スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
太田 敬三(おおた けいぞう、1902年12月27日 - 1… 太田 敬三(おおた けいぞう、1902年12月27日 - 1996年4月1日)は、日本の医学者、東宮侍医。専門は、小児科学。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、1926年東京帝国大学医学部医学科卒業。 1926年東大医学部薬理学教室に入り、1927年小児科副手となり、外来診察所医長、1934年医学部附属病院小児科医長兼講師、1937年宮内省侍医寮勤務を経て、1945年東京医学歯学専門学校(現・東京医科歯科大学)講師、のち教授。1949年初代東京医学歯学専門学校附属医院国府台分院長。1956年東京医科歯科大学医学部附属病院長。
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野澤 隆一(のざわ りゅういち、1902年〈明治35年〉5月… 野澤 隆一(のざわ りゅういち、1902年〈明治35年〉5月28日 - 1991年〈平成3年〉3月31日)は、日本のジャーナリスト、実業家。信越放送代表取締役社長、共同テレビジョンニュース社(現・共同テレビジョン)代表取締役社長を務めた。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第二高等学校を経て、1927年東京帝国大学経済学部卒業。 毎日新聞社入社。東京大学総長小野塚喜平次に懇望され東京大学学生課に勤務し東京大学新聞社を創設、主幹を務めた。小平権一のもとで大政翼賛会企画部長を務め、日本出版会理事、日本印刷工業会専務理事を経て、1951年信越放送の設立に参画し東京支社長、1955年同社代表取締役社長。
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濱 徳太郎(はま とくたろう、1901年(明治34年)10月… 濱 徳太郎(はま とくたろう、1901年(明治34年)10月13日 - 1975年(昭和50年)5月29日)は、日本の美学者、作曲家。 長野県諏訪郡湊村(現岡谷市)の素封家の出身。長野県諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、慶應義塾普通部卒業後、松本高等学校 (旧制)理科乙類に入学。在学中にオーケストラを結成、同校初期の寮歌である「春寂寥」「夕暮るる」「血は燃えさかる(雲にうそぶく)」を作曲し、6年間在籍した。東京帝国大学文学部で美学を専攻し、オートバイや自動車に強く惹かれる。1928年に卒業、大学院に進み、建築史を研究する。1931年、帝国美術学校(武蔵野美術大学の前身)教授。1932年5月から1935年11月までヨーロッパ留学。
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五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 198… 五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 1982年5月27日)は、日本の歌人・万葉学者。末弟は万葉学者の五味智英。長野県下諏訪町出身。 旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)、東京高等師範学校文科を経て、京都帝国大学国文科卒業。中学時代より叔母のアララギ派詩人・五味えい、同郷の島木赤彦の影響を受け、短歌の道を志した。1929年上京後、齋藤茂吉、土屋文明の指導を受けながら、アララギの中興や、歌誌「アララギ」の発行に携わり、特に戦後は、世田谷区奥沢の自宅を「アララギ」発行所として専念した。数多くの学校で教壇に立ち、東京第三師範学校や日本女子大学の教授も勤めた。1953年から1982年まで信濃毎日新聞歌壇撰者。
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小坂 隆雄(こさか たかお、1901年8月11日 - 197… 小坂 隆雄(こさか たかお、1901年8月11日 - 1979年8月20日)は、日本の生理学者、公衆衛生学者。 長野県岡谷市に生まれる。 長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1924年に満洲医科大学(現中国医科大学)を卒業後、同大学の生理学教室に入り、久野寧の発汗研究に従事する。 1929年、ロックフェラー財団のフェローシップをとり、北京協和医学院へ留学、林 可勝(ロバート・リム)(中国語版)の生理学教室へ入る。 1930年、林との協同研究により小腸由来の胃酸分泌抑制作用を発見し、作用を再現する物質をエンテロガストロンと命名する。その後、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン へ留学し、Sir Charles Arthur Lovatt Evans、 アーチボルド・ヒルの指導を受け、インスリン放出や血糖利用等代謝に関する研究を行う。
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高橋 庸弥(たかはし つねや、1901年(明治34年)5月1… 高橋 庸弥(たかはし つねや、1901年(明治34年)5月10日 - 1970年(昭和45年)2月7日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選鳥取県知事。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て第八高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し大分県属となる。 以後、警視庁特別高等警察部第一課長、石川県書記官・警察部長、内務省警保局警務課長、企画院書記官などを経て、大阪府警察局長となる。 1945年4月、鳥取県知事に就任。同年10月、厚生省労政局長に転じ、労働組合法の原案作成に関わった。
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小川 安朗(おがわ やすろう、1901年2月7日 - 199… 小川 安朗(おがわ やすろう、1901年2月7日 - 1991年3月20日)は、日本の服飾学者、文化女子大学名誉教授。 長野県諏訪郡永明村(現茅野市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京高等工業学校(現・東京工業大学)色染科卒業。陸軍被服本廠理化学部長、研究部長。戦後は繊維会社に勤務し繊維を研究、1962年文化女子短期大学教授、1964年文化女子大教授兼任。1972年定年退任、名誉教授。 世界各地の民族衣装を研究、1964年ヨーロッパ7か国を回り、57か国で研究、死去の直前まで中国雲南省で研究していた。
