スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
野口 昭子(のぐち あきこ、1916年(大正5年)11月1日… 野口 昭子(のぐち あきこ、1916年(大正5年)11月1日 - 2004年(平成16年)7月27日)は、全生社社長、社団法人整体協会会長。整体協会創始者である野口晴哉の妻。旧姓・近衛、島津。 公爵近衛文麿の長女。母は毛利高範の娘・千代子。東京生まれ。女子学習院を卒業後、1937年に公爵島津忠重の嫡子・忠秀に嫁して修久ら二男一女を儲けるが、戦後の混乱期に忠秀のもとを去って出入りの整体師野口晴哉と駆け落ちし、「昭和のノラ事件」と呼ばれて話題になった。1945年12月に島津忠秀と離縁した。 野口晴哉と結婚してからは、晴哉の著作を発行する全生社の社長に就任し、出版事業を通じて野口整体の普及に貢献した。
北白川 祥子(きたしらかわ さちこ、1916年〈大正5年〉8… 北白川 祥子(きたしらかわ さちこ、1916年〈大正5年〉8月26日 - 2015年〈平成27年〉1月21日)は、日本の旧皇族、宮内庁女官長。北白川宮永久王の妃。旧名は、徳川 祥子(とくがわ さちこ)。皇族時代の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。 男爵徳川義恕と妻・寛子(津軽承昭伯爵令嬢)の二女として誕生した。姉は幼少期に夭折し、兄妹の唯一の女子として愛情を受けて育った。長兄の徳川義寛は昭和天皇の侍従長。次兄の津軽義孝は常陸宮妃華子の父に当たる。 東京女子高等師範学校を卒業後は、花嫁修業をする。1934年(昭和9年)6月19日、婚約が内定したことが、非公式に発表された。この際、祥子の人となりは「明朗な典型的近代女性」かつ「お茶の水時代にお伴もつれずにお獨りで毎日電車で通学されたほど平民的な方」と報じられた。
嵯峨 浩(さが ひろ、1914年〈大正3年〉3月16日 - … 嵯峨 浩(さが ひろ、1914年〈大正3年〉3月16日 - 1987年〈昭和62年〉6月20日)は、侯爵嵯峨家(公家華族)の長女。愛新覚羅溥傑(満洲国皇帝愛新覚羅溥儀の弟)の妻。後に記した自伝のタイトルから「流転の王妃」として知られるが、溥傑は皇帝の弟ではあったものの爵位を授与されなかったため皇族ではなく平民で、浩は「妃」でも皇族、王族でもない。 侯爵嵯峨実勝と妻・尚子(9代目浜口吉右衛門の長女)の第一子として東京府で生まれた。嵯峨家は藤原北家閑院流の三条家の分家で、大臣家の家格を持つ。1884年(明治17年)の華族令では家格に基づき実勝の父・公勝に伯爵が叙爵されたが、1888年(明治21年)になって「父・実愛(浩の曽祖父)の維新の功績」により公勝は侯爵に陞爵している。
東園 佐和子(ひがしぞの さわこ、1913年〈大正2年〉10… 東園 佐和子(ひがしぞの さわこ、1913年〈大正2年〉10月21日 - 2001年〈平成13年〉7月1日)は、日本の元皇族。北白川宮成久王と同妃房子内親王の第2王女子。東園基文子爵の妻。旧名は、佐和子女王(さわこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。兄に北白川宮永久王、姉に立花美年子(美年子女王)、妹に徳川多恵子(多恵子女王)がいる。明治天皇の孫にあたる。 1913年(大正2年)10月21日、北白川宮成久王とその妃で明治天皇の第7皇女子である房子内親王との間に第2王女子として生まれた。1923年(大正12年)4月1日、父宮成久王がパリ郊外で事故死し、母宮房子内親王も重傷を負う。
佐野 禮子(さの あやこ、1913年〈大正2年〉7月4日 -… 佐野 禮子(さの あやこ、1913年〈大正2年〉7月4日 - 2003年〈平成15年〉9月3日 )は日本の元皇族。旧名は、禮子女王。竹田宮恒久王と同妃昌子内親王の第1王女子。兄は、竹田宮恒徳王。佐野常光(佐野常羽の養子。一条実輝の次男)の妻。 1934年(昭和9年)3月、佐野常羽(佐野常民の子)伯爵の継嗣常光と結婚。その後は常行(1935年生)、明子(1936年生)、常武(1942年生) 常具(1946年生)の3男1女に恵まれた。青山霊園にある墓誌によると、洗礼名はマリヤ。
