塩田 奥造(鹽田、しおだ おくぞう、1849年11月29日(… 塩田 奥造(鹽田、しおだ おくぞう、1849年11月29日(嘉永2年10月15日) - 1927年(昭和2年)2月6日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 下野国都賀郡、のちの栃木県下都賀郡吹上村(現栃木市吹上町)で、郷士、大庄屋・塩田嘉門の長男として生まれる。吹上藩の明倫学校で学んだ。 1871年(明治4年)廃藩置県に際して事務取扱となる。以後、吹上外三十二カ村区長、下都賀郡学区取締などを務めた。1880年(明治13年)11月、横堀三子と共に芳賀郡外の総代として国会開設請願書を提出し、同年12月、栃木県会議員に選出され、1882年(明治15年)7月、常置委員に就任。1884年(明治17年)加波山事件では犯人逃亡幇助の罪で検挙され六箇月入獄した。
越智 彦四郎(おち ひこしろう、嘉永2年10月12日(184… 越智 彦四郎(おち ひこしろう、嘉永2年10月12日(1849年11月26日) - 明治10年(1877年)5月1日)は、幕末の筑前福岡藩士、勤皇家、自由民権運動家。 福岡藩士・井土佐平太の次男として生まれる。藩校修猷館に学ぶ。維新後に分家し越智姓を名乗る。 戊辰戦争では皇軍の福岡藩軍に属し、大砲隊長・根本源五左衛門のもとで東北地方に転戦し功を挙げ、賞典禄を受ける。その後、高場乱の興志塾に学び、ここで同志となる武部小四郎や、後に玄洋社を設立する箱田六輔、進藤喜平太、奈良原至、宮川太一郎、頭山満らと出会う。 1874年2月、江藤新平が挙兵した佐賀の乱に際し、博多に来ていた内務卿大久保利通に面会して調停を申し出たが、かえって大久保と児玉源太郎に鎮撫行動を要請され、政府軍の鎮撫隊の小隊長として箱田、宮川ら450名余を率いて佐賀に入った。
家永 芳彦(いえなが よしひこ、1849年11月24日(嘉永… 家永 芳彦(いえなが よしひこ、1849年11月24日(嘉永2年10月10日) - 1913年(大正2年)8月5日)は、明治から大正時代の政治家、弁護士。自由民権運動家。新聞経営者。衆議院議員(3期)。 佐賀藩士。肥前国佐賀郡西田代町(現佐賀市)生まれ。安政3年(1856年)に藩校弘道館に入り漢学を修める。戊辰戦争に従軍し奥羽で戦傷を受けた。明治維新後、佐賀藩中学校(のち佐賀中学校、現・佐賀県立佐賀西高等学校)寮監を務めたのち明治5年(1872年)上京、江藤新平宅に寄寓し、漢学およびドイツ語を修めた。江藤と共に帰郷後、明治7年(1874年)の佐賀の乱で戦った。その後、兄の家永恭種が同志と共に興した政治結社「松風社」に参加し民権の発揚を訴え、明治8年(1875年)同社の長崎支社の支社長となり、1878年(明治11年)長崎上等裁判所より代言人の免許を得る。
原田 二郎(はらだ じろう、嘉永2年10月10日〈1849年… 原田 二郎(はらだ じろう、嘉永2年10月10日〈1849年11月24日〉 - 昭和5年〈1930年〉5月5日)は、日本の実業家・篤志家。伊勢国松阪(現・三重県松阪市)出身。公益財団法人原田積善会の創設者。歌人としての号は原田嘉朝、詩人としての号は原田均斎。 嘉永2年10月10日(1849年11月24日)、伊勢国松阪城下の同心町(現・三重県松阪市殿町)に生まれた。父は東谷小平次の四男である清一郎、母は田中彦左衛門の長女である時雨子であり、いずれも原田家に養子に入った人物である。幼名は徳松であり、上京する頃までこの名前を用いた。原田家は下級武士の家であるが、徳松は文武両道に秀でており、14歳だった文久2年(1862年)には松阪学問所から褒章を受けている。
浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1… 浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1849年11月24日) - 昭和13年(1938年)2月27日)は幕末期日本の武士(松本藩士)、明治から昭和初期にかけての教育者。若い時代には自由民権運動家としての活動があった。また、現在でも長野県で広く歌われている県歌「信濃の国」の作詞者として知られる。 旧制中学教員などをへて、1886年(明治19年)長野師範学校教諭となる。1899年(明治32年)『信濃教育会雑誌』に「信濃の国」を発表、北村季晴の作曲により県下で広く歌われるようになる。1918年(大正7年)に70歳で退職するまで長野師範教諭を務め、さらに嘱託として1926年(大正15年)6月まで40年間にわたって師範教育に尽くした。
左右田 金作(そうだ きんさく、1849年11月23日(嘉永… 左右田 金作(そうだ きんさく、1849年11月23日(嘉永2年10月9日) - 1915年(大正4年)3月26日)は、幕末から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。開港した横浜で両替商を始めて成功し、銀行を興した。 越後の豪農を祖とする左右田金兵衛の二男として、上野国緑野郡鬼石村(群馬県緑野郡鬼石町、多野郡鬼石町を経て現藤岡市鬼石)に生まれる。左右田信二郎の義兄。1872年(明治5年)1月、分家する。 高崎の染絹問屋、鬼石の酒造業者などで奉公したのち、1863年(文久3年)13歳の時、横浜に移り、蚕糸商中里商店で働いたが製糸家を目指して帰郷するも種紙の製造に失敗し、再び横浜に出て、空びん回収や露天商で糊口をしのぐうち、衣類の質入れで作った金で1867年に両替商(ドル屋)「松野屋」を開く。
