篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年… 篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年2月1日) - 1926年(大正15年)9月2日)は、俳人、小説家。 1872年(明治5年)、熊本県宇土郡宇土町(現・宇土市)に生まれる。本名は英喜。別号に松濤、家巣など。父親は漢学塾長。京都本願寺文学寮(現・龍谷大学)に学んだのち上京し、徳富蘇峰が主宰する「國民新聞」に勤め活躍した。 その傍ら、ホトトギス同人となり、正岡子規、高浜虚子らに俳句を学んだ。温厚な人柄で、人望があった。1922年(大正11年)、俳誌「土上(どじょう)」を嶋田青峰らと共に刊行した。俳句は「温籍高雅」の作風で、虚子編「新歳時記」には27句が採用されている。1926年(大正15年)、55歳で脳溢血により没した。
堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日〈明治5年… 堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日〈明治5年1月29日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月11日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選福島県知事、福岡県八幡市長。 後の宮崎県東諸県郡高岡村(現宮崎市)で、士族堀口貞由の長男として生まれる。1897年(明治30年)7月、第五高等学校を卒業。1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し警視庁属兼同警部となる。1901年(明治34年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、警視庁警視・板橋警察署長、四谷警察署長、岡山県事務官、富山県事務官・第四部長、埼玉県事務官・第四部長、同県事務官・警察部長、福岡県港務長、栃木県事務官・内務部長、福岡県内務部長などを経て、1914年(大正3年)4月、熊本県内務部長に就任。
浪越 鷹太郎(なみこし たかたろう、1872年〈明治5年〉3… 浪越 鷹太郎(なみこし たかたろう、1872年〈明治5年〉3月5日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家、香川県多額納税者。香川県三豊郡仁尾村長。南海舎密工業社長。仁尾塩田専務取締役。讃岐米肥料取締役。 香川県三野郡仁尾村(現・三豊市)、浪越家の長男。1896年、村会議員に当選する。1898年、家督を相続する。農会長としてその創設当初より多年に及び郡農会代議員、評議員等を歴任する。1907年、仁尾村長に就任する。 農業を営み、傍ら会社の重役であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は香川県三豊郡仁尾町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日(明治5年1… 内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日(明治5年1月25日) - 1919年(大正8年)7月22日)は、日本の歴史学者。専門は日本経済史。文学博士。日本経済史学の先駆者。 明治5年(1872年)1月、東京府足立郡千住宿中組(現在の東京都足立区)の旧家に生まれる。明治22年(1889年)、東京専門学校(現:早稲田大学)邦語政治科卒業。第一高等中学校(のちの一高)に編入し、1896年(明治29年)に帝国大学文科大学国史科を卒業した。国史科の同期に、喜田貞吉・黒板勝美・笹川種郎・原勝郎・幸田成友らがいた。帝国大学卒業後、同大学院に進学し、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」をテーマに研究した。
比田井天来(ひだい てんらい、1872年3月2日(明治5年1… 比田井天来(ひだい てんらい、1872年3月2日(明治5年1月23日) - 1939年1月4日)は、日本の書道家。「現代書道の父」と呼ばれる。本名・鴻。雅号は天来、別号に画沙(かくさ)、大朴(たいぼく)、象之(ぞうし)、淳風(じゅんぷう)も用いる。 長野県北佐久郡片倉村(現・佐久市)生まれ。幼名は常太郎。古碑法帖を多角的に研究し、古典臨書の新分野を開拓し、その集大成として『学書筌蹄』がある。俯仰法の解明をし、剛毛筆を使用して古典を分解再構築し、新しい造形世界を展開したその活動は、近代日本の書道界において新境地であったとされる。また、仁和寺伝来の三十帖冊子の橘逸勢筆の部分を看破したことでも有名である。
蟹江 義丸(かにえ よしまる、1872年(明治5年)3月 -… 蟹江 義丸(かにえ よしまる、1872年(明治5年)3月 - 1904年(明治37年)6月19日)は、日本の哲学者。 1972年、富山県富山市鹿島町に蟹江晟の子として生まれる。祖父の蟹江基徳は富山藩の重臣で、家老を務めた。1890年(明治23年)、第四高等中学校に入学し、翌年第一高等中学校に移った。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学国史学科に入学したが、1年間の休学を経て哲学科に転じ、1897年(明治30年)に卒業した。その後体調を崩し、京都で静養の傍ら、真宗大学(現在の大谷大学)で講師を務めた。1年ばかりの後、東京帝国大学大学院に入り、カント及び以後のドイツ哲学を専攻し、さらに倫理学・東洋倫理学を専攻した。