岩倉 靖子(いわくら やすこ、1913年(大正2年)1月17… 岩倉 靖子(いわくら やすこ、1913年(大正2年)1月17日 - 1933年(昭和8年)12月21日)は、日本の華族。岩倉公爵家出身。 共産主義に傾倒して検挙・起訴され(赤化華族事件)、保釈中に自殺した。 1913年(大正2年)1月17日、岩倉具張公爵の三女として誕生。元勲岩倉具視は曾祖父にあたる。 翌1914年に具張が金銭スキャンダルで隠居・愛人とともに失踪し兄具栄が襲爵、一家は世間の好奇の目を避けて一時、当時東京郊外であった猿楽町の西郷豊二家(西郷従道の六男、母櫻子の実家)に移り住む。この時期、大叔母にあたる森寛子の影響を受け、一家そろってキリスト教に入信する。靖子も教会に毎週通っていたが、洗礼は受けなかった。
徳恵翁主(トクヘオンジュ、とくけいおうしゅ、韓国語: 덕혜옹… 徳恵翁主(トクヘオンジュ、とくけいおうしゅ、韓国語: 덕혜옹주、1912年5月25日 - 1989年4月21日)は、朝鮮国王・大韓帝国皇帝高宗の王女。日本領朝鮮京畿道京城府出身。出生名は李 德惠(イ・トクヘ、り とくけい、韓国語: 이덕혜)。「翁主」は、大韓帝国皇帝の後宮所生の皇女の称号。ただし、徳恵は韓国併合後の出生かつ特例的に王族(王公族)として扱われ、徳恵姫(とくえひめ)となった。 結婚後の日本名は宗 徳恵(そう とくえ)、離婚後は梁 徳恵(ヤン・トクヘ、りょう とくけい、韓国語: 양덕혜)。 日韓併合から2年後の1912年(明治45年)5月25日、日本の王族・徳寿宮李太王となっていた高宗と側室の梁春基との間に誕生。
鳥尾 鶴代(とりお つるよ、1912年5月25日 - 199… 鳥尾 鶴代(とりお つるよ、1912年5月25日 - 1991年12月27日)は、日本の子爵・鳥尾敬光の妻。旧姓下條(げじょう)。のち鳥尾佳代、鳥尾多江と名乗った。美貌と社交術に長け、マダム鳥尾としてマスコミを賑わせた。下条正雄の孫。 日本画家で貴族院議員の祖父・下條桂谷(正雄)の末子・小四郎の娘として、祖父の持つ東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の豪邸で生まれ贅沢に育つ。母方祖父は津田出。1919年、女子学習院初等科に入学。平民出身のため華族の生徒からいじめられた。祖父が亡くなったことで麹町の家は嗣子の伯父のものとなり、1923年3月、鶴代一家は神奈川県大磯の祖父の別荘に転居。派手な都会暮らしに慣れた父は帝国ホテルにも部屋を借り、鶴代も1年ほどホテルから通学、その後一家は、麹町の伯父宅2階を借りるなど転居を繰り返し、最終的に隠田(現・原宿)に落ち着く。
宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年〈… 宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年〈明治44年〉12月26日 - 2004年〈平成16年〉12月18日)は、日本の皇族。元華族。高松宮宣仁親王の妃。 旧名、徳川 喜久子(とくがわ きくこ)。徳川慶久公爵令嬢。母は有栖川宮威仁親王の第2王女・實枝子女王。身位は親王妃。お印は初めが亀(かめ)、結婚後は撫子(なでしこ)。 1912年(明治45年)4月12日、両親に連れられ舞子別邸(兵庫県)で静養中の祖父有栖川宮威仁親王の元を訪れると、威仁親王は当時唯一の孫である喜久子を「喜久女、喜久女」と呼び可愛がったため、慰子妃の勧めで、夫妻はそのまま喜久子を舞子別邸に預けて帰京した。 1913年(大正2年)6月22日、病状が重篤となった威仁親王の元に宮内大臣渡辺千秋伯爵が派遣され、大正天皇第3皇男子の宣仁親王(当時8歳)に「高松宮」の称号を与えて有栖川宮家の祭祀を継承させる内諭が伝達された。
立花 美年子(たちばな みねこ、1911年〈明治44年〉5月… 立花 美年子(たちばな みねこ、1911年〈明治44年〉5月6日 - 1970年〈昭和45年〉4月10日)は、日本の元皇族。北白川宮成久王と同妃房子内親王の第1王女子。立花種勝の妻。旧名は、美年子女王(みねこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。兄に北白川宮永久王、妹に東園佐和子(佐和子女王)と徳川多恵子(多恵子女王)がいる。明治天皇の孫にあたる。 1911年(明治44年)5月6日、北白川宮成久王とその妃で明治天皇の第7皇女子である房子内親王との間に第1王女子として生まれた。 学生時代の学習院初等科から女子学習院(現在の学習院女子中・高等科)においては、高松宮妃喜久子と同級で仲が良かったという。
雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年〈明… 雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年〈明治42年〉9月9日 - 1995年〈平成7年〉8月25日)は、日本の皇族。秩父宮雍仁親王の妃。旧名は松平節子(まつだいら せつこ)。身位は親王妃。お印は菊(きく)。 旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女。母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子。 父の任地イギリスのロンドンで生まれる。生後数か月で帰国し、その後北京、天津、ワシントンの領事館・大使館で少女期を過ごす。1925年(大正14年)に渡米し、米国ワシントンD.C.のフレンドスクール(現シドウェル・フレンズ・スクール)で学び卒業。いわゆる帰国子女で、英語に堪能なだけでなく、外国人を前にした英語のスピーチはお手のものだったという。
松浦 董子(まつら ただこ / しげこ、1908年(明治41… 松浦 董子(まつら ただこ / しげこ、1908年(明治41年)7月12日 - 1989年(平成元年)1月22日)は、日本の旧華族。父は旧平戸藩第12代藩主松浦詮伯爵の次男で分家の松浦靖(まつら はかる)子爵、陸軍中佐で大正天皇の侍従を務めた人物。母は久我通久侯爵の次女・節子(さだこ)。戦後凋落しながらも自尊心を守り続けたことで知られ、その生き方は死とともにマスコミで大きく取りあげられた。 1925年(大正14年)、女子学習院卒業。1928年(昭和3年)、久邇宮邦彦王の次男で帝国陸軍中尉だった久邇邦久侯爵と見合い結婚する。邦久には離婚歴があり董子は後妻だった。夫妻は渋谷宮益坂の1万坪の豪邸に住まい、使用人に囲まれた生活を送る。
今城 誼子(いまき よしこ、1907年〈明治40年〉6月 -… 今城 誼子(いまき よしこ、1907年〈明治40年〉6月 - 1993年〈平成5年〉2月12日)は、日本の華族。香淳皇后付の女官。今城定政子爵の長女。 女子学習院高等科卒業、1929年より当時の皇太后(貞明皇后)に出仕、「浜菊掌侍」という源氏名で呼ばれた。皇太后は宮中祭祀に熱心で、旧来の皇室の慣習を厳格に守る人物であり、今城は出仕中に強くその考えに傾倒したものと思われる。1951年の皇太后の崩御後、当時の侍従次長・甘露寺受長の紹介で香淳皇后に出仕することとなった(女官昇任は1953年4月10日)。皇后の信頼が極めて厚くなり、それを背景に宮中で強い影響力を振るうに至ったが、入江相政(1969年〈昭和44年〉 - 1985年〈昭和60年〉まで侍従長)ら昭和天皇付の側近と対立、最終的には昭和天皇の支持を得た天皇側近たちによって、1971年(昭和46年)、自主退職に追い込まれる。
朝融王妃知子女王(あさあきらおうひともこじょおう、1907年… 朝融王妃知子女王(あさあきらおうひともこじょおう、1907年〈明治40年〉5月18日 - 1947年〈昭和22年〉6月28日)は、日本の皇族。伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子。久邇宮朝融王の妃。香淳皇后の義姉。 1907年(明治40年)5月18日午前10時45分、伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子(第6子)として誕生。15分先に生まれた敦子女王(清棲幸保伯爵夫人)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である。双生児であることは誕生当初から公表され、2人は引き離されることなく、ともに養育された。1925年(大正14年)に結婚し、朝融王妃となる。