高木 兼寛(たかき かねひろ、嘉永2年9月15日〈1849年… 高木 兼寛(たかき かねひろ、嘉永2年9月15日〈1849年10月30日〉 - 大正9年〈1920年〉4月13日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍軍医総監(少将相当)。医学博士。男爵。東京慈恵会医科大学の創設者。 生誕の地である宮崎では「ビタミンの父」と紹介している。また、「よこすか海軍カレー」では、脚気対策として海軍の兵食改革を行った際にカレーを取り入れた人物とみなしている。 薩摩藩郷士・高木喜助兼次の長男として日向国諸県郡穆佐郷(現:宮崎県宮崎市高岡町小山田)に生まれた。通称は藤四郎。穆園と号した。 18歳のときから薩摩藩蘭方医の石神良策に師事し、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。
12代 上柳 喜右衛門(うえやなぎ / うえやぎ きうえもん… 12代 上柳 喜右衛門(うえやなぎ / うえやぎ きうえもん、1849年10月26日(嘉永2年9月11日)- 1923年(大正12年)9月2日)は、日本の地主・実業家・政治家。衆議院議員、長野県下伊那郡飯田町長。旧名・久嗣、幼名・益太郎。 信濃国伊那郡飯田伝馬町(長野県下伊那郡飯田町を経て現飯田市伝馬町)で、酒造業・10代上柳喜右衛門の二男として生まれる。和漢学、算術を修めた。兄・喜一(久休〈ひさしげ〉、11代喜右衛門)の養子となり、その後、12代喜右衛門を襲名した。 1879年(明治12年)飯田町会議員に選出され(8期在任)、1891年(明治24年)下伊那郡会議員(2期在任)、1899年(明治32年)飯田町長(2期在任)にそれぞれ選出された。
稲垣 示(いながき しめす、嘉永2年8月20日(1849年1… 稲垣 示(いながき しめす、嘉永2年8月20日(1849年10月6日) - 明治35年(1902年)8月9日)は、明治時代の政治家。衆議院議員。幼名は恒太郎。号は虎岳(こがく)。 越中国射水郡棚田村(後に富山県射水郡二口村、大門町を経て現在の射水市)出身。野上文山らに学び、明治維新後は新川県小学校教員講習所・石川県農業講習所に学ぶ。 板垣退助に呼応して自由民権運動に参加して、明治13年(1880年)に愛国社第4回大会に参加、高岡にて政治結社「北立社」を結成する。翌年の自由党結成に参加、明治15年(1882年)1月には北立社を自由党支部である「北立自由党」へ改組して瑞龍寺において結党大会を開いた。
山内 吉郎兵衛(吉郎兵衞、やまうち きちろべえ、1849年1… 山内 吉郎兵衛(吉郎兵衞、やまうち きちろべえ、1849年10月4日〈嘉永2年8月18日〉 - 1927年〈昭和2年〉8月21日)は、日本の弁護士。政治家、衆議院議員(1期)。諱は春正。 備後国恵蘇郡本郷村(のち広島県比婆郡山内西村、現・庄原市)生まれ。国学と仏学を学ぶ。村吏、広島藩御用掛、戸長、学区取締、地租改正郡代議員、小区及び村総代、地租改正郡米価選定委員を経る。また、代言人となる。広島県会議員、同副議長、同議長、地方衛生委員、検疫委員を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において広島9区からで自由党公認で立候補したが17票差で落選した。同年8月の第6回衆議院議員総選挙で憲政党から立候補して当選する。
松永 雄樹(まつなが ゆうじゅ、嘉永2年8月18日(1849… 松永 雄樹(まつなが ゆうじゅ、嘉永2年8月18日(1849年10月4日) - 大正15年(1926年)11月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将正四位勲二等功四級。高知県平民。 戦国武将松永久秀の末裔。 土佐国高岡郡新居村(現高知県土佐市)で生まれた。松永眞斎の二男。 1874年(明治7年)11月、海軍兵学校(海軍兵学寮、2期)を卒業し、少尉補任官。1890年(明治23年)「海門」艦長となり、以後、海軍省第1局第2課長、軍務局第1課長などを歴任し日清戦争を迎えた。 1895年(明治28年)、「松島」艦長に着任し、さらに「厳島」艦長、「鎮遠」艦長、呉鎮守府司令官、駐英造兵監督長、佐世保鎮守府艦隊司令官、横須賀鎮守府艦政部長、海軍教育本部長を歴任した。
大久保 諶之丞(おおくぼ じんのじょう、1849年10月2日… 大久保 諶之丞(おおくぼ じんのじょう、1849年10月2日(嘉永2年8月16日) - 1891年(明治24年)12月14日)は、明治期日本の政治家。明治初期に四国新道(現在の国道32号、国道33号等の前身)・香川用水・瀬戸大橋を提唱したことで知られる。 尽誠学園の創始者大久保彦三郎は実弟。 1849年10月2日(嘉永2年8月16日)、讃岐国三野郡財田上村戸川(現在の香川県三豊市財田町財田上字戸川)の大地主であった大久保森冶の三男として生まれる。1872年(明治5年)5月財田村吏員、その後郡吏員等を経て、1888年(明治21年)に愛媛県会議員、翌年、香川県が愛媛県から分離したことに伴い香川県会議員となる。
