武野 秀樹(たけの ひでき、1930年12月5日 - )は、… 武野 秀樹(たけの ひでき、1930年12月5日 - )は、日本の経済学者、九州大学名誉教授。 福岡県出身。旧制山口高等学校を経て、1953年九州大学経済学部卒、55年助手。73年「国民経済計算の基礎」で経済学博士。1958年九大助教授、70年教授、86年経済学部長。92年定年退官、名誉教授、九州産業大学教授、兵庫大学教授。近代経済学、国民経済論が専門。
旧制山口高等学校:24人
武野 秀樹(たけの ひでき、1930年12月5日 - )は、… 武野 秀樹(たけの ひでき、1930年12月5日 - )は、日本の経済学者、九州大学名誉教授。 福岡県出身。旧制山口高等学校を経て、1953年九州大学経済学部卒、55年助手。73年「国民経済計算の基礎」で経済学博士。1958年九大助教授、70年教授、86年経済学部長。92年定年退官、名誉教授、九州産業大学教授、兵庫大学教授。近代経済学、国民経済論が専門。
河野 稠果(こうの しげみ、1930年(昭和5年)10月29… 河野 稠果(こうの しげみ、1930年(昭和5年)10月29日 - )は日本の人口学者、麗澤大学名誉教授。 広島県の生まれ。1949年旧制山口高等学校卒業、1953年山口大学文理学部社会学専攻卒業、1958年、アメリカ・ブラウン大学大学院社会学研究科博士課程修了(Ph.D.in sociology)。同年厚生省人口問題研究所入所。1961年から1963年、インド・ボンベイ国際連合人口研修・研究センター教授として出向。1963年厚生省人口問題研究所厚生技官。1965年、ユーゴスラビア世界人口会議では座長を勤めた。1967年、国際連合本部人口部専門官へ転任。1973年から1978年まで同人口推計課長。
辻 哲夫(つじ てつお、1928年2月24日 - 2012年… 辻 哲夫(つじ てつお、1928年2月24日 - 2012年9月18日)は日本の物理学者、科学史家である。 横浜市生まれ。1944年(旧制)山口高等学校入学、1951年(新制)京都大学理学部に編入、1954年同大学院進学、1956年修士課程修了。1959年東海大学工学部講師、助教授、1967年教授、1993年名誉教授。1973年『日本の科学思想』で毎日出版文化賞受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
窪田 隼人(くぼた はやと、1924年9月5日 - 2002… 窪田 隼人(くぼた はやと、1924年9月5日 - 2002年)は、日本の法学者。専門は労働法。立命館大学名誉教授。 山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒、同大学院修了。 大阪市立大学講師、助教授、立命館大学法学部教授、1988年定年、名誉教授、京都学園大学法学部学部長・教授。1998年退職。労働法が専門。
荻野 恒一(おぎの こういち、1921年6月19日 - 19… 荻野 恒一(おぎの こういち、1921年6月19日 - 1991年10月15日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学。南山大学文学部教授、金沢大学教育学部教授、慶應義塾大学客員教授を務めた。 1921年、大阪で生まれた。旧制山口高等学校を経て、京都帝国大学医学部医学科に進学。1944年9月に同大学を卒業。 1944年10月、京都帝国大学医学部精神医学教室副手に採用され、実施修練に入った。後に助手、講師昇格。1952年、学位論文『易感性関係妄想の成立機転』で京都大学より医学博士の学位を取得。1953年3月から1955年12月まで、パリ大学医学部精神医学教室にに研究留学。 1956年1月、南山大学文学部教育家助教授に就任、のち教授に昇格。
高村 忠也(たかむら ただなり、1919年6月18日 - 1… 高村 忠也(たかむら ただなり、1919年6月18日 - 1992年9月4日)は、日本の商学者。専門は海運論。神戸大学名誉教授。元日本海運経済学会副会長。 島根県鹿足郡生まれ。1941年山口高等学校文科甲類卒業。1943年神戸商業大学(現神戸大学)卒業。野村寅三郎ゼミ出身。同年東亜海運入社。 指導教官野村に相談して退社し、1946年に神戸経済大学(現神戸大学)経営学専門部講師嘱託となる。野村が学生課の実質的責任者であったため、1947年には文部教官兼文部事務官に任官し、神戸経済大学学生課主事となった。1949年には野村の推薦で、海技専門学院(現海技大学校)教授に着任。 1951年長崎大学経済学部助手。
玉 朝南(オク・チョナム、朝鮮語: 옥조남、1918年2月1… 玉 朝南(オク・チョナム、朝鮮語: 옥조남、1918年2月16日 - 1997年7月26日)は、大韓民国の教授、実業家、政治家。第6代韓国国会議員。 平安南道順川生まれ、ソウルまたは慶尚南道統営出身。平壌公立中学校、山口高等学校文科、東京帝国大学法律学科卒。株式会社朝鮮ポンプ製作所重役、新興大学校・慶熙大学校法科大学教授、漢陽大学校政経大学講師、国家再建最高会議交逓委員会諮問委員、高等考試委員、民主共和党京畿第13区党委員長・国会対策委員、民主共和党所属の第6代国会議員を務めた。 1997年7月26日、持病によりソウル大病院で死去。享年79。