三条西 信子(さんじょうにし のぶこ、1904年〈明治37年… 三条西 信子(さんじょうにし のぶこ、1904年〈明治37年〉3月30日 - 1945年〈昭和20年〉11月8日)は、日本の元皇族、華族。久邇宮邦彦王と同妃俔子の第2王女子。三条西公正侯爵夫人。旧名は、信子女王(のぶこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。香淳皇后の妹であり、第125代天皇・明仁(上皇)の叔母、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大叔母にあたる。 1904年(明治37年)3月30日午前3時、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第2王女子(第4子)として誕生。御七夜の4月5日に「信子」と命名された。 久邇宮家は兄弟も多く、財政的にゆとりがある状況ではなかった。こうした中、姉良子女王と妹智子女王は年齢も近く、何事も一緒に過ごした。
恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36… 恒憲王妃 敏子(つねのりおうひ としこ、1903年〈明治36年〉5月16日 - 1995年〈平成7年〉3月23日)、のちに賀陽 敏子(かや としこ)は、日本の旧皇族。賀陽宮恒憲王の妃。九条道実公爵令嬢。貞明皇后は叔母、昭和天皇は従兄にあたる。戦後皇籍離脱。
香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年〈明治36年〉3月6… 香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年〈明治36年〉3月6日 - 2000年〈平成12年〉6月16日)は、日本の第124代天皇・昭和天皇の皇后(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は、良子(ながこ)。お印は、桃。 久邇宮家出身の生まれながらの皇族であり、誕生から昭和天皇の践祚以前は、名と身位は「良子女王(ながこじょおう)」と称され、皇室典範における敬称は「殿下」であった。 1924年(大正13年)1月26日に摂政宮皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)と成婚し、2男5女を儲けた。1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御及び昭和天皇の践祚に伴い、皇后に冊立された。
伏見 朝子(ふしみ ときこ、1902年〈明治35年〉6月20… 伏見 朝子(ふしみ ときこ、1902年〈明治35年〉6月20日 - 1971年〈昭和46年〉4月3日)は、日本の旧皇族。元華族。博義王の妃。一条実輝公爵令嬢。母は、細川護久侯爵令嬢・悦子。旧名は、一条 朝子(いちじょう ときこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、博義王妃 朝子(ひろよしおうひ ときこ)であった。 香淳皇后とは女子学習院の同級生で、梨本宮家の方子女王と並んで昭和天皇のお妃候補の一人であったとされる。後に学習院の同窓会組織「常磐会」の会長も務める。1919年(大正8年)12月23日に、博義王と結婚、翌年北海道を訪れている。1男3女をもうける。関東大震災時は皇族による被災者の慰問活動として、1923年(大正12年)9月23日に新宿区(当時の淀橋町)の被災児童避難所を慰問・視察した。
李 方子(り まさこ、朝: 이방자〈イ・バンジャ〉、1901… 李 方子(り まさこ、朝: 이방자〈イ・バンジャ〉、1901年〈明治34年〉11月4日 - 1989年〈平成元年〉4月30日)は、日本の元皇族であり、李王垠の妃。梨本宮守正王と同妃伊都子の第1王女子。肥前佐賀藩主・鍋島直正の曾孫。旧名は、方子女王(まさこじょおう)。皇室典範における敬称は殿下。 宮家(梨本宮家)の第1王女子(女王)として生まれ、日本国内で王公族として皇族に準じる待遇をうけた李垠(旧大韓帝国、高宗第七皇子)に嫁した。「李方子」とは、第二次世界大戦後、王公族としての身分を喪失したことにより夫の姓を名乗ったものである。 1901年(明治34年)11月4日、梨本宮守正王と同妃伊都子夫妻の第1王女子(第1子)として誕生し、御七夜の11月11日に「方子」と命名された。
