関矢 橘太郎(關矢、せきや きちたろう / きつたろう、18… 関矢 橘太郎(關矢、せきや きちたろう / きつたろう、1863年10月26日(文久3年9月14日)- 1912年(明治45年)4月10日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県北魚沼郡下条村長。諱・忠和、号・雙柳。 越後国魚沼郡並柳新田(新潟県北魚沼郡並柳村、下条村、広瀬村、広神村並柳を経て現魚沼市)で、素封家・関矢孫左衛門の長男として生まれた。 1881年(明治14年)地域の冬期副業として機織工場(殖産会社)を設立して頭取に就任。1883年(明治16年)同志と益友会を組織し教育補修、知識の交換、学術の錬磨を図った。1897年(明治30年)小出町に病院を設立。1899年(明治32年)小千谷石油の設立に参画し取締役に就任。
西沢 正太郎(にしざわ しょうたろう、1863年10月21日… 西沢 正太郎(にしざわ しょうたろう、1863年10月21日〈文久3年9月9日〉 - 1910年〈明治43年〉2月2日)は、日本の内務官僚。官選県知事。号・靖軒、獅牢。 信濃国埴科郡鼠宿村(現・長野県埴科郡坂城町)で、西沢陽左衛門の息子として生まれる。慶應義塾に学び、1890年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、内務省試補となり会計局に配属された。 1891年5月、警保局に転じ、同年10月、宮崎県参事官に就任。以後、新潟県参事官、香川県警部長、香川県・滋賀県・大阪府・兵庫県・京都府の各書記官などを歴任。 1904年11月、青森県知事に就任。1908年6月、福島県知事に転じ、産業振興に尽力したが、盲腸炎および肺炎により在任中に死去した。
八木 逸郎(やぎ いつろう、1863年10月21日(文久3年… 八木 逸郎(やぎ いつろう、1863年10月21日(文久3年9月9日) - 1945年(昭和20年)1月4日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(奈良県選出、当選10回)。ドクトルメジチーネ。族籍は奈良県平民。 大和国奈良出身。八木重義の長男。大阪医学専門学校で学んだ後、東京帝国大学医科大学別科を卒業。その後、ドイツに留学し、ロストック大学を卒業し、ドクトルメジチーネの学位を授けられた。 帰国後、静養する。東京帝国大学医科大学附属第一医院副手となるが、間もなくこれを辞して奈良に帰る。医業に従事する。奈良町会議員、奈良市会議員、奈良県会議員、同参事会員、添上郡会議員に挙げられる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
榊原 幾久若(さかきばら きくわか、1863年10月15日(… 榊原 幾久若(さかきばら きくわか、1863年10月15日(文久3年9月3日) - 1936年(昭和11年)2月19日)は、明治から昭和時代初期の司法官。大審院検事、同判事。 榊原光次郎の弟としてのちの愛知県に生まれる。普通学を修めたのち、1886年(明治19年)帝国大学法科大学を卒業する。大学院に進んだのち、1890年(明治23年)東京地方裁判所判事となり、東京控訴院判事、宇都宮地方裁判所長を経て、1899年(明治32年)東京控訴院部長となった。その後、大審院検事および判事を歴任した。大審院判決例の編集に功績がある。
上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(… 上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(文久3年 8月30日)- 1917年(大正6年)3月13日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、石川県江沼郡動橋村長。 加賀国江沼郡動橋村(石川県江沼郡動橋村字動橋、動橋町を経て現加賀市動橋町)で生まれた。製油業を営む。石川県農工銀行取締役に在任。 動橋村長、江沼郡会議員を務めた。1897年(明治30年)6月、石川県会議員に当選したが、同年12月に失職した。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(石川県郡部、立憲政友会)で当選し、衆議院議員に1期在任。1909年(明治42年)6月1日、衆議院議員選挙法違反事件の判決により当選が無効となった。
菅原 傳(すがわら でん、文久3年8月25日(1863年10… 菅原 傳(すがわら でん、文久3年8月25日(1863年10月7日) - 昭和12年(1937年)5月9日)は、明治から昭和時代前期の政治家。名は「つたう」とも読む。星亨の配下。 文久3年(1863年)、陸奥国遠田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町)に菅原応輔の二男に生まれる。大学予備門を経て帝国大学に学び、明治19年(1886年)渡米、パシフィック大学に学ぶ。在米中自由党に加盟し、1887年にサンフランシスコで在米日本人愛国同盟会(Japanese Patriotic League)を結成、機関紙『第十九世紀』を発行。同会は、米国オークランドで政治活動を行っていた山口熊野らのグループと、菅原らサンフランシスコの日本人留学生が結びついてできたもので、やや遅れて日向輝武、井上平三郎、井上敬次郎らが参加した。
