田中 精一(たなか せいいち、1911年(明治44年)4月2… 田中 精一(たなか せいいち、1911年(明治44年)4月26日 - 1998年(平成10年)6月24日)は、昭和から平成にかけて活動した日本の実業家。位階は従三位。 中部電力第4代代表取締役社長(のち会長・相談役)を務め、名古屋財界の重鎮であった。 中部電力以外では東海旅客鉄道(JR東海)代表取締役会長、中部経済連合会会長、日本電気協会会長、西ドイツ名誉領事、中部新国際空港建設促進協議会代表理事、名古屋グランパスエイト会長、ナゴヤドーム会長、財団法人東海産業技術振興財団理事長などを歴任。 勲等は勲一等瑞宝章。西ドイツからドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を受章。
加藤 静雄(かとう しずお、1911年(明治44年)4月25… 加藤 静雄(かとう しずお、1911年(明治44年)4月25日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓は増田。 静岡県志太郡豊田村(現焼津市)の増田家に生まれる。静岡県立志太中学校(現静岡県立藤枝東高等学校)の第一期生で、同校4年修了で静岡高等学校に進んだ。1939年(昭和14年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業。戦後、東京の加藤家の養子となるが、焼津に在住した。 実業界では、合資会社東亜製作所副会長、焼津水産取締役社長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で静岡県第1区から日本社会党公認で出馬して実業家の長兄、増田年郎の援助と志太中同窓生の支援を受けて当選し、衆議院議員に1期在任した。
川村 徳久(かわむら とくひさ、1911年4月25日 - 1… 川村 徳久(かわむら とくひさ、1911年4月25日 - 1944年)は、兵庫県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手)。妻は宝塚歌劇団18期生の秦都美子。
斎藤 信(さいとう まこと、1911年4月25日 - 200… 斎藤 信(さいとう まこと、1911年4月25日 - 2008年4月5日)は、日本のドイツ語・日蘭関係史学者。名古屋市立大学名誉教授。 東京市神田区(現千代田区)生まれ。1937年東京帝国大学文学部独文科卒。陸軍教授、戦後は米子医療専門学校教授、鳥取大学学芸学部助教授、金沢大学法文学部助教授、1957年名古屋市立大学教養部教授、1975年定年退官、名誉教授、藤田学園保健衛生大学医学部教授、1984年同客員教授。ドイツ語教員のかたわら、シーボルト親子の著書を翻訳した。
近藤 いね子(こんどう いねこ、1911年4月25日 - 2… 近藤 いね子(こんどう いねこ、1911年4月25日 - 2008年11月13日)は、日本の英文学者。津田塾大学名誉教授。旧姓は佐藤 いね子。 神奈川県中郡秦野町(現:秦野市曽屋)出身。父親は第2代秦野町長を務めた佐藤政吉。1944年に近藤正夫(物理学者、学習院大学教授)と結婚し、1950年に一女をもうける。 1924年、東京女子高等師範学校附属高等女学校入学。1929年、女子英字塾本科入学。1932年東北帝国大学英文科に入学し、1935年卒業、文学士。1937年ケンブリッジ大学大学院に入学し、1939年に修了、Master of Letters。帰国後の1941年夏目漱石『こゝろ』を英訳、翌42年にその功績により、第11回岡倉賞を受賞。
景山 俊弘(かげやま としひろ、1911年(明治44年)4月… 景山 俊弘(かげやま としひろ、1911年(明治44年)4月23日 - 1999年(平成11年)3月19日)は、日本の政治家。掛合町議会議員、掛合町長を歴任した。位階は従五位。 旧制松江中学校(現島根県立松江北高等学校)卒。島根県の大財閥として重きをなしていた田部長右衛門知事の秘書をつとめる。1942年から1951年に合併するまで旧掛合村村議となり、町制施行後は引き続き掛合町議となる。また同町教育委員を1952年から1955年まで務め、同町農業委員も1957年から務めた。後に、掛合町から竹下登が田部の後押しを受け、県議を経て国会議員となると、景山は竹下側近として掛合町議会議員となり、町議会議長となった。
