スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
湯浅 修一(ゆあさ しゅういち、1929年〈昭和4年〉12月… 湯浅 修一(ゆあさ しゅういち、1929年〈昭和4年〉12月18日 - 没年不明 )は、日本の医学者・精神科医。群馬県生まれ。専門は精神病理学。医学博士(群馬大学・1963年)。分裂病(現・統合失調症)の予後研究で知られる。江熊要一、臺弘、中沢正夫らとともに生活臨床グループの創成期メンバー。 1929年群馬県前橋市に生まれる。旧制松本高等学校理科を経て、1953年前橋医科大学(現・群馬大学)卒業。1963年医学博士(群馬大学)。赤城病院院長、群馬大学医学部講師、岸病院神経科医長、東京都精神医学総合研究所副参事研究員、東京大学医学部講師などを経て、榛名病院常勤顧問 。
永井 信一(ながい しんいち、1925年12月9日 - )は… 永井 信一(ながい しんいち、1925年12月9日 - )は、日本の美術史家、美術評論家。女子美術大学名誉教授。 神戸市生まれ。本籍は群馬県。京城帝国大学予科在学中に敗戦を迎え、引揚後、旧制松本高等学校理科甲類に編入。1948年東北帝国大学文学部東洋芸術史学科卒業後、東北帝国大学助手、1949年女子美術大学芸術学部講師、助教授、教授を歴任。1989年から1991年まで女子美術大学付属高等学校・中学校長(第十代)。1991年に女子美術大学を定年退職し、名誉教授の称号を得る。同年、沖縄県立芸術大学教授に就任し、1999年に沖縄県立芸術大学を退職。
田原 嗣郎(たはら つぐお、1924年 - 没年不明)は、日… 田原 嗣郎(たはら つぐお、1924年 - 没年不明)は、日本の歴史学者、北海道大学文学部名誉教授。専門は江戸期の儒学・国学をめぐる日本思想史研究。 松本高等学校理科を経て、1953年に東京大学文学部国史学科卒業、北海道大学教授、敬和学園大学教授などを務めた。丸山眞男と多大な交流があり影響を受けた。 4061155385 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
宮内 裕(みやうち ひろし、1919年4月29日 - 196… 宮内 裕(みやうち ひろし、1919年4月29日 - 1968年2月25日)は、日本の法学者(刑事法)。元京都大学教授。東京都出身。 旧制松本高校に在学中にマルクス主義的思想を問題視され退学する。その後、立命館大学の予科に入学し、竹田直平に師事する。竹田は宮内を素晴らしい学生であると他の学者に自慢しており、佐伯千仭や滝川幸辰に見出される。なかでも滝川は宮内を高く評価して直に指導するようになり、平場安治、滝川春雄とともに滝川門下の三羽烏と称されるようになる。 戦後は立命館で刑法講座を担当していたが、師の竹田が教職追放により立命館を去り、また京都大学では佐伯の教職追放などによる教員不足のため刑事法研究者を補充する必要が生じ、滝川門下の平場(刑事訴訟法講座担当)とともに刑事学講座担当として迎えられ京都大学助教授に就任した。
竹内 良知(たけうち よしとも、1919年1月10日 - 1… 竹内 良知(たけうち よしとも、1919年1月10日 - 1991年8月22日)は、日本の哲学者。関西大学名誉教授。 大分県出身。京都帝国大学卒。旧制松本高等学校教授、戦後は名古屋大学助教授、1977年関西大学教授。1989年定年退任。スピノザ、西田幾多郎を研究、戦後はマルクス主義に傾いた。
佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1918年1月24日 - 1… 佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1918年1月24日 - 1997年5月16日)は、日本近世史学者、洋学史専攻。 1918年、北海道生まれ。松本高等学校文科甲類を経て、1943年東京帝国大学文学部国史学科を卒業。 戦後、東北大学教養部教授となった。1962年、学位論文『洋学史における主要問題:洋学と封建権力との関係をめぐって』を東北大学に提出して文学博士号を取得。1981年、東北大学を定年退官し、名誉教授となった。
朝比奈 菊雄(あさひな きくお、1917年〈大正6年〉9月1… 朝比奈 菊雄(あさひな きくお、1917年〈大正6年〉9月17日 - 2003年〈平成15年〉3月13日)は、昭和から平成時代の薬学者、南極探検家。昆虫学者の朝比奈正二郎は兄。 薬学者の朝比奈泰彦の四男として東京府に生まれる。旧制松本高等学校理科乙類を経て、1941年(昭和16年)12月、東京大学医学部薬学科卒業後、海軍短期現役薬剤中尉に任官し、1946年(昭和21年)3月に終戦により復員する。戦後は武田薬品工業研究所に勤務し、1954年(昭和29年)錠剤の管理に関する論文により製剤学の分野で第1号の学位を取得する。1956年(昭和31年)10月、第1次南極地域観測隊に同行し、日刊「南極新聞」の編集を担当する。