穂積 歌子(ほづみ うたこ、文久3年8月24日(1863年1… 穂積 歌子(ほづみ うたこ、文久3年8月24日(1863年10月6日) - 昭和7年(1932年)1月31日)は、日本の歌人。夫は法学者の男爵穂積陳重。父は「日本経済の父」子爵・渋沢栄一。 武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の豪農渋沢市郎右衛門の嫡男だった栄一と最初の妻・千代の長女として生まれる。明治15年(1882年)、旧宇和島藩伊達家家令を務めていた西園寺公成のとりなしで、同藩士族の穂積陳重に嫁ぎ、長男・穂積重遠(結婚翌年に誕生)を始めとする4男3女を産み育て(1人夭折)「良妻賢母の鑑」といわれた。婦人会活動も盛んで、大日本赤十字社や愛国婦人会の会員だったほか、慈恵委員慈恵会では幹事、出征軍人家族慰問婦人会では理事を務めた。
栗山 賚四郎(くりやま らいしろう、文久3年8月23日(18… 栗山 賚四郎(くりやま らいしろう、文久3年8月23日(1863年10月5日) - 昭和19年(1944年)1月15日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。ジャーナリスト。 肥前国神埼郡蓮池村(現在の佐賀県佐賀市から神埼市にかけての地域)に堺時中の四男として生まれ、栗山延光の養子となった。1888年(明治21年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語法律科を卒業した。博文館に入社して、百科事典の編纂主任となった。その後、『信府日報』主筆や『西肥日報』主筆を務めた。さらに神埼郡会議員、佐賀県会議員、同議長に選出された。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
林田 亀太郎(はやしだ かめたろう、1863年9月27日(文… 林田 亀太郎(はやしだ かめたろう、1863年9月27日(文久3年8月15日) - 1927年(昭和2年)12月1日)は、日本の官僚、政治家。衆議院書記官長、衆議院議員。号・雲梯。 熊本藩士・林田俊太郎の長男として現・熊本市に生まれる。大学予備門を経て、1887年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。法制局に入り法制局属として長官官房に配属された。1888年6月、枢密院属となる。 1888年11月、法制局参事官試補として法制部に配属。以後、法制局参事官、臨時帝国議会事務局秘書官、衆議院書記官、兼農商務省参事官、衆議院庶務課長、兼守衛部長、衆議院議事課長などを歴任。 1897年11月、衆議院書記官長に就任。
平田 盛胤(ひらた もりたね、文久3年8月14日(1863年… 平田 盛胤(ひらた もりたね、文久3年8月14日(1863年9月26日) - 1945年(昭和20年)2月28日)は、日本の神職、国学者、神田神社社司。美濃国(後の岐阜県南部)出身、東京帝国大学(後の東京大学)文学部古典講習科卒業。首府神社界の1人とされる。 父は美濃郡代(美濃国代官)を勤めた旗本戸沢盛恭で、旧名を戸沢盛定と称した。美濃国羽栗郡笠松町生まれ。1886年(明治19年)頃に平田銕胤の長男平田延胤の養子となり、盛胤と改名した。 岐阜県師範学校(後の岐阜大学)卒業後、1880年(明治13年)に上京。1882年(明治15年)9月に創設された帝国大学古典講習科(乙部・国語課)に入学。第一期の同期生に松本愛重、小中村(池辺)義象、萩野由之、関根正直、落合直文らがいる。
池田 猪三次(いけだ いさんじ、1863年9月25日(文久3… 池田 猪三次(いけだ いさんじ、1863年9月25日(文久3年8月13日) - 1942年(昭和17年)11月26日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(2期)。旧姓は矢部。 遠江国豊田郡浦川村(静岡県豊田郡浦川村、磐田郡浦川村、浦川町、佐久間町を経て現浜松市天竜区)の矢部家に生まれ、1879年(明治12年)引佐郡伊平村(引佐町を経て現浜松市浜名区)の池田徳治郎の長女さわと結婚し養子となる。1886年(明治19年)伊平戸長役場の用係に出仕し、同村会議員を経て、1893年(明治26年)同村長に就任した。養蚕、学校建設、道路整備に尽力した。引佐郡会議員を経て、1903年(明治36年)静岡県会議員となり、1911年(明治44年)同議長を務めた。
早川 周造(はやかわ しゅうぞう、1863年9月20日〈文久… 早川 周造(はやかわ しゅうぞう、1863年9月20日〈文久3年8月8日〉 - 1916年〈大正5年〉4月17日)は、明治時代の政治家・実業家・銀行家。貴族院多額納税者議員。 美濃国安八郡、のちの岐阜県海津郡今尾町(平田町を経て現海津市)出身。早川理右衛門の長男として生まれ、1883年(明治16年)10月、家督を相続する。 1890年(明治23年)の岐阜県会議員選挙に安八郡選挙区から立候補して初当選を果たしたが、任期途中で辞職した。そのほか、南濃銀行頭取、土地家屋貸付会社社長、七十六銀行、真宗生命保険、大垣銀行、美濃商業銀行、竹鼻銀行、岐阜市貯蓄銀行、濃飛農工銀行、治水共同社、福寿生命保険取締役、美濃貯蓄銀行、高須貯蓄銀行各重役などを歴任した。
