前田 金四郎(まえだ きんしろう、1871年〈明治4年〉9月… 前田 金四郎(まえだ きんしろう、1871年〈明治4年〉9月16日 - 1962年〈昭和37年〉2月15日)は北海道十勝地方の富農。本別村会議員などを務め本別町の開拓功労者に認定されている。 1871年(明治4年)9月16日、岡山県真島郡新庄村(現在の真庭郡新庄村)に生まれる。1898年(明治31年)に故郷を離れ、池田町青山に移住する。翌1899年(明治32年)本別町美里別に入植。青山トメと結婚する。 1915年(大正4年)から1937年(昭和12年)の間、6期18年にわたって本別村会議員を務めたほか、農会総代人、評議員、副会長を歴任、1935年(昭和10年)には本別農会長となった。また本別町立本町中学校(現在の北海道本別高等学校)の敷地の提供、設立資金の寄付なども行った。
大島 義脩(おおしま よしなが、明治4年8月1日(1871年… 大島 義脩(おおしま よしなが、明治4年8月1日(1871年9月15日) - 昭和10年(1935年)7月1日)は、日本の教育者。旧姓蘆田。宮中顧問官。 明治4年(1871年)8月、丹波国氷上郡佐治村(現兵庫県丹波市)に豪農蘆田家の四男として生まれた。8歳で母の実家である大島家に養子に入り、司法官であった叔父、大島貞敏に養育された。 第三高等中学校を経て、明治27年(1894年)帝国大学文科大学哲学科を卒業。四高教授、東京音楽学校長、八高校長、女子学習院長、帝室博物館総長などを歴任。
安藤 広太郎(あんどう ひろたろう、旧字体: 安藤 廣太郎、… 安藤 広太郎(あんどう ひろたろう、旧字体: 安藤 廣太郎、1871年9月15日(明治4年8月1日) - 1958年(昭和33年)10月14日)は、明治から昭和期における農政家、農学者。農学博士。 加藤茂苞との共同研究で、世界で初めてイネの人為交配による新種の作成に成功したことで知られる。九州帝国大学、東京帝国大学農学部教授を併任、農商務省農事試験場長、内閣顧問。文化勲章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
佐伯 好郎(さえき よしろう、明治4年8月1日(1871年9… 佐伯 好郎(さえき よしろう、明治4年8月1日(1871年9月15日)広島県 - 1965年6月26日)は、日本の言語学者・英語学者・西洋古典学者・ローマ法学者・東洋学者・東洋宗教史家。キリスト者でもある。英語名は「ピーター・(ヨシロウ・)サエキ」。 言語学・法学・歴史学など複数分野にまたがる西洋古典学の研究・教育で大きな業績を残したが、特にネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で国際的に有名になり「景教博士」と称された。また日本人とユダヤ人が同祖であるとする日ユ同祖論の最初期の論者としても知られ、独自の歴史観を唱えた。戦後は故郷・廿日市の町長を務めるなど、戦災や原爆で荒廃した広島県の再建に尽くした。
渡辺 国重(渡邊、渡邉 國重、わたなべ くにしげ、1871年… 渡辺 国重(渡邊、渡邉 國重、わたなべ くにしげ、1871年9月15日(明治4年8月1日)- 1950年(昭和25年)3月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 熊本県天草郡、のちの亀場村(本渡市を経て現天草市)出身。小学校教員、台湾総督府雇、同鳳山県属、台北庁税務課長、台湾採脳拓殖(資)支配人、新竹製脳(株)取締役、高砂製糖(株)専務取締役を経て、台湾興業(株)社長、台湾肥料(株)監査役、日本電報通信社取締役となる。また、マレー半島ジョホール王国にてゴムを栽培し、南洋拓殖公司を経営した。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において熊本県郡部から中央倶楽部公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、その後は立憲同志会に入り、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
新島 善直(にいじま よしなお、1871年9月7日(明治4年… 新島 善直(にいじま よしなお、1871年9月7日(明治4年7月23日) - 1943年(昭和18年)2月7日)は日本の林学者。北海道帝国大学教授。 幕府直参の新島善之の長男として東京府小石川に生まれた。中村正直の同人社に学び、1888年に駒場の農科大学予科に入学し、1889年赤坂日本基督教会でヒュー・ワデルから洗礼を受ける。帝国大学農科大学では林学を専攻し、1896年に卒業した後も助手として残る。 1899年札幌農学校に森林科が設置されると教授として招聘される。1905年からドイツのギーセン大学で造林学、森林学を学び学位を取得する。1908年エルネスチーネ・エーメル(日本名:栄子)と結婚し帰国する。