池田 惟貞(いけだ これさだ、1849年9月26日(嘉永2年… 池田 惟貞(いけだ これさだ、1849年9月26日(嘉永2年8月10日) - 1929年(昭和4年)10月1日)は、明治から大正期の養蚕家、政治家。衆議院議員(3期)。旧姓・溝口。 薩摩国出水郡出水郷武本村(鹿児島県出水郡上出水村、出水町を経て現出水市武本)で、薩摩藩郷士・溝口庄兵衛の四男として生れ、1866年(慶応2年)池田家の養嗣子となった。漢学を修めた。蚕糸業に従事する。 戊辰戦争後、大阪に留まっていたが帰藩を命ぜられた。1869年(明治2年)郷立撥奮館の教師となる。出水郡役所書記などを経て、1881年(明治14年)4月、鹿児島県会議員に選出され4期在任し、同副議長、地方森林会議員も務めた。
北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永… 北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永2年8月5日)- 1905年(明治38年)7月26日)は、幕末の米沢藩士、明治期の裁判官・検察官。官選岩手県知事。位階は従四位、勲等は勲三等。旧名・河村徳次。 出羽国置賜郡米沢館山口町(現:山形県米沢市)で米沢藩士・河村徳友の二男として生まれ、万延元年(1860年)北条源四郎と「はる」の養子となる。戊辰戦争では、振勇隊士官として板谷峠防禦陣地の構築に従事した。 明治4年(1871年)上京して築地の明治協會学院に入学しドイツ語を学ぶ。明治政府に出仕し、明治5年4月4日(1872年5月10日)東京府権区長に就任。その後、警視庁で権中警部などを務めた。
石坂 専之助(專之助、いしさか / いしざか せんのすけ、1… 石坂 専之助(專之助、いしさか / いしざか せんのすけ、1849年9月14日(嘉永2年7月28日)- 1915年(大正4年)10月6日)は、明治期の教育者、公吏、政治家。衆議院議員、富山県会議長。旧姓・嵯峨。 越中国新川郡東岩瀬村(石川県新川郡東岩瀬村、富山県上新川郡東岩瀬町を経て現富山市)の伝馬問屋・嵯峨健寿の三男として、金沢十三間町(現金沢市)で生まれた。その後、新川郡栗山村(中新川郡早月加積村栗山、滑川町を経て現滑川市 )の石坂太郎左衛門の養子となる。 1869年(明治2年)大学南校に入学。卒業後、大学少助教、慶應義塾教授、文部省出仕、同人社教授を歴任したが、1877年(明治10年)病のため帰郷した。
田中 数之助(數之助、たなか かずのすけ、1849年9月10… 田中 数之助(數之助、たなか かずのすけ、1849年9月10日(嘉永元年8月13日)- 1924年(大正13年)4月7日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、京都府南桑田郡亀岡町長。旧姓・原田。 丹波国桑田郡西条村(京都府南桑田郡曽我部村字西条を経て現亀岡市曽我部町西条)で、大地主、農業・原田八六の二男として生まれる。1869年(明治2年4月)桑田郡亀岡北町(現:亀岡市北町)の田中蔵一の養子となり、1872年(明治5年2月)分家して安町(現:亀岡市安町)に一家を構えた。 その後、通称「新酒屋」と称される酒造業を営み、銘酒「天狗」の販売で知られた。1888年(明治21年)南桑田郡酒造組合長に就任し31年間在任。
北原 信綱(きたはら のぶつな、嘉永2年9月(1849年) … 北原 信綱(きたはら のぶつな、嘉永2年9月(1849年) - 明治34年(1901年)11月4日)は、日本の政治家(衆議院議員、長野県会議員)。初名は森太郎、通称は東五郎、諱は信允。 信濃国伊那郡座光寺村(現長野県飯田市)の庄屋北原稲雄の長男に生まれる。父に倣い、平田篤胤の没後門人となる。明治元年(1868年)の戊辰戦争では鎮撫副総督澤為量に従軍して奥羽地方を転戦した。翌年帰郷し、官軍から太刀一振りと金若干を賜り、信濃飯田藩主堀親広から士族に列せられた。同6年(1873年)村戸長、学校学事掛となり、同9年(1876年)名古屋裁判所に出仕し、翌年(1877年)山梨県属となったが、辞職し帰郷した。
大平 安三(おおひら やすぞう、1849年9月または10月(… 大平 安三(おおひら やすぞう、1849年9月または10月(嘉永2年8月)- 1915年)は、日本の地方政治家。東京都八王子市の前身に当たる東京府(1893年3月までは神奈川県)八王子町長を務めた。 1893年に刊行された『三多摩人物評』によると、嘉永2年(1849年)8月に八王子八日町の旧家に生まれ、通称を新造と称した。漢学のほか、井上頼圀に国学を学んだとされる。慶応の時期には農兵の小隊を率いたという。華道や茶道、狂歌に通じ、一時期は家督を嗣子に譲っていたが、1877年に小区の総代に任命された。1884年に町会議員となる。 1891年12月26日、平林定兵衛の後を継いで第2代町長になる。 在任中の1893年4月に、八王子町が所属していた南多摩郡を含む三多摩地域は神奈川県から東京府に移管された。