中村 拓道(なかむら たくどう、1911年(明治44年)4月… 中村 拓道(なかむら たくどう、1911年(明治44年)4月22日 - 1974年(昭和49年)5月28日)は、日本の政治家。青森県八戸市の12代目市長。 1911年(明治44年)4月、 青森市に生まれる。旧制青森中学校(現青森県立青森高等学校)を経て、1930年(昭和5年)、青森県師範学校を卒業し、小学校で教鞭を執る。1941年(昭和16年)、 青森県庁に入庁。地方事務所長などを歴任する。1951年(昭和26年) 、青森県議会議員に立候補して初当選、連続四期在職する。農林商工水産農地副委員長、予算特別委員長、水産商工公安副委員などを経て、1961年(昭和36年)、 県議会副議長に就任。1964年(昭和39年)、東北電力(株)監査役に就任。
新城 常三(しんじょう つねぞう、1911年4月21日 - … 新城 常三(しんじょう つねぞう、1911年4月21日 - 1996年8月6日)は、日本の歴史学者。日本中世の交通史を専門とした。 福島県若松市生まれ。1933年に水戸高等学校卒業。1936年に東京帝国大学国史学科卒業。同期に奥田眞啓らがいる。同史料編纂所員を経て、1949年に北海道大学助教授、同大学教授を経て、1959年に九州大学教授、1976年定年。同年、成城大学教授、1982年退職。 1961年、「社寺参詣の社会経済史的研究」により、東京大学から文学博士の学位を授与される。1983年、『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』で角川源義賞受賞。没後従四位勲四等旭日小綬章。
小関 周一(おぜき しゅういち、1911年4月21日 - 1… 小関 周一(おぜき しゅういち、1911年4月21日 - 1995年10月31日)は、日本の経営者。三菱製紙社長を務めた。和歌山県出身。 1932年に横浜高等商業学校を卒業し、同年に三菱製紙に入社。 1960年11月に取締役に就任し、1962年11月に常務、1968年12月に専務を経て、1970年5月に社長を就任。1978年6月に取締相談役に就任し、1981年6月から相談役を務めた。 1977年10月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1995年10月31日心不全のために死去。84歳没。
成良 一郎(なりよし いちろう、1911年(明治44年)4月… 成良 一郎(なりよし いちろう、1911年(明治44年)4月20日 - 2000年(平成12年)5月7日)は、日本の地方事務官である。 戦前は熊本県、沖縄県、岐阜県などに勤務し、戦後は主に栃木県で勤務した。栃木県では初代教育長に就任し、副知事も務めた。 1911年(明治44年)4月20日、成良清一の次男として大分県臼杵市に生まれる。 1930年(昭和5年)4月、福岡高等学校文科丙類に入学した。 1933年(昭和8年)、福岡高校を卒業した後、東京帝国大学法学部政治学科に入学した。1936年(昭和11年)には高等文官試験行政科に合格する。 1936年(昭和11年)3月、東京帝国大学を卒業後、地方事務官として熊本県に勤務する。
丹羽 正治(にわ まさはる、1911年4月19日 - 199… 丹羽 正治(にわ まさはる、1911年4月19日 - 1992年1月11日)は、日本の実業家。松下電工名誉会長、松下電器産業監査役、PHP研究所副所長、松下政経塾副塾長、産業構造審議会委員。大阪府堺市出身。 1932年に大阪商科大学高商部を卒業と同時に松下電器製作所へ入社。1939年に常務取締役に就任。1945年に系列会社の松下航空工業に移籍し専務取締役となる。1947年1月、松下幸之助が公職追放され、35歳の若さで松下電工代表取締役社長に就任、幸之助の経営哲学の忠実な実践者として同社を売上高1兆円の大企業に育てる。1977年2月に同社の代表取締役会長を経て、1989年2月に名誉会長に退く。 1992年1月11日午前10時49分に急性肝炎のため、大阪府守口市の病院で死亡。
山崎 栄次郎(やまざき えいじろう、1911年〈明治44年〉… 山崎 栄次郎(やまざき えいじろう、1911年〈明治44年〉4月17日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の政治家。東京都墨田区長(3期)。甥は墨田区長を4期務めた山崎昇。 富山県西礪波郡西野尻村(のち福野町、現・南砺市)出身。小学校卒業後は東礪波郡福野町(現・南砺市)役場に就職する。その後、上京し、目白商業学校(現・目白研心中学校・高等学校)で学ぶ。東京市向島区役所に入り、戦時中に召集され、ソ連軍に抑留される。戦後、帰国し、墨田区役所に復帰。1963年〈昭和38年〉墨田区助役に就任。1974年〈昭和49年〉に区長となる。 翌1975年〈昭和50年〉区長公選制復活で墨田区長選挙に立候補し、当選。