江畑 新之助(えばた しんのすけ、明治4年7月20日(187… 江畑 新之助(えばた しんのすけ、明治4年7月20日(1871年9月4日)- 昭和8年(1933年)8月2日)は、日本の政治家。秋田県仙北郡飯詰村(のち仙南村、現美郷町)の村長。号は貴新。 1871年(明治4年)、秋田県仙北郡飯詰村中島の素封家江畑宇三郎の家に長男として生まれた。江畑家は当時仙北郡では高梨村の池田家に次ぐ大地主であった。1901年(明治34年)から1933年(昭和8年)までの長きにわたって飯詰村長を務めた。 若いころから学問熱心で、「人格高邁の国士」として知られる杉浦重剛の塾に通い、田尻稲次郎らによって創立された専修学校(現在の専修大学)では経済学を修めた。1894年(明治27年)5月、北秋田郡大館町出身で秋田市の『遐邇新聞』(現在の秋田魁新報)の主幹も務めた新聞人・漢学者の狩野旭峰を飯詰村の自宅に招き、邸宅内に私塾(漢学塾)「酔経学舎」を設立し、1900年ころまでみずからも学び、子弟の教育にあたった。
中原 徳太郎(なかはら とくたろう、明治4年7月20日(18… 中原 徳太郎(なかはら とくたろう、明治4年7月20日(1871年9月4日) - 昭和2年(1927年)11月17日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、整形外科医。日本医科大学学長。憲政会幹事長を歴任。 京都出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学を卒業後、同大学助手に任命されたが、楽山堂病院副院長に転じた。日露戦争中は陸軍篤志医員として活動した。1907年(明治40年)、ドイツに留学し、医学博士の学位を得た。1914年(大正3年)、楽山堂病院を辞職して、中原病院を開いた。 同年、日本医学専門学校教授に就任し、1918年(大正7年)に校長になった。1926年(大正15年)に日本医学専門学校が日本医科大学に昇格すると、引き続き学長を務めた。
牧田 環(まきた たまき、1871年9月4日〈明治4年7月2… 牧田 環(まきた たまき、1871年9月4日〈明治4年7月20日〉 - 1943年〈昭和18年〉7月6日)は、日本の鉱山技術者、実業家、教育者。 1871年(明治4年)、大阪府北桃谷町に大坂城詰めの幕臣である士族の牧田虎之丞の次男として生まれる。1895年(明治28年)帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業して三井鉱山(現・日本コークス工業)に入社した。最初は技術者として、後に役員として頭角を現し、三井鉱山社長および会長を務めた。こうした縁で、三井財閥の最高指導者であった団琢磨の長女を妻に迎えている。1913年(大正2年)工学博士を取得。 1924年(大正13年)には田中鉱山より経営移譲された釜石鉱山株式会社の会長に就任。
岡崎 貞伍(おかざき ていご、1871年(明治4年)9月2日… 岡崎 貞伍(おかざき ていご、1871年(明治4年)9月2日 - 1942年(昭和17年)7月15日)は、明治時代から昭和時代の海軍軍人(海軍中将)。位階および勲等、軍功は正四位・勲二等、功四級。息子は政治家の岡崎英城。弟は朝鮮総督府忠清南道知事の岡崎哲郎。 宮城県遠田郡南郷村福ヶ袋48番地(現美里町)の仙台藩士族岡崎七郎太の三男として生まれる。海軍機関学校2期を成績優秀で卒業。1895年、海軍少機関士候補生から軍人畑に入る。イギリスとアメリカに出張し、日露戦争では日進分隊長として出征。1914年、海軍大佐となる。春日、富士の機関長、呉海軍工廠検査官に就任。1915年、艦政局員。1916年、機関局員。
川村 竹治(かわむら たけじ、1871年9月1日〈明治4年7… 川村 竹治(かわむら たけじ、1871年9月1日〈明治4年7月17日〉- 1955年〈昭和30年〉9月8日)は、大正から昭和にかけて活躍した官僚・政治家。南満洲鉄道(満鉄)社長、台湾総督、司法大臣等を歴任。 江刺県鹿角郡花輪村(現:秋田県鹿角市花輪)出身。日本中学などから一高を経て、1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学英法科卒業。同年、内務省に入省した後、逓信省書記官、内務省書記官、内務参事官、台湾総督府内務局長などを歴任し、1911年(明治44年)より和歌山県知事を務めた。1914年(大正3年)、香川県知事。1917年(大正6年)、青森県知事。1918年(大正7年)、内務省警保局長。
相馬 佳一郎(そうま けいいちろう、1871年9月1日〈明治… 相馬 佳一郎(そうま けいいちろう、1871年9月1日〈明治4年7月17日〉 - 没年不明)は、日本の農民、新潟県多額納税者。 新潟県北蒲原郡乙村(のち中条町、現・胎内市)出身。相馬熊次郎の長男。1894年、慶應義塾大学部文学科を卒業。1919年、家督を相続する。農業を営み、新潟県多額納税者に列する。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は新潟県北蒲原郡乙村荒井浜。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松村 伝(まつむら つたえ、1871年9月1日(明治4年7月… 松村 伝(まつむら つたえ、1871年9月1日(明治4年7月17日) - 1942年(昭和17年)10月7日)は、日本の教育者。 高知県出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、大学院に入った。高知県第一中学校教諭、愛媛県立宇和島中学校校長、奈良県立畝傍中学校校長、三重県立第一中学校校長、台湾総督府台北中学校校長、台湾総督府立商業学校校長、台北高等学校校長、東亜高等予備学校学監を歴任し、1926年(大正15年)から水戸高等学校校長を務めた。