川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年… 川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年8月8日)- 1926年(大正15年)9月4日)は、明治時代から大正時代の華族(男爵)、実業家、発明家。現在の株式会社KTKの創業者。 薩摩国鹿児島郡塩屋町(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)にて、後に男爵となる薩摩藩士の川崎祐名の長男として生まれる。 1875年、横浜に住んでいた英国人のワッソン女史方に寄留して英語を習得した。16歳の頃に寛美と改名する。19歳で大学予備門の1級生から外務省御用掛となった。この頃激務の余暇に、のちに子爵となる曽根荒助からフランス語を学んだ。22歳でロンドンの日本公使館の会計主任となる。1886年、官制改革で交際官試補となり、1887年にはパリの日本公使館会計主任に転じた。
河本 にわ(かわもと にわ、 1863年9月17日〈文久3年… 河本 にわ(かわもと にわ、 1863年9月17日〈文久3年8月5日〉 - 1976年〈昭和51年〉11月16日)は、1975年5月31日から死去まで長寿日本一及び長寿世界一であった滋賀県の女性。また、生年に確証のある中では当時の日本歴代最高齢でもあり、生年に確証のある日本人としては初めて113歳を迎えた人物でもあった。 滋賀県高島郡安曇川町(現・高島市)で、より糸工場を経営していた河本家に嫁ぐ。20代で結婚して8人の子を産み、生前に80人以上の子孫ができた。元自由民主党参議院議員の河本嘉久蔵は孫である。100歳のときに河本嘉久蔵から隠居所を貰い、晩年まで居住していた。 1975年5月31日梅田ミトの死去に伴い、長寿日本一および世界一の座を引き継いだ。
青山 彦太郎(あおやま ひこたろう、1863年9月14日(文… 青山 彦太郎(あおやま ひこたろう、1863年9月14日(文久3年8月2日) - 1944年(昭和19年)12月21日)は、日本の牧師である。 岡崎藩士青山昇三郎(後の日本基督教会牧師)の長男として岡崎に生まれる。明治維新になり、1875年(明治8年)8月に父と共に東京に転居。東京市築地の新栄教会でデイヴィッド・タムソンと小川義綏の薫陶を受け、1877年(明治10年)1月に受洗する。 1880年(明治13年)に築地大学校に入学する。ジェームス・ハミルトン・バラらに薫陶を受ける。後に東京一致英和学校に移る。1885年(明治18年)に明治学院の最初の卒業生となる。卒業と同時に、神学部に入学する。 しばらく四国の大洲で伝道をしたのち、1888年(明治21年)に渡米し、マコーミック神学校で学ぶ。
石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(18… 石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(1863年9月13日) – 昭和13年(1938年)9月12日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 弘前に生まれ、東奥義塾を卒業した。1889年(明治22年)、弘前市会議員となり、1891年(明治24年)には中津軽郡会議員となった。1896年(明治29年)、青森県会議員に選出され、1903年(明治36年)には議長に就任した。1907年(明治40年)、県会議長に再選され、弘前市会議長も兼ねた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1期務めた。1913年(大正2年)、再び市会議員となり、さらに1918年(大正7年)・1922年(大正11年)・1934年(昭和9年)の3度、弘前市長に選出された。
藤山 雷太(ふじやま らいた、1863年9月13日(文久3年… 藤山 雷太(ふじやま らいた、1863年9月13日(文久3年8月1日)- 1938年(昭和13年)12月19日)は、佐賀藩出身の明治・大正・昭和の実業家、貴族院勅選議員。福澤諭吉門下直系の実業家として、東京商業会議所会頭、芝浦製作所所長、大日本製糖社長、藤山同族社長、大日本製氷会長、日印協会理事、また三井財閥・安田財閥・共同の各信託会社の相談役・取締役等を歴任し、藤山コンツェルンを創立した。正五位勲三等。 1919年(大正8年)に藍綬褒章、1923年(大正12年)に紺綬褒章を受章。次いでフランス政府からレジオン・ドヌール・シュバリエ勲章を受章。安南(現在のベトナム)国王からはグラン・オフィシェ・ド・ランテン勲章を贈られた。
坂田 貞(さかた ただす、1863年9月13日(文久3年8月… 坂田 貞(さかた ただす、1863年9月13日(文久3年8月1日) - 1937年(昭和12年)9月25日)は、明治から昭和時代戦前の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 肥後国八代郡植柳村(熊本県八代郡植柳村を経て現八代市)出身。橋本寛の長男として生まれ、先代範英の養子となり1872年(明治5年)家督を相続する。 1891年(明治24年)以降、植柳村会議員、同村農会長、熊本県会議員、同県農会長、八代郡会議員、郡参事会員、同農会評議員、帝国農会議員のほか、九州商業銀行取締役、九州新聞社監査役などを歴任した。 1925年(大正14年)9月には熊本県多額納税者として貴族院議員に互選され同年9月29日に就任し、交友倶楽部に所属し1932年(昭和7年)9月まで務めた。
北島 斉孝(齊孝、きたじま なりのり、1863年9月11日〈… 北島 斉孝(齊孝、きたじま なりのり、1863年9月11日〈文久3年7月29日〉- 1918年〈大正7年〉11月9日)は、日本の神職、政治家、華族。出雲大社北島国造家76代、貴族院男爵議員。旧名・殿若丸。 出雲国出雲郡(現島根県出雲市大社町)で北島国造家75代・北島脩孝の長男として生まれる。父の死去に伴い1893年(明治26年)4月7日、男爵を襲爵した。 1882年(明治15年)出雲大社権宮司に就任。同禰宜、大教正、神道出雲教(現出雲教)大教主を務めた。 1908年(明治41年)7月1日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、死去するまで在任した。
