スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
佐野 正幸(さの まさゆき、1963年2月10日 - )は、… 佐野 正幸(さの まさゆき、1963年2月10日 - )は、日本の俳優である。静岡県藤枝市出身。元劇団四季。 幼稚園の頃、オルガン教室で音楽を始め、小学生の頃は6年間ピアノを習い、藤枝市立西益津中学校時代はコーラス部で活動していた。静岡県立藤枝東高等学校時代はブラスバンド部に所属し、高校卒業後は1浪を経て東京芸術大学声楽科に入学した。大学卒業後、先に劇団四季に入っていた同級生に誘われ、『コーラスライン』や『ウェストサイド物語』を観てオーディションを受けることを決め、1986年のオーディションに合格し半年後に『ジーザス・クライスト=スーパースター』のペテロ役でデビュー。 その後は『キャッツ』スキンブルシャンクス、『美女と野獣』ビースト、『オペラ座の怪人』ラウル、怪人、等主要キャストとして活躍。
倉田 安治(くらた やすはる、1963年2月1日 - )は、… 倉田 安治(くらた やすはる、1963年2月1日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー。 藤枝東高校3年次の高校選手権(1979年度)に出場、優勝候補の一角と目されたが1回戦敗退に終わった。卒業後は筑波大学に進学。4年次の1985年にユニバーシアード代表 に選出され、同年8月の神戸大会に出場しベスト4進出に貢献した。 1986年に本田技研工業に入部。また同年に日本代表に選出され、1987年のソウル五輪アジア予選など国際Aマッチ6試合に出場。1989 FIFAフットサル世界選手権にフットサル日本代表として出場した。北澤豪共々読売サッカークラブ所属選手として日本リーグ最終シーズンを過ごした。
大橋 昭好(おおはし あきよし、旧姓:菅藤、1962年12月… 大橋 昭好(おおはし あきよし、旧姓:菅藤、1962年12月11日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。 藤枝東高校2年時に高校選手権に出場し、初戦敗退。 卒業後の1981年に日本サッカーリーグのヤマハ発動機(後のジュビロ磐田)に加入。2年目の1982年シーズンに出場機会を得ると、JSL2部優勝に貢献。天皇杯では決勝のフジタ工業戦を無失点に抑えてチームの初優勝に貢献した。 翌1983年、大学NO.1キーパーと称され、後に日本代表となる森下申一が加入すると、出場機会を失うようになった。「シュートに対する反応の早さ」が持ち味の森下に対して、1対1の強さに定評があったが、ヤマハではJSL1部通算12試合出場に留まった。
青山 雅幸(あおやま まさゆき、1962年〈昭和37年〉3月… 青山 雅幸(あおやま まさゆき、1962年〈昭和37年〉3月2日 - )は、日本の政治家、弁護士。元衆議院議員(1期)。弁護士法人ライトハウス法律事務所代表弁護士。自由共和党代表。 静岡県静岡市駿河区出身。静岡県立藤枝東高等学校、東北大学法学部卒業。 1994年に静岡市葵区にて弁護士を開業する。全国B型肝炎訴訟静岡弁護団団長、カネボウ美白化粧品被害静岡県弁護団団長、浜岡原発廃炉訴訟弁護団事務局長などを務める。 2016年8月、次期衆院選の静岡1区の公認候補者を巡って、元衆議院議員の牧野聖修ら民進党静岡1区総支部役員は青山を推した。一方、同党県連は浜岡原発への姿勢などを理由に青山に難色を示し、元メリルリンチ日本証券社員の福村隆を推した。
萩原 章史(はぎわら あきふみ、1962年1月23日 - )… 萩原 章史(はぎわら あきふみ、1962年1月23日 - )は、日本の実業家。株式会社食文化代表取締役。創業者。株式会社日本食材情報代表取締役。株式会社食元気代表取締役。北谷稲荷神社で神職(権禰宜)の仕事も兼任。地方の食文化継承と小規模な生産者や販売者を盛り上げ地域経済への貢献で、地方創生に尽力している。一般社団法人ベジマカ協会理事長。 静岡県島田市に生まれる。1980年、静岡県立藤枝東高等学校を卒業。1984年、早稲田大学政治経済学部を卒業。2000年12月31日、39歳11ヶ月で大手ゼネコンを退職。2001年4月2日、株式会社食文化を創業。2001年8月、ECサイト『うまいもんドットコム』の運営開始。
小川 佳実(おがわ よしみ、1959年6月23日 - )は静… 小川 佳実(おがわ よしみ、1959年6月23日 - )は静岡県出身の元サッカー審判員(国際主審)。アジアサッカー連盟 (AFC) 審判部長(レフェリーディレクター)、日本サッカー協会 (JFA) 審判委員長を歴任した。 静岡県立藤枝東高等学校を経て筑波大学体育専門学群に進学。在学中は蹴球部でプレーし、帰郷後高校教諭を務める傍ら、教員チームでもプレーをした。現役引退後審判としての活動を本格化させ、1994年のヤマザキナビスコカップでは決勝の主審も務めた。 1997年3月に教員を辞め、翌月から日本サッカー協会 (JFA) の職員となり、審判部部長代理としてサッカー審判関係の取りまとめに従事(この時の業務負担の兼ね合いから1998年に審判員としての活動から退いている)。