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矢島 八洲夫(やじま やすお、1900年3月28日 - 19… 矢島 八洲夫(やじま やすお、1900年3月28日 - 1983年9月2日)は、日本の新聞記者、ジャーナリスト。朝日新聞社常務取締役、こどもの国初代園長を務めた。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第八高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学法学部卒業。1924年朝日新聞社入社。総務局長、取締役を経て、常務取締役。 1963年の村山事件の際、横田武夫(取締役)、中川英造(取締役)、安井桂三郎(名古屋本社業務局長)らとともに辞表を提出。業務関係の役員不在という異常事態に陥るが、村山長挙が社長を辞任したことで同事件は収束し復職。1964年3月、元社長で大株主の村山長挙は矢島ら復職した5人の役員の職務執行停止の仮処分申請を裁判所に提出。
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三輪 知雄(みわ ともお、1899年12月27日 - 197… 三輪 知雄(みわ ともお、1899年12月27日 - 1979年12月27日)は、日本の植物学者、生化学者。筑波大学初代学長。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1922年(大正11年)に東京高等師範学校理科第三部卒業。千葉県の旧制中学校教諭を経て、同12年(1923年)東京帝国大学理学部植物学科入学、昭和2年(1927年)卒業。 昭和4年(1929年)東京高師講師、同5年(1930年)東京文理科大学助教授、同15年(1940年)教授を経て、同24年(1949年)東京教育大学理学部教授に就任。同29年(1954年)理学部長、同37年(1962年)学長を歴任した。
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牛山 清人(うしやま きよと、1899年10月8日 - 19… 牛山 清人(うしやま きよと、1899年10月8日 - 1991年9月2日)は、日本の実業家。美容室、化粧品、美容学校などで知られるハリウッド (企業)グループの創業者。 長野県諏訪市豊田小川の長野県士族牛山克躬・さわの夫婦の長男として生まれる。生まれてすぐ母親を亡くし、旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を卒業後、1917年(大正6年)に父をたよって単身渡米、ハリウッド・ハイスクール卒業。ハリウッドで早川雪洲の弟子として働くも俳優としては芽が出ず、メイキャップ担当に転身。 滞米中に初代メイ牛山(牛山春子)と結婚し、1924年に帰国し妻とともに神田三崎町に美容室を開店、宣教師ポール・ラッシュの支援で開いた軽井沢店の成功で軌道に乗り、夫婦で銀座にハリウッド美容室、京橋に美容学校のハリウッド美容研究室(ハリウッド美容講習所)を開設。
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古村敏章(こむら としあき、1899年〈明治32年〉4月24… 古村敏章(こむら としあき、1899年〈明治32年〉4月24日 - 2000年〈平成12年〉1月1日)は、日本の実業家。位階は正六位。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。長野県諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1931年丸興製糸(後の丸興工業)の創業に関わり、常任監査就任。専務を経て、1955年社長に就任。1962年長野県撚糸工業組合理事長。1964年市立岡谷蚕糸博物館初代館長。2000年死去。死没日付をもって正六位に叙された。
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両角 政人(もろずみ まさと、まさんど、1899年1月25日… 両角 政人(もろずみ まさと、まさんど、1899年1月25日 - 1988年12月30日)は、日本の新聞記者、スケート指導者。 長野県諏訪郡宮川村(現茅野市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校の前身)から早稲田大学政治経済学部に進み、1923年に体育会スケート部を創設し、第1回の学生選手権大会の組織などにあたり、1925年には日本学生氷上競技連盟を設立した。また、大学時代に学生新聞の編集に参画し、1926年に政治学科を卒業すると、報知新聞に入社し、運動部の設置に関わった。新聞記者として、報知新聞運動部長、読売新聞機報部長などを歴任するかたわら、1929年に発足した日本スケート連盟の運営に永く関わり、1937年以降、永く理事長を務めた。
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藤森 朋夫(ふじもり ともお、1898年7月18日 - 19… 藤森 朋夫(ふじもり ともお、1898年7月18日 - 1969年8月29日)は、日本の歌人、国文学者。 長野県諏訪郡四賀村(現・諏訪市四賀)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1925年に東京高等師範学校卒業、1929年東北帝国大学文学部国文科卒業。陸軍大学教授となる。戦時中は群馬県に疎開した。 1923年「アララギ」に加わり、島木赤彦、斎藤茂吉に師事。『万葉集』を中心とした上代文学を研究。1956年から1961年まで『茂吉研究』を発行。日本大学教授、東京女子大学教授、1964年定年退任、名誉教授。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJライトノベル)。