生駒 親忠(いこま ちかただ、1871年9月1日(明治4年7… 生駒 親忠(いこま ちかただ、1871年9月1日(明治4年7月17日) - 1939年(昭和14年)12月10日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・池田、旧名・政謙。 元岡山藩主・池田慶政の長男として生まれる。1886年(明治19年)3月、先代生駒親承の死跡を継承し、同月19日、男爵を襲爵、同月26日、親忠と改名した。1916年(大正5年)2月26日に隠居し、同年3月23日に分家した。 学習院を経て、日本法律学校(現・日本大学)を修了。育英事業に関わり、日本大学評議員を務めた。 1897年(明治30年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1904年(明治37年)7月9日まで1期在任し、さらに、1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に再選され、1916年(大正5年)2月27日に辞職するまで通算2期在任した。
赤尾 藤吉郎(あかお とうきちろう、1871年9月1日〈明治… 赤尾 藤吉郎(あかお とうきちろう、1871年9月1日〈明治4年7月17日〉- 1938年〈昭和13年〉10月3日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲政友会)。 山梨県東八代郡英村(現・笛吹市)に生まれる。1895年(明治28年)に和仏法律学校(法政大学の前身)を卒業、弁護士試験に合格し、東京地方裁判所所属弁護士として弁護士業に従事する。1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙と、1924年(大正13年)の第15回総選挙に立候補しているが、いずれも落選している。1925年(大正14年)11月、四谷区会議員に当選した。 1928年(昭和3年)に第16回総選挙に当選する。1930年(昭和5年)の第17回総選挙に立候補したが、落選した。
浪花崎 信蔵(なにわざき のぶぞう、1871年9月?(明治4… 浪花崎 信蔵(なにわざき のぶぞう、1871年9月?(明治4年8月)ー ?) は、明治時代の大相撲力士。本名は平野信蔵か。引退後は若者頭を務めた。175cm、85kg前後。 大阪府摂津国島下郡畑田村(のち大阪府島下郡春日村→三島郡春日村、現在の茨木市)生まれ。19歳で大坂相撲に入門し幕下まで進むが、1893年東京相撲に移籍。高砂部屋に入り、1894年1月幕下付け出しで初土俵となる。 1900年5月新十両。1907年5月まで十両を連続15場所務め、十両筆頭まで進むも入幕はできず。1912年1月場所をもって力士を引退し、翌1912年5月場所より二十山部屋所属で若者頭となる。 1927年10月場所を最後に相撲協会を退職。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4… 国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。
大森 禅戒(おおもり ぜんかい、明治4年7月14日(1871… 大森 禅戒(おおもり ぜんかい、明治4年7月14日(1871年8月29日) - 昭和22年(1947年)2月4日)は、日本の曹洞宗の僧侶。旧姓は八木。号は活龍。山梨県慈照寺住職・駒澤大学教授・曹洞宗管長・永平寺70世貫首・總持寺独住11世貫首。 福井県坂井郡丸岡町出身。明治18年(1885年)に地元の台雲寺住職大森董戒の下で出家。明治29年(1896年)に曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業後、比叡山・高野山・東大寺に内地留学。29歳で曹洞宗大学林学監兼教授となった。 その後、明治37年(1904年)2月からアメリカ・イギリス・ドイツの大学に留学し、最後はインドに立ち寄って明治44年(1911年)8月に帰国。
出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日〈… 出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日〈明治4年旧7月12日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月19日)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。 出口王仁三郎は、大本において聖師と呼ばれる。強烈な個性と魅力とカリスマを持っていたとされ、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた。その一方で奔放な言動により敵対者から多くの非難も浴びる。評価は現在でも定まっていない。「国家神道」と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として政府の弾圧を受け、自身も7年近く拘束された。太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも病により死去した。