多勢 亀五郎(たせ かめごろう、1849年8月31日(嘉永2… 多勢 亀五郎(たせ かめごろう、1849年8月31日(嘉永2年7月14日)- 1919年(大正8年)6月9日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。蚕糸業功労者。山形県における機械製糸業の先駆者であり、世界的人気を博した生糸ブランド「羽前エキストラ」の生みの親として知られる。 出羽国置賜郡漆山村(山形県東置賜郡漆山村、宮内町を経て現・南陽市漆山)で、資産家である3代目・多勢長兵衛の三男として生まれる。1858年(安政5年)2月に分家した。 明治維新後、日本の主要輸出品であった生糸の品質向上のため、兄の4代目・多勢長兵衛とともに先進技術の導入に奔走する。1872年(明治5年)に設立された官営の富岡製糸場を視察して機械製糸の技術を習得し、1873年(明治6年)には漆山に初の機械製糸工場を建設した。
磯部 亀吉(いそべ かめきち、嘉永2年7月10日(1849年… 磯部 亀吉(いそべ かめきち、嘉永2年7月10日(1849年8月27日) - 明治26年(1893年)11月29日)は、明治時代、滋賀県旧神崎郡(のちの八日市市、現在の東近江市)選出の県会議員。 磯部家は神崎郡上中村(現在の東近江市建部上中町)では裕福な家であった。明治21年11月から明治25年の間、県会議員に選出されている。上中村戸長から明治22年6月に建部村初代村長に就任する。当時の制度では村長は官吏ではなく官からの給与は支払われていなかった。 旧八日市市域選出の県会議員は市の規模と比較して少ないのは否めない。これは、当地域では政治性が希薄であったことによる。そういった中、磯部亀吉は当地域選出の議員としては非常に活躍した議員であった。
白井 久井(しらい ひさい、嘉永2年7月8日(1849年8月… 白井 久井(しらい ひさい、嘉永2年7月8日(1849年8月25日) - 大正元年(1912年)9月10日)は、婦人運動家、庄内婦人会会長。出羽国庄内(現在の山形県鶴岡市)出身。
塩川 幸次郎(しおかわ こうじろう、1849年8月8日〈嘉永… 塩川 幸次郎(しおかわ こうじろう、1849年8月8日〈嘉永2年6月20日〉 - 没年不明)は、日本の銀行家、篤農家、長野県の大地主、長野県多額納税者。佐久銀行監査役。族籍は長野県平民。 長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)出身。長野県平民・塩川幸左衛門の長男。阿部四之助、塩川幸太、塩川賢三、塩川三四郎の叔父である。農業を営み、大地主である。1887年、家督を相続する。佐久銀行監査役である。住所は長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
古屋 善造(ふるや ぜんぞう、1849年8月6日(嘉永2年6… 古屋 善造(ふるや ぜんぞう、1849年8月6日(嘉永2年6月18日) - 1910年(明治43年)1月5日)は、明治時代の政治家、大地主、岐阜県多額納税者。衆議院議員(岐阜県郡部選出、当選1回)。岐阜県恵那郡大井村長、大井町長。族籍は岐阜県平民。 美濃国恵那郡、のちの岐阜県恵那郡大井町(現恵那市)に生まれる。尾張明倫堂に入り、漢学を学ぶ。 農業を営み、学区取締、恵那郡書記、岐阜県会議員、大井村長、大井町長などを務めた。 1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。中正倶楽部に所属した。
10代 桜井 三郎右衛門(櫻井 三郎右衛門、さくらい さぶろ… 10代 桜井 三郎右衛門(櫻井 三郎右衛門、さくらい さぶろうえもん、1849年7月31日〈嘉永2年6月12日〉 - 1908年〈明治41年〉1月27日)は明治時代の政治家、実業家、島根県の大地主。貴族院多額納税者議員。旧姓は神田。諱は直達。族籍は島根県平民。 出雲国神門郡下古志村(現・島根県出雲市下古志町)出身。神田猪蔵の三男。仁多郡上阿井村(現・奥出雲町上阿井)・桜井源兵衛の養子となる。 家業の製鉄は明治10年代に入ると、洋鉄の流入その他により経営が次第に苦しくなり、秦、絲原、田部の各鉄師と連盟して島根県に対して鉄山炉の経営資金拝借方を願い出たが、聞き入れられなかった。これにくじけず、施設の近代化に努力し地方製鉄業の模範となる改革を行う。
佐藤 正(さとう ただし、嘉永2年6月1日(1849年7月2… 佐藤 正(さとう ただし、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 大正9年(1920年)4月27日)は、明治時代の陸軍軍人。階級は陸軍少将、位階は従二位功四級。広島県広島市出身。広島県平民。歩兵第18連隊長、第3代広島市長、宮中顧問官等を歴任する。
栗村 左衛八(くりむら さえはち、嘉永2年6月1日(1849… 栗村 左衛八(くりむら さえはち、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 昭和4年(1929年)5月17日)は、日本メソジスト教会の最初の日本人伝道者の一人、後に同教団の牧師。会津藩士。1878年(明治11年)6月12日日本最初のキリスト教式結婚式を挙げた人物として知られる。 会津藩士荒木進三郎の次男として会津若松に生まれる。1864年(元治元年)に栗村家を継ぐ。1868年(慶応4年)会津戦争に従軍する。東京で謹慎処分を受けた会津藩士の一人として名前が載っている。 1873年(明治6年)の廃藩置県の後で、横浜に行き蓮卒(警察官)になる。横浜で教会に行き、キリスト教に回心する。 1875年(明治8年)にロバート・S・マクレイに就いて神学を治める。