大橋 新太郎(おおはし しんたろう、文久3年7月29日(18… 大橋 新太郎(おおはし しんたろう、文久3年7月29日(1863年9月11日) - 1944年(昭和19年)5月5日)は、明治時代から昭和時代にかけての実業家・政治家。父の大橋佐平とともに博文館を創業し、明治・大正時代の出版界の王者となり、印刷から販売まで手がける出版コンツェルンを構築した。また。衆議院議員・貴族院議員にも選ばれたほか、日本工業倶楽部会長を務めた。 父の大橋佐平は越後長岡の開明的な商人で、出版・新聞などの情報産業にいち早く着目し、新潟県から東京に進出して近代出版業の先駆者となった。 博文館は、佐平と新太郎の父子が協力して創立した出版社で、日清戦争・日露戦争などの報道によって爆発的な利益を得るとともに、尾崎紅葉を盟主とする硯友社の文学運動に「文芸倶楽部」などの発表の場を提供することによって当時の文壇の首脳部を手中に収めた。
薗田 宗恵(そのだ しゅうえ、1863年9月9日〈文久3年7… 薗田 宗恵(そのだ しゅうえ、1863年9月9日〈文久3年7月27日〉 - 1922年〈大正11年〉1月3日)は、浄土真宗本願寺派の僧侶。 和泉国出身。旧姓は浅井。号は確堂。帝国大学文科大学卒。和歌山妙慶寺薗田香潤の養子。本山の文学寮の教授となり、のち寮長。明治32年(1899年)本山の命で最初の北米開教師としてサンフランシスコで布教。帰国後、明治38年(1905年)仏教大学(現・龍谷大学)学長、1912年勧学、1915年再び学長に任ぜられる。長男は独文学者の薗田香勲。
下村 善右衛門(善右衞門、しもむら ぜんうえもん、1863年… 下村 善右衛門(善右衞門、しもむら ぜんうえもん、1863年9月9日(文久3年7月27日)- 1934年(昭和9年)12月27日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 上野国群馬郡前橋本町(群馬県東群馬郡前橋本町、前橋町本町を経て現前橋市)で、初代前橋市長となる下村善太郎の長男として生まれた。父の方針で福沢諭吉から直接個人教育を受けた。1882年(明治15年)自費で4名の青年を海外に留学させた。 政界では、前橋市会議員、同参事会員を務めた。1899年(明治32年)群馬県会議員に選出された。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(群馬県前橋市、無所属)で初当選。第8回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
葛西 萬司(かさい まんじ、 文久3年7月23日(1863年… 葛西 萬司(かさい まんじ、 文久3年7月23日(1863年9月5日) - 昭和17年(1942年)8月19日)は明治から昭和初期に活躍した設計建築家。盛岡市出身。辰野金吾と建築設計事務所を共同経営したことなどで知られる。 工手学校(現工学院大学)造家学科教員。
武信 由太郎(たけのぶ よしたろう、1863年9月5日(文久… 武信 由太郎(たけのぶ よしたろう、1863年9月5日(文久3年7月23日) - 1930年(昭和5年)4月26日)は、明治・大正期を代表する日本の英語学者。 因幡国気多郡潮津村(現在の鳥取県鳥取市青谷町)出身。1876年、官立愛知英語学校(のちの愛知県立第一中学校)に入学、同校廃止後は愛知県中学校に編入となり、1880年に卒業する。同年、札幌農学校の第4期生となる。1884年同校卒業、長野県中学校飯田支校の英語教員、1887年『ジャパン・メール』の記者となった。一時期三重県の教員を務め、1897年に頭本元貞と『ジャパン・タイムズ』を創刊。頭本元貞(1863年-1943年) とは同郷同卒で親しく、福澤諭吉ら政財界の後押しによって、『ジャパン・タイムス』の刊行が実現した。
野上 嘉平(のがみ かへい、1863年9月4日〈文久3年7月… 野上 嘉平(のがみ かへい、1863年9月4日〈文久3年7月22日〉 - 1913年〈大正2年〉10月3日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員(憲政本党)。勲等は勲四等。 淡路国三原郡賀集村(現・南あわじ市)に生まれる。東京法学校(現・法政大学)で学んだ後、賀集村会議員、三原郡町村組合会議員などを務める。1892年(明治25年)2月、兵庫県会議員に三原郡選出で当選した。その後、再選した。1894年(明治27年)5月25日に賀集村長に就任した。1896年(明治29年)10月1日、府県制施行に伴い、県議を失職した。同月20日に村長を退任した。また、同年当選期の三原郡会議員に補欠当選して、1899年(明治32年)まで務めている。
国井 庫(くにい くら、文久3年7月16日(1863年8月2… 国井 庫(くにい くら、文久3年7月16日(1863年8月29日) - 大正8年(1919年)5月27日)は、衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)、弁護士。 上山藩、出羽国村山郡上山町(現上山市)出身。1874年(明治7年)に上山町小学校を卒業し、1878年(明治11年)まで私塾で漢学を学んだ。1879年(明治12年)から1884年(明治17年)まで小学校の教員を務めた。1885年(明治18年)に明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、卒業後に代言人の資格を得た。1894年(明治27年)より1902年(明治35年)まで山形新聞社の社長を務めた。 1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。