梶原 仲治(かじわら なかじ、明治4年7月6日(1871年8… 梶原 仲治(かじわら なかじ、明治4年7月6日(1871年8月21日) - 昭和14年(1939年)1月6日)は日本の銀行家。東京府平民。外孫に作家で元暴力団員の安部譲二がいる。 山形県吹浦村生まれ、北海道出身。梶原兵吉の弟。 1897年に東京帝国大学法科大学卒業。日本銀行入行。 1918年3月日本銀行辞職。同年横浜正金銀行取締役就任、副頭取就任。1919年、横浜正金銀行頭取就任。1922年10月、日本勧業銀行総裁。以後東京株式取引所理事長、日本産業協会理事、日本陶磁器工業組合連合会理事長、工業組合中央会理事長を歴任。昭和14年1月6日没。墓所は東京都港区の青松寺。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4… 津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4年7月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉4月28日)は日本の実業家。大和国宇陀郡池上村(後に奈良県宇陀郡榛原町、現在は宇陀市)出身。廃藩置県の9日前に出生。 1893年(明治26年)に津村順天堂(現・ツムラ及びバスクリンの前身)を創業した。1925年(大正14年)から1936年(昭和11年)まで貴族院議員を務めた。 出身の大和国(奈良県)から上京し、東京高等商業学校(現・一橋大学)中退。1893年(明治26年)津村順天堂を創業、日本橋に店を構えて婦人用煎じ薬中将湯の販売を始めた。郵便報知新聞に広告を出し、1895年(明治28年)には日本で初めてガスイルミネーションを用いた看板を掲げた。
藤平 純三(ふじひら じゅんぞう、旧姓・丹羽、1871年8月… 藤平 純三(ふじひら じゅんぞう、旧姓・丹羽、1871年8月17日〈明治4年7月3日〉 - 没年不明)は、日本の銀行家。村井銀行常務取締役。族籍は東京府士族。 旧名古屋藩士・丹羽與三郎の四男であり、退役海軍少将・丹羽教忠の弟、大井田瑞足の兄である。1901年、先代いしの入夫となり家督を相続した。藤平家は其の祖遠く日蓮上人の末弟貫名藤平重友に出た。 1899年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。横浜正金銀行に入り、同行桑港支店支配人、羅府分店支配人となり、長崎支店支配人となる。1918年、村井吉兵衛の懇望により村井銀行に転じ取締役兼総支配人に挙げられ、のち常務取締役となり調査部長を兼任。
平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7… 平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7月2日〉 - 1949年〈昭和24年〉10月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。幼名は倉吉。 愛知県海東郡内佐屋村(佐依木村、佐屋村、佐屋町を経て現愛西市)に生まれる。1894年(明治27年)陸軍士官学校第5期卒業。 1916年(大正5年)8月に大村連隊区司令官、1917年(大正6年)8月に陸軍歩兵大佐、1918年(大正7年)12月に歩兵第38連隊長を経て、1922年(大正11年)2月に陸軍少将に昇進と同時に待命、同年5月に予備役に編入した。 退役後は京都市伏見区に住んだ。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
藤島 範平(ふじしま はんぺい、旧姓・山内、1871年8月1… 藤島 範平(ふじしま はんぺい、旧姓・山内、1871年8月15日〈明治4年6月29日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月21日)は、日本の実業家、工学博士。帝国海事協会理事長。専門は造船学。族籍は三重県平民。作家の藤島泰輔は孫。ジャニーズ事務所代表取締役の藤島ジュリー景子は曽孫。 三重県三重郡菰野村(現・菰野町)生まれ。三重県士族・山内俊徳の二男。山内静吾の兄。藤島萬治郎の養子となり、家督を相続した。三重県立尋常中学校、第三高等中学校を経て1894年、帝国大学工科大学造船学科卒業。 日本郵船に入り、保船課長、参事、船舶調査主任を経て1918年、取締役に挙げられ、後工務部長を兼ね1923年、これを辞し、横浜船渠社長となり、次いで横浜新港倉庫社長、東京回漕会社取締役、横浜商工会議所常議員に挙げられ後退任し、1936年、帝国海事協会理事長に就任した。
大城 兼義(おおしろ けんぎ / かねよし、1871年8月1… 大城 兼義(おおしろ けんぎ / かねよし、1871年8月11日(尚泰24年6月25日)- 1951年(昭和26年)11月11日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 琉球王国小禄間切宇栄原(のち沖縄県島尻郡小禄村、現那覇市小禄字宇栄原)で、屋号新屋敷・大城三郎の長男として生まれる。小禄小学校、島尻高等小学校を経て、1890年(明治23年)沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)に入学したが、3年で退学した。1896年(明治29年)長崎鎮西学館(鎮西学院)神学科沖縄支部を卒業し、伝道師としてキリスト教の布教に従事した。 1901年(明治34年)から臨時沖縄県土地整理事務局で測量に従事。