松本 正友(まつもと まさとも、1849年7月19日(嘉永2… 松本 正友(まつもと まさとも、1849年7月19日(嘉永2年5月30日) - 1916年(大正5年)8月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 石見国美濃郡虫追村(のち島根県美濃郡中西村、現・益田市)生まれ。漢学を学ぶ。1868年、津和野藩より庄屋に任ぜられ、のち、戸長となる。島根県会議員、虫追村会議員、村連合会議員、郡所得税調査委員、日本赤十字社地方委員、同島根支部幹事、徴兵参事員、所得税調査委員、島根県会副議長、中西村農会長、同村会議員、日本赤十字社正社員となる。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において島根5区から自由党公認で立候補して落選した。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙で自由党から立候補したが落選。
各務 平七(かがみ へいしち、1849年7月13日(嘉永2年… 各務 平七(かがみ へいしち、1849年7月13日(嘉永2年5月24日) - 1916年(大正5年)11月16日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。 美濃国土岐郡笠原村(岐阜県土岐郡笠原村、笠原町を経て現多治見市)に生まれる。岐阜県会議員を歴任した。 1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
加太 邦憲(かぶと くにのり、嘉永2年5月19日(1849年… 加太 邦憲(かぶと くにのり、嘉永2年5月19日(1849年7月8日)- 昭和4年(1929年)12月4日)は戦前日本の司法官僚、政治家。桑名藩士、大津始審裁判所長、京都始審裁判所長、大阪控訴院長、貴族院勅選議員。初名は三治郎、後に縫殿介。実名は孝基。号は吉甫、白鷹。 幕末に桑名藩士として生まれた。禁門の変後、桑名藩の京都警備に当たったが、この時フランス兵学を学んだことを契機として、洋学を志した。東京に遊学し、村上英俊私塾、大学南校等を経て司法省明法寮に入学し、ボアソナード等に最新のフランス法を学び、第1期生として卒業した。 卒業後しばらく東京法学校に留まった後、フランス、ドイツに留学し、帰国後大津始審裁判所長、京都始審裁判所長、大阪控訴院長を歴任した。
戸村 義得(とむら よしあり、1849年7月7日〈嘉永2年5… 戸村 義得(とむら よしあり、1849年7月7日〈嘉永2年5月18日〉 - 1906年〈明治39年〉3月26日)は、戸村家16代、幕末の出羽久保田藩の横手所預(横手城代 第12代)、第四十八国立銀行初代頭取。通称は秀雄、大学。号は棠堂、茶顚、静学軒。 佐竹氏一門・戸村家の宗家で、父は戸村義效。1849年(嘉永2年)、横手に生まれる。父が久保田藩家老となるにあたり、1868年(明治元年)8月3日に横手所預(城代)を譲られる。戊辰戦争(秋田戦争)では横手城に攻め寄せる奥羽越列藩同盟軍に対し、本藩や奥羽鎮撫総督府からの援軍がない中、19歳にして籠城し戦うが、力及ばず落城した(横手の戦い)。 1879年(明治12年)、第四十八国立銀行(のちの秋田銀行)創立にともない、発起人の一人として頭取に就任した(翌年退任し取締役に)。
加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(184… 加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(1849年6月21日) - 昭和10年(1935年)6月17日)は、幕末の会津藩士、明治時代の地方官吏、警察官、教育者、銀行家である。号は六石。 若松城下に生まれる。藩が戊辰戦争に敗れたのち、青森中学の助教となる。次いで警察官となり、千葉県警察署長に就任。明治9年(1876年)、同藩出身の永岡久茂らが萩の乱に呼応して挙兵を図り千葉へ向う途中で乱闘となり検挙された(思案橋事件)。これは千葉に加藤ら会津藩出身の警察官がいたため、永岡は加藤らの協力を期待して千葉での挙兵を計画したといわれる。 翌年生起した西南戦争において加藤は抜刀隊小隊長となり歴戦している。
上村 彦之丞(かみむら ひこのじょう、嘉永2年5月1日(18… 上村 彦之丞(かみむら ひこのじょう、嘉永2年5月1日(1849年6月20日) - 大正5年(1916年)8月8日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。従二位勲一等功一級男爵。あだ名は「船乗り将軍」。
