2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治… 2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治6年)8月15日 - 1918年(大正7年)2月26日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。実業家。衆議院議員。岐阜県大野郡高山町(現在の高山市)長。幼名は尚次。 初代永田吉右衛門の長男として、高山町(現在の高山市)に生まれる。1897年(明治30年)10月、家督を相続し襲名する。東京商業学校を卒業後、郷里に戻り長らく高山町長を務めた。ほか、高山町会議員、学務委員を歴任した。 財界では飛騨電灯、濃飛自動車、飛騨林業、濃飛農工銀行各取締役、飛騨銀行取締役、同頭取、富山電気、大垣銀行、十二銀行各監査役を歴任した。また、五松庵不及と号して俳句を能くした。
もっと読む
松本 重威(まつもと しげたけ、1873年(明治6年)8月1… 松本 重威(まつもと しげたけ、1873年(明治6年)8月12日 - 1947年(昭和22年)1月30日[要出典])は、日本の大蔵官僚。錦鶏間祗候。 旧相馬藩士の松本威重の長男として福島県に生まれる。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。司税官、大蔵書記官・専売局事業部長、大蔵省主税局長を歴任した。 1923年(大正12年)4月6日に退官し日本興業銀行副総裁に就任。その後、1924年(大正13年)1月24日に錦鶏間祗候を仰せ付けられた。墓所は護国寺共葬墓地。 宗教は神道、趣味は能楽。
もっと読む
野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日… 野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日 - 1952年〈昭和27年〉1月17日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟)、富山市長、貴族院勅選議員などを務めた。幼名は安次郎。 富山県婦負郡鵜坂村(現在の富山市)生まれ。1893年(明治26年)東京法学院(現在の中央大学)卒業。1898年(明治31年)に弁護士試験に合格し、1902年(明治35年)から判事として、富山・敦賀・大津の裁判所で勤務した。1906年(明治39年)に退官して富山市で弁護士を開業した。富山弁護士会長も務めた。 1911年(明治44年)3月、富山県会議員補欠選挙に婦負郡選挙区から立候補して当選した。
もっと読む
竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 19… 竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 1956年)は、明治時代の実業家、エンジニア。 1873年、愛知県八名郡賀茂村(現、豊橋市)の竹尾彦九郎の二男として生まれた。 1894年(明治27年)、東京高等工業学校を卒業。アメリカ・ニューヨークに渡り、高峰譲吉の研究所に入る。1896年、スティーブンス工科大学機械科に編入学、1898年に卒業。卒業後も、同大学でディーゼルエンジン開発研究などに10年間従事した。1908年、アメリカ機械学会(ASME, The American Society of Mechanical Engineers)会員に推挙される。 1903年に帰国。幸袋製作所と大阪鉄工所に勤務した。
もっと読む
丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 … 丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 - 1952年(昭和27年)11月20日)は、日本の教育者、文部官僚。 滋賀県伊香郡北富永村(現在の長浜市)出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学独文科を卒業。第六高等学校教授、第八高等学校教授を経て、1913年(大正2年)、文部省督学官となった。第六高等学校校長を務めた後、1924年(大正13年)から甲南高等学校(現在の甲南大学)校長兼教授となった。その後さらに九段精華高等女学校校長を務めた。
もっと読む
三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 196… 三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 1966年7月12日)は、日本の裁判官。行政裁判所長官。岡山県岡山市出身。 岡山城下の友野家に生まれ、のち、下道郡岡田村(のち吉備郡岡田村→同大備村→同真備町、現・倉敷市)の三宅家の養子となる。旧制岡山中学、第三高等中学校を経て、1896年東京帝国大学法科卒。司法官試補として京橋区裁判所に勤務し、東京区裁判所判事となり、東京地方裁判所、東京控訴院などの判事となる。1907年行政裁判所評定官、同部長兼務、1939年行政裁判所長官に就任し、1942年まで務めた。墓所は多磨霊園。
もっと読む