三土 忠造(みつち ちゅうぞう、1871年8月11日〈明治4… 三土 忠造(みつち ちゅうぞう、1871年8月11日〈明治4年6月25日〉- 1948年〈昭和23年〉4月1日)は、明治から昭和にかけての日本の政治家。 讃岐国大内郡水主村(現在の東かがわ市)出身。 長年立憲政友会の衆議院議員として党内にて重きをなし、内閣書記官長を振り出しに文部大臣・大蔵大臣・逓信大臣・鉄道大臣・枢密顧問官・内務大臣(一時運輸大臣も兼務)を歴任した戦前政界の重鎮である。 讃岐国に中農階層の宮脇清吉の二男として生まれ、三土幸太郎(雅号は梅堂)の婿養子となる。三土家は地主階層に属し、経済的に余裕があったため、代々学問に励み、在郷の漢学者として知られる家柄であった。香川県尋常師範学校卒業後、一旦は小学校教員となるが、上京して東京高等師範学校に入り1897年(明治30年)に首席卒業を果たす。
植岡 寛雄(うえおか ひろお、明治4年6月23日(1871年… 植岡 寛雄(うえおか ひろお、明治4年6月23日(1871年8月9日) - 1927年(昭和2年)2月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は正五位勲三等。 愛媛県出身。旧士族。1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)卒業。翌年3月、歩兵少尉に任官し、5月には兵科を輜重兵に転科。 日露戦争には第10師団隷下の輜重第10大隊中隊長として出征。同師団は遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加。戦中の1904年(明治37年)11月、少佐に昇進。 1909年(明治42年)11月に輜重第11大隊長。翌年11月に中佐に進級。 1914年(大正3年)8月に輜重第7大隊長となり、1916年(大正5年)5月、陸軍輜重兵大佐に任官。
岩佐 善太郎(いわさ ぜんたろう、1871年8月7日〈明治4… 岩佐 善太郎(いわさ ぜんたろう、1871年8月7日〈明治4年6月21日〉 - 1932年〈昭和7年〉6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 肥後国飽田郡熊本(現熊本県熊本市)で熊本藩士・岩佐善門の長男として生まれた。1894年(明治27年)東京専門学校英語政治科卒。日本新聞、憲政本党党報、二六新報、万朝報の各記者となる。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において熊本県郡部から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1932年死去。
八木 春樹(やぎ はるき、1871年8月6日(明治4年6月2… 八木 春樹(やぎ はるき、1871年8月6日(明治4年6月20日) - 1943年(昭和18年)1月25日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・長野。 伊予国越智郡今治町(現愛媛県今治市)で、長野謙吉の弟として生まれる。1892年(明治25年)12月、素封家、酒造業・八木守三郎の養子となり、1911年(明治44年)2月に家督を相続した。 1904年(明治37年)以降、愛媛県越智郡酒造組合長、四国酒造連合会評議員、愛媛県酒造組合連合会会長、同県商工団体連合会副会長、今治商業銀行取締役、伊予相互貯蓄銀行取締役、今治清酒取締役、愛媛水力電気監査役、伊予鉄道電気監査役などを務めた。
出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年… 出井 兵吉(いでい ひょうきち、1871年8月6日(明治4年6月20日)- 1960年(昭和35年)8月14日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(6期)、立憲政友会総務、羽生市初代市長等を歴任。 武蔵国埼玉郡下羽生村(のち埼玉県北埼玉郡須影村、現:羽生市)で、地主・出井熊吉の三男として生まれる。慶應義塾大学を2年で中退し、農業を営む。のち埼玉新聞社を経営。 北埼玉郡会議員、須影村会議員、須影村村長を経て、埼玉県会議員、同副議長、同議長などを務めた。1928年(昭和3年)2月20日の第16回衆議院議員総選挙に立憲政友会の推薦を受けて当選。以後、1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙まで連続6回の当選を果し政友会総務を歴任。
津島 源右衛門(つしま げんえもん、1871年8月3日〈明治… 津島 源右衛門(つしま げんえもん、1871年8月3日〈明治4年6月17日〉 - 1923年〈大正12年〉3月4日)は、日本の政治家、実業家、青森県多額納税者、資産家。衆議院議員(青森県郡部選出、当選1回)。貴族院議員。族籍は青森県平民。 小説家太宰治の父である。孫は俳優の津島康一、小説家の津島佑子、小説家の太田治子、曾孫は政治家の津島恭一、政治家の津島淳、劇作家の石原燃などがいる。 青森県西津軽郡木造村(現つがる市)の松木家に、8代目七右衛門の四男として生まれる。旧名は永三郎。1888年、北津軽郡金木村(現五所川原市)の津島家の婿養子となる。1892年、「源右衛門」と改名。農業、商業を営む。 金木銀行設立の議が起ると率先して尽力する。