阿部 泰蔵(あべ たいぞう、嘉永2年4月27日(1849年5… 阿部 泰蔵(あべ たいぞう、嘉永2年4月27日(1849年5月19日) - 大正13年(1924年)10月22日)は、幕末 - 明治期の武士、実業家、官僚。日本初の生命保険会社明治生命保険(現明治安田生命保険)の創立者(初代頭取、初代会長)として知られる。従五位勲四等旭日小綬章。 三河国吉田藩(維新後豊橋藩)の藩医豊田鉉剛の三男として八名郡下吉田村(現・愛知県新城市)に生まれ、1860年(万延元年)同藩の医師・阿部三圭の養子となる。儒学者を目指し漢詩を小野湖山に、橋本一斎に蘭学を学んだ後藩命を受けて江戸に上り、開成所教授・杉田玄瑞、穂積清軒、中島三郎助に蘭学を学んだ。1868年(慶応4年)に鉄砲洲の慶應義塾に入学するが、戊辰戦争に際して藩命により帰藩し、各地に転戦。
金光萩雄(こんこう はぎお、嘉永2年4月25日(1849年5… 金光萩雄(こんこう はぎお、嘉永2年4月25日(1849年5月17日) - 大正8年(1919年)12月17日)は、金光教の初代管長。 嘉永2年(1849年)4月25日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。赤沢文治(金光大神)登勢(とせ)の4男。幼名は、茂平(もへい)、後に石之丞(いしのじょう)と改められる。 慶応2年(1866年)10月11日、浅尾藩有志組に志願して名字帯刀を許され、明治元年(1868年)11月1日金光山神(こんこうさんじん)の神号を授けられた。 明治8年(1875年)古川参作の長女ゆきと結婚、三男二女をもうけた。 父、金光大神の布教を助けるため、教導職の資格を取り佐藤範雄らと共に金光教公認活動の中心となった。
小倉 信近(おぐら のぶちか、1849年5月14日(嘉永2年… 小倉 信近(おぐら のぶちか、1849年5月14日(嘉永2年4月22日)- 1926年(大正15年)10月1日)は、明治期の政治家、官僚。衆議院議員、官選県知事。 出羽国南置賜郡米沢上花沢中町において米沢藩士の家に生まれる。明治5年(1872年)、海軍少尉となる。1876年、愛知県三等警部に転じた。以後、石川県警部長、徳島県警部長、青森県警部長、検事、警視庁警視、警視総監官房第一部長などを歴任。 1896年4月、福島県知事に就任。同年12月に同知事を退任。1897年6月14日、台湾嘉義県知事に就任し、1898年3月15日まで在任した。 1898年8月、第6回衆議院議員総選挙に山形県第二区から憲政党に所属して出馬し当選。
濱尾 新(はまお あらた、1849年5月12日〈嘉永2年4月… 濱尾 新(はまお あらた、1849年5月12日〈嘉永2年4月20日〉- 1925年〈大正14年〉9月25日)は、日本の文部官僚、政治家。旧豊岡藩士。位階勲等爵位は従一位勲一等子爵。 文部省専門学務局長、元老院議官、第8代東京帝国大学総長、文部大臣、高等教育会議議長、東宮大夫、貴族院議員、枢密顧問官、枢密院副議長・議長、内大臣を歴任した。 嘉永2年4月20日(グレゴリオ暦1849年5月12日)、但馬豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として、豊岡(現在の兵庫県豊岡市)に生まれる。初名は貞次郎。 1869年(明治2年)9月に藩費遊学制度により、21歳で芝新銭座慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に入学する。同窓に、中上川彦次郎、村尾真一、吉村寅太郎、矢野文雄、藤野善蔵、魔野巻蔵、秋山恒太郎、名児耶六都、小林雄七郎、城泉太郎、森下岩楠、坪井仙次郎、後藤牧太、鮫島武之助、日高壮之丞、近藤良薫、田尻稲次郎、穂積寅九郎、永田健助、中村貞吉など)慶應義塾に在学中、慶應義塾の派遣教員となって一時高島学校(藍謝堂)に赴任する。
安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日(1… 安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 昭和9年(1934年)11月30日)は日本の武士(福岡藩士)、戦前の政治家、実業家。貴族院議員、衆議院議員。大正9年(1920年)1月13日、男爵授爵。勲三等瑞宝章。地方財閥・安川財閥の創始者であり、国士的な実業家として知られる。号は撫松。
神野 金之助(かみの きんのすけ、1849年5月7日(嘉永2… 神野 金之助(かみの きんのすけ、1849年5月7日(嘉永2年4月15日) - 1922年(大正11年)2月20日)は、尾張国海西郡江西村(現・愛知県愛西市江西町)出身の実業家。 愛知県豊橋市の神野新田(じんのしんでん)を開拓した功績で知られる。神野家はもともと「じんの」と発音していたが、大正初期頃に「かみの」に改めた。 嘉永2年(1849年)、尾張国海西郡江西村(現・愛知県愛西市江西町)に豪農の神野金平とマツ子の五男として生まれた。元治元年(1864年)に神野家の家督を相続し、苗字帯刀が許された。 1873年(明治6年)、江西村ほか九か村戸長に就任した。1876年(明治9年)、名古屋において兄である富田重助の紅葉屋の経営に参加した。