河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 … 河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 - 1949年〈昭和24年〉10月12日)は、米国で活躍した日本人ジャーナリスト。日本におけるキリスト教社会主義の活動家の1人である。山形県出身。筆名は翠陵、陵山。 1873年(明治6年)8月2日、旧米沢藩士宮下忠茂・きみの四男として誕生。宮下雄七と名づけられる。1892年(明治25年)に河上清と改姓改名。 米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)卒業後、上京して篤志家(曽根俊虎、上杉茂憲ら)の援助を受けつつ慶應義塾、東京法学院、青山学院などで学び文筆で身を立てることを志す。 万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。
もっと読む
京極 高備(きょうごく たかよし、1873年(明治6年)7月… 京極 高備(きょうごく たかよし、1873年(明治6年)7月30日 - 1933年(昭和8年)10月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・於菟吉。 旧讃岐多度津藩主・京極高典の二男として生まれる。父の死去に伴い、1906年(明治39年)1月27日、子爵を襲爵した。 1898年(明治31年)学習院高等科を卒業し、さらに同大学部を修了した。1897年(明治30年)陸軍騎兵少尉に任官し、騎兵中尉に進んだ。退役後に司法属となる。 1910年(明治43年)10月29日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
もっと読む
若尾 璋八(わかお しょうはち、明治6年(1873年)7月2… 若尾 璋八(わかお しょうはち、明治6年(1873年)7月27日 - 昭和18年(1943年)1月10日)は、山梨県出身の実業家、貴族院議員、衆議院議員。 山梨県山梨郡下於曽村(現在の甲州市)に広瀬久光の四男として生まれる。東京法学院(現在の中央大学)を卒業後、明治29年(1896年)に甲州財閥をリードした若尾民造の二女「きよの」と結婚し同人の養子となった。 大正6年(1917年)4月23日の第13回衆議院議員総選挙、大正9年(1920年)5月10日の第14回衆議院議員総選挙、大正13年(1924年)5月12日の第15回衆議院議員総選挙に山梨選挙区から立候補して衆議院議員に当選。昭和元年(1926年)12月28日に辞任するまで9年4か月在任し、その間、立憲政友会総務、大正13年(1924年)6月30日には全院委員長となった。
もっと読む
野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 194… 野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 1944年1月15日)は、日本の実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。
もっと読む
姉崎 正治(あねさき まさはる、1873年〈明治6年〉7月2… 姉崎 正治(あねさき まさはる、1873年〈明治6年〉7月25日 - 1949年〈昭和24年〉7月23日)は、日本の宗教学者、著作家。日本における宗教学の祖とされる。 『帝国文学』共同創刊者、東京帝国大学宗教学講座初代教授、日本宗教学会初代会長、無所属倶楽部所属の貴族院帝国学士院会員議員。号は「嘲風」(ちょうふう)。 1873年、京都府で生まれた。父は桂宮家に仕える士族であった。少年期に仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。第三高等中学校を経て、1893年、東京帝国大学哲学科に入学。井上哲次郎、ケーベルについて学ぶ。1896年、同大学同学科を卒業した。 1897年には哲学館(東洋大学)で「比較宗教学」を担当、講義し、前後して、浄土高等学院(大正大学)、東京専門学校(早稲田大学)でも講義を開始した。
もっと読む
中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - … 中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - 1960年4月25日)は、財界人であり、政治家、実業家、男爵。
もっと読む
久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年… 久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1929年〈昭和4年〉1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。久邇宮朝彦親王の第3王子。久邇宮第2代当主。香淳皇后(昭和天皇后)の父。上皇の外祖父、今上天皇の曽祖父にあたる。 1887年(明治20年)、父・朝彦親王の継嗣と定められ、京都府立中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、学習院を経て東京の成城学校(現:成城中学校・高等学校)に入学する。1891年(明治24年)、朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。 1896年(明治29年)、陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)に陸軍大学校卒業。
もっと読む