榊原 秀訓(さかきばら ひでのり、1959年 - )は、日本… 榊原 秀訓(さかきばら ひでのり、1959年 - )は、日本の法学者、南山大学教授。元民主主義科学者協会法律部会理事。行政法が専門。 静岡県生まれ。藤枝東高等学校卒。1982年名古屋大学法学部卒、87年同大学院法学研究科博士後期課程満期退学。名古屋大学法学部助手、鹿児島大学法文学部助教授、名古屋経済大学法学部助教授、同教授、南山大学法学部教授、法務研究科教授。
大野 聖吾(おおの せいご、1958年5月28日 - )は、… 大野 聖吾(おおの せいご、1958年5月28日 - )は、日本のサッカー指導者。元岐阜工業高等学校サッカー部監督。アルビレックス新潟の成岡翔は甥。 静岡県藤枝市出身。藤枝東高校3年時に静岡県選抜に選出され国体で優勝。高校卒業後に筑波大学へ進学すると大学選手権優勝2回(1979年、1980年)、関東大学リーグ優勝1回(1980年)に貢献。4年時の1980年には全日本学生選抜に選出されマラハリムカップに出場した。 卒業後は日本サッカーリーグの数チームからの誘いを固辞して教員の道を選び、岐阜藍川高校、岐阜工業高校、大垣北高校、大垣工業高校のサッカー部監督を歴任。 岐阜工業高校時代の1998年の高校総体では準優勝。
山村 明義(やまむら あきよし、1958年3月3日 - )は… 山村 明義(やまむら あきよし、1958年3月3日 - )は、日本の鉄道技術者、実業家。2017年6月 - 2025年6月にかけて東京地下鉄株式会社(東京メトロ)代表取締役社長を務めた。 茨城県新治郡八郷町(現・石岡市)生まれ。その後静岡県に転居。1976年静岡県立藤枝東高等学校卒業。1980年東北大学工学部土木工学科卒業。2007年筑波大学大学院ビジネス科学研究科(修士課程)修了。2019年千葉工業大学より博士(工学)の学位を取得。 東北大学工学部卒業後の1980年に、当時の帝都高速度交通営団に入団。元々土木技術が専門で、営団では地下鉄の土木工事・保線などを主に担当していた。後に技術畑を離れ、経営企画、秘書室などを経て、2004年に営団が民営化され東京地下鉄株式会社となった際に人事部に異動。
池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、… 池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、静岡県藤枝市出身のサッカー指導者。 筑波大学卒業後、静岡県サッカー教員団で指導者のキャリアをスタートさせる。以降は地元静岡県を中心に中高生を指導した。2004年にJFA Proライセンスを取得。 2023年7月19日、WEリーグ・ちふれASエルフェン埼玉の監督に就任。66歳にして初の女子の指導となる。 2024年10月16日に検査入院のため指揮から離れることが発表され、12月18日に健康上の都合で正式にちふれASエルフェン埼玉監督を辞任した。
池田 潔(いけだ きよし、1956年12月 - )は、日本の… 池田 潔(いけだ きよし、1956年12月 - )は、日本の薬学者(医薬分子機能学)。学位は薬学博士(静岡薬科大学・1984年)。広島国際大学薬学部教授。 1956年生まれ。静岡薬科大学に進学し薬学部薬学科にて薬学を学び、1979年に卒業し薬学士となった。卒業後は、同大学の大学院に進み、薬学研究科製薬学専攻に在籍した。1981年に博士前期課程を、1984年に博士後期課程を それぞれ修了し、薬学博士となった。博士論文の題は 「炭素上の諸種のアミノメチル化反応の開発と単環性β-ラクタム合成へのアプローチ」。 大学院修了後は、同大学の薬学部にて研究生や助手として過ごした。 静岡薬科大学が静岡女子大学や静岡女子短期大学と統合され、新たに静岡県立大学が設置されると、そちらの薬学部でも助手や講師を務めた。
服部 康雄 (はっとり やすお、1956年 - )は日本出身… 服部 康雄 (はっとり やすお、1956年 - )は日本出身のサッカー指導者、元サッカー選手。選手時代のポジションはMF。静岡県教育委員会スポーツ振興室主席指導主事を経て、静岡県立静岡西高等学校副校長、静岡県立島田工業高等学校校長。現在は静岡県サッカー協会専務理事を務める。 藤枝市立藤枝中学校3年次の全国中学校サッカー大会で準優勝。高校は地元の静岡県立藤枝東高等学校へ進学。1年次からレギュラーの座を掴み、1972年度、1973年度の全国高等学校サッカー選手権大会では中村一義らと共に2年連続準優勝に貢献した。 大学は東京教育大学(筑波大学の前身)に進学したが腰の怪我のためトップレベルでのプレーを断念。