千葉 宮次郎(ちば みやじろう、1872年2月29日〈明治5… 千葉 宮次郎(ちば みやじろう、1872年2月29日〈明治5年1月21日〉 - 1933年〈昭和8年〉5月6日)は、日本の政治家、実業家。 兵庫県津名郡野島村(現・淡路市)生まれ。明治法律学校(現・明治大学)卒業。 実業家として、多数の企業の経営に参画し、淡路鉄道、淡路実業銀行、阿淡連絡汽船などの取締役、全淡自動車(後の淡路交通)の社長などを務めた。 野島村長、岩屋町長、津名郡会議員、同議長を歴任した。 1903年(明治36年)9月25日、津名郡選出の兵庫県会議員となった。最終的に1924年(大正13年)5月10日に辞職するまで務めた。この間、1920年(大正9年)12月から1923年(大正12年)9月まで第26代兵庫県会議長を務めた。
鳥羽 源藏(とば げんぞう、1872年2月28日〈明治5年1… 鳥羽 源藏(とば げんぞう、1872年2月28日〈明治5年1月20日〉 - 1946年〈昭和21年〉5月23日)は、日本の明治から昭和初期にかけて活躍した博物学者、教育者である。植物・昆虫・鳥・貝類などの分類学者であり、標本収集者だった。号は三枝。姓の「羽」は「羽」の旧字体だがJIS X 0208には収録されておらず、名の「藏」は「蔵」の旧字体であるため、新字体を用いて鳥羽 源藏、鳥羽 源蔵とも表記される。 明治5年1月20日(グレゴリオ暦1872年2月28日)に岩手県気仙郡小友(おとも)村(現在の陸前高田市小友町)で清左衛門とアヤメの長男として生まれた。生家は「源氏屋」と呼ばれる名門であり、財産家であったともいわれている。
山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治… 山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治5年1月19日)- 1960年(昭和35年)8月31日)は、日本の銀行家。大蔵省主計局長~台湾銀行理事東京支店支配人、満州中央銀行副総裁等を歴任した。 岡山県後月郡芳井村大字簗瀬(現井原市芳井町)生まれ。芳井小学校を経て、興譲館中学校卒業後、従兄阪谷芳郎の書生となる<name=ito />。十代で脳溢血を経験。1890年に東京高等商業学校(現一橋大学)主計科を卒業後、大蔵省入省。 三十四銀行台湾支店長、台湾銀行神戸支店長、台湾銀行大阪支店長、台湾銀行総務部助役を経て、1913年から台湾銀行理事兼東京支店総支配人を務め、投資信託の開発に尽力し、その後投資信託創設のため法制審議会委員として台湾銀行法の改正にあたるなどした。
蓮井 藤吉(はすい とうきち、1872年2月26日(明治5年… 蓮井 藤吉(はすい とうきち、1872年2月26日(明治5年1月18日)- 1941年(昭和16年)7月9日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。 香川県寒川郡神前村(大川郡寒川村、寒川町を経て現さぬき市寒川町神前)で、蓮井吉平の長男として生まれた。 大川郡会議員、同郡参事会員となる。1898年(明治31年)香川県会議員に選出され、以後6期在任し県会議長、参事会員も務めた。1902年(明治35年)神前村会議員となり、6期務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に香川県第四区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 また、香川地方森林会議員、香川県水産組合長、屋島登山鉄道常務取締役、日本殖産監査役などを務めた。
佐々木 安五郎(ささき やすごろう、1872年2月25日(明… 佐々木 安五郎(ささき やすごろう、1872年2月25日(明治5年1月17日) - 1934年(昭和9年)1月1日)は、日本の政治家、大陸浪人。衆議院議員(東京府第8区選出、当選4回)。号は照山。蒙古王の異名をとった。族籍は山口県平民。 山口県豊浦郡阿川村(現下関市)に生まれる。10代後半の時に政治に関心を持ち「点燈会」を作った。隣村の滝部村で小学校の代用教員をしていたが、熊本の九州学院に入学し中国語を学んだ。1894年(明治27年)に卒業し、日清戦争に陸軍の通訳として従軍、戦後は台湾総督府の吏員となった。しかし、乃木希典が総督を退くと総督府を辞職し、1898年(明治31年)には雑誌『高山國(たかさご)』を発刊した。
三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872… 三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872年2月24日) – 昭和16年(1941年)4月4日)は、日本の外交官。駐スイス公使。 千葉県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外交官補、ブラジル公使館三等書記官、オランダ公使館三等書記官、馬山領事、京城理事庁理事官・統監府書記官、スウェーデン公使館一等書記官、駐フランス大使館一等書記官、アメリカ合衆国大使館参事官を歴任した。1916年(大正5年)より駐スイス公使を務めた。その後、平和条約実施委員となった。 退官後は弁護士を開業した。
渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(187… 渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(1872年2月23日) - 昭和8年(1933年)1月26日)は、東京・浅草出身の学僧。浄土宗の僧侶。社会事業家。阿雷狂史・壺月と号す。 前田和男『紫雲の人、渡辺海旭』巻末の年表によると、以下の通りである。 明治5年(1872年)、東京の浅草の田原町にて、渡辺啓蔵、トナ夫妻の長男として生まれる。明治14年(1881年)に抜嫡届けが出され、翌明治15年(1882年)に抜嫡届けが受理され、浅草松清町の萬照寺に入る。 明治20年(1887年)、小石川区初音町の浄土宗源覚寺住職、端山海定のもとで得度。海定の一字をもらいうけて、海旭となる。同年9月、浄土宗学東京支校(のちの芝中学校・芝高等学校)に入学。
坂口 昂(さかぐち たかし、明治5年1月15日(1872年2… 坂口 昂(さかぐち たかし、明治5年1月15日(1872年2月23日) - 昭和3年(1928年)1月28日)は、西洋史学者。 1872年、兵庫県有馬郡日西原村(現・神戸市)生まれ。1894年、帝国大学を卒業した。 1907年、京都帝国大学文学部助教授に就任。原勝郎とともに西洋史学講座を創設し、後進の育成にあたった。ドイツ、フランスに留学ののち、1912年に教授昇進。1924年からは文学部長をつとめた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
平櫛 田中(ひらくし〈又は ひらぐし〉でんちゅう、1872年… 平櫛 田中(ひらくし〈又は ひらぐし〉でんちゅう、1872年2月23日〈明治5年1月15日〉 - 1979年〈昭和54年〉12月30日)は、日本の彫刻家。本名は平櫛 倬太郎(ひらくし たくたろう)。旧姓は田中。戸籍では「ひらくし」と濁らない。 写実的な作風で、高村光雲、荻原碌山、朝倉文夫などと並び近代日本を代表する彫刻家の一人である。ゆかりの地で名誉市民とされているのは、故郷である岡山県井原市(1958年)、広島県福山市(1965年)、晩年を過ごした東京都小平市(1972年)。作品を所蔵する施設として井原市立平櫛田中美術館、小平市平櫛田中彫刻美術館がある。 107歳で亡くなった時点では男性長寿日本一の人物だった。
平林 武(ひらばやし たけし、1872年2月22日(明治5年… 平林 武(ひらばやし たけし、1872年2月22日(明治5年1月14日) - 1935年(昭和10年)4月26日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。兵庫県神戸市生まれ。 1898年東京帝国大学理科大学地質学科卒業。工学博士。農商務省技師を経て1918年東京帝国大学工科大学採鉱冶金科教授に就任。農商務省技師の時代から、日本全国の鉱床、特に黒鉱鉱床の調査を綿密に行い、多くの知見を明らかにしている。平林は当時黒物と呼ばれていた鉱石の鉱床学的特徴を明らかにし,学術用語としての「黒鉱」を定義し、今日一般に使われ、定着している「黒鉱鉱床」なるものの成因解明に端緒を開いた。 平林武の遺族から東京大学総合研究博物館に寄贈された資料は、フィールドノート50余冊、調査した鉱山やダムなどの調査資料・地質図など約1万点、その他講義資料、執筆原稿・別刷り・古写真などからなり、いずれも明治末から昭和初期にかけて、平林が日本の数多くの鉱山やダム工事現場を調査して収集した極めて貴重な資料群である。
戸津 高知(とつ たかとも、明治5年1月13日(1872年2… 戸津 高知(とつ たかとも、明治5年1月13日(1872年2月21日) - 1959年12月30日)は、日本の政治家、教育者。学校法人北海学園元理事長であり、札幌商業学校(現・北海学園札幌高等学校)の創設者。 1872年、伊達藩士の長男として仙台に生まれた。北海英語学校を経て、1890年に札幌農学校に進学。 卒業後は、札幌尋常中学校に教諭として勤務。1901年、浅羽靖に望まれて北海英語学校中等部教頭に就いた。1915年、北海中学校校長に就任。また同1915年からは財団法人北海中学校理事(1923年まで)。 1920年、札幌商業学校(戦時中、札幌豊陵工業学校と改名)が創設となると、初代校長に就任。
井上 幾太郎(いのうえ いくたろう、 1872年2月18日(… 井上 幾太郎(いのうえ いくたろう、 1872年2月18日(明治5年1月10日) - 1965年5月7日)は、日本の陸軍軍人。初代陸軍航空部本部長、帝国在郷軍人会会長。陸士4期・陸大14期。最終階級は陸軍大将。 山口県厚狭郡芦河内村(万倉村、楠町を経て現宇部市芦河内)出身。井上清蔵(農業)の二男。山口町開導学校を経て、1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)を卒業し、工兵第5大隊附。工兵第5大隊長・上原勇作工兵少佐(後に元帥陸軍大将)の知遇を得る。1894年(明治27年)3月、陸軍工兵少尉に任官。日清戦争に出征し、釜山 ー 京城の電信線敷設に従事した後、鴨緑江渡河作戦に参加。1895年11月に陸軍砲工学校に入校し、要塞戦術への関心を高める。
須藤 憲三(すとう けんぞう、明治5年1月10日(1872年… 須藤 憲三(すとう けんぞう、明治5年1月10日(1872年2月18日) - 昭和9年(1934年)1月7日)は、日本の医師、医学者、医学博士、旧制金沢医科大学(現:金沢大学医学部)学長、生化学者。幼名は健蔵、後に上京してから憲三と名乗る。日本における糖尿病研究の先駆者であり、尿糖の定量法を確立した。金沢医科大学病院に国内の病院としては初めて栄養部を設立し、1923年に栄養部長に大橋タカ子を登用している。日本の脚気史に於いては、臨時脚気病調査会委員を務めたことで知られる。 「栄養」の提唱者でもある。「森鷗外、尾崎行雄などの支持を得て「栄養」に改めた」との説もある。 羽前国置賜郡赤湯村(現山形県南陽市の赤湯温泉)の町人宿「あぶらや」の主人富右ヱ門(一真)と母いわの長男として生を受ける。