藤原 あき(ふじわら あき、1897年8月10日 - 196… 藤原 あき(ふじわら あき、1897年8月10日 - 1967年8月8日)は、日本のタレント、政治家。位階は正五位。 自由民主党参議院議員(1期)。資生堂美容学校校長。藤原義江の元妻。中上川彦次郎の庶子。参議院議員時代は本名の中上川(なかみがわ)アキで活動した。旧姓は宮下(前の夫の姓)。筆名、柳園子。 東京府出身。福澤諭吉の実姉:婉の長男であり、山陽鉄道の創設者で三井財閥の近代化に尽力した中上川彦次郎の三女(庶子、母は彦次郎の妾・つね)。本名はアキ。女子学習院に学ぶ。同級生には後に参議院議員になる加藤シヅエがいた。 1913年、17歳のときに一度の見合いもなく、19歳年上の東京京橋の開業医:宮下左右輔(みやした・そうすけ)と強制的に結婚させられて宮下姓となり、二女をもうける。
加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田静枝、1897年〈明… 加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田静枝、1897年〈明治30年〉3月2日 - 2001年〈平成13年〉12月22日)は、日本の政治家。元華族。婦人解放運動家・産児制限活動家。称号は東京都名誉都民。位階は従三位。 1897年(明治30年)3月2日、東京府東京市本郷区西片町(現・東京都文京区西片)に生まれる。父の廣田理太郎は、英語に堪能で、イギリスやアメリカと手広く貿易を行う実業家であり、廣田家は非常に裕福な家庭であった。母の敏子(鶴見良憲長女)もカナダのミッションスクールで進歩的な教育を受けていた。そんな東京都心の裕福なブルジョア家庭に生まれたシヅエは、日本文化・西欧文化の両方に接して育つ。
東山 千栄子(ひがしやま ちえこ、旧字体:千榮子、1890年… 東山 千栄子(ひがしやま ちえこ、旧字体:千榮子、1890年9月30日 - 1980年5月8日)は、日本の女優。日本新劇俳優協会初代会長。本名:河野 せん(旧姓:渡辺・寺尾)。 築地小劇場を経て俳優座の結成に参加した新劇出身者である。舞台では翻訳劇の貴婦人役を多く演じ、『桜の園』のラネーフスカヤ夫人役が当たり役となった。テレビドラマや映画では老婦人役を多く演じ、特に『東京物語』の老母役で知られる。主な栄典・称号・褒章に紫綬褒章、文化功労者。著書に自伝『新劇女優』などがある。 妹に料理研究家の中江百合、弟にベース奏者の渡辺良がいる。 千葉県千葉市に生まれる。司法官で後に貴族院議員を務めた渡辺暢の次女で、10人兄妹の3番目である。
松平 信子(まつだいら のぶこ、明治19年(1886年)7月… 松平 信子(まつだいら のぶこ、明治19年(1886年)7月15日 - 昭和44年(1969年)5月8日)は、会津藩9代藩主松平容保六男松平恒雄の夫人である。侯爵鍋島直大の四女で、姉に梨本宮妃伊都子がいる。 娘に長女秩父宮妃勢津子、松平容保の兄徳川慶勝の曾孫尾張徳川家第20代当主徳川義知に嫁いだ次女徳川正子がいる(正仁親王妃華子の父津軽義孝は、尾張徳川家分家男爵徳川義恕の次男である)。長男松平一郎の息子恒孝は徳川宗家に養子に入り18代目を継いだ。 妹松平俊子は高松松平家第12代当主伯爵松平賴壽の弟・海軍大佐松平胖と結婚し日本女子高等学院及び附属昭和高等女学校の第2代院長・校長を勤めた。俊子の長女誠子は公族李鍵公妃であった。
貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25… 貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25日 - 1951年〈昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇・大正天皇の皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。諱は節子(さだこ)。お印は藤。旧氏名は、九条 節子(くじょう さだこ)。 昭和天皇の母。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后した最後の例である。 1884年(明治17年)6月25日、公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)で誕生。