五島 盛光(ごとう もりみつ、1873年〈明治6年〉7月23… 五島 盛光(ごとう もりみつ、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1923年〈大正12年〉5月30日)は、明治時代から大正時代の華族(子爵)。五島家第33代当主。位階は従三位。旧名は溝口歓十郎。 旧越後国新発田藩主・溝口直溥の十六男として生まれる。1893年(明治26年)旧福江藩主五島家当主の五島盛主が嗣子無くして卒去したため、翌1894年(明治27年)に養嗣子として五島家を継いだ。同年1月25日、盛光と改名した。1902年(明治35年)、自ら巨費を投じて旧制五島中学校を創設した。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1921年(大正10年)5月14日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。
もっと読む
山本 信哉(やまもと のぶき、明治6年〈1873年〉7月19… 山本 信哉(やまもと のぶき、明治6年〈1873年〉7月19日 - 昭和19年〈1944年〉12月18日)は、日本の歴史学者、神道学者。東京帝国大学史料編纂所史料編纂官。 元奈良国立博物館館長・山本信吉の父。
もっと読む
南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月1… 南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月18日 - 1948年〈昭和23年〉12月30日)は、日本の実業家。大正海上火災保険会長や、三井物産会長、三井合名筆頭常務理事を務めた。 群馬県邑楽郡館林町(現館林市)出身。前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1892年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、横浜外国商館に入り、海外貿易に従事し海陸保険の事務につき英国と東京を往来する。 1901年三井物産入社。大阪支店保険掛主任等を経て、1910年大阪支店長。1913年ロンドン支店長。1918年取締役ロンドン支店長。同年安川雄之助、武村貞一郎とともに常務取締役に昇格。大正海上火災保険設立前に小田柿捨次郎の家で飯田義一、馬越恭平、岩原謙三、平生釟三郎、磯村豊太郎らと保険会社設立懇談会に参加し、1924年には大正海上火災保険会長に就任。
もっと読む
永地 秀太(ながとち ひでた、旧姓:有吉 秀太(ありよし ひ… 永地 秀太(ながとち ひでた、旧姓:有吉 秀太(ありよし ひでた)、1873年(明治6年)7月15日 - 1942年(昭和17年)12月14日)は、明治-昭和前期の洋画家。太平洋画会 創立メンバー、陸軍嘱託画家、文展(旧帝展)審査員、旧東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)教授。1944年、レジオンドヌール勲章(シュバリエ)受賞。贈従四位。山口県出身。
もっと読む
柴田 顕正(しばた けんせい、1873年7月15日 - 19… 柴田 顕正(しばた けんせい、1873年7月15日 - 1940年4月20日)は、日本の郷土史家、教育者、神官。 『岡崎市史』全8巻(1926年~1930年)とその別巻である『徳川家康と其周囲』全3巻(1934年~1935年)を半生を傾けて完成させた。正式には「柴田顯正」と表記。 愛知県額田郡伊賀村(現・岡崎市伊賀町)に伊賀八幡宮社司の柴田顯光の長男として生まれる。額田郡第十六番小学八幡学校(現・岡崎市立広幡小学校)を出たのち上京。1893年(明治26年)7月、國學院大學第一回生として同校を卒業後、史学者の三上参次のもとで教科書編集の仕事に携わった。 その後、1895年(明治28年) 石川県尋常中学校七尾分校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)の教諭を経て、1897年(明治30年)9月から1901年(明治34年)8月まで、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に勤務。
もっと読む
佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7… 佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7月6日 - 1954年(昭和29年)6月2日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。東洋拓殖総裁、貴族院勅選議員。 秋田県仙北郡花館村(大曲市花館を経て現大仙市)で、佐々木多右衛門の三男として生まれ、1885年(明治18年)6月、叔父・佐々木福蔵の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1899年(明治32年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 福澤諭吉の紹介で堺市の会社に就職。その後、1900年(明治33年)山口銀行に入行し、理事兼営業部長、常務取締役などを歴任。三和銀行の創設に尽力した。その他、山口合資会社理事長、日本生命保険会長、共同火災保険会長、トヨタ自動車工業監査役、財団法人東亜研究所評議員、南洋協会評議員などを務めた。
もっと読む
