島藩大参事を経て、東京府に出仕する。1872年(明治5年)には直彬と共にアメリカに留学し『米政撮要』を著した。1874年(明治7年)内務省補となり、1879年(明治12年)直彬が初代沖縄県令に就任した際に沖縄県少書記官、同大書記官を歴任し、1881年(明治14年)9月に辞任するまでの2年半、県令と共に県政運営にあたった。 1890年(明治23年)佐賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めたが、在任中に死去した。
増田 嘉兵衛(ますだ かへえ、1834年9月17日〈天保5年… 増田 嘉兵衛(ますだ かへえ、1834年9月17日〈天保5年8月15日〉 - 1920年〈大正9年〉9月4日)は、日本の商人(貿易商)、実業家、横浜市内の資産家。族籍は神奈川県平民。 伊賀上野車坂七面屋敷(現・三重県伊賀市)の赤貧の家に生まれる。平蔵の長男。幼くして父を亡くし、母によって育てられる。1844年、母が亡くなり、嘉兵衛は天涯孤独の身となる。魚の行商を業とする。 猪田屋に奉公する。14歳の春、大坂に出て、海産物問屋榎並屋に住み込む。文久2年、横浜で増田屋をひらき、外国糖の輸入で富をきずく。1869年、横浜為替(横浜銀行の前身)の創立に加わる。 1884年、家督を長男増蔵に譲り、分家して一家を創める。
岡田 孤鹿(おかだ ころく、1834年8月24日(天保5年7… 岡田 孤鹿(おかだ ころく、1834年8月24日(天保5年7月20日)- 1906年(明治39年)5月3日)は、日本の幕末から明治期の武士(柳河藩士)、政治家。衆議院議員。旧姓・橋爪、幼名・亀治、旧名・作蔵、種井。 筑後国山門郡柳川城下奥州小路(現柳川市奥州町)で、柳河藩士・橋爪新五郎の二男として生まれ、19歳で同藩士・岡田黙鴎の長女キヨと結婚し岡田家の養子となり、名を作蔵と改めた。藩では、御広間詰、聞次役(江戸藩邸)、普請役、三ノ丸蔵役、物成役、大坂蔵屋敷在勤、京都留守居役兼元締役、小荷駄奉行補助兼公用人元締役などを歴任。明治2年(1869年)藩から公議人に選出され東京の公議所での審議に加わる。
田中 平八(たなか へいはち、1834年8月15日(天保5年… 田中 平八(たなか へいはち、1834年8月15日(天保5年7月11日) - 1884年(明治17年)6月8日)は、幕末・明治の相場師・実業家。開港直後の横浜を舞台に生糸・洋銀などの相場で大きな財を成して「天下の糸平」と称した。本姓は藤島。幼名は釜吉。名は政春。 信濃国伊那郡赤須村(三州街道赤須上穂宿、現在の長野県駒ヶ根市)で藤島卯兵衛と妻・さとの間に生まれる。生家は資産家であったが米と綿相場で失敗し没落。三男であった釜吉は1845年(弘化2年)に飯田城下の魚類雑貨商・万屋に丁稚奉公に出された。1848年(嘉永元年)には魚屋として独立しようと三両を手に名古屋へ出たが失敗、郷里に戻る。父・卯兵衛に金を工面してもらい大阪へ出ると、米相場に手を付けたがこれも失敗し再び郷里へと帰った。
立木 兼善(たちき かねよし、天保5年8月〈1834年〉 -… 立木 兼善(たちき かねよし、天保5年8月〈1834年〉 - 明治42年〈1909年〉12月24日)は、日本の政治家。旧姓杉浦、林。正四位。 淡路国津名郡谷村(現・兵庫県淡路市仮屋谷)の村医者の子・杉浦七郎として生まれる(のち林立玄 林徹之丞 立木徹之丞と改名)。徳島藩士族。洲本にあった徳島(蜂須賀)藩筆頭家老稲田家の学問所益習館で学び、天誅組の変などに関わるなど勤王の志士として頭角を現す。 明治2年(1869年)明治政府に出仕し、若松県知事、若松県権知事、福島県権知事となる。明治3年(1870年)岩倉具視の内命により庚午事変調停のため、岩鼻県権知事小室彰と共に徳島に滞在するが、不調に終わり帰京する。
川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年… 川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年6月17日) - 明治12年(1879年)10月13日)は、日本の警察官・陸軍軍人。幕末から明治初期の薩摩藩士、内務官僚。階級は大警視(後に旧警視長を経て現在の警視総監)、陸軍少将(臨時)。位階は正五位。勲等は勲二等。 初代大警視(現・警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した事実上日本の警察の創設者にして、「日本警察の父」とも言われている。西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団を率いて抜刀隊を指揮して西郷軍に大きな打撃を与えた。 名は当初「としなが」と名乗っていたが、後に「としよし」と改名した。