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小口 太郎(おぐち たろう、1897年(明治30年)8月30… 小口 太郎(おぐち たろう、1897年(明治30年)8月30日 - 1924年(大正13年)5月16日)は、日本の科学者、歌人。第三高等学校、東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同大学航空研究所入所。大学在学中に電信電話に関する発明をし、日本を始め諸外国に特許申請をし、許可を得ている。 科学者以外の彼を有名にしたのは、「琵琶湖周航の歌」の作詞者としてである。1917年、三高ボート部員として琵琶湖周航中、故郷諏訪湖に思いを馳せながら詩情豊かに作詞した「琵琶湖周航の歌」は、吉田千秋(新潟県出身、歴史地理学者吉田東伍の次男)の「ひつじぐさ」の原曲により現在まで広く歌われ続けている。この二人はお互いを知らず、それぞれ26歳と24歳で死去している。
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小松 直治(こまつ なおじ、1897年〈明治30年〉8月29… 小松 直治(こまつ なおじ、1897年〈明治30年〉8月29日 - 1985年〈昭和60年〉)は、日本の政治家。長野県諏訪市長。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)で、小松直助、ゑひ の長男として生まれた。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1919年(大正8年)東京高等商業学校専攻科を卒業した。 1928年(昭和3年)上諏訪町会議員(3期)に選出され、1929年(昭和4年)同町名誉職助役(3期)に就任。1939年(昭和14年)長野県会議員(4期)となり、1947年(昭和22年)から昭和24年(1949年)までと、1951年(昭和26年)から同28年(1953年)まで副議長を務めた。 1955年(昭和30年)に諏訪市長選挙に当選し、1963年(昭和38年)4月まで2期務めた。
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有賀 幸作(ありが こうさく、1897年(明治30年)8月2… 有賀 幸作(ありが こうさく、1897年(明治30年)8月21日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。戦艦大和最後の艦長として有名である。長野県南信地方に多い姓である有賀は、「ありが」ではなく「あるが」と読む例が多いが、当人は相手が聞き返すことを嫌い、ありがの読み方で通した。軍帽裏のネーム刺繍もアリガとしていた。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)に金物商・村長、有賀作太郎の長男(惣領)として生まれた。父の作太郎は旅順攻囲戦に参加して二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かるにいたった勇士だったが、息子の軍人志願には反対した。有賀は活発な少年として育ち、長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業。
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小岩井 浄(こいわい きよし、1897年〈明治30年〉6月9… 小岩井 浄(こいわい きよし、1897年〈明治30年〉6月9日 ‐ 1959年〈昭和34年〉2月19日)は、日本の社会運動家、教育者、弁護士、政治家。愛知大学第3代学長。 長野県東筑摩郡島立村(現在の松本市)に小岩井宗十の長男として生まれる。父・宗十は松本での分県移庁運動で検挙(のちに無罪)された経験のある社会運動家で、1902年に妻子を残して単身渡米し、カリフォルニアで農園経営者として成功したとも、消息を絶ったとも伝えられる。 1911年、旧制長野県立松本中学校(現在の長野県松本深志高等学校)に入学。1915年、同校を本荘太一郎校長との衝突を理由に中退。その後旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)に入学する[要出典]。
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秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年〈明治30年〉4月… 秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年〈明治30年〉4月12日 - 1947年〈昭和22年〉9月29日)は、日本の外交官。駐パナマ公使を経て、第二次世界大戦後、終戦連絡京都事務局局長を務めた。 長野県上伊那郡藤沢村(現伊那市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1920年(大正9年)、東京高等商業学校を卒業し、高等試験外交科に合格した。外務属となり、1922年(大正11年)には東京商科大学(現在の一橋大学)専攻部領事科を卒業した。領事官補、外務事務官・通商局第一課勤務、イタリア大使館三等書記官、同二等書記官、通商局第三課勤務・外務大臣秘書官、外務書記官・大臣官房電信課長、企画庁調査官・総裁秘書官、企画院書記官、中華民国大使館一等書記官、シドニー総領事を歴任。
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有賀 喜左衛門(あるが きざえもん、 1897年1月20日 … 有賀 喜左衛門(あるが きざえもん、 1897年1月20日 - 1979年12月20日 )は、日本の社会学者。日本の農村社会を独自のイエ・ムラ理論によって考究し、農村社会学の理論的確立を行なった。 1897年、長野県上伊那郡朝日村平出(現在の辰野町)の地主・六世有賀喜左衛門の長男として生まれた。幼名は道夫。1909年(明治42年)、朝日尋常高等小学校を卒業後、長野県諏訪中学校に入学し、寄宿生活を送った。1918年(大正7年)、第二高等学校文科乙類を卒業。同年9月、京都帝国大学法学部に進学。 1919年、京都帝国大学を中退し、同年7月東京帝国大学文学部に入学し、美術史学を専攻。当時の朝鮮に対する民族文化抑圧政策に強く抗議していた柳宗悦の影響を受け、朝鮮美術の研究に取り組み、卒業論文『新羅の仏教美術』としてまとめた。