広瀬 一郎(ひろせ いちろう、1955年9月16日 - 20… 広瀬 一郎(ひろせ いちろう、1955年9月16日 - 2017年5月2日)は、日本のスポーツコンサルタント、実業家。2013年の静岡県知事選挙では広瀬 イチロー(ひろせ いちろー)名義で立候補した。 株式会社電通第八連絡局、株式会社電通コーポレートコミュニケーション局勤務を経て、株式会社スポーツ・ナビゲーション代表取締役、独立行政法人経済産業研究所上席研究員、スポーツ総合研究所株式会社代表取締役所長、江戸川大学社会学部教授、多摩大学大学院教授、特定非営利活動法人スポーツマンシップ指導者育成会理事長などを歴任した。 広告代理店である電通に勤務し、スポーツイベント事業に携わっていた。電通退職後は、自身が設立し経営する「スポーツ総合研究所」の代表取締役を務めている。
中村 一義(なかむら かずよし、1955年4月8日 - )は… 中村 一義(なかむら かずよし、1955年4月8日 - )は、日本の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW(左ウイング)。静岡県藤枝市出身。川崎フロンターレの前身である富士通サッカー部などに所属し、日本代表としても、国際Aマッチ5試合に出場し1得点した。 西益津中学校3年次に全国中学校サッカー大会優勝に貢献し注目される。高校はサッカーの名門藤枝東高校に進学するとレギュラーの座を掴み、4-2-4システムを採用する同校の左ウイングとして、第51回大会(1973年)と第52回大会(1974年)の全国高校サッカー選手権大会の2年連続準優勝に貢献した。主将として挑んだ3年次の高校選手権決勝の北陽高校戦では自身の上げた得点がオフサイドと判定される不運もあった。
市川 正人(いちかわ まさと、1955年 - )は、日本の法… 市川 正人(いちかわ まさと、1955年 - )は、日本の法学者。専門は公法学・憲法学。立命館大学大学院法務研究科(法科大学院)教授。専門分野は、表現の自由論、憲法訴訟論。学位は法学博士(京都大学)。司法試験考査委員(2002年~2007年)。静岡県出身。
碓井 博行(うすい ひろゆき、1953年8月4日 - )は、… 碓井 博行(うすい ひろゆき、1953年8月4日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。サッカー選手の碓井健平は実子。 強烈なキック力を持ち、得意とした右斜め45度エリアからのシュートで多くのゴールを挙げたストライカー。 静岡県立藤枝東高等学校、早稲田大学を経て、1976年にJSLの日立製作所(現柏レイソル)に入部。2度のJSL得点王(1980年、1982年)に輝き、「第55回天皇杯全日本サッカー選手権大会」、「第1回JSLカップ」優勝に貢献した。1988年に現役引退するまでJSL通算200試合出場85得点28アシストの記録を残している。 1974年から日本代表に名を連ね、「1978 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選」、「1980年モスクワオリンピック」予選に出場。
堀井 美晴(ほりい よしはる、1953年3月16日 - 20… 堀井 美晴(ほりい よしはる、1953年3月16日 - 2025年8月23日)は、静岡県藤枝市出身の元日本代表サッカー選手、コーチ・監督。 静岡県の藤枝東高校卒業後、日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマー(現セレッソ大阪)でプレーし、JSLでは通算204試合出場46得点を記録した。 引退後はヤンマーのコーチ、セレッソ大阪のスカウト、ガンバ大阪のコーチ、サテライトチームの監督を務めた後、2001年に川崎フロンターレ監督に就任した。しかしチームの調子は上がらずシーズン途中で解任された。その後は2003年に神戸国際大学サッカー部監督、2004年にジュビロ磐田ヘッドコーチを務め、2005年から2007年まで川崎フロンターレU-18の監督であった。
青木 裕史(あおき ひろし、本名:青木 清、1952年1月1… 青木 裕史(あおき ひろし、本名:青木 清、1952年1月10日 - 2020年12月19日)は、日本の歌手。静岡県藤枝市出身。 静岡県立藤枝東高等学校、東京芸術大学音楽学部声楽科卒業。大学在学中から、NHK教育テレビ番組にレギュラー出演。第12回日本シャンソンコンクール入賞を機に、ポピュラー界に転向。 2020年12月19日、脳梗塞のため東京都練馬区の自宅で死去。68歳没。