野口 定男(のぐち さだお 1917年3月21日 - 197… 野口 定男(のぐち さだお 1917年3月21日 - 1979年11月18日)は、日本の哲学者。専攻は中国哲学。立教大学教員を務める傍ら複数の運動部部長に就任、学生野球団体の理事なども務めた。 1917年、神奈川県横須賀市に生まれる。後に長野県へ転居、旧制松本高等学校に入学し1937年に卒業。東京帝国大学文学部に入学し1940年に卒業。東亜新秩序研究会勤務。1941年に召集を受けるも病気のため除隊。1944年、満州に渡り満州電業株式会社に勤務。戦後、満州から引き上げると立教大学予科講師、1949年に文学部講師を勤めた。当時は大学構内の留学生寮の管理人宿舎に住みこんでいた。その後、1951年に文学部助教授、1959年に教授となっている。
小穴 進也(おあな しんや、1914年(大正3年)3月3日 … 小穴 進也(おあな しんや、1914年(大正3年)3月3日 - 2007年(平成19年)11月13日)は、日本の地球化学者。名古屋大学理学部教授、同名誉教授。元日本地球化学会会長。 弁護士の小穴喜一の長男として長野県にて出生。母みどりは松本市議会議長、衆議院議員などをつとめた弁護士森山儀文治の長女。 旧制松本高校理科を経て、1938年に東京帝国大学理学部化学科を卒業した。1942年、名古屋帝国大学理学部化学科分析化学講座に助教授として赴任。1951年に名古屋大学教授に昇格し、1977年定年退官した。1987年勲二等瑞宝章受勲。 1968年(昭和44年)8月、当時、四日市海上保安部警備救難課長であった田尻宗昭が、日本アエロジル四日市工場から排出された廃酸による公害被害(四日市公害の一つ)を立件するにあたり、大企業相手で尻込みする研究者が多い中、塩酸の海中での拡散実験等に協力し田尻を援助した。
藤岡 通夫(ふじおか みちお、1908年7月31日 - 19… 藤岡 通夫(ふじおか みちお、1908年7月31日 - 1988年11月19日)は、日本の建築史家。東南アジア諸国の王宮や日本の城郭などを研究した。東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)出身。父は藤岡作太郎、兄は藤岡由夫。 近世建築史(城郭・住宅建築)研究に業績を残すほか、東洋建築史研究では戦前にアンコールワットを調査し、近年はネパール王宮の建築研究と保存実施への道を拓いた。 関野克は本郷の誠之小学校で同級。太田博太郎は同小学校で4年後輩。1929年に松本高等学校理科甲類を卒業し、東京工業大学建築学科に入学。1932年卒業したのちは同大学助手、同講師を経て1939年助教授。 1938年「天守閣建築概説」を発表。
萩原 尊礼(萩原 尊禮、はぎわら たかひろ、1908年 <明… 萩原 尊礼(萩原 尊禮、はぎわら たかひろ、1908年 <明治41年> 5月11日 - 1999年 <平成11年> 11月14日)は、日本の地震学者。理学博士(1942年、東京帝国大学・論文博士)。東京大学名誉教授。従三位。 イタリアやイラン大地震、福井地震や松代群発地震を調査し、萩原式電磁型地震計 (HES) を考案した[リンク切れ]。 東京府出身。開成中学、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1932年に東京帝国大学理学部地震学科を卒業。1933年東京帝国大学地震研究所に所属し、助手から助教授・地震研究所員(1941年)を経て教授に就任(1944年)。戦後、1965年から1967年まで東京大学地震研究所所長を務め、1969年定年退官、名誉教授。
吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986… 吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986年3月8日)は、ドイツ文学者、文芸評論家、東京都立大学名誉教授。 栃木県足利市生まれ。松本高等学校文科乙類を経て、1932年東京帝国大学独文科卒。33年桐生高等工業学校教授。37-38年文部省から派遣されベルリン大学に学ぶ。39年陸軍教授、42年第四高等学校教授、1950年金沢大学助教授、51年東京都立大学助教授、60年教授。 1971年「ホフマン - 浪漫派の芸術家」で東京大学文学博士。72年都立大を定年退官。E・T・A・ホフマンの翻訳・研究と夏目漱石に関する評論を書き、藤代素人、秋山六郎兵衛、板垣直子らの、『吾輩は猫である』がホフマンの『牡猫ムルの人生観』に影響を受けたという説を論駁し、漱石は聞きかじってはいたが『猫である』はオリジナルな作であると論じた(吉田六郎教授略歴「人文学報」都立大、1972年)。