木村 若友(きむら わかとも、1911年4月17日 - 20… 木村 若友(きむら わかとも、1911年4月17日 - 2011年11月30日)は、日本の浪曲師。本名:大森 政貫。 福島県二本松市出身。1936年、初代木村友衛に入門し、翌年初舞台を踏む。 長らく浪曲界の第一線で活躍し、晩年まで東京浅草の木馬亭に出演した。 2011年4月、浪曲師としての長年の活躍と後進の指導を通じ日本伝統文化の継承に尽力したとして第45回吉川英治文化賞を受賞。同年5月、国立演芸場で開かれることになっていた「百歳を祝う会」への出演の直前に楽屋で倒れ、快復に努めたが、11月30日、動脈瘤破裂のため死去。100歳没。 若友の孫にあたる料理人の男性が東京都台東区の佐竹商店街でラーメン店「とりそば若松」を経営。
今井 栄文(いまい よしふみ、1911年4月16日 - 19… 今井 栄文(いまい よしふみ、1911年4月16日 - 1984年11月19日)は、日本の経営者。山梨県出身。 1937年に高文行政科に合格し、逓信省に入省し、1938年に東京帝国大学法科を卒業。1960年7月に運輸省航空局長、1963年6月に運輸大臣官房長を経て、1964年2月から1965年6月までに海上保安庁長官を務めた。1965年6月に新東京国際空港公団副総裁に就任し、1967年10月から1974年7月までに総裁を務めた。 1981年に勲二等旭日重光章を受章。 1984年11月19日腎不全のために死去。73歳没。
迫間 真治郎(はざま しんじろう、1911年4月16日 - … 迫間 真治郎(はざま しんじろう、1911年4月16日 - 1965年12月23日)は、日本の経済学者。日本大学経済学部教授。 和歌山県出身。旧制第一高等学校時代に社会主義運動に参加し、同校を中退。その後、法政大学経済学部に入り、1936年卒業。1938年以降法政大学講師、助教授、教授。1953年日本大学経済学部教授。國學院大學政経学部兼任教授。1960年「社会主義経済の理論」で経済学博士(日本大学)。 1965年12月23日、心臓麻痺のため日本大学駿河台病院で急逝、54歳。全日本労働総同盟(同盟)の機関誌『同盟』に1965年9月号(第85号)から「マルクス経済学批判」を連載中だった。
太田 静六(おおた せいろく、1911年4月16日 - 20… 太田 静六(おおた せいろく、1911年4月16日 - 2009年10月8日)は、日本の建築史学者。九州大学名誉教授。東京府生まれ。 1935年早稲田大学理工学部卒業。1957年「平安、鎌倉時代における住宅建築史の研究」で早大工学博士。東京帝室博物館研究員、九州大学工学部教授、1977年定年退官、名誉教授、早稲田大学文学部客員教授、1983年退任。87年春、勲三等瑞宝章受勲。1988年『寝殿造の研究』で角川源義賞受賞。 2009年、心筋梗塞のためサイパンの三男宅で死去。98歳没。 『家屋雑考』ベースの寝殿造を学び、それを乗り越えて寝殿造の研究大きく発展させたのが太田静六である。特に「東三条殿の研究」、「堀河殿の考察」、「鳥羽殿の考察」については現在も評価は高い。
吉井 信康(よしい のぶやす、1911年(明治44年)4月1… 吉井 信康(よしい のぶやす、1911年(明治44年)4月15日 - 没年不明)は、旧華族吉井家(旧吉井藩主鷹司松平家)14代当主。1924年(大正12年)から1946年(昭和21年)まで子爵(1947年の日本国憲法施行により華族制度廃止)。父は子爵吉井信宝。妻は宮地栄治郎の次女。 1936年京都大学経済学部卒業。1939年、宮地鉄工所(現・宮地エンジニアリンググループ)に入社し、1953年に経理課長代理、1959年に監査役となった。 頼宣1619-1667 | 光貞1667-1698 | 綱教1698-1705 | 頼職1705 | 吉宗1705-1716 | 宗直1716-1757 | 宗将1757-1765 | 重倫1765-1775 | 治貞1775-1789 | 治宝1789-1824 | 斉順1824-1846 | 斉彊1846-1849 | 慶福1849-1858 | 茂承1858-1906 | 頼倫1906-1925 | 頼貞1925-1954 | 頼韶1954-1958 | 剛1958-1965 | 宜子1965-現在 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
水野 稔(みずの みのる、1911年4月15日 - 1997… 水野 稔(みずの みのる、1911年4月15日 - 1997年8月19日)は、日本の国文学者。専門は日本近世文学、特に山東京伝。 兵庫県姫路市生まれ。1920年に急逝した兄の影響を受けて、近世文学研究を志す。姫路高等学校文科甲類を経て、1933年東京大学文学部国文学科を卒業。1935年、同大学大学院を修了。1939年仙台陸軍幼年学校教授。1940年姫路高校時代の恩師だった原田虎男の長女と結婚。1942年陸軍予科士官学校教授。1946年兵庫県立姫路商業学校教諭、1949年兵庫県立姫路工業大学付属高等学校教諭と兵庫県立姫路工業大学講師を兼任。1955年、明治大学文学部助教授、1960年同教授。1982年同大学を定年退職。