梨本 伊都子(なしもと いつこ、1882年〈明治15年〉2月… 梨本 伊都子(なしもと いつこ、1882年〈明治15年〉2月2日 - 1976年〈昭和51年〉8月19日)は、日本の旧皇族。梨本宮守正王の妃。鍋島直大侯爵令嬢。妹に松平信子。お印は桂。旧名は、鍋島 伊都子(なべしま いつこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、守正王妃 伊都子(もりまさおうひ いつこ)であった。 1882年(明治15年)2月2日、駐イタリア特命全権公使・鍋島直大の次女としてローマで生まれた。母は広橋胤保の五女・榮子。「イタリア(伊太利亜)の都の子」の意味で伊都子(いつこ)と命名される。生後7か月目に一家は帰国し、東京府麹町区永田町二丁目1番地(現在の東京都千代田区永田町)の鍋島本邸で育てられた。
大島 義脩(おおしま よしなが、明治4年8月1日(1871年… 大島 義脩(おおしま よしなが、明治4年8月1日(1871年9月15日) - 昭和10年(1935年)7月1日)は、日本の教育者。旧姓蘆田。宮中顧問官。 明治4年(1871年)8月、丹波国氷上郡佐治村(現兵庫県丹波市)に豪農蘆田家の四男として生まれた。8歳で母の実家である大島家に養子に入り、司法官であった叔父、大島貞敏に養育された。 第三高等中学校を経て、明治27年(1894年)帝国大学文科大学哲学科を卒業。四高教授、東京音楽学校長、八高校長、女子学習院長、帝室博物館総長などを歴任。
松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(… 松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(慶応2年8月4日) - 1947年(昭和22年)1月15日)は、日本の教育者。女子学習院第二代院長。 肥前国(現・長崎県)生まれ。士族松浦縮蔵の子。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、1895年(明治28年)東京帝國大學法科大学法律学科英法科を卒業。1896年(明治29年)5月愛知県尋常中学時習館(現・愛知県立時習館高等学校)校長、1899年(明治32年)7月山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)校長を歴任。 以後、山口高等商業学校教授、第五高等学校校長を経て、1918年(大正7年)5月に神宮皇學館館長に就任。翌年2月、皇太子傅育官長となる。
津田 梅子(つだ うめこ、旧暦 元治元年12月3日〈新暦 1… 津田 梅子(つだ うめこ、旧暦 元治元年12月3日〈新暦 1864年12月31日〉- 1929年〈昭和4年〉8月16日)は、日本の女子教育家。日本初の女子留学生の一人で、女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、日本における女子教育の先駆者と評価される。また、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。聖公会の信徒。 初名はうめ(「むめ」と書いた)。戸籍上はUMEであったが、1902年(明治35年)に父である津田仙の戸籍から分籍した際にUMEKOと改めた。2024年に発行された5000円札の肖像画に選ばれている。 旧暦 元治元年12月3日(新暦 1864年12月31日)、津田仙・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれる。
石井 筆子(いしい ふでこ、文久元年4月27日(1861年4… 石井 筆子(いしい ふでこ、文久元年4月27日(1861年4月27日) - 昭和19年(1944年)1月24日)は、日本の教育者、社会福祉家。日本の近代女子教育者の一人であり、日本初の知的障害者福祉の創始者の一人である。男爵渡辺清の娘。別名・渡辺筆、小鹿島筆。滝乃川学園第2代学園長。 肥前国大村藩士の渡辺清・ゲンの長女として生まれる。父の清は弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として中央で忙しく、筆子は故郷で祖母、母らと暮らした。1872年(明治5年)に上京し、大村藩邸に寄宿し、1873年(明治6年)に東京女学校に入学し、同級生に穂積歌子(渋沢栄一の長女)、鳩山春子(共立女子大学創立者の一人)がいた。