二条 正麿(二條、にじょう おさまろ、1872年2月17日(… 二条 正麿(二條、にじょう おさまろ、1872年2月17日(明治5年1月9日)- 1929年(昭和4年)2月18日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 二条家当主・二条斉敬の四男として生まれる。1902年(明治35年)12月5日、分家して男爵を叙爵した。 学習院高等科を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、さらに同大学院で行政法を研究して修了した。1904年(明治37年)司法官試補となり、東京区裁判所検事代理を務めた。 1905年(明治38年)3月、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、同月11日に就任し、公正会に所属して活動し、死去するまで4期在任した。
諸井 六郎(もろい ろくろう、1872年2月17日(明治5年… 諸井 六郎(もろい ろくろう、1872年2月17日(明治5年1月9日) - 1940年(昭和15年)5月6日)は、児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の明治期から大正期の外交官、郷土史家。従三位勲二等。兄の諸井恒平は秩父セメント会社の創設者。 中山道で最大の宿場町である本庄宿(1889年(明治22年)に児玉郡本庄町となる)に生まれた。ちょうど本庄宿では飛脚制度から近代郵便制度が始まり、六郎の父である諸井泉衛(東諸井家10代目当主、元は南諸井家の生まれ)が郵便取扱人に任命される。ここから東諸井家は「郵便諸井」と称されるようになる。泉衛の妻である佐久は渋沢栄一のおばに当たるので、栄一と泉衛の息子たちは従兄弟に当たる。
高良 宗七(こうら そうしち、1872年2月15日(明治5年… 高良 宗七(こうら そうしち、1872年2月15日(明治5年1月7日)– 1946年(昭和21年)8月13日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 山口県厚狭郡小串村(宇部村を経て現宇部市)で、農業、鉱山業・高良政右衛門の長男として生まれる。山口西鄙黌で学んだ。1904年(明治37年)家督を相続した。 山陽採炭 (株) を設立し、1900年(明治33年)に第二鵜ノ島炭礦、1907年(明治40年)西沖ノ山炭礦、1913年(大正2年)大正炭礦を起業して各頭取となり、1925年(大正14年)採掘完了に伴い辞任した。また、1912年(明治45年)6月、広島の矢部銀行を買収して宇部銀行に改称して取締役となり、1927年(昭和12年)頭取に就任し、1944年(昭和19年)他行と合併して山口銀行が設立されるまで在任した。
渡辺 勝三郎(わたなべ かつさぶろう、1872年2月12日(… 渡辺 勝三郎(わたなべ かつさぶろう、1872年2月12日(明治5年1月4日) - 1940年(昭和15年)9月24日)は、日本の内務省官僚。岡山県井原町(現井原市)出身。従三位勲二等。 岡山藩士・小姓格、渡辺徳一郎の三男として生まれる。岡山中学、早稲田専門学校、共立学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り内務属となり県治局に配属。同年11月、文官高等試験に合格。奈良県参事官、広島県参事官、福島県書記官、和歌山県・香川県の各第一部長兼第三部長、香川県・京都府の各内務部長などを歴任。 1908年(明治41年)7月から1914年(大正3年)4月まで徳島県知事を務め、内務省地方局長に転じた。
築田 多吉(つくだ たきち、明治5年1月3日〈1872年2月… 築田 多吉(つくだ たきち、明治5年1月3日〈1872年2月11日〉- 1958年〈昭和33年〉3月28日)は、大日本帝国海軍の看護特務大尉を務めた人物。「赤本」とも呼ばれる家庭医学書『家庭に於ける実際的看護の秘訣』の著者。 福井県足羽郡酒生村(現・福井市酒生)出身。福井師範学校卒業。広島県広島市を主な活動拠点とした。 大日本帝国海軍の看護特務大尉であった築田は、日露戦争(1904年〈明治37年〉- 1905年〈明治38年〉)に従軍している。築田の軍での務めは、傷病兵やその家族を看病し、手当てすることであった。 戦場で看護していた人々が話す故郷の民間療法を数多く聞くうちに民間療法への関心を深めた築田は、戦後、自ら全国各地を訪ね歩いて、それぞれの地域に古伝として残る漢方薬や和漢薬の薬草類、現在でも良く知られている指圧療法、青汁療法、灸、カイロプラクティック、断食療法などを、研究し、収集を重ねていった。
鳳 秀太郎(ほう ひでたろう、明治5年1月1日(1872年2… 鳳 秀太郎(ほう ひでたろう、明治5年1月1日(1872年2月9日) - 昭和6年(1931年)9月16日)は、日本の工学者。東京帝国大学工学部教授。電気学会第8代会長。専門は電気工学で、電気回路に関するテブナンの定理をレオン・シャルル・テブナンとは関係なく独自に発見した。このためこの定理は別称「鳳-テブナンの定理」と呼ばれている。 堺県堺区(現在の大阪府堺市堺区)生まれ。与謝野晶子(旧姓名:鳳志よう)の実兄である。また三男の鳳誠三郎、孫の鳳紘一郎も東京大学教授を務めた。墓所は染井霊園。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