大城 皓也(おおしろ こうや、1911年(明治44年)4月1… 大城 皓也(おおしろ こうや、1911年(明治44年)4月14日 - 1980年(昭和55年)7月12日)は、沖縄県出身の洋画家。二科会会員。 1918年(大正7年)、沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)に入学し、在学時に美術教師・比嘉景常の指導を受ける。1934年(昭和9年)、東京美術学校を卒業する。 1936年(昭和11年)、沖縄県の私立開南中学校(沖縄戦により廃校)の美術教師となる。沖縄美術展覧会の創設に参加した。 太平洋戦争後、名渡山愛順・安谷屋正義らと首里儀保町のニシムイ美術村にアトリエを設ける。1950年(昭和25年)には琉球大学助教授に就任した。 代表作に久高島の祭事・イザイホーに取材した『神々の誕生』などがある。
高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 19… 高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 1942年11月2日)は日本の彫刻家。宮城県石巻市出身。 東京美術学校(現東京芸術大学)で木彫を学び、文展(現・日展)を中心に活躍した。「黒潮閑日」「潮音」「漁夫像」の《海の三部作》などにより将来を嘱望されたが兵役に就き、1942年にガダルカナル島の戦いで死亡した。 1911年4月13日、宮城県牡鹿郡石巻町(現・石巻市)湊本町に生まれる。生家は遠洋漁業や缶詰工場を経営する網元であった。1924年、旧制石巻中学(現・宮城県石巻高等学校)に入学。 1931年、東京美術学校彫刻科木彫部に入学する。1936年同校を卒業すると、研究科に進み、文部省美術展覧会(現・日展)に「少女像」を出展し、入選する。
横田 信夫(よこた のぶお、1911年4月13日 - 197… 横田 信夫(よこた のぶお、1911年4月13日 - 1978年1月23日)は、日本の経営者。岡山県出身。 1932年に高等試験行政科に合格し、1933年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。逓信省での勤務を経て、1950年8月に日本電信電話公社理事に就任し、1959年9月から1962年9月までに副総裁を務めた。1963年5月に富士重工業社長に就任し、1970年5月から1971年11月までに会長を務めた。NHK経営委員も務めた。妻は波子(藤岡郊二の長女)である。 1978年5月12日急性心不全のために死去。67歳没。
和田 茂樹(わだ しげき、1911年4月12日 - 2008… 和田 茂樹(わだ しげき、1911年4月12日 - 2008年4月29日)は、愛媛県松山市出身の国文学者。愛媛大学名誉教授。
間中 喜雄(まなか よしお、1911年4月11日 - 198… 間中 喜雄(まなか よしお、1911年4月11日 - 1989年11月20日)は、日本の外科医、鍼灸師、医学博士。 神奈川県足柄下郡小田原町(現小田原市)出身。 1935年に京都帝国大学医学部を卒業し、同大学病院で外科を習得後、父の開業した間中外科医院を継ぐ。第二次世界大戦に医師として従軍、1946年に復員すると間中外科医院を医療法人温和会間中病院に改組した。 西洋医学の医師でありながら、東洋医学、特に鍼灸医学の普及発展に貢献し1950年には日本東洋医学会の設立に参加した。1957年に京都大学医学部で医学博士号を取得、小田原医師会会長に就任。その後、中国やアメリカ、フランスなどで講演活動を行う。
荒川 政司(あらかわ まさし、1911年4月11日 - 19… 荒川 政司(あらかわ まさし、1911年4月11日 - 1995年2月7日)は、日本の経営者。日野自動車社長を務めた。東京都出身。 1936年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に東京瓦斯電気工業に入社。1951年7月に日野自動車取締役に就任し、常務を経て、1969年11月に専務に就任し、1974年5月に社長に昇格。1983年6月に会長を経て、1985年6月から相談役を務めた。 1975年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1995年2月7日急性肺炎のために死去。83歳没。