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林 将英(はやし まさひで、1897年(明治30年) - 1… 林 将英(はやし まさひで、1897年(明治30年) - 1961年(昭和36年))は、日本の政治家。長野県岡谷市長。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)生まれ。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業[要出典]。1915年(大正4年)から家業の製糸業に従事。1917年(大正6年)一年志願兵として歩兵第50連隊に入隊し、1930年(昭和5年)陸軍中尉に進んだ。経営困難に陥った山一林組製糸の経営再建に乗り出し軌道に乗せた。このほか、共栄製糸など諏訪地方の複数の中小製糸会社の社長を歴任。 1927年(昭和2年)3月、平野村助役となり1933年(昭和8年)3月まで在任。同年4月、平野村会議員となり1936年(昭和11年)3月まで務めた。
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高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年… 高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年〉 - 1955年〈昭和30年〉9月18日)は、長野県岡谷市出身の洋画家。諏訪地域の美術界の草創期を支え、美術教育にも力を注いだ人物である。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校。教師に西岡瑞穂がいた)を経て、長野師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業。 1922年、岸田劉生に師事し、「夏牛」の雅号が贈られた。教員をしながら油絵を制作。母校である諏訪中学校で絵画部顧問を勤め、同部の教え子に矢崎博信がいる。 1937年、フランスへ留学しポール・セザンヌを研究。一水会会員、日展委嘱作家となった。
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両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2… 両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2月4日)は、日本の銀行家、考古学者。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。父は教育者の両角新治。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業した。長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)にあった小口(おぐち)銀行(現・八十二銀行)に勤務。旧制諏訪中学の同級生に彫刻家清水多嘉示がおり、生涯にわたって親交があった。1923年清水が絵画修行のために渡仏した際には、両角と立木茂が中心となり「渡欧後援画会」を組織し、フランス滞在時の清水の芸術を支えた。また、渡仏滞在費用は清水の父親と渡欧後援画会で支えた。その後、清水を通じて彫刻家アントワーヌ・ブールデルと交流があった。
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武居 三吉(たけい さんきち、1896年10月26日 - 1… 武居 三吉(たけい さんきち、1896年10月26日 - 1952年6月25日)は、日本の農芸化学者。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)生まれ。旧制長野県立諏訪中学校(長野県諏訪清陵高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1920年東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。 1922年から理化学研究所勤務。ハイデルベルク大学留学を経て、1928年京都帝国大学教授となる。1931年京都大学化学研究所所長に就任。1940年から1946年まで京都教育大学学長を務め、戦後は京都市の教育委員も務めたことがある。 主な研究内容としてはデリス根の有効成分ロテノンの化学構造を決定した。 祖父は製糸家の武居代次郎。
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古村 啓蔵(こむら けいぞう、1896年〈明治29年〉7月2… 古村 啓蔵(こむら けいぞう、1896年〈明治29年〉7月20日 - 1978年〈昭和53年〉2月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階および勲等は従四位・勲二等。戦艦「武蔵」の第2代艦長であり、坊ノ岬沖海戦では軽巡洋艦「矢矧」に乗艦。第二水雷戦隊を指揮していた。あだ名は「両舷直の親玉」。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒後、海軍兵学校45期を89名中10位の成績で卒業。病のため1年留年している。海軍兵学校の同期生では、坊の岬沖海戦時に共に戦った第二艦隊参謀長森下信衛少将、同郷同窓の戦艦「大和」艦長有賀幸作大佐(戦死後中将)が有名である。
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篠遠 喜人(しのとお よしと、1895年2月20日 - 19… 篠遠 喜人(しのとお よしと、1895年2月20日 - 1989年9月16日)は、日本の遺伝学者、科学史家、東京大学名誉教授。国際基督教大学元学長。 1895年(明治28年)、長野県下諏訪町生まれ。旧制長野県立諏訪中学(のち長野県諏訪清陵高等学校)、第八高等学校を経て、東京帝国大学理学部植物学科で学んだ。1920年(大正9年)に卒業。 1923年(大正12年)頃より、徳川生物学研究所に研究員として在籍。1929年(昭和4年)、学位論文『Chromosome studies in some dioecious plants : with special reference to allosomes(雌雄異株植物の染色體に関する研究 : 殊にアロゾームに就て)』を東京帝国大学に提出して理学博士号を取得。