市来 保二郎(市來 保二郎、いちき やすじろう、1872年2… 市来 保二郎(市來 保二郎、いちき やすじろう、1872年2月9日(明治5年1月1日) - 1945年(昭和20年)2月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 市来寅之助の長男として後の山口県豊浦郡長府町(現下関市長府)に生まれる。1893年(明治26年)陸軍士官学校第4期卒業。1901年(明治34年)陸軍大学校第15期卒業。 日露戦争に従軍後、1913年(大正2年)1月に仙台連隊区司令官、同年8月に陸軍歩兵大佐、1914年(大正3年)8月に歩兵第19連隊長を経て、1918年(大正7年)7月に陸軍少将に昇進と同時に待命、翌年1月に予備役に編入した。
渡辺 徳助(渡邊、渡邉 德助、わたなべ とくすけ、1872年… 渡辺 徳助(渡邊、渡邉 德助、わたなべ とくすけ、1872年2月7日(明治4年12月29日) - 1950年(昭和25年)7月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県土岐郡、後の日吉村(現瑞浪市)出身。亜炭鉱業を経営する。蘇東銀行、中部電力各(株)監査役、取締役となる。また、岐阜県議、同参事会員、同議長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において岐阜3区から立憲民政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、民政党から立憲政友会に移った。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1950年死去。
木澤 鶴人(きざわ つると、1872年2月6日 - 1920… 木澤 鶴人(きざわ つると、1872年2月6日 - 1920年1月9日)は、日本の教育者。学校法人松商学園の起源となる松本戊戌商業学校の創立者で、現在の松商学園高校の創立者として位置づけられている。 筑摩県筑摩郡松本(現・長野県松本市)に旧松本藩士・木澤政誾の長男として生まれる。明治28年(1895年)に東京物理学校を卒業し、慶應義塾に学ぶ。陸軍陸地測量部、東京大林区署に勤務後、明治31年(1898年)に帰郷。信濃商業銀行(1896年創業、1909年六十三銀行に統合)に入行し、翌年支配人代理となる。近代的商業人の育成を目指し、福沢諭吉の自主独立実学を建学の精神として私学・戊戌学会を設立した。明治33年(1900年)には文部省令実業学校規定により松本戊戌学校と改称し、明治35年(1902年)には文部省の許可を得て松本戊戌商業学校とした。
高橋 橘太郎(たかはし きつたろう、1872年2月3日 - … 高橋 橘太郎(たかはし きつたろう、1872年2月3日 - 1909年10月17日)は、明治時代の日本の外交官。元在漢口総領事。 常陸国笠間生まれ。茨城県士族。松島火薬庫爆発事故で死亡した高橋辰三郎海軍機関大尉は弟。妻は三増久米吉元在京城領事の娘。1895年(明治28年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。同年第2回外務書記生試験に合格し、領事館書記生として仁川、牛荘、重慶に在勤した。同期に中村巍など。1898年(明治31年)の戊戌の変法の際には、梁啓超や王照の日本亡命のため宮島に出迎えた。同年辞職。 翌1899年(明治32年)の第8回外交官及領事官試験に合格。1900年(明治33年)在天津領事官補、在清国外交官補。
数藤 五城(すどう ごじょう、1872年2月2日(明治4年1… 数藤 五城(すどう ごじょう、1872年2月2日(明治4年12月24日) - 1915年(大正4年)8月21日)は、日本の俳人、教育者。第一高等学校教授、正岡子規の門人。本名は斧三郎、短歌での筆名は小野三郎。 1872年2月2日(明治4年12月24日)、島根県に生まれる。10歳の頃、数藤家の養子となり、島根県尋常中学校(現島根県立松江北高等学校)、東京大学理科大学講習科を卒業する。第一高等学校の数学教授として勤務し、俳句を正岡子規に学び、短歌を斎藤茂吉に師事する。子規から『著き進歩を現したる者』として『東京に五城あり、越後に香墨あり、大阪に青々あり』とし、『五城亦昨年始めて之を見る。錬磨不撓、一日一日より進む。
伴 宜(ばん よろし、1872年2月2日〈明治4年12月24… 伴 宜(ばん よろし、1872年2月2日〈明治4年12月24日〉- 1935年〈昭和10年〉12月14日)は、日本の陸軍技師、福井県士族。日本国及び日本領青島・済南・福州の水道事業に捧げ、東京湾の第二海堡・第三海堡の設計・施工、日本鋼管株式会社の水道顧問を務めた。 福井藩儒・伴閑山の三男として生まれる。1895年7月、第一高等学校第二部工科を卒業し東京帝国大学工科大学土木工学科に進学する。学生時代所属していた漕艇部では艇尾で戦略統率役の整調を務めており、三年間連勝に導くなどこの頃からリーダーとしての頭角を現していた。1898年7月に東京帝国大学を卒業後、陸軍省に入省し、陸軍築城部佐世保支部へ配属され、佐世保要塞の砲台整備建造に従事した。
中島 半次郎(なかじま はんじろう、1872年2月1日(明治… 中島 半次郎(なかじま はんじろう、1872年2月1日(明治4年12月23日)- 1926年(大正15年)12月21日)は、日本の教育者。 熊本県出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)文学科を卒業し、東京高等師範学校(後の東京教育大学、筑波大学の前身)研究科を修了した。『教育学術界』『教育時論』などの記者となったが、1900年(明治33年)に東京専門学校教授となり、東京高等商業学校(後の東京商科大学)講師も兼ねた。 明治末にヨーロッパに留学し教育学を学んだ。帰国後、早稲田大学高等師範部長、早稲田大学高等学院長を歴任した。 教育学説として人格的教育論を唱えた。