田原 淳(たわら すなお、たはら すなお、1873年7月5日… 田原 淳(たわら すなお、たはら すなお、1873年7月5日 - 1952年1月19日)は、日本の病理学者。 大分県東国東郡瀬戸田村(国東市安岐町)の中嶋家の長男として生まれる。1889年に上京して東京英語学校と独逸学教会学校で学ぶ。1892年、伯父の中津藩医・田原春塘の養子となる。 1898年第一高等学校卒業、1901年東京帝国大学医学部卒業。1903年に私費でドイツに留学し、小久保恵作の勧めにより、マールブルク大学の病理学教室でルードヴィッヒ・アショフ(Ludwig Aschoff)に師事した。 ここで田原は心筋について研究を行い、1905年刺激伝導系の存在を明らかにし、刺激伝導系において重要な役割を持つ「房室結節(田原結節、田原・アショフ結節)」を発見した。
もっと読む
手塚 敏郎(てづか としろう、1873年(明治6年)7月1日… 手塚 敏郎(てづか としろう、1873年(明治6年)7月1日 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、内務官僚、南洋庁長官。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学を卒業し司法官試補となった。1903年(明治36年)に検事となり、函館区裁判所、函館地方裁判所、札幌地方裁判所、沼津区裁判所を歴任した。1908年(明治41年)、内務省に転じ、福井県事務官・警察部長、長崎県事務官・警察部長、島根県内務部長を歴任した。 1918年(大正7年)、海軍事務官長・臨時南洋群島防備隊民政部長に任命され、南洋諸島の統治にあたった。 1922年(大正11年)、臨時南洋群島防備隊が廃止され、南洋庁が発足すると、初代長官に就任した。
もっと読む
山崎 延吉(やまざき のぶきち、1873年(明治6年)6月2… 山崎 延吉(やまざき のぶきち、1873年(明治6年)6月26日 - 1954年(昭和29年)7月19日)は、日本の農政家・教育者。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。愛知県立農林学校初代校長。帝国農会幹事。安城市一帯が「日本デンマーク」と呼ばれるほどの農業先進地になったのは、農業改善に力を尽くした山崎の力が大きい。我農生との雅号をもつ。 石川県金沢区(現・金沢市長町1丁目14番地)に生まれる。父親は農業改革指導者二宮尊徳の弟子だった。1894年(明治27年)、第四高等学校卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学農科大学農芸化学科卒業。福島県蚕業学校の教諭に採用される。1899年(明治32年) 5月、大阪府立農学校の教諭に転ずる。
もっと読む
小沼 敬三郎(こぬま けいざぶろう、1873年(明治6年)6… 小沼 敬三郎(こぬま けいざぶろう、1873年(明治6年)6月26日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の政治家、大蔵官僚。津山市長。 1873年6月、現在の岡山県津山市南新座に生まれる。法政大学卒業後、1902年、大蔵省(現財務省)へ入省する。 その後、平沼騏一郎の推薦で、岡山県赤磐、小田郡長となる。1923年には、苫田郡長となる。 1926年11月、苫田郡津山町長となる。津山町、津山東町、西苫田村、二宮村、院庄村、久米郡福岡村との6町村の合併を推進し、1929年2月、津山市が発足した際、市長へ就任した。 就任後、3期にわたり市長を務め、上水道整備、新市庁舎建設など、津山市の礎を築き上げた。
もっと読む
加藤 玄智(かとう げんち、1873年6月17日 - 196… 加藤 玄智(かとう げんち、1873年6月17日 - 1965年5月8日)は、日本の宗教学者。学位は、文学博士。正四位、勲三等、瑞宝章。紫綬褒章。 浄土真宗の僧侶の長男として東京府の浅草に生まれた。1896年に東京帝国大学文科大学哲学科に入学、井上哲次郎らの指導を受け1899年に卒業。その後大学院に進学。学業のほかに、仏教改革を目指し、「仏教清徒同志会」(のち新仏教同志会)に参加した。この「仏教清徒同士会」は高島米峰や境野黄洋らによって作られ、健全な仏教信仰などを掲げた若い在家仏教徒らによる会であった。さらに、仏教を中心に宗教の普及を目指す「宗教研究会」も運営する。 1906年陸軍教授(英語学)に嘱託(士官学校付き、1933年まで)、同年、東京帝国大学文科大学講師嘱託(宗教学)。
もっと読む
井上 治兵衛(いのうえ じへえ、1873年(明治6年)6月1… 井上 治兵衛(いのうえ じへえ、1873年(明治6年)6月13日 - 1956年(昭和31年)1月28日)は、日本の実業家。三井物産代表取締役会長を務めた。 1891年京都市立商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業。1892年三井物産入社。取締役兼横浜支店長兼生糸部長として、バブコック・アンド・ウィルコックスとの合弁での東洋バブコック(のちのバブコック日立)の設立にあたり、同社監査役等を経て、1935年から三井物産会長を務めた。墓所は多磨霊園。
もっと読む
林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日… 林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の数学者、数学史家。京都帝国大学理工科大学助教授、東北帝国大学理科大学教授を務めた。 徳島県生まれ。旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)、第三高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。東京帝国大学では高木貞治・吉江琢児と同期であり、藤沢利喜太郎による「藤澤セミナリー」に参加して、「e及びπの超越に就て」という課題の報告を提出した。 東京帝国大学卒業後に京都帝国大学理工科大学助教授を務めたが、その職を辞し、松山中学校教師や東京高等師範学校講師に就いた。