油屋 熊八(あぶらや くまはち、1863年8月29日(文久3… 油屋 熊八(あぶらや くまはち、1863年8月29日(文久3年7月16日) - 1935年(昭和10年)3月27日)は、日本の実業家。 伊予国宇和島城下(現愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋の長男として生まれ、家業を継いで妻ユキを娶る。1888年(明治21年)には27歳で宇和島町議に当選。30歳の時に大阪に渡って米相場で富を築き、別名「油屋将軍」として羽振りが良かったが、日清戦争後に相場に失敗して全財産を失う。35歳の時に別府に住む亀井タマエという女性に妻の身を託しアメリカに渡る。アメリカを放浪の上、現地の教会でキリスト教の洗礼を受けた後、約3年滞在。帰国後、再度相場師となるがうまくいかず、1911年(明治44年)妻を頼って別府を訪れる。
米田 実(米田 實、よねだ みのる、1863年8月28日(文… 米田 実(米田 實、よねだ みのる、1863年8月28日(文久3年7月15日) - 1926年(大正15年)9月16日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(奈良県奈良市選出、当選2回)。族籍は奈良県平民。 大和国奈良(現在の奈良県奈良市)出身。生家は代々農業を営む。米田新八の長男。米田奈良吉の兄。 漢学を修めた後、教職に従事していたが、奈良市内衛生委員・町役場委員などの公吏の職に就いた。1887年(明治20年)に明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、在学中に代言人試験に合格した。東京で弁護士事務所を開き、東京組合弁護士会評議員に選出された。後に公証人に転じた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
山下 源太郎(やました げんたろう、1863年8月26日〈文… 山下 源太郎(やました げんたろう、1863年8月26日〈文久3年7月30日〉- 1931年〈昭和6年〉2月18日)は、明治・大正期の日本の海軍軍人、華族。海軍大将正二位勲一等功三級男爵。日露戦争時の軍令部作戦班長(のちの作戦部長)、連合艦隊司令長官、軍令部長などを歴任した。 米沢藩士・山下新右衛門(禄高:25石)の次男。藩校興譲館、その後身の私立米沢中学校を経て明治12年(1879年)海軍兵学校に入校。明治15年(1882年)「龍驤」に乗り込み遠洋航海に参加した。翌年海軍兵学校を4位の成績で卒業(10期)。同期に首席の加藤定吉大将、17位の名和又八郎大将がいる。 帰国後は「浅間」で砲術訓練を積み、兵学校修学課程で学問を深め、明治19年(1886年)の長浦水雷営勤務から現場に出た。
乗松 雅休(のりまつ まさやす、文久3年7月12日(1863… 乗松 雅休(のりまつ まさやす、文久3年7月12日(1863年8月25日) - 大正10年(1921年)2月12日)は、日本のプロテスタント最初の海外宣教師。 伊予松山藩士の子供として生まれた。旧制松山中学を卒業して20代で上京して神奈川県庁に就職。1887年日本基督公会で、稲垣信牧師から洗礼を受けた。その後、明治学院に入学したとされるが、乗松の在学を証明する証拠はない。神学生時代、乗松は日本基督教会で奉仕していた。 1888年11月、イギリスから来日したプリマス・ブレザレンの宣教師ハーバード・ブランドは教会組織や信条を拒否する活動を開始していた。1889年10月以降、ブランドは聖餐を伴う礼拝を始め、キリスト同信会が誕生する。
小室 三吉(こむろ さんきち、文久3年7月9日(1863年8… 小室 三吉(こむろ さんきち、文久3年7月9日(1863年8月22日) - 大正9年(1920年)10月18日) は、日本の実業家。戦前三井財閥の幹部で、三井合名参事、三井家同族会理事などを務めた。 江戸出身。ロンドン留学後、1883年商法講習所(現一橋大学)卒業。同期に福井菊三郎。1884年に三井物産入社。香港支店長、上海支店長、ロンドン支店長などを経て、1906年理事。1909年取締役、三井合名参事。のち、三井家同族会理事。1913年三井合名監査部幹事長。1916年東京海上保険取締役。1918年大正海上火災保険監査役。1920年に病気で危篤となり叙従六位。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
丹羽 正道(にわ せいどう、文久3年6月27日〈1863年8… 丹羽 正道(にわ せいどう、文久3年6月27日〈1863年8月11日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月5日)は、明治から大正にかけて活動した日本の電気技術者である。日本で5番目に開業した電力会社名古屋電灯で初代技師長を務めたほか嘱託技師として大阪市電の開業に携わった。愛知県名古屋市出身。 文久3年6月27日(新暦:1863年8月11日)、丹羽氏任の長男として名古屋城下・広小路御園の屋敷で生まれた。父・氏任は尾張藩に仕える儒学者(藩儒)。また丹羽家は一色公深を祖とするという。正道は幼少期から聡明であったといい、東京に出て大学予備門で学んだのち工部大学校へ進学。工部大学校では成績優秀のため官費生であった。