広瀬 和育 (ひろせ わいく、嘉永2年4月14日(1849年… 広瀬 和育 (ひろせ わいく、嘉永2年4月14日(1849年5月6日) - 大正14年(1925年)4月29日)は、山梨県の名望家。貴族院議員、第十銀行頭取。号は梧邨、東田外史。 甲斐国巨摩郡藤田村(現在の山梨県南アルプス市)に、父・和達の長男として生まれる。明治6年(1873年)1月に藤田村戸長、1876年明治9年(1876年)10月に山梨県学区取締総理、明治12年(1879年)8月に藤田村会議長、明治17年(1884年)5月に藤田村浅原村両村戸長、明治19年(1886年)3月に三恵、鏡中条、下今井、藤田四ヶ村戸長を務めた。その後、明治22年(1889年)8月の町村制施行により藤田村の村会議員、村長となり、明治23年(1890年)3月から明治28年(1895年)9月まで山梨県会議員を務め、明治30年(1897年)9月には多額納税者の互選により貴族院議員となり、同年9月29日から明治34年(1901年)9月28日まで在任した。
植木 致一(うえき ちいち、1849年5月5日(嘉永2年4月… 植木 致一(うえき ちいち、1849年5月5日(嘉永2年4月13日) - 1906年(明治39年)8月16日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 丹波国氷上郡和田村(のち兵庫県氷上郡和田村、山南町を経て現丹波市)生まれ。1872年、豊岡県教員伝習所(のち兵庫県師範学校、現・神戸大学教育学部)卒。農業を営み、和田村成章小学校教員兼校長、兵庫県会議員、氷上郡蚕糸業組合長、兵庫県茶業組合会議員、和田村長、同村会議員、町村組合会議員となる。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫県第3区から自由党公認で立候補したが38票差で落選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では兵庫県第3区から憲政党公認で立候補して当選した。
山田 理兵衛(やまだ りへえ、嘉永2年4月(1849年) -… 山田 理兵衛(やまだ りへえ、嘉永2年4月(1849年) - 明治33年(1900年)12月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(自由党)。 信濃国高井郡江部村(現長野県中野市)の旧家に生まれる。江部村会議員を経て、明治22年(1889年)の町村制施行にあたり、初代平野村長(現中野市)に就任。千曲川沿岸の築堤による水害防止、産業組合結成の準備、教育施設の充実などの施策にあたった。同31年(1898年)の第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
矢土 勝之(やづち / やつち かずゆき、1849年3月30… 矢土 勝之(やづち / やつち かずゆき、1849年3月30日(嘉永2年3月7日)- 1920年(大正9年)11月28日)は、明治から大正期の漢詩人・官僚・政治家。衆議院議員。字・実夫、号・錦山。 伊勢国飯野郡阿波曽村(三重県飯野郡射和村大字阿波曽、飯南郡射和村を経て現松阪市阿波曽町)で生まれる。土井聱牙に師事し漢学を修めた。 太政官に出仕。東京で岩倉具視、伊藤博文の知遇を得た。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(三重県第4区、自由党)で当選した。1902年(明治35年)8月の第7回総選挙(三重県郡部、立憲政友会)では落選し、衆議院議員に1期在任した。 森春濤の高弟で、その子森槐南らと交友した。
岩永 マキ(いわなが マキ、1849年3月29日〈嘉永2年3… 岩永 マキ(いわなが マキ、1849年3月29日〈嘉永2年3月3日〉 - 1920年〈大正9年〉1月27日)は、日本の社会事業家、福祉事業家。肥前国西彼杵郡浦上山里村(後の長崎県長崎市)の隠れキリシタン(潜伏キリシタン)の家の生まれであり、日本政府によるキリスト教弾圧「浦上四番崩れ」により配流され、帰郷後にフランス人宣教師のマルク・マリー・ド・ロ神父の指導のもと、孤児の養育施設を開き、生涯を孤児養育と救貧に捧げた。現存する児童養護施設の中でも最古のものの創設者の1人であり、孤児救済の先駆者、日本の福祉事業の礎を築いた女性ともされる。 浦上山里村の隠れキリシタンの農家で、長女として誕生した。浦上山里村は平穏な農村であると共に、隠れキリシタンの村との一面もあった。
山脇 玄(やまわき げん、嘉永2年3月3日(1849年3月2… 山脇 玄(やまわき げん、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)10月7日)は、日本の法学者、法制官僚、政治家、教育者。法学博士、行政裁判所長官、貴族院議員。 福井藩の藩医・山脇立樹の長男として生まれる。福井藩の医学校・済生館で学んだ後、長崎に遊学して蘭学を学んだ。 1870年(明治3年)、文部省留学生としてドイツに渡り、ベルリン大学、ライプツィヒ大学、ハイデルベルク大学などで法学等を学び、日本人として初めてドイツ政府よりドクトルの称号を授与された。 1877年(明治10年)5月に帰国。同年8月、司法省御用掛となり民法編纂掛分科詰に配属された。以後、司法権少書記官兼太政官権少書記官、太政官権少書記官、参事院議官補・法制部、法制局参事官、兼行政裁判所評定官、法制局第一部長、行政裁判所評定官、同裁判所部長などを歴任し、大日本帝国憲法・皇室典範の草案・起草にも参画した。