小長谷 喜久男(こながや きくお、1950年7月16日 - … 小長谷 喜久男(こながや きくお、1950年7月16日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者、Jリーグクラブフロントスタッフ。 明治大学卒業後、ヤマハ発動機サッカー部(現・ジュビロ磐田)に入部して選手としてプレー。 引退後の1987年にヤマハの監督に就任。就任初年度の1987/88シーズンにチームを日本サッカーリーグ(JSL)1部優勝に導いている。ヤマハがジュビロ磐田へと移行した後はフロントスタッフとしてチームの躍進を支えた。 1999年11月からはメインスポンサーフジタの撤退で存続が危ぶまれていたベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)の運営を引き継ぐ新法人・株式会社湘南ベルマーレの社長に就任、3年半にわたり社長を務め、クラブの経営を立て直した。
山田 静雄(やまだ しずお、1949年2月 - )は、日本の… 山田 静雄(やまだ しずお、1949年2月 - )は、日本の薬学者(薬物動態学・薬効解析学)。学位は薬学博士(静岡薬科大学・1976年)。静岡県立大学附属薬食研究推進センターセンター長・大学院薬学研究院特任教授。 静岡薬科大学薬学部助手、アリゾナ大学医学部博士研究員、静岡薬科大学薬学部講師、静岡県立大学薬学部教授、静岡県立大学副学長、静岡県公立大学法人理事、静岡県立大学学長補佐などを歴任した。 1949年2月生まれ。静岡薬科大学に入学し、薬学部薬学科にて薬学を学び、1971年3月に卒業した。卒業後は同大学の大学院に進み、薬学研究科の修士課程を1973年3月に修了した。さらに同研究科にて博士課程に進む。
井澤 千秋(いざわ ちあき、1949年1月28日 - 201… 井澤 千秋(いざわ ちあき、1949年1月28日 - 2018年9月10日)は、日本(静岡県藤枝市出身)の元サッカー選手、元サッカー指導者。 現役時代のポジションはミッドフィールダー。元サッカー日本代表。 日本サッカーリーグでは、102試合出場し、通算6得点、通算6アシストを記録。また、日本U-20代表として1967年から1968年にかけて2試合に出場。1971年から1972年には日本代表に選出されたが、国際Aマッチの出場はなかった。 1987年より明治大学サッカー部コーチを務め、監督を経て総監督、GM(ゼネラルマネージャー)を歴任。 藤枝市立西益津中学校、静岡県立藤枝東高等学校を経て明治大学に進学。
松永 章(まつなが あきら、1948年8月8日 - )は、静… 松永 章(まつなが あきら、1948年8月8日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ゴールへの嗅覚の鋭さから「ハイエナ」の異名で呼ばれたストライカーである。 1967年の藤枝東高校3年次にはキャプテンとして同校を戦後初となる選手権、高校総体、国体の3冠獲得に導き(なお、3年時の公式戦の記録は72戦70勝2分である)日本ユース代表に選出された。その後、早稲田大学を経て、1971年に日本サッカーリーグの日立製作所サッカー部に入部した。 日立では監督・高橋英辰の厳しい指導の下「走る日立」の異名で呼ばれたチームの中心選手として1972年の日本リーグ初制覇に貢献。また、得点ランキングにも常に顔を出し、釜本邦茂とは毎年激しい得点王争いを繰り広げ、2年連続で得点王(1972年、1973年)に輝いた。
桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日… 桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。静岡県藤枝市出身。フットメディアに所属。 現役時代は古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド市原・千葉の前身)で16年間にわたりプレーし、現役晩年にはコーチも兼任。PJMフューチャーズ/鳥栖フューチャーズでも選手兼任コーチを務め、1989年12月9日の天皇杯一回戦(対TDK戦)では、熊谷義一に代わり41歳という年齢で交代出場を果たしている。[要出典]1996年に強化育成アドバイザーとしてジュビロ磐田入りした。 1997年にトップチームコーチに就任し、監督のルイス・フェリペ・スコラーリの下で指導を行う。
岡村 新太郎(おかむら・しんたろう、1948年4月21日 -… 岡村 新太郎(おかむら・しんたろう、1948年4月21日 - 2013年4月26日)は、日本の元サッカー選手、指導者。 静岡県藤枝市出身。現役時代は静岡県立藤枝東高等学校、法政大学、日本鋼管でプレイした。 静岡県立藤枝東高等学校時代には同級生に松永章(後に日立製作所)と桑原隆(後に古河電気工業を経てジュビロ磐田監督)がおり、彼らと共に高校3年次には1966年(昭和41年度)の全国高等学校サッカー選手権大会、全国高等学校総合体育大会、第21回国民体育大会(大分県)少年の部を全て制覇し、史上初の高校三冠の栄冠に輝いた。 高校卒業後に法政大学へ進学、大学4年次では主将に任命され、1970年の第19回全国大学サッカー選手権大会で優勝を果たした。