三淵震三郎(みぶち しんざぶろう、1911年4月11日 - … 三淵震三郎(みぶち しんざぶろう、1911年4月11日 - 1989年3月20日)は、日本の保険事業家。三淵忠彦の三男。 1911年(明治44年)4月11日、元判事で元慶應大学講師、住友信託社員の父三淵忠彦と、母登喜の三男として、福島県に生まれる。 1935年(昭和10年)、早稲田大学法学部(ドイツ法)卒業。兄の三淵乾太郎は判事となっていた。 1941年(昭和16年)、大東京火災海上保険(現あいおいニッセイ同和損害保険)に入社し、1943年には徴収課主任。のち、常務を務めた。 妹の多摩は法学博士で大審院検事石渡敏一子息の石渡慎五郎(東京火災保険社員)と結婚した。 自動車保険料率算定会(自算会)の常務を務めた。
氷上 英廣(ひがみ ひでひろ、1911年4月10日 - 19… 氷上 英廣(ひがみ ひでひろ、1911年4月10日 - 1986年9月16日)は、ドイツ文学者、東京大学名誉教授。ドイツ文学、比較文学、比較文化専攻。妻は南原繁の長女で歌人であった待子。
金 裕澤(キム・ユテク、朝鮮語: 김유택、1911年4月10… 金 裕澤(キム・ユテク、朝鮮語: 김유택、1911年4月10日 - 1975年6月17日)は、大韓民国の政治家、官僚。韓国銀行総裁や駐日大韓民国代表部首席代表(現在の駐日大韓民国大使の前身)、大韓民国副首相兼経済企画院長官などを務めた。本貫は清風金氏(朝鮮語版)。 1911年に黄海道載寧郡で生まれる清風金氏。海州高等普通学校を経て、1932年京城高等商業学校卒業。1938年に九州帝国大学法文学部法科を卒業後、日本植民地時代に韓国銀行の前身である朝鮮銀行に入行し、貸付部長、理事、副総裁などを経験する。1951年から5年間は韓国銀行総裁を務め、国際通貨基金と国際復興開発銀行加入のために活躍する。1957年には駐日大韓民国代表部首席代表に着任し、その後は駐英韓国大使を経て1961年の5・16軍事クーデターを機に政界へ進出した。
野間 省一(のま しょういち、1911年4月9日 - 198… 野間 省一(のま しょういち、1911年4月9日 - 1984年8月10日)は、日本の出版人、実業家。講談社第4代社長。日本書籍出版協会会長。出版文化国際交流会会長。日本雑誌広告協会会長。旧姓高木。
加計 慎太郎(かけ しんたろう、1911年〈明治44年〉4月… 加計 慎太郎(かけ しんたろう、1911年〈明治44年〉4月9日 - 没年不明)は、日本の実業家。蔵座林業社長。通称は八右衛門。加計隅屋23代当主。 広島県出身。加計正文の長男。1937年、法政大学経済科卒業。芸備銀行(現広島銀行)に入る。同行加計支店長に就任。広島県体育協会理事、広島県山県郡体育協会長を兼ねた。 趣味は読書、スポーツ、絵画。宗教は神道。住所は広島県広島市上柳町、山県郡加計町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岩野 見斉(いわの けんせい、1911年(明治44年)4月8… 岩野 見斉(いわの けんせい、1911年(明治44年)4月8日 - 1991年(平成3年)7月23日)は、第13代四日市市長。三重県員弁郡(現:いなべ市)出身。 1938年(昭和13年)3月、京都帝国大学法学部卒業。戦前は旧満州国官吏として勤務。戦後に東海財務局津財務部に奉職。1949年(昭和24年)以降、四日市市役所商工課長、庶務課長、秘書課長、総務部長、水道局長を歴任。 1964年(昭和39年)に市長平田佐矩から四日市市助役に任命され、次代の九鬼喜久男の元でも助役を務めた。1972年(昭和47年)に四日市市長選挙に無所属で立候補し、日本社会党の前川辰男候補と日本共産党の稲垣重郎候補と安藤素滋(無所属)候補との保守革新の3分裂の選挙となった末、当選する。
唐澤 富太郎(からさわ とみたろう、1911年4月7日 - … 唐澤 富太郎(からさわ とみたろう、1911年4月7日 - 2004年8月11日)は、日本の教育学者、東京教育大学名誉教授。日本教育史を研究。 新潟県出身。東京文理科大学卒。奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)教授、東京高等師範学校教授、1949年(昭和24年)に東京教育大学教授。1953年(昭和28年)「中世初期仏教々育思想の研究」で東京教育大文学博士。定年退職後、日本女子大学教授。1980年(昭和55年)に日本女子大退職。1993年(平成5年)、教育史の資料を展示した「唐澤博物館」を自宅敷地内(東京都練馬区豊玉北)に開設。 新潟県出雲崎で尋常小学校・尋常高等小学校時代を送る。成績は優秀で「操行並びに学業優秀に付きこれを賞す」の賞状が残されている。