平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月… 平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)4月14日)は、日本の明治・大正期の官僚・政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。山縣有朋の側近としても有名。また、第2次桂内閣において神社合祀を強力に推進した。
湯本 義憲(ゆもと よしのり、1849年3月19日(嘉永2年… 湯本 義憲(ゆもと よしのり、1849年3月19日(嘉永2年2月25日)- 1918年(大正7年)11月15日)は、明治期の政治家、治水家。埼玉県会議員、衆議院議員、岐阜県知事。旧姓は田島、馬込。幼名、増太郎。 武蔵国埼玉郡小針村(現行田市)の豪族、田島新六の第11子として生まれる。文久2年(1862年)、幕府道中伝馬役・馬込勘解由の養子となる。文久3年(1863年)に道中伝馬役見習いとなり、幕末動乱期のため繁忙を極めた。 明治維新となり江戸の東征大総督有栖川宮付属を命ぜられ、輜重運搬を担った。明治3年(1870年)、実家に戻り、1886年、湯本家を継承した。 1873年6月、埼玉県十四区学区取締となり、以後、埼玉県会議員、三郡土木集会議長などを務めた。
椎野 伝治郎(しいの でんじろう、1849年3月19日(嘉永… 椎野 伝治郎(しいの でんじろう、1849年3月19日(嘉永2年2月25日) - 1909年(明治42年)8月3日)は、日本の政治家。徳島県徳島市出身。 椎野庄左衛門の四男として名東郡八万村(現在の徳島市八万町)で生まれる。岡本塾に入り、晤室に漢学を学んだ。 その後、名東県・徳島県の役人となり、1882年(明治15年)に徳島県会議員となり、後に徳島県会議長を長く務めた。1889年(明治22年)、憲法発布に際し、徳島県民を代表して式典に参列した。 1892年(明治25年)には第2回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。 1909年(明治42年)8月3日、61歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
末広鉄腸(すえひろ てっちょう、旧字体: 末廣 鐵腸、184… 末広鉄腸(すえひろ てっちょう、旧字体: 末廣 鐵腸、1849年3月15日(嘉永2年2月21日) - 1896年(明治29年)2月5日)は、自由民権派の政論家・新聞記者・衆議院議員・政治小説家。幼名雄次郎、後に重恭(しげやす)、字は子倹、号に鉄腸、浩斎。 宇和島藩の勘定役『禎介』の次男として、城下の笹町(現、愛媛県宇和島市笹町)に生まれた。 1860年(万延元年)、四書五経の素読を終え、翌年、藩校の『明倫館』に入って朱子学を修め、1869年(明治2年)、母校の教授になった。王陽明の伝習録に傾倒した。 1870年(明治3年)、上京したものの師を得ず、京都の春日潜庵に陽明学を学んだ。1872年(明治5年)、帰郷して神山県に勤め、1874年(明治7年)、大蔵省に転じたが、折からの自由民権運動の高まりの中で言論に志し、1875年(明治8年)4月、東京曙新聞の編集長になった。
山中 幸義(やまなか ゆきよし、1849年3月12日(嘉永2… 山中 幸義(やまなか ゆきよし、1849年3月12日(嘉永2年2月18日)- 1899年(明治32年)3月19日)は、明治期の内務官僚、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・麟趾、麟司。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡高家村(四日市町を経て現宇佐市)で山中柳平の四男として生まれ、従兄弟・山中幸左衛門の養子となる。 漢籍を鷺海量容、広瀬林外に師事した。1868年(明治元年)澤宣嘉九州鎮撫総督が長崎に着任後、それに従い戊辰戦争に従軍した。その後、慶應義塾で学んだ。 1873年(明治6年)6月、司法省十三等出仕となり、同年7月、権少解部に就任。1874年(明治7年)3月、内務省に転じ新治県少属となる。
和泉 邦彦(いずみ くにひこ、1849年3月12日(嘉永2年… 和泉 邦彦(いずみ くにひこ、1849年3月12日(嘉永2年2月18日)- 1913年(大正2年)6月6日)は、明治期の日本の政治家。衆議院議員。旧姓・児島。 薩摩国伊佐郡宮之城郷屋地村(鹿児島県伊佐郡宮之城郷屋地村、南伊佐郡宮之城郷屋地村、宮之城村、宮之城町を経て現さつま町)で薩摩藩士・児島七郎右衛門の長男として生まれ、1868年(明治元年)和泉少左衛門の養子となり家督を相続した。藩校造士館で学んだ。 明治維新後、東京愛宕下警察区長に就任。台湾出兵に参加。明治六年政変で下野した西郷隆盛に従い帰郷。西南戦争に参加し、戦後、東京の市谷監獄に入獄。出獄後、郷友会・三州会の設立に参画。1882年(明治15年)10月、『麑城新報』を創刊した。