北村 正平(きたむら しょうへい、1946年〈昭和21年〉8… 北村 正平(きたむら しょうへい、1946年〈昭和21年〉8月30日 - )は、日本の政治家。静岡県藤枝市長(5期)。 藤枝市立藤枝小学校、藤枝市立藤枝中学校、静岡県立藤枝東高等学校、東京農業大学農学部卒業。1969年に静岡県庁に入庁。農業水産部長等を経て、2007年に退職。 2008年5月25日に行われた藤枝市長選挙に出馬し、現職の松野輝洋を約1万2000票差で破り初当選した。6月20日、市長就任。 2012年、無投票により再選、2016年、無投票により3選。2020年、無投票により4選。 2024年の市長選挙は元兵庫県議会議員の小西彦治が立候補したことにより、16年ぶりの選挙戦となったが、5回目の当選を果たした(投票率54.97%)。
山口 芳忠(やまぐち よしただ、1944年9月28日 - )… 山口 芳忠(やまぐち よしただ、1944年9月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。1968年メキシコシティーオリンピックにおいて日本代表が銅メダルを獲得した時の選手の一人。藤枝市初代市長の山口森三は父に当たる。 静岡県藤枝市出身。藤枝東高校時代はフォワードとしてプレー。日本ユース代表に選出され、1962年、1963年のアジアユース大会に出場した。 中央大学に入学してサッカー部に入部し、ディフェンダーへ転向。4年次には主将を務め1966年の関東大学リーグ制覇に貢献した。 また大学在学中の1964年に日本代表に選出され10月16日の東京オリンピック1次リーグガーナ戦で国際Aマッチデビュー を飾り、これ以降左サイドバックのレギュラーとして定着。
菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -202… 菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -2022年12月2日)は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立藤枝東高校時代に全国選手権大会で優勝した実績を持つ。明治大学を経て、1968年に三菱重工業サッカー部に加入し、サイドバックとして三菱黄金時代を支えた。また、1969年6月19日のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦で日本代表として初出場した。 1974年に現役を一度引退。地元に戻り家業を継ぐ。1976年、藤枝市の志太クラブに入団。静岡県社会人サッカーリーグでプレーし、1980年には選手兼任監督に就任した。 将来の日本サッカーをリードしようと1982年に創部した中央防犯サッカー部に監督として入社。
桑原 勝義(くわはら かつよし、1944年5月30日 - … 桑原 勝義(くわはら かつよし、1944年5月30日 - )は静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現・静岡県サッカー協会専務理事、日本サッカー協会理事、日本フットボールリーグ理事長。実弟は桑原隆。 1962年度高校サッカー選手権で静岡県立藤枝東高等学校が初優勝した時の中心選手。卒業後は日軽化工清水工場、名古屋相互銀行(以下、名相銀)などに所属し、1965年には日本代表に選出され国際Aマッチ2試合に出場した。 1971年、名相銀の解散で選手は引退し、銀行の仕事に専念するつもりでいたが、日本サッカー協会の幹部・長沼健に勧められ、生まれ育った静岡に日本リーグのチームをという仕事にロマンを感じ銀行職を捨て、翌1972年、前年創設された本田技研工業サッカー部に加入。
富沢 清司(とみざわ きよし、1943年12月3日 - )は… 富沢 清司(とみざわ きよし、1943年12月3日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはフルバック(FB)。 八幡製鉄(現・日本製鉄)サッカー部に所属。19歳にして日本代表に選出された経歴を持ち、1964年の東京オリンピック、1968年のメキシコシティオリンピックに出場。国際Aマッチ通算9試合に出場し、2得点を挙げた。主にストッパーを担当し、1対1の場面における粘り強いディフェンスを得意としていた。 2009年に開催された全国健康福祉祭(ねんりんピック)の静岡県選抜チームのメンバーとして出場したと報じられた。
川合 正矩(かわい まさのり、1943年9月30日- )は… 川合 正矩(かわい まさのり、1943年9月30日- )は、日本の経営者。日本通運社長、会長を務めた。静岡県榛原郡金谷町(現・島田市)出身。 静岡県立藤枝東高等学校を経て、1966年に東京大学法学部を卒業し、日本通運に入社。九州営業本部長、取締役兼執行役員を経て、2003年6月に副社長に就任し、2005年5月には社長に昇格した。2011年6月から会長を務めた。社長時代に「ペリカン便」として展開していた宅配事業を日本郵政グループに譲渡。インド企業の買収により海外事業の強化に力を入れた。 2007年に国土交通省から自動車関係者功労者大臣表彰を受賞。