山内 確三郎(やまのうち かくさぶろう、1871年8月2日 … 山内 確三郎(やまのうち かくさぶろう、1871年8月2日 - 1947年1月20日)は、日本の司法官。司法次官、東京控訴院院長。族籍は東京府平民。法学博士。
利光 丈平(としみつ じょうへい、1871年(明治4年)8月… 利光 丈平(としみつ じょうへい、1871年(明治4年)8月 - 1934年(昭和9年)12月24日)は、日本の実業家。京王電気軌道社長。京成電気軌道常務取締役。渡良瀬水電取締役。 大分県大分郡稙田村(現・大分市)出身。利光綾太郎の二男。日本大学を経て1893年、明治法律学校(現・明治大学)卒業。1899年、米国に航し、南加州大学に入り、国際公法を専攻した。 1907年、帰国。東京市役所に奉職し、勧業課主事を務めたが1910年、これを辞し京王電気会社の創立に尽瘁し、その社長に推された。 日本大学推薦校友である。 兄・吉郎方より分かれて一家を創立した。 宗教は真宗。趣味は俳句、小鳥、囲碁。東京府在籍で、住所は東京市四谷区坂町、千葉県東葛飾郡市川町字真間。
井内 歓二(いうち かんじ、1871年7月25日(明治4年6… 井内 歓二(いうち かんじ、1871年7月25日(明治4年6月8日) - 1921年(大正10年)5月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 阿波国名東郡西新町(現徳島県徳島市西新町)で織物卸商・井内孝七の長男として生まれる。徳島県尋常中学校を卒業後、法律学を学んだが実業界に転身。1897年11月、北海道旭川に来住し織物煙草卸売業を開業。翌年6月、味噌醤油製造業を始め、後に酒類卸売業を兼ねた。また、旭川区会議員、旭川商業会議所会頭、上川倉庫社長、旭川商事取締役、北海道銀行(旧)取締役、旭川木工取締役、東洋酒精取締役、大北火災保険取締役などを務めた。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で北海道第四区から出馬し当選したが、在任中に病のため死去した。
山崎 伝之助(やまざき でんのすけ、明治4年6月8日(187… 山崎 伝之助(やまざき でんのすけ、明治4年6月8日(1871年7月25日) - 昭和16年(1941年)2月7日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 和歌山県有田郡糸我村(現在の有田市)出身。1900年(明治33年)に日本法律学校(現在の日本大学)を卒業した。帰郷後、南海公論社、ついで和歌山日日新聞社を創設し、社長に就任した。1915年(大正4年)からは和歌山県会議員を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙でも再選された。
関藤 碩衛(せきどう ひろえ、1871年7月24日(明治4年… 関藤 碩衛(せきどう ひろえ、1871年7月24日(明治4年6月7日)- 1957年(昭和32年)5月9日)は、岡山県小田郡陶山村(現・笠岡市)出身の官吏、地方政治家。初代倉敷市長。 1871年6月7日、小田郡陶山村に生まれる。私立関西学館を卒業し、小田郡書記となる。 その後、岡山県庁へ入り県知事官房主事まで昇進したが辞任し、1921年、赤磐郡長となる。その後、浅口郡長、倉敷町長を歴任。1928年、市制が発布され、初代倉敷市長に就任する。その後日比町長となる。 1940年、日比町と宇野町が合併し玉野市となり初代市長に就任する。初代市長に2度就任することは稀な出来事であった。戦後、公職追放となる。
牧ロ 常三郎(まきぐち つねさぶろう、1871年7月23日(… 牧ロ 常三郎(まきぐち つねさぶろう、1871年7月23日(明治4年6月6日)- 1944年(昭和19年)11月18日)は、日本の教育者、宗教家。 1871年7月23日(明治4年6月6日)、柏崎県刈羽郡荒浜村(現:新潟県柏崎市)で渡辺長松・イネの長男として誕生。出生名は渡辺 長七(わたなべ ちょうしち)。1877年、親戚である牧口善太夫の養子となる。 1885年に尋常小学校を卒業後、単身、北海道へ職を求めて渡る。小樽警察署の給仕をしながら苦学の末に、1891年、札幌の北海道尋常師範学校(現:北海道教育大学)第一学部3学年に編入。 1893年、常三郎(つねさぶろう)と改名。同年3月に卒業し、母校の付属小学校の教師となる。
三浦 周行(みうら ひろゆき、明治4年6月4日〈1871年7… 三浦 周行(みうら ひろゆき、明治4年6月4日〈1871年7月21日〉 - 1931年〈昭和6年〉9月6日)は、日本の歴史学者・法制史の研究者。京都帝国大学名誉教授。 明治4年(1871年)、出雲国島根郡内中原町(現:島根県松江市)に於いて、松江藩で18石4人扶持を知行した下級武士の三浦正祐の長男として生まれた。父は維新後島根県の役人を務めた。幼名は禄之助。元服し、周行と称した。1890年に東京英和学校を修業し、東京帝国大学文科大学選科に入学。1893年に国史科を修業。同年父が没したため家督を継ぐ。 卒業後は、史料編纂助員となった。のち史料編纂官に昇進。東京帝国大学法科大学より法制類聚編纂を嘱託され、歴史学と法学双方の研究を行う過程で日本に「法制史」という新しい学問分野を打ち立てた。