もっと読む
松永 和一郎(まつなが わいちろう、1873年(明治6年)6… 松永 和一郎(まつなが わいちろう、1873年(明治6年)6月10日 - 1953年(昭和28年))は、日本の政治家。栃木県宇都宮市長を務めた。 栃木県下都賀郡小野寺村(現在の栃木市)出身。1898年(明治31年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1900年(明治33年)に東京市事務員となり市区改正課に勤務していたが、市区改正委員長であった星亨の目に留まり星の法律事務所に移った。その後新聞記者を経て、1903年(明治36年)に再び東京市に入り、市区改正係長となり、主事補に任命された。 1919年(大正8年)9月から1927年(昭和2年)9月まで下都賀郡選出の栃木県会議員を務めた。この間、1919年10月から1920年(大正9年)10月まで県会副議長を、1920年10月から1923年(大正12年)9月まで県会議長を務めた。
もっと読む
戸沢 正保(とざわ まさやす、1873年(明治6年)6月9日… 戸沢 正保(とざわ まさやす、1873年(明治6年)6月9日 - 1955年(昭和30年)3月12日)は、イギリス文学者。東京外国語学校校長。姑射の号でウィリアム・シェイクスピア作品の翻訳を行った。 茨城県に元水戸藩士・菊池庸の二男として生まれ、戸沢正之の養子となった。1899年(明治32年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、大学院に進学した。1902年(明治35年)に山口高等学校教授となり、1907年(明治40年)からは第五高等学校教授を務めた。イギリス留学を経て、再び山口高等学校教授となり、1929年(昭和4年)に弘前高等学校校長に就任した。1932年(昭和7年)、東京外国語学校校長に転じ、1938年(昭和13年)に退官した。
もっと読む
大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - … 大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - 1967年7月28日)は、日本の教育者、哲学者。 秋田県弁天村(現在の湯沢市)出身。1895年に秋田県尋常師範学校を卒業し、横堀尋常高等小学校訓導となる。横堀小学校時代に全国初の父兄会を開いている。その後上京し、巣鴨の東福寺で4年間独学し、この間に新井奥邃と出逢った。 1914年から文部省に勤務し、1915年からドイツに9年間留学した。 帰国後に母校の秋田師範学校で哲学を講義した。 「真人」の語を造り、没後に教え子たちにより真人学会が結成された。
もっと読む
品田 俊平(しなだ しゅんぺい、1873年(明治6年)6月7… 品田 俊平(しなだ しゅんぺい、1873年(明治6年)6月7日 - 1935年(昭和10年)4月14日)は、日本の宗教家。1905年(明治38年)に心教を開教した。心教では「扇下」と呼ばれた。 1873年(明治6年)6月7日、新潟県刈羽郡柏崎町比角2061番にて、父・富八と母・ハステの間に生れる。家は呉服屋であった。両親は熱心な仏教信仰者であり、俊平自身も常に経文を読誦し、礼拝を怠らず、常に学究心と道心とを忘れなかった。 柏崎町比角尋常小学校を卒業後、星野漢学塾で漢学を学び、大道長安や平井天海に就き仏教を修めると同時に、町の道場で剣道の修業を積んだ。その後上京し山口三之助や福来友吉と交わり、その後もしばしば上京しては仏教、儒教、キリスト教、哲学、剣道など各分野の大家のもとを訪れ研究したとされる。
もっと読む
石橋 和(いしばし やわら、1873年(明治6年)6月3日 … 石橋 和(いしばし やわら、1873年(明治6年)6月3日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 福岡県出身。石橋伊三郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1899年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し土木局属となる。 以後、滋賀県参事官、岩手県参事官、埼玉県警部長、埼玉県事務官・第四部長、愛知県事務官・警察部長、福島県事務官・内務部長、岐阜県内務部長、大阪府警察部長、東京府内務部長などを歴任した。 1915年1月8日、佐賀県知事に就任。1917年1月17日、岐阜県知事に転任。美濃九郡の米生産検査制度を実施し、大井川の水利権問題の解決などを行う。
もっと読む
有吉 忠一(ありよし ちゅういち、1873年〈明治6年〉6月… 有吉 忠一(ありよし ちゅういち、1873年〈明治6年〉6月2日 - 1947年〈昭和22年〉2月10日)は、日本の内務官僚。千葉県知事・宮崎県知事・神奈川県知事・兵庫県知事。朝鮮総督府政務総監。横浜市長。貴族院議員。横浜商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、日赤理事も務めた。豊岡県宮津(現・京都府宮津市)生まれ。クリスチャン。父は宮津藩藩士・京都留守居役・郡長の有吉三七。 東京帝国大学法科大学卒業。内務省に入省。1896年 内務省。県治局属。 日本基督教団神戸教会の教会員であり、神奈川県知事時代には関東学院の開設に助力する。 有吉が朝鮮総督府、政務総監だった頃にイギリス人の植民地研究の権威だったアレン・アイルランドが朝鮮を訪れている。