木下 伊平(きのした いへい、前名・辨一郎、1872年〈明治… 木下 伊平(きのした いへい、前名・辨一郎、1872年〈明治5年〉2月 - 没年不明)は、日本の農民、林業家、資産家、和歌山県多額納税者。族籍は和歌山県平民。 和歌山県伊都郡妙寺町中飯降(現・かつらぎ町)出身。木下伊平の長男。居村小学校卒業、自助私学校卒業。 1904年、家督を相続し前名・辨一郎を改める。祖業を継ぎ農業、林業を営み、県下の多額納税者である。1937年、退隠する。 県下有数の山林業者である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。趣味は茶道、生花。住所は和歌山県伊都郡妙寺町大字中飯降(現・かつらぎ町)、京都市上京区丸太町橋西詰南入。 木下家は和歌山県妙寺町の資産家で、数代以前迄は屋号を「木綿屋」と称し木綿商を営んだが、その後これを廃して植林を営み農業に従事する。
宮崎 槌(みやざき つち、1872年1月28日〈明治4年12… 宮崎 槌(みやざき つち、1872年1月28日〈明治4年12月19日〉 - 1942年〈昭和17年〉12月23日)は、明治から昭和戦前・戦中期にかけての女性。槌子とも。自由民権運動家の前田案山子の三女。姉の卓は『草枕』の那美のモデルとされる。孫文を支援した宮崎滔天の妻であり、白蓮事件を起こした宮崎龍介の母。 熊本県玉名郡小天村(現・玉名市天水町)生まれ。前田家は地元の名士であり、自由民権運動に奔走した父の影響を受けて育つ。11歳のとき女権拡張運動家の岸田俊子の前で壇上に立ち、「学問ヲ勧ム」という演説をした。12歳の時に中江兆民が熊本を訪れた歓迎会で演壇に立った。熊本の英語学舎、大阪の梅花女学校で学び、さらに神戸のキリスト教の女学校を卒業。
豊島 直通(としま なおみち、明治4年12月18日(1872… 豊島 直通(としま なおみち、明治4年12月18日(1872年1月27日) - 昭和5年(1930年)10月14日)は、日本の司法官僚。判事。検事。法学博士。 東京府出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学を卒業。司法官試補、東京地方裁判所検事・東京控訴院検事、司法省参事官、同法務局長、同刑事局長、東京控訴院検事長を歴任した。1923年(大正12年)、判事に転じ大審院部長となった。在職のまま死去した。
奥野 英太郎(おくの えいたろう、明治4年12月17日(18… 奥野 英太郎(おくの えいたろう、明治4年12月17日(1872年1月26日) - 昭和20年(1945年)5月24日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍中将。大津市長。 園城寺侍医奥野時之の長男として出生。1891年(明治24年)、京都府立第一中学校を卒業後、陸軍士官学校(6期)に入った。1895年(明治28年)に士官学校を卒業し、少尉として歩兵第8連隊に勤務した。その後陸軍大学校(15期)に入り、1901年(明治34年)に卒業した。参謀本部付を経て、少佐として1909年(明治42年)に歩兵第70連隊大隊長に就任。以後、第12師団参謀、第7師団参謀、第14師団参謀、由良要塞参謀を歴任した。1912年(明治45年)、中佐に進級して朝鮮軍司令部参謀に就任した。
亀山 理平太(かめやま りへいた、1872年1月26日〈明治… 亀山 理平太(かめやま りへいた、1872年1月26日〈明治4年12月17日〉 - 1915年3月4日)は、日本の内務官僚。官選徳島県知事。地方行政官である。族籍は岡山県平民。 岡山県御野郡今村に生まれる。岡山平民・亀山吉郎の三男。1898年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、法学士の称号を受く。同年12月、文官高等試験に合格。土木監督署書記となり、内務省に出仕し更に土木局に勤務する。山形県警部長を経て、1903年6月、長崎県警部長に就任。 1905年2月、統監府警視となり、次に釜山理事庁理事官を務める。1910年9月、台湾総督府に転じ民政部内務局長に就任。1911年10月、警視総長に転じ民政部地方部長を兼務した。
鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1… 鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1月24日 - 1953年〈昭和28年〉2月6日)は、日本の機械工学者・教育者・実業家。官立大阪高等工業学校の教授を務め、退官後に家庭用ガス湯沸器メーカーの陽栄製作所を創業した。 1872年〈明治5年〉1月24日に栃木県で生まれた。1896年〈明治29年〉7月に旧制第一高等学校を卒業し、1899年〈明治32年〉7月に東京帝国大学工科大学(のちの東京大学工学部)機械工学科を卒業した。同年10月に東京帝国大学大学院に進んだ後、1900年〈明治33年〉に官立大阪高等工業学校(当時の名称は大阪工業学校、のちの大阪大学工学部)の教授に着任した。1901年〈明治34年〉から1907年〈明治40年〉までは大阪高等商業学校(のちの大阪商科大学、大阪市立大学の前身)の教授嘱託も務めた。