中山 平次郎(なかやま へいじろう、1871年7月20日(明… 中山 平次郎(なかやま へいじろう、1871年7月20日(明治4年6月3日) - 1956年(昭和31年)4月29日)は、明治後期から昭和前期にかけての日本の病理学者、考古学者。死没時の称号、位階勲等および学位は九州大学名誉教授正三位勲二等医学博士。 本来の職業は病理学者であるが、後世に残した業績は考古学分野での成果が大半を占めることから、一般には考古学者として知られている。 中山平次郎は、1871年(明治4年)、現在の京都市上京区に生まれた。東京市に移った後、家業であった医学の道を進み、1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、ドイツ・オーストリア留学から帰国した1906年(明治39年)には、京都帝国大学・福岡医科大学(のちの九州大学医学部)の教授に就任した。
白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦… 白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦)(1871年7月19日) - 昭和27年(1952年)2月26日)は、日本の教育者、化学者。第五高等学校名誉教授。 白壁又六郎の二男として福岡県に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年第五高等学校理科を経て、1897年7月東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第五高等学校在学中は、ラフカディオ・ハーンに英語を学んでいる。 東大卒業後、京華尋常中学校、青山学院中学部、立教中学校の教諭を経て、1900年1月陸軍教授に就任。1901年1月第五高等学校の教授に就任し、化学、自然科学を講じる。1910年九州薬学専門学校(熊本大学薬学部の前身)が設立されると、その講師も兼務し、理論化学を講じた。
石橋 為之助(いしばし ためのすけ、1871年7月19日〈明… 石橋 為之助(いしばし ためのすけ、1871年7月19日〈明治4年6月2日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月28日)は、日本の政治家、実業家、新聞記者。第6代神戸市長。衆議院議員(大阪府大阪市選出、当選3回、公正会)。族籍は大阪府平民。大阪生まれ。 1871年7月19日(明治4年6月2日)、大阪府西成郡曾根崎村(現・大阪府大阪市)で石橋有三郎の二男として生まれた。1886年(明治19年)、15歳の時に小学校教員検定試験に合格し、20歳まで教員として働きながら英語を勉強し、1891年(明治24年)9月に京都同志社神学部選科に入学、学資が続かず中途退学し、以来独学自修する。米国に遊学。 朝日新聞社(大阪朝日新聞)に入社すると在職中に衆議院選挙に立候補・当選し、10年間国会議員も務めた。
川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小… 川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小山)、明治4年7月18日(西暦1871年9月2日) - 昭和21年(1946年)12月7日)は、戦前の日本の女優。 東京・日本橋の両替商・越後屋の12番目の子供として誕生。生家の没落により、7歳の時に芳町の芸妓置屋「濱田屋」の女将、可免吉の養女となる。伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった。 1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし当初は苦労も多く、音二郎の2度もの衆議院選挙落選により資金難に陥る。
堀 榮助(ほり えいすけ、1871年7月13日(明治4年5月… 堀 榮助(ほり えいすけ、1871年7月13日(明治4年5月26日) - 1940年(昭和15年)7月19日)は、日本の地主、神奈川県多額納税者、資産家。族籍は神奈川県平民。前名・三郎。 神奈川県横浜市出身。先代榮助の長男。1892年、東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科卒業。同期卒業生46人中第4位であった。1902年、父が病没したため家督を相続し、三郎を改め襲名した。 貸地業を営んだ。北海道、朝鮮に土地を有し、多額納税者であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 宗教は日蓮宗。趣味は読書、俳句。住所は神奈川県横浜市中区英町、同市神奈川区浅間町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
山脇 春樹(やまわき はるき、1871年7月11日(明治4年… 山脇 春樹(やまわき はるき、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1948年(昭和23年)1月3日[要出典])は、日本の農商務・内務官僚、教育者。官選県知事、山脇高等女学校長。旧姓・畑田。 京都府出身。畑田清平の四男として生まれ、1901年(明治34年)5月、山脇玄の養子となる。第一高等学校を卒業。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し主計局属となる。 以後、司税官を経て農商務省に転じ、農商務大臣秘書官に就任。さらに、農商務書記官、商務局商事課長、台湾総督府専売局長、臨時博覧会事務官長などを歴任。 1916年(大正5年)10月、山梨県知事に就任。
喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5… 喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。 現在の徳島県小松島市(阿波国那賀郡櫛淵村)に農民の子として生まれる。櫛淵小学校、旧制徳島中学校、第三高等学校を経て、1893年(明治26年)23歳で帝国大学文科大学に入学し、歴史研究を学んだ。内田銀蔵や黒板勝美と同級生となった。1896年(明治29年)国史学科を卒業し、同大学院に入学。坪井九馬三などを指導教官とし、研究題目を「日本の歴史地理」に定める。この間の1899年(明治32年)、幸田茂友共著で中等教科書『日本地理』『外国地理』を刊行する。
小栗 盛太郎(おぐり もりたろう、1871年7月9日(明治4… 小栗 盛太郎(おぐり もりたろう、1871年7月9日(明治4年5月22日) - 1949年(昭和24年)11月12日)は、日本の会計検査院検査官。福岡県若松市長。神奈川県横須賀市長。 岐阜県出身。平民・小栗辨之右衛門の長男。1892年(明治25年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。判事、検事を務めた後、会計検査院に転じ、検査官・第二部第二課長を務めた。 後、福岡県若松市長を経て、1928年(昭和3年)3月、神奈川県横須賀市長に就任した。関東大震災の震災復旧、復興事業による赤字財政を立て直すため、経費の緊縮や海軍助成金の増額認可獲得などに奔走したが、世界恐慌の状況下でうまく事は運ばず、1930年(昭和5年)5月、病により辞任した。
中川 久任(なかがわ ひさとう、1871年7月7日(明治4年… 中川 久任(なかがわ ひさとう、1871年7月7日(明治4年5月20日)- 1935年(昭和10年)7月14日)は、日本の政治家、華族。貴族院伯爵議員。旧姓・浅野、旧名・倉吉。 東京府出身。浅野家分家・浅野懋績の八男として生まれ、伯爵・中川久成の養子となる。養父・久成の死去に伴い、1897年(明治30年)5月18日、家督を相続し伯爵を襲爵、名を久任と改めた。学習院を卒業。 1909年(明治42年)9月16日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して1911年(明治44年)7月9日まで在任し、さらに1920年(大正9年)5月8日、補欠選挙で再選され、1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
松井 康義(まつい やすよし、1871年7月5日(明治4年5… 松井 康義(まつい やすよし、1871年7月5日(明治4年5月18日) - 1915年(大正4年)10月15日)は、明治期の武家華族。子爵。旧川越藩藩主・松井松平家14代当主。旧姓は松平(まつだいら)。 川越藩の元藩主松平康英の次男に生まれる。幼名は栄松。康英は、松井松平家分家の旗本時代(当時の諱は康直)に講武所頭取、外国奉行、神奈川奉行、文久遣欧使節の副使、勘定奉行、大目付、南町奉行を歴任、旧暦元治元年(1864年)に本家を相続の後、寺社奉行、老中を歴任、また棚倉藩を襲封ののち川越藩へ転封されたが、明治2年(1869年)に家督を養子の康載(最後の川越藩主)に譲って隠居していた。 新暦1879年(明治12年)3月15日に康載の養子となり、松井姓を名乗る(松井松平家は廃藩後に松平姓を廃して松井に復姓した)。
畔柳 芥舟(くろやなぎ かいしゅう、1871年7月4日(明治… 畔柳 芥舟(くろやなぎ かいしゅう、1871年7月4日(明治4年5月17日) - 1923年(大正12年)2月12日)は、日本の英語学者。 山形県生まれ、本名・都太郎(くにたろう)。東京帝国大学英文科卒。1898年第一高等学校教授。戯号は牛涎子(ぎゅうせんし)。芥川龍之介、久米正雄らを教えた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
桑名 伊之吉(くわな いのきち、明治4年5月17日(1871… 桑名 伊之吉(くわな いのきち、明治4年5月17日(1871年7月4日) - 昭和8年(1933年)7月14日)は、戦前日本の昆虫学者。農商務省植物検査所(植物防疫所の前身)初代所長、農学博士。専門はカイガラムシの研究。 福岡県出身で、ハワイ王国渡航後、アメリカ合衆国コーネル大学、スタンフォード大学で昆虫学を学び、帰国後、農商務省農事試験場で害虫防除研究に携わる。植物検査所長に就任してからは植物防疫に関わった。 子の桑名寿一は農林省蚕糸試験場病理部長、文化女子大学教授。 明治4年(1871年)5月17日、豊前国上毛郡黒土村(福岡県豊前市大字久路土)に生まれた。 明治21年(1888年)ハワイにおける日本人移民の噂を聞いて渡航を決意、父から受け取った100円を持って横浜に向かったが、旅券を所持しておらず、渡航を止められた。