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武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 198… 武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 1983年2月7日)は、童画家、版画家、童話作家、造本作家である。 童話の添え物として軽視されていた子供向けの絵を「童画」と命名し、芸術の域にまで高めた。武井武雄の童画は、大胆な構図や幾何学的な描線によって、モダンかつナンセンスな味わいを感じさせ、残された作品はいまもって古びていない。『コドモノクニ』をはじめとした児童雑誌の挿画、版画、図案(デザイン)、おもちゃの研究・創作「イルフ・トイス」、本自体を芸術作品と捉えた「刊本作品」、童画批評など多岐多彩な分野で作品を残した。 収集癖があり、日本全国の郷土玩具や郷土菓子を集め、郷土菓子169点について『日本郷土菓子図譜』(3巻)をまとめている。
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古村 誠一(こむら せいいち、1894年6月18日 - 19… 古村 誠一(こむら せいいち、1894年6月18日 - 1960年3月9日)は、日本の実業家。三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)代表取締役社長、日本電子金属(現・SUMCO)代表取締役社長を務めた。 長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1917年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)小樽支店長(小樽支店での部下に斎藤英四郎がいた。)を経て、1950年三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)取締役副社長、1956年代表取締役社長。その他、日本電子金属(現・SUMCO)代表取締役社長、三菱油化(現・三菱ケミカル)取締役、大日本塗料取締役を務めた。
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20代 宮坂 伊兵衛(みやさか いへえ、1893年〈明治26… 20代 宮坂 伊兵衛(みやさか いへえ、1893年〈明治26年〉9月 - 1974年〈昭和49年〉)は、日本の実業家、政治家。長野県諏訪市長(初代)。旧名は宮坂登。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に、酒造業「大布屋」第19代宮坂伊兵衛有紹の長男として生まれる。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、早稲田実業学校卒業。家業・宮坂伊兵衛商店、高島銀行で勤務。1921年(大正10年)第20代伊兵衛を襲名し、高島銀行頭取に就任。翌年以降、合併先の第六十三国立銀行、八十二銀行の監査役を務めた。1933年(昭和8年)法人化した宮坂醸造の初代社長となる。その他、諏訪倉庫監査役、昭和倉庫監査役なども務めた。
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山中 謙二(やまなか けんじ、1893年7月18日 - 19… 山中 謙二(やまなか けんじ、1893年7月18日 - 1974年2月15日)は、日本の西洋史学者。専門はドイツ中世史。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学西洋史学科卒業。日本大学予科講師、東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校・附属中学校)講師、第一高等学校講師を経て、1925年(大正14年)東京帝国大学文学部講師、助教授。1938年(昭和13年)同大学教授。退官後、東京大学名誉教授。日本大学文理学部講師。 1950年(昭和25年)6月から7月にかけて、昭和天皇は歴史関係の科学委員による合同進講を催し、山中は委員の1人となった。
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藤森 成吉(ふじもり せいきち、1892年8月28日 - 1… 藤森 成吉(ふじもり せいきち、1892年8月28日 - 1977年5月26日)は、日本の小説家、劇作家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)生まれ。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業、第一高等学校卒業、東京帝国大学文科大学独文科卒業。 東京帝大在学中に執筆した『波』で小説家として広く知られるようになった。1926年以降劇作に転向し『何が彼女をさうさせたか』が話題を呼んだ。社会主義への関心も深め、全日本無産者芸術連盟の初代委員長を務めた。このとき、細井和喜蔵の『女工哀史』の出版にも尽力している。1928年の第16回衆議院議員総選挙に、労働農民党公認で長野3区から立候補したが次々点に終わる。
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今井 梧楼(いまい ごろう、1892年(明治25年)2月11… 今井 梧楼(いまい ごろう、1892年(明治25年)2月11日 - 1944年(昭和19年)12月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。長野県岡谷市長。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)の今井千尋の長男として生まれる。今井家は中山道塩尻峠口の本陣を務めた名家。1910年(明治43年)3月、諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒業。 平野村役場勤務を経て、1923年(大正12年)同村助役に就任。1927年(昭和2年)9月より長野県会議員に3期連続で当選する。参事会員などを経て、1934年(昭和9年)平野村長に就任し、諏訪郡町村長会会長を兼任した。翌年の1935年(昭和10年)、諏訪郡農会長に就任し、ついで1936年(昭和11年)5月5日に市制施行とともに岡谷市長に就任した。
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中川 紀元(なかがわ きげん、1892年〈明治25年〉2月1… 中川 紀元(なかがわ きげん、1892年〈明治25年〉2月11日 - 1972年〈昭和47年〉2月9日)は、長野県上伊那郡辰野町出身の洋画家である。旧姓は有賀、本名は紀元次。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町樋口)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科入学。中退後、太平洋画会研究所、本郷絵画研究所へ通い洋画に転向、藤島武二にデッサンの指導を受け、また、二科会の重鎮であった石井柏亭や正宗得三郎にも師事。1907年(明治40年)から1914年(大正3年)まで玉川尋常小学校の図画工作の講師をしており、当時の校長は島木赤彦が勤めていた。教え子には堀内唯生がいた。