古川 晴男(ふるかわ はるお、1907年2月9日 - 198… 古川 晴男(ふるかわ はるお、1907年2月9日 - 1988年8月8日)は、日本の昆虫学者。東京学芸大学名誉教授。 東京府生まれ。松本高等学校理科乙類を経て、1931年、東京帝国大学理学部動物学科卒業。小石川植物園勤務。1941年理学博士の学位を取得。元東京学芸大学教授。1971年定年退官、名誉教授。 『ファーブル昆虫記』の子供向け翻訳で知られ、同書は現代日本においてもロングセラーとなっている。
秋元 波留夫(あきもと はるお、1906年1月29日 - 2… 秋元 波留夫(あきもと はるお、1906年1月29日 - 2007年4月25日)は、日本の医学者・精神科医。 長野県長野市出身。一家は旧諏訪藩士の家系。3歳時に一家で上京。旧制京華中学、1925年旧制松本高等学校理科甲類を卒業、1929年東京帝国大学(後の東京大学)医学部卒業。その後北海道帝国大学(後の北海道大学)医学部助手に就任。その後、東京帝国大学医学部副手、同学部講師、旧制金沢医科大学(後の金沢大学医学部)教授を経て1958年に東京大学医学部教授に就任した。1936年医学博士(北海道大学)。論文の題は「失行症本質論 」。 長く日本の精神医学界の権威として活躍。帝銀事件に関して、平沢貞通の有罪の証拠とされた精神鑑定の結果を誤りであると指摘し注目を集めた。
池田 雄一郎(いけだ ゆういちろう、1903年10月18日 … 池田 雄一郎(いけだ ゆういちろう、1903年10月18日 - 1973年8月3日)は、日本の物理学者。 静岡県出身。1930年東京帝国大学物理学科卒業、1935年同大学院修了。1939年旧制立教中学教諭、1943年旧制松本高等学校教授、1949年信州大学理学部教授、1952年理学部長、1967年教養部長、1968年学長を歴任した。 俳人としては「魚魯」と号した。
小泉 秀雄(こいずみ ひでお、1885年11月1日 - 19… 小泉 秀雄(こいずみ ひでお、1885年11月1日 - 1945年1月18日)は、日本の植物学者・登山家。高山の植物、地衣類、蘚苔類の研究で知られる。 植物学者の小泉源一は実兄。 山形県米沢市にて、旧米沢藩士の家に生まれる。盛岡高等農林学校に学ぶが中退して中学教員となった。山形県内の中学校に勤務後、1911年、北海道庁立上川中学校の教員となった。この間大雪山に登り、地形・地質の調査と植物採集を行い、日本山岳会の機関紙『山岳』に記事を寄稿し、研究調査結果を、『大雪山 登山法及び登山案内』として1926年に刊行したことから、「大雪山の父」と呼ばれるようになった。その後高知県立第三中学校を経て、長野県立女子師範学校、松本高等学校の講師となり、長野県内、関東、近畿の山岳や名勝を調査した。
桑木 彧雄(くわき あやお、1878年〈明治11年〉9月9日… 桑木 彧雄(くわき あやお、1878年〈明治11年〉9月9日 - 1945年〈昭和20年〉5月16日)は、日本の物理学者、科学史家。九州大学名誉教授。日本科学史学会初代会長。理学博士。 1878年9月9日、旧金沢藩士の子として東京にて生まれた。1899年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、1903年頃に東京物理学校で講師に着任した。1907年に文部省に命じられ、ヨーロッパに留学した。翌年、明治専門学校の教授に着任し、1911年九州帝国大学が創設すると、同大学工科大学の講師に転任した。1914年に理学博士を取得し、同年に九州帝国大学の教授に昇任し、1938年の定年退官まで力学の講座を担当した。定年後、旧制松本高等学校の校長に着任し、1942年に辞任した。
小島 章一(こじま しょういち)は、日本の哲学者。長野県出身… 小島 章一(こじま しょういち)は、日本の哲学者。長野県出身。 1944年(昭和19年)、旧制松本高等学校文科乙類を卒業。1949年(昭和24年)、京都大学文学部哲学科哲学専攻を卒業。在学中は高山岩男に師事していた。 日本大学法学部講師、神奈川大学講師を歴任。日本ヘーゲル学会に所属。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。