真田 正穀(さなだ まさよし、天保5年(1834年)6月8日… 真田 正穀(さなだ まさよし、天保5年(1834年)6月8日 – 大正4年(1915年))は、土佐藩士。土佐藩の海軍・軍艦行政を担った官僚的藩士で、維新後は中央・地方官を歴任した。旧姓は武藤、別名・号に武藤広陵、颿(はやめ)があり、明治期に正穀、のち真田庵と改名した。 土佐藩の上士身分である御馬廻に属し、藩船運用・軍艦行政・蒸気機関教育などを担当した、土佐藩における海軍行政の専門家である。吉田東洋門下としても知られる。 天保5年(1834年)6月8日、土佐国高知城下下金子橋に生まれる。父は御馬廻・武藤万作。正穀は次男で、実兄の武藤清八は御山奉行を務めた。身分は上士・御馬廻である。 若年より藩政実務に通じ、藩船夕顔の船将を務めた。
大友 亀太郎(おおとも かめたろう、1834年6月4日 - … 大友 亀太郎(おおとも かめたろう、1834年6月4日 - 1897年12月14日)は、江戸時代後期から明治時代初期にかけ、北海道の開拓に貢献した相模国(現在の神奈川県)出身の幕臣。 二宮尊徳の門下生の一人としても知られ、札幌市の中心部に現在の創成川のもととなる、「大友堀」を掘るなど、用水路や橋梁を始めとする土地の開発に尽力した。札幌村の土台を作り上げたその業績から、「開拓の祖」と称されることがある。現在札幌市内には大友亀太郎像が設置され、札幌市時計台には生前の写真が展示されている(隻眼であったことが見て取れる)。また、大友公園や資料を収蔵した記念館など功績を称える施設が残されている。 天保5年(1834年)、相模国足柄下郡(現在の神奈川県小田原市)で農家を営んでいた飯倉吉衛門の長男として誕生。
入江 文郎(いりえ ぶんろう / ふみお、1834年5月16… 入江 文郎(いりえ ぶんろう / ふみお、1834年5月16日(天保5年4月8日) - 1878年(明治11年)1月30日)は江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本のフランス学者。旧松江藩士。旧名・泉、字を原伯といい、観寮(かんりょう)と号した。本姓は劉。 幕末におけるフランス学先駆者の1人であり、幕府の蕃書調所(のち開成所)教授方となってフランス語の翻訳と指導に従事。明治に入ると新政府の大学教官としてフランスに派遣され、研究のかたわら留学生総代を務めたが、病のためパリで客死した。 天保5年4月8日(1834年5月16日)、松江藩医入江元範の子として出雲国島根郡松江に生まれる。支藩広瀬藩の藩儒山村黙斎、次いで松江藩儒妹尾謙三郎(雨森精斎)に学び、嘉永7年(1854年)から江戸に遊学。
島 惟精(しま いせい、天保5年4月1日〈1834年5月9日… 島 惟精(しま いせい、天保5年4月1日〈1834年5月9日〉 - 1886年〈明治19年〉5月11日)は、幕末の府内藩士、明治期の内務官僚、政治家。初代岩手県令、元老院議官。通称は唯蔵。 豊後国大分郡千歳(現大分市)において延岡藩代官・阿南胖助の二男として生まれ、府内藩医・安東芳庵の養子となり、のち島姓を名乗った。佐藤龍之進に漢学を学び、広瀬淡窓、塩谷宕陰の塾に入る。さらに昌平黌で学ぶ。京都で志士と交わるなどして帰郷し、藩校遊焉館(大分市立荷揚町小学校の前身)の儒官となる。勤王論者として活動したため、幕府に捕えられ入獄した。その後、脱獄して藩政顧問となり、府内藩の藩論を勤皇に統一することに貢献した。
田辺 良顕(たなべ よしあき、1834年5月9日(天保5年4… 田辺 良顕(たなべ よしあき、1834年5月9日(天保5年4月1日)- 1897年(明治30年)2月8日)は、幕末の福井藩士、明治期の内務官僚。高知県知事、元老院議官、錦鶏間祗候。通称・平学、字・士順。 越前国足羽郡福井竹ヶ鼻町(現:福井市)で、福井藩士・田辺周吉の長男として生まれる。 明治4年4月(1871年5-6月)、由利公正の勧めに応え、福井藩兵を常備一番隊長として引率し上京、第一大区取締(警察)に就任。以後、東京府権典事・第四大区総長、羅卒総長、司法省警保寮大警視、権大警視、少警視などを歴任。 西南戦争勃発に伴い、1877年3月、警部巡査を引率し京都に向かい警備に従事。同年同月、巡査250名を引率し博多に向かい、同年4月、陸軍歩兵中佐兼少警視に任じられ、別働第三旅団参謀となり各地を転戦。