五百城 文哉(いおき ぶんさい、1863年8月11日(文久3… 五百城 文哉(いおき ぶんさい、1863年8月11日(文久3年6月27日 ) - 1906年(明治39年)6月6日)は、明治時代の日本の洋画家。本名は熊吉。 1863年8月11日(文久3年6月27日)常陸国水戸藩(現:茨城県水戸市)に生まれる。1878年(明治11年)から翌年まで母校である水戸上市小学校の教壇に立つ。1884年(明治17年)農商務省山林局雇となり、高橋由一の門に入る。1887年(明治20年)東京府工芸品共進会に出品。1890年(明治23年)第3回内国勧業博覧会に出品、褒状を受ける。その後、農商務省を依願退職し、肖像画や風景画を描きながら新潟地方や、茨城、栃木など、各地を遊歴。1892年(明治25年)本名を熊吉から文哉に改める。
清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年… 清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年6月26日) - 1903年(明治36年)6月6日)は、日本の明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶、哲学者・宗教家。旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。
大沢 岳太郎(おおさわ がくたろう、1863年8月9日(文久… 大沢 岳太郎(おおさわ がくたろう、1863年8月9日(文久3年6月25日) - 1920年12月5日)は、日本の解剖学者。医学博士。理学博士。旧姓は大橋。 尾張国海東郡津島村(現・愛知県津島市)出身。1882年に帝国大学医学科を卒業し、1887年に助手となる。1894年に妻を亡くしたのを機に、1895年に自費でドイツに留学。1897年にドイツ人女性と再婚し、同年に帰国、医学博士の学位を取得。1900年に東京帝国大学の教授となる。両生類や爬虫類などの比較組織学を研究。著作に「解剖学講本」などがある。1916年にサンショウウオの研究論文で理学博士の学位を取得。 1920年12月3日、大学での講義を終え、布佐駅で下車して帰宅する途中で倒れ、通行人により自宅へ運ばれるが昏睡状態となり、12月5日に死去した。
早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1… 早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1863年8月5日) - 大正11年(1922年)10月14日)は、明治、大正期の官僚、実業家、政治家。三井財閥の幹部の一人。 石川県金沢市出身。明治20年(1887年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。明治22年(1889年)、同大学院農政学研究科修了。明治23年(1890年)1月、大蔵省入省。明治32年(1899年)日本銀行監理官。明治33年(1900年)辞職。 明治34年(1901年)、三井銀行専務理事。明治42年(1909年)三井銀行常務取締役。大正7年(1918年)、三井合名会社副理事長。1920年(大正9年)6月2日、貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。
井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久… 井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久3年6月21日)- 1920年(大正9年)8月6日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県会議長、佐賀県藤津郡南鹿島村長。俳号・黄渓。 肥前国藤津郡高津原村(佐賀県藤津郡南鹿島村、鹿島町、現鹿島市横田)で、鹿島藩士・井原五兵衛(陶一、為助)の長男(長子)として生まれる。谷口藍田(中秋)から漢学を学び、鹿島変則中学で普通学を修めた。その後上京し、専修学校(現専修大学)で学び、慶應義塾を卒業した。1882年(明治15年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)鹿島銀行の創立に参画し、佐世保支店長、取締役、頭取を歴任。
山田 孝道(やまだ こうどう、1863年8月1日 - 192… 山田 孝道(やまだ こうどう、1863年8月1日 - 1928年1月7日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。曹洞宗大学林(現・駒澤大学)教頭。地福寺住職、大龍寺住職、大慈寺住職。道号は哲巌、湖南と号することも。世寿満64才、数66歳。 1863年(文久3年)8月1日、島根縣能義郡廣瀨町(現・島根県安来市)、広瀬藩士山田央(益之)の三男として生れる。幼名は恭三郎。明治11年5月27日、同縣能義郡澤村地福︀寺の住職影山虚巖について得度。明治9年9月から11年8月まで廣瀨町修文館にて漢学を修める。明治11年9月から兵庫県三田村心月院の住職蘆浦黙應に随侍し、明治14年8月、島根県曹洞宗専門支校を卒業、同年冬、島根県山中村(伯耆)の退休寺太田有典の常恒会にて長老を勤める。