北川 省一(きたがわ せいいち、1911年4月7日 - 19… 北川 省一(きたがわ せいいち、1911年4月7日 - 1993年1月5日)は、日本の詩人、良寛研究家。 新潟県刈羽郡柏崎町(現在の柏崎市)生まれ。塗師の父が出奔して母と兄との家庭に育つ。第一高等学校在学時代には絵画、詩を創作。東京帝国大学仏文科に入学するが左翼活動のため1年で中退。郷里で私塾経営などをしたのち再度上京、兵役で千島で特攻訓練をするうち敗戦を迎えた。戦後は郷里で貸本屋をし、たびたび日本共産党から衆議院に立候補するが、田中角栄に敗れ続ける。66歳以後良寛研究家として多くの著書を著す。椎名麟三とは鉄工場の同僚だった。1993年1月5日、胃癌のため死去。 息子は北川フラム。娘の原若菜は原広司夫人であり、その名付け親は中野重治である。
福島 玄一(ふくしま げんいち、1911年4月6日 - 19… 福島 玄一(ふくしま げんいち、1911年4月6日 - 1994年)は、宮城県出身の歯科医師、サッカー選手、サッカー審判員。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)でサッカーを始め、日本歯科医学専門学校(現:日本歯科大学)でもサッカー部に入部。1933年に大学を卒業し以降も第一生命保険などでプレーした。 1936年の全日本蹴球選手権大會(第16回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で線審を務め以降、日本サッカー協会の審判員として活動を続けた。1958年からは国際審判員としてAFCユース選手権や1964年の東京オリンピックで主審を務めた。1969年には国際Aマッチ10試合以上の条件をクリアし、国際サッカー連盟(FIFA)から日本人初の審判特別功労賞(FIFA Referees’Special Award)を受賞した。
中山 治一(なかやま じいち、1911年4月6日 - 199… 中山 治一(なかやま じいち、1911年4月6日 - 1990年7月25日)は、日本の歴史学者。 京都市出身。1934年京都帝国大学文学部史学科卒。第三高等学校 (旧制)教授、名古屋大学文学部教授、大阪市立大学教授を務め、1974年定年退官、椙山女学園大学教授、愛知学院大学教授を務めた。歴史記述の方法論、西洋近代史を専門とした。
市川弘勝(いちかわ ひろかつ、1911年4月5日 - 198… 市川弘勝(いちかわ ひろかつ、1911年4月5日 - 1984年2月29日)は、日本の経済学者。東洋大学名誉教授。鉄鋼について研究した。 東京出身。東京帝国大学経済学部卒。日本鉄鋼協議会調査課長、政治経済研究所所員、理事長。東洋大学教授を務め、1981年定年、名誉教授。
阿部 宗明(あべ ときはる、1911年4月3日 - 1996… 阿部 宗明(あべ ときはる、1911年4月3日 - 1996年8月9日)は、日本の魚類学者。とりわけ東アジアのフグの分類に関する業績を残している。1949年にフグ科の属としてトラフグ属を提案している。この他、数々の新種を発見し、また、献名も多く受けている。『日本産魚類図説』の編纂に第49巻より携わる。 1911年(明治44年)4月3日、東京の田端に生まれる。1919年(大正8年)、家族で台湾に移住する。1932年(昭和7年)に台北高等学校を卒業後、魚類学の道に進むため上京して東京帝国大学理学部動物学科に入学する。田中茂穂に師事する。1935年(昭和10年)、同学科を卒業し、東京帝国大学理学部大学院に進学する。
松谷 義範(まつたに よしのり、1911年4月3日 - 19… 松谷 義範(まつたに よしのり、1911年4月3日 - 1996年7月6日)は、日本の実業家、神学者。 山口県出身。1936年東京帝国大学文学部哲学科卒。教師、薬品メーカー勤務をへて、1948年東邦薬品を創設、社長となる。のち会長。神学の著作・翻訳も多く、演劇にも一家言を持つ。墓所は多磨霊園
金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010… 金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010年7月13日)は、日本の実業家。日興證券役員、日興證券投資信託委託副社長、日興ビルディング社長などを歴任。「奄美大島に於ける「家人」の研究」等、奄美の史料論文著者としても知られる。 鹿児島県瀬戸内町出身。奄美群島加計呂麻島の諸鈍生まれ。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1931年旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1936年東京帝国大学経済学部卒業。三菱信託銀行から日興證券に転じる。日興證券本店債券部長(1957年)、金融法人部長(1959年)、取締役人事部長(1961年)、常務取締役(1963年)を歴任。