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伊藤 富雄(いとう とみお、1891年10月23日 - 19… 伊藤 富雄(いとう とみお、1891年10月23日 - 1968年1月29日)は、日本の政治家、郷土史家。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)に首席で入学するが、1番でなければ退学という父親の方針があり、3年1学期の時、母親の出産で田植えに追われて2番に下がったため中退。 農業に従事し、1941年中洲村産業組合(現・JA信州諏訪)組合長となる。1945年には中洲村長を兼務した。農業の傍ら、諏訪神社神長官守矢家に残された鎌倉時代から室町時代にかけての古文書解読を志し、中世古文書読解の専門家となった。 日本社会党に入党して農地改革を先導した。
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山岡 武(やまおか たけし、1891年 - 1982年5月)… 山岡 武(やまおか たけし、1891年 - 1982年5月)は、日本の技術者、実業家。 長野県岡谷市出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1917年東京帝国大学工科大学冶金学科卒業、官営八幡製鐵所(現・日本製鉄八幡製鉄所)入所。第2製銑課長、日本製鐵(現・日本製鉄)本店技術部長、広畑製鉄所製銑部長兼化工部長、同所技師長、同社常務取締役、同社代表精算人、同社監査役、日本鉄鋼協会会長を歴任。 官営八幡製鐵所、日本製鐵在職中は、製銑設備の拡充、改良に努めた。1981年日本鉄鋼協会共同研究賞(山岡賞)が設けられ、鉄鋼の学術技術における共同研究に多大な功績のあったグループに授与されている。
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片倉 三平(かたくら さんぺい、1890年12月15日 - … 片倉 三平(かたくら さんぺい、1890年12月15日 - 1977年3月29日)は、日本の実業家、長く日東紡績などの経営に当たった。妻・かずは2代目片倉兼太郎の次女。 片倉三平は、片倉財閥を興した片倉家の一員・片倉光治の三男として、長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)に生まれた。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京高等蚕糸学校(現東京農工大学)を卒業。その後、片倉合名会社社員となり、その北陸監督や、片倉共栄製糸社長、片倉越後製糸社長など、傘下の様々な企業の役職を兼務した。 1921年に片倉傘下となっていた福島紡織が改組され、新たに福島県郡山市を拠点とする日東紡績が1923年に設立された際には、片倉三平が初代社長に就任した 。
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名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975… 名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975年)は、日本の思想史学者、芸術学者。 長野県諏訪郡落合村(現・富士見町)生まれ。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、長野師範学校を卒業後、小学校に2年勤務後、1918年早稲田大学文学部卒業。 日本美術学校(後の日本美術専門学校)講師。1929年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授。1934年同校校長 北昤吉に学校二分案を提示し、翌1935年、同盟休校事件が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)が分離独立。1948年1月造型美術学園(現・武蔵野美術大学)経営顧問。1948年11月武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)校長。
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植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年… 植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年> 11月3日 - 1968年 <昭和43年> 5月9日)は、日本の精神医学者。位階は正四位。 長野県諏訪郡本郷村(現富士見町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1915年東京帝国大学医科大学卒業。同大学三浦内科、精神科に勤務。1918年渡米し、マサチューセッツ州立精神病院病理研究所員、ダンバース精神病院病理研究所員、ボストン精神病院病理研究所員、ハーバード大学医学部神経病理部講師。1923年論文「プルキンエ細胞樹枝突起と軸索における限局性腫脹について」で医学博士。慶應義塾大学医学部神経科講師。1925年同大学助教授、1926年同大学教授。
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千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、… 千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、日本の遺伝学者。 長野県諏訪市出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。女学校などでの教鞭の傍ら、遺伝学研究に没頭した。その実績が認められ、京都帝国大学に招かれ、京都帝国大学理学部助教授を務める。1940年日本遺伝学会賞受賞。 戦後、母校である旧制諏訪中学が新制諏訪清陵高校になるのに伴い、郷土出身の著名な学者を呼ぼうということになり、初代校長(旧制諏訪中学を含め第13代校長)を務めた。校長当時、生徒だった人物に、1996年に第5回相澤忠洋賞を受賞した考古学者武居幸重がいる。1937年京都帝国大学理学博士。論文の題は「黒猩々蝿の遺傳學的研究 」。