もっと読む
菅又 薫(すがまた かおる、1873年6月2日 - 1950… 菅又 薫(すがまた かおる、1873年6月2日 - 1950年4月26日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(2期)。 栃木県塩谷郡、のちの花岡村(北高根沢村を経て現高根沢町)で、農家・菅又吉松、とき の息子として生まれた。 東京医学専門学校(現東京医科大学)に学び、医師免許を取得後、1907年故郷で病院を開業する(菅又病院)。その後、北高根沢村長、塩谷郡会議員、栃木県会議員などを務める。この間、1932年に北高根沢村の隣の阿久津村(現・高根沢町)で起きた栃木県最大の小作争議(阿久津村事件)の調停に立った。 1942年の第21回衆議院議員総選挙で非推薦で立候補して当選する。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙では日本進歩党から立候補して再選される。
もっと読む
名尾 良辰(なお よしたつ、1873年(明治6年)6月1日 … 名尾 良辰(なお よしたつ、1873年(明治6年)6月1日 - 1967年(昭和42年)11月9日)は、日本の朝鮮総督府・内務・警察官僚。政友会系官選秋田県知事、台南州知事。 佐賀県佐賀郡、後の高木瀬村(現佐賀市)出身。佐賀藩新陰流師範・名尾良知の長男として生まれる。佐賀県佐賀中学校を経て、第五高等学校を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。1901年、内務省に入省し警視庁警部となる。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。1906年5月、内務省試補・地方局勤務となる。 以後、警視庁警視・巡視官、大分県事務官・警察部長、埼玉県事務官・警察部長、秋田県内務部長、青森県内務部長、静岡県内務部長などを歴任。
もっと読む
末光 鉄之助(鐡之助、すえみつ てつのすけ、1873年〈明治… 末光 鉄之助(鐡之助、すえみつ てつのすけ、1873年〈明治6年〉6月 - 1950年〈昭和25年〉5月29日)は、日本の実業家、ジャーナリスト 。関門日日新聞社社長。関門日報社顧問。同盟通信社理事。山口県多額納税者。 閑院宮載仁親王受賞者。日本新聞協会総裁受賞者。 山口県豊浦郡赤間関(現下関市)で同県人・末光貞右衛門の長男として生まれ、1929年に家督を相続する。住所は山口県下関市阿弥陀寺町(赤間神宮の所在地)、山口県在籍。 山口県内の新聞社である馬関物価日報、下関実業日報、関門日日新聞社などの複数の新聞社及び東京等複数の支社の社長等を務める。 中でも、関門日日新聞社は、当時の山口県下では、発行部数トップの新聞社であった。
もっと読む
綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月… 綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月27日 - 1907年(明治40年)9月14日)は、日本の宗教思想家、評論家。 岡山県上房郡有漢村(現高梁市)生まれ。本名・栄一郎。明治23年に岡山の高梁教会で古木虎三牧師より洗礼を受ける。 明治25年(1892年)に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学する。坪内逍遥、大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。 横井時雄の本郷教会や植村正久の一番町教会に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。 肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎、神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復する。
もっと読む
堀内 次雄(ほりうち つぎお/つぐお、1873年〈明治6年〉… 堀内 次雄(ほりうち つぎお/つぐお、1873年〈明治6年〉5月25日 - 1955年〈昭和30年〉5月12日)は、明治から昭和時代の医学者、大日本帝国陸軍軍医。 堀内直学の長男として丹波国多紀郡篠山北新町(現・兵庫県丹波篠山市北新町)に生まれ、1888年(明治21年)7月、家督を相続する。 1894年(明治27年)第二高等学校医学部(現・東北大学医学部)を卒業し、陸軍に入り、三等軍医となる。1896年(明治29年)台北病院医務嘱託、台北県医院医員、台湾総督府医院医員、台湾総督府医学校助教授、同校舍監、同校教授、同医院医長を歴任する。1912年(大正元年)多紀郡出身者として初めて医学博士の学位を授かる。
もっと読む
窪田 四郎(くぼた しろう、1873年5月25日 - 194… 窪田 四郎(くぼた しろう、1873年5月25日 - 1944年9月14日)は、日本の実業家。同じく実業家の内田信也は実弟。 茨城県行方郡麻生町(現:行方市麻生)生まれ。実業家の内田信也は実弟。1896年高等商業学校(現:一橋大学商学部)卒業、三井物産入社。1907年に堺セルロイド(現:ダイセル)専務取締役。1910年北海道炭礦汽船幹事。1913年波佐見鉱業専務取締役。1914年窪田事務所を設立し、南洋諸島との貿易に従事。1918年富士製紙(後の王子製紙)社長。早川電力社長、如水会理事、日魯漁業(現:マルハニチロ)社長などを歴任。1927年東京米穀商品取引所理事長。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