下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉… 下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉、1854年9月29日〈嘉永7/安政元年8月8日 - 1936年〈昭和11年〉10月8日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者、歌人(号は香雪)。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。祖父は儒学者東条琴台。 美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)にて、岩村藩士平尾鍒蔵と房子(挙母藩武久氏)の長女として生まれる。実弟は平尾鍗蔵。 祖父東条琴台は江戸の医家から平尾家に婿入したが、鍒蔵が生まれた後、藩内学閥との確執から離縁。鉐の幼少期、父鍒蔵(1818–1898)は尊王攘夷論を説いたため、安政4年と明治元年に2度謹慎処分を受け、計10年の蟄居を強いられた。
松野 クララ(まつの くらら、松野 久良々・松野 くらら、独… 松野 クララ(まつの くらら、松野 久良々・松野 くらら、独語名: Clara Louise Zitelmann〈クララ・チーテルマン〉、1853年8月2日 - 1931年7月18日)は、ベルリン生まれのドイツ人女性で、明治時代の幼児教育者、音楽教育者(ピアノ奏者)。配偶者は農商務省官吏で林学教育者の松野礀(旧長州藩臣)。 ベルリンにて、Carl Friedrich Zitelmann(父)とEmma Pauline Ulrike (Tangermann) Zitelmann(母)の娘として生まれる。姉はEmma Maria Luise Zitelmann(1847年3月23日生)。 フリードリヒ・フレーベルが創立した保母学校を卒業したとされる。
千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月… 千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月31日) - 明治29年(1896年)10月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性。 北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。北辰一刀流小太刀免許皆伝、長刀師範。学習院女子科(後の女子学習院)舎監。漢字表記では坂本龍馬に与えた長刀目録に佐那と記述され、司馬遼太郎の小説でその表記を用いたため、この名称が一般化しているが、千葉家の位牌には佐奈と記されている。初名を乙女。 天保9年(1838年)、北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女として誕生。兄に千葉重太郎がいる。北辰一刀流の剣術を学び、特に小太刀に優れ、10代の頃に皆伝の腕前に達したという。
谷 干城(たに たてき/たに かんじょう、天保8年2月12日… 谷 干城(たに たてき/たに かんじょう、天保8年2月12日〈1837年3月18日〉- 明治44年〈1911年〉5月13日)は、日本の武士(土佐藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等子爵。 幕末は、土佐藩の勤皇派として、乾退助(板垣退助)の片腕を為し、薩摩藩・小松帯刀、西郷隆盛らと「薩土討幕の密約」を締結する。戊辰戦争に際し、軍事の才能、智略に秀で最前線で戦った武将。熊本鎮台司令長官であった西南戦争においては、熊本城攻防戦の官軍指揮者として手腕を発揮し、更に武名を挙げた。第2代学習院院長。東京学士会院会員。 天保8年2月12日(1837年3月18日)、土佐藩に仕える儒学者・谷景井(萬七。
真名 杏樹(まな あんじゅ、3月22日 - )は、日本の女性… 真名 杏樹(まな あんじゅ、3月22日 - )は、日本の女性作詞家。東京都出身。 作曲家・船村徹の長女として東京に生まれる。 10代から作詞・作曲を始め、高校卒業後に詞・曲のデモテープをいとこのスタジオで作り始める。楽曲の一つが白鶴酒造のCMイメージソングに選ばれ、当時電通の社員だった新井満の勧めで、自ら作詞・作曲を手掛けたシングルレコード「優しい時の流れに」がビクター音楽産業から本名の ″福田三月子″ 名義でリリースした。同じ頃にコマーシャル音楽の制作会社に入社し、ディレクター見習いとして働き始め、江崎グリコ、大阪ガス、象印など多くのCM音楽を手掛ける。その後、戸川純のアルバム『極東慰安唱歌』に詞を書いてみないかと声が掛かり、「極東花嫁」を提供したことがきっかけで、作家事務所・株式会社フロムイーストに所属し作詞家としてプロデビューを果たす。