田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日〈明治4年1… 田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日〈明治4年12月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉5月13日)は、日本の小説家。本名、録弥()。群馬県(当時は栃木県)生まれ。 尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩、柳田國男らと交わる。『蒲団』『田舎教師』などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。紀行文にも優れたものがある。 栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)に、田山鋿十郎・てつ夫妻の次男として誕生。田山家は代々の秋元藩士。父は1876年(明治9年)警視庁邏卒(らそつ、後の巡査)となり一家で上京するが、西南戦争の際に従軍して肥後飯田山麓の闘いで戦死したため、館林に戻る。
上野 英三郎(うえの えいざぶろう、うえの ひでさぶろう、1… 上野 英三郎(うえの えいざぶろう、うえの ひでさぶろう、1872年1月19日〈明治4年12月10日〉 - 1925年〈大正14年〉5月21日)は、日本の農学者。農学博士。東京帝国大学教授。日本の農業土木、農業工学の創始者である。また東京都渋谷駅前に銅像が建つ忠犬ハチ公の飼い主としても知られる。 三重県一志郡本村(後の久居市、現在の津市久居元町)出身。上野六兵衛の三男。1887年(明治20年)に東京農林学校に入り、1890年(明治23年)に農科大学予科に編入され、1892年(明治25年)に同大学農学科に転じ、1895年(明治28年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業する。農学士の称号を受け直に大学院に入り農業土木及び農具に関する事項を研究する。
神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1… 神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉10月22日)は、明治末期から昭和初期にかけての官僚・政治家である。名古屋市助役や衆議院議員、東邦電力常務取締役を務めた。京都府出身。 神谷卓男は、明治4年12月9日(新暦:1872年1月18日)、京都府与謝郡宮津町波路(現在の宮津市)に生まれた。父・広生は旧宮津藩士で明治維新後は地方自治に尽力した人物である。宮津小学校・天橋義塾・京都中学校を経て同志社に入り、1892年(明治25年)に同志社を卒業。1894年(明治27年)からはアメリカ合衆国へと留学し、スタンフォード大学およびコロンビア大学で学んだのち1900年(明治33年)に帰国した。
神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日〈明治4年… 神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日〈明治4年12月6日〉 - 1960年〈昭和35年〉10月11日)は、明治末期から昭和にかけて活動した日本の実業家である。長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)の豪農神津家の一族に生まれ、志賀村長や長野県会議員、六十三銀行(八十二長野銀行の前身)常務取締役を務めたのち1920年(大正9年)に河東鉄道、後の長野電鉄の初代社長に就任。以後40年にわたり長野電鉄社長を務め、その間志賀高原開発を主導した。 弟は地質学者の神津俶祐。孫に第80代内閣総理大臣の羽田孜がいる。 明治4年12月6日(新暦:1872年1月15日)、神津清三郎の次男として生まれた。出身地は長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)。
坂口 豊蔵(さかぐち とよぞう、1872年〈明治5年〉1月1… 坂口 豊蔵(さかぐち とよぞう、1872年〈明治5年〉1月13日 - 1930年〈昭和5年〉6月12日)は、日本の実業家。族籍は鳥取県平民。 鳥取県米子市尾高町の木綿問屋に生まれる。坂口平吉郎の五男。兄平兵衛の養子となり、1920年、家督を相続する。煙草元売捌・製糸業を営む。銀行会社の重役として知られる。 有限責任米子信用組合初代組合長、坂口合名会社代表社員、米子電車軌道、米子製鋼所、八頭木材各社長、米子銀行副頭取、山陰電気副社長、米子坩堝、山陰日日新聞各取締役、日本製絲、皆生温泉土地各監査役などをつとめる。 住所は鳥取県米子市尾高町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872… 三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872年1月9日) - 大正12年(1923年)7月18日)は、日本の国語学者・国文学者。学位は文学博士。國學院大學教授。 折口信夫の師。弟に三矢宮松がいる。いわゆる「三矢文法」を築き、「最後の国学者」と呼ばれる壮烈な学風で知られる。 1872年(明治4年)1月9日、酒田県田川郡鶴岡大字二百人町(現・山形県鶴岡市)で生まれた。父・三矢維顕、母・町子の二男。実家は代々庄内藩に使えた士族の家で、祖父の静は藩校の典学を勤めた人物であった。1877年(明治10年)、鶴岡朝暘学校に入学。朝暘学校卒業後、西田川郡中学校を経て山形県尋常中学校に転入。在学中、中台直矢、角田俊次について漢学を学び、庄内英学会に加わって英語を身につけた。