森 誓夫(もり ちかお、1911年3月31日 - 2001年… 森 誓夫(もり ちかお、1911年3月31日 - 2001年1月23日)は、日本の官僚、実業家。元通商産業省軽工業局長。元石油資源開発社長。 香川県三豊郡常磐村(現 観音寺市流岡町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。 1934年(昭和9年)商工省入省。特許、貿易、工務、機械、電力の各局を担当、電業課長、機械課長を務める。1939年(昭和14年)三豊中学の同級生であった蒙疆の張家口に勤務する大平正芳(大蔵省派遣の興亜院事務官)を訪問。 1943年(昭和18年)フィリピン島戦線に応召。三豊中学の頃から親しんで来た短歌に於いては、社会人になって間もなく斉藤茂吉が育てた結社「アララギ」に所属。
中島 隆太郎(なかじま りゅうたろう、1911年3月31日 … 中島 隆太郎(なかじま りゅうたろう、1911年3月31日 - 1998年11月1日)は、日本の経営者。日本ペイント社長を務めた。兵庫県出身。位階は正五位。 1932年に神戸高等商業学校を卒業し、同年4月に日本ペイントに入社。1963年6月に取締役に就任し、1968年12月に常務、1971年6月に専務を経て、1974年6月に副社長に就任し、1975年7月には社長に昇格。1981年7月には相談役に就任。 1982年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1998年11月1日肺炎のために死去。87歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
佐田 豊(、1911年〈明治44年〉3月30日 - 2017… 佐田 豊(、1911年〈明治44年〉3月30日 - 2017年〈平成29年〉7月[要出典])は、日本の元俳優。東京府東京市本郷区千駄木生まれ。本名同じ。旧芸名・別名は佐田 豊二、佐田 豊彦。 1928年、旧制京北中学校を卒業後、高松プロに入社。その後J.O.スタヂオの演技部に所属。当初は監督志望であったが、すぐに俳優へ転身し河合・大都映画の作品に多数出演する。 第二次世界大戦中は移動劇団にて活動し、映画では松竹作品に出演記録がある。 戦後は東宝と専属契約を結び成瀬巳喜男監督作品や特撮映画など数多くの作品に出演。中でも黒澤明監督『天国と地獄』での子供を誘拐される運転手・青木役が有名であり、佐田自身も最も好きな役だと語っている。
近藤 洋逸(こんどう よういつ、1911年(明治44年)3月… 近藤 洋逸(こんどう よういつ、1911年(明治44年)3月30日 - 1979年(昭和54年)5月22日)は、日本の数学史家、科学思想史家。元岡山大学法文学部教授。岡山大学名誉教授。文学博士。 岡山県に生まれる。岡山県立第一中学(現・岡山朝日高等学校)京都帝国大学文学部哲学科に入学。田辺元に師事する。その後東北大学に理科学生として在籍する。 昭和高等商業学校、第六高等学校で教授を務めた後、1952年(昭和27年)より岡山大学法文学部教授となった。 1946年(昭和21年)にゲーデルの赤い本を翻訳して出版した。
梶谷 善久(かじたに よしひさ、1911年3月28日 - 1… 梶谷 善久(かじたに よしひさ、1911年3月28日 - 1990年9月3日)は、日本のジャーナリスト。新聞記者、評論家。 大阪府出身。大阪商科大学(現大阪市立大学)卒。1937年(昭和12年)朝日新聞社入社、1942年(昭和17年)ジャワ島特派員。1949年(昭和24年)全朝日新聞労組委員長となり、1950年(昭和25年)レッドパージで解雇され裁判に訴え、勝訴・復職した。 朝日新聞では社会部、外報部、調査研究室、朝日ジャーナルなどに勤務。1966年(昭和41年)朝日新聞社を退職。 その後は文化学院、青山学院大学で講師を勤めたほか、アジア問題の評論などを書く。国際日本協会編集長、日朝文化交流協会理事長。
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 198… 松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。1939年に歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)と結婚。 1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽区(現・小樽市)生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)在学中、1933年(昭和8年)、コロムビアから「ミス・コロムビア」という覆面歌手として『浮草の唄』でデビューする。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために宣伝の写真にも目隠しをして彼女をデビューさせた。