平田 義正(ひらた よしまさ、1915年5月30日 - 20… 平田 義正(ひらた よしまさ、1915年5月30日 - 2000年3月5日)は、日本の天然物化学者。名古屋大学名誉教授。 1915年、山口県山口市生まれ。山口高等学校理科甲類を卒業し、1938年に東京帝国大学理学部化学科に入学。1941年に卒業した。卒業研究および同大学大学院においては、有機化学の久保田勉之助教授(ポール・サバティエ門下)の下で黄変米の有毒成分を研究した。 1943年より、母校である東京帝国大学助手になる。1944年1月、名古屋帝国大学に理学部講師として着任し、6月には助教授に就任。太平洋戦争中の戦時下では、研究室疎開先の長野県上田市で江上不二夫の指導の下、乏しい物資の中で研究に当たった。
矢沢 利彦(やざわ としひこ、1914年(大正3年)2月- … 矢沢 利彦(やざわ としひこ、1914年(大正3年)2月- 2008年(平成20年)4月11日)は、日本の東洋学者。 1914年生まれ。旧制山口高等学校を経て、1936年東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。在学時は、加藤繁や和田清の指導を受けた。 卒業後は埼玉大学助教授となり、後に教授昇進。1978年に埼玉大学を定年退官し、名誉教授。その後も群馬県立女子大学教授として教鞭をとり、また東洋文庫専任研究員として研究著述を行った。 近世中国(明清時代)の東西交渉の研究や「喫茶の歴史」が著名で、マテオ・リッチをはじめ、多くの原典史料の訳注解を行った。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
時岡 隆(ときおか たかし、1913年12月19日- 200… 時岡 隆(ときおか たかし、1913年12月19日- 2001年9月30日)は日本の動物学者。京都大学名誉教授。 1913年、山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、1936年に京都帝国大学理学部動物学科を卒業した。 卒業後は母校である同大学の理学部助手に着任。1946年、京都大学に『日本動物分類』を提出して理学博士号を取得。農学部助教授、農学部教授、理学部附属瀬戸臨海実験所助教授を経て、同実験所教授に昇進。1975年から1977年には同実験所の所長を務めた。1977年、京都大学を停年退官し、京都大学名誉教授となった。 私人としてはピアノ演奏の技術に長けていた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
松崎 壽和(まつざき ひさかず、1913年6月7日 - 19… 松崎 壽和(まつざき ひさかず、1913年6月7日 - 1986年5月30日)は日本の東洋考古学者。 1913年、山口県吉敷郡東岐波村(現・宇部市)生まれ。旧制山口高等学校を経て東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。1939~1940年、北京へ滞在し、興亜院嘱託を務める。その後、文部省嘱託の後、1948年旧制広島高等学校教授、1949年広島大学文学部助教授、1965年に教授となる。 広島大学では草戸千軒町遺跡、帝釈峡遺跡の発掘を指揮した。また、1971年にイラン学術調査隊の一員としてカスピ海東南岸で遺跡の調査を行った。1976年に広島県文化財審議会委員を務める。1977年に広島大学退官後、広島県埋蔵文化財調査センターの常務理事を務めた。
木村陽二郎(きむら ようじろう、1912年7月31日 - 2… 木村陽二郎(きむら ようじろう、1912年7月31日 - 2006年4月3日)は、日本の植物学者・科学史家。東京大学名誉教授。 1912年、山口県山口市生まれ。旧制長崎中学、旧制山口高校を経て、東京帝国大学理学部に進んだ。大学では中井猛之進に師事。卒業後の1938年、東京帝国大学副手に着任。1939年、同大学助手に昇進。1944年、学位論文『おとぎりそう科ノ研究』を提出して理学博士号を取得。 太平洋戦争後の1949年より、東京大学教養学部生物学科助教授。1960年に同教授に昇進。1973年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は中央大学教授として教鞭をとった。学界では、日本植物分類学会の創設に尽力し、1977年から1980年まで会長を務めた。