橡尾 健次(とちお けんじ、1941年5月26日 - )は日… 橡尾 健次(とちお けんじ、1941年5月26日 - )は日本出身の元サッカー選手。 古河電工などに所属。古河電工での日本サッカーリーグ通算成績は61試合1得点1アシスト。日本代表としても1962 FIFAワールドカップ・チリ大会予選など、国際Aマッチ2試合に出場した。
大宇根 弘司(おおうね ひろし、1941年 - )は、日本の… 大宇根 弘司(おおうね ひろし、1941年 - )は、日本の建築家である。社団法人である日本建築家協会(JIA)会長、東京理科大学の非常勤講師などを歴任した。静岡県生まれ。 1960年静岡県立藤枝東高等学校卒業。1965年東京大学工学部建築学科卒業、前川國男建築設計事務所入所。山梨県立美術館の設計を担当。1982年大宇根建築設計事務所設立。代表作に(仮称)麻布子ども中高生プラザ等複合施設(設計プロポーザルで選定)。東京エレクトロン仙台事業所研究開発施設2号棟、芸術の森公園・山梨県立文学館、夢の島熱帯植物館など。
油井喜夫(ゆい よしお、 1940年 - )は、日本の社会運… 油井喜夫(ゆい よしお、 1940年 - )は、日本の社会運動家、社会運動研究家。新日和見主義事件に遭い、のちにこれを考察する書籍を著した。 6歳のとき中国・遼寧省遼陽より引揚。静岡県立藤枝東高等学校、通信教育課程を経て慶應義塾大学を卒業。静岡県職員、司法書士などに従事。 労働組合運動、青年運動などに携わる。日本民主青年同盟班長・同地区委員長・同県委員長・同中央委員、日本共産党静岡県委員などを歴任。 日本共産党静岡県委員、日本民主青年同盟中央委員・静岡県委員長在任時の1972年5月、分派活動の疑いで査問され、処分を受ける。これらの役職をすべて罷免され、足かけ3年にわたって党員権を停止された。(新日和見主義事件) 以後事件について沈黙を守っていたが、川上徹が事件の実態や問題点を世に問う『査問』(筑摩書房)を1997年12月に刊行したことをきっかけに、自身の経験を通して事件について明らかにすることを決意。
野本 寛一(のもと かんいち、1937年2月14日 - )は… 野本 寛一(のもと かんいち、1937年2月14日 - )は、日本の民俗学者。学位は、文学博士(筑波大学・論文博士・1988年)(学位論文「生態民俗学序説」)。近畿大学名誉教授。徹底したフィールドワークから得た資料に基づく画風で知られ、「環境民俗学」を構築した。瑞宝重光章受章。文化功労者。 静岡県出身。1959年、國學院大學文学部卒業。1988年『生態民俗学序説』で文学博士(筑波大学)。同年4月、近畿大学民俗学研究所助教授。1993年、同大学文芸学部文化学科教授。 1996年、近畿大学付属民俗学研究所所長、2004年、柳田国男記念伊那民俗学研究所所長(〜2011年)、2005年近畿大学特任教授。
千野 忠男(ちの ただお、1934年1月21日 - 2008… 千野 忠男(ちの ただお、1934年1月21日 - 2008年7月17日)は、静岡県藤枝市出身の大蔵(財務)官僚。血液型はO型。国際金融局長、財務官、アジア開発銀行総裁などを歴任。正四位瑞宝重光章。 ざっくばらんで竹を割ったような性格。主計局主計官補佐時代には農林係主査を5年間務め、省内きっての農政通とされていた。 事務次官候補として主計官補佐(主査)、主計局総務課企画官、主計官、大臣官房文書課長、近畿財務局長を経験していたが、大学時代にスタンフォード大学に長期間留学していたため、他の同期より年齢が上で、主計局長→事務次官の順番待ちの最中に定年の壁に引っかかるため、同期の篠沢を主計コースとし、千野は財務官となる国際金融コースへと変更となった。
山田 重雄(やまだ しげお、1931年10月26日 - 19… 山田 重雄(やまだ しげお、1931年10月26日 - 1998年2月5日)は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身のバレーボール指導者。バレーボール日本女子代表監督を務めた。旧姓は中村。 静岡県立藤枝東高等学校、東京教育大学卒業。大学在学中、八王子市で「山田の森」と言われる広大な土地を所有するも子供がいなかった山田義治・三枝子夫妻の養子となる。 大学卒業後に教員として赴任した東京都立三鷹高等学校の女子バレーボール部監督として生沼スミエ等を指導し、1963年の全国高等学校総合体育大会バレーボール競技大会で優勝。1964年、東京五輪の女子バレーボールで日本が優勝し、バレーボール人気が高まる中、1965年に日立武蔵の監督に転身。