堀内 正和(ほりうち まさかず、1911年(明治44年)3月… 堀内 正和(ほりうち まさかず、1911年(明治44年)3月27日 - 2001年(平成13年)4月13日)は、日本の彫刻家である。抽象彫刻の先駆者として知られた。 京都市の生まれ。幼年期より抽象的な彫刻作品に興味を持ち、その作品を制作し続けていた。後に上京し、1929年(昭和4年)に開催された第16回二科展において自身の作品を入選された事がきっかけで、当時通学していた東京高等工芸学校を中退した。その後青山学院大学やアテネ・フランセで彫刻学の教鞭を執る。 後に番衆技塾で藤川勇造の門人となるが、制作中に発生した第二次世界大戦における体制を批判したことによって、制作を一時中断する。親交が深かった辻晉堂との書翰には、橋本平八の彫刻造形や彼の「日本彫刻、西洋彫刻の異」についての考えに関心を持つ様子がうかがえる。
碓井 益雄(うすい ますお、1911年3月26日 - 199… 碓井 益雄(うすい ますお、1911年3月26日 - 1997年6月25日)は、日本の動物学者。 朝鮮・京城(現・ソウル特別市)生まれ。東京帝国大学理学部生物学科卒、1952年「有尾両棲類における重複肢に関する研究、特に肢の場の構造との関係について」で東京大学より理学博士の学位を取得。東京文理科大学教授、東京教育大学理学部教授。1974年定年退官、名誉教授。動物実験発生学専攻。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 19… 内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 1994年6月5日)は、日本の映画監督。宮城県加美郡小野田町(現・加美町)出身。 旧制神奈川県立逗子中学校卒。早稲田大学文学部在学中の1934年に長谷川一夫の勧めで松竹京都撮影所に入社し大学を中退。1943年に召集され、1947年に復職。1955年に東映京都撮影所に移籍。東映の路線転換によりテレビ部のディレクターに転身し、1963年にフリーとなった。 主にナショナル劇場『水戸黄門』『大岡越前』『江戸を斬る』などのテレビ時代劇のディレクターとして活躍。『水戸黄門』では東野英治郎主演版第1部(1969年)から最終シリーズの第13部(1983年)まで足掛け13年半にわたり156本を担当し現役を退いた。
安部 鹿蔵(あべ しかぞう、1911年(明治44年)3月26… 安部 鹿蔵(あべ しかぞう、1911年(明治44年)3月26日 - 1994年(平成6年)10月6日)は、新東宝の第6代社長であり、国際放映の初代社長。福岡県北九州市生まれ。
大内田 正(おおうちだ ただし、1911年3月25日-199… 大内田 正(おおうちだ ただし、1911年3月25日-1998年3月5日 )は、日本の経営者。日立建機社長、会長を務めた。 福岡県出身。1933年に九州帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に日立製作所に入社。 1963年11月に取締役に就任し、1968年11月に常務を経て、1970年9月に専務と日立建機取締役に就任し、1981年6月には社長に就任。1981年6月に会長に就任し、1985年6月に相談役に就任。 1975年4月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1998年3月5日腎不全のために死去。86歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
長沢 正夫(ながさわ まさお、1911年(明治44年)3月2… 長沢 正夫(ながさわ まさお、1911年(明治44年)3月25日 - 2004年(平成16年)5月3日)は日本の実業家。元野村證券投資信託委託会長・野村證券専務。 大阪府に生まれる。1935年(昭和10年)に法政大学経済学部を卒業し、野村證券に入社する。1948年(昭和23年)に同社営業第一部長、1949年(昭和24年)に同社引受部長、1952年(昭和27年)に同社取締役、1959年(昭和34年)に同社常務、1962年(昭和37年)に同社専務を経て、1968年(昭和43年)に野村證券投資信託委託社長に就任する。1973年(昭和48年)に同社会長に就任し、1975年(昭和50年)に証券投資信託協会会長を務める。