吉田 五郎(よしだ ごろう、1911年7月9日 - 1994… 吉田 五郎(よしだ ごろう、1911年7月9日 - 1994年3月8日)は、日本の法学者。専門は民法。第8代目八幡大学(現・九州国際大学)学長。 1911年、関東州大連生まれ。兵庫県出身の実父は幼少時に漢学を学んだ後に満州に渡った人物で、豪商として財を成していた。旧制大連一中より旧制山口高等学校に入学。1931年(昭和6年)、京都帝国大学法学部に入学。末川博教授の薫陶を受け民法・労働法を学んだ。1933年に京都帝国大学で滝川事件が起こった際には、時の文部大臣鳩山一郎に面会を強要し上京。強烈な抗議文をつきつけた法学部数名の中に吉田五郎の名があった。この抗議文は当時の新聞にも掲載された。1934年、京都帝国大学法学部を卒業。
亀谷 了(かめがい さとる、1909年7月12日- 2002… 亀谷 了(かめがい さとる、1909年7月12日- 2002年7月24日)は、日本の生物学者、医師。医学博士(長崎医科大学・論文博士・1940年)。寄生虫学の世界的権威として知られた。岐阜県出身。紫綬褒章・勲三等瑞宝章受章。 山口高等学校を経て長崎医科大学を卒業。1939年、満鉄入社。1940年、医学博士(長崎医科大学)の学位を取得。「生体内の銅について特に其系統発生学的、個体発生学的並性別的差異 」。1943年、満州国立厚生研究所留学。1945年、奉天衛生試験所勤務。1947年に帰国、日本生物科学研究所入所。1948年、目黒に内科小児科診療所を開設。1953年、私財を投じて寄生虫専門の研究機関「目黒寄生虫館」を設立した。
田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 199… 田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 1998年5月17日)は、日本の教育者、哲学者。山口大学第2代目学長。同大名誉教授。文学博士(1944年、九州大学にて取得)。雅号は周陽。 1906年山口県防府市の生まれ。旧制山口高等学校を経て、1930年九州帝国大学哲学科を卒業。1938年に広島高等学校教授兼九州帝国大学助教授、1944年より九州帝国大学専任となる。1952年より山口大学文理学部西洋哲学科教授。1944年8月、九州大学にて、「プラトンとアリストテレス」で文学博士。1958年山口大学第2代目学長に就任(1962年まで)。同大名誉教授、1970年より山口女子大学(現・山口県立大学)学長・名誉教授。
竹腰 重丸(たけのこし しげまる、1906年2月15日 - … 竹腰 重丸(たけのこし しげまる、1906年2月15日 - 1980年10月6日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者、サッカー審判員、東京大学教授、芝浦工業大学教授。 大分県北海部郡臼杵町海部(現:臼杵市)出身。1918年に臼杵尋常小学校(現:臼杵市立臼杵小学校)を卒業。中学生の頃に大連に転居し大連第一中学校に入学。ここでサッカーと出会った。 1925年、山口高等学校から東京帝国大学(現在の東京大学)に進学し、その年の8月に開催された第7回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて5月20日の中華民国代表戦で初出場した。 翌1926年にはア式蹴球部で関東大学リーグを初制覇、その後6連覇と続く東大黄金期の礎を築いた。
白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 19… 白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 1981年11月10日)は、元軍人、マスコミ学者。 旧制山口高等学校を経て、九州帝国大学文学部哲学科卒。師範学校で教育学を教え、1937年応召、陸軍中尉として1941年『戦陣訓』を草す。戦後は日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の創設期に調査部長、のち東京造形大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 199… 楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 1997年9月14日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授。 1903年、山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、東京帝国大学経済学部に進む。大学では矢内原忠雄に師事した。 太平洋戦争後、東京大学経済学部教授となり、経済学部長をつとめた。1959年、「アメリカ帝国主義史論」を提出して経済学博士号を取得。1964年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後も日本大学教授、立正大学教授、帝京大学教授として教鞭をとり、1990年に退職した。