小川 国夫(おがわ くにお、1927年(昭和2年)12月21… 小川 国夫(おがわ くにお、1927年(昭和2年)12月21日 - 2008年(平成20年)4月8日)は、日本の小説家。静岡県藤枝市出身。大阪芸大教授。 20歳でカトリックに入信。仏留学中に地中海沿岸を巡った経験から書いた『アポロンの島』が島尾敏雄の推挽により注目を集め、「内向の世代」の代表作家と目された。堅固で簡潔な文体でもって、自然や人間存在の原形を描き出し、聖書の世界を描く物語やエッセイを数多く手がけた。日本芸術院会員。 三男の小川光生は、サッカーライター・翻訳家。 静岡県志太郡藤枝町長楽寺(現在の藤枝市本町)に小川富士太郎・まきの長男として生まれる。母まきの弟は竹内壽平。1933年、青島幼稚園に入園。
松澤 智(まつざわ さとし、1927年(昭和2年)10月11… 松澤 智(まつざわ さとし、1927年(昭和2年)10月11日 - 2003年(平成15年)4月6日)は、日本の法学者。元日本大学法学部教授。元東京地裁判事。元TKC全国会最高顧問。専門は租税法。 静岡県立志太中学校(現藤枝東高等学校)を卒業後、日本大学法文学部に進学。1950年日本大学法文学部卒業。 弁護士・租税法学会理事、日本税法学会理事、日本公法学会会員、法務大臣官房訟務部付検事、国税不服審判所審判官、東京地方裁判所判事、日本大学法学部教授、政務税制調査会委員等を歴任。1997年TKC全国会会長。 東京地裁判事時代には、ロッキード事件の公判審理も担当をした。租税判例研究として従来からあった判例の解釈・解説に対して、憲法を基本に置いて判例研究と実践を行った北野弘久、会計と租税実務を基本に置いて緻密な論理を展開した松澤智の両名は1つの時代を築いたと言えるだろう。
小泉 保(こいずみ たもつ、1926年2月20日 - 200… 小泉 保(こいずみ たもつ、1926年2月20日 - 2009年12月18日)は、日本の言語学者、文学者(ウラル語学、フィンランド文学研究)。勲等は瑞宝中綬章。学位は博士(文学)(東京大学・論文博士・1995年)。関西外国語大学名誉教授。 静岡県立静岡高等学校教諭を経て、静岡女子短期大学に勤務し、ヘルシンキ大学講師、静岡女子大学文学部教授、大阪外国語大学外国語学部教授、関西外国語大学外国語学部教授、関西外国語大学国際言語学部教授、関西外国語大学国際言語学部学部長、学校法人関西外国語大学理事などを歴任した。 静岡県出身でウラル語学を専攻する言語学者、文学者である。ウラル語の母音体系や母音調和に関する研究や、音韻理論の日本語への適用などに取り組んだ。
村越 化石(むらこし かせき、1922年12月17日 - 2… 村越 化石(むらこし かせき、1922年12月17日 - 2014年3月8日)は、静岡県藤枝市出身の俳人。本名は村越 英彦(むらこし ひでひこ)。ハンセン病とその後遺症と闘いながら句作を続け「魂の俳人」と呼ばれた。 静岡県志太郡朝比奈村(現:藤枝市岡部町)新舟(にゅうぶね)に生まれる。1938年、16歳のときハンセン病の罹患がわかり、旧制静岡県立志太中学校(現:静岡県立藤枝東高等学校)を退学、上京し治療に専念する。この時期に療友の勧めで俳句を知った。1941年に結婚、同年群馬県草津町湯之沢を経て、妻とともに同町の国立療養所栗生楽泉園に入園。同園の「栗の花句会」(のち高原俳句会となる)で、先輩俳人の浅香甲陽から俳句精神を学んだ。
松永 信夫(まつなが のぶお、1921年12月16日 - 2… 松永 信夫(まつなが のぶお、1921年12月16日 - 2007年9月25日)は静岡県志太郡出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフルバック。「ベルリンの奇跡」の立役者だった松永行は実兄。日本軽金属などに所属し、日本代表として1954 FIFAワールドカップ・予選など、国際Aマッチ4試合に出場した。 静岡県立志太中学校(現静岡県立藤枝東高等学校)、東京文理科大学(現:筑波大学)卒業。第二次世界大戦中の1943年に陸軍に徴兵されフィリピン・ミンダナオ島に配属された経験を持つ。 戦後、志太クラブや後藤缶詰でプレーを続け、インドで1951年アジア競技大会が開催された際、日本代表に選出されたが、前述の陸軍の経験もあってビザの発給が許可されなかったという。
松永 行(まつなが あきら、1914年9月21日 - 194… 松永 行(まつなが あきら、1914年9月21日 - 1943年1月20日)は、静岡県志太郡出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。 静岡県志太郡東益津村(現焼津市)出身。松永信夫、松永碩は実弟。静岡県立志太中学校(現:静岡県立藤枝東高等学校)に入学してサッカー部に所属した。なお、笹野積次は志太中での1年先輩に当たる フォワードを務め、100メートルを10秒8台で走る俊足であったという。東京文理科大学附置東京高等師範学校に入学し、蹴球部に所属。在学中の1935年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に中垣内勝久らと出場して準優勝の成績を残した。 1936年のベルリンオリンピックの日本代表に選出。