石橋 重吉 (いしばし じゅうきち、1872年1月5日〈明治… 石橋 重吉 (いしばし じゅうきち、1872年1月5日〈明治4年11月25日〉 - 1953年〈昭和28年〉11月21日)は、日本の教育者。郷土史家。号は咬菜(こうさい)、豊洲、酔逃。 福井県今立郡粟田部(現・越前市)に生まれる。1887年真宗大谷派学場で英語、漢文、数学を学ぶ。1888年病に倒れ、福井中学の受験を断念し、郷里に戻り病床で独習する。1889年名古屋の小堀蓬髪の漢学塾に入門。1893年名古屋で嚶鳴塾を開き、塾師になる。講義の間には、書生のために炊事もし、近隣から食べ物をもらった際には牡丹餅を作って配った。愛読書はスマイルズの『自助論』。1896年、文部省教員検定試験に合格し、1896年福井中学で倫理と漢文を教える。
村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1… 村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1月2日 - 昭和22年(1947年)6月10日)は、日本の天文学者、物理学者。 愛媛県越智郡東伯方村大字有津の庄屋、村上重吉の長男として生まれる。独学で数学、物理学、化学の高等教員資格検定を合格、教授免状を取得する。 同志社理科学校で教え、明治36年(1903年)9月に第七高等学校造士館に赴任し、物理学教授として教鞭を振るう傍ら、赤道儀を設置した望遠鏡を備えた天文台を建設。啓蒙書「天文学一夕話(島津源蔵、明治35年)」、「天文と地象(恒星社厚生閣、1944、1949)」および旧制高校の教科書「物理学原論」を著した。
会田 龍雄(あいだ たつお、明治4年11月21日(1872年… 会田 龍雄(あいだ たつお、明治4年11月21日(1872年1月1日) - 昭和32年(1957年)12月16日)は、日本の生物学者、遺伝学者。 1903年 - 1941年、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)教授。1932年、帝国学士院賞受賞。 京都市出身。1872年、有栖川宮家に剣客として仕えた勤王派の父(福島県、矢吹出身)と外科医の娘である母(京都市出身)のあいだに長男として生まれる。銅駝校(小学校)、京都府尋常中学校、第三高等学校を経て、帝国大学理科大学動物学教室に入学、飯島魁に師事。同教室を1896年卒業後、1898年、第五高等学校(熊本)教授。この時同僚に夏目漱石がいた。1903年実家のある京都に戻り、京都高等工芸学校教授。
三宅 利平(みやけ りへい、1872年1月1日(明治4年11… 三宅 利平(みやけ りへい、1872年1月1日(明治4年11月21日) - 1932年(昭和7年)3月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県多可郡、のちの日野村(現西脇市)で生まれた。1893年、同志社卒。酒造業を営む。加古川実業協会長、加古郡教育会長、京都同志社理事、全国酒造組合連合会評議員、兵庫県酒造組合連合会副会長、姫路米穀取引所理事、加古川銀行、日本綿布各(株)取締役、新宮軽便鉄道(株)社長、龍野電気鉄道(株)専務取締役を歴任する。また、加古郡議、同議長、加古川町長、兵庫県議、同参事会員、同副議長、同議長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において兵庫3区(当時)から立憲民政党公認で立候補してトップ当選した。
岡崎文吉(おかざき ぶんきち、1872年(明治5年)- 19… 岡崎文吉(おかざき ぶんきち、1872年(明治5年)- 1945年(昭和20年))は日本の治水技術者。北海道庁の技師として、石狩川の治水計画の基礎を築いた人物。長男の岡崎一夫は自由法曹団団長を務めた弁護士。 岡山県に士族岡崎壽の長男として生まれる。岡山尋常中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、17歳と年齢をごまかし、15歳で札幌農学校工学科に1期生として入学。授業料免除で学資も給付される校費生として、「港湾工学の父」と称せられる広井勇のもとで学ぶ。卒業後は給費研究生となり、21歳の若さで札幌農学校助教授に就任。1896年(明治29年)、北海道庁の技師に任ぜられる。当時の北海道庁長官北垣国道は排水路を運河として活用することを意識しており、札幌・茨戸間運河(現在の創成川)、花畔・銭函間運河、幌向運河、馬追運河の設計と技術を担当した。
島 重治(しま しげはる、1872年 - 1959年)は、長… 島 重治(しま しげはる、1872年 - 1959年)は、長崎県出身の日本の土木技術者・土木工学者、都市計画家。内務省土木局第一技術課長、大阪市土木部長・理事、土木学会関西支部長・名誉員。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者。 1897年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。大阪市に入り、のちの大阪府知事で農務次官の西村捨三大阪築港事務所長の下に大阪築港に従事する。 1905年に退職。韓国政府に招請され、韓国灯台局長などを務める。 1911年、内務省に入り、新潟土木出張所で信濃川の大河津分水工事、千曲川改修工事に従事した。 1922年、大阪市土木課長に転じた後、関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者となる。