植村 清二(うえむら せいじ、1901年1月30日 - 19… 植村 清二(うえむら せいじ、1901年1月30日 - 1987年5月27日)は、日本の東洋史学者。実兄は作家の直木三十五。 1901年、大阪市で父惣八、母しづの次男として大阪市南区内安堂寺町通に生まれる。父は古着屋であった。1908年4月、大阪市桃園第一尋常小学校に入学。1913年4月には大阪府立天王寺小学校に入学。1919年4月、山口高等学校(文科乙類)に入学。1922年4月、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。1923年7月には華北を旅行する。学生時代は近藤健一から奨学金を与えられていた。1925年、東京帝国大学文学部東洋史学科卒業。 卒業後は、母校の東京帝国大学文学部東洋史学科副手に採用される。
矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1… 矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1982年2月23日)は、日本の教育学者。ソビエト教育学研究会会長。 1900年、長崎県長崎市に生まれた。1919年、旧制山口高等学校に入学。1926年、京都帝国大学文学部英文学科を卒業。戦前は日本大学工学部予科教授などを務めた。英語教育に携わる傍ら、科学読物の英和注釈本などの出版を通して、科学教育の実践を試みた。独学でロシア語を習得し、ソビエト教育理論や実践を紹介した。 太平洋戦争後は、教育学者として民間教育運動の理論的指導者として活躍した。学界では1960年以降、ソビエト教育学研究会会長を務めた。1982年に死去。 これらの他にロシア共和国教育科学アカデミー編『ソビエト教育科学アカデミヤ版ソビエト教育科学辞典』明治図書出版、1963をソビエト教育学研究会が編訳。
兼常 清佐(かねつね きよすけ、1885年〈明治18年〉11… 兼常 清佐(かねつね きよすけ、1885年〈明治18年〉11月22日 - 1957年〈昭和32年〉4月25日)は、日本の音楽評論家、文芸評論家、音楽学者。 山口県萩町土原(現:萩市土原)に生まれる。旧制山口高等学校を経て、京都帝国大学哲学科に入学。同校を1910年(明治43年)7月に卒業。卒業後、同大学大学院に進学。音楽理論と音楽美術を研究するため、一時的に東京音楽学校ピアノ科に入学し、貫名美名彦に師事する。この間に『日本の音楽』を著した。 1922年(大正11年)3月、下中弥三郎らの教員が結成した教育団体「啓明会」の研究員としてドイツに留学、1924年(大正13年)4月に帰国。 1925年「日本ノ音楽ニ就テノ一観察」により、京都帝国大学文学博士の学位を受けた。
西田 博太郎(にしだ ひろたろう、1877年8月1日 - 1… 西田 博太郎(にしだ ひろたろう、1877年8月1日 - 1953年1月26日)は、日本の染色学者。 東京府東京市下谷(現・東京都台東区)出身。父の転任で島根県松江市に転居し、松江中学校でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に英語を習う。山口高等学校を経て1901年東京帝国大学工科大学応用化学科卒業。1903年からイギリス・ドイツに留学し、マンチェスターの高等工芸学校、フランクフルトの染料会社、ミュールハウゼンの化学専門学校で染色化学を研究し、1905年8月に帰国。 名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)教授を経て、1909年に日本セルロイド人造絹株式会社(現ダイセル)に工務部長として入社、網干工場において人造絹糸(レーヨン)製造の研究に当たった。
速水 滉(はやみ ひろし、1876年12月23日 - 194… 速水 滉(はやみ ひろし、1876年12月23日 - 1943年6月27日)は、日本の心理学者。 1876年、岡山県生まれ。東京帝国大学を卒業。旧制山口高等学校、第一高等学校教授、1924年京城帝国大学教授、のち総長。墓所は多磨霊園
笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治… 笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治4年2月25日〉- 1941年〈昭和16年〉1月29日)は、日本の哲学者である。 長門国、現在の山口県下関市に笹尾勝蔵の息子として生まれ、日本基督教会柳川教会で父から洗礼を受けた。山口高等学校に入学したが、経済的事情で明治学院神学部に転校。同じく、白金にあった自営館(現・巣鴨教会)で共同生活を送った。 明治学院から推薦されて、20歳で渡米し、オーバン神学校、コロンビア大学で学んだ。さらに、1896年にドイツに渡りベルリン大学、ハレ大学、ボン大学でキリスト教とカント哲学の研究を重ね、1899年に学位論文「カントの神概念」によりボン大学より哲学博士号を得た。