もっと読む
田村 虎蔵(たむら とらぞう、1873年5月24日 - 19… 田村 虎蔵(たむら とらぞう、1873年5月24日 - 1943年11月7日)は、日本の音楽教育家、作曲家。 鳥取県岩美郡馬場村(現・岩美町馬場)に田村重蔵の6人兄弟の末子として出生。体が非常に強健であったことから虎蔵と命名されたとされる。 蒲生小学校、鳥取高等小学校(現・鳥取市立久松小学校)を経て、1892年鳥取県尋常師範学校を卒業。卒業後は因幡高等小学校(現・鳥取市立久松小学校)に赴任するが、同年9月に東京音楽学校に進学。1895年同校を卒業。兵庫県尋常師範学校を経て、1899年東京高等師範学校兼東京音楽学校助教諭。 言文一致唱歌を提唱し、納所弁次郎らと「幼年唱歌」(1900年)「尋常小学唱歌」などを編集。
もっと読む
有賀 光豊(あるが みつとよ、1873年5月23日 - 19… 有賀 光豊(あるが みつとよ、1873年5月23日 - 1949年5月31日)は、日本の官僚。貴族院議員。実業家。 長野県伊那郡南殿村(現上伊那郡南箕輪村)生まれ。 1891年、旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)卒業。1894年、東京法学院(現中央大学)英語法律科卒業。志願兵として近衛野戦砲兵連隊に入隊し、日清戦争従軍後、砲兵少尉で除隊。1897年、高等文官試験に合格して大蔵省主税局に入省。長崎税関監視部長、函館税務署長を経て、1906年に韓国政府に聘用され鎮南浦税関長となり、さらに統監府財政監査官、同書記官・監査部長に就任した。その後、朝鮮総督府書記官・関税課長、京畿道内務部長、同第一部長、度支部税関長、朝鮮総督府参事官・事務官などを歴任。
もっと読む
小畑 大太郎(おばた だいたろう、1873年(明治6年)5月… 小畑 大太郎(おばた だいたろう、1873年(明治6年)5月22日 - 1946年(昭和21年)8月9日)は、明治から昭和前期の銀行家、政治家、華族。貴族院男爵議員、正三位勲三等。弟は陸軍飛行第五連隊長(立川飛行場長)の小畑厳三郎、陸軍三羽烏の小畑敏四郎。 男爵・小畑美稲の長男として東京府(現東京都)に生まれる。1894年(明治27年)に慶應義塾大学を卒業し、第十五銀行に入行。1900年(明治33年)に欧米に留学。1903年(明治36年)にニューヨーク大学商科卒業。ケミカル銀行、カナダ銀行で銀行事務を研究。帰国後、第十五銀行で書記を務めた後、同行副支配人となり、農村経済更生中央委員会委員となる。
もっと読む
林 永太(はやし ながた、1873年5月21日 - 1918… 林 永太(はやし ながた、1873年5月21日 - 1918年4月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山口県出身。1895年、日本法律学校卒。末武南村会議員、都濃郡会議員、山口県会議員、同参事会員、同副議長を務め、周防銀行、記念肥料(株)各取締役、周陽銀行頭取、柳井瓦斯(株)監査役となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において山口県郡部から無所属で立候補して当選した。のち立憲政友会に入り、衆議院議員を1期務めた。1915年の第12回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補したが落選した。1918年に死去した。
もっと読む
桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年〈明治6年〉5月2… 桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年〈明治6年〉5月20日 - 1941年〈昭和16年〉9月10日)は、石川県出身のジャーナリスト、評論家。本名は桐生 政次(きりゅう まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」は、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘したことで知られる。 金沢市にて、貧しい旧加賀藩士の三男として生まれる。旧制第四高等学校では小学校以来の同級生徳田秋声と親交を深め、1892年(明治25年)には小説家を志して共に退学・上京するなどもあったが失敗し帰郷、1895年(明治28年)にあらためて東京法科大学政治学科(現在の東大法学部)に入学、穂積八束、一木喜徳郎に学ぶ。
もっと読む
庄司 乙吉(しょうじ おときち、1873年〈明治6年〉5月1… 庄司 乙吉(しょうじ おときち、1873年〈明治6年〉5月18日 - 1944年〈昭和19年〉11月10日)は、日本の実業家である。東洋紡績の社長を務めた。 秋田県の生まれ。1897年(明治30年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒業後、大日本綿糸紡績同業連合会に入りインドのボンベイ(現在のムンバイ)駐在員や書記長を歴任した。1912年(大正元年)には大阪紡績に転勤し支配人を務め、1917年(大正6年)からは東洋紡績に社名変更し取締役や副社長も務める。1919年(大正8年)には第1回国際労働会議に出席したカネボウ(現在のクラシエホールディングス)の社長を務めた武藤山治の顧問を務めるために渡米したが、帰国後の1923年(大正12年)にアナキズム運動に関わった「ギロチン団」に狙撃される。