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塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - … 塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - 1965年(昭和40年)2月21日)は、日本の政治家、教育者。長野県諏訪市長。勲五等瑞宝章。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、長野師範学校卒業。諏訪郡高島小学校訓導、同郡宮川小学校長、上高井郡視学、長野県視学を経て、1933年(昭和8年)高島小学校長兼高島裁縫専修学校長となる。また諏訪教育会長として二・四事件の事後処理に奔走した。また郷土史研究に力を入れ、『諏訪史』の編集刊行に尽力し、1937年(昭和12年)第2巻後編の刊行代表者を務めた。また同年から『諏訪史料叢書』の刊行に当たった。
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宮坂 作衛(作衞、みやさか さくえ、1887年〈明治20年〉… 宮坂 作衛(作衞、みやさか さくえ、1887年〈明治20年〉7月 - 1933年〈昭和8年〉10月21日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、長野県諏訪郡上諏訪町長。 長野県諏訪郡上諏訪村角間(上諏訪町を経て現諏訪市)の白作呉服店・宮坂作之助の長男として生まれる。1906年(明治39年)諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業。上京して、1911年(明治44年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 帰郷して家業の白作呉服店の経営に加わる。1920年(大正9年)家督を相続。呉服店を成長させ、諏訪電気取締役、長野農工銀行取締役、上諏訪商工会議所会頭などを務めた。 政界では、1921年(大正10年)上諏訪町会議員に選出され、1923年(大正12年)長野県会議員となる。
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宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 19… 宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 1975年6月11日)は、日本の考古学者、茅野市尖石縄文考古館初代館長。 長野県考古学会初代会長。茅野市名誉市民。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。 1922年に泉野尋常高等小学校(現在の茅野市立泉野小学校)の代用教員となる。このころ俳人、小平雪人が主宰する句会「牧馬会(まきばかい)」に入会。以後小学校教員、中学校教員を務め、1929年、伏見宮博英王の八ヶ岳西側山麓の茅野市の尖石・与助尾根遺跡の発掘を、小平雪人とともに手伝う。その事から考古学の魅力に目覚め、研究を続ける。1930年宮坂が独力で尖石・与助尾根遺跡を発掘、縄文時代中期の集落(ムラ)研究の基礎を築いた。
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長田 新(おさだ あらた、1887年(明治20年)2月1日 … 長田 新(おさだ あらた、1887年(明治20年)2月1日 - 1961年(昭和36年)4月18日)は、日本の教育学者。広島大学名誉教授。専門は教育思想史。現在の長野県茅野市出身。 長野県諏訪郡豊平村(現:茅野市)出身。古田小学校下古田分校では、歌人島木赤彦の父、塚原浅茅教諭の教えを受ける。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、広島高等師範学校英語科を卒業後、大分師範学校の教諭を3年務めた後、1915年(大正4年)京都帝国大学文学部卒業。澤柳政太郎のもとで新教育運動に参加し、教育の実証的実験研究を行う。旧制広島文理科大学(広島大学の前身)教授在任中の1945年(昭和20年)8月6日広島に投下された原爆に被爆し重傷を負ったが、家族や教え子の看護で九死に一生を得た。
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今井 登志喜(いまい としき、1886年6月8日 - 195… 今井 登志喜(いまい としき、1886年6月8日 - 1950年3月21日)は、西洋史家、東京帝国大学名誉教授。 1886年、長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)で生まれた。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業し、第一高等学校に進学。東京帝国大学文科大学史学科に進み、1911年に卒業した。 1916年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)教諭に就いた。1920年より第一高等学校教授。1923年、東京帝国大学文学部助教授となり、同年から1926年まで文部省在外研究員として欧米に研究留学。1930年、教授に昇格した。また、1939年10月には文学部長に就任した。1947年、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となった。
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岩波 嘉重(いわなみ かじゅう、1886年 - 1974年)… 岩波 嘉重(いわなみ かじゅう、1886年 - 1974年)は、日本の実業家。日本ピラー工業(現・PILLAR)創業者。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京高等商船学校(現・東京海洋大学)卒業。1924年船舶用レシプロエンジンのシリンダーグランド用として国産第一号の船舶用パッキンである合金製ピラーパッキンを考案し、兵庫県神戸市灘区に日本ピラー工業所(現・PILLAR)を創業。1926年大阪府大阪市淀川区に本社・工場を新設。1948年株式会社に改組し、日本ピラー工業株式会社(現・株式会社PILLAR)を設立。