文仁親王妃紀子 は、日本の皇族。旧名は川嶋 紀子。身位は親王… 文仁親王妃紀子 は、日本の皇族。旧名は川嶋 紀子。身位は親王妃。敬称は殿下。お印は檜扇菖蒲(ひおうぎあやめ)。勲等は勲一等宝冠章。皇室会議予備議員。
守谷 絢子 は、日本の元皇族。日本郵船社員およびNPO法人「… 守谷 絢子 は、日本の元皇族。日本郵船社員およびNPO法人「国境なき子どもたち」理事・守谷慧の妻。勲等は宝冠牡丹章。
一青 妙 は、舞台女優・歯科医師・ナレーター・エッセイスト。… 一青 妙 は、舞台女優・歯科医師・ナレーター・エッセイスト。所属事務所はYs(ワイズ)。
承子女王 は、日本の皇族。
愛子内親王 は、日本の皇族。諱は愛子、御称号は敬宮(としのみ… 愛子内親王 は、日本の皇族。諱は愛子、御称号は敬宮(としのみや)、お印はゴヨウツツジ(五葉つつじ)。勲等は宝冠大綬章。身位は内親王。敬称は殿下。日本赤十字社常勤嘱託職員。今上天皇と皇后雅子の第1皇女。上皇と上皇后美智子の皇孫にあたる。2000年代に誕生した初の皇族で、2000年代に誕生した唯一の女性皇族でもある。現在、女性皇族11方かつ内廷皇族の最年少者。
千家 典子 は、日本の元皇族。出雲大社権宮司・千家国麿の妻。… 千家 典子 は、日本の元皇族。出雲大社権宮司・千家国麿の妻。勲等は宝冠牡丹章。
堀内 詔子 は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(6… 堀内 詔子 は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(6期)、総務副大臣。
上野 絢子(うえの じゅんこ)は、日本の財務官僚。外務省在フ… 上野 絢子(うえの じゅんこ)は、日本の財務官僚。外務省在フランス大使館参事官。 学習院女子高等科から東京大学に入学。東大法学部在学中はオーケストラでバイオリンを弾いていた。その一方で、バスケ部のマネージャーを務め、法律相談所にも所属していた。東大法学部卒業。 2004年 財務省入省(国際局国際機構課)。同期に篠田和哉、阿部敦壽、浅賀崇、越中隆広らがいる。G7を始めとする国際会議やIMF(国際通貨基金)に関する業務に従事。 2006年 福岡国税局調査査察部国税調査官。2007年6月からケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、オックスフォード大学へ留学。 2009年7月 関税局関税課国際機構係長。主にWTO(世界貿易機関)、APEC(アジア太平洋経済協力)を担当。
井上 麻里奈 は、日本の女性声優、ナレーター。東京都出身。青… 井上 麻里奈 は、日本の女性声優、ナレーター。東京都出身。青二プロダクション所属。
小島 慶子 は、エッセイスト、メディアパーソナリティ。元TB… 小島 慶子 は、エッセイスト、メディアパーソナリティ。元TBSアナウンサー。昭和女子大学現代ビジネス研究所特別研究員。
中村 瑞季(なかむら みずき)は、NHKのアナウンサー。 学… 中村 瑞季(なかむら みずき)は、NHKのアナウンサー。 学習院女子中・高等科、学習院大学法学部を卒業後、2023年4月、地域職員としてNHKに入局。初任地は、青森放送局。
chay は、日本の女性シンガーソングライター、ファッション… chay は、日本の女性シンガーソングライター、ファッションモデル。
平野 千恵子 はボストン美術館参考図書室の司書兼中国・日本美… 平野 千恵子 はボストン美術館参考図書室の司書兼中国・日本美術の特別研究員であり、浮世絵の研究で知られている。幼い頃から学問好きで、学校教育以外にも日本画、和歌、琴、華道などの日本文化を熱心に学び、また海軍軍人で海外出張が多かった父、平野為信の影響を受けて海外に興味を持った。津田梅子の女子英学塾を卒業し、1914年にはボストンのシモンズカレッジに留学して図書館学を専攻し、卒業後の1916年、ボストン美術館に司書として就職する。