笹野 積次(ささの せきじ、1914年頃 - 2004年以前… 笹野 積次(ささの せきじ、1914年頃 - 2004年以前)は、静岡県出身のサッカー選手。 静岡県立志太中学校(現・静岡県立藤枝東高等学校)の4期生にあたり、同中学5期生の松永行は1年後輩に当たる 志太中を卒業後は早稲田大学に入学して、ア式蹴球部に入部した。在学中の1936年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出されたが出場機会は無かった。 また、在学中の1938年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の優勝メンバーとなった。現役引退後は静岡県の職員を務めた。 なお、詳細な没年は不明であるが、2004年3月時点で故人となっている
加藤 静雄(かとう しずお、1911年(明治44年)4月25… 加藤 静雄(かとう しずお、1911年(明治44年)4月25日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓は増田。 静岡県志太郡豊田村(現焼津市)の増田家に生まれる。静岡県立志太中学校(現静岡県立藤枝東高等学校)の第一期生で、同校4年修了で静岡高等学校に進んだ。1939年(昭和14年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業。戦後、東京の加藤家の養子となるが、焼津に在住した。 実業界では、合資会社東亜製作所副会長、焼津水産取締役社長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で静岡県第1区から日本社会党公認で出馬して実業家の長兄、増田年郎の援助と志太中同窓生の支援を受けて当選し、衆議院議員に1期在任した。
池田 潔(いけだ きよし、1903年10月4日 - 1990… 池田 潔(いけだ きよし、1903年10月4日 - 1990年3月14日)は、日本のイギリス文学者、評論家、随筆家である。
鈴木 岳幸 は、日本の政治家。
井澤 千秋 は、日本(静岡県藤枝市出身)の元サッカー選手、元… 井澤 千秋 は、日本(静岡県藤枝市出身)の元サッカー選手、元サッカー指導者。
戸塚 誠(とつか まこと)は、日本の総務官僚。勲等は瑞宝重光… 戸塚 誠(とつか まこと)は、日本の総務官僚。勲等は瑞宝重光章。総務省行政管理局長や、総務省大臣官房長、総務審議官等を経て、総務省行政不服審査会会長代理。 静岡県出身。静岡県立藤枝東高等学校を経て、1977年 東北大学法学部卒業、行政管理庁入庁。2000年8月 総務庁行政管理局情報システム企画課長。2001年1月6日 総務省大臣官房政策評価広報課長。2007年1月 内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補)、(併)行政改革推進本部次長。2008年7月 政策統括官(情報通信担当)、総務省行政管理局長を経て、2013年 総務省大臣官房長。2014年 総務審議官(行政制度担当)。2016年 総務省行政不服審査会第三部会長。
山田 勝晴(やまだ かつはる)は、静岡県出身の日本の元アマチ… 山田 勝晴(やまだ かつはる)は、静岡県出身の日本の元アマチュア野球選手(内野手)。 藤枝東高等学校を卒業した後に亜細亜大学に進学。東都大学野球リーグでは遊撃手として活躍し、1964年春季リーグで入れ替え戦で国学大を破り、一部リーグへの昇格を果たす。また、翌年の春季リーグにおいて、ベストナインに選ばれた。 大学卒業後は日本楽器に入社。1966年には大昭和製紙に補強され都市対抗への出場を果たした。また、第二十一回選抜社会人野球東京大会では大会優秀選手に選ばれた。同年のドラフト会議でサンケイアトムズに5位指名されたが、入団には至らなかった。翌年に開催された都市対抗に左翼手として出場した。
山本 健太(やまもと けんた)は、日本の地域経済学、経済地理… 山本 健太(やまもと けんた)は、日本の地域経済学、経済地理学研究者、國學院大學経済学部教授。プラモデル製造業や、アニメーション作品の制作工程など、都市型文化産業の集積構造に関する研究を主なテーマとしている。 静岡県立藤枝東高等学校を経て、2004年に静岡大学教育学部学校教育教員養成課程を卒業後、東北大学大学院理学研究科博士課程に進学。2009年、「東京、ソウル、上海におけるアニメーション産業の集積メカニズムに関する地理学的研究」により、東北大学から博士(理学)の学位を取得。 2010年10月に九州国際大学経済学部特任助教となり、2011年4月より助教、2013年4月より准教授となった。2014年、國學院大學経済学部准教授に転じた。