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吉川 晴十(きっかわ はるじゅう、1885年8月6日 - 1… 吉川 晴十(きっかわ はるじゅう、1885年8月6日 - 1952年6月5日)は、日本の冶金学者。 長野県諏訪郡玉川村(現・茅野市)に生まれる。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1907年旧制第一高等学校卒業、1910年東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業する。同年より呉海軍工廠付となる。 1911年にドイツに留学する。1914年にはイギリスに渡り、マンチェスター大学で研究員を務めた。 1915年、呉海軍工廠製鋼部造兵監督官に就任する。1922年に海軍造兵中佐となる。呉海軍工廠製鋼部長(1927年)を経て、1932年に海軍造兵少将に昇進した。 1933年に東京帝国大学教授に就任。
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金井 清(かない きよし、1884年〈明治17年〉12月7日… 金井 清(かない きよし、1884年〈明治17年〉12月7日 - 1966年〈昭和41年〉4月26日)は、日本の官僚、政治家。太平洋戦争前は鉄道官僚を歴任し、戦後に長野県諏訪市長を通算2期務めた。 長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市上諏訪)に生まれる。諏訪郡立実科中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)、東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1903年に第一高等学校に入学。3年次在学中の1905年、市河三喜に代わって動物学者のアンダーソンと行動をともにし、1906年にも協力する。1905年にアンダーソンに随行した際に、奈良県東吉野村鷲家口で、最後のものとされるニホンオオカミの捕獲個体(ただし猟師によりすでに殺されていた)に立ち会っている。
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宮坂 健次郎(みやさか けんじろう、1884年(明治17年)… 宮坂 健次郎(みやさか けんじろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1966年(昭和41年)11月6日)は、明治後期から昭和期の実業家、政治家。長野県岡谷市長。幼名・健吉。号・本郷子。 長野県諏訪郡小井川村(平野村を経て現岡谷市)で生まれた。後に健次郎を襲名。諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を2年で中退し、家業の宮坂製糸所を承継。1933年(昭和8年)味噌醸造業に転換し、1948年(昭和23年)宮坂味噌 (有) を設立して社長となる。岡谷商工会会頭、岡谷商工会議所会頭、諏訪信用金庫理事長、新松沢工業社長、岡谷冷蔵製氷会長、岡谷ライオンズクラブ会長などを務めた。 1925年(大正14年)4月から1936年(昭和11年)3月まで平野村会議員に在任し、同年4月、市制施行後は岡谷市会議員に選出され、1947年(昭和22年)4月まで務め、同議長にも在任した。
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小平 権一(旧字体: 小平 權一、こだいら ごんいち、188… 小平 権一(旧字体: 小平 權一、こだいら ごんいち、1884年1月6日 - 1976年8月1日)は、日本の政治家、農林官僚。衆議院議員。農本主義者。 長野県諏訪郡米沢村(現茅野市)に小学校教員の小平邦之助の長男として生まれる。旧制諏訪実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、旧制第一高等学校工科を途中休学。1910年に東京帝国大学農科大学を卒業し、さらに同法科大学政治科に入学。在学中の1913年に高等文官試験に合格し、翌年に卒業した。 農商務省に入り、農政課に配属。農政課小作分室長として石黒忠篤農政課長とともに小作立法に取り組む。1922年に産業組合の主管課である農務課長に就任、産業組合中央金庫の設立に中心的役割を果たした。
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牛山 傳造(うしやま でんぞう、1884年 - 1943年1… 牛山 傳造(うしやま でんぞう、1884年 - 1943年11月)は、日本の教育者、生物学者。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京高等師範学校(現・筑波大学)卒業。山口県での教諭を経て、1914年母校長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)教諭時、夜間に諏訪湖でプランクトンの採集中に、湖中に光るエビを発見した。これは、淡水域で発光するホタルエビが最初に確認されたものである。牛山は1921年に千葉県香取郡佐原町(現・香取市)でホタルエビが発見された後の1925年に、諏訪湖でのホタルエビについて母校東京高等師範学校博物雑誌に発表しており、当時、淡水域でホタル以外に発光生物が存在したことは驚きをもって迎えられた。
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原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏… 原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏訪市出身の画家。 諏訪市湖南の製糸業を営む家に生まれる。 長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1902年に医学を学ぶため単身渡米。親の希望で医学を学ぶも、美術に志向していく。 1905年 画家になる事を決め美術学校に入学。 1907年 美術学校で優秀な成績を修めイギリスに留学。ロンドンのPolytechnic School of Artに入学。高村光太郎と交流をもつ。 1908年 アメリカに戻る。10月よりニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ、翌年より帰国までナショナル・アカデミー・オブ・デザインにて学ぶ。
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