もっと読む
三室戸 敬光(みむろど ゆきみつ、1873年(明治6年)5月… 三室戸 敬光(みむろど ゆきみつ、1873年(明治6年)5月18日 - 1956年(昭和31年)10月31日)は、日本の華族、宮内官、政治家。明治法律学校(現:明治大学)卒業。子爵。1925年(大正14年)から貴族院議員(会派は研究会)に互選。宮中顧問官。三室戸家9代当主。 京都で三室戸治光の子として誕生。1898年(明治31年)7月、明治法律学校を卒業し、宮内省へ奉職。1904年(明治37年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、宮内属に任官し、帝室会計審査官、内匠寮主事、内匠寮工務課長、皇后宮主事・会計課長、主猟頭などを歴任し、1921年(大正10年)10月、宮中顧問官に就任した。
もっと読む
石井 露月(いしい ろげつ、1873年(明治6年)5月17日… 石井 露月(いしい ろげつ、1873年(明治6年)5月17日) - 1928年(昭和3年)9月18日)は、日本の俳人。本名は祐治。 秋田県河辺郡女米木(めめき)の農家石井常吉の二男として生まれる。幼時に祖父与惣右衛門から実語教を口伝で習って覚えた。祖父はまた発句もよくしたので、それも覚えた。少年時代はとにかく読書欲旺盛で、川向かいの村落に小舟で渡り本を借りてきて読んでいたという。高麓小学校では成績優秀で、文部省から賞品に論語の本を贈られるほどであった。また、12歳頃から既に盤虎・李花園・雲城・芥郎などと号して文筆に親しんでいた。 1888年(明治21年)秋田中学校に入学。中学時代は江帾澹園に漢詩漢籍を習い創作の添削指導も受けるなどしていたが、脚気を患い3年で退学。
もっと読む
橋本 正治(はしもと まさはる、1873年(明治6年)5月1… 橋本 正治(はしもと まさはる、1873年(明治6年)5月17日 - 1956年(昭和31年)10月8日)は、日本の内務官僚、政治家。北海道札幌市長、山口県知事、鹿児島県知事、呉市長、札幌観光協会長。札幌市栄誉市民。旧姓・吉田。 福井県吉田郡円山西村(現在の福井市)出身。吉田伝七の二男として生まれ、のち橋本久と結婚し橋本と改姓。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。高等文官試験に合格して内務省に入省。北海道勧業部長、山口県知事、鹿児島県知事などを経て1927年、札幌市長に就任。1937年、札幌市長を退任した。後任は三沢寛一。 市長在任中は上下水道事業の推進、札幌市営バスの運行開始などを行った。
もっと読む
属 最吉(さっか さいきち、旧姓・井上、1873年〈明治6年… 属 最吉(さっか さいきち、旧姓・井上、1873年〈明治6年〉5月15日 - 1965年〈昭和40年〉12月24日)は、日本の実業家。三井鉱山(現・日本コークス工業)元取締役。日本石油監査役。族籍は山口県士族。宇部興産元副社長の俵田寛夫は次男、衆議院議員の林芳正は曽孫にあたる。 山口県吉敷郡東岐波村(現・宇部市)出身。井上哲蔵の二男。1895年、山口高等学校を卒業した。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。 三井鉱山会社に入り総務部長、三池鉱業所長、三池染料工業所長を経て三井鉱山取締役。また小倉石油、三井化学、東洋高圧各取締役、日本石油、三池窒素工業、東洋高圧工業、日本亜鉛工業各監査役などをつとめた。
もっと読む
岡田 機外(おかだ きがい、明治6年(1873年)5月15日… 岡田 機外(おかだ きがい、明治6年(1873年)5月15日 - 昭和24年(1949年)5月)は、日本の俳人。本名は鉄蔵。 鳥取県法美郡宇倍野村奥谷(現鳥取市国府町奥谷)に、秋田治三郎の二男として生まれる。 明治20年(1887年)、気多郡鷲峰村(現鳥取市鹿野町鷲峰)の岡田権九郎の養子となる。 明治21年(1888年)から俳句を始め、明治24年(1891年)に俳誌「鹿野苑」を創刊。明治25年(1892年)には上京し、阿心庵永機に師事して華峰庵機外と号した。 明治27年(1894年)に立机を許され、その後、俳誌「稲葉の光」を創刊したり、鷲峰吟社を主催するなど、数多くの俳誌の選者として全国的に活躍した。
もっと読む
伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14… 伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14日 - 1951年(昭和26年)9月15日)は、明治後期から昭和前期の海軍軍人、政治家、華族。海軍造機少将、貴族院男爵議員。 東京府出身。海軍士官・伊藤雋吉の長男として生まれる。父・雋吉の死去に伴い、1921年(大正10年)5月10日、家督を相続し男爵を襲爵した。 1898年(明治31年)10月、海軍造船学生となり、1899年(明治32年)6月、東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。同年6月、海軍造船中技士に任官し横須賀海軍造船廠造機科主幹に就任。以後、艦政本部部員、造船監督官、舞鶴海軍工廠造機部長、艦政局第三課長などを歴任し、1917年(大正6年)6月、横須賀海軍工廠造機部長に就任。
もっと読む