菅原 師竹(すがわら しちく、1863年(文久3年)8月 -… 菅原 師竹(すがわら しちく、1863年(文久3年)8月 - 1919年(大正8年)3月24日)は日本の俳人。本名は賢五郎。旧姓:伊藤。 陸奥国登米郡登米(現・宮城県登米市)に生まれる。幼少期に元藩儒の中沢敬哉に経史を学ぶ。菅原家に養子になり、農業をする。旧派俳諧に属したが、1904年に安斎桜磈子と知り、共に日本派の俳句入る。1905年から河東碧梧桐の俳句の指導を受ける。新傾向時代初期に活躍し「師竹・桜磈子時代」を画す。「続春夏秋冬」「日本俳句鈔」などに多く句を収め、安斎桜磈子編「師竹句集」がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
南嶋 間作(みなみじま まさく、1863年7月31日(文久3… 南嶋 間作(みなみじま まさく、1863年7月31日(文久3年9月13日)- 1899年(明治32年)2月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 越中国射水郡新湊放生津町(石川県射水郡新湊放生津町、富山県射水郡新湊放生津町、新湊町、新湊市を経て現射水市放生津町)で、徳三の長男として生まれた。岡田呉陽に漢学を学んだ。高岡(現高岡市)の商家で奉公し、その後、大阪・渋谷塾で数学を学び、東京・豊国校で簿記学を慶應義塾で政治学・経済学を学んだ。1886年(明治19年)父の病のため帰郷した。 新湊町立卓立小学校長、同廉貞小学校長に就任。1888年(明治21年)四日曽根小学校長、荒屋小学校長を兼務。1889年(明治22年)小学校長を辞職し、上海で海運事情を視察して帰国した。
漆間 民夫(うるま たみお、1863年7月31日(文久3年6… 漆間 民夫(うるま たみお、1863年7月31日(文久3年6月16日)- 1926年(大正15年)7月26日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・守太郎。号・履堂、千畝。生地銀行創立者。 越中国新川郡生地村(石川県新川郡生地村、下新川郡生地村、富山県下新川郡生地村、生地町を経て現黒部市生地)で、素封家、酒造業・漆間次郎右衛門の長男として生まれた。1877年(明治10年)岡田呉陽の塾に入門。1883年(明治16年)上京して明治義塾で学び馬場辰猪から薫陶を受けた。 島田孝之、田村惟昌らと自由民権運動に尽力。富山県奨学委員、生地村外4ケ村奨学委員、富山県免囚保護会評議員を務めた。
大塚 専一(おおつか せんいち、1863年7月30日(文久3… 大塚 専一(おおつか せんいち、1863年7月30日(文久3年6月15日) - 1920年(大正9年)7月9日)は、日本の地質学者、登山家。理学博士。日本各地の巡検を通じて地質調査に先鞭をつけ、多くの地質図作成に貢献した。 大垣藩士・大塚岱中の二男。1863年、美濃国(現・岐阜県)に生まれる。1887年、帝国大学理科大学地質学科を卒業。卒業論文では、関東地方の地質調査を取りまとめ、その中で秩父古生層の名付け親となった。卒業後は、農商務省地質調査所に入った。1888年、磐梯山噴火が発生すると和田維四郎とともに現地調査を行った。1892年前後には、岩手県釜石市周辺の鉄鉱床の調査を行い釜石鉱山の発展に寄与した。
森本 荘三郎(もりもと しょうざぶろう、1863年7月28日… 森本 荘三郎(もりもと しょうざぶろう、1863年7月28日(文久3年6月13日) - 1911年(明治44年)7月31日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 丹波国多紀郡篠山河原町、のちの兵庫県多紀郡篠山町(篠山市を経て現丹波篠山市河原町)出身。篠山町会議員、兵庫県会議員、同常置委員、同郡部会議長、所得税審査委員、篠山町長となる。また、蚕糸業組合長、共同貯蓄銀行、百三十七銀行各取締役、多紀郡醸造組合長を務め、製紙場、製糸場、篠山電話会、篠山電燈会社を創立、地方産業の発展に尽力した。 1895年の衆議院兵庫3区の補欠選挙で当選。1898年の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1903年の第8回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。
坂元 英俊(さかもと ひでとし、1863年7月28日(文久3… 坂元 英俊(さかもと ひでとし、1863年7月28日(文久3年6月13日)- 1956年(昭和31年)2月14日)は、日本の政治家、衆議院議員(4期)。 日向国諸県郡都城郷西岳村(宮崎県北諸県郡庄内村、西岳村、荘内町を経て現都城市)で生まれた。東京で鱸松塘に学び、さらに慶應義塾で学ぶ。農業を営み、庄内村会議員、宮崎県会議員、同常置委員、徴兵参事員、陸軍省雇員、台湾総督府台中県属、宮崎県畜産組合長、中央事務所長、北諸県郡会議員、県産牛馬組合連合組合長となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において宮崎県から立憲政友会公認で立候補して当選した。以来当選4回。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3… 有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3年6月10日〉- 1927年〈昭和2年〉10月24日)は、明治から昭和初期の官僚、政治家。寺内内閣の法制局長官を務めた。通称は梅次郎。字は子華。 備前国御野郡岡山城下に岡山藩士有松正義の長男として生まれる。1881年(明治14年)、岡山師範学校を卒業後、窪屋郡帯江小学校の教員をしながら漢学者西毅一の門下となる。陸奥宗光の著書を読んで上京して洋学を学ぶことを志した。相談を受けた同門の先輩である小松原英太郎は師である西が自由民権運動に没頭するのを憂慮して、1884年(明治17年)有松を獨逸学協会学校専修科に入学させた(小松原は同校の母体である獨逸学協会の会員であった)。
樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(… 樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(1863年7月22日) - 大正14年(1925年)12月27日)は、日本の数学教育家・数学者。数学教育近代化の先駆的役割を果たした。 1960年の安保闘争のとき、死去した東大女子学生樺美智子の曾祖父、社会学者樺俊雄の祖父。 鳥取市定府内町に生まれる。藤六、とめの長男。家庭は織物屋兼紺屋だった。 13歳の時故郷を出て大阪へ行く。これは、勉強するのに都合の良い所を見付けようとしたのであった。。しかし金は無く、ただ着のみ着ままで出たため、大阪に着いたら最早一厘の貯えもなかった。そこで、或る家に奉公することになった。主人の使い歩き、時には子守なども命令された。
白水 淡(しろうず あわし、1863年7月21日〈文久3年6… 白水 淡(しろうず あわし、1863年7月21日〈文久3年6月6日〉- 1932年〈昭和7年〉1月25日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等功三級。号は孤峯。 筑前国那珂郡春日村(福岡県筑紫郡春日町大字春日を経て現春日市)で白水喜一の二男として生まれ、1904年(明治37年)1月に分家した。 1871年(明治4年)春日村の浦田塾に入塾。1880年(明治13年)8月、陸軍教導団に入り歩兵科生徒となる。1881年(明治14年)に修業し同年11月、歩兵伍長に任官し熊本鎮台に配属された。1884年(明治17年)陸軍士官学校(旧9期)に入校し、1887年(明治20年)に卒業し同年7月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊小隊長に就任。
平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈186… 平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈1863年7月19日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月26日)は、日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。作家三島由紀夫の祖父。農商務官僚平岡梓の父。 文久3年6月4日(1863年7月19日)、播磨国印南郡志方村上富木村字横山(現在の兵庫県加古川市)で、農業を営んでいた父・太吉と、母・つる(寺岡久平の長女)の間に二男として生まれる。 少年の頃は、皇道精神を基調とする鼎(かなえ)塾に学んだ。ここでは忠君愛国の講話が行われた。兄の萬次郎はやがて姫路の洋学塾へ進み、定太郎も同じ地の師範伝習所へ入った。伝習所はすぐ神戸へ移り、神戸師範(御影師範学校、現・神戸大学)と改称、入学年齢は「二十一歳以上」とあったが、明敏な定太郎は16歳で許され3年間の寄宿生活を送った。
西村 礼作(西村 禮作、にしむら れいさく、1863年7月1… 西村 礼作(西村 禮作、にしむら れいさく、1863年7月19日〈文久3年6月4日〉 - 1943年〈昭和18年〉3月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(山口県郡部選出、当選3回)。族籍は山口県平民。 長門国阿武郡、のちの山口県阿武郡奈古村(奈古町を経て現阿武町)で、代々農業と生蝋製造を業とする西村家に生まれる。利右衛門の三男。小学校を了え、漢学と英語と数学を学ぶ。 農業を営む。学務委員、山口県勧業諮問会員、奈古村会議員、同村長、阿武郡所得税調査委員、同徴兵参事員、山口県会議員を務める。藤田組の藤田伝三郎の知遇を得て同家理事のほか、藤田銀行、防長銀行、萩銀行の各監査役を務める。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において山口2区から無所属で立候補して初当選。
白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久… 白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久3年6月2日) - 1932年(昭和7年)5月30日)は、日本の植物学者・菌類学者。日本の植物病理学や本草学史の開拓者。博物学者。 1863年に江戸霊岸島の福井藩中屋敷(現在の東京都中央区新川)に生まれる。元治元年、藩地に移転の為、福井城下毛矢町に移住する。1886年に東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科を卒業。 卒業後すぐに東京農林学校の助教授となり、翌年教授に就任。1890年に帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に異動して助教授となり、植物学講座を担当した。 1899年から1901年まで、ドイツに留学して植物病理学の研究に取り組んだ。