仁木 竹吉(にき たけよし、天保5年3月17日(1834年4… 仁木 竹吉(にき たけよし、天保5年3月17日(1834年4月25日) - 大正4年(1915年)8月31日)は、日本の北海道開拓者。特に現在の北海道余市郡仁木町の開拓に従事し、その町名の由来となった。 天保5年(1834年)阿波国麻植郡児島村(徳島藩。現・徳島県吉野川市)にて、大島源左衛門の七男として生まれる。天保11年(1840年)より剣術を阿波郡香美村の佐藤丈左衛門に、漢学を麻植郡宮島村の青山賢之進と香美村の佐藤健吉に習った。大島家は徳島藩士・赤川三郎左衛門の配下であった。嘉永6年(1853年)美馬郡拝原村(現・徳島県美馬市)仁木伊兵衛の養子となる。仁木家は徳島藩筆頭家老・稲田氏の配下である郷士で、藩の特産である藍製造を家業としていた。
大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年… 大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年4月18日) - 大正13年(1924年)5月11日)は、江戸時代の医師、明治、大正期の薬剤師、実業家、政治家。 和歌山県平民・大井源四郎の長男として紀伊国牟婁郡西山郷平谷村(三重県南牟婁郡西山村、紀和町を経て現熊野市紀和町平谷)に生まれ、1845年(弘化元年)から1848年(嘉永元年)まで、菊岡隆之助に漢学を学び、その後京都に出て医学を修め、さらに1855年(安政元年)から長崎でオランダ人、ポンペ、ボードウィンのもとで蘭学と医学を学んで蘭方医となる。 長崎に9年いたのち、1861年(文久3年)飫肥藩で1年洋医学を教え、1865年(慶応元年)に大阪で開業、1867年(慶応3年)には大坂歩兵屯営付き軍医として伏見の役に出陣。
沼田 喜三郎(ぬまた きさぶろう、天保5年3月6日(1834… 沼田 喜三郎(ぬまた きさぶろう、天保5年3月6日(1834年4月14日) - 大正12年(1923年)12月7日)は、北海道へ開拓民として渡り事業に成功した後、明治27年(1894年)に故郷より18戸を伴って移住し、雨竜郡沼田町の開祖となった人物。 越中国砺波郡新西嶋村(現在の富山県小矢部市新西)の甚三郎の三男として生まれた。12歳で大工の徒弟となり、14歳で庄下村矢木(現在の富山県砺波市矢木)の豪農「根尾家」に奉公人として入り、主人の供をして江戸に出て染工となった。26歳の時、帰郷し、農業に専心。明治元年(1868年)、新西嶋村に分家した。 明治15年(1882年)、喜三郎49歳の時、妻子を残し初めて北海道に渡った。
元田 直(もとだ なおし、1834年4月13日(天保5年3月… 元田 直(もとだ なおし、1834年4月13日(天保5年3月5日) - 1916年(大正5年)3月4日)は、日本の儒学者・法学者・法律家・教育者。東京代言人組合(現・東京弁護士会)会長、東京府尋常師範学校校長、東京法学社(現・法政大学)の創立者の一人。 1834年(天保5年)、豊後国杵築藩(現在の大分県杵築市)に儒学者元田竹渓の長子として生まれる。維新の際に、藩主の嫡子松平親貴に従って京都に上り、参与広沢真臣に知遇を得て内国事務局書記に任ぜられる。度会府判事に就任し、度会府廃止後に太政官に入り、太政官記録取調掛に任ぜられ、箕作麟祥とともにフランス民法を審議する。 1874年(明治7年)に東京神田に法学塾の「法律学舎」を開設し、フランス法を講授する。
江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3… 江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士・権大参事)、明治時代の政治家、官吏、教育者。幼名は恒太郎、又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白または白南。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。位階は贈正四位。 東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議を歴任したが、明治六年政変で下野。佐賀の乱の首謀者として処刑された。 立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、日本近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。
巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3… 巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3月17日〉 - 1905年〈明治38年〉7月12日)は、近江国(滋賀県)出身の書家、官僚、漢詩人。本名は修(しゅう)(幼名は辨治、ついで迂也)、字は誠卿。特に書家として名高く、一六(一六居士)はその号で、別号に迂堂・古梅・金粟道人などがある。日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波はその三男。 天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。巌谷家は代々水口藩加藤家の侍医で、姓は正しくは「巖谷」と記す。ただしもとは「岩谷」で一六の時に字を改めたものである。 父玄通が天保10年(1839年)一六が6歳の時に亡くなり、家督を嗣ぐも幼少のため、しばらくして母利子とともに京都に赴き、同地で医術を三角棣園に、漢籍を皆川西園・家里松嶹に、書を安見氏に学んだ。
稲田 又左衛門(稻田 又左衞門、いなだ またざえもん、183… 稲田 又左衛門(稻田 又左衞門、いなだ またざえもん、1834年3月1日(天保5年1月21日)- 1910年(明治43年)3月3日)は、幕末の大村藩家老、明治期の政治家・銀行家。衆議院議員、長崎区長。諱・凞孚。通称・才八郎、東馬、又左衛門。 肥前国彼杵郡大村(現長崎県大村市)で、大村藩士の家に生まれ、19歳で同藩士・稲田中衛の養子となる。藩校五教館で学んだ。1854年(安政元年)中小姓に任じられた。以後、諸稽頭取、近習番頭、御用人、長崎御用懸、家老兼烈山隊参謀、吾往隊大隊長、大村藩権大参事などを歴任。藩主大村純熈を補佐した。 廃藩置県後、西彼杵郡大串村に転居した。第二中学大区取締、第十一大区区長、兼第十三大区区長を歴任。
沢辺 琢磨(さわべ たくま、天保5年1月5日〈1834年2月… 沢辺 琢磨(さわべ たくま、天保5年1月5日〈1834年2月13日〉- 大正2年〈1913年)6月25日〉は、日本ハリストス正教会初の正教徒(ハリスチャニン=クリスチャン)にして最初の日本人司祭である。聖名(洗礼名)はパウェル(パウロ)。旧姓は山本。 天保6年(1835年)、土佐国土佐郡潮江村(現在の高知市)に土佐藩の郷士である山本信道(1805-1858、代七)の長男として生まれる。幼名は数馬(かずま)。山本信道の父・山本信年(1780-1863、新四郎)の実弟・山本常八郎は同じ土佐郷士の坂本家に婿養子として入り坂本直足(1797-1855、八平)に改名した。坂本直足の次男が坂本龍馬であり、龍馬とは血縁及び実質上の親類同士である。
森田 悟由(もりた ごゆう、俗名:常次郎、天保5年1月1日(… 森田 悟由(もりた ごゆう、俗名:常次郎、天保5年1月1日(1834年2月9日) - 大正4年(1915年)2月9日)は、日本の曹洞宗の僧侶。永平寺64世貫首。曹洞宗5代管長(性海慈舩禅師)。号は大休。 天保5年(1834年)、尾張国知多郡大谷村(現、常滑市)の森田家の次男に生まれる。天保11年(1840年)、名古屋の大光院で出家。嘉永4年(1851年)に、師僧に従って武蔵国大泉寺に移動、吉祥寺旃檀林に通う。 安政3年(1856年)から諸嶽奕堂に師事し、翌年に奕堂と共に天徳院に移動する。万延元年(1860年)に陽仙院の兄弟子天瑞白龍の後を継ぎ、龍徳寺の住職になる。 明治3年(1870年)に奕堂が總持寺貫首になったのに従って總持寺に入り、明治8年(1875年)、天徳院住職となる。
長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天… 長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天保5年1月1日〉 - 1903年〈明治36年〉7月16日)は、幕末の長州藩士、明治期の歴史学者・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。諱・文仲、字・子固。通称・大蔵、文助、文輔。号・秋琴。 周防国吉敷郡矢原村(現山口市矢原)で医者・長松玄厚の長男として生まれる。大田稲香の指導を受け、嘉永6年(1853年)京都に遊学し、山本読書室に入り山本亡羊から本草学を学ぶ。安政5年(1858年)以降、久坂玄瑞らと国事に奔走。元治元年(1864年)帰藩し右筆に登用され、その後、儒役雇、雇医員を経て、編輯局で尊王事績の編集に従事。鴻城隊に加わり、戊辰戦争中は